「否定キーワード」

10粒の豆を上から下へ播いた(まいた)時、その各々の豆が行き着く先は地面なら重力と回転に拠る慣性の運動力が弱まった時一番近くに在る窪みであり、板の間なら微妙な傾斜の一番低い場所へと豆は転がっていく。

同じように特に相手を意識していない本人が任意に話す言葉は、その本人に全く関係の無い第三者の中でも、「高い場」に在る者の所へは届きにくく、少しでも低い場に在る者の所へと届き、この場合の高低は地位の事を指してはいない。

受動で有るか能動であるかと言う点に有り、自己が主張をしたい者は「能動」、人の意見を参考にしようとする者は「受動」となるが、自己が主張をしたい者と言うのは、自身が持つ窪みが自分に拠って埋められていて、尚且つそこが主張したいと言う点で盛り上がっている事から他者の言葉は届きにくく、反対に自身が主張を予定してない者は自身の窪みが残っている分だけ、他者の言葉が入って来易い。

思い出してみれば皆経験が有ると思うが、自分が自信満々だった時他者の言葉を聞いていただろうか・・・。
自身がこれまで生きて来て一番心に残った言葉は、順風満帆な時に聞いた言葉だっただろうか・・・・。

否、誰もが一番記憶している心に残る言葉は、おそらく自身が最も傷つき苦しんでいた時、他者からかけられた言葉だったのではないだろうか。

自身が低いところに在るとはこうした意味である。

冒頭の豆の話で言えば、豆を播く人が任意ではなく誰かに向けて投げたとして、それを受け取る者は大きな傘を逆さまにし、一粒も逃すまいと待ち受ければ、播かれた豆の多くは受け取るべき者の手に確かに届く。

しかしこれを豆を播く者があいつにだけは渡さないと思って避ければ、受け取ろうとしていた者はこれを受け取ることは出来ず、せっかくこちらへ向けて播かれたとしても受け取る側が予め傘を差して避けたなら、豆を播いた者が望んだ相手には絶対届かない。

傘はまともに差せば凹凸の凸となり、逆に指せば凹になり、我々は言語の嵐の中で日々瞬間ごとに傘を差したり逆にしながら暮らしているようなものかも知れない。

それゆえ言語や文書に拠る理解とは、その内容よりも、むしろ他者が発する言葉に対して自身が傘を差して避けるか、逆にしてでも多く受け取ろうとするか、そのどちらの状況に在るかと言う点が一番重要になる。

他者の言葉とは結局他者ではなく自分がどう思うかと言う事なのである。

その前後のいきさつからどうしても気に入らない相手の言葉は、それが神仏の如く精神から発しているものでも邪鬼が囁いているように聞こえ、反対に愛する者が語る言葉なら、例え悪魔の囁きでもその中に美しい花を探そうとする。

言語や文章はそれを自分が発している瞬間は肯定も否定もされていないが、他者の発する言語や文書は聞いた瞬間から肯定しようか否定しようかの判断が始まり、この中で僅かでも自身が気に入らないキーワードが出てくると、相手の話す言語、文章全てに遡って否定されていく。

この場合は理解などは初めから存在せず、全てが否定しか無いが、ではこうした否定のキーワードはどこから出てくるかと言えば、日常の自身の状況に拠って否定キーワードが増減し、こうして景気が悪く一般庶民の暮らしが思わしくない時はどうしても否定キーワードが増えてくる事になる。

そして言葉は鋭角的、先鋭になって行くのであり、いったんこうした傾向に陥るとほんの僅かな事でも攻撃的な言葉が使われ、こうした言語が多く使われることに拠って脳内はその状態を通常として行く事になり、このような傾向が増加すると社会は加速的に他者の失敗をあげつらい、攻撃する許容範囲の狭い社会とへと変化して行く。

我々が日常の会話で用いている言語の組み合わせは必ずしも文法に照らして合わせて間違いの無いものと言うわけではない。
むしろ文法通り喋っている時は殆ど無い。

にも拘わらず会話は成立し、文章に至っても文法上間違いが無くても内容のない文章は山ほど存在する。

言語や文章の本当の必要性を自身の意思を伝えたり、或いは記録すると言う点に求めるなら、間違いの無い言葉遣い、間違いのない文章が良い言語、良い文章と同義では無いのである。

予め敵意を持って他者の言語や文章に接するなら、そこで探しているものは相手の瑕疵であり、相手が何を伝えようとしているかを理解しようとする努力は既に消し飛んでいる。

こうした中で自身が理解できないのは相手の瑕疵に問題が有ると考えるかも知れないが、理解できないのは初めから相手の事など理解しようとする気が無い、自身の在り様に問題が有る事を考えない。

一つ前の三角形の話ではないが、四角い平面を真横からしか見なければ線にしか見えず、正方形の立方体も一方からしか見なければただの平面にしか見えない。
そして我々は自身を立方体として考え、他者の事は一方からしか見ようとしない。

