マリオネット

「おい、あれを持ってきてくれ」
その言葉に彼の2人いる秘書の1人は別室へ入って行き、程なく紫の風呂敷に包まれた四角い物を持って出てくる。

そしてその風呂敷包みは眼前の机に置かれると、今度はもう1人の秘書がその風呂敷の縛りを解くが、少し解けたところで、この事務所を訪れている訪問者はその中身に気が付き、思わずそわそわ落ち着かなくなる。

「行けるな・・・」

コンピュター付きブルドーザーこと、元内閣総理大臣田中角栄(故人)は幹事長時代、自分が国会議員に出馬要請した有名人候補の一瞬の表情から、その有名人が自分の出馬要請を受けるかどうかが分ったと後述しているが、そのやり方はまず、机の上に金を山のようにして積み上げ、それで「お願いします」と頭を下げる方式で、これはどの有名人でも同じだったらしい。

そして田中角栄はこの方法で、出馬要請を断る者はいなかったとも語っていて、ついでに有名人やスポーツ選手は一番選挙運動に金がかからないとも豪語していた。

またこれはオフレコで語られたものが、田中角栄の死後、流出したものだが、有名人やスポーツ選手に政治が分るのかと聞いた記者に対して、彼はこう答えている。
「そんなものは初めから期待していない、どちらかと言えば少し(頭が)足りないくらいの方がちょうど良い・・・」

なかなか現実的な言葉だが、つまり田中角栄は有名人やスポーツ選手などに、初めから政治的能力やセンスなど必要ない、むしろコントロールしやすいと言う点では、少し頭が弱い方が理想的だとも言っているのだ。

確かにまったく無名だと例えどんなに優秀であろうが、その候補の名前を売り、宣伝して顔を売って、なお組織票を動かさなければならず、組織票は既存議員にとっても重要な票であることから、そんな苦労をすることなく、黙っていても票が集まる有名人やスポーツ選手は金がかからず、大体がこう言う言い方をしては悪いが、一芸には秀でていても世間を知らない、言わば人間的にすれていない人たちは、それから後当選してからもコントロールはしやすかったのだろう。

また政治は数だ、優秀な政治家だろうが、理想に燃えようが燃えていまいが、利口だろうがそうでなかろうが、1人は1人で、この1人の積み上げが派閥であり、党であり、そして政治であることに変わりは無い。

こうした考え方が正しいかどうかともかく、田中角栄にとって、端末の国会議員など所詮数の一部に過ぎなかったことが、ここから伺えるが、そうした彼のやり方はその後他の公明党や、社会党などの野党にまで及んで行ったことは確かで、以後日本の国会には有名人が多数立候補してくることになる。

だがこうして政界入りした有名人や、スポーツ選手たちがその後どうなったかと言うと、これは結構悲惨なものがあり、やがて数回当選して知名度が落ちてくると、また新しい有名人やスポーツ選手を擁立し、比例代表選挙では、当選3回の有名人が新人より遥かに下の順位になっていたりするが、派閥や党に少しでも逆らえば、と言うより「おぼえめでたき者」でなければ、すぐに外されていく運命でもあった。

そして尚かつこう言う有りようは、私の個人的な見解ではあるが、非常に後進国的なありようであり、また政治的混乱の多い地域での様相と類似するものがあり、即ちこうした政治的な傾向を許す国民の、政治に対する見識や成熟度の低さを感じるのである。

本来政治は広い視野を持ち、国家国民のことを考えられる者がその地位にあるべきもので、数であれば何でも良い、人気が有って票が集まれば誰でも良いと言うのであれば、それはもはや政治ではなく、ただの衆愚でしかない。

それ故政党もそうだが、むしろ政治家を選挙で選ぶ民衆も、こうしたことをくれぐれも心に留め、政治家を選ぶ姿勢が求められる。

無論有名人だからスポーツ選手だから、政治的能力は無いとは言わないが、有権者は本当に自身の未来を付託するに資する者を見極めることが大切であり、有名人だから、スポーツ選手だから、その人物に政治的能力があるとは思わないほうが良い。

民主党の小沢幹事長は、冒頭の田中角栄の元で政治を学んだ男だ。
「数は力なり」を、「金は力なり」を身に沁みて理解している男であり、そうした意味から今度の参議院選挙の民主党候補予定者を見てみると、なかなか趣き深いものがある。

ここからは私の推測だが、やはり小沢幹事長は有名人を説得するにあたり、田中角栄と同じように大枚の選挙資金を積んで、それで説得に当たっているだろうが、今回少し学習したことがあるのではないだろうか。

それはスポーツ選手だが、例えば1970年代まではスポーツ選手は現役引退後もコマーシャルや講演活動などで、そこそこ金を持っていたから、少ない金額では政界入りを断られただろうが、現代のスポーツ選手は「金が無い」ことを知ったのではないだろうか。

長引く景気の低迷でスポンサー企業を失ってきたスポーツ選手は、オリンピック選手でもその活動を継続することが、かなりの負担になっている可能性があり、そうしたことから、例えば柔道の谷亮子選手を参議院議員候補に擁立するに当たり、小沢幹事長が谷亮子選手の柔道選手としての活動も支援することで、彼女を説得したと言う噂が流れるのである。

こうしたことが事実なら、柔道を何としても続けたいと願う、谷亮子選手の情念は百歩譲って理解できたとしても、それでは参議院議員は柔道を続けるための道具かとの疑問は拭い去れず、ここにやはり、田中角栄と同じような「数」の思想が伺えるのだが、同時にオリンピック選手と言うものの資本力の低下が透けて見えるように思うのである。

言いたくは無いが、金銭的に苦しいスポーツ選手は、スターなどの有名人より更に金をかけなくても簡単に説得に転び、選挙で票が集まり、しかも党所属議員数は増やせる、いや民主党小沢派の数が増やせる・・・、と思ってはいないだろうか、またこうした小沢幹事長の有りようを見て、「おー、これはうまい手だな・・・」などと他の政党は思っていないだろうか、そこが心配である。

また一般に力が落ちてきたテレビ業界、映画産業、この影響でタレントなど有名人のギャラも乱高下している風潮があり、場合によってはお買い得な有名人も存在し始めている。
お誘いがあれば喜んで、と言う者も増えているだろう。

景気の低迷は、長引くと政治の低迷にも繋がる恐れがあることを、我々は憶えておかなければならないように思う・・・。

ちなみにマリオネットとは「あやつり人形」のことだが、これは説明の必要が無かったか・・・・。



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第二章・子供たちの手紙

そしてそこでの仕事はこの大手化粧品メーカーが経営している繊維工場の閉鎖準備だったのである。

だから結果としてこの繊維工場の社長には権利が無く、「管理室」の室長である本社部長がこの工場の権利者だったのである。
そして工場の閉鎖はもう決まっている。

この状況で、小学生が束になった封筒を持ってやってくれば、それは何をしに来たかは容易に想像が付く。

即ちそれは、会社を存続して欲しいと言う子供たちの陳情であり、それだけこの繊維工場が周囲の人たちにとっては重要な雇用の場だったのだが、当時この化粧品会社は食品部門や、繊維、住宅にまで手を伸ばし、そのおかげで経営は不振になっていて、その中でも海外の安い繊維に追われて不採算が続いていた捺染(なっせん)、プリント部門は今すぐにでも閉鎖しなければなら無い状態だった。

