「回答書簡・7」

兎は後ろ足が長く前足が短い。
だから兎を追う時は山の上から下に向かって追い落とすと、慌てて走れずに転がって行く。
それを山の裾で待っている者が捕まえると容易い。

だがこれは決して兎だけに限らず、人間でも山に登る時より降りる時の方が危なく、階段などでは確実に上がる時に踏み外すより、降りるときに踏み外す方が怪我は大きくなる。

一般的に生物は前に進む事、上がっていく事を主体にその構造が為されている事から、精神的な部分でも同じ事が言え、逆境や苦難にはある程度の耐性が有るが、その反対の状態となると、極めて脆い。

生物が生きて行く事は元々大変困難な状況にある為、もしかしたら困難な状況に立ち向かって行く、漠然とした本能を身につけたのかも知れないが、これが長じて快楽や安楽の状態に有ると、結果としてその様な状態は体や精神の後退をもたらすのだが、そこから抜け出す術は身に付いていないと言う事なのかも知れない。

そして基本的には人間も生物の理の中に在る事から、他の生物よりも安楽の状態、安全の状態が多いとは言うものの、それでも安楽な状態や安全な状態と言うのは長くは続かず、ここで安楽な状態を主として考えしまうと、生きていることが不満や裏切りだらけになってしまう。

約束は破られ、裏切られ、貶められるのは世の常で有り、これが正しい状態と言える。
生が有り死がある以上いつか人間は裏切らざるを得ず、自分のものだったあらゆる全ては確実に失われ、しかもそれは時間の問題と言うものだ。

いや、例え死が訪れずとも自らが生きて、親兄弟、妻子の安寧を思う時、やむを得ないとしても必ず人を裏切ったり、約束を守れない時が出てくる。

自分ですらこうだ、人から裏切られたくないと思っている、その自分が既に間違いなくいつかは裏切らざるを得ない時を迎える。
それゆえ、人を責めてはならず、自らも自分はいつも間違っていないと思ってはならない。
今日は言葉を守れても、10年後にそれが守られなければ、自分の一生を考えた時、それはただ時間の問題、或いは約束を守る事の困難さの程度にしか過ぎなかった事になる。

だから約束は守れるとは限らず、金の為には平気で人を裏切るし、どこかでは人の気持ちなど信じていないと言わざるを得ないのは、いつかそうした時が訪れた時の為で有り、その時は事前に裏切る旨を相手に伝えれば良い。
人間は弱いもので、こうでもしておかないと、いざ裏切らざるを得ない場面に遭遇した時迷い、悩み、苦悩して多くの労力を費やしながら判断を誤る事が多い。

また策略や自分の心に対する嘘は損失が無いから良いが、相手の有る場合の、しかもつまらん嘘は何でもない事に大変な労力を要する為、親兄弟、妻子や友人の間では尚の事避けるべきだ。
繕った平和など簡単に壊れる。

多少揉めてたとしても皆が言いにくいことを先に言える環境、それが許される環境を作っておく方が望ましい。

それと形に残る物を贈られたら、その者とは遠からず関係が切れるか、若しくは自身が苦痛になってくる時が訪れるので注意し無ければならないが、これは自分にも言える事で、例えば恋人や妻子でも、自身の持つモラルや社会的道義と完全に一致する事は有り得ない事から、手紙などを送ると、場合によってはそれが相手の友人の中で回し読みされ、笑われている時が出るかも知れず、そうで無くても結婚しても一生添い遂げられる事が困難な今日、下手に契約書になるような手紙は書かないことだ。

告白は本人の目の前で、口頭で行うのが一番気持ちが伝わるし、将来関係が解消されても証拠が残らずに済む。
つまり男女の間では手紙や形に残る物を贈り合わないように、花や食べ物にして置く、相互にいつでも逃げられるようにしておかないと「縛り」が出てきて、気持ちを満たすための労力ばかりが増え、それで維持される物は「通常」と言う厳しい状態になる。

更に基本的には必要条件がない、つまり完全にペットして犬や猫を飼っている人間よりは、金魚や亀などを飼っている人間を選ぶと良いかも知れない。

これは「支配」の問題なのだが、人間が他の生き物を飼う場合、支配に対して「反応」のある生物を飼っている場合、人間に対しても同じ傾向が有り、これが金魚など支配に対する反応が少ない生物を飼っている人は、人間でも相手の中から良い部分を探して付き合おうとする傾向が強い。

ゆえに犬や猫を飼っている人を配偶者に選ぶ場合は、ある程度の「支配」を自分が覚悟しておく必要が有り、これを避けたいと思うなら水棲動物を飼っているか、若しくは「ペットを飼うのは面倒臭い」と言う人を選ぶと失敗が少ないかも知れない。

最後にビジネスで人を選ぶなら「手に入りにくい人」を選べ、恋愛や結婚で人を選ぶなら「簡単に手に入る方」を選べ・・・。
金になる人はそう安易に転がっていないから門の狭い方が利益になり、そして恋愛や結婚は「愛するよりも愛される」方が苦悩や将来のリスクが少ないからである・・・。

そしてくどいがもう一つ、山を登るより下る時が危ないのと同じように、人も出会う時より別れる時が遥かに難しく、実は別れる時の在り様こそが次のチャンスに大きく関係してくる。

彼女に高額な貴金属を贈り、その後別れる事になったとしても、くれぐれも贈った物を返せとは言ってはいけない。
回収して質屋で換金した金額以上の悪い評価が元彼女の周囲で広がる事になるから、一言「そうか、今まで有難う」と言って、もう二度と会うことも連絡も取らない、そんな男が格好良いと思う・・・。

昨夜少し遅くまでかかったが、どうやら記事にすることが出来た。
N・Kさん、Y・Kさん、そしてT・Mさん、良い人と巡りあって、
幸福な家庭を築いてください。期待しています。
いつまでもお元気で・・・。

有難うございました。
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「回答書簡・5」

尊敬と言う言葉が有るが、ではこの尊敬は人から押し付けられて持つことのできる気持ちだろうか、若しくは罰則を付加して、その罰則を根拠に「尊敬しろ」と言われてどうにかなるものだろうか、それはできまい・・・。

