「国 葬」

古来より政治の理想的な状態と言うのは、政策に対して賛同と反対が半分ずつと言う形と言われていて、民衆が政治から関心が無い状態を頂点とする、そう言われている。

政治は調整機能だから、100%の大衆に対して政策を実行すると、凡そ半分の人がその政策に拠って恩恵を受けられず、次に残りの50%に対して半分の25%が望む政策を打ち出し、と言う具合にして行けば、最後は0.781145%の反対を残して全員が賛同になる原理だが、実は残った反対意見を賛同にするには、元々賛同した半分にある種の妥協を求めて行く形になる為、50%対50%の最初に出した政策にどれだけ妥協案を追加しても大きく変化しない。

賛同、反対意見共に曖昧さを増やして行くに過ぎない。

つまり政策に対する多くの調整案は余り効果が無く、本来政治に不満が無ければ民衆は政治の事を考えず、民衆が政治に関心を持つと言う状態は、政治の状態があまり良いとは言えないと言う事である。

1992年8月、「金丸信」自民党副総裁の5億円闇献金問題が発覚した。
俗に言う「東京佐川急便事件」だが、ここで東京地検特捜部は金丸氏に出頭を求めたが、金丸氏はこれを拒否し、代わりに上申書を提出し、罰金20万円の略式起訴で問題の解決を計った。

これに対しては検察庁内部からも批判が続出、国民の不満は頂点に達した。
これより少し前に発生していた1992年3月の、栃木県足利市で公演中の金丸信副総裁襲撃事件、金丸副総裁が右翼青年に拳銃で襲撃された事件などは、こうした一連の政治資金規正法違反に関係していたものの先駆けだったと見られている。

国会議員が民衆に示す民主主義とは、正規の手続きに拠って問題の解決が計られた事しか担保できない。

一般民衆なら刑事訴追の上収監、と言う事態が自民党副総裁なら罰金で済むと言う在り様では、国民の不満は大きくなり、その中で個人の事情が増長したものが増加している経済的停滞、或いは災害などが存在する場合、個人の事情が先鋭化した者の数も多くなり、そうした不満が明白に正義を歪めた国会議員の襲撃などに向かい易い。

こうした事態の責任は、本来正規の手続きを踏まなかった本人もそうだが、検察などの三権分立の一角に在る組織、国会に措ける責任の会見、野党の追及が正しく機能し、正規の手続きが為されていれば、避けられる問題とも言える。

2022年7月8日、安倍晋三元総理が奈良県で「山上徹也」に拠って銃撃暗殺されたが、安倍元総理は森友、加計問題では終始言葉で逃げ、花見問題でも同様だった。1992年の金丸信副総裁と同じ疑惑にも関わらず、また途中財務省職員が事件に関して自殺している事も、今では国民も忘れているのかも知れないが、そう言う疑惑に対して国会の追及は封殺され、検察も手を出さなかった。

また旧統一教会との関係など、政教分離など全くの無視状態と言える。
安倍元総理は既に総理の任期を終えていて、加えて日本の総理など狙う価値もない事を考えるなら、今回の暗殺事件は疑惑に対して真摯に向かい合わなかった国会と検察庁、それに政教分離の大原則を甘く見ていた安部元総理自身の、国会議員としての脇の甘さも一因したのではないかと思う。

しっかり皆が責任を以て働いていれば、こうした事態は発生しなかったのであり、SPに責任を転嫁する岸田総理の在り様は、自身の事を棚に上げた責任逃れの醜さも感じるが、政治家と言うものはこうしたものであり、国葬も悪くないだろう・・・。

少なくとも選挙活動中に殺されたのだから、国会議員と言う立場からすれば「殉職」と言える。
国家が葬儀を営むことは問題ないと思う。
野党の言う生前の政策を認めさせる事や、国民に弔意を強制と言う話は筋違いだろう。
別に嫌なら葬儀に参列する必要もないし、黙とうをする必要もない。
それを為さなかったからと言って刑事罰が下される訳でもないのだから、強制にはならない。