上京して暫くしてこのことを知った私は、「しまった、騙された」と思ったものだが、仕方なく部長と他数名の社員と共に、工場へと乗り込んでいたのだった。
従業員の保険手続き、資産管理、従業員の再雇用、在庫の処分、機械設備の売却と毎日がめまぐるしく動き、その合間を縫ってこうした工場存続の陳情が毎日のようにやってくる。

だが、こうした陳情の中でも一番堪えるのが、子供の陳情だった。
大人たちの理屈で、彼ら彼女達の生活を不安に陥れることの罪悪感から、こちらが泣きたくなるほどであり、砂を噛むような毎日が続いたものだった。

意を決して子供たちが待っている部屋のドアを開けた私は、ちょうど彼らの真向かいに立ち頭を下げると、そこへ腰かけ、社長は今いなくて、用件は自分が聞くことを伝えた。
すると今度は2人が立ち上がり、女の子は持っている封筒の束を私に差し出し、そして「○○小学校の生徒会からお願いに来ました。どうか工場を潰さないでください」と、深々と頭を下げるのだった。

私は暫く何も言えなかったが、それでも彼らに座るように言い、「私も頑張ってみるから、そして君達のお父さんやお母さんが困ることの無いように絶対に頑張るから、皆さんに安心して下さいと伝えてください」としか言えなかった。

私は大嘘つきだった。
そんなことは有り得ない、必ず再来月にはこの工場は閉鎖される、しかしどうしてこの子供たちにそれが言えようか、私が頑張るのは彼らの両親達が生活に困らないよう、再就職先を何とかしかしなければならない、それしかできないのだ。

彼らはずっと私を見ていた。
もしかしたら私の微妙な表情から、私の言葉が嘘であることは見破られていたかも知れない。

彼らは帰るとき、「ありがとうございました」と言ってまた深々とお辞儀をしたが、そんな彼らに手をつけずにそのままになっていた缶ジュースを渡しながら、「すまない・・・」と心の中で頭を下げるしかない私は本当に人間の屑だった。

その晩、仮の住居になっていた社員寮へ帰った私は、夕方子供たちから手渡たされた手紙を1つ1つ開いて読んだ。

どうせ部長の所へ持って行っても、どこかの棚にしまい込んでそのままになることは分っていたから、せめて返事でも書かねばと思ったのだが、読んでいるうちにふと故郷の世話になった従業員達のことを思い出した。

「すみません、こんなことになって」と玄関で土下座する私を、「あんたのせいではないよ」と言って家に上げてくれた老技術者のことを思い出した。
こみ上げるもので一杯になった・・・。

私は手紙の一枚一枚に、工場はなくなってしまうこと、そしてそれを申し訳なく思っていること、また彼らの両親には必ず新しい就職先を見つけると約束し、学業を頑張るようにと返事を書き、それを5日後に彼らの学校へ届けた。

そして翌々月の初め、工場は閉鎖され、私達は部長と一緒にまた東京に戻ったが、それから以降更に2つの工場整理が終わった1年後、今度は部長がアメリカ工場の総責任者となることが決まり、部長の下で働いていた私達には日本に残るのか、アメリカへ渡るのか、つまり辞めるかアメリカへ行くかの、どちらかを選択するよう書面が出た。

大方の人たちはアメリカ行きを喜んだ。
だが私と、もう一人、私より10歳くらい年上の女性がアメリカ行きを断り、私達はそれぞれの故郷に帰ることになった。

部長はそんな私達のために送別会を開いてくれたが、その席で私に「なぜアメリカへ行かないのか」と尋ね、私はうまく答えられなかったが、「何かで自分は故郷に借りがあるような気がする」と答えたことは憶えている。
だがその借りとは何かと言えば、言葉では答えられなかっただろうし、今でもおそらく答えられはしないだろう。

私はこの翌年、また故郷が嫌になり出奔するのだが、この時はこうして故郷に帰ることにした。

そしてもう一人故郷へ帰ることになった女性は、私の隣の県で大手結婚相談所のコンサルタントになり、それから私のところへも「良い出会いをお手伝いします」と言うパンフレットが届くことになったのだった・・・。





第一章・フォルテシモ

確か、午後4時くらいのことだっただろうか、今日も何とか1日を乗り切ったかと思い、自動販売機に100円玉を押し込み、紙コップにコーヒーが注がれるのを待っていた、そのときのことだった。
この工場の暗く長い廊下を2人の小学生くらい子供が歩いてくるのを目に留めた私は、彼らに近づき、「ここは危険だから君達は入ってはいけない、もう遅いから家に帰りなさい」と注意した。

おそらく小学6年生だろうか、背の少し高い女の子と、彼女より少し身長が低い男の子は、私を見ると一瞬にして緊張したのか、立ち止まると、暫く言葉も無く立ち尽くしていたが、やがて女の子の方が「この会社の社長さんですか」と私に尋ね、「いや、私は社長ではないんだよ」と答えると、今度は男の子の方が、かなり大きな声で「社長さんに会いたいです」と言うのだった。

見れば女の子の手には束になった封筒が握られている。
これで私はピンと来た・・・。

私は彼らに付いて来るように言うと、「準備室」に通し、彼らの分のジュースを自販機で買ってソファを勧め、それを飲みながら暫く待っているよう言うと、早速上司の所へ走った。
「管理室」では部長が座って書類を眺めながら頭を抱えていたが、そこへ私が小学生が陳情に来たことを伝えると、「済まんが○○、そっちは君がやってくれ」と冷たい返事が返ってくるだけだった。

「何だこれは・・・、昔と同じじゃないか・・・」
小学生達が待っている部屋の前で、ドアを開けられずに立ち止まった私は、ふと数年前のことを思い出した。

私が初めて勤務した会社は地方の小さい会社だったが、それでもデパートとの提携で毎年売り上げを伸ばし、それでついに専属のデパート出向社員として選ばれた私は、1年間、某デパートの上野店に在籍し、そこでの売り上げも急成長と言う状態だった。

だが、こうした中で先代社長から事業を引き継いだ2代目社長は、これだけ売り上げあるのなら、新宿で独自販売店を持った方が儲かるのではないかと考え始め、そこから私にこの販売店開設企画が任されるようになった。

しかし、私はこの企画には猛反対し、従業員も先代ですら、新社長の企画には難色を示したが、それでも新社長の方針は変わらず、結局皆が折れる形で新宿店の企画はスタートした。

当時私がデパートで売り上げていた金額はおよそ6000万円、これがあれば月額200万円の賃貸料と店員の給料、そして維持費の合計550万円は賄えると言うのがその根拠だったが、この6000万円は確かに私が商談しているが、その背景にはデパートの名前があり、結果として売り上げているのは私ではなく、デパートだと言うことが、社長には理解できていなかったようだ。

だが、新社長として何がしかの希望を持つことは心情として理解できる、そこまで言うなら協力しましょうと言うことになり、始めたこの新宿店の企画、しかし開店1ヶ月目の売り上げは僅かに70万円しかなく、これを知った社長は、今度は一転して一ヶ月で撤退しようと言い出したのである。