強制されて取り敢えず「分かりました」と口にしたところで、心の中では「ふん、誰が尊敬などできるものか」と思うはずである。

だがその一方尊敬には例えば品物を送ったり、手紙を書いたりなどの「形」として現れるものも存在してくるが、この形を中心に考えるなら、同じ形の両極端に「尊敬」と「強制された尊敬」が存在し、片方は自主的な意思、そしてもう一つは強制で有り、ここに尊敬と言う形を巡って同じ言葉で有り乍ら、自由と独裁に近いものが現れてくるのであり、「法」の概念にも同じ事が出てくる。

誠意、正義なども然りだが、これは基本的に「人」を指しているのであり、同じ尊敬でもそこに両極端な相違が現れてくるのは、尊敬と言う気持ちを持つ側と、そうした気持ちを被る側が出てくる為であり、この両者間では同じ尊敬を巡って北と南、寒暑の違いが出てくるからであり、これを一装束に考えてしまうと、「対立」や「矛盾」が発生してくる事になる。

即ち「尊敬」と言う言葉を巡っては、その気持ちを持つ側と、それを被る側相互が「尊敬」と言う言葉を大切にする気持ちがないと成立しないのであり、「法」も全く同じで、こうした関係に措いて世の中が動いて行く在り様を「天意」と言うのである。

凡そ人の気持ちの代償は金銭や物品なら、その者が持つ全ての財力をしても贖い切れるものではなく、こうした気持ちを得る為には金銭物品を超えた何かが必要なのであり、それは形と際限を持っていない、そんなものを与えることによって、始めて際限のない恩恵である尊敬を得るに至る。

そして「家族」とはあらかじめ完成されている集団で、常にその時点の状況から変化、衰退していく集まりでもある。
この中に有って、例えば年長者は尊敬される立場で有るが、それには長年生きてきたいろんな知恵や処世術を示したり、そして子孫に対して無限の愛情が無ければ尊敬は得られない。

毎日パチンコに通って酒を飲み、孫程も年齢差のある女の所に入り浸ってるなら、家族や子孫はどうしてこれを尊敬などできようか・・・。
しかし、年長者が豊かに老後を過ごすのは「権利」だと思った時から、そこには子孫に対する強制や独裁的な意思が芽生えるのであり、子孫は自身の良心と現実のギャップに苦しむ事になる。

1970年と現在の高齢者とを比較すると明確に現在の高齢者は質が悪くなっている。
つまり家族から尊敬を得られる行動が少なくなり非行化しているのだが、この背景は「尊敬」が持つ「形」に有る。
国家が発展し、社会福祉が充実して行く過程で、本来は尊敬に値する行動や姿勢が有って始めて尊敬され、それによって子孫によって保証されてきた老後生活に、社会保障が干渉し過ぎて「与える事の必要性」が無くなったのである。

つまり社会保障によって経済的に独立した高齢者は、自らの姿勢や生き方を通じて尊敬を得る努力をしなくても、生活が成り立つようになったのであり、基本的には暴走を始め、それによって家族は核家族化し、何等尊敬されるに値する行動が無くても尊敬が持つ「形」を手に入れる事ができるようになり、ただ恩恵の中に有って今度は自身を尊敬するのは当然の事だと言う話になって来たのである。

過度に充実し過ぎた社会福祉はこうして親の顔が見えない子息と令嬢を作り、子供の顔が見えない暴走高齢者を作ってしまった。

それゆえこうして少子高齢化社会に陥り、経済が徐々に衰退していく今日、基本的には尊敬に資する姿を示さねばならない高齢者が自らを律し、後進に道を示さねばならないにも拘らず、その「形」を国家が代行している現状は、マクロ的には与え無ければならない事を理解し得ても、ミクロでは決して譲歩できない状況を生んでいる。

これはとても不幸な事だ・・・。
東洋思想の最も深遠な部分である「天意」が逆流している。
自由と独裁や強制の関係は表裏一体のものであり、得る者も与える者も表裏一体で有る。
尊敬や子が親を敬う気持ちと、それに資する生き方を示す親の関係は明確な形こそないが、この世で最も強力にして社会思想の根底を為すものである。

これが社会福祉や経済、金で支えられている社会は余りにも脆い。
金が無くなったら全てが崩れ去る事を知っているからこそ、それを恐れ経済至上主義から離れられない。
結局「天意」の種すらも食い尽くして行くようなこの社会、言い換えれば民衆と言うものが私は悲しいのである。

Sさん、N・Mさんこれが解説です。
以上をして、暫く回答記事に付いても中々書けないかも知れませんが、
ご了承ください。

また翻訳、記事の転用は全て無条件に許可されていますので、
こうした関連の許可申し込みのご連絡は必要ありません。
有難うございました。

「回答書簡・4」

おかしなものだが、この世界は全て現実に対し、それを処理打開して行かなければならないにも拘らず、人間はどうも感情をしてこれを考えてしまう。
現実には意思はなく、それはひとえに環境と言うものであり、この意味では全ての場面で答えはそこに揃っている。

どんなに困難に見える事でも、まるで水が僅かな隙間を伝って行くが如くでも、必ず道は用意されているが、これを曇らせるものは「心」と言うものだ。
人の心など有って無いようなもので、その本心など自身ですら理解できていない、いやそもそも存在すらしていない。

自分の「心」が解るか・・・。
今、喜び、悲しみ、苦しみの中に有って、それが何かを本当に理解しているだろうか。
同じように人もまた自分の「心」を全て理解する事は困難なものだ。

だから答えは簡単だ。
与えられた仕事を忠実にやっていくだけであり、人が何を考えているかは関係が無い。
人から良く思われたいか、仲良くして貰って笑顔で付き合いたいか・・・。
で、それでどうなる、自分の何が変わるのかな、仕事の能率が上がったり自分の能力がそれで向上するくらいなら、随分と覚悟の浅い仕事ぶりだったとは思わないか。

自分が天職とまで思った仕事なら、それは会社との契約も然ることながら、天との契約でも有る。
天と結んだ契約に他人の言葉など如何程の事が有るだろうか、嫌がらせや中傷がどれほどの意味が有ろうか。
よしんば明日解雇されるとしても、その言葉を実際に自分の耳で聞くまでは利益の為に働くのが正しい有り様と言うものだ。

