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この者に天のご加護を・・・

失われたもの、失われ行くものの記録

 

「兄弟」 



幼い頃からそうだった・・・。
匂いが解らない。
最盛期の金木犀の香りですら、微かにしか感じない私の嗅覚は、何故かしら身内や親戚の誰かが死ぬ時だけ、反応していた。
それはまるで草が繁茂する時に発する勢い、萌えるような匂いであり、尚且つどこかでパウダーを感じさせるもので、誰かが死ぬ1週間くらい前から始まる。

5月24日くらいから、こうした匂いを感じ始めていた私は、5月27日、既に言葉がしゃべれなくなってしまって、携帯のメールでしかやり取りが出来なくなっていた弟から、メールが返って来ない為、彼の死期が来ただろう事を知った。

27日の夜、南房総の総合病院から電話が入り、もうそろそろ意識が無くなりかけているので、何とか都合が付くなら、病院まで来てくださいとの事だった。

介護が必要な父親の事、家の事を采配し終えた頃には、もう28日の0時を過ぎていたが、私はそれから南房総まで車を走らせた。
能登から南房総まで600km以上あるが、もう幾度となく通った道なので、そう不安はないが、如何せん睡眠時間が0と言う現実は少し厳しかったか・・・。

途中高速道路が2本にも3本にも見えるようになり、流石にこれはまずいかと思ってSAで4時間ほど仮眠を取った為、病院に付いたのは昼過ぎだったが、意外な事に弟は絶望的に痩せていながらも、意識はしっかりしていて、私が暫く南房総に滞在すると言ったら、「兄貴に死を待たれているのは辛い」と言い、「もう充分世話になった、次に会うのは自分が死んでからでいい」、そう言うのだった。

寝たきりの父親、心臓が悪くて月の半分は寝ている家内の事を気遣ってだろう事は解っていたが、兄弟だから解る。
この場面で一度言い出したら、妥協はない。
それは自分も恐らく同じだから解る。

「本当にそれで良いのか、覚悟はできているのか・・・」
「兄貴には世話になった、これで最後の別れもできた、もう充分だ」
「礼は言わなくて良い、兄弟だからな」
コロナウィルス対策で、たった10分しかない面会時間はこんな静かな会話で終わり、それからまた私は能登への帰途についた。

600km走って、たった10分・・・。
家に帰りついたのは5月30日の午前3時半、これで2日間、ほぼ徹夜だった。
だが、間違いなくここ数日の内に弟の死はやってくる。
父親のショートステイの手配、家の事を親戚に頼むなど、私はあらゆる準備を始めなければならなかった。

そして6月1日、病院から電話がかかってきた。
「弟さんがお兄さんに会いたいと言っています」との事だった。

そうか、その言葉を待っていたぞ、きっとそうなると思っていた。
もう覚悟はしたが、それでも最後孤独は辛いに違いない、それで良い、それだからこそお前は多くの人に慕われ、良い仲間にも恵まれたんだ。

俺はきっとそれができない、諦めてしまう。
だから誰にも慕われないし、それらしい顔をしながら誰も信じられない・・・。

幼い頃からそうだった・・・。
明朗で堂々とした弟に対し、卑屈で極端に人見知りが激しい兄弟の光は弟で、影が兄だった・・・。
先に都会へ出た弟が羨ましくて、何度も田舎を逃げ出したが、その度親に引き戻され、いつしか私は諦めた。

そしてこの家は私を最後にして、自分の子供を縛らないよう、いつしか故郷を捨てるように育てた。
お前は自由奔放にカメラマンとして活動し、多くの人を育て、その生き方で多くの後進達に道を示した。
偉大で有り、我が家の誇り、我が一族の血の誇りだった。

10年前、父が脳梗塞で右半身不随になり、それを悲観した母は翌年自らの命を絶った。
そして4年半前には、弟のお前の癌が発覚した。

俺は持っているものをすべて失っても、お前を救いたかった。
私の光、私の夢だった。

だが、助からない事が解ってから、お前は俺に尋ねたよな・・・。
「もうどうしてよいか解らない」
その時俺は言ったよな、自分ができるかどうかも解らないくせに、「泣いても笑っても同じなら、俺は笑う」と・・・。

お前はその言葉通り、強く死に向けて準備を始め、そして結果である死を早く望んでいた。
今その時に及んで、最後に動くことのできるたった1人の身内で有る、兄を頼ってくれた・・・。
恐らくこれが兄として、お前にしてやれる最初で最後の兄らしい事になるだろうが、「待ってろよ、絶対1人で淋しく死なせはせんからな・・・」

6月1日の深夜、能登を出た私が南房総の病院に付いたのは翌日の正午前、病室へ入って人工呼吸器を付けたお前に、「来たぞ、今、来たぞ」と告げる私に2度頷いたっけな・・・。

それで少し安心した私は、お前の携帯を充電器に繋いで、振り返った。
だがその時、もう口を開けたまま、息をしていなかった。
まるで、風もないのに花びらが静かに落ちるように、月が雲に隠れるように、何事もなかったかのように、お前は旅を終えた。

亡くなった事を、お前の親しい友人に連絡したら、すぐに東京から5人の、お前を慕う人たちが集まって来て、南房総での葬儀の手伝いから、火葬に至るまで手伝ってくれた。
俺は正直、お前が羨ましかった・・・。
自分が死んでも、ここまでしてくれる友が私にはいない・・・。

彼らは方向音痴の私の為に、遺骨を乗せて故郷に帰る途中まで送ってくれ、SNSでの追悼サイトまで作ってくれ、そこにはお前を慕う多くの人から追悼の言葉が寄せられていた・・・。

この事実がお前の生き方に対する答えの全てだ。
「よくやった、大したものだ・・・」

能登でも親族を集めて葬儀を済ませ、四十九日までの期間、床の間の祭壇に遺骨は安置されているが、そこに飾られたお前の写真も、彼ら友人たちが選んで作ってくれたものだった。

