「言語の理解」

人間の言語に対する理解は「語彙解析」(ごいかいせき)、「統語解析」(構文解析)、「意味解析」「文脈解析」などが相互に影響しあって解析されているが、「統語解析」(syntactci analysis )では簡単な文章と複雑な文章を読むときの「後戻り」の仕方と文法の関係から、人間が文章を読んでいて理解できなくなると、文章の冒頭や直前に戻るのではなく、人間の記憶特性である「長期記憶」と短期間記憶を貯蔵しておく「短期記憶」のうち、短期記憶に貯蔵されている比較的顕著な特徴にまで遡っていることが知られている。

つまりここから言えることは他人の文章を読んでいても、それを理解する翻訳機能は「自分のもの」が使われていると言うことである。
また「語彙解析」(lexical analysis )については、例えば「上」「下」または「右」「左」と言う言葉を人間が読むとき、私たちはこれらを一見同じ時間で理解しているように思うかも知れないが、実はこれらの言葉に対する理解度には「差」が生じていて、基本的には情報を処理する時間に措いて相違点がある。

「上」と「下」ではどちらも同じに感じるかも知れないが、人間はその文字に対する関心度、つまり自分に関係が深い、またはより使用頻度の多い言葉に対して僅かながら早く反応し、その一つの文字が含有する意味の多さでもその反応が違い、一般に意味を多く含有するものほど情報処理時間が多くなる。

そして「意味解析」(semantic analysis )では、実験データとしてわかっていることだが、人間が文章を声に出して読む時、視覚(目)は実際に読んで発音している言葉より少し先の言葉を見て理解している。
このことから文章を声に出して読んでいるときには、先に広がる文章の意味を予測している事になり、この延長線上には「文脈解析」(contextual analysis )と言うものが存在している。

「清は和子に花を上げました。彼女はそれをとても喜びました」

この言葉を発音した場合、では「それ」とは何か、また「彼女」とは誰かを、人間は瞬間的に理解していると思うかも知れないが、これは実は「理解」ではなく「推定」を行っているのであり、ここで言う彼女が「和子」であり、「それ」が「清が花を上げました」と言う、行為の間に横たわっているものは連続性と言うものでしかなく、この連続性をして習慣上人間は推定をして、人の言語を自身で組み上げているのである。

言語の情報処理については、19世紀後半には既に神経生理学的な言語に関わる「ブローカ中枢」と「ウエルニッケ中枢」の存在が知られていたが、「ブローカ中枢」はその役割として「発音」や「調音」と言った運動能力的な制御を行っている。
このことから「ブローカ中枢」が人間の脳の「運動野」の近くに存在していることも偶然と言うことでは無いと思われている。

一方、「ウエルニッケ中枢」の働きは、主に言語の意味を理解する機能を制御していると考えられているが、人間の脳の大きな特徴は、言語機能系の神経が脳の左半分に集中して存在している点にある。

またこうした言語だが、言語を失う障害と言うものを考えると、そこには大別して2種類の要因が発生してくる。
一つは「知覚機能」の障害から来る失語、そしてもう一つは「言語機能」の障害による失語であり、このことから言語には入り口と出口があり、流れを持っていることが理解できるが、一般に言語はそれを理解する能力が失われても、言語を組み立てる能力を失っても「外」に対しては同じようにしか見えない。

だが人間がこうした2つの要因で全ての言語や理解を失うのかと言えば、厳密にはそれは違う。
このことは1893年、フランスの「デジェリーヌ」によって解説されているが、例えば人間の脳の「大脳左半球後頭葉」にある視覚中枢と、左右の脳半球を繋ぐ「脳梁」がともに損傷を受けると、話すことや聞くこと、書くことについての障害は起こさないが、読むことが出来なくなる障害を起こし、これを「純粋失読」と言うが、大脳左半球視覚中枢を損傷すると、基本的には右半球視覚中枢で左半球が受けるべく情報も処理することは可能だ。