人間は褒められると気分が良くて、怒られたり悪く言われたりすると気分が落ち込むものだが、これは気分で有り現実では無い。
眼前に広がる現実は気分には一切の関係が無い。

同僚や部下から如何なる言われ方をしようと、会社が辞めて下さいと言わない限り、給与が支払われている限り、他人の言葉は関係なく黙って自身がその職務を忠実に果たすべきではないかな。

社員の会社に対する忠誠心に会社が果たすべき責任は「給与」が全てだ。
上司や同僚からの信任、或いは仲間意識はその会社が有ってのものであり、そんなものを基準にして自分を測っていては自分を見失う。

家に帰れば妻子がいるなら、今はそれが全てだ。
他に誰が自分など頼ってくれようか、信じてくれようか、いや信じて貰えていないとしても、かつてはこの女さへいてくれれば自分も生きていけると思ったのなら、その証を今果たせ。

男としての誇り、人間としての誇りなど如何程の事や有ろう、そんなものでは腹の足しにはならない。
考えてみると良い、我々は何の為に働いているのかな・・・。
社会の為か、会社に良く思われたり同僚と仲良くなる為か、そうではないだろう、食うために働いているので有って、浮気の一つや二つは構わんが、かつて自身の青春を賭けてくれた女とその子供に服を着せ、腹一杯飯を食わせる事を忘れた誇りなど、ただの意気地なしと言うものだ。

自身にやましい事が無いのなら胸を張って、笑いも泣きもせずに会社に行くことだ。
今でこそこうした豊かな社会だが、かつてほんの100年ほど前の日本でも飢えで女房や子供の死体まで食べてしまう時代が存在していた。
それを思えば「食うことができる有り難さ」を思った方が良い。

この世の中は善人の上にも悪人の上にも等しく陽が差し、その行いが正しいから報われるとは限らず、行いの悪い者の上にも恩恵の雨は降り注ぐ。
それゆえ自身の行いの良い事をして、善で有る事をして何かを求める事は虚しい。

行いの良さ、善で有る事をして災いを免れる事はできず、そこに広がるものは現実だけだ。

会社で惨めな思いをするのと、家に帰って妻子が惨めな姿を晒しているのではどちらが辛いか、実際妻子が惨めな思いをしている事は、それが自分自身では無い分理解しにくく、直接自身が被る会社での惨めさばかりを思うかも知れないが、それに耐え切れず妻子の惨めさを忘れる事こそが、男として人間として誇りを失う事ではないだろうか。

そして会社からもう来なくて良いと言われたら、「有難うございました」と言って去って行けば良いので有って、今自分の推測だけで動く事を私は勧められない・・・。
人間の歴史は常に愛する家族と共に、生まれた土地で穏やかに暮らす事を求め続けて来た歴史でも有り、しかもこれが全ての人に叶えられた時代などただの一瞬も存在しない。

こんなささやかな望みすら人類は手に入れる事が難しい・・・。
そんなことも少し考えて貰えたらと思います。

ただ、人の事情や考え方は千差万別で有り、これが正解だと言う事はできない。
自分の生き方は自分でしか決められない・・・・。

有難うございました。




「重複徴収社会」

国家と経済の関係は本来相互不干渉、若しくはできるだけ国家が市場という民衆経済に介入しない事が望ましく、国家が市場経済に干渉すればするほど、経済的困窮者から順に事実上の重複徴収現象に見舞われ、富める者と困窮者の格差は拡大していく傾向を示す。

租税が個人収入に対して一定の割合で徴収される「所得税」で構成されている場合、その社会や国家は負債が少ない状態に有ることが解る。
しかし社会や国家の負債が増大した時、これは必要経費が先に発生している事になり、計画経済国家から、負債処理国家へと陥落している事を示していて、その最たるものが消費税や目的税と言うものである。

一般に消費税など広く薄く国民全体から徴収される租税は、生活必需品にまで課税が施行されると、例えば一日に消費する食料品や灯油などの消費支出は、富裕者も経済的困窮者もそう大きな増減がない事から、経済的困窮者が被る負担割合の方が富裕者よりも遥かに大きくなり、これが「環境税」などの目的税に至ると、経済的困窮状態に有る民衆から税の形で集められた資金が、それより大きな資本力を持つ所に配分され、結果として貧しい者から金を集め、資本家に金を回して、資本家はその金で更に利益を上げる構造になって行く。

つまりこうした構造を見ていくなら、社会や国家が疲弊し貧しくなって行く時は、国家や社会構造自体が苦しい民衆から金を搾り取り、それがより豊かな者へと集まっていく傾向に有ると言う事で、これは国家の税制だけでは無く、経済でも同じであり、従って何をしてその国家の豊かさを量るかと言えば、貧富の差が拡大傾向に有るか否かをして、国家経済の衰退を量るのが一番事実を反映していると言える。

そして一般民衆が一番気づかない事では有るが、為替相場の「円高」の恩恵である。
経済を語るとき、その指標がより多くの雇用を抱える大手企業重点に考えられることから、政治もマスコミもその視点に立って物事を考える為、「円高」は悪いものだと言う印象が有るが、実は「円高」は民衆に富が分散されている状態なのである。

為替動場は基本的に同じ量の水が右のコップに余計に入っているか、それとも左のコップが多いかと言う事で有り、その総量に変化は無く、簡単に言えば金が民衆に分散されているか、企業に集中しているかと言う状態の区分でも有り、例えば灯油などは「円高」で有れば日本国内では安く買えるが、これが「円安」になれば、日本国内の灯油価格は上昇する。

更に「円安」は輸出産業に取っては、恩恵になるが、前出の灯油のように一般大衆の負担は増大する訳であり、その増大した一般消費者負担分が輸出産業などの大手企業の利益に組み込まれる、或いは資本家の利益に組み込まれ、一般大衆は消費税や目的税負担に加え、大企業利益までも負担していく事になる。

これが安易な「金融緩和政策」と言うものであり、大企業指標しか見ない国家やマスコミは「円安」による景気回復を声高に唱えるが、その実一般大衆の現実は更に苦しくなる元凶だ。
日本経済は経済的弱者や力の無い者、中小企業など端末から先に音を立てて崩れていく