とても良い表情の写真で、どこか誇らしげにも見える。
「兄貴、俺はやったぞ、頑張ったぞ、そして今度は兄貴、兄貴の生き方を見せてくれ」
そう言っているようにも見えるが、済まん、今はどうしても力が入らない・・・。

だが、もう少し虚無に浸ったら、きっと俺はまた歩き始める・・・。
「俺はお前の兄・・・」
「闇を切り裂く稲妻、天の禍だからな・・・・」





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Category: 言葉では無いもの

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「朝の来ない夜は無い」 



ルネサンス期のイングランドを代表する劇作家「Willam Shakespeare」(ウィリアム・シェイクスピア)(1564[受洗礼日]~1616年)が、1606年に成立させた物語「Macbeth」(マクベス)の中に、その有名な一言は出てくる。

「The night is long that never finds day 」

日本語に訳するなら「明けない夜は無い」若しくは「朝の来ない夜は無い」と言う事になるが、「吉川英治」が好んで色紙に書いたと言われるこの一節は、1980年代、アメリカでも大手自動車産業のCEOが絶望的な経営環境に晒られた時、彼の父が息子に送った言葉としても広く知られている。

過去、そして今現在絶望的な状況に在る者をも、多く救うで在ろうこの一節は、確かに暗闇を彷徨う者の光と為り得る。

しかし世の中には「完全な闇」「決して助からない状況」と言うものも存在し、しかもそうした状況に在る者の数は極めて稀と言う訳ではなく、明日、誰もがそうした状況にならないと言う保証は無いのである。

巨額の債務に追われた者の最後は、僅か数百円の事でも命がけになり、今日、決して治癒のできない病に冒された者、天寿が全うされる瞬間の者に取って、その暗闇は決して朝を迎える事は無く、絶望の淵から逃れる術はない。
彼らを言葉で救うことはできない。

だが、私は思う。
絶望と暗闇の彼方にも光り輝く、美しい世界が在る事を・・・。
絶望と暗闇から生まれるもの全てが、必ずしも絶望や暗闇ばかりとは決まっていないと・・・。

我が形を為すものは、幼き頃の貧しさから来る「僻み」(ひがみ)、「妬み」「自己顕示欲」「恨み」「やせ我慢」「猜疑心」と言った、ろくでもないものだったかも知れない。
が、しかしこうしたものの彼方にまで来てしまった我が身を振り返るに、それが見せてくれた景色の中にも、美しく心動かす事も存在した。

いやもっと言うなら、それが在ったからこそ見えた景色と言うべきだったかも知れない。
心を引き裂かれる思い、泣いて泣いて嘆きあかしても、どうにもならない思いも在ったが、我が手で我を殴って得られる痛みでは、決して得られない痛みがもたらす景色、その過酷さにこそ有り難さが在った。

仏陀は晩年、戦乱で屍の山となった故郷の地を踏み、その荒廃した景色を見てこう言った。

「この世は何と甘美なものだろう、生きていると言う事は何と美しいのだろう・・・」

眼前に広がる地獄の景色を眺め、絶望と苦しみ、悲しみ、それらを噛みしめながら、揺り篭にて春の陽を浴びているかの如く優しく、美しく、穏やかな、景色を見る。

今滅び去り行く命の傍らに、若さを謳歌し、頬を染めて恥ずかしそうに手を繋ぐ少年と少女の姿が在り、さらに傍らには子を抱く母親の姿、そして苦しみもだえる人も在る。

「ああ、何と素晴らしい事なのだろう・・・」
「命が溢れんばかりに光輝き、満面の笑みを以てゆっくり回っている・・・」
「まるで水面に映り返えった夏の陽の煌めき、その眩い(まばゆい)ばかりの在り様ではないか・・・・」

人は生きると言う旅の終わりに、生と死、その両方に対して戦いを挑まねばならない。
この世で最も過酷な、そして最も崇高な戦いの姿は、もしかしたら追われ続けて倒れ、泥水をすすって滅んで行く事になるのかも知れない。

だが、こうした在り様ですら、きっと最後は美しく穏やかな景色として映るに違いない。

水は最も最短にして、最も適切な道を通る。
だがそれは、それ以外の道はなかったと言う事でもある。

その生き方に一切の間違いはなかった。
全て正しかった。
そう自分の命が言ってくれるに違い無い。




Category: 言葉では無いもの

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「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・Ⅱ 



此度東北を襲った大地震にあって、我が脳裏に真っ先に思い浮かんだのが、「柳田国男」のこの話であり、また関東大震災の折の記録だった。
この二者は互いに、そこに共通点を求めるなら「子供」がその主体となるが、全く別の記録なれど、どこかで同じ感じがするのである。

これは婦人公論大正12年10月号に掲載された記事からだが、関東大震災発生の3日後、横浜で恐らく30前後だろうか、泥だらけの浴衣姿の女が疲れ果てた感じではあるが、そのどこかでは興奮した様子で歩いていた。

女はやがて山の手の避難所まで辿り着くと、そこで誰かを探しているようにも見えたが、その人ごみの中を歩く2人の子供の姿を見つけると、「あっいた、いた」と言って子供達に走りよった。
なるほど震災で離れ離れになった母と子供が再開できたのか・・・、と周囲にいる誰もがそう思った。

しかし子供達に近付いた女は、次の瞬間そこに落ちていたレンガを拾うと、何と子供達の顔を滅多打ちにして殴りつけるのである。
カラカラと乾いた笑い声を上げながら執拗に子供達を殴りつける女、うずくまる子供たち、女は完全に狂ってしまっていたのである。

またやはり関東大震災発生の翌日、これは東京駅の昇降口を歩いていた人の記録だが、大勢の人が混乱して右往左往するその足元に、たこ糸で巻かれた紙包みが転がっていた。

何だろうと思ってそれをよく見てみると、紙の破れ目から、生後幾らも経過していない嬰児(えいじ・生まれた直後の子供)の片足がそこからはみ出していたのである。
しかも人々は激しくそこを行き来しながらこれを見ることも無く、紙に包まれた嬰児を蹴飛ばしながら通り過ぎていた。