しかし、こうした視覚的な情報を言語情報に変換する場合、大脳右半球から左半球に局在する言語中枢に情報が送られなければそれが変換できない。

このために左右の脳を繋ぐ「脳梁」が損傷を受けると、視覚情報と言語変換が繋がらず、したがって読むことが出来ないと言う状況が生まれるが、ではこれによって人間は書かれた文字や図形からの情報を全て失うのかと言えば、書かれた情報を音声に変換し、「聴く」と言う情報に変換すれば、これが理解可能であり、また簡単な図形文字なら指でなぞって、その運動情報からも図形や語彙表現文字などは理解が可能なのであり、さらには情報の変換がなされなくてもこれを処理する場合も有り得る。

これはどう言う意味かと言えば、純粋失読と言う事態に陥っても、例えば「花」と言う文字を見て、純粋失読の人が花の絵を選べないかと言うと、文字を見て花の絵を選ぶケースが存在するからだが、もともと視覚と言う情報と、言語情報が完全に別ならこうしたことは有り得ないことから、人間の脳は違う情報からでも、簡単なものなら総合的に理解することができる何らかの仕組みを持っていると言うことになるが、これはもしかしたら「折れた紙の原理」かも知れない。

つまり一度折り目が付いた紙は、伸ばしてもまた同じところが折れやすくなるのと同じ原理で、脳が情報を理解している可能性もあると言うことだ。

人間は現在に措いて使われている言語の複雑さ、その意味の高等な部分に措いて「言語」と言うものを比較的進化した形の新しいものであるように思っているかも知れないが、自然界では実に多様な音声言語が存在し、鳥もそうなら虫もそうだし、また音声の原理である「音波」を使って情報を処理している生物もあれば、人間の神経情報伝達手段である「電気信号」での反応が確認できる微生物も存在する。

このことから比較的「本能」の部分とは切り離された形で考えられ易い言語は、その実あらゆる生態系に備わった基本的情報手段であり、それは視覚や聴覚、運動機能などとも繋がった、遥か太古の生命から続く一つの流れの中にあり、人間はこうした他の生命の声や情報に、今更ながら多く耳を傾け、またそれを直視しなければならないように思う・・・。

あらゆる生命の音声表示や鳴き声は人間の為にあるのではない。
彼らが生きるためのものである・・・。

辛丑〈かのとうし〉

辛(かのと)は十干の八番目、1本を2本が刺すの意を始まりとし、陰陽道では1本の「陰」を2本の「陽」が刺すを現すが、元々「神」や「信」などと同じように、日本語で「シン」と発音するものは吉凶相容れた様相、若しくはその様相が良く見えないものを示す場合が多く、「神」の始まりは「陰」が伸縮する様を始まりとも言われる。

従って辛の特徴は、どちらかと言えば正しく見えるもの、思慮深きもの、或いは秩序を「陽」と言う無邪気なもの、思慮の外に在る明るさが刺し貫くを意味する。
簡単に言えば数多くの愚かさが数の少ない秩序を刺し貫くを事を指している。

古来「辛酉革命」(かのと・とり・かくめい)と言って、「辛酉」には変事、革命が多いとされ、日本ではこの年に改元の慣わしが存在したくらいで、「辛」がこの世に形を現す時は「変事」「革命」「刷新」「改革」と言う痛みを伴う変化が発生する年回りとされている。

また「丑」(うし)は「紐」(ちゅう・ひも)の事で有り、幸福の「幸」の始まりは厚板の手枷(てかせ)、手錠を指すが、それに対して厚板の手枷よりは目立たないが、その目的はしっかり果たす紐の手枷を意味し、この事から物事が思う通りに運ばない様相を示している。

「丑」の紐は手枷よりも目立たない、また遠目には厚板の手枷よりは拘束されている事実が見えにくい。
この為、丑年は一見順調そうに見えながら、現実は厳しい状況を現し、「辛」(かのと)と相まって、表面上は難なく流れて行くように見えて、実は急激な「凶」が姿を現すかも知れない。