さすがにこれではまずいと思った私は、今度はどんな商売でも初めからうまくいは行かないから我慢して、いろいろ工夫しなければいけないと進言したが、社長の頭の中は既に撤退しか無く、結局新宿店は1ヶ月で閉店となってしまった。

これによる損失は新商品の開発費用や、仕入れ、そして1年契約だったビルのワンフロアーの賃料と含め、総額4000万円にも及んだのである。
加えて訪れたものは不景気であり、ここで一挙に体力を落とした会社、社長の方針は今度は従業員の整理だった。

まず高齢者、女性、そしてそれだけでは留まらず、ついには小さい子供がいる従業員まで解雇しなければならなくなって行ったが、それらの仕事は先代から新社長を補佐するよう言われていた私が行わなければならなかった。

小さい町であり、新社長が評判を落とすことを恐れた先代はその役割を私に頼み、わたしは初めから泥かぶりは覚悟で、自分が世話になった従業員の家を回り、泣きながら解雇を伝えたが、それでも解雇された人の不満は限度を超えていたのだろう、私の家には連日無言電話や、誹謗中傷の電話がかかり、最後の1人、この人には生まれたばかりの子供と他に3人も子供がいることを知っていた私は、この時もう覚悟を決めていた。

私は彼を解雇しないように社長に頼み、自分が彼の代わりに会社を辞めることにしたのである。

会社を抜け出した私は車で海を見に行っていた。
天気の良い日で、波は穏やか、カーコンポで「ハウンド・ドッグ」の「フォルテシモ」を聞いていたら、「あー、何か全てがばかばかしい・・・」そう思えたものだった。

それから暫く何もすることも無く、山へ行ったり海へ行ったりしていた私は、もう全てが嫌になりかかっていた。

だがそんな私を呼び出したのは、デパートにいた頃のお客さんで、某大手化粧品メーカーの部長だった。
「聞いたよ、大変だったな、でも良かったら家の会社で今空いているところがあるんだが、そこで働いてみないか」
この部長の言葉は私にとっては天子の囁きのように聞こえたものだったが、それでまた東京へ出た私は、今度はこの部長と一緒に関西へ暫く出向することになる。
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                      「第二章・子供たちの手紙」に続く。



特殊相対性理論の証明

「美しい、美しすぎる、私が生きていることはやはりそれ自体が罪に違いない・・・」
と自分の姿を鏡に映し、思わず悦に浸っている女性には朗報だ。

ついに永遠の美と生命を手に入れる方法が見つかった、また下手をしてもその寿命は50倍になる方法が発見されたのだ。
平均寿命が80歳としても、その50倍なら4000年は生きていることになり、普通なら20歳から30歳までの期間が、1000歳から2000歳まで1000年も続くことになる。

まさに夢のような話だが、実はこれには条件がある。
秒速30万キロメートルで動いている事、それでなければこの速度の0・9998倍のスピードで動くことだ。

秒速30万キロメートルは光の速度、そしてその0・9998倍は準光速と言うが、永遠の生命は光速で運動すれば得られ、50倍の寿命は準光速で運動すれば得られる。
さあ、一緒に走ろうではないか・・・。

アインシュタインの「特殊相対性理論」はとても難しい理論だが、実は言っていることは非常にシンプルで、時間が絶対的なものではないこと、そして例えば目的地に到達するまでに時間の経過が無い、若しくはその経過速度が遅れた場合は、事実上空間が縮んだか、それで無ければ距離が物理的に短くなっていくことを現している。

そしてその基準となるものを秒速30万キロメートルの「光の速度」としたのである。

人間にとって「時間」の概念はある種絶対的なものがあるが、実はこの時間、速度によって変化している。
即ち動いているものには時間は遅く進み、止まっているものには標準の時間が流れていくのである。

そしてこれを証明するには、おそらくこうした記事で数百ページに渡って数式で埋め尽くさなければ、数学的には説明できないが、実はもっと簡単な証明方法がある。

宇宙から地球に降り注ぐ「宇宙線」と言うものがあるが、この正体は高エネルギー陽子であり、こうした宇宙線でも地球の成層圏に突入するまでの宇宙線は、通常「一次宇宙線」と言うが、成層圏にこの一次宇宙線が突入した際、大気中の酸素や窒素原子と衝突し、その結果生まれた宇宙線のことを「二次宇宙線」と言う。

そしてこの高エネルギー陽子が大気にぶつかって生まれるのが、二種類の「パイ中間子」と言う素粒子で、この一方のパイ中間子から「ニュートリノ素粒子」と「ミュー中間子」が生まれ、結果としてこれらの素粒子や中間子のことを二次宇宙線と呼ぶ。

このうち「ミュー中間子」について、この中間子は既に細かく研究されていて、これは静止した状態だと発生してから100万分の1秒で消滅し、1つの電子とニュートリノ素粒子に変化することが知られているが、このことからミュー中間子の寿命は100万分の1秒しか無いことになり、この中間子の寿命は外からいかなる物理的な力を加えても変化しないことが知られている。

だがこの中間子を観測してみると、少し面白いことが起こってくる。
ミュー中間子は前述したように成層圏でパイ中間子から生まれ、その成層圏は地上から15キロメートルの高さにあり、パイ中間子から生まれたミュー中間子は、殆ど光速に近い速度を持って地上に降り注いでくる事が、観測によって確かめられている。

そしてミュー中間子は人間も建物も全て貫通して地中に入ると停止し、そこでニュートリノ素粒子と電子へと崩壊してしまう。

ちなみにここで人や建物を貫通すると言うと、私達はいつもミュー中間子とぶつかっているのかと言うと、そうではない。
ミュー中間子にとって、人間や建物などの物質原子の密度は、1つ1つの原子の距離が、2キロメートルも離れている所を通る砂粒くらいの大きさしかないので、めったに人間や建物の原子にはぶつからないのである。

さて、これで特殊相対性理論は証明されたが、お気づきだろうか・・・。
何かおかしい・・・、そう思った人は鋭い。

そう、最初にミュー中間子は100万分の1秒しか寿命が無いことを書いたが、それで行けば、例え光速の秒速30万キロメールで地上に向かって動いていたとしても、ミュー中間子がその寿命の中で飛べる距離は300メートルしかない。

15キロメートル上の成層圏で発生して、地上に到達しているとはおかしな話だ。
これが特殊相対性理論だ。

つまり本来なら300メートルしか移動できないミュー中間子は、準光速で地上に向かって運動しているため、その寿命が50倍に延びているからこそ、15キロメートルの成層圏を突き抜けて地上に到達しているのであり、地球の時間を100とするならミュー中間子の時間は僅かに2しか進んでいないのである。

またこうして時間と距離を考えたとき、例えば宇宙空間を進んでいるものなら、時間の経過が無い、若しくは遅いと言うことは観念上も物理的にも、結果としてその距離は縮んだことを意味し、即ち光速で運動するものは全てに措いて距離を持たないと言うことなのである。

こうした意味からもしタイムマシーンをイメージするなら、それは光速で動いている場合その本人は年を取らず、状況も変わらないが、周囲がどんどん年を取って、本人が停止した時から、また時間が進み始めると言う概念が正しい。

