「何だ・・・これは・・・」

1960年1月2日、イギリスの商船「コリンシック」号は、ピトケルン島から一路ニュージーランドに向かっていたが、波はそれほど大きくなく、天気も良かったし、順調な旅を続けていた.。
が、甲板で作業をしていた乗員は、乾いている甲板のあちこちで、不規則な形の濡れたシミのような跡を見つける。

そして不思議に思ってあたりを見回すと、それと同じようなシミは甲板全体にあって、しかも水よりは粘液性の高い液体のようだった。

「何だ・・・これは」乗員は思わず上を見あげ、その余りに奇怪な光景に言葉を失った。
なんと空から直径1メートルほどのゼリー状、いや絹のように滑らかでやわらかそうな塊が降ってきていて、それが船の甲板に落下する前に細かく壊れていた。
甲板のシミはこの塊が壊れた破片が液体化していたものだったのである。

唖然とすると言うのはこうしたことを言うのだろう。
その大きな塊は乳白色に少しハチミツが混じったような明るい色で、泡の塊のように軽くて、しかも表面はゼリーのような滑らかさ、それが不思議なことにこの船の航路のちょうど片側だけ、広範囲にあちこちで降っていたのである。

航路の反対側にはその塊は全く降っていなかった。
乗員は慌てて船長を呼び、他の乗員たちも口々に「何だ、何だ・・・」とこの光景を見守っていたが、船がニュージーランド沖合い250キロメートルの地点に至るまで、実に1500キロメートルにわたり、特定の幅を持ってこの塊は降っていたのだった。

乳白色にハチミツが混じったようなその塊は、見た目に甘そうな感じがし、しかもふわふわと漂うように降り続けていたのである。

「コリンシック」号の乗組員たちは船長以下、暫く呆然とこの光景を眺めていたが、このままでは予定の時刻に港に着けない恐れが出てきたため、少し船の速度を上げて18ノット以上の速さにした。
そのとたん、この謎の塊は採取が不可能になってしまったが、それでも空をあちこち同じような1メートルほどの塊が漂い続けていた。

この現象に関して、船長だったA・C・ジェームス氏は面白いことを話している。
彼がまだ見習い士官だった1928年、南海諸島を襲った激しい地震の直後、空中を漂う似たような謎の塊が、たくさん降ってきたことがあることを思い出したからだが、その時降ってきたものと今回の塊は、全く違うもののように思える・・・。

船がニュージーランドに着くと、すぐに専門家が乗船してきて船長は意見を聞かれたが、普通こうした正体不明の現象や、解決が付かないような事件では専門家、と言ってもその名前は伏せられる事が多いのだが、この現象ではそのときの専門家の名前と資格が残っている。
とすれば、この現象の解明に自信があったと言うことかも知れないが、彼等はこう見解している。

ドミニオン博物館、生物学者J・C・ヤルドーイン博士、地質学協会の地質学者G・L・シャウ博士は船長から話を聞くと「その塊は海底火山の爆発で発生した一種の軽石のようなものだろう」と話した。

確かにそうかも知れないが、1928年の話はそれでも良いだろう、しかし柔らかそうな乳白色にハチミツが混じった色の軽石、しかもそれは空中を漂っていたのだが、ジェームズ船長はこの2人の専門家の意見に、ただ沈黙していたらしい・・・。



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神の力

このまま降伏と言う事態になれば、政府責任者は戦争犯罪人として死刑になるかもしれない・・・いやその前に国民総玉砕を主張する過激分子たちに暗殺されるかも知れない・・・・だがもう良い、どうなっても構わない・・・。

佐藤尚武駐ソビエト大使は溢れる涙と、胸の奥からこみ上げる熱い塊を感じながら、それでも東郷外相からの電報を押し戻す進言電報を起草した。

ポツダム宣言受諾を巡って日本がソビエトに仲介を頼んだ背景は、余りにも身勝手な理屈だった・・・すなわちポツダム宣言を受諾するにしても、日本国内で降伏と言う現実を納得させる方法がない・・・特に陸軍などは戦争継続を主張していて、このまま降伏したとしても、戦闘を平和的に収束させる力、統制が既に政府、軍部でもなかったのである。

また民主主義のイギリス、アメリカに対して共産主義のソビエトは確かに対立関係にあり、そうした意味でアメリカと戦争をしている日本には協力的なのではないか・・・とする日本の思惑は理解できない訳ではないが、7月24日、ソビエトは駐日大使を既に山形県酒田港から船で帰国させている。

ポツダム会談のさなか、こうしたソビエトの動きは、冷静に見れば既に結果が出ていたことを示しているが、それでも僅かな望みに頼らざるを得なかった日本・・・、決定的な意識の欠如はポツダム宣言の意味を理解していなかったことである。

ポツダム宣言は国際関係における明確な意思の表明であり、これに対する答えはイエスかノーであり、交渉も間接的回答も求めてはいないのであり、そこには日本国内の情勢により、降伏の体制を整えさせてくれれば降伏する・・・と言うお優しい配慮など望むべくも無いことだった。

1日の決断の遅れは後悔や懺悔ですむものではない、日本が滅亡する・・・このことを、この時点で切実に理解できたのは、駐ソビエト大使佐藤尚武をおいて他にはいなかっただろう。

8月2日午後3時、原爆攻撃を実行するテニヤン基地の第20航空隊は、8月6日、日本に「完全なる破壊」・・・すなわち原子爆弾第1号を投下する予定命令を受けていたのだった。

第1目標は広島、もし目視による爆撃が気象条件で困難な場合は小倉、長崎の順に目標を変更・・・となっていたが、このときの日本は例年にない寒気の影響を受けていて、梅雨は終わってようやく夏の暑さが訪れ始めていたとは言え、列島西半分の天気は相変わらず、ぐずついたものとなっていた。

テニヤン駐在の第393飛行大隊は、連日B 29を飛ばし日本上空を偵察していたが、広島方面の空は目視攻撃には適さない日が続いていた。

8月5日の朝、気象データは翌日の広島の空は「晴れ」と言う予報をだした・・・、運命の日がやってきたのである。

直径71センチ、全長3メートル、重さ約4トンのウラン型原子爆弾が組み立てられ、原爆投下機に指定された機体番号「44=86292」のB29に搭載され、整備員たちは大きな爆弾にクレヨンで思い思いのコメントを書いた・・・、「健闘を祈る」、「ヒロヒトに不運が訪れるように・・・」・・・・・などである。

機体整備と原爆搭載準備は8月5日午後11時には終り、従軍牧師の祈りの後、出撃前の食事が続いたが、その献立はオートミール、リンゴ、バター、ソーセージ、生卵、パンにコーヒーだった。

8月6日午前1時37分、気象観測用のB29が3機出発、それぞれ広島、小倉、長崎に飛び、上空の状況を後続の原爆搭載機に知らせてきた。
原爆搭載機の乗員はポール・チベッツ大佐以下11人、大佐は搭載機に「エノラ・ゲイ」の愛称を与えていたが、この名前は彼の母親の名前である。

この他に原爆装置に関する科学者4名、原子爆弾を含めて積載重量は65トンに達していたが、この積載重量は通常より7・2トンも重いもので、そのせいもあって「エノラ・ゲイ」は滑走開始から予想外に浮力がつかず、滑走路の先端付近でやっと離陸する・・・、8月6日午前2時45分のことだった。