そして2011年3月27日、宮城県石巻市渡波の山道で生まれた直後の女児の遺体が発見された。
2011年3月11日に発生した東北の地震では、この地区は津波被害地区からはかなり離れた場所にあり、従ってこの女児が津波によって死亡したとは考えにくい。

尚且つこの女児はへその緒が付いたままの状態で裸のままだったこと、付着した血液がまだ完全に乾いていなかったことから、生まれた直後に捨てられたと見られている。

どんな事情が有ったか分らないが、今回の地震によって生まれた子供を育てられないと思ったか、はたまた地震が起こる以前から生んではいけない子供を身ごもり、地震を幸いにして捨ててしまったか、我々はそれを推し量る術も無いが、子供が生まれた直後に親によって捨てられた事実は変わらない。

実は地震などの災害の最も恐ろしいところは、その災害もさることながら、それから後に起こってくる経済的な行き詰まりによってもたらされる現実かも知れない。
親を失った子供、ローンを組んでやっと手に入れた家を失った者、職場を失った者、彼等の眼前に広がる現実は並み大抵のものではない。

日本はこの東北の地震によって何か大きなものを失ったかのように見えるが、その実東北の地震以前から「何か天変地異でも起こって」と思う人間のいかに多かったことかを知るなら、そこには天変地異でも来なければ、自身の破滅の近かった者がどれだけ多かったかと言うことであり、彼等は大地震の影に隠れて救われた場合も存在し得る。

しかしこうして地震による被災も、地震発生の以前から抱えていた破滅も、結局はその当人の努力では如何ともし難いものであったなら、それはやはり天の為せるところとする以外に無く、我々は彼等彼女等を責めるに資する者とはなり得ない。

子は親を思い、親は子を思いながらもその生活に行き詰る現実は、いつ如何なる時代も無くなる事は無く、それは貧しい時代ほど多くなるが、人はこれを全て救うことはできない。

経済的には壊滅状態に近かった日本経済、その上に今回の大地震と原発事故である。
「頑張れ」「希望はある」の言葉の届く者も勿論あろう。
しかしこうした言葉が虚ろにしか聞こえない者も必ず存在し、それらの者は一線を越えてしまうかも知れない。

そして我々は彼等を全て救うことは恐らく叶うまい・・・。
それゆえ我々は一線を越えた彼等彼女達を、一様に犯罪者として憎んではならない。

ただ天に向かって「この親と、この子に何とぞ慈悲を賜れ」とひれ伏すのみである。

[本文は2011年3月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

Category: 晴れた日と雨の日に

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「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・Ⅰ 

ある村の近くの山で炭焼きを生業としている男があった。
だがこの男の暮らしは貧しく、食うや食わずの毎日で、既にもう何日も食べるものを口にしておらず、その日も朝から村へ炭を売りに行ったが、炭はいっこうに売れず手ぶらで帰るしかなかった。

そして激しい徒労感から男は家へ帰って眠りに就いたが、ふと目が覚めてあたりを見回すと、すっかり傾いた陽の光が戸口を明るく照らし、そこには男の子供がただ黙って鉞(まさかり)を研いでいる姿が見えた。

「おまえ、そんなところで何をしている」
男は子供に尋ねるが、それに振り向いた子供は今まで研いでいた鉞を持って男にこう言う。
「これで殺してけろ」

そして子供と幼い妹は近くにあった丸太を枕に、そこに横たわる。
漠然とその光景を眺める男、一瞬頭の中がクラクラと来たかと思うと、次の瞬間、男の手に握られていた鉞はこの兄妹の首めがて振り下ろされていた。

人間はその年齢にならなければ、その経験をしなければ決して学べないし、理解できない事と言うものがある。
少年の頃、いや今もそうかも知れないが、我が根幹を為したものは「柳田国男」と「和辻哲郎」の著書だった。

だがこの二人の中でも取り分け私に衝撃を与えたのは「柳田国男」が著したこの冒頭の話だった。

確か、東北地方の昔の実話だったと記憶しているが、「遠野物語」でこの話を始めて読んだのは高校生くらいだったと思う。
だがその時は確かに悲惨なことでは有るが、それほど大きな思いはなかった。
この話が衝撃を持って自身に迫ってきたのは、結婚して5年目くらい、長男が4歳くらいのときだった。

妻の心臓病が見つかった時、入院生活になったことから、暫く自分と幼い長男、それに2歳くらいだっただろうか、長女の3人暮らしになった時期があり、ある日スーパーへ買い物に行った時の事だった。

菓子でも買ってやろうと思い、「何かほしいものはないか」と長男に尋ねたが、彼は珍しく「何も要らない」と答えた。
長男のこの言葉に何か不自然なものを感じ振り返った私は、そこに不安げに、そしてどこかで遠慮しているような長男の姿を見て、一瞬にして「柳田国男」のこの話を思い出した。

「あー、親とは、子供とはこうしたものだったのか・・・」と思ったものだ。
そして家へ帰り、子供達が寝静まった頃、夜遅くにもう一度「柳田国男」のこの話を読み返した私は号泣したことを憶えている。

貧しさは罪か、さにあらず。
しかし人間の世は幾ら努力してもどうにならない理不尽の上に立っていて、それは僅か船板一枚を挟んだその下は海の如くに広がっているものである。

追い詰められてその最後の瞬間に有っても、子はその生死の何たるかを知らずして既に親のことを思い、親もまたその子を思うとしても、眼前に広がる現実の前に幼き命はその先を絶たれる。

だが誰がどのようにしてこうした在り様を裁くことができようか。
およそ法と言うものには限界があり、その奥は言葉の無いものでしかそれを裁くことができない、いやそもそもこうした在り様に裁きなどが入り込める余地すらないように思えてしまう。