つまり人間は理論上未来は行けるが、過去は難しいと言ったアインシュタインの言葉は、そう言う意味なのであり、これを考えると、もし神がいるなら、未来はどうにでもできるかも知れないが、過去は例え神と言っても手が出せないと言う事かも知れない・・・。



日本国債

日本と言う国の報道は実にユニークなところがある。

「日本の景気は緩やかな回復基調になってきました」、と大見出しが付けられた横の欄には「スーパーの売り上げ、17期連続前年割れ・・・」の文字が平気で並び、2002年3月時点の完全失業率は5・0%、実に350万人もの人が完全に失業している状態で、しかもこれは昨年度より15万人も増えていて、自殺者も昨年1年で32845人、これはその前年より596人も増加しているのである。

おまけに宮崎県では口蹄疫の家畜感染が広がり、こちらの被害はまだ広がっている最中であり、最終的には一体どのくらいの損害が出るのか予想も付かないことになっていて、国内中央紙の朝日新聞社までもが赤字決算を出している現状で、一体日本のどこで、誰の景気が回復基調になっているのだろうか。

日本国民の民間資産は総額1300兆円と言われるが、事実上の総資産は1100兆円前後であり、その内1000兆円は既に国債の発行で政府が集めつくしている。

アメリカの格付け会社S&P社が日本国債にAAと言う、最上位から2つ下の格付けをしているのには理由がある。
先にアメリカが行った台湾への武器輸出決定により、これに反発した中国が、買っていたアメリカ国債を放出し、このアメリカ国債を買い支えているのが日本だからである。

アメリカは先のリーマンブラザースに端を発した世界恐慌を沈静化するために、大量の国債を発行して資金を集め、それでアメリカ経済の再建をはかったが、そのアメリカ国債を一番多く買ったのが中国で、次が日本だった。

しかしアメリカの台湾に対する武器輸出によって、中国は制裁措置としてアメリカ国債を放出、、それをけなげにも日本が買って、アメリカ経済の回復に寄与しているのだが、こうした立場で日本の国際が暴落してしてもらっては、現在日本が持っているアメリカ国債を、また中国にお願いしなければならなくなる。

ギリシャ問題で揺れるEUに更に金を出せとは到底頼めない状況でもある。
それゆえ、アメリカがもし再度国債の引き受けを中国に頼んだ場合、中国に対して何も言えなくなるばかりか、せっかく決めた台湾への武器輸出も、場合によっては中国政府から圧力をかけられる恐れすら出てくる。

これは避けたいのがアメリカの心情と言うものだが、そのためには日本の実情には目を瞑って、日本はまあまあの経済状況だと言うことにしておかねばならない。
これがS&P社が日本国債の格付けをAAに留めている理由であり、実際の国際市場で日本国債が取引された場合は、日本より2ランク下の「A+」の格付けになっている中国国債より、その信用能力は低くなっている。

従って日本政府は日本国債を国際市場へ出さないのではなく、事実上出せない状況と言うものが生まれているのである。
つまり日本の国債は日本国内であればAAだが、これが国際市場へ出た場合は、それより3ランク下の高い金利をつけないと中国国債よりも売れないのである。

この原理は簡単だ、日本国内で米が1kg400円だったとすれば、それが実は世界的には1kg200円で売っているなら、日本は鎖国状態であればこの400円を維持できるが、開国した途端、200円の国際市場に飲み込まれて、日本の農家が全滅するのと同じことだ。
つまり日本国債は市場へ出た途端暴落して、場合によっては紙くずになる恐れすらあると言うことだ。

この原理が分る日銀、そしてアメリカ政府は、だからこそ日本国債を外に出さないようにして保護し、それによってアメリカ経済の回復をはかれる状況を作っている訳だ。
だから本当は沖縄のアメリカ軍基地の移設問題など、解決は簡単でもある。

「日本が持っているアメリカ国債を全部売る」と一言言えば、アメリカは何も言えなくなるだろう。
ただしこの場合はEUの危機は更に決定的なものになり、アメリカ経済も停滞し、そして日本も大不況に陥るが、その覚悟があればそうしたことも可能ではある。

こうして守られている日本国債、しかしこれは国際社会の容認の基に成り立っているのであって、世界は日本の経済状況がいかに悪いかを知らない訳ではなく、日本国債が外に出ないことを暗黙の了解としているからこそ、成立させているだけのことだ。

ギリシャの財政赤字は2009年ではGDPの13・6%、これが2010年には9・1%まで圧縮させる計画となっているが、日本は2010年でGDPの9・6%の赤字になっているだけではなく、2009年を取って見れば、政府債務比率がGDPの189%であり、これは稼ぎの倍近い借金をしたと言うことであり、ちなみにこの時点のギリシャの政府債務比率は115%、つまり稼ぎの15%を借金したと言うことで、これを比べれば日本の経済状況がいかに悪いかが判ろうと言うものだ。

そしてS&P社の日本国債の格付け、AAだが、実はこれはギリシャの次に破綻するだろうと言われているスペイン国債、また少し以前に金融危機を迎えたアイルランド国債と評価は変わらないものであり、中国国債が低い評価なのは「共産主義国家」だからであり、その実情は日本の国債より2ランク上になっていると考えた方が良いだろう。

こう考えた上で、日本の民間資産の残高は、冒頭にも書いたとおり、1100兆円で、その内既に1000兆円が使われているから、その残高は100兆円しかない。

つまりこのままの財務状況で行けば、日本が自国国債を自国民に買ってもらえる期間は2年しかなく、それを過ぎれば日本国債は世界市場で買ってもらうしか手が無くなり、この場合は日本国債の暴落も十分考えられる危険性があることを、2年後には日本がギリシャになる可能性が高いことを、ここで指摘しておきたい。

ちなみに日本国債の市場調達金利の上昇、つまり国債が高い金利をつけなければ売れなくなった場合、例えばギリシャと同じ5%上昇したとすれば、日本では資金を調達するだけで、おおよそ24兆円の追加予算が必要になり、実に90兆円の予算を組んでも70兆円が借金の返済と、支払うべき金利に吸い込まれていくことになるのである。
簡単に言えば、日本はこの時点で国家予算が組めない状況になると言うことだ。

またギリシャの再建案を見ればこれは悲惨なものであり、人口の25%を占める公務員を対象にしているが、3年間の昇給停止と新規採用の凍結、特別手当、日本で言えばボーナスだが、これは廃止、年金受給年齢を53歳から67歳に引き上げた上で、受給額は30%カットとなっている。

何だ年金受給年齢が初めから低いではないかと思うかもしれないが、日本とは平均寿命が低い国で、しかも一挙に14年も受給年齢が引き上げられる実情は、日本で換算すれば、一挙に受給資格が7年引き上げられたと同じ影響があるだろう。

そして消費税は2010年3月に19%から21%になったばかりなのに、更にこれが23%に引き上げられることが決まっている。
日本の政府もマスコミも国民も、言葉で逃げていられるのは後2年間しかない、このことを良く憶えておくべきだと思う。

視覚と言う死神

人間が持つ感覚の中で「視覚」が持つ影響力は一番大きい。

だがこの視覚と言う感覚を頼りすぎると、人間はどこかで「現実」を失い、しいては現実社会に「非現実社会」が出現してくることになる。
人間が本当の意味で滅ぶとき、それは戦争による殺戮によってもたらせるものではなく、むしろ平和によってもたらされる。