また間違いなく「革命」や「変事」からは逃れられない様相となる為、事の始まりが政治、経済、災害、イベントの失敗などを問わず、結果は政治的な変事、或いはそれ以前の政策が方向転換を迫られ、民衆の暮らしが激変する可能性が秘められている。

コロナウィルスで混乱していながら、続伸する株式市場だが、今年、その風船のように膨らんだ「虚」がはじける可能性が有り、実体経済とはⅠ万円も高くなっている日本の株式市場は「株価バブル崩壊」を警戒する必要が有る。

東京オリンピック、パラリンピックは、今年前半まで何とか開催できるように見えるかも知れないが、直前に開催できない、開催しても失敗する、後の経済的負担で紛糾するかのどちらになる為、これを目当てに商いをする者は、短期決済型収益で切り上げ、長く関わらない方が得策となる。

2本の「陽」、「陽」は本来吉凶どちらでもない唯の事象だが、それが出てくる時と場に無邪気な、或いは意思のないものを授けて行く。
この為、何事もなさそうに見えながら、その変事の発端は災害と言う場合もある。
どちらにしても「丑」は半分か3分の2くらいまでは平穏に見え、この見えると言う事はその後の「凶」が出て来れば「虚」になるが、それまでは「実」に同じで在る。

丑年のコツは、この平穏そうに見える時期を有効に使い、後半の凶事に身を潜めるを最善とし、物事をぎりぎり迄為そうとは考えず、早めに切り上げる事をして凶事を希釈する。

このコロナウィルス騒動に鑑みるなら、丑年の「紐の手枷」とはまことに絶妙な感が在る。
厚板の手枷ほど見た目の派手さは無く、効果もそれに劣るが、しかし確実に人々の動きを拘束し、「不安」を与える。

オリンピックと言う一大イベントを抱えながら、株価も高騰、前途は期待も有るが、薄く弱く、しかし確実にコロナウィルスは潜み続け、やがて2本の「陽」がそれまでの計画や秩序を刺し貫く・・・。

人の本来は吉凶で言うなら「凶」が9、「吉」が1のもので有り、これは如何なる年回りでも変わらない。
しかも禍福は糾う(あざなう)縄の如し、次の瞬間には禍が福に通じ、福が禍に通じる。
予言や占いで未来は変わらない。

ただ、「今」と言う時が過去に今だったものの集積された時で有るなら、今、この瞬間を正すは未来に変化をもたらすもので有り、いや、それが正しき未来となって行くだろうものであるに違いない。

雨を避けて晴れ間だけを享受する事は出来ない。
雨はその時の禍で有っても、後に恩恵をもたらし、その晴れ間の傲慢と怠惰は後に人の恨みを買い、妬みを招く。
順風満帆な時も、苦しい時も油断せず凶事に備え、善きも悪きもそこに留まらず次を思い、日々研鑽する。

丑年は「紐の手枷」だが、紐はまた厚板の手枷とは違って、粘り強く努力すれば解ける事を知るもので有る。
危機を脱した次に来るものは千在一偶のチャンスである。

令和3年、辛丑年、皆さまにご幸運の多き事を、謹んで希望致します。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

本文は2021年月3日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

「拒否され得べき情報」

殺人事件に措ける死体遺棄場所、死体を隠した場所や凶器の投棄位置、逃走経路など、その犯行の当事者か若しくは、当事者と事情を共有できる者でなければ知り得ない情報を知っている者は、犯行を犯した当事者かそれに順ずる者としてまず容疑がかけられる。

これらの情報は発生した犯行の最も重要な部分であり、尚且つその当事者か、犯行が行われた時間に犯行現場にいた者以外にそれを知る者が存在し得ない事から、警察の初期捜査の段階では物的証拠以上の証拠能力を有している。