キリスト教の教義では幼き子供とその両親があった場合、究極の選択では両親が生き残ることを是としているが、その理由は若い両親ならまた子供が作れるからである。
が、そんな簡単な、そんな薄いもので人の命を、親子をはかることが出来ようはずも無い。

                     「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・2に続く

[本文は2011年3月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

Category: 何かがやって来る

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「東日本大震災への思い」 



2011年3月11日は忘れることができない日だった・・・。

前年から高い気温が続き、多くの魚の異常はその数年前から続きながら、何も発生していなかった為、2010年、私は「何か大変なことが起こる」と、幾度となく記事を書いた記憶がある。

中でも「猛暑と地震の因果律」は2010年8月に書かれたものだったが、高い気温と地震の関係、政治的混乱と地震の関係を書かれたこの記事は、数人の人が事前に紹介していてくれていた為、東日本大震災発生直後から「予言が当たった」として、今の言葉言うなら「バズった」

以後、高い気温と地震の関係に関するサイトが増えてくるのだが、その始まりは2010年からなのである。
しかも、私は地震を予知したのではなく、完全に外していた訳で、何かが来ると思いながら、日本と言う列島構造上の基本である日本海溝を全く考えていなかった。

かつて阪神淡路大震災のおり、やはり私と同じように地震を研究していた先輩が、神戸に住んでいて、こんなにも色んな事が在ったのに、大地震を予見できなかったと涙をこぼしていた事が思い出された。

こんなにも色んな現象が現れ、相当なものがやってくると思っていながら、最も基本的なものを見ていなかった。
福島や宮城の人に申し訳ない気持ちで一杯になったものだった。
馬鹿だ、狂人だ、山師だ、詐欺師だと言われても良い、何でもっと大騒ぎしておかなかったのかと悔やんだものだった。

そして私は某中央新聞の記者と連携し、被災地がこれからどう言う余震に見舞われるのか、どう身を守れば良いのかを共同で発信して行ったが、その際キーワードとなるものが「どんな辛いことが有っても春になれば必ず花は咲き乱れ、大地は緑で覆われる」だった。

このキーワードの始まりは1974年に放送されたテレビドラマ「日本沈没」の主題歌で、五木ひろし氏が歌っっている「明日の愛」の中に出てくる「花は咲く、春になれば、地の果て続く限り」を元にしていて、演歌が大嫌いだった私が唯一、小学生の時に聞いて涙が流れた曲だった。

こうした記事を書いたのが2011年3月16日の事からだったが、それから1か月後、「花~は、花~は、花は咲く」と沖縄音階で楽曲を作った者がいて、これをNHKが取り上げて行った経緯には、その余りにも軽薄な在り様に反吐が出る思いがした。

絆だ、愛だ、復興だと言うものが、その地域にどう言う影響を及ぼすか、能登半島地震や中越沖地震後、それらの地域がどうなったかを見れば、東北が同じような目に合う事は明白だった。

関東大震災では、東京が火の海になった翌日には、既に廃材でバラックを建て、雑炊を売るものが出てくるし、当時の写真の中には、周囲の人を気にする事もなく、水たまりで裸になって体を洗う若い女性の姿も写っていて、「生きよう」とする自主性に満ちた力がみなぎっている。

また政府も被災して死亡した人を搬送する為に、生き残った民衆を使っている。
それもボランティアなどと言う中途半端なものではなく、金やコメを払って雇用していくのである。

援助とは難しいものだ・・・。
補助金も同じだが、常に底上げしてくれるものが在ると、その分人間は力を失う。
そして復興予算が終了した時には、街並みは映画のセットのように美しくなり、カラー舗装の道路は実に素晴らしいが、誰も人がいなくなるのである。

東北の人たちは震災に拠る絶望より、その後の復興事業と「優しさ」にこそ絶望した人も多いだろう。

福島原発付近は放射性物質の半減期から、後20年はそこには住めない。
迫ってくる過疎と経済的沈降、目立つ者だけが優遇されて行く復興事業、それらの前に今まさに人災を被っているかも知れない。

こうした日本海溝そのものの動きに関して、余震や付帯地震の傾向は最低でも60年、場合によって200年程同じ傾向が続くと推定される為、現在のような地震が多い状態は、恐らく60年は続く可能性があり、範囲は全国に及びます。
毎年震度7、6の地震が平均2回~3回、震度4、3は日常茶飯事と言う形が常態化するでしょう。

でも、春になれば同じ場所から、去年と同じ草が芽を吹き、花をつける。
それはまるで陽が昇り、沈むの如く、当然であるかのように静かに、確実に花を咲かせる・・・。

2021年3月11日、東日本大震災が発生してから10年の節目を迎えるに際し、亡くなられた方々とその遺族の方々には、あらためて追悼の意を表します。

尚、当時書いた記事の内、今の時代に最も必要であろうと思われる記事を、掲載して措きました。
「鉞(まさかり)を研ぐ子供」、2011年3月27日の記事です・・・。


Category: 何かがやって来る

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「凶」 



「農」は「田」と「辰」の合字にして、「辰」の方角は東南東、時刻は朝7時から9時を指し、冠する形は龍。

一方これとは別に「農」の上を「脳」と観念する流れも在り、「脳」は「月」、つまり「体」を意味し、つくりは「凶」に隙間の有る蓋、解り易く言えば凶の上に木の葉や草などを載せて隠した、或いは目立たないようにしたものを「脳」と言う。

だが「辰」の上に「脳」が載った形には更に原型が有り、「凶」の上に鍋の蓋を被せた状態がその始まりとされている。
従って「凶」に完全な蓋をしたものを「農」と概念し、人間の脳と言う考え方には蓋はしてあるものの、それは見かけ上、若しくは若干中の凶が漏れる可能性を残した状態を当てている。