安定した平和な社会は人間から本能的な危機感を奪い、それによって本来は生物の生物たる所以である生殖行動がリスクに感じられるようになり、その瞬間から生物や社会は事実上崩壊していく。

更にそうした食べることに困らない豊かな社会が求めるものは「視覚」であり。
実は人間の五感を満足させる中で、一番経費がかかる感覚が「視覚」なのである。

従って平和で豊かな社会ほど、そのコミニケーションが視覚に頼るものになり、視覚は実体験を伴わずに、多くの手間がかかる現実の60%以上、場合によっては現実を超える感覚を脳にもたらしていく。

それゆえこうした社会の持つ特性は、現実社会と非現実社会が渾然となった社会を生み出すことになり、最終的にはその非現実的な部分に措いて、確実に衰退が訪れるのである。
男女が出会って互いの心を通じ合わせ、なおかつ性交渉を持つのは、実は大変な労力を要し、また子供を育ててそれを一人前にするには、更に大きなエネルギーを必要とする。

だがこの大変な労力が省かれて、性的交渉による快感だけが享受できるとしたら、人間、特にオスは視覚的な部分へと流れやすくなり、これが今日卑猥なDVDが社会に氾濫し、また大量消費される原因である。

またこうした意味から言えば、一切の人間的交渉努力もなく、簡単に性交渉が可能な「風俗」への依存も同じことである。

古来よりその国家や社会が壊れるとき、それを引き起こすのは間違いなくオスの遺伝子であり、その最も欠落しやすい部分が実は性的交渉なのであり、同時に起こってくるものは、生殖活動を伴わない感覚的快楽、若しくは恋愛、そして同性愛と言うことになるが、これもまた生物的には本能と言うものなのかも知れない。

だが視覚による感覚は実態を伴ってはいない、つまりそこには現実には近くても、明確に現実ではない部分が存在するが、それが聴覚であったり、臭覚、触覚、味覚と言うものによって補われて初めて現実となる。

つまり画像で見ている絶世の美女は汗を流してはおらず、その肌の柔らかさなどから感じる「女」の感触と言うものを欠落させている、言わば不完全な感覚であるが、これに感覚が馴らされてくると、実際に汗をかく女が面倒になる、また現実には相互に言葉を交わして、初めて成立する男女の付き合いが面倒になって行くことになる。

そして豊かな社会に措ける社会保障の充実だが、これにも盲点があり、人間は老後の扶養を長く子孫に依存してきた歴史を持ち、この感覚は子孫を残す意味を人間が考えられる範囲に限定するなら、一定のウェートを占るに至っているが、これが社会制度である程度の保障が得られることが確定していると、子孫を残す意味が薄く考えられていく。

その結果社会的扶養制度が充実した社会ほど、その社会の人口は減少していく傾向を示すが、社会扶養制度を考えるとき、老後だけではなく、どの年代に措いても社会扶養が充実していなければ、ここに老人が若い世代を食い潰していく社会が生まれ、その社会は益々子孫を残せなくなっていく。

また視覚は人間の感覚の中で最も影響力が大きいことから、視覚を言語に例えるならそこには断定形態が存在している。

味覚や触覚、嗅覚などが「もしかしたら」や「かも知れない」と言う表現なら、視覚は「である」の要素が強く、この視覚の上に、視覚の次に影響力がある聴覚が加われば、それは「確信」に近いものにまでなっていくが、そこから何が生まれてくるかと言うと、想像力の欠如と、妄想の発達である。

あらゆる人間の想像は本来自分が関係する社会、家族、場合によっては国家や自然などからも微妙に干渉を受けて、それによって総合的なものが集約されたものであり、これに対して妄想はエゴイズムの増殖的な面を持っていて、両者は同じではない。

端的な例で言うなら、男性が女性の延長線上に描く女性には、女性が身に付けている下着までがこの範囲に入ってきて、そうしたことから下着泥棒なら、まだ「バカモノが」の範囲かも知れないが、これが想像と妄想の限界点であり、これを超えていくとストーカーになり、挙句の果てには殺して死体はバラバラに切って捨てると言うことになるが、こうした行為は妄想の暴走と、その想像性の欠如が根底に潜んでいる。

視覚的バーチャルな世界では、死がどう言う意味かは分らず、そこにはまた再生されるような非現実的な「死」はあっても、現実に「苦しいだろうな」「辛いだろうな」と言う想像が働かない。

また夜中に一人でノコギリで死体を切っている自分の姿を想像できないからこそ、夜中にノコギリで死体を細かく切って、それを山に捨てることが可能になるのだ。

視覚的快楽の中にはエゴイズムが存在し、それが増殖されて、個人の中では現実とのギャップが認識できなくなる。

映像の世界の異性は結局のところ、ただの自分の妄想にしか過ぎず、これと現実を混同してしまうと、少しでも自分の思うとおりにならなければ、すぐにこれを排除しようとしていく、また消して次を見ようと言う感覚と同じものが現れて来るが、現実に動き始めたものは後戻りができない。

そこで安易に殺害して、しかも死体はバラバラにして捨てると言った事件が社会に蔓延してくるのであり、こうした点では男女の区別はなくなってきている。

現実とはその重さを想像できる感覚によって支えられているものであり、現実と想像は対になっていてこそ意味を持つが、そのうち想像と言うものが壊れていくと、そのとき存在した現実もまた崩壊していくものであり、事実今から30年前であれば、死体が切り刻まれて捨てられていたとなれば大事件で、犯人は絶対捕まることになっていて、しかもその殺人には相当な理由が存在しなければならなかったが、現代社会ではこうしたことすら日常茶飯事になり、事件が報道されても大衆はさほど驚かなくなって来てしまっている。

ここに存在するものは、少なくとも「死」と言うもの、その尊厳に対するリアリティの稀薄さであり、日本人はその生活の豊かさの中で「死」と言う現実をここまで軽くしてしまったのである。

そして「死」と「生」は同一のものである。

1日に100人もの人が自殺していく日本社会の背景には、ただ景気が悪いと言うそれだけの理由だけではない、実態のない視覚社会と言う死神が潜んでいることも、心に留めておかなければならないように思う・・・。





民の父母となりて・・・

「殿、おかげで楽しゅうございました、謹んでお礼言上奉ります」
「善政、聞こえるか、私こそお前がおらなんだら、この上杉を潰すところだった、礼を言うのはこの私だ、有り難く思うておるぞ」

「勿体無いお言葉、善政はその殿のお言葉にて今生の全てが報われました」
「もはやこの世に何も思い残すことはございません。殿、くれぐれもいつまでもお健やかにて・・・」
「善政、善政・・・」

脇に控える者には衰弱した莅戸善政(のぞきど・よしまさ)が、かろうじて差し出した手を、上杉治憲(うえすぎ・はるのり)が握っているだけに見えただろうこの光景はしかし、二人の間ではおそらく言葉ではないものによって、こう語られていたに相違ない。

享和3年12月25日(1804年2月6日)、こうして後世「寛三の改革」の一角と謳われた莅戸善政は藩主上杉治憲、つまり上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)に看取られながら、世を去った。