エノラ・ゲイは硫黄島上空で夜明けを迎え、午前7時25分、四国の南東付近に到着・・・、その時先行して広島上空を観測していたB29「ストレート・フラッシュ」からモールス符暗号電文を受信した。
Y2、Q2、B2、C1・・・下の層の雲量2、中層の雲量1もしくは3、上層の雲量1もしくは3、第1攻撃目標爆撃可能・・。

「エノラ・ゲイ」は上昇を開始、午前8時38分、高度9970メートルにまで達すると水平飛行に移り、午前9時15分に第1目標の広島に原爆を投下する計画だったが、日本時間では8月6日午前8時15分のことだった・・・。

この日は月曜日、しかもこの時間は出勤時間でもあっただろう・・・、街には仕事に出かける人達が行き来し、家では主婦が洗濯、朝ごはんの後片付けをしていたに違いない、学校では元気な子供たちの声も響いていただろう。

8月6日午前7時9分、広島県北部に突然サイレンがなり響く・・・、大型機3機が豊後水道、九州、国東半島を北上してきたからだが、目標機はすぐに南下し始めたのでこの警報は午前7時31分に解除、3機の内1機は広島上空を横切って姿を消していった。

このB29は先行していた気象観測機だが、勿論そうしたことは日本側には分からない。

当時の広島市の人口は312000人、総戸数76000戸・・・、警報が解除されると広島市の街には会社、工場、学校へ出勤する人、疎開作業隊も作業を始め、編制中の本土決戦部隊に入隊しようとする者などが、いっせいに動き出していた。

「エノラ・ゲイ」は科学データ観測機と写真撮影機を後方に従え、広島市に接近、午前8時15分30秒、ウラン型原子爆弾を投下した。
広島では、原爆搭載機の接近には全く気づかず、上空に爆音が聞こえ、B29の姿が見えたときには全市が廃墟と化していた。

そして広島市民が最後に見たのは激しい閃光で、その後発生してきた強烈な爆風や空気ショック、赤い火焔を見た者は死を免れた者だけだ・・・。

15000戸の家が一瞬にして吹き飛ばされ、街は焼け焦げた死体で覆われ、その殆どが全裸体になっていて、男女の区別さえつかず、僅かに残る靴で軍人か民間人かを判別できただけだった。
激しい爆風に続いて発生した火災は、僅かに生き残った者にまで更に追い討ちをかけ、約57000戸の家を焼いた火焔地獄は死者の数をさらに増やした。

広島市の被害は市内の60%、約44平方キロメートルが廃墟と化し、死者行方不明者20万人、重軽傷者31000人と推定されている。

そしてこうした事態にもかかわらず、日本政府が状況を把握できたのは8月7日、それも原子爆弾に関する声明を出したトルーマン大統領を伝えた、サンフランシスコ放送のニュースで、始めて事態の深刻さを理解したのだった。

戦後アメリカは戦争終結への道は原爆投下以外になかったことを力説、またポツダム宣言に対して日本が取った態度が「無視」だったことをその理由としているが、日本に対する原爆の投下・・・その効果が絶大であることを知ったのは事実だ、そのことは戦後、戦勝国が先を争って核開発を行って来たことでも明白であり、いかなる言葉を持ってしても、その後ろに隠れた思惑を覆い隠すことはできなかった。

確かに核兵器は「神の力」かも知れない・・・・が、それを使ったときはどうなるか、神の如くにまるで虫けらのように人の手足をもぎ取り、ゴミのように焼くことの恐ろしさ、同じ肉体を持ち同じように心を持ったものを、これほどまでに容易く殺戮することの恐ろしさ・・・神が持つ力は絶大なら、その責任もまた無限の責任があることを我々は憶えておくべきだろう。

最後に核兵器が使われてから既に60年以上の歳月が流れた・・・その本当の悲惨さを知るものは年々少なくなってきている。
どうだろうか・・・ゴールデンウイークには安くなった高速道路を使って、広島の原爆資料館を訪れてみては・・・。

日本がどう言うところから今日までを立ち上がってきたのか、また「神の力」が使われた結果がどうなったか・・・子供たちに伝える旅もまた、良いことなのではないだろうか・・・。



月の光は暖かい

今では田植えも5月になったが、その昔・・・と言っても30年か40年ほど前だが、普通田植えは6月だった。
山の中の小さな田んぼまで両親や祖父母達は苗を植え、さすがに家に置いておく訳には行かなかったのか、幼い私たち兄弟も荷物と一緒に一輪車に乗せられて運ばれ、家人たちが田植えをしている間は好きなように山を走り回っていた。

おそらく年齢にして5歳とか4歳だった私は、昼の弁当が待ちきれず、いつも両親に時間を聞いていたが、いつしか太陽の上がり具合で時間が分かるようになり、それからは昼になるまで我慢するようになって行ったが、山には本当にいろんな生き物がいて、キジなども間近に見ることができたし、面白いのは狐だった。

狐はもし自分が追われるとしたら、相手の人間がどのくらいの距離なら追いつけるかで、人間との距離を計っていて、その距離が保たれていれば逃げない・・・、だから相手の人間によって狐に近づける距離は違うのだが、子供の場合はその距離が格段に近くて、ほんの数メートルまで大丈夫なのだ。

またこうした自然の生き物は、大体いつも同じ時間に同じ場所を通るから、毎日顔を合わせていると、たまに遅れて出てきたときなどは「今日はどうしたんだろう・・・」と少し心配になったりするものだが、この狐昼間は鳴かないが、夜になるとクヮン、クヮンとか、まるで女の悲鳴のようにギャーとか鳴くので、子供にとっては少し恐い生き物でもあった。

そしてこの頃の田植えが今より遅かった理由の一つは、苗を「せっちゅう苗代」と言って、水田に水を張り、そこで土の代を作って種から苗を育てていたからだが、もう一つは今のようにトラクターのような農業機械が無かったからで、例えあったとしても山の中の田んぼでは使うことができなかったからだ。

またこうした田舎ではそもそも炭焼きと農業、林業しか仕事が無く、女たちは秋になると富山平野や加賀の大規模な農家へ出稼ぎに行って現金収入を得ていたことから、こうした時期に稲刈りが重ならないよう、田舎の米は10月10日頃からしか実らない「晩生」(おくて)が栽培されていた。

この晩生の代表的な米が「ササニシキ」だが、このササニシキと早稲(わせ)と言って早く実る米を交配してできてきたのが「コシヒカリ」で、現在ササニシキは宮城県や北関東の1部でしか栽培されていない。
一般に早稲品種は晩生と呼ばれる品種より味は悪いとされるが、寿司飯などは早稲品種が向いていると言う話もある。

そしてこうした時代、大規模な農家は大体早稲品種を作っていて、家でも母や祖母は8月の終わりごろになると、出稼ぎに行き、家は男だけになるのだが、炭焼きをしていた父がいないときは、祖父と私たち幼い兄弟だけで暮らさねばならないことがあった。

約1ヶ月くらいだろうか・・・毎年のことなので慣れてくるのだが、それでも子供心には本当に帰って来るのかが不安なものだった。
9月も終わり頃・・・祖母と母は両手に抱え切れなくて、背中にまで背負って梨やブドウ、珍しいお菓子や饅頭、私たちが喜びそうなオモチャなどを手に帰ってくるのだが、私たちには盆や正月と同じようにこうした時期が一番嬉しい時期でもあった。