このことは何を意味しているかと言えば、人間が「凶」に対して求めているものの違いを現し、農業に拠って得られる穀物収入には完全なコントロールを求め、人間の「凶」には完全な蓋をしない事を求めたと言う事である。

元々神仏が如く完全な人間など在る筈もなく、しかし社会というものを維持するためには、たとえ見せかけでも凶に蓋をした状態にする事が求められ、その現実的な在り様に鑑みるなら凶の蓋を木の葉、草で取り敢えず見えないようにしたと言う「脳」の形は大儀が在り、極めて趣深いと言える。
「凶」は「匚」(はこがまえ)で有る事から、全方向からその災いが見えない。
むしろ前面と横は箱に覆われていて見えず、正体は後ろに在ると考えた方が良く、「凶」の本質は箱に入った災い、中身のコントロールが完全ではないものを指している。

前面から既にそれと解る「災い」には「川」が鋭角になっている文字と火を当てているのは、それが既に見えているからである。

しかし「凶」は三方を囲まれているので、その正体は見えにくい。
一見幸運に見えたり、チャンスに見える事の中に、一方から激しい刀の一振り、槍の一突きが垣間見える状態を指している為、「凶」の始まりは人為的なもの、王が与える罰を始まりとした可能性がある。

「凶」は災いや良くない事を意味するが、趣深いのは、災いは既に見えている現実の形であるのに対し、「凶」は結果を現している点にある。
しかもそこには、未来に措いて自身が命の危機を頂上とした結果に、晒される事を暗示しているのである。

大切にしている茶碗が割れた、靴ひもが切れた、鏡が割れたなど、それ自体はそう大した事ではないが、禍々しいものの尻尾がちらっと見えた状態、これを凶とするのであり、祭りなども例えば「殷」や「周」の時代には生贄が人であった事から、祭りの本質は元々凶を包括したものと言える。

また箱に入った「メ」、刀や槍は「滅」の火と同様、絶対消し去ることができないものと考えられたようで、「滅」の字は「火」をあらゆる物や、大勢で囲んでいる状態を現わしているが、中心に在る火は小さくなっても決して消えてはいないのである。

これと同じことは凶の「メ」にも言える話であり、こうした災い、禍は決して滅ぼすことができ無いため、それを囲んで動けなくする事を上限としたのである。
つまり囲い切ってコントロールできる形が「滅」となり、「匚」のように一方の戸が開いているものを「凶」、そして現実に目の前に現れた火や水を「災」としたのである。

ちなみに「禍」は災いと同義だが、二天が指示した事柄が歪められた、或いは妨げられたことを意味し、ここから天の恩恵は予め全てが是と言う前提に立つ為、禍はまた未来に措ける禍と福に通じ、福もまた同じ。

それゆえ本質的には禍福は流れ動き続けるものの、どの時と場を、誰が切り取ったかと言う事に過ぎないのかも知れない。

Category: 言葉では無いもの

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「飢え」 



千葉県鴨川市から館山へ抜けるルート128号、この途中に江見海水浴場が在り、現在は閉じられているが、海から少し離れた土手に座り、113円のコンビニおにぎり2個を微糖コーヒーで流し込みながら、打ち寄せる波を見ていたら、自分でも気が付かない内に、右目から涙が流れていた。

以前に比べ「死」と言うものに関係する機会が増えた事は確かだが、そんなに悲しい訳でもないのに、何も思っていなかったのに、それでも人間は涙が流れる事が有る事を知った。

また少し前までは「死」などそんな恐れてはいなかったが、この数年異様に「死」が恐ろしい。
それも自己と言う存在の消滅に対する恐れ、と言う高尚なものではなく、単純に痛いのではないか、苦しいのではないかと言うリアルな苦痛に対する恐れだ。

それゆえ少し年上の人と話をする度、「死は恐くないですか」と訪ねるのだが、大方の人は私より死との距離が遠いか、曖昧なようで、明確な答えは帰ってこない。
生きている人間にとっては誰も経験した事が無いのだから、まあ無理もない事だし、いきなりそれを聞く私が間違っているとも思う。

だが、こうして「死」を考える時、どうしても思い出すのが「Agnese Gongea」(アグネス・ゴンジャ1910~1997)と言う女性の事だ。
「マザー・テレサ」と言った方が良いか、いや、それすらも今は多くの人に忘れられているかも知れないが、彼女がハーバード大学で行った講演の衝撃は、今以て瑞々しさを失う事が無い。

貧困でパンが食べられない事だけが「飢え」ではない。
誰からも必要とされない、誰からも愛されない事に対する「飢え」こそが最も深い「飢え」だと言った、あの低いがずっしり響くラテンなまりの言葉を聞いた時、愕然としたものだった。

仏に祈って極楽浄土へでは、現状が肯定されずに、曖昧な未来にそれを先送りしたに過ぎない、そう思っていた私に取っては、今死に行く者が最も必要する事が自己肯定だろうし、生まれて親すらもいない子供、障害を持つ人に最も必要な事は、「あなたは必要な人なんですよ」と言う祝福だと言うアグネスの言葉は、まさに救いそのものだった。

後世、修道女は看護資格を持たないから、医療ミスも多かったとする意見も有ったが、そもそも医療ミスの段階にすら至らず、死んで行く人の多かった事に鑑みるなら、それは現実に対する忠実さだったとも言える。

現在の日本は昔のカルカッタ程貧しくはないだろうし、飢えで死んで行く人も少ないだろうが、親を施設に預け、そこでは確かに孤独は無いかも知れないが、多くの人に囲まれながら孤独になってはいないか、自己肯定出来て、死んで行けるだろうか・・・。
施設へ入れる事が本当に親に対する愛だろうか・・・。

情報は発達し、多くの友に囲まれているように思っているが、その中で孤独を感じてはいないだろうか。
心を、優しさを、愛を求める根底に「飢え」は潜んでいないだろうか・・・。