出羽(山形県)米沢藩は関東管領家(かんとうかんれい)である上杉謙信、上杉景勝をその祖に持つ名家だったが、関が原の合戦の結果、その禄高は120万石から30万石に減俸され、更に上杉綱勝(うえすぎ・つなかつ)の代では嫡子がなかったことから、禄高は30万石の更に半分の15万石にまで減らされていた。

そして綱勝の後代は吉良義央(きら・よしなか)の子の綱憲(つなのり)がその家督を継ぐが、綱憲は家の格式にこだわり、儀式礼典にやかましく、その上生活も優雅なものだった結果、上杉家の財政は完全に破綻状態になってしまった。

もともと大大名の家柄、たとえ家禄は減らされても、では家臣を簡単に放逐できるかと言えば、そうは行かない。
上杉家の家臣は大小合わせて5000家にも及び、それら家臣達の俸禄、つまり給料だけでも12万石に及んでいた。

これはつまり15万円しか貰えない給料で、12万円を使用人の給料に支払っているのと同じことで、これでは藩の事業はおろか、藩主家族の生活費ですら、借金によってまかなわれる形態にしかならなかった事だろう。

加えて宝暦5年(1755年)には奥羽地方に飢饉が発生し、その上に参勤交代や幕府の賦役は増えるばかり、明和元年にはついに治憲の義父である藩主上杉重定(うえすぎ・しげさだ)が藩地返上、つまり何もかも幕府に返して、自分は現在で言う「破産」にしようと考えるほど、上杉家の財政は絶望的なところまで追い込まれていたのである。

そこへ日向(宮崎県)高鍋の秋月家(あきづきけ)から養子に入り、明和4年(1767年)17歳で上杉家の家督を継いだのが治憲、上杉鷹山だった。

治憲は家督を継ぐと、すぐに大倹約令を出し、自身も食事は一汁一菜、即ちご飯と味噌汁、それにおかずは一品だけと言う質素なものに改め、普段着は絹を使わず木綿と決め、祭事や祝い事、それに音信を伝える贈答なども殆どやめてしまい、50人いた奥女中も9人に減らしてしまう。

またそれまでは藩主の日常の経費は年間1500両を要したにも拘らず、これを年間200両に減らし、寛政元年(1789年)には商売取引規制を定め、髪結い、香具師などを禁じ、菓子、瀬戸物、小間物、塗り物などの贅沢品の販売を禁止する一方、人口の増加をはかる為、当時半ば流行ともなっていた「間引き」(生まれた直後の子供を殺してしまうこと)や堕胎を禁じ、子供の多い者には扶持、つまり今で言うなら「年間継続的な子供手当て」を出し、その上に農民の結婚を強制的にする。

男は17歳から20歳までに、女は14歳から17歳までに結婚させるようにして、金がなくて結婚できない者には衣服や金を都合する制度を作り、また飢饉に備えて倉庫を建て、これに食料の備蓄をはかり、藩士でも農業を目指すものがあれば、家や食料を給与として与え、これを奨励した。

更に、奈良の晒布(さらしぬの)や越後(新潟県)小千谷(おじや)の「縮み」などは、その原料として米沢領の「あおそ」を多用していたことから、安永5年には米沢の横沢中兵衛(よこざわ・ちゅうべい)を小千谷へ送り、そこから織物職人を雇ってこさせ、そして藩士たちの婦女子に習わせたが、これが「米沢織」の起源である。

その他、仙台から藍作師(あいつくりし)、相馬から陶器師、奈良から製墨師(墨を作る職人)などが、治憲らによってこの時期招かれ、産業の発展がはかられたのである。

そしてこうした治憲を支えたのが、家老竹俣当綱(たけまた・まさつな)と莅戸善政だったが、当初治憲らの改革は、勿論それに反対する守旧派の台頭によって困難な場面にも直面する。

安永2年(1773年)には国家老、千坂高敦(ちざか・たかあつ)ら7名が家老の竹俣当綱と莅戸善政の排斥を治憲に迫り、ついにこうした抗議から出仕して来なくなるが、当時23歳の治憲は、こうした事態に慎重に両者を詮議し、また善政らに対抗する7名の者達にも協力を求めるが、千坂側に非があり、また妥協もしないと判明すると、一挙に7名の老家臣を処分してしまう。

こうした電光石火とも言える治憲の有り様、しかしこのような果敢な態度があればこそ、その後治憲らの改革はスムーズな進展となっていくのであり、治憲は尾張の「細井平州」(ほそい・へいしゅう)をその師と拝したが、その細井が尾張藩主と謁見したとき、米沢では「間引き」がなくなったと語り、これを聞いた尾張藩主は「それ一つにても大手柄なり」と語ったことが知られている。

治憲の改革は次第に効果を上げ、金や穀物の備蓄も増加して行き、膨大だった米沢藩の借金も、ついには返済ができるようになって行った。
そしてそうした治憲の傍らには、いつも治憲より16歳年上の莅戸善政の姿があり、善政の名は遠く徳川将軍にまで聞こえるほどだった。

江戸へ義父の見舞いに訪れていた治憲は、将軍家斉に謁見したおり、家斉から善政を褒められ、羽織3枚を送られている。

治憲、上杉鷹山が亡くなったのは文政5年3月11日(1822年4月2日)のことだった。

それから43年後の慶応元年(1865年)米沢の春日神社が火事に遭い、そこから偶然にも木箱に納められた一枚の手紙、いや誓書と言うべきか、そんな書面が見つかり、そこにはこう書かれてあった。

「文武の道に心がけること、言行不一致や賞罰不正などが無いようにすること、民の父母であると言うことを第一に考えること、そしてもし、これらを怠慢にすれば、たちまち神罰を受けて、家運が尽きても怨まない・・・」

上杉治憲が家督を相続したとき、ひそかに春日神社へ自身の誓いとして奉納した誓書だった。
殊勝で潔いもの言いである。






DNA引き算

多くの遺伝子はそれが由来する親の影響は受けない。
従って遺伝子刷り込みを示すのは例外的なことだが、哺乳類の胎内では父親由来の遺伝子が、自分の子孫を残すために胎児の発育を促進させ、母親由来の遺伝子が体力の消耗を避けさせるため、胎児が大きくなり過ぎないように働いているとする説がある。

つまり同じ胎児の中で母親由来の刷り込み遺伝子と、父親由来の刷り込み遺伝子は競い合って、子の特定の遺伝子の発現を調整している側面を持っている。

また人の胎児はその形成段階に措いて、端末の細かなディテールを構築する際、これらは積み上げ式で構成されず、引き算で構成される。

つまり胎児の手や足はその初期段階に措いて、しゃもじのような形をしていて指が分かれていないが、後期段階ではその指が分かれる部分に存在する細胞組織がプログラムに従って死滅し、それによって手や足の指が形成される。

更に運動神経の細胞、ここでもやはり端末が筋肉細胞に取り付いた部分が生き残り、その他の部分はやはりプログラムによって死滅して構成されていく。
つまり人間を構成する多くの構築プログラムは、大きなものから引き算によって構成されるものが多いのである。

この傾向は何を意味しているか。

例えば全く同じ塩基配列DNAを持つ一卵性双生児、この場合でも一方が障害を持ち、もう一方は障害を持たずに生まれてくるケースがあるが、この場合はどちらか一方の子供に、障害となる配列が加わって障害を起こしているのかと言うとこれは違う。