中国「秦」の時代の租税は収穫の1割りだった。

勿論労働で税を収める「人頭税」なども有ったが、基本的に古代中国の租税はこの1割の租税を元にその治世の質が量られ、「秦」から移行して「前漢」を打ち立てた「劉邦」(りゅうほう)はこの租税負担を15分の1に改め、その後「前漢5代目・文帝」はこれを30分の1に、最終的には租税負担0にまでしたのであり、このように前漢初期の政策は「農業政策」と言う最も基本的なハードの充実だった。

如何に道のりは遠く困難なもので有っても、基本的な問題を解決する方策を取らないと、一時は良くても直後に更なる大きな問題が起こってきて、それを小手先だけで逃れていると、いつか引き返すことのできない、取り返しの付かない事態に陥る事は必至で有る。

民衆から集められた金が企業に集積し、それが雇用条件にまで活かされるには3年はかかり、しかもその途中で企業は利益を蓄える事から、それが民衆の恩恵に至るとしても、払った金の10分の1程も戻ってくるか否かに過ぎず、その間に国際情勢によって何らかの問題が発生したら、民衆はひたすら負担し続けて、最後は自分から先に飢え死にしなければならない、その可能性は高い。


S・Nさん、N・Mさん、O・Yさん、私は「アベノミクス」などと言う言葉自体が既に笑止千万だと思っています。

また、どうやら箱根が少し揺れてきているのではないでしょうか、ここや富士山は4枚のプレートがひしめき合っている箇所で、箱根は3000年前には大規模な水蒸気爆発を起こしていたかと思います。

各地で2日前から振動は無いのにドーンと言う音ともに窓ガラスなどが振動する「空振現象」が報告され始めています。

これは火山や地震活動が活発化してくると多くなってくる現象ですが、噴火口より1000km離れた地域でも発生する時が有ります。

そして火山が噴火する3日くらい前には、「ゴー」と言う音や「ドドド」と言う音、或いは「ドーン」と言う音、特殊なケースでは「ポン」と言う鼓を打ったような音がすると記録されていますし、直前には山から白い雲が急激に発生する場合、或いは何本も枝分かれした雷が発生するとも言われています。

どうか、お気を付けください。






「組織力の上限」

10人の人がいて、その10人で何事かを為す時、為されるべき事の速さ、正確さ、重きは、10人の中の最も力無き者が為す範囲を上限とする。

一つの組織を知るとき、該当する組織で一番仕事が遅く、かつ事情を抱えている者が為す範囲を見れば、その組織がどれだけの事を為し得るかを知る事ができる。
つまり一つの組織の最大の力は、その組織内で最も低い仕事能力者が行える仕事量が上限なのである。

どれだけ優秀な者が揃っていようと、その中で一人でも連絡が遅い者が有れば、全ての連絡が伝わる速度は、この連絡が一番遅い者の速度にしかならず、家庭の事情で悩み、行動が遅い者が有れば、組織の行動力はこの一番遅い行動力の者の速度が上限となり、もし組織がこうした能力の低い者を無視して動き始めるなら、下から順次非能力者を発生させ続け、最後は一番優秀な者以外は全て非能力者となる。

それゆえ一人でも「窓際族」を発生せしめた組織は、以後必ず誰かを窓際に押しやるようになり、こうした状況を改善しようとはしなくなるばかりか、常に競争社会に有る人間は、ライバルをそうした劣化した状況に追い込む傾向を持ち始め、ここに組織は分裂に向かって歩き始めるが、基本的には学校で発生する「いじめ問題」も本質は同じであり、これは事実上崩壊に伴う離合集散の一歩手前の状態である。

だから組織はその組織内で最も仕事が遅く、家庭や金銭面で最も事情を抱えた人間を、如何にその状況から引き上げるか、引き上げる力を持っているかによって、その最終的な力が推し量られる事になるので有って、この場合組織にどれだけ状況的にマイナスでは無い、プラスの人間が多く存在しているかによって決まってくる。

例えば金の無い者が集まって利益を出す相談をしていても、基本的に現在ですらマイナスなのだから、当然それよりはリスクの大きい未来は更なるマイナスにしかならず、アイディアが無いからと集まって相談する会議では、皆がアイディアを求めて集まっているだけで、決してそこからアイディアは生まれない。

結果として集まった人間の中で最低レベルにある人間の状況に引っ張られ、組織を重んじるなら、この最低レベルの者に歩調を合わせるざるを得なくなる、これを妥協案と言うのであり、妥協案は問題解決ではなく問題の先送りであり、問題と言うものは先へ行く程解決が困難になる。

そして国家と言う単位でもこの事は全く同じで有り、国民に逼迫した状況に有る者が多い国家は、その国家も逼迫した国家となり、モラルが無い国民が多い国家は国家自体もモラルが無い状況に有る。
ゆえ、その国家で最低の状況に在る者が、その国家の現実であり、こうした事から国家が為さねばならない事は一番底辺の引き上げ、或いは切り捨ての選択なのである。

しかし組織で有れ国家で有れ切り捨てはできない事で有り、従って組織も国家も力を蓄える時は一番能力の低い者、その状況を生み易い者を引き上げる事が重要な訳で有り、国家で有ればまず一番貧しい者を引き上げる政策を行う事である。

豊かな者は数が少ない、そして貧しい者、困窮した者の方が常に多いものであり、豊かな者に幾ら金を上積みしても何等効果は薄いが、同じ経費を使うならその経費で貧しい者を救う場合、豊かな者より遥かに多くの者を救う事ができ、尚且つその国家は治安も安定し、その分力を蓄える。

この事から一つの国家が経的衰退を迎えた時、それを打破する、または緩和する場合、上層部を救済するのではなく、最下層の国民を救済する事が効果的で有る。

だが、国家的衰退期に有る国家と言うものは、その以前には繁栄を極めた国家で有る場合が多く、一度繁栄を極めた国家は個人が持つモラルや道徳観念の「形」を国家が代行する仕組みになってしまっている状態が多い。

つまり本来なら個人が為すべき道徳観念の「形」、例を挙げるなら「親孝行」や、「人としての道」を国家が「社会福祉」として代行してしまい、ここから経済が衰退を始めると、国家は道徳観念と経済の興亡に巻き込まれて動きが取れなくなる。