そしてこのような知っていると自身の大きなリスクに繋がる情報の事を「管理対象情報」と言い、自身が厳しく管理しないと、その情報を認知しているだけで将来重大な危機に見舞われる為、事の次第が殺人事件のような重大なケースでなくても、自分がその情報を管理できる自信が無い場合、該当情報はそもそも認知する事を拒否する必要が出てくる。

これを「認知拒否対象情報」と言う。

認知拒否対象情報は基本的に社会や政治的混乱、治安の悪化によって増加してくるが、近年個人同士の通信がインターネットによってランダムに平易になっている社会では、政治的混乱や治安の悪化状況以上に急激に知っていると不利益を被る情報が増大して来ている。

オレオレ詐欺、投資関連詐欺、結婚詐欺にデート商法、不動産の故意に不利益を与える取り引き、インサイダー取引に措ける他社マイナー情報など、その当場は一見大きな利益やチャンスに見える情報が、後に大きな禍をもたらすケースは全てこの「認知拒否対象情報」に相当するが、それ以上に気を付けなければならない情報は個人のプライベート情報となっている。

ここまで毎日女が殺され、夫が妻と愛人によって殺される、或いはストーカーによって殺害される事件が頻発している社会ともなると、下手に異性の連絡先などを知っているだけで、その対象者に悪意が無く偶然殺されたとしても、関係者として事情を聴取されるぐらいの事が発生する確率は高くなる。

日頃から良いなと思っていた受け付けの女性にやっと携帯の電話番号を教えて貰い、それで初めて電話したまでは良かったが、その翌日同女性が都内のホテルで殺害された場合、たった一度前日に電話しただけで、着信履歴から捜査段階の初期には最重要参考人になる可能性があり、それで無くてもこうした無差別殺人が横行する世の中に有っては、例え捜査の結果疑いが晴れたとしても、どうして個人的な連絡先を知っているのかと言う事実の発覚に伴う民事上、つまりは夫婦間ならば不貞の嫌疑が発生する可能性が有る。

この意味で言えば例えば既婚男性に取っては若い、或いはそうでは無い年齢を問わず関係の無い女の情報は常にリスクと背中合わせと言う事になり、これは既婚女性が夫以外の男性の情報を所有しているケースも同じである。

それゆえここでは異性を対象にしたが、世の中がおかしくなってきていて、その中で心を病んだ者が多くなっている現実は、基本的には自身がどうしても必要とする情報以外の個人情報は、男女問わず所有しない注意が必要になってくる。

これが「情報開示拒否」と言うリスクに対する先守防衛措置となる。

つまり今後関係がなさそうな人の情報、特に電話番号や住所などは、例え相手が教えると言ってもこれを拒否するセキュリティが必要な時代なのであり、この他にも明確に対象者そのものがリスクを抱えている場合や、男性に取っての女性、女性に取っての男性の連絡先の認知は勤務先を限度に留めておく注意力が求められる。

情報の共有はリスクの共有でも有り、この点では明日自身がリスクに遭遇した場合、自身の情報を知る者にはその情報の重要性に比例した嫌疑がかかり、こうした病んだ社会の中に有ってはいつ自分もリスクに遭遇するか、また自身が情報を共有している者がリスクに遭遇するか予想が付かず、その確率は年々増加している。

そしてこうした意味からもう一歩発展した考え方をするなら、現代社会のように明日歩いていて通り魔に殺される可能性の完全否定が出来ない社会に措いては、溢れる情報の80%が「認知拒否対象情報」か、それに準ずる情報になり、相手が情報を開示しようとすればするほどその情報は「情報開示拒否」事案の可能性が高まるのである。

多分古代にもこうした事を考えた人はいたのだろう。
「君子危うきに近寄らず」とはまさにこうした事を言い、現代社会ではもっぱら「君子、危うき情報に近付かず」と言う事になろうか・・・。

情報や知識がリスクになるかリターンになるかの分岐点は個人の事情によって分岐する。

従って個人が色んな事情を抱えている場合の情報は大部分がリスクになって行き、元々リターンの情報は数が少ない事から、リターン情報の中に在る者はリスク情報には近付かず、リターン情報と経済、権力構造は一致する為、ここに情報を巡っても階層社会が出現するが、こうした構造は基本的に最も初期の政治形態である「原始共産主義」「村社会」から始まって同じである。