それにしても、こうして国葬と言うフレーズを聞くと、かつて昭和天皇に謁見したおり、「今日は大変な人に会った」と頬を紅潮させて領事館に帰ってきたと言う「鄧小平」の事を思い出す・・・。

「私の死くらいの事で人民の経済活動を止めてはならない」
「葬儀は行なわなくてよい、休日にもしてはならない」
「死んだら体は献体するので、使えるものが在ったら使ってくれ」

[本文は2022年7月16日、アメブロに掲載した記事を再掲載しています]




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「時系列的整合性の欠如」2

酒と女には気を付けろ、宗教や政治、応援している野球団の話はするな・・・。

今から40年前、自分が商いを初めた時、師匠とも呼べる方から言われた事だが、野球団がサッカーチームに変わったくらいで、今も変わらずこうした教訓は普遍的な命題と言えるだろう。

だが酒と女はともかく〈こう言う言い方をすれば差別と言われるのかも知れないが…笑〉宗教や政治、サッカーチームの話題は何故忌避されるのかと言うと、ひとえに敵を作らない為であり、世の中には色んな宗教が在り、政治団体も各種存在し、サッカーチームもあまた存在する。

この中で客、若しくは顧客がどんな嗜好なのかが判らない多方向営業の場合、相手がどんなサッカーチームを応援し、どんな宗教観を持ち、政治信条なのかは判らない。

応援しているサッカーチームくらいは聞きだす事ができるが、政治信条や宗教観はなかなか聞き出しにくく、容易に聞き出せた時は、下手をすれば勧誘されるかも知れず、顧客であればそれを断り辛く、安易に勧誘に乗ってしまうと、それに敵対する政治団体や宗教団体関係者の顧客を失う可能性がある。

それゆえこうした思想的な事、嗜好などに対して中立、白紙状態が理想とされるのだが、同様の事は好きな食べ物や飲み物にも言え、客や顧客の前ではこの類の自己主張は忌避するのが望ましいのである。

そしてこうした商いの上の不文律が、公的に必要とされる機関が報道の世界であり、ここでも特定の団体や嗜好へ傾倒した発言をすると、そこには個人的干渉が入る為、ニュースは事実のみを伝え、それを伝える者は自身の嗜好や感想を織り交ぜる事を忌避する事で、報道の正確性が担保される。

一方大衆はこうした報道機関の報道を視聴していると、どの報道機関も内容が同じである事から、そこに何か他との違いを探す傾向が出て来て、それは報道以外の部分にまで及ぶ。

例えば報道以外の場面でいつもニュースを読んでいるキャスターが、どこかの小さな定食屋でコロッケをうまそうに食べていて、幼い頃の最高のごちそうがコロッケだったと言う具合で、彼か彼女の出自が大変厳しいものだった事などが判明すると、それで何が分かったかと言えば何も分からないが、でも何かが分かった気がするのであり、以後はまずそのキャスターの報道を先に観るようになる。

「時系列的整合性」とは、その個人が生涯を通して、或いは長く変化させない普遍性を持った思想、形態、嗜好、思考の事を言い、1カ月前に言った事と現在言っている事が全く正反対だった場合、多くの人間はその対象者を信用できなくなるが、これが初めから忌避されていれば、事象に対する態度が予め存在しない為、信用が担保される。

しかし、これだと他と同じであるから、大衆はそこから「時系列的整合性」を探そうとするのであり、その「時系列的整合性」が好ましいものと思われれば、それに拠って「時系列的整合性」が忌避された部分でも人気が上がっていくのである。

こうした傾向が危機的になってきたのは、何と言ってもインターネットの普及で在り、双方向通信は、一般ネットユーザーに自己主張をの機会を与えたことから、初期媒体だった「ブログ」等の世界では、金太郎飴状態の報道形態より、自分の事を主張する形態、「時系列的整合性」がもっぱら記事に書かれて行った。