実に今日本が抱えている問題は紀元前の昔から大きな問題だった。
重臣たちが高齢化して働かない割には、そこに権力も富も集中し、一般の民衆は苦しい生活を余儀なくされるが、これを改善するときは年長者を切り捨てるしかなく、これだと「年長者を大切にする」「人としての道に背かない」と言う「礼節」にぶち当たる訳である。

この原因と解決策は比較的簡単な事だ。
道徳や礼節は本来個人の責任に付託されるべきもので有り、この大系は国家が指針とならねばならないが、そこに国家が手を出してしまうと個人の責任が国家に添加されてしまう。

つまり、国家は本来個人の付託に任されるべき社会福祉を過度に拡大してはならず、過度に拡大してしまった場合は、年長者の富や権利を剥奪し、それを個人という民衆に分配し、個人に本来個人が持つはずのモラルや道徳を返還する作業を行わなければならない。

が、この事は言うは易く、行うは難しいこともまたその歴史が証明している。
現在の日本は高齢者と言う働かず、それでも国家から支給されるお金で余生を楽しむ者で満たされている。

従って日本と言う組織はこの高齢者の在り様を上限として、物事を考えねばならないのである。

M・Mさん、これがお話していた組織力の上限の原文です。

2006年に作成したものに少し手を加えましたが、このままですと高齢者差別と捉えられない可能性が有り、少し補足しておくと、現在の年金制度を一律最低年金額で月額一人5万円までに引き下げ、その余剰分を親と同居する子供に支給し、現在一家庭が親子で分散している非効率を改正し、縮小社会を目指して整理統合を促進する意図が有り、この場合一番の問題は拡大した女性意識になるかも知れません。

多分私は自分以外の全ての人間を敵に回してしまう人間なのかも知れません(笑)
有難うございました。






「手カセと足の裏」



Juliana Schano - Tell Me Again (Gamera Music Video)・・・・・・

幸福の「幸」と言う文字の意味、その起源は洋の東西を問わず同じニュアンスにある。

西洋思想が「平和」を戦争が無い状態と考えた経緯と同じように、古代中国でも何か悪いものの隙間、その僅かに解放されている状態を指しているので有って、それは自身が求めてどうこうなるような生易しいものでは無かった。

「幸」の象形文字は上下から厚い板でガチンと手首を挟む、所謂「手カセ」の事である。
「幸」の発音「コウ」は「刑」の発音「ケイ」と同系の流れにあり、元々は刑罰を受ける時に拘束具として使われた「手カセ」に起源を持っている。

古代中国の民衆が思い描く「幸せ」とは随分切ないものだった。
僅かな事で囚えられ罰せられる、徴兵にかり出される、それだけでは無い、自然の力は大きく一瞬にして洪水で田畑の作物が失われるかと思えば、次の年は干ばつで飢えがやってくると言う有様で、常に幸せとは反対の状態が多かった。

それゆえいつも恐れと不幸の連続の中に有って、僅かにこうしたものから逃れられた時間を「幸せ」としたのである。

「棄」と言う文字が有るが、この字がそうした状態を良く現している。
「棄」「キ」と言う文字は「子」と言う文字が逆さになった状態と、「チリトリ」の文字、それに「左右の両手」を現す文字の組み合わせだが、子供が生まれるとき、赤ちゃんは母親の体内より頭から出て来るのが通常であり、従って赤子を指す場合は「子」を逆さまにした状態で使う。

この事から「赤子」と「チリトリ」、それに「左右の両手」が組み合わされた「棄」と言う文字は、冷害や干ばつで作物が収穫でき無かった年、「口べらし」として、生まれて来た子供が直後に「チリトリ」や現在で言うところのスコップのようなものに乗せられ、親の両手によってどこかに捨てられる、その余りにも苦しい、凄惨な生活の状態を現す文字なのである。

現代社会は「棄権」や「放棄」など、「棄」をあたかも軽く能動的意味で使っているが、その本来の意味は逃れられない絶対的なものの中に存在している受動的状態で有り、この意味に措いては「幸」もまた、それが人為的なもので有っても絶対逃れられないとしたら、やはり僅かに訪れる受動的状態に対するものである。

従って「幸せ」とは何か良い事がある事を指しているのではなく、悪い状態が無い事を指していて、しかもそれは希にしかない時で有ると言う事で、「棄」はまたどこかで槍の先のような鋭さと、禍々しい感じがするのは、このように凄惨な形容が文字の起源になっているからである。

そして「幸」の文字の隣りに「膝まづいた人」を並べると「執」と言う文字になるが、これは人間を捕まえ、その両手に「手カセ」をはめた状態を現していて、我々が使う「固執」や「執着」と言った言葉は、何となく自分が何かそうした状態に陥っている事のように考えるかも知れないが、元の意味は相手を捕らえて身動きできない状態にする事を言い、この「執」に「力」が加わると「勢」と言う事になり、つまりこの文字は民衆を有無を言わさず支配する、権力者の有り様に起源を持っている訳である。

ちなみに同じ「執」を含む文字で「芸」(藝)と言う文字が有るが、これは「木」と「土」に「人が両手を差し出した様子」を表していて、土の上に木や植物を植えて人間がそれを世話している状態を現している。

ゆえ、元々は「藝」の文字から「云」を抜いた文字が正確な文字と言え、後年「云」(ウン)と言う発音音符を添えた「芸」と言う文字が当てられたが、、「芸」は本来「ウン」と言う発音であるべきかも知れず、「藝」の意味するところは、植物や樹木の枝を切り、これを美しく管理する「園藝」の事を指す。

つまり「園藝」の「園」にどちらかと言うと意味が依存した文字であり、自然の植物に人間が手を加え、美しい形を作る方法を「藝術」と言い、今日我々が使う「芸術」と言う言葉は「園芸作業」からの派生文字なのである。

そして末尾では有るが「幸」と言う文字がでてきた事から、「愛」に付いても少し書いて置こうか・・・。
「愛」の下部、「久」と言う文字は人間の足の裏を現す文字で、しかもこの場合は足を一歩後ろに引きずった状態、或いは躊躇した状態を指している。