一卵性双生児の場合は同じ塩基配列でしかないから、基本的に障害になる因子は初めから双子の双方に存在し、ではなぜ片方が障害を持たないのかと言うと、片方には障害となる因子を削る、または抑制する要因が加わっているためと考えられるのである。

障害因子は最初からありきで、それを抑制する、死滅させる力によって、片方の子供は障害から逃れていると考えられていて、ここでも基本的には引き算の考え方が相当してくるが、これは癌細胞などにも同じことが言えるかも知れない。

癌細胞はその状態から「増殖」と言うように、まるで何かが増えてくるようなイメージを持つが、実はこうした因子は人類が基本的に素質として初めから持っている可能性があり、通常は癌細胞を抑制する作用を持つ遺伝子の働きによって抑制されているが、この抑制作用を持つ遺伝子の働きを更に抑制する遺伝子の働きによって、癌細胞が発生する可能性も否定できるものではない。

こうして見てみると、人間の持つ遺伝子の引き算的有り様は、そこから何故か遠くに「寿命」と言うものを想像させる部分があるが、癌にせよ障害にせよ、これが抑制される仕組みは、塩基にメチル基が結合するメチル化、DNAが存在する染色体の凝固などによって発現していると考えられている。

そしてこうした寿命や細胞的なプログラム死に深く関与しているのが「テロメア」(端末小粒)と言うものだが、これは各染色体の端末にキャップのような形で存在していて、哺乳類の場合はTTAGGGの配列が数百回繰り返されている。

これが存在しないとどうなるかと言うと、染色体同士が無秩序に融合してしまうことから、テロメアは染色体の安定性を保つ役割を担っていると考えられる。

しかしテロメアは細胞分裂を繰り返す度に短くなることが知られていて、それを再生しているのが「テロメラーゼ」と言う酵素であり、この酵素は生殖細胞では活性が高いが、やはり細胞が分裂、分化を繰り返すことによって減っていく。

そしてやがて摩滅したテロメアによって制御を失った染色体、つまり設計図は変調をきたしていくことから、基本的にこのテロメアと言う配列、テロメラーゼと言う酵素の働きが細胞の寿命、強いては生物の寿命に深く関与していると思わざるを得ないのである。

人のDNA、この配列は一般的には相当な密度で情報が入っているように思われるかも知れない。

だが実は人のDNAで遺伝情報を担っているのは僅かに数パーセントに過ぎず、残りは遺伝上何の情報も持っておらず、これをジャンクDNAと言い、遺伝情報を持つ部分のDNAを「エキソン」、遺伝情報を持たない持たない部分を「イントロン」と言う。

このことからジャンクDNAと言えば、通常イントロンの部分を指すが、一般に進化した生物ほどこのジャンクDNAが多く、単純な生物ではジャンク部分が少ない。

また細菌類に至ってはジャンクDNAが存在しない。

そして進化と関連して生物のDNA量を比較する場合、C値と言う比較方法が用いられるが、C値とは精子や卵子に含まれるDNA量、正確には半数の染色体が持つDNAの総量だが、これを比較する方法でその生物の進化の程度を測ることができるが、これは言わば、どれだけ多くのジャンクDNAがその生物に存在しているかの比較と言える。

それ故こうしたジャンクDNAを多く持っている人類などは進化の過程を多く踏んでいるのでC値は高いが、このC値を取ってみると実はイモリやカエルなどは人類のC値より遥かに高い数値を示す。

つまりC値だけを見るならイモリやカエルは、人類よりも進化した生物と言うことになるのだが、これを矛盾と捉えた人類の研究者達は、この矛盾を称して「C値のパラドックス」と呼んだ。

このように異常に高いC値を持つ生物のDNAはその殆どがジャンクDNAで、同じ塩基配列や良く似た塩基配列が反復して並んでいる部分が多く、従ってDNAの総量の多さが、必ずしも遺伝情報の多少に関係していないことを示しているが、こうしたジャンクDNAはその生物が進化する過程で、何らかの役割を担ってきたものと考えられることから、もしかしたら遺伝情報は少ないものの、進化の過程ではイモリやカエルの方が、人類よりもより多くの進化の過程を踏んでいるのかも知れない。

イモリやカエルは人類よりも、より多くの過去を持っている可能性があるのである。

最後に、女性が自分の子供を生めるようになるまでのその速さ、これは実は抑制されていないとどんどん早くなる傾向にあり、生殖腺刺激ホルモンや性ホルモンの分泌が、脊椎動物などでは脳の松果腺から分泌される「メラトニン」と言う物質で、抑制されることによって早熟にならないように調整されているが、このメラトニンは昼間光が当たるとその分泌が抑制され、主に夜間、暗い環境で活性化する。

それゆえ、夜も明るい現代環境によって、女性が生まれてから自分が子供を生むことができるようになるまでの期間が、年々短くなって来ていると言われている・・・。








第2章「気象と社会」

また、妙な話だが、こうした気象災害が頻発する時期は政治の混乱も発生してくる。

1987年にはソビエトが崩壊を始め、1989年1月20日には第1期ブッシュ政権が誕生し、1990年アメリカはイラクのクウェート侵攻に伴って湾岸地域にアメリカ軍の派兵を始め、その翌年1991年には湾岸戦争が勃発しているが、1989年にはイラン革命の指導者ホメイニがやはり死去、イランもここに変革の時期を迎えていた。

更に日本ではその激動の幅は大きく、1990年、湾岸紛争の始まりに伴ってバブル経済は崩壊、1993年には非自民連立内閣、細川政権が誕生するも翌年には崩壊、今度は羽田孜内閣が組閣されるが、これが2ヶ月の短命政権に終わり、ついで社会党と自民党連立と言う信じられない連立が起こり、社会党の村山富市内閣が成立するが、翌年に発生した阪神淡路大地震の対応のまずさから、この政権も崩壊する。

地震と気象には綿密な関係が有り、例えば台風が接近してくる地方と、翌日に震度4以上の地震が発生する地域は、前日の夕日に同じ兆候を示すときがある。

この現象は空気に色が付いて見える現象だが、台風が翌日通過する地域は、その前日の夕日が異様にピンク、若しくは紫がかって見えたり、時には黄色がかかって見えるときがあり、これは大きな低気圧でも同じことがある。

これと同じように、翌日震度4以上の地震が発生する地域でも前日の夕日が異様に赤かったり、またはピンクや紫がかって見えることが多い。

そして気温、一般に低気圧が接近する場合は南から暖かい空気を引き込んで気温が上昇する地域が出るが、地震の場合も比較的温度が高くなってから発生することが多く、また地震は天気の良い日に起こる地震は大きくなる傾向にあり、なおかつ風がない日や、風が止まった状態の時に大きな地震が起こりやすい。

こうしたことから少し話は逸れたが、気象に変動のある時は政治的にも経済的にも変動が起こる場合が多く、またこうした時期には、予想外に大きな地震も発生する確率が高くなっている。

気象の変化は波を描いている。
そこにはたとえ上昇するにしても、高くなったり低くなったりを繰り返しながら、平均で気温が上昇していくモジュールが見て取れるが、一般的な見方として、やはり1987年から世界の気象はその激しさを増してきているように見える。