幸い探したらYoutubeにマザー・テレサの動画が残っていたので、貼り付けて措いた。
これを観てどう思うかは自由だが、この機会に「自分が飢えていないか」「世の中が飢えで一杯になっていないか」深く、考える機会にして頂ければと思う。
(注・ゲストのコメントは聞く価値が無いので飛ばした方が良い・・・)

動画中、ベイルートの子供たちの救出の話が出てくるが、「この時マザーの祈りが通じたのか、翌日戦闘は収まった」と言う解説が出てくるが、これは誤りで、アグネスがイスラエル、パレスチナの両方の将軍に直談判し、停戦が成立したのである。
訂正しておく。

Category: 言葉では無いもの

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「景気の悪い顔をしてるんじゃないよ」 



20世紀を代表する歴史作家「司馬遼太郎」は晩年、「このままだと日本は亡くなってしまう」と言っていたが、彼の言葉を借りるなら、既に日本は亡くなっていると私は思う。

明治維新で背伸びして列強を目指した日本は、日露戦争に拠って多額の海外債務を抱え、少しずつ「仕方ない」を増やし経済を何でも有りにしてしまった。

やがてこれが集積し、太平洋戦争と言う一つの決着を付けなければならなくなり敗戦、惨めな状況から立ち直ったが、懲りもせず、またぞろ金に目が眩みバブル経済を引き起こし、「金を儲けないのは罪だ」とまで言わしめた結果が「崩壊」だった。

司馬遼太郎はこのバブルが崩壊する少し以前から「このままでは日本は危ない」と言い続けていたが、ここで彼が何を恐れていたかと言うと、それは「仕方ない」と言って、あらゆるやってはいけない事、秩序が金に換算されて流され、どうでも良くなってしまう事を指していただろうと思う。

だが司馬遼太郎の危惧は、それ以降も続き、日本は「仕方ない」と言いつつ、富士山や伝統的な祭りまで「観光資源」と言う金に換算する浅ましさとなり、昨今ではMMT理論を参照し、国債を日本銀行が紙幣を印刷して買い取る、20世紀の世界が「経験から学んだ禁じ手」まで侵してしまう有り様となった。

更に年金財源50兆円、日本銀行50兆円、合計100兆円の政府系資金が一般市場に参入し、全株式取り扱い金額の13%を日本政府が占めていても、誰も疑問にすら思わない程、日本の「仕方ない」は進行してきてしまった。

たかが13%くらい良いじゃないかと思うかも知れないが、もし株価が下落したら、この13%を占めている日本政府の資金が紙くずになる。
としたら、例え13%でも株価が下落するような事にならないよう、日本政府が動く事は明白であり、ここに100%政府が取引しているのと同等の効果が現れる。

これを海外から観たら、日本の株式市場は政府保証と見えてしまう訳であり、その結果が投資額の30%が海外資本と言う結果に繋がっているが、これは何を意味しているかと言えば、日本の株式市場の崩壊が、即時日本政府財務の崩壊だと言う事である。

印刷して市場に流されるはずの資本は、実体経済を遥かに追い越してしまっていて、需要以上に流れた資本は全て株式市場に流れ、それがどんどん膨れ上がっている。

これが今の日本の株式市場で有り、この限度はどこまでは解らないが、無限ではない事も確かで、政府保証が付いている株式市場では下がる要因は見つからず、どんどん株式市場は拡大し、更にここへ金が流れて行く。

かと言って金融緩和は世界的な流れだから、ここで日本だけが金融緩和を止めれば、「円」は高騰して行き、株価は暴落する。
行くも地獄、引き返すも地獄の在り様は、太平洋戦争前の日本経済、バブル経済と全く同じ構造と言える。

「景気」とは本来形の無いものであり、先の定まっていない千変万化のもの、言い換えれば人々の「思い」である。
これを統計や理論等と言った、物事を止まった状態で考え、時流と言う本来は人が創り上げねばならないものに、逆に脅されて従っている様では、面白くない事になるのは当然だ。

チマチマした統計や小賢しい経済論に振り回され、小枝の議論で一喜一憂し、大局は見ていない。
本来、それを人の手で変えて行かねねばならないものに振り回され、右往左往する姿は滑稽とも言えるが、この小賢しさがインテリジェンスと言う世の中では、先は暗い。

1990年代のテレビ番組、「知ってるつもり」でも紹介されたエピソードだが、明治維新第一級の功労者「勝海舟」が、下町の食堂に入ったおり、その店は結構忙しそうにしていたので、海舟は女将に「随分景気が良さそうだね」と声をかける。

すると女将は「とんでもない、最低だよ、何も儲かりゃしない」
「でもさ、景気が悪そうな顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」
「無理して景気の良さそうな顔をしてるのさ」
「そうすれば、その内良い時もきっとやって来るってもんさ」

黙ってこれを聞いていた海舟、やおら懐から持ち金の全て、30両を取り出すと机の上に置いて「女将、勉強させてもらった」と言って帰るのである。

今の世の中で景気が悪い時に、それを跳ね返すように明るく振舞う商人、または店が存在するだろうか・・・。
殊更悪く見せる、或いは悪く言う者は多いかも知れないが、「とんでもない、家は景気が良いのさ」と言う者はいないだろう・・・。

実はこれが司馬遼太郎の危惧で有り、勝海舟の嘆きなのである。
予め補助金や給付金を貰う事が前提となっていて、その為には景気が良いなんて口が裂けても言えない。
これは基本的に物乞いか生活保護と原理は同じ事だ。

働ける元気な体が在って、頑張れるなら最大限努力をして稼ぐのが、商いをする者のプライドと言うものだ。
補助金や給付金を当てにして利益に勘定するようになってしまった、その事を悲しく思わねばならないのに、少しずつ気が付かない間に壊れてしまい、何も思わなくなってしまった。