同じ「久」を下に持つ「憂」(うれい〕と比較すると随分面白いが、「愛」も「憂」も同じ足の形を現しているので有って、しかもそれは「足を引きずる」または「足が進まぬ」状態と言え、「愛」と「憂」が同じものだとは言わないが、その半分は同じものとし、しかもその事によって現れる対外的状態はよく似ていると考えた訳である。

実に人の世の、人間の心の機微が良く現されている文字ではないか・・・。

本質的に4000年前も2000年の以前も、そして今も人間の営みは変わらず、社会や政治、経済もその問題の本質は何も変わらない。
だから色んな事で言語や文字は変遷して行ったとしても、どこかでそれはその文字が生まれた背景を持って存在し続ける。

言語や文字はある種の限定であり「縛り」だが、やがてはそれが「形無きもの」への広がりへと繋がるものでもある。







「氷湖の番人」



Cedric Gervais - Molly (Official Music Video) [HD]・・・・・

氷の張った湖の先に目的地がある時、例えばその氷の厚さによって、体重57kgの人と80kgの人では目的地に達する方法の選択は異なる。

氷が60kgまでなら耐えられるが、それ以上の重みが加わると割れる場合、体重57kgの人はその氷の上を渡って、早く目的地に到達する事が最善の選択なるが、体重が80kgを超える人の場合、氷の上を渡らずに湖の周囲を迂回し目的地に到達する方策が最善となる。

だが現実には湖の氷の厚さはその縁に立っていたのでは解らず、従って体重何kgまでの人が安全に渡れるかは解らないので、もし時間的余裕が有るなら、湖の縁を迂回する事が最善の方策となるが、人間は中々これができない。

「もしかしたら大丈夫かも知れない」と思うからで、これは常に人間の状態と言うものが「追われている」状態にあるからで、これでも普通な訳だから、更に追われた状態の者がどう言う選択をするかと言うと、薄氷の上を体重80kgの人をして「もしかしたら行けるかも知れない」と渡らしめるのである。

そして人間が追われるのは何故か・・・。
それは自他を含めて「約束」をするからである。
中世以降のヨーロッパ社会が「自由」を「契約が存在していない状態」とした事は言い得て妙だった。

約束や契約は未来に措ける自分の拘束で有り、これが歴史年代が古ければその未来は現在からそう遠く離れていないが、現代社会の未来は現在からの乖離が大きく、遥か先の未来までも自分を縛ってしまっている。

また基本的に存在すると言う事は、そこに安定を求めることから、最終的には量的誤差は有っても正負を含めて何らかの蓄積が生じる。
つまり若い時には体重57kgだった者が今は80kgになっていて、しかもその事を忘れている場合が多い。

為に若い頃は渡れた事を思い、薄氷の上でも追われていればついつい「何とかなるかも知れない」と思うのであり、若ければ例え氷が割れても這い上がれるが、重く量を増した体では這い上がることもできずに溺れてしまう事になるのである。

問題の解決は実はこのように「環境」と「自身の「状況」に有る。
従って問題解決の結果が有るとしても、そこへ辿り着く方策は厳密には個人々々によって異なり、これは国家政策に措ても同じである。

周囲の状況、国際情勢、そして自身の有り様によって最善の選択はその時、その人によって異なるが、冒頭に出てきたように「氷の厚み」は解らず、自身が追われていればその体重の事すらも省みることがない。

それゆえ国家政策に措ける最も最善な策とは湖を迂回する道を辿る事になる訳で、もしこれを強行に湖を渡るとするなら、若さ、つまり体力が有る事、自身の体重が軽い事、未来に措ける約束の少ない事が条件になる。

しかし現政府を見る限りこの要諦を満たしてはいない。

敵の前に茫然自失となり、おろたえて指揮権を放棄した者が前総裁を破って、また総裁に返り咲く程混迷した体重の重い自民党が、宗教分離の精神に真っ向から対立している公明党を引きずり、年金や医療、少子高齢化問題と言う遥か未来までも縛られた状態で、しかも先へ行ってどれほど薄くなっているか予想もつかない氷のような国際情勢の上を歩いたらどうなるか、その結果は言うまでもない事だ。

準無制限金融緩和政策は確かに物が余っている状況には有効な政策では有る。
だがこれは現実には湖に張った氷の上を歩くに似て、「環境」が人を選ぶ方策であり、追われて湖の縁に辿り付いた体重100kgの巨漢が「何とかなるかも知れない」と、及び腰で氷の上を歩こうとしたらどうなるか、氷は必ず割れ、引き返そうとした時は冷たい水の中に引き込まれているだろう。

消費物価指数2%と言う数字、これは実は日本の国内情勢だけでは測れない状況に対して数値を設定しているのであって、先に厚みの解らない氷を2%厚くすると言っているようなものだ。

達成する為にはどれだけ円を印刷して良いかの事前目標が立たない無制限金融緩和政策であり、大きな漠然性の中に有る2%と言う数値によって、かろうじて準無制限と言う表現に行き着くような曖昧なものだ。

それに既に氷が割れ始めている。
食料品や石油、税金や公費負担の上昇率がもうハイパーインフレーション状態になってきていて、その上で生活関連以外の消費は落ち込み、こちらはデフレーションと言う状況は「氷が割れた状態」、スタグレーションの状態になってきている事を示している。

3年待てば、5年待てば何とかなると言っている間に労働賃金は下落し、生活必需品は制御不能に上昇、2年以内に国民生活はその多くが困難な状況を迎える事になるだろう。

日本銀行のように、世界各国の中央銀行が政府に対し独立した状態に有るのは、実は現在の日本のような状況に対し、未来に措ける健全性、つまり金融や経済は「安定」こそが全てなのであり、この状態を維持する為に独立性が付与されているのである。

ゆえ、太って借金を抱えたブタが追いかけられ、逃げ込んできた時には「少しはお前もものを考えろ」と追い返すのが役目であり、更に一歩譲ったとしても、中央銀行が政府の言いなりでは、詐欺師に紙幣の印刷を許しているも同じで、ここは詐欺師と国民生活の間に入り、調停して国民の詐欺被害を少なく抑える努力をしなければならない。