そしてこれから自分の家の稲刈りが始まるのだが、ああした時代のことだ・・・コンバインなど無く、せいぜいがバインダーと言って、刈り取って縛っていくだけの機械で刈り取り、それを集めて「はざ」と言う長い横木が8段ほど等間隔に並んでいて、それをまた木の長い丸太で固定した乾燥用の、平面やぐら状のものに掛けていくのだが、このように忙しい時期は子供といえども容赦なく使われるのが普通で、特に「はざ」に稲を掛けるのは身軽な子供のほうが向いていて、下で両親や祖母が放り投げた稲の束を「はざ」に足を引っ掛けて両手で受け取り、綺麗に並べていくのは私の仕事だった。

朝早くから稲刈りは始まり、夕方それが集められ、それを「はざ」掛けするのだが、大体終わるのは夜の9時・・・遅ければ11時くらいまでかかってこの作業は行われ、やがて小学校へ通い出した私は学校から帰ると毎日この作業が待っていた。
夕方「はざ」のてっぺんにいると地上から4メートルくらいだろうか・・・両足をうまく横木にはさんで稲を受け取っていると、赤とんぼがまるで目の前を泳ぐように飛んでいて、飼い猫がみんながいると嬉しいのか、用も無いのによじ登ってきて稲穂でじゃれて遊び、その頭を撫でながら作業に精を出す・・・、10月のことだからやがてとっぷり日が暮れると丸い大きな月が出てくる。

おかしなもので月の光は暖かい・・・それまで少し寒かったのが、僅かだが背中に温度を感じ、暗くて殆ど勘で続けられていた作業が少しだけ楽になるのだった。
私は農作業が大嫌いだったが、こうした時間だけは何となく、幸せと呼べるものを感じていたような気がする。

この稲の乾燥が終わるのは10月の末から11月の始め頃、天気が悪ければ12月、雪が降る中で稲を取り込んだときもあったが、取り込まれた乾燥後の稲は脱穀機にかけられ、 籾(もみ)になり、この籾の殻を取ってやっと玄米になり、玄米を精米して始めて米になるのだった。

そして脱穀後の藁(わら)はこれも大事な収入源で、17縛りを一束(いっそく)と言って、これを畳業者さんが一束40円ほどで、大きな幌のトラックで買取に来るのだが、この頃のアンパン1個の値段は15円ぐらいか・・・・、今のお金にしてみれば、家は藁だけでも40万円近くの金額と同等な収益を上げていたのだろうと思う。

ここまで苦労して作った米、さぞかし今から思えば儲かったように思うのだが、その割には「秋のお祝い」と言う収穫祭があっただけで、全ての農作業が終わっても、せいぜいが「おはぎ」を作るくらいで、今度は炭焼きと言う具合に、家の家族は働きっ放しだったし、子供たちにも特に何もおこぼれがなかった。

私は、休んでいると何となく罪悪感を感じるのは、こうした貧しい水飲み百姓の生まれだったからかもしれない・・・。

真っ赤なポルシェ

雨の名神高速・・・1年前に買ったホンダのプレリュードSiは、まるで地面に張り付くように正確にコーナーをクリアしていく・・・サイドミラーには雨水が複雑な放物線の束になって、斜め後ろに流れていくのが映し出され、前方に見える車を追い越すために方向指示ライトを右に上げ、そのまま暫く走行車線を走り、、やがて追い越し車線へ入ると同時に指示ライトを戻す・・・。

アクセルを踏み込むと予想通りの加速で車は速度を速め、オプションでつけたサンルーフはガラスルーフ状態で、上から道路を照らしている外灯がそこを瞬間の光となって過ぎ去っていく。
「トゥ、トゥ、トゥモア、シェリー・・・ワァ、キャザデェトヮ・・・」車内にはこの時代でもすでに懐かしいと言う区分がされるだろう「ミッシェル・ポロナレフ」の「シェリーにくちづけ」フランス語バージョンが流れ、激しい雨と夜の闇を切り裂くように私と車は疾走していた。   

仕事で独立して間もない頃、営業で岡山のあるデパートを訪れていた私は、そうこうした経験は1日に大勢の人と出会う仕事の人なら憶えがあると思うが、出会う人、見る人全てが、どこかで以前に会ったことがあるように思えてしまう感覚に、戸惑うようになっていたが、出張2日目くらいだろうか、空いた時間にデパート内の本屋へ足しげく通っていた私は、そこでたった2日の間に5回くらいは出会ったと思うが、一人の女の子に出会う。

そして不思議だが毎回彼女は人を穴が空くほど、ジーっと見ていて、しまいには私もどこかで会ったことがあるのかもしれない、と思って声をかけてみた・・・「済みませんが、どこかでお会いしたことがありましたか・・・」昔から伝わるナンパの常套手段ではあるが、こうした言葉しかかけられないのもまた現実で、どうせ「いいえ」で終わるだろうと思っていたが、その返事は意外なものだった。

「それが・・わからないんです、どこかで会ったことがあるような・・・」
全く不思議な女の子だったが、瞬きもせずに大きな目でじっと人を見ていたことを考えると、あながち逆ナンパとも思えず、ちょうど遅くなった昼食を取ろうと思っていた私は彼女を誘ったが、彼女がオーダーしたのは野菜サンドで、その食べ方は本当に慣れていなかったらしく、バラバラとこぼしてばっかりだった。
サンドイッチは横に食べるとこぼれ易いんだよ、縦にして食べるとこぼれにくいから・・・」余りのうろたえぶりに私は思わず助け舟を出したが、こうして私たちは付き合い始め、やがて双方の両親も公認の付き合いになった。

そしてこのときから夜の高速道路は私の庭になって行った・・・、彼女は養護学校の教員になったばかり、私も仕事は忙しく、それからは1,2ヶ月に1度600キロは離れた距離を私は車で会いにいったが、こんな事情から高速道路を快適に走ろうと、それまで乗っていたセダンをスポーツカーに変えようと思い、当初候補に登っていたのがポルシェ・・・赤い色で中古だったが、それでも国産の新車スポーツカー並みの値段で、ちょうど滋賀県の友人がこれに乗っていたので1度試乗してみたのだが、やはりポルシェは凄かった・・・50キロで走っていても5段変速のギヤが1段しか入らない、つまりセコンドに変えられず、これだと通常の一般道路ではオーバーヒートしてしまう可能性があったのだ。

憧れだったが、これでは実用性がないと思い、ホンダの新型でリトラグ・ダブルのライト(ライトが普段はしまわれていて、車内操作で目が開いたように起きて前を照らす形式のライト・・・当時のポルシェもこれだった)採用のプレリュードに決め、ポルシェを買わなかった分予算も余ったので最上級のグレードにして、サンルーフ仕様にしたのだが、当時高速道路で凄いスピードで走る車として、ベンツ、ポルシェ、BMW,そしてマツダのツインローターRX7、ホンダのプレリュードと言われただけあって、プレリュードの走りは実に滑らかだった。

私たちはこの車でいろんなところへドライブに行ったし、遊びにも行った・・・本当に真面目な暮らししかしていなかった彼女が私には新鮮に見えた・・・その心の美しさも好きだった・・・、やがて1年も経過すると、彼女は出会ったときとは比べ物にならないほど、綺麗になっていった。

だが、やはり距離は厳しいものがあり、お互い始めは遠慮してこうした現実を避けていても、次第に「かたち」が欲しくなり、それが時々言葉として現れるようになっていき、やがて結婚と言う決断にまで自分自身を追い詰めた彼女は、今の現実に耐えられなくなって別れることを決断した。