それゆえ社会の風潮を気にして、それに自分を合わせて生きようする。
だがしかし、この社会の風潮と言うものは理論や統計と言った過去形のものが作るのではなく、先へ行って千変万化、今日来た道は明日は通れない人間が、その集合が創るものだ。

どこの世界に過ぎ去った暗い過去で現在、未来を創る愚か者が存在しようか・・・。
その暗さを何とかしようして現在が在るのに、チマチマとした小賢しさで暗さに自分を合わせてどうする。

今の日本、世界経済は明治維新、太平洋戦争前、バブル崩壊時と何ら変わらない。
精神的側面から言えば、今の日本は過去の如何なる危機よりも悪いかも知れない。
しかし、その悪さを何とかしなければならない時に、悪さに足を引っ張られ、沼に引きずり込まれて猶、自分は賢いと思っているようでは話にならない。

勝海舟ではないが、女将が言った「景気の悪い顔をしていると、魚まで活(いき)が悪く見えちまう」は経済の基本中の基本である。

今一度この事に思いを致し、この国を、自分を見つめなおす必要が有るのではないか・・・。

Category: 何かがやって来る

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「辛丑」(かのと・うし) 

辛(かのと)は十干の八番目、1本を2本が刺すの意を始まりとし、陰陽道では1本の「陰」を2本の「陽」が刺すを現すが、元々「神」や「信」などと同じように、日本語で「シン」と発音するものは吉凶相容れた様相、若しくはその様相が良く見えないものを示す場合が多く、「神」の始まりは「陰」が伸縮する様を始まりとも言われる。

従って辛の特徴は、どちらかと言えば正しく見えるもの、思慮深きもの、或いは秩序を「陽」と言う無邪気なもの、思慮の外に在る明るさが刺し貫くを意味する。
簡単に言えば数多くの愚かさが数の少ない秩序を刺し貫くを事を指している。

古来「辛酉革命」(かのと・とり・かくめい)と言って、「辛酉」には変事、革命が多いとされ、日本ではこの年に改元の慣わしが存在したくらいで、「辛」がこの世に形を現す時は「変事」「革命」「刷新」「改革」と言う痛みを伴う変化が発生する年回りとされている。

また「丑」(うし)は「紐」(ちゅう・ひも)の事で有り、幸福の「幸」の始まりは厚板の手枷(てかせ)、手錠を指すが、それに対して厚板の手枷よりは目立たないが、その目的はしっかり果たす紐の手枷を意味し、この事から物事が思う通りに運ばない様相を示している。

「丑」の紐は手枷よりも目立たない、また遠目には厚板の手枷よりは拘束されている事実が見えにくい。
この為、丑年は一見順調そうに見えながら、現実は厳しい状況を現し、「辛」(かのと)と相まって、表面上は難なく流れて行くように見えて、実は急激な「凶」が姿を現すかも知れない。

また間違いなく「革命」や「変事」からは逃れられない様相となる為、事の始まりが政治、経済、災害、イベントの失敗などを問わず、結果は政治的な変事、或いはそれ以前の政策が方向転換を迫られ、民衆の暮らしが激変する可能性が秘められている。

コロナウィルスで混乱していながら、続伸する株式市場だが、今年、その風船のように膨らんだ「虚」がはじける可能性が有り、実体経済とはⅠ万円も高くなっている日本の株式市場は「株価バブル崩壊」を警戒する必要が有る。

東京オリンピック、パラリンピックは、今年前半まで何とか開催できるように見えるかも知れないが、直前に開催できない、開催しても失敗する、後の経済的負担で紛糾するかのどちらになる為、これを目当てに商いをする者は、短期決済型収益で切り上げ、長く関わらない方が得策となる。

2本の「陽」、「陽」は本来吉凶どちらでもない唯の事象だが、それが出てくる時と場に無邪気な、或いは意思のないものを授けて行く。
この為、何事もなさそうに見えながら、その変事の発端は災害と言う場合もある。

どちらにしても「丑」は半分か3分の2くらいまでは平穏に見え、この見えると言う事はその後の「凶」が出て来れば「虚」になるが、それまでは「実」に同じで在る。

ゆえ、丑年のコツは、この平穏そうに見える時期を有効に使い、後半の凶事に身を潜めるを最善とし、物事をぎりぎり迄為そうとは考えず、早めに切り上げる事をして凶事を希釈する。

このコロナウィルス騒動に鑑みるなら、丑年の「紐の手枷」とはまことに絶妙な感が在る。
厚板の手枷ほど見た目の派手さは無く、効果もそれに劣るが、しかし確実に人々の動きを拘束し、「不安」を与える。

オリンピックと言う一大イベントを抱えながら、株価も高騰、前途は期待も有るが、薄く弱く、しかし確実にコロナウィルスは潜み続け、やがて2本の「陽」がそれまでの計画や秩序を刺し貫く・・・。

人の本来は吉凶で言うなら「凶」が9、「吉」が1のもので有り、これは如何なる年回りでも変わらない。
しかも禍福は糾う(あざなう)縄の如し、次の瞬間には禍が福に通じ、福が禍に通じる。

予言や占いで未来は変わらない。
ただ、「今」と言う時が過去に今だったものの集積された時で有るなら、今、この瞬間を正すは未来に変化をもたらすもので有り、いや、それが正しき未来となって行くだろうものであるに違いない。

雨を避けて晴れ間だけを享受する事は出来ない。
雨はその時の禍で有っても、後に恩恵をもたらし、その晴れ間の傲慢と怠惰は後に人の恨みを買い、妬みを招く。

順風満帆な時も、苦しい時も油断せず凶事に備え、善きも悪きもそこに留まらず次を思い、日々研鑽する。
丑年は「紐の手枷」だが、紐はまた厚板の手枷とは違って、粘り強く努力すれば解ける事を知るものでもある。
危機を脱した次に来るべきものは千在一偶のチャンスである。

令和3年、辛丑年、皆さまにご幸運の多き事を、謹んで希望致します。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