誤字、脱字、或いは言葉の間違いは、本当は前後の関係からそれが間違いで有る事を容易に理解できるはずである。
従って心から相手の事を理解しようとするなら、言葉の誤りなど何らの支障も無いものなのだが、自身の状態が悪ければこれを許容できない。

現在の日本の状況は「言葉の魔女狩り」状態である。

芥川龍之介晩年の作「西方の人」が彼の死後他編と共に発行されたが、この末文付近に書かれている芥川の文章は明確におかしい。
しかし発行人はそれを承知で発行すると後書きしている。

確かに末文付近は文法上も表現上もおかしい・・・。
だが、「西方の人」を読んだのは中学生の頃だっただろうか、私は本の中から錯乱してもがく芥川を感じ、読みながら既に遠くこの世にいなかった芥川に対し、「芥川、死ぬな」と心で叫んでいたように思う。

人はきっと間違った言葉、間違った文章でも、いやそれであるがゆえに真実の自身を伝える得る時がある。

他者の間違いを公の場であげつらい、その事で自身の知性や正当性を表現しようとする事は、2000年以上も前から既に心浅き者の所作と戒められている。










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「食の侵食」



GLAY / HOWEVER・・・・・

日本全土に存在する農業生産が可能な土地の面積はおおよそ510万ヘクタール・・・。

これに拠って日本国内で必要とされる食料の38%が賄われている訳だが、では残りの62%はどこで生産されているかと言えば、日本が食料を買っている輸入国の土地が使われている事になる。

この日本が食料を調達する為に海外で使用されている土地の面積は510万ヘクタールの3倍、1500万ヘクタールに及び、結果として日本は国内の食料生産可能な土地の3倍の面積を海外で使わせて頂き、その輸入国の人に農業生産に従事して頂いている事になる。

またこうした食料の生産には水が不可欠だが、食料の輸入は同時に食糧を生産する為に使われた水を輸入しているとも言え、こうして日本に輸出される食料生産の為に使われる海外の水は、小麦などの穀物5種、肉などの畜産品4種目だけを見ても1年間で631億㎥と言われ、この量は日本全国民が1年間に使用する水の70%にも及ぶ。

日本はこうして海外から食料品を輸入している事で国内の土地の地力を落とさず、また水の消費も節約している側面を持つが、一方で食料、農産物を日本に輸出している国の国土と水資源を大量に消費していると言う現実もまた免れず、主にアメリカ合衆国、中華人民共和国、オーストラリアの大地は年々歳々大地が塩を吹く「塩害」と旱魃に悩まされ、その面積は異様な勢いで拡大している。

テレビやネット配信でこれらを見る限り、我々は自身らとは関係の無い遠い国での話しのように思うかも知れないが、その原因の一端は我々の食料消費に拠って発生しているとも言えるのである。

更にこうして海外の土地と水を消費している日本が海外に輸出している物は主に工業生産品であり、自国に資源の少ない日本は海外から鉄鋼などの原材料費を輸入して加工し、それを逆に海外に輸出しているのであり、ここでも自国ではなく海外の資源を使っている。

見方を変えれば、日本は自分は痛まずに他国の国土をを痛めつけて生活していると言われていも仕方の無い状態に有り、実は2000年の段階で大まかな試算だが、地球で使える持続可能なエネルギーの総量と、全人類が消費するエネルギーの関係は、20%ほど人類が消費するエネルギーの方に傾いているとされる報告が「ドネラ・メドウズ」他、複数の研究者に拠って提唱されている。

土地面積に換算される人類の資源消費量は、その土地が生産に関して持続可能な期間や地力総量を得る事が出来ず、人類の消費速度の拡大に拠って20%が追い付いていない状態になっていると言う事なのであり、この追い付いて行かない部分の現実が塩害や旱魃が広がる速度と言う事なのである。

そして食料品に限らず、あらゆる輸出入生産物のコストの中で一番高いものが「輸送」であり、輸出入生産物価格で言えば30%から50%が輸送費に相当し、日本が海外から調達する食料品の為に使われる輸送エネルギー総量、これを「food mileage」(フード・マイレージ)と言うが、9100億t・kmにも及ぶと言われていて、この数値は日本国内の総貨物輸送量と等しい。

フードマイレージの概念は、輸送に関して必要となる化石燃料等の消費から、主に環境に対する負荷をエネルギー計算する事から、この数値が大きいほど環境に対する破壊影響が大きいと言われ、日本は工業生産品や国内農産物では環境に優しい事を謳っているが、その実食料輸入ではアメリカ合衆国の総量の3倍のフードマイレージを消費し、これを人口1人当たりに換算するなら、アメリカ合衆国の7倍にも及ぶ環境負荷をかけながら食料を消費している。

食料政策はその国家の根幹を為すものであり、長期的概念では世界支配の可能性を持つ重大な国家案件でもある。

環境に配慮し、自国の独立と自由を磐石なものにする為には、日本は今後食料の自給自足を目指さねば、そう遠くない未来に核戦争より先に、食料に拠って他国の支配に甘んじねばならぬ時を迎えるだろう。