大体私はフラれることが多かったが、その最後に必ず言われることがある「もう少し優しかったら・・」・・・だが仕方ない、私は彼女を家まで送り、彼女の両親に「こう言う結果しか出せず申し訳ない」と詫び、彼女には「元気で・・・」とだけ言って車に乗り込んだ。
5月・・・この頃は比較的良い天気が多いのだが、この日は日本の半分が雨だった。

「ミッシェル・ポロナレフ」を「クイーン」の「ウイアー・ザ・チャンピョン」に切り替えた私は、さらにアクセルを踏み込み、トンネルを凄いスピードで駆け抜けたが、こうしたスピードは2人で乗っているときには出せないもので、私はなぜかこの時ヤケになっていたのではなく、反対に妙な開放感を味わっていて、少しだけホッとしていた。
とりもなおさず、これは私が卑怯だった証しでもあった・・・。

それから半年くらいまで・・・彼女からは時々電話があり、別れてから男気がなく次の出会いもない・・・と言う電話があったりしていたが、私は自分の美学としてこうした元カノとの再燃はみっともないと思っていたし、そんな感じが伝わってしまったのか、やがて電話はかかって来なくなった。

そしてその数年後・・・私は妻と結婚、仕事が以前にも増して忙しくなり、プレリュードも余り活躍しなくなっていたが、免許取立ての妻がこの車を使っていて、妊婦検診に行った帰り、病院の側壁にぶつけてしまった。
幸い怪我はなく、お腹の子供も無事だったが、これを機会にもうスポーツカーは無理だな・・・と思い、コンパクトなセダンに切り替えた・・・、プレリュードは修理してまた中古車で販売されることになったが、車を引き取りに業者が訪れたとき、自分の青春がこれで終わったような気がして、ともに若さを走り抜けていった車の後姿を見送りながら、少し目が潤んでしまったことを憶えている。

もしこれから先、生きながらえて全ての責任を果たしたら、今度は真っ赤なポルシェを是非買いたい・・・そして面倒くさがらずに、若い女性でも(でも・・・とは何だと怒られるか・・・)助手席に乗せて、疾走ではなく、ゆっくり車を走らせて見たいものだと思う。

世論調査と言うもの

最近の選挙におけるテレビの開票速報では、出口調査による当確報道の競争が熾烈になっているが、これは投票日当日、投票所の出口で実際に投票を済ませてきた有権者にどの候補者を投票したか、どの政党に投票したかを聞き取る調査方法で、対象となる投票所を適切に選定すればかなり高い精度で候補者の当落が予想できる・・・としているが、この場合は全ての人が回答してくれる訳ではなく、現在でも科学的に理論として確定していない調査方法である・・・。

つまり、外れても責任は持ちませんよ・・・と言うことであり、その表現が「当社が行った出口調査では・・・」となっていることから、一応公的な「お墨付き」のある調査では無い、としているのだが、視聴者がこうした報道から受ける印象では、テレビに当確が出れば「当選した」と錯誤するのは、避けられないことである。

例えばここに1993年7月の衆議院総選挙のデータがあるが、投票日の18日のテレビ各局は当確早打ち競争を競いあい、そのため当確の打ち間違えも相次いぎ、NHK2件、TBS2件、日本テレビ4件、フジテレビ3件、テレビ朝日6件、テレビ東京2件・・・と、東京のキー局は軒並み当確発表のミスを発生させていた。

また週刊誌、新聞、最近ではインターネットでもそうだが、選挙が近づくとその予想調査を実施して、当落予想を報道するのが恒例となっているが、この調査方法の根底は不明瞭なうえ、特に新聞、テレビの予想などは調査方法さえ明確になっていないにも拘らず、報道により「勝ち馬に乗ろう」とする有権者意識がはたらき、これが投票日当日の有権者の投票行動に対して影響しているのではないか・・・とする意見もあり、こうした現象を「アナウンス効果」とも言う。

確かにこうして当落情報に近い情報がマスメディアによって報道されると、有権者の意識の中に予断、つまり決定事項ではないが、そのように錯誤してしまう現象が起こる可能性は否定できず、自民党はかねてより選挙予測報道に対して規制を加えようとして、野党の反対にあって実現しない状況だ。

だが候補者がマーケティング・リサーチ方式で選挙区の人々の関心やその方向性、相手候補の支持基盤などを調べることは、いまや当然と言えば当然のことであり、各種調査方法を駆使しての選挙は、候補者を始め、これらの候補者の運動を報道するマスメディアにも広がっている。

またテレビの「世論調査」だが・・、事件発生とともに世論の動向を迅速に調査し、発表することを狙いとしていて、電話調査で行われるのが一般的だが、1992年に発生した東京佐川急便問題の頃から頻繁に行われるようになり、テレビの情報番組や報道番組などで活用されている・・・が、調査対象者が1000人からせいぜいが3000人、その内平均の回答率は60%台から80%台・・・時には600人の意見が国民全体の意見として発表されている場合もあるので、見る側はこうしたからくりがあることを認識しながら、その信憑性を判断する必要があるだろう。

更にこれはインターネットもそうだが、近代の情報はそのスピードに重点が置かれていて、「質」はおざなりの状態になっている。

このことは非常に危険なことなのだが、例えば間違って誰か特定の人が何らかの事件の容疑者にされてしまった場合、よしんば翌日に無実が判明したとしても、既に何らかの被害が発生してまうことであり、こうした事態では選挙においても実際には有力な候補を、投票日前日、間違って不利だと報道した場合、その候補者は報道によって本来当選すべきところを落選する可能性もあり得るのである。

近年報道関係・・・特に新聞、テレビなどのマスメディアはそのスポンサー契約をインターネット業界に奪われつつあり、経営が苦しくなってきていて、地方であれば行政と共同事業を起こしていたり、行政を利用した形での事業収入に依存している傾向があり、こうした関係から特定の候補者が恣意的に貶められたり、反対に本来不利な候補者が、有利と報道される可能性が否定できない状態となっている。

また一部地方新聞の中には、映画などの製作企画を行政に持ち込み、「地域おこし」として映画を製作・・・そのチケットを行政が売っていたり、商工会議所が協賛して懐の苦しい中小企業に10枚単位でチケットを買い取らせたり、と言うことが行われているとも聞く。

こうした傾向はおそらく中央紙でも同じことが起こってくるだろうが、それより深刻なのは現場記者の不足であり、経営の苦しさから現場を取材する記者の数は年々減らされていて、そのため現地の本当の声は届かず、上辺だけの軽率な状況が報道され、真実が報道されなくなることである。

このことが地方における政治的腐敗を容認し、地方経済が堕落していく要因の1つになり、また報道機関が報道の自由を、弱く攻撃し易い者に向け巨悪に目を瞑るなら、国民はそれによって希望を失うだろう。

今年は確実に衆議院の総選挙が実施される・・・私たちは労を惜しんではならない、自分から足を運んででも候補者の話を聞こう、そして自分の目で耳で確かめよう・・・今後の未来を託す男、女を決めるのに家で寝転んでテレビ、インターネットでは、その未来も程度が知れている。

メディアの問題は根深い・・・でも自分の未来をそうと知っててメディアに依存し、それで選択の謝りがあった・・・メディアのせいだと言うのは無責任だ・・・・自分の未来は自分が決める・・・これが民主主義であり、その責任でもあるのだ・・・。

わたし、嬉しい

人間には生まれながらに強弱がついていて、これは決して生命力のことではなくて、腕力のことでもないが、その関係に措いて2人きりになった時、どちらか片方が必ず主導権を握り、そうかと思えば3人になったときは、2人では主導権を握れなかった者が主導的になったりする・・・そう男女、年齢に関係の無い「人間力」のような差がある。