所得税で国家が運営されている状態、言わば生産で国家が運営されている状態では情報や知識はリターンになるが、日本のように既に消費税型社会、マイナスを補填する為の運営になっている国家では殆どの個人が事情を抱える事になり、ゆえに情報や知識がリスクの中を彷徨う事になる。

悲しい事だが大部分の情報がリスクか、結果リスクにしかならず、積極的に開示される情報は最もリスクが高い情報と言えるのである。

積極的に開示される情報は開示する側に利が存在するから開示され、こちらに利が発生する情報は常にこちら側には閉ざされているのが正しい姿なのである。



「美の危うさ」

例えばパソコン画面の文字エディタで、文章の色を黒で表示している中に一部分だけ赤の文字表示を起こせば、そこは際立って見え、更にその赤い文字表示に規則性を持たせた配列をすれば、赤い文字は目立たなくなり全体に溶け込むが、この場面で赤の文字を多様し規則性が無いと、人間は文章を読む以前にストレスを感じる。

昨今パソコンで表示できる文字色は多様化し大変華やかになったが、これを多用し目立たせようとすればするほど、その目立たせようとする部分は画面全体のストレスになって行き、文章の内容以前の問題で人には伝わらなくなっていく。

結果として一番人間が読み易い文字は黒か若しくは深い青の色で、特に目立たせたい箇所は文字の太さを少し太くする程度が一番安定した形となる。

同じように物作りの場合でも主張しようとする事を全て詰め込もうとすると、そこには主張の分散が起こり、伝わるものは薄くなる。

「東山魁夷」(ひがしやま・かい)の目が光を中心にして、それを紙の中に写し取る時、闇や影を捉えるようになった事からも解るように、主張とは全体とか環境と言ったものと同義、光と闇は同じものなのである。

それゆえ漆器の意匠でも冒頭の文字色と同じように、煌びやかなもの、主張したいものをあれもこれもと入れ過ぎる、或いは自分の技術ばかりを主張しようとすると、そこに現れるものは「愚かさ」や「稚拙さ」になって行く。

一方人間の存在と言うのは、その生存が始まった瞬間から「矛盾」であり、この意味に措いてキリスト教社会はギリシャ哲学の「ロゴス」を「理論」「言」と約したが、その本来は創造と同義の「破壊」だったと考えられ、一般化、普通、パターンである「ミュトス」との相対だった。

従って人間には「安定」と「破壊」が同義で存在し、安定も破壊もそれが続く事を望まない部分が有り、これに鑑みるなら冒頭の文字色などが持つ「安定」は常に新しい「破壊」によって変遷して行き、やがてはその新しい「破壊」が「安定」となる事を繰り返す。

つまりは「安定」と言う概念が普遍性を持たない事を意味しているが、人間の創造にはどこかで限界も存在し、この非普遍性は必ずしも全くバラバラとはならない。
「周期普遍性」を持っているのである。

ゆえ、これまでの価値観であれば文字は黒や青で、多色を使う場合は規則性が必要だったが、今この瞬間に生まれた者にとっては多色非規則性が「普通」となり、この「普通」に対する「破壊」が文字色の統一性や色配列の規則性で有り、現在は「非規則性」の時に有る。

そしてこの宇宙に完全な「不規則性」は存在していない。

どんなに不規則なものでも、例え壊れて行くにしても、そこには一定の速度法則が存在していて、ここで完全な不規則性を求める事もまた「完全な美」を求めるに等しい。

今「安定」に在る者、一定の年齢を得た者が持つ「安定」からすれば、「愚かさ」や「稚拙」に見えるものも、その中には未来に措ける「安定」が潜んでいるのであり、これが「希望」と言うものなのかも知れない。