日本政府の統計ではおよそ100年後に日本の人口は現在の半分になる計算だが、現実にはその速度はもっと早い。
25年後には現在の人口の75%、50年後には半分かそれ以下になる可能性が高い。

従って凡そ50年後には、頑張れば人口減少に拠って高齢化社会は解消され、食料自給率も90%近くになる可能性が出てくるが、問題は現在からそれまでの期間をどうするかと言う事だ・・・。

日本が盲目的に信じている経済力は、人口が減少していく日本国内の消費に鑑みるなら絶望的であり、世界経済もさまざまな長期的課題に拠って膠着状態になっている。
この状態は各国の努力では解消されない。
もはや超法規的事態、天の為せる業が必要な状態と言える。

現在先進国と呼ばれている国、それに順ずる国家、現在の経済大国の内2国か3国が経済的に崩壊する、戦争に拠って人口が失われる、或いは巨大災害に拠って壊滅的なダメージを受けるかの事態が無いと世界経済は浮上しない。

厳しいが経済は波であり、どこかで一度沈まないと浮き上がる事は出来ない。
経済の浮上はその前提に壊滅的な状態を必要とする。

中華人民共和国の台頭、アメリカ合衆国の次期大統領選挙に付随するトランプ氏の躍進は、歴史の気まぐれでそうなっているのではなく、まるで水が高い所から低い所へ流れて行く、当たり前にして絶対的な流れの為せるものであり、これを動かしているのは世界の人々の心の奥底に潜む「偽りなき声」、「欲望の形であり、自然界、生物界の摂理と言うものかも知れない。

地球の事は考えても他国の事は考えない。
自分の周囲の環境は考えても、今口にしている食料がどれだけ多くのエネルギーで作られているかを思わない者は、遠からずその他国に拠って「食」を侵食されるだろう。

日本の場合、自国の食の為に他国の国土と資源、労働力を侵食し、その食に拠って日本そのものが他国の侵食を受け易い状態にある、いや既にその食の侵食を受けているかも知れない・・・。




「多在融合法則」



夏影 ~千年後のキミと~・・・・・

1つの点は角度を持たないが、この点の両端から点が連続するとそれは線になり、線が2本交差した時からそこには角度と言う旅が始まる。

直線は平面の概念が存在しない為、ここに角度を求める事は難しいが、いつかの限界点が存在するならこの角度は180度と言う仮定が為され、この180度の線にもう一本の直線が交差すると、その交差点の両端に角度が生まれ、更にこの2本の線に交差する第3番の線が現れると「三角形」が生じてくる。

直線から図形に至る経緯はこうして1本の線から2本の線、そして3本の線と言う段階を踏まねば成立しないが、この三角形が次の四角形や正方形に変化する過程では2種の概念が発生し、一つは3本の線が2点でしか交差していない場合で、簡単に言えば蓋が閉じられていない状態に4本目の線が2点で交差して四角形を形成するケース、もう一つは三角形のいずれかの角度を一つの角度とする三角形が形成されるように、三角形が直線に拠って切り取られた状態である。

直線から三角形の発展過程では「線が足りない」状態からしか始まらないが、三角形以上の多角図形では線が交差する角度を切り取ってもこれが形成され、三角形と四角形以上の決定的な差異は内角の和が180度と360度以上と言う点にある。

つまり「三角形」は平面と直線の中間過程に在ると言う事である。

また2本の直線では図形上必ず1本の直線が足りない状態が発生するが、三角形はそれ自体が完形の上に直線が持つ180度と言う仮定内角総和を確定総和として持ち、ビジュアル的にも例えば三角形の1辺を軸として左右対称になるように回転させて発生する立方体は必ず「円錐」であり、これは回転させても上下付近のどちらかには面が形成されずに「点」になると言う性質がある。

しかし四角形以上の図形では必ず上下付近に面が形成される直線が存在し、奇数辺と偶数辺に拠って交互に不束円柱とこの近似値円柱を形成しながら最後は円が回転した状態、つまり「球」を形成する。

そして長さが決まっている直線に、90度で交わる直線を軸として回転させると「円」が形成され、この意味では回転は一つのステップアップ、或いは次元の相違と言っても良いかも知れないが、そう言うものだと考えるなら、「点」から三角形の間にその後の次元ステップアップの要素が全て揃っている事になり、図形の回転と言う最終ステップが行き着く先は円の回転、簡単に言えば直線の回転状態に行き着く事になる。

我々は物事を統一場理論として考え易いが、その実こうして数学を見ていると現実には距離や体積が決まっていながら中は無限の在り様、始まりと終わりがどの場面でもそれに近付きながら決して一致する事のない状態に在り、幾つものステップ、次元が入り組んだ「多在融合法則」の中に在る。

この世界には絶対とか、完全とかは有り得ないのであり、こうした現実に晒させながら尚も人間はいつも「絶対」や「これこそが正しい」と言い続けるのである・・・。





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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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