私はどうもこの「人間力」が弱いのか、友人と同じように街を歩いていても、キャッチセールスに声をかけられるのは必ず自分だったし、宗教の勧誘でもそうだった・・・、また電話の保険セールス、新聞勧誘などがなかなか断れない、セールストークだと分かっていても、言葉でがんじがらめにされて、結局読みもしない新聞を3社も購読していたり、宗教勧誘の人の話を長々と聞いていたりするものだから、家族からは「勧誘が来たら出てはいけない」とまで言われているが、確かに妻や母などが一言でビシッと断っているのを見ると、凄いな・・・と思ってしまうのである。

かなり以前のことになるが、妻の母親が老人性のうつ病になってしまったことがあって、遠く離れた大学病院へ診察を受けに行ったときのことだ・・・、こうした病院へは余り来たことが無い私は、妻と妻の母と一緒にその精神科のフロアで診察の順番を待っていたが、こうした診察科目だから、どことなくみんな元気がないか、反対になぜか用事もないのにうろうろしている初老の男性とかがいて、やはり普通の感じではなかった。

歴史がある古い大学病院と言うものは何となく作りが学校に似ていて、診察室やレントゲン室が横にずーっと並んでいて、その前に広い廊下があり、そこに硬いベンチが並んでいるのだが、その待合所のベンチに3人で座っていたら、突然遠くから何やら賑やかな声が聞こえてきた。

「わたし、嬉しい・・・」「わたし、嬉しい・・・」と言う言葉だけを繰り返しながら、両親らしい50代の夫婦に付き添われ、走るように廊下兼待合所を歩いてきたのは、多分20代前半ぐらいの女性だったが、誰が見ても一目で精神障害であることが分かった・・・白いワンピースを着ているのだが、裾をめくって足を手で掻いてみたり、両親が何度もスリッパを履かそうとしてもすぐ脱いでしまったりで、「わたし、嬉しい」しか言わない、顔は笑ったようににこやかなまま、目は完全に焦点が合っていなかった。

恐らくこの女性は病院へは何度も訪れているのだろう、近くにいた女性看護士さんは「○○ちゃん、元気だっだ・・・」と声をかけたが、その返事も「わたし、嬉しい・・」だった・・・が、それよりもっとびっくりしたのは、その女性が次の瞬間看護士さんの腰を抱いて、お尻を撫で回し始めたことだった。

いくら女性同士とは言え、この光景にはこの場にいた17、8人の人、その内半分ぐらいは付き添いの親族だったろうが、思わずギョっとなったに違いない、わたしも思わず目を伏せたが、「あら・・○○ちゃん、えっち・・」とくだんの看護士は笑っているのである。

そしてカルテらしきものを持って診察室へ入ろうと、「暫く待っててね」と女性に言うと立ち去ったが、女性は今度は廊下を行ったり来たりし始め、父親らしき人や母親らしき人が座っている所から、わたしたちが座っているところを、何度も何度もスキップを踏みながら往復し始めたのである。

何となく、そうなるんじゃないか・・・って気がしてた・・・。

そうこの場面では、みんながこの女性を恐れていたし、みんな自分のところへは来ないでくれと思っていた、私もそう思っていたし、だから女性が自分の前に来るたびに下を向いて、目を合わさないようにしていたのだが、看護士さんのあの対応を見れば明らかで、彼女がさっきみたいなことをするのは、そう珍しい事ではないのだ。

やがてその女性は私の前でスキップを止めた・・・そして下を向いているわたしに近づいてくるのが分かった・・・そして次の瞬間、ひざまずいたかと思うと、下から私に勢いよく抱きついた。

彼女はわたしの頬に頬を摺り寄せるようにして「わたし・嬉しい・・・わたし・嬉しい・・・」といい続け、対応に困った私は周囲を見回したが、みんな見て見ぬふり・・・「あーあやっぱりな・・」と言う感じで、隣にいた妻でさえ下を向いて顔を上げようとはしなかった。

少し離れたところにいる看護士さんに視線で助けを求めたが、その看護士さんの目は「暫く我慢してね・・・」と言っていた。

万策尽きた・・・、わたしは覚悟を決めて女性の肩に手をかけたが、わたしが引き離そうとすると思ったのか、女性は更に私にしがみついてきた・・・ああ・・この感触には記憶がある・・・そうだ淋しさと不安だ・・・。

人間は淋しさと不安がつのると、人にこう言うしがみつき方をする・・・、「わたし、嬉しい・・・」としか言わないが、この女性は不安なんだと気づいた私は、体の力を抜いて彼女の思うとおりにさせることにしたが、彼女は更に強くしがみついてきた。

時間にしてどのくらいだろう・・・恐らく1分も経過していまい、だが私には10分以上にも感じたが、そのうちさっき診察室に入って行った看護士さんが、診察室から出てきた・・・「あーら、○○ちゃん、良かったね・・・」と言って私に近づくと、女性の脇を抱えて私から離すと、手を繋いで今度は一緒に診察室へと入っていった。

その後から彼女の両親が、私の前を通って診察室へ入っていったが、その通りがけ、2人は私に「すみません、ありがとうございました」と頭を下げていった。
両親が気の毒だった・・・恐らくこの両親が死んでしまえば、彼女は1人で生きなければならないだろう、それを思うと私は胸が締め付けられる思いがした。

生物は進化のメカニズムとして、必ずその種族に3% 程の奇形を起こさせる。

その奇形の程度は軽いものもあるが重いものもある・・・、そしてこうした奇形は自然現象だろうが、人為的だろうが、あらゆる手段で同じ比率を持っていて、非常に不安定な存在で、生命力も弱い場合があるが、実はこの奇形の不安定さが自然環境が変わっていくとき、柔軟に対応し、次の次くらいの世代で完璧に変化した環境に順応した生命体となっていくのであり、地上の全ての生物は、こうして自身のうちから不安定なものを敢えて作り出し、それが次の進化の原動力になっている。

だから奇形がなければ生物の進化もないのだが、この奇形はあらゆる形で出てくるため、全てが可能性であり、こうした意味では遺伝だろうが、突然だろうが、障害を持つ人は未来の希望のために生まれた人達でもある。

だから、私たちは彼等に感謝しなければならないのだが、現代社会は表面上の優しさや美しさがあっても、それが現実になると目をそむけ、見ないようにしてしまう。

この大学病院で出会った女性が私に示していたものは性的な衝動だっただろう・・・だが彼女はそれをどうして良いのかが分からなかったし・・・これから先も彼女にその機会があるのかは疑問で、こうしたことは男性の障害者でも同じだろう。

障害者施設で働く職員は、恐らく日々こうした先の見えない問題に直面しながら、働いているはずである・・・が、こうした問題の解決策は無い・・・障害を持つ人にとっては、生き物の基本的な欲望を切り捨てられた状態での生活が余儀なくされている。 私たちは、このことを理解しておかねばならないだろう。

妻の母の診察も終わり、帰途に着いたとき、車の中で妻から、「若い女性によく、おモテになりますのね・・・」といやみを言われた私は、「あららら・・、下を向いて知らん顔してたのは誰だっけ・・」と返し、妻の母はそれを聞いていて笑った・・・妻の母の暫くぶりの笑い声だった・・・。