その意味で「白川方明」、現日本銀行総裁の任期限前辞職は、その立場で取ることができる最大限の努力を感じさせるものであり、現政府の「べらんめー」政策に対し、日本銀行の独立性と誇りを示した。

第24代日本銀行総裁「前川春雄」に勝るとも劣らぬ名総裁である。
私は白川方明総裁に「Mr.Bank of japan」と言う言葉を贈り、その名誉を讃える。






「本質はどこに有るか」



研ナオコ 中島みゆきを唄う/時代・・・・・・


神話の世界に措ける創世以前の状態は、概ね全てが混じり合って区別が付かず、形状としても何も分離していない不安定な状態として、或いは「無」と表現されている場合が多いが、これが実は世界の状態を表現するとしたら、現在に措いてでも適切且つ最も真実に近い表現と言える。

元々あらゆる事象はその全てを言葉で表現する事はできないが、これを「自我」と「他」が共通して認識する為には「約束」が必要となってきて、つまりこれが言語や文字と言う「枠」の利用によって為されて行くようになる事で「共通認識」も生じるが、その実態からも遠ざかって行く事になる。

神話の世界で神があらゆるものを混沌から分離する、簡単に言うとあらゆるものや人を創造した時から「分離」が始まり、この分離は一種の現実乖離なのである。

生物的な男女の区別は、生殖器と胎保有がどちらにあるかによる区分だけなのだが、人間はこうした事に社会的男女区分を加え、そこで一見男女には決定的な独立性がある様に見えるかも知れないが、現実は男女とも常にそれぞれの性意識でものを考えていない。

人間の男女が認識している男や女は社会的なものなのである。

男女とも性的欲求対象はその生殖器等の生物学的差異なのであり、この差異を男女と区分した時から、男女ともそこに性的妄想が付加され、現実はとても簡単な事が複雑化して来ただけなのであり、その意味では男女は本来区分不可領域と言える。

またあらゆる物質や生物は独立して存在することはできない。
この事から一つの存在は周囲の全ての物質や生物と相互融合関係に有り、自我や自己と言うものは全ての中で、特定の「場」のどの瞬間を切り取ったかと言う問題に過ぎないかも知れない。

従ってあらゆる事象、自我もそうだが、現実の姿は言葉では表現できない何か大きなものがその実態なのであり、神が行なった作業は、その意味では言語や言葉による記録と共通認識と言う肯定すべき側面と、小さく切り取ることで見えなくしてしまったものも存在せしめた、肯定せざるべき側面を持っている。

ゆえ、この少し前の回答記事でも少しだけ書いたが、経済に措けるデフレーションは全体のどの部分をどの瞬間で見たかと言うことなので有って、現実に我々が生活する中では常にインフレーションもデフレーションも存在し続けているのであり、これはどう言う事かと言えば基本的にはインフレーションもデフレーションも普通の事で、これを言葉で区分しただけの事、本当はそんなものは存在していないのだ。

ガソリン価格は上がっていないか、小麦粉はどうだろう、ネギやキャベツは値上がりしていないだろうか、もし値段が上がっていればそれはインフレーションだ。
また保険料や国民健康保険税、税金はどうだ、これも値上がりしたり新規課税が始まっていれば家計的にはインフレーションだ。
どこがデフレーションと言えるだろうか、とんでもない物価上昇率になっているのである。

だが一方自分が働いている会社はどうも景気が悪く、給料は下がっていくか、そうで無ければサービス残業が増え、努力の割には自己労働価格は下落(デフレーション)で有る。

おかしい、何かがおかしい・・・。
自分が払うものはインフレーションなのに、得れるべき収入はデフレーションなのであり、このギャップは年々大きくなっている。
一体このギャップ部分はどこへ行っているのだろうと考えると、そこには日本国内に措ける労働人口の減少が有り、公費負担増が有り、社会福祉予算増が横たわっていて、この基本原因は少子高齢化社会なのである。

つまり現在騒がれているデフレーションなどは二次的、三次的現象の一つに過ぎず、片方では石油関連消費価格、食料価格も公費負担もハイパーインフレーションクラスの物価上昇率になってしまっている。
原理は簡単だ、需要の多いものは物価が上がり、需要の少ないものは物価が下がる、ただこの原理が動いているだけに過ぎない。

これを前出の男女のように膨らませて、しかも分離して考えるとデフレーションと言う言葉が出てきているだけだ。
その実本当の原因は少子高齢化社会に有り、社会福祉費用をどうするか、または大きくなりすぎた政府、行政組織をどうするか、そこが問題解決の本質となる。

更に今の内閣だが、安倍総理は少し前に自民党を崩壊させた張本人であり、問題解決から逃げた男だ。
麻生財務大臣は自身が総理の時、危機的な日本の経済状況でバラマキ政策しか持たず、しかも景気は後退し、そこにいたのが甘利経済財務担当特命大臣で有り、この3人がセットになっていては到底諸外国からの信認は得られない。

オバマ合衆国大統領が安倍総理との会談を拒否し、公明党の山口代表が中国首脳部との会談を拒否されるのはそれなりの理由が有る。
日本をガタガタにした者たちが集まっている内閣には付き合いきれないし、そもそも自民党が総裁選挙で安倍氏を選出する事が疑問なら、それを追認し総理にまでしてしまう日本国民の考え方が理解できないのである。

そしてこれが今回の一番のポイントだが、日本の少子高齢化社会傾向は現在「団塊の世代」と呼ばれている年代が殆ど現存しなくなる時代まで続くが、こうした「団塊の世代」が何故発生したかと言うと、その原因は「第二次世界大戦」で有る。
今私たちが直面する問題の究極的発生原因は、70年近く前の大きな人災に起因している訳である。

デフレーションを経済問題と考えている内はデフレーションの本質は見えず、従ってその解決は有り得ない事になるのではないか・・・。
大河の一つの波を拾い、それに数値目標を付けて一喜一憂したとしても、見方を変えてもそうならデータの採用基準を甘くしてもそうの世界で、数値が改善されたところで一般庶民の暮らしは何等良くなることはないだろう。