Category: 言葉では無いもの

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「輔弼事項と任命権」 

圧倒的な支持率でスタートした「菅義偉」内閣だが、当初感じていた田舎臭さと言うかセンスの無さが、ここに至って少しずつ露呈して来た感がある。

「今すぐにでも辞めてください」と言う国民意見の多い「三原じゅん子」代議士の厚生労働副大臣は明確な恩賞人事と言えるし、こちらも税金泥棒の誉れ高い「今井絵理子」代議士の国会対策委員会副委員長は、「おいおいぉぃ・・、それはないだろう」の人事だ。

また口は禍の元を地で行く、「杉田水脈」代議士の女性差別発言に対しても、自民党は口頭注意と言う具合で、何か特別な思惑でも有るのかと思われるかも知れないが、杉田氏は次期選挙でも比例区名簿トップ記載がほぼ決まっているとされている。

これは前安倍内閣に暗躍した「日本会議」や、俗に言われる右翼からの人気の高さが影響していると言われているが、同じ傾向は「三原じゅん子」代議士も同じである。

愚か者の一番やり易い事が、恩賞人事と仲良しクラブである。
こうした傾向は有能な者を影に追いやる効果を生じせしめる事から、遠からずその組織が為す事は混乱に向かう可能性が高い。

実務に忠実な者は鳥瞰的(ちょうかんてき・高い所から広くものを見る事)な見方ができない。
どうしてもセンスのない頑なさが出てしまうが、前安倍政権は順風満帆な中を総理の御病気で政権辞任された訳ではない。
そう言う形に近付けて辞めたように見せた安倍総理は、あらゆる政策に行き詰まり、「ところてん」が絞り出されるがの如く、もうどうにもならなくなって御病気引退された訳だ。

ここは前政権を踏襲してでは、最初から行き詰っている事になる。
政策としては、前政権がやった事の改革かか変更を打ち出さねば、安倍総理が御病気になられた時と同じで、何も変わらないと言う事で有る。

こんな事は3世紀も前からの政治上の常識と言うものだが、加えて本当にセンスが無いなと思わせてくれたのが、「日本学術会議」の推薦者の中で任命を見送った者を出した事で有る。
これは黙って過ぎ去れば何でもない小さな事に、田舎臭いセンスを持ち出したために大変な事になった、そう言う事態に気付いていない愚かさが招く、底なしの闇を感じてしまう。

「日本学術会議」など、大した権威も影響力も無いものだから、放っておいてもどうでも良かったのに、団体が推薦したメンバーに対して政府が中立を保つ為、全て承認任命する形が採られていた形式に逆らい、任命拒否など論外だ。

この形式は明治政府下の天皇の輔弼事項(ほひつじこう・補助する事だが、直接権者もこれに逆らわない仕組み)、昭和から以降の天皇の任命権に関する独立性に同じで有り、推薦者の任命を拒否すると、政府や天皇が干渉した形式となる為、これが避けられた経緯を持つ。

しかし、この中で菅総理は前安倍総理時代に政策を批判した、6名の教授の推薦を見送り、「日本学術会議」のメンバーに任命しなかった。
明確な学術文化に対する政府干渉であり、自民党内のお友達組織と同じような田舎臭いやり方を、明治天皇から現代にいたるまで守って来た、天皇と政治の独立の形を模倣した在り様を、蔑ろにしてしまった。

まったく無知と言うか、器の浅い者は本当に困ったものだ・・・。
こんな「日本学術会議」のような小さな事案でも、システムは天皇輔弼事項と同様式を持っている。
菅総理が組閣した内閣を、天皇が拒否したらどうなるか、菅総理は拒否する事が出来ない任命権で、拒否を使ってしまった訳である。

これは単にお友達優遇、嫌いな人を排除しましたと言う結果以上に、日本が持つ最も大きな伝統在る仕組み、儀式を蔑ろにしたと言う側面を持ち、しかもぬめっとした加藤官房長官のコメントは、」そう言う意図は有りませんが、政府の決定だと言う事です」と言う全く訳の分からないものだった。
政府の決定だからこそ、任命を拒否した理由が必要なのだが、こうして幕引きして済まそうとするのだろうか・・・。

愚かだ、実に愚かだと思う。
こんなどうでも良い案件で敵を作って頑張ってしまうと、その後大きな案件が発生した時、敵ばかりになって誰も助けてくれない。

安倍総理時代のようにイエスマンを集め、対立するものには姑息な手で貶め、「やーい、ざまーみろ」のような事をやっていたからこそ、消費税増税、コロナウィルス危機に際して政策立案能力を失い、仮病を使って辞任しなければならなくなった事を、その横で見ていて解らなかったとは、本当に悲しい男だと思う。

学術、芸術と言うものは氷山に似たりで、道路を歩いていて石ころを蹴飛ばしたつもりが、実は地面の中に在る大きな岩の先端だったと言う形に近い。
しかもいざとなればそれほど大きな力のないものだ。

就任早々総理が手を出す価値はなく、何もしない間からこんな事で躓いて、大きな敵を作るなどトップとしてのセンス、「器」や度量に欠ける行為も甚だしい。
政治家として民衆の期待に応えるどころか、のっけから失望感を与えるものだ。

この「日本学術会議」任命騒動だけでも、海外の多くの有識者が言うように、菅内閣がもたらすものは更なる混乱、無策だと推測できる。
結果だけを見ていると、菅総理は混乱と民意の冒涜はやっても、まだ有用な政策を何一つ打ち出してはいない。

菅総理に期待はできない。
実務はこなせても、政治家として最も大切な創造、ヴィジョンと言うものを持っていないのかも知れない。
野党勢力の低レベルさを考えるなら、日本国民は次も自民党候補しか選択の余地が無い場合、ネットと言う手段も有るのだから、民衆の中から次期候補を選択すべく、動きを始める必要が有るのではないか・・・・。




Category: あの丘を越えて

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