過去から来た女

岐阜と愛知県境付近の山林・・・木材伐採に訪れた業者が、少しくぼんだ地形のところで見つけたものは、何と白骨死体だった・・・・、直ちに地元警察は鑑識係を動員、その結果被害者は女性、推定年齢20歳前後、そして少なくとも死後5年は経過していると鑑定された。

自殺か他殺は判定できなかったが、警察は一応他殺の線で捜査を開始した。
まず身元の確認だが、過去5年間に渡って捜索願の出ている20歳前後の女性を重点的に調査したが、聞き込みも含めて有力な情報はなく、書類からも身元が特定されるような資料が見つからなかった。

そして捜査は被害者の歯型から歯科医院での治療歴が無いか・・・と言うことになったのだが、ここで捜査員たちは奇妙な事実に直面する・・・、愛知県内A 町の歯科医院のカルテから、発見された白骨死体の歯型と一致する歯型を見つけたまでは良かったのだが、念のため歯科医院に白骨死体の歯型を見せると「間違いない、私が歯を入れた・・・」と証言、さあ・・・これで犯人に繋がる手がかりが探せるぞ・・・と思った次の瞬間、その歯科医院がとんでもないことを言うのである。

「この患者、平井昌江さん(仮名)は、そう言えば10日ほど前に最後の治療に来ました・・・」歯科医院はポツリとそう言うのだった。
10日前に元気だった女性が、5年前に死亡して白骨になっている被害者と一致するはずが無い・・・、だがおかしなことはこれだけではなかった。

平井さんの身元を洗い、彼女の生前の写真を発見し、白骨死体と照合してみると骨格は見事に一致、また更に彼女はどうも夜の仕事をしていたようだと言う証言から、他の警察署にも確認したところ、「あの女なら白骨死体が発見される2日前、売春容疑で取り調べた・・・」と言うK署の捜査員の報告まで出てきたのだ。

とすると・・・2日間で彼女は白骨になったとしか考えられなくなってくるが、勿論死体は焼けて白骨になったのではなかったし、何かの薬品で溶かされたわけでもない、間違いなく5年間の風化を得ていたのだった。

「そんなバカな・・・この死体は絶対死後5年経っている」警察は死体を何度も精密検査するが、死後5年と言う事実は覆らない、「みんなが会ったとか、K署で調べた女と言うのは彼女の双子か何かで、彼女は5年前に死んでいたんだ」・・・理不尽な現実に、こうした推察を加える捜査員も出て来た・・・が彼女には双子はおろか、姉妹はいなかったことが判明した。

またこうなると、歯科医院のカルテはどうなんだ・・・と言う話も出てきたが、ついには犯人は歯科医で、カルテは捜査を混乱させる為のトリックでは・・・と言う話まで出てきて、捜査は完全に行き詰まり状態になった。

勿論歯科医がカルテを偽造しようがしまいが、K署の捜査員までが2日前に会って話をしている訳だから、歯科医がカルテなど偽造しても意味が無いことが分かるし、そもそも平井さんが自殺だったのか他殺なのかも分からず、こうなると捜査は完全に混乱していったのだが、その後もこの事件の捜査は続けられるも、結局永遠の謎として殺人事件の時効をむかえ、当時捜査に加わった捜査員も「さすがにこの事件だけは、どう言って良いものか・・・」と口を濁して終わることになってしまった。

昭和40年代中頃、実際にあったこの事件。
死後5年の白骨死体が10日前に歯の治療に歯医者を訪れ、2日前にK署捜査員が取り調べ、歯形は本人に一致・・・これをどう説明したらいいだろうか。

彼女は確かに死体になってしまったが、5年前から時間を越えて旅する女になった・・・と言うことだろうか・・・



大日本帝国憲法

1889年明治22年、2月11日に発布された大日本帝国憲法が効力を有した期間は、1947年昭和22年、5月3日までの58年間である。
この半世紀に日本は国際社会への台頭と敗戦と言う、1つの大きな生き物が生まれて死んでいくような歴史を辿った。

この大きな生き物こそが大日本帝国憲法とも言え、昭和天皇裕仁の治世はあたかも終焉に苦しみもだえる、この大きな生き物の末期の姿に重なるのである。

大日本帝国憲法は3人の天皇を迎えたが、明治天皇は封建社会の宮廷に生まれ、若年で天皇となったため、明治時代の日本が近代化への道を歩みながらもなお旧時代の名残りをとどめていたのと同じように、明治天皇の周囲も依然として旧時代的な要素が多く残っていた。

大正天皇はきわめて英邁な人であったが、不幸にも病弱であり、その天皇在位期間も短かったが、裕仁昭和天皇は大日本帝国が確固とした時代に生まれ、先の2人の天皇に比べて十分な学校教育、また家庭教師による近代的な教育を受けた。

王または皇帝がその位に相応しい徳を身につけるのは、1つはその置かれた環境と立場、そしてもう1つは側近の進言によって自分で会得するものなのだが、裕仁天皇は、帝王学と言う君主の為の特別な教育を受けた最初の天皇だった。

それゆえに裕仁天皇に関して伝えられる話は、天皇が篤実で、自制心に富む性格だったと言うエピソードが多く、こうした性格と周囲の教育により、天皇は国際社会と平和に対する鋭敏な感覚を持ち、生物学の研究から合理的科学を学び、しかも克己と無私の処世に徹する君主として成長した。

大日本帝国は裕仁天皇をして、近代国家にふさわしい近代的天皇を迎えたのである。
だが、こうした天皇を迎えた大日本帝国は、およそ天皇がその才気を発揮するには程遠い環境だった。
その原因が「大日本帝国憲法」に内包されている・・・、大日本帝国憲法は天皇の親政を強調してはいるが、実際は天皇を政治的に責任の無い立場に置き、天皇の権限は輔弼者の決議によって行使される方式になっている。

これは大日本帝国憲法の利点でもあり、欠点でもあったのだが、天皇を被害が及ばない地位に置くという点では良くても、天皇の名前を使って輔弼者が権限を行使できるという体制は、権力者、輔弼者である臣下もまた、最終責任を負わなくても良い立場にあると言うことだ。

これは明確に欠陥と言われるべきものだが、昭和前半の大日本帝国の歩みは、まさにこの大日本帝国憲法の欠陥が利用される形で進んでいった。
裕仁天皇が即位してからの政界、財界、軍部の動きを辿れば、一方で天皇を神格化しながら、現実には天皇を小バカにしていたような印象が拭い去れない。

こうした意味では大日本帝国憲法下の天皇も日本国憲法下の天皇もあまり変わらない立場だったように思えるが、国民の胸中には天皇の真面目で律儀な姿がその目に焼きついていた。
「天ちゃん・・・・」とは戦時中にも影で言われていた天皇の俗称だが、この呼び方には天皇を軽視すると言うよりは、欲が無く、率直な天皇の人柄に対する国民の信頼感が伺われるように思う。

敗戦により大日本帝国が崩壊していくとき、しきりに叫ばれるのが「国体の護持」だが、この解釈についてはいろんな定義があるだろう・・・しかし乱暴な言い方で申し訳ないが、結局「国体の護持」は「天皇の護持」だったとここでは言わせて貰う。

個人でも国家でもその体制を維持する為には規律の根本となるものが求められる・・・・、国家の場合はそれが政治的イデオロギーであったり、宗教であったりするのだが、日本では個人主義に基づく民主主義の発展は遅れ、大日本帝国時代ではそれに逆行するような形だった。

宗教も国民全体が対象になるものはなく、国教とされた神道でさえ実際には宗教と言うより、一つの精神論だったとしか言えないもので、仏教、キリスト教もそれぞれに分立した形でしか存在しなかった。