「数値目標よりも仕事をくれ、金をくれ、それが無理なら希望をくれ」と言うのが国民感情と言うものだろう・・・


この記事をして山梨県・Sさん、石川県・Sさん、石川県・Oさん、石川県・Y・Yさん、富山県・K・Tさん他の皆さんへの回答とします。

有難うございました。

「温暖化か寒冷化か・・・」

物質の運動は波の周期を持ち、振動と同じである。

この事からあらゆる物質には周期が存在するが、その周期は物質が持つ歳差、或いは微小な誤差や「ゆらぎ」と言っても良いか、そうしたものによって混沌と秩序を繰り返し、この混沌と秩序を持ったあらゆる物質や集合体が相互に影響し合い、更に大きな秩序と混沌を形成している、若しくは消滅と混沌の組み合わせになっている可能性が高い。

こうした宇宙原理から地球もまた免れることはできず、公転軌道は必ずしも安定したものでは無く、自転に措ける地軸傾斜も実際には22・1度から24・5度の間を彷徨っているのであり、地球の秩序は一定の定数を示しながら混沌へ向かい、それがまた秩序に向かう事を繰り返していて、太陽もまた銀河の回転の中にある事から、更なる混沌と秩序の中にあり、結果として地球は限りない混沌へと向かっている事になる。

そしてこのような地球や太陽の運動の秩序と非秩序循環が及ぼす気象変化として「氷河期」と言う地球寒冷化現象の解明が試みられていて、これを「Milankovitch/cycle」(ミランコヴィッチ・サイクル)予想と言う。

一般に小さな秩序と混沌の循環サイクルは大きな循環よりも時間経過が早く、大きな循環サイクルは時間経過が瞬間にして尚、遅い。(瞬間にして遅いと言う表現は矛盾だが、説明すると長くなるので省略する)

それゆえ本来究極的には周期は存在し得ないが、例えば10億年くらいの中だとそこに周期を見ることは可能になり、ミランコヴィッチ・サイクルでは10万年、4万年、2万年サイクルの組み合わせで、地球は寒冷化と温暖化を繰り返していると予想された。

今からほぼ21億年前、地球は大きな寒冷化現象を引き起こし、その後7億5000万年前と6億4000万年前には、数千年に及んで地球が全凍結する寒冷化現象を引起こしたものと考えられ、4億6000万年前から4億3000万年、3億6000万年から2億6000万年にも生物種が絶滅するほどの寒冷化現象に見舞われている。

基本的に地球は殆どの年代を通じて「氷河期」なのであり、その程度の大きい時を「氷河期」と呼び、その程度の軽い時期を「間氷期」と呼んでいるに過ぎないが、現在もっとも近いところの氷河期は今から4000万年前から始まり、300万年前にピークを迎え、4万年、2万年の周期で地球の氷結部分は増減を繰り返し、今から1万年前には氷結部分総合量の減少傾向に入った。

この意味ではミランコヴィッチ・サイクルは確かに成立している。
しかし細かいところで見ていくなら、例えば6000年前のエジプトは緑の大地で有り、日本も4500年前には福岡県近郊の降雪はなかったものと考えられるが、これが弥生時代中期・後期になると服飾から福岡県での降雪が想像される事になり、江戸時代後期の気温は1970年の日本の気候より、平均で2度前後低かった事が推定される。

つまり現在環境問題として騒がれている地球の平均気温の増減は、人類が出している排出ガス、CO2量の増減が無くても自然発生しているのであり、地球温暖化が騒がれる影で実際は若干寒冷化している地域の増加を鑑みるなら、この先地球は寒冷化傾向に有るとしなければならないかも知れない。

地球は本質的に氷河の星である事から、その氷結部分の増減で氷河期を判断せねばならず、また時間的な氷結期間の総合でこれを考える必要が有るだろう。

つまり涼しい夏が増え、冬の気温が例年より低く、そして冬の期間が長くなる地域が増える場合、それは明確に地球の寒冷化と言えるが、では一体それがいつまで続くのか、どのくらいの周期が今やってきているのかは人類には予想ができない、終わって見なければ分からないのである。

またCO2排出による地球温暖化現象と地球の寒冷化現象では、どちらが気象的影響に大きく作用するのか、或いは相殺されて何かが緩和されるのか、それとも相乗作用で気象激化を招くのか、これも予想がつかないが、私見を言うなら一番最後のケースで有る「気象激化現象」の可能性が高いように考える。

そしてもし地球が寒冷化に向かっているなら、これは短くても100年くらいの期間が有り、更に長ければ数万年、場合によっては数千万年の期間が顔をもたげてくる事になる。

CO2削減など簡単な事だ。
これから先ヨーロッパが通貨危機を迎え、アメリカや中国のアジア経済政策が失敗に終り、尚且つ消費国家の先進国が軒並み少子高齢化社会を迎え、消費の少ない経済的困窮国で人口が増える傾向が続けば、経済は急激な下落を迎え、即ち経済が落ち込めば京都議定書が無くてもあっさり削減目標以上に各国のCO2は抑制されるだろう。

だが一方寒冷化はその期間は短くても100年、長ければ数千万年単位で有る事から、基本的に寒冷化がもし人為的温室効果ガスで気温的均衡を保ったとしても、それは僅かな期間にしか過ぎず、人類の営みなどに全く影響されずに混沌、つまり寒冷化に向かうだろう。

最後に、気象変化がもたらす最も大きな生物学的影響は滅亡と進化で有り、過去にも氷河期の初めに生物の絶滅が有り、終わると同時に生物はあらゆる多様性を発揮し、繁栄する方向を目指した。
気象現象はこの30年間にも大きく変化した。
即ち現状を鑑みるなら温暖化と寒冷化が同時に進んでいるのであり、この中で我々人間のような大容量の生物の変化は少なかったかも知れない。

しかし例えば微生物やウィルスなどは、もしかしたら激変しているかも知れない。
「H5N1」、「鳥インフルエンザ」は当初、鳥から人間に感染する能力を獲得するには相当な時間がかかると見られていたが、その実鳥感染と人間への感染時間の誤差は1週間もなかった。

ベツレヘムの星のように、キリストの誕生を知り賢者が集まるのとは反対に、今度は何か悪いものが刻一刻と集まってきている気がするのは私だけだろうか・・・・。














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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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