これは何を意味しているか、日本を例に取れば分りやすいが、1993年は大変な冷夏で作物の不足が深刻な問題になったが、では翌年はと言うと、1994年夏は大干ばつと猛暑に見舞われ、この年はビールを含む飲料水と氷菓子だけで1兆円も内需が押し上がった。

つまり、1年ぐらいは寒い気候があっても何等おかしい訳ではなく、こうした気温の上下は、気象的にはそのサイクルの範囲だと言うことだ。

しかし、こうした気温や気象の激しい変化をもう少し長期的に見れば、将来的な平均気温の上昇を予見させるものがそこに存在しているように見え、この点に措いては今後1万5000年は続くと見られている間氷期の温暖な気候の中にあると見られるが、激しい気象の変動は、もしかしたらかなり急激な気温上昇を伴うかも知れず、その山の高ければ、その谷もまた深しであり、この場合の谷、つまり寒さも或いは予測の付かないほど深いものとなる可能性も否定できない。

またここ数年起こっている生物界の変化、海草もそうだが、深海魚の目撃例の異常な増加、蜜蜂の減少、またスズメの異常減少などは、気象との関連は不明だが、これらが意味しているものがあるとすれば、それは或いは、人間が漠然とでも予見し得る範囲の気象サイクルを超えた、地球的規模のサイクルが近づいているのかも知れず、この場合人類は、その存亡をかけて立ち向かわなければならない時を迎えるだろう。

ちなみに1994年夏、この年は干ばつからスイカが不作となり、なお暑さからその需要が増えて、スイカ1個が一番高いときで6000円になった。
この年から従来までは4つ切りで販売していた切りスイカが6つ切りになり、しかもその一切れが安いところでも900円だった・・・。





第1章「気象と経済」

およそ人間が漠然とでもそれを想像できる気象の範囲は数十万年の単位であり、例えば数億年に1度、数千万年に1度の気象的変化はそれを想像することも難しい現実があり、従って地球的規模の変化ほど人間はこれを予見することが困難なものである。

それ故今日人類社会を脅かす異常気象と言うものも、その気象サイクルのスケールをどこに持ってくるかと言うことで、大きく変化しているものか、または通常の範囲なのかの判断は異なる。

気象を数万年のスケールで見た場合、現在の気候は第4期の氷河期で、ビュルム氷期終了後の間氷期、つまり第4間氷期と呼ばれる比較的温暖な気候期にあたるが、現在の気候は約7000年前、この頃にはエジプトにも緑が繁茂していた時期だが、そうした時期よりは少し寒冷化しているものの、基本的には19世紀に終わった小氷期以降、温暖な気候へと向かいつつある。

寒冷化と温暖化は数千年、数十年でも常に波を持っていて、例えば前出の7000年前だが、この時期の気候は今の気候よりは遥かに暖かい気候であり、日本で言えば縄文前期ごろは軽装で生活することができたが、それが弥生期に入る頃になると、福岡くらいまで冬には雪が降るようになり、こうした背景から着衣に関して、その発展がめざましい進化を遂げていくことになり、また従来から広義では存在していた稲作も、その管理体制が少しずつ発展していくのである。

さらに日本の気候はこれから平安時代にはまた少し温暖化してくるものの、本質的傾向はその後も変わらず、もし江戸時代に現代の日本人が暮らすとなれば、今よりは相当冬が寒く感じるはずである。

そして19世紀以降、日本の気候は少しずつ温暖化に向かい、昭和35年(1960年)ごろから、この温暖な気候傾向は一段と加速されたものとなっていく。

また現代の気候だが、人類が消費するエネルギーによって排出されるCO2により、温室効果が発生し、それで地球の気温が上昇するとされたが、実際は世界各地で起こる寒冷化現象である。

アメリカ、チベット、日本などもそうだが気温の低い状態が続き、植物や動物の生態系に深刻な変化が発生している。
海底では水温が低いにも拘らず、海草などが海水温が高い夏の状態を示していたり、密蜂の急激な減少などが発生して来ている。

こうしたことから考えなければならないことは、良きにつけ悪きにつけ、人類は自身を過大評価しないことではないだろうか。
例えばCO2だが、実はCO2で温室効果が発生するためには、世界各地で火山活動が活発化して、それが続かないと自然の状況では温室効果は得られない。

また基本的に地球の大気温は、地球がはね返す太陽光の割合の変化の方が重大であり、これを決定するのは地球の雪の量や、雲の存在にそれが起因しているとされることから、地球の気温上昇の鍵は人類の営みによって左右されるほど単純なものではない可能性がある。

そして気候は常に波があり、現在起こっている日本の寒冷化だが、これは10年、20年の単位ではサイクルとして起こってきているもので、決してその範囲に措いては異常とまでは言えないものでもある。

例えば1993年、この年、日本は大変な冷夏に見舞われ、日本の夏の平均気温は2度も平年を下回った。
そのために起こってきたのは太平洋戦争後初めての米不足であり、国内季節商品の販売不振による経済の急激な落ち込みだった。

また1984年にはアフリカの大干ばつ、1987年にはバングラディッシュの大洪水、1990年からは日本でも記録的な台風上陸現象が起こっていた。

更にこの1990年を取れば、この年の1月には中心気圧954hpと言う強烈な低気圧が西ヨーロッパを襲い、暴風雨や雪を各地にもたらし、この時の死者は100人にも及び、1992年8月24日には中心気圧932hp、最大風速78m/秒と言う大型ハリケーンがアメリカを襲い、翌1993年にはミシシッピー川が20世紀最大の洪水を起こし、周囲のトウモロコシ畑や大豆畑が壊滅、これによって穀物市場は大混乱になったのである。

更に1993年だが、この年は世界的な気候の変動があり、モンゴルは4月半ばまで氷点下40度の寒波に遭い、死者は12名、家畜に至っては67万5700頭が凍死したのであり、ヨーロッパは1993年11月から寒波にみまわれ、ウクライナのキエフでは平均気温が例年より6度も低い異常な寒波に晒されたが、それから一転12月には気温が上昇し、今度は雪が雨に変わって、その雨が止まらなくなる。

パリでは連続20日間雨が降り続き、ドイツ・エッセンでは連続降雨27日、実にヨーロッパは広い地域で例年の3倍近い降雨を記録し、その結果がボンやケルンなどで起こったライン川の大洪水につながり、こちらも20世紀最大の大洪水となったのであり、実にライン川は10mも水位が上昇したのである。

こうした気象災害は何をもたらしたか、それは経済に与える影響である。

1965年から1986年までの国際社会は、被害額1000億円を超える自然災害を経験していないが、この翌年1987年にはヨーロッパの暴風雨により、4000億円の被害が発生、更に1991年にも暴風雨で4700億円、1992年日本に上陸した台風19号の被害は6000億円、同じく1992年アメリカに上陸したハリケーンの被害は2兆円、1993年日本の冷夏による損失は2兆円、同年7月から始まったアメリカミシシッピー川の氾濫による死者は48名、5万4000人が避難し、被害家屋は51400家屋、トウモロコシ、大豆の生産額は対前年比それぞれ24%減、13%減となり、その被害額総額は2兆7000億円だったのである。


                          第2章「気象と社会」へ続く




プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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