唯一継続して安定した存在が「天皇」だけなのである。
だから国民の合意、誰もが何とか納得できる方法を求めるには、政治体制、宗教でもそれを満たすには至らない・・・結局は全て天皇に帰結する以外ない。

調子の良いときは利用し、まずいことが起こるとすがりつく・・・大日本帝国時代に裕仁天皇に示したそうした政治の姿勢は、そっくりそのまま大日本帝国憲法の持つ運命的自滅プログラムによるもの・・・とも言えるのである。

だが、この構図は現代でも変わっていないようにように思う。
おそらく今でも政府が瓦解したとき、国民はやはり天皇を頼るに違いない、またこの国家が未曾有の危機に直面したとき、日本国民は暗黙のうちに天皇と言うものを頼って、その統一性を維持しようとするに違いない。天皇とはそう言う立場なのである。

大日本帝国憲法は権力とその責任の間に隙間があった・・・だからみんな散々好きなことをやって、誰も責任を取ろうとせずに最後の責任を天皇に押し付けたし、天皇はその立場にあったが、こうした構造は今の日本国憲法にも同じものがある。

平和憲法をうたいながら、その実それを担保しているものが無い・・・今迄は何とかごまかしながらアメリカがその役割を果たしてきたが、こうした状態を長く続けていると、またいつか何か大変なことが起こりそうな気がするのである。

いきなり決着をはからなくても、現内閣の前大臣までが、「核武装」を言葉にし始めるに至っては、平和憲法をどう維持するか・・・つまり武力にするのか、外交努力を充実させるのか、それとも理想や誇りだけ高くなって、何の手も打っていない現状を継続するのか・・・そろそろ議論し始めるときが来ている・・・と思う。



我、徳を以て世に太平を開かん。

地平線に近づくにつれ薄い水色となった晴天、ただ一人小高い丘の上に立つ青年の姿があった・・・、見渡す限りの田畑は荒れ果て、呼吸が聞こえぬ遠くの村からは、朝げの頃を過ぎても煙一本立ち上がらず、ただカラスの鳴き叫ぶ音が響き渡っていた。

「ああ・・何と言うことだ」青年はつぶやき、僅かに下に視線を移す・・・、そこには踏まれて葉が片方ちぎれた、名もなき草が、小さな・・・本当に小さな白い花を付け、それが強い風に腰を折ったように虐げられながら、風の合間を縫ってその身を起こしていた。

何故だ・・・どうしてこうも人は争わねばならない・・・その先に何がある。
一人一人が平和で豊かに暮らしたいと思うのはことの理だ、しかしそうした己が意思のために、他というものに警戒を抱く、まだ来ることすらない変化を今から恐れ、それに備えようとする・・・その結果が疑いとなり、争いの雲を呼ぶ。
力によって人を支配する者は必ずより大きな力によって支配を受ける、また力は永遠のものではなく、老いた者は衰え、若き者がやがてそれを乗り越えていく。

力によって服従させられた者は恨みを持って言葉に従い、身近な者を殺された者はやがてその矛先を返す、その連続する恨みの渦はいつ途絶えるとも知れず、この世に禍をもたらし、民は疲弊し、こうして人の世を暗いものにする。
「力ではこの世に太平などもたらすことはできない・・・・、我、徳を以てこの世に太平を開かんとす・・・」
青年は強い風に向かい、一歩足を踏み出しどこまでも青く広がる「天」を仰いだ。

この男、その名前を「丘」あざなは「仲尼」(ちゅうじ)と言い、今から2500年ほど前の中国で「仁」を説き、それを形態として現す「礼」をして国を治めることを世に問うた者であり、孔子その人である。

孔子が現れた時代は「夏」「殷」「周」と続く王朝の最後「周」がその力を失い、やがて来る戦国時代の幕開けの時期で、こうした周王朝の没落から次の「秦」に至るまでの混乱期にあたり、約500年の前半を春秋時代、その後半を戦国時代としているが、国が荒廃し、あちこちで下が上を殺してのし上がっていく、下克上が始まりかけていた紀元前551年(推定)に、孔子は生まれたとされている。
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春秋戦国時代には、力を失って支配力が弱まった周に変わって、周王朝時代の諸侯がそれぞれに国を作り、争っていたが、その各国は富国強兵を競って才能ある者を登用しようとし、また古い身分制度も崩れ、庶民階級にも立身出世の機会が与えられた。

こうした背景から、人々は学問に励み、さまざまな思想家や策士達が現れ、互いに論戦し、自身の意見を採用してくれる君主を求めて各地を遊説したが、彼らを保護し育成する君主も現れ、この相乗効果で「諸子百家」と呼ばれる思想家群が現れ、中国思想の黄金期となっていったのである。

諸子百家の内、もっとも早く現れたのが孔子の始めた「儒家」と呼ばれるもので、その教義を「儒教」と言ったが、春秋時代末期に現れた孔子は、親に対する「孝」と兄に対する「悌」と言う家族単位の道徳から始めて「仁」(人、倫理としての愛)と「礼」(人の守るべき秩序)に基づいてその身を修め、家をととのえることによって国を治め、しいては天下の平和を実現できると主張した。

これは明らかに政治と倫理とを相関させた説であり、彼は始め魯(ろ)に仕えて政治を改革しようとしたが失敗し、諸国を巡り持論を説いたが、結局用いられることなく魯に帰り、「詩経」「書経」「春秋」などの古典の整理と弟子の教育に専念したが、孔子の言動を弟子たちが集めたものが「論語」である。

またこうした孔子の思想は、実は孔子のオリジナルと言う訳ではなく、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで続いた「周」王朝の政治姿勢からも同じ思想が見られ、孔子は周王朝時代の「礼政一致」を基に、周王朝時代の思想的復活を目指したと言うのが、初期の姿勢だったのではないだろうか。

ではその周王朝時代の思想とはどのようなものだったかと言うと、歴史上最も古い「封建制度」を引いていたとする「周」はしかし、現実には主に同族の者を諸侯として地方要所に配置し、支配させていたもので、これは血縁による団結力であって、周王朝と諸侯の関係は君臣関係と言うよりは本家、分家の関係に基づくものだった。

したがって中世ヨーロッパや日本における封建制度とは明確に異なるもので、ヨーロッパにおけるフューダリズムは血縁ではなく土地をめぐる契約であり、この場合は君主と個人との契約を指し、こうした形態は日本でも同じだが、農耕経済的には封建制度に見えても、政治的には周の政治形態は封建制度とは区別されるべきものだ。

こう言う背景から周では、政治的に家族、親族をその秩序によって支配することが、重要な政治基盤となっていったことは確かで、「礼政一致」はまさに欠くことのできない思想だったのである。
そして礼政一致とは、こう言うことだ・・・、周が滅ぼした「殷」王朝は信仰として、自分たちの氏族のみを守る神として自然神や祖先神を祭祀し、その神意を占って政治を行ったが、これを「祭政一致」と言う。

これに対して周王朝では氏族の利害を超えて正義の味方をするものとして「天」と言う至上神を崇拝した・・・、従って周の人は道徳的実践としての「礼」を重んじ、礼によって政治を行った。
これを「礼政一致」と言うのだが、礼には精神的な面と儀式的な面があり、後には儀式的な面が重んじられるようになり、これが発展して法律制度が整備されるようになる。