「国家非常事態宣言」

日本国憲法の解釈では「戒厳令」に関する条項が存在しない為、強力な権力を伴った「非常事態宣言」は存在できない。

日本のそれは「メンタル統制」と考えた方が良く、自発的に民衆がそれを畏れるなら、非常事態宣言は民衆の仮想権力に拠って、権力者側からではなく、自発的希望として一定の現実的権力の実効力を有するようになる。
簡単に言えば言葉の重さに拠って国民が錯誤し、国民の自発的認証によって権力が生じる現実を指す。

この意味では「戒厳令」の法的規定を持つ諸外国に措ける非常事態宣言とは国家、民衆相互の責任関係に措いて大きな違いが有り、諸外国の非常事態宣言はそれを発令したガヴァメントに大きな責任が生じるが、日本の非常事態宣言はガヴァメントの責任が無い。

非常事態宣言時の措置は民衆の、主に自由と人権に関する制限を伴う為、これに強制権が伴う場合は、その権力を行使した者が最終的な責任を負う。
しかし最終的な権力の担保がない日本の非常事態宣言は、宣言が発令されても自由と人権に対する制限に及ぶことができない。

この為、非常事態宣言を順守した否か、から始まって「自由意志」と言う事になり、そこから発生するあらゆる損害、不条理に関しての責任は国民側に最終的責任が存在する。
日本の非常事態宣言はそれを発令したガヴァメント、政府の責任がないのである。

ただし、日本国内非常事態宣言が発令されても、移動、行動の自由に関する制限の法的拘束力を持たない為、「心得」程度の事でしかないが、国民皆がこの言葉の重みを尊重し、それを自発的に順守するなら、国民の側に拠って認証された権力が生じ、そこに概念的な権力が存在できる。

法の理想として、それを力で制圧する、権力を担保とするより、国民自らがそこに自身を律する在り様の方が、より高度かつ理想的な法概念と言える。
ただし、こうした概念の始まりは、その多くが「誤認」や「無知」から始まる為、行き過ぎると「恐怖政治」を生じせしめ、リンチ、私刑の容認にもなって行くので、非常事態宣言に法的制裁権のないガヴァメントの役割は、シビリアンコントロールに近い概念になっていく。

仮に日本国内で国家非常事態宣言が為されても、現実的には何も変わらない。
夜間外出禁止令、移動禁止令、集会の制限、全面的外出禁止令となっても、それに従わなかったとしても拘束されるような事にはならず、法的罰則を適用するにしても、伝染病に関する国内法が適用できるか否か、それすらも微妙である。

そしてこうした現実的法解釈を国会も内閣も、民衆も正確には概念出来ていない、いわば相互誤認非常事態宣言は、それを順守する側が社会的良識や錯誤に拠って権力の自発的認証を行っている現実から、実際に発生する損害、被害に対する補償責任もガヴァメントの良識、国民心理の忖度程度の責任しかない事を国民は知って置く必要が有る。

究極的な言い方をすれば日本政府の「非常事態宣言」は諸外国の非常事態宣言とは質が異なり、「マインド」、「気分」程度の現実しかないと言う事で有る。

また現在伝染病と言う事で、フランスのアルベール・カミュの「ペスト」などの著書が参考にされる傾向に有るが、同書の根底は「不条理」と言うものに対する考え方であり、従って現実に発生する社会心理とは必ずしも一致しない。

これが書かれた時代と現在ではガヴァメントも民衆も全く違う社会的背景を持つ。
「ペスト」では不条理がガヴァメントに拠ってもたらされたが、21世紀の国際社会では「情報」が氾濫し、この意味では誤りや不条理を起こす側が、国家やガヴァメントより民衆側に多く存在する。

「ペスト」を参考にする事はやぶさかではないが、悪戯に信奉すると本来存在しない恐れを畏れ、それが情報となった時、多くの錯誤された情報に拠って混乱が深くなる恐れが有る。
小説はあくまで小説で有り、現実は決して小説と同じではない・・・。

[本文は2020年4月6日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]

プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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