そして孔子が目指した周の礼政一致の思想原理はこうだ・・・、天とは、唯1部族のみを守護するような神ではなく、正義の味方として人の行為の善悪によって賞罰を行う支配者であり、この「天」が人格化したものこそ天子であり、行いの善悪によって、またその徳の高さによって天意すらも動かすことができる・・・。
道徳の実践的表現である「礼」を重んじ、そして政治にこの道徳が形になったもの、「礼」を一致させることで、王は天子と一致し、天すらも味方につけることができ、その結果国は安定し、民の暮らしも豊かになる・・・と言うものだ。

天と神・・・、こうした考え方は後に日本でも大いに広まる考え方で、戦国乱世では「天」が時の覇者を決める・・・従って覇者になれなかった者は、天がそれをはじいたのであって、もともと天意に見合う器ではなかったからだと考えられた。

最後に、NHKの「天地人」・・・上杉謙信は武田信玄とは最大のライバルだったが、甲斐の国に塩が不足したとき、信玄に塩を送る話は有名だ・・・。
隣国では将軍様の独裁で人民が苦しんでいる、またその将軍様も最近病気になったようだとも聞く・・・、世界第2位の経済大国だと言うなら、この際将軍様にお見舞いでも送ってはどうか・・・いくら敵対していても、その相手が病気になったのを喜ぶようでは、天意など得られるものではなく、何か送ったことで自身がへりくだったと思うようでは「器」も小さい。

武力に対して武力では余りにも芸が無い・・・・
こう言う世界だからこそ徳を説き、礼を知らしめる国が1国くらいあっても良いのではないか・・・。
孔子の「礼」は敵も味方も関係ないものだったように思うが・・・どうかな。

自由民と奴隷

紀元前8世紀から7世紀、つまり今から2700年~2800年前のギリシャ、人口が数千から数十万の独立した都市国家群が緩やかな共同体状態にあった「ポリス」と言う政治状態の中、最大のポリス(都市国家)だったスパルタの市民生活と、ギリシャの奴隷制度から、現代の我々の生活を考えてみようか。

ギリシャ都市国家群の中で最大の人口、40万人を擁したスパルタ、スパルタ教育の語源ともなったこの都市国家の市民生活は、その名を免れぬ厳しいもので、軍国主義的体制は厳しい教育によって支えられ、生まれてから死ぬまで国家への忠誠が唯一最高の目標となるよう、幼少の頃から教育されていた。

男の子が生まれると、不健康児は捨てられ、検査に合格した子供だけ育てられるが、6歳までは家庭で厳しく育てられ、20歳までは年齢別に集団を組み、残酷なほど厳しい体育や軍事訓練を受け、20歳以後も軍事を専門にしていたので、公共生活の時間が多く、私生活の余地は少なかった。

高い教育は施されず、実生活に必要な読み書き程度が教えられたが、音楽と踊りは重要視されていたようだ。

また女子は更に凄まじい話だが、健康な子供を生むために激しい体育教育を受けていたが、不健康児を生めば捨てられることを思えば、こうして健康な子供を生み、捨てられないようにすることが、せめてもの母親の愛情だったかも知れない。

その体育は殆ど全裸に近い格好で行われ、競技種目は競争、相撲、円盤投げ、槍投げなどが含まれ、今日家庭の主婦がたしなむ普通の仕事、つまり家事や裁縫、布織りなどは全く教えられなかったが、こうした仕事は奴隷の仕事だったのである。

そして母親ともなれば、自分の息子が勇敢に戦って戦士することを、何よりの名誉と考えるようになっていたと伝えられている。

どうだろうか、こうして見ると市民であることが、奴隷より厳しい生活になっているようにも思うし、自由であることの原則が軍事的思想によって自由選択による不自由の選択になっているようにも見えるが、こうした考え方は全体主義的とも言えるもので、現代でも程度は違っても同じことが存在している。

そして奴隷については、ハンムラビ法典によれば、自由民と賎民、奴隷の区別が見られるが、一般に古代オリエントでは中堅的な自由民の区別が確立しておらず、奴隷と言う身分も不明瞭なことから、古代ギリシャ以来の極端な見方とすれば、自由なのは君主だけで、その他は全て奴隷と言うべきものだったかも知れない。

ギリシャの奴隷の起源については、ミケーネ時代に既に多数の奴隷、特に女の奴隷が存在していたようで、これがそれから暫く後の「暗黒時代」に入ると、農耕、牧畜、家事のために少数の奴隷が用いられるようになったが、これは定義として作男か下男、下女に近いものだった。

紀元前6世紀に入ると、商工業の発達に伴い、奴隷の売買が盛んになったが、他方では民主化の改革が行われ、市民の身分が確立されたから、自由民と奴隷との区別化が明瞭になり、本格的な奴隷制社会が出現してきた。

このような奴隷はしかしどうして奴隷になったかと言うと、奴隷の子供として生まれた場合、捨て子を奴隷として育てた場合、海賊にさらわれて奴隷として売られた場合、戦争の捕虜、などの理由で奴隷にされたのであるが、基本的にはギリシャ人を奴隷にするのは不当だとされていたことから、奴隷の大多数は小アジア、黒海方面の異民族が殆どだった。

そしてこうした奴隷の種類だが、国家が所有する「国有奴隷」は公的な雑務を主な仕事とし、その他は家僕と婢女のような、私的雑務を主な仕事とする個人所有の奴隷、手工業奴隷、鉱山奴隷だったが、この内鉱山奴隷が最も過酷で悲惨なことになっていた。

紀元前5世紀中頃のアテネでは、全人口30万人の内、市民とその家族が17万人、在留外人3万人、奴隷が10万人だったとされているが、裕福な人は別として中流市民は、1人から2人の奴隷を使役しながら自分でも労働するのが普通で、これが紀元前4世紀頃になると、数十人の奴隷を使った工場などが現れてくる。

また同じ都市国家でもスパルタではアテネのような形態、普通売買での奴隷は殆どおらず、その代わりに多数の被征服民がヘロットと言う農業奴隷にされていて、収穫の半分を主人に納めていたが、ローマではこうした傾向がもっと顕著になり、ギリシャよりもはるかに規模の大きな奴隷制の農業経営が発展し、これは共和政末期にしばしば対外戦争を起こし、多くの異民族の捕虜を奴隷としたからで、この頃ギリシャのデロス島などは、奴隷売買の市場として大いに栄えていたのである。

奴隷と言っても、歴史的に見てみると、面白いことが分かる。
それは古代ほど奴隷と自由民の差が少ないことだ。

また一般家事や手工業、農業はこうした意味からすると、もともと奴隷の仕事だったような面があり、その地位こそ低くくても今の私たちが考えるような、ムチでバシッと言うような扱いが全てだったとは考えにくい部分がある。

古代エジプトでは、奴隷たちにファラオからビールとパンが振舞われたと言われているし、少なくとも紀元前8世紀頃では、スパルタ市民より奴隷のほうが、実務としては楽だったのではないだろうか・・・。
最も価値観として厳しい責任を誇りとするなら、楽をしている者は屈辱的と映るのかも知れないが・・・。

それにしても、あの厳しいスパルタでさえ、主人に収穫の半分を納めればよかったのか・・・。
現代の日本人も収入の殆ど5割近くを税金で取られていることを考えると、我々はスパルタの奴隷と変わらないのかも知れず、その上に自由市民として選択した不自由の中にあったりするのかも知れない。

自由民であるか、奴隷であるか。
古代から今に至っても、それが我が心の内、自分がどう思うかの問題と言うことになるのだろうか。









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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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