また記事を書く者は、その反応を気にするようになり、やがて「ナイス」や「いいね」でそれを測る形態が蔓延し、ここからネット内で「善」と「悪」が明確化する傾向が出てくる。

「ネットユーザー」の支持を多く集める「善」や「正義」「愛」に対して「悪」がくっきり区別されるようになり、その好ましいノマド「分岐点的かたまり」がもてはやされることから、皆がそちらに集中し、個人の「時系列的整合性」より、その好ましい部分、「善」「正義」「愛」の扱いが重要性を持ってしまう社会となって行った。

やがてフォロワーなどの制度が発生し、ブログからFacebook、Twitter、YouTubeと言う具合に発展していく過程で、言語は簡略化され、これに伴い「善」や「正義」「愛」はより先鋭化され、それを外れたものは全て「悪」となって行き、本来「時系列的整合性」の面では正しくても、それが現段階の「善」や「正義」「愛」に拠って拒否されてしまうようになった。

結果として、炎上やフォロワー数の激減などに繋がる為、発信者は「時系列的整合性」を無視しても、大衆が集まる側の事しか主張できなくなるのであり、この傾向にアプリケーションを提供する会社も、訴訟案件などが出てくる可能性もある為、「善」に拠る規制を大きくし、情報の多さから「時系列的整合性」が無視された状態が一般化して行った。

簡単に言えば、個人がその思う事が言えず、大衆が支持する平板な事しか言えない社会になってきたのであり、ここでは過去「善」で在ったものも、今の段階ではそれに優先する事情がある場合、過去の「善性」は無視され、統一した小さな今の「善」から外れる意見は「悪」とされてしまうのである。

この事は、それまでの「善」が逆転を受ける事はもとより、「時系列的整合性」をも「悪」に落とし、また思想的にグレーの状態も「悪」に落とすため、表面上は綺麗な話に囲まれながら、その下では「闇」を増やして行く。

「闇」はまた貧困を呼び、こうした貧困が増加すると、その内の何%かは心的破綻者を生じせしめ、綺麗な言葉に囲まれた社会に、ある日突然「信じられない事」が発生してしまうのである。

唯、こうした現時点の善性、正義、愛と言ったものは、それが過去になるに従って、その他多くの「時系列的整合性」の中に組み込まれて行く為、時間経過と共に「時系列的整合性」を復活させるが、それが復活した時には既に新たな善性や正義、愛が支配している為、遥か遠くの過去の小さな事でしかなくなり、連続して「時系列的整合性」が無視よりもっと悪い状態、予め欠如した状態で流れて行く。

人間の社会は多くの「善い人」の「善い考え方」で誤った方向に動いて行く。

最後に恐れ多いが、冒頭の「師」の言葉に足して、私も自身の教訓として心得みたいなものを残させて貰おうかな・・・。

人は他者の喜びを共有しない。
自身や親族の自慢話はどんな小さなものでも人前では語らず、どちらかと言えば少し貶めておく。
嬉しい時は悲しい顔をし、苦しい時は笑う。
褒められた時には、その褒めた分の対価を自身が失い、貶める者は、その貶められた分だけ、褒めた者より信用できる。



「時系列的整合性の欠如」1

人間にはズレがあり、このズレは何を起点としているかと言うと、その起点すらもはっきりしないが、若干の違和感にして深く、大した事ではないにも拘わらず、常にひっかかるズレが在る。
しかも多くの人間はこのズレに気付かない。

ズレは善と悪の双方に存在するが、悪の側は直近の比較が存在する為、「濃度」の形をとり、問題は「善」や「美」の側となる。

「善」や「美」の近くはそれが良いものだと思う為、ズレが在っても認識することはできず、信じれば信じるほどズレを大きくし、その大きなズレも認識することができないが、小さなズレは多くの人間に共感される、若しくは伝搬、いや、感染と言った方が良いのかも知れない、そう言う性質を持っている。

何か対象物が在る時、それを見て感動する道は大まかに2つ在る。
一つはその対象物が紛れもなく感動の対象である場合、もう1つは感動したい自分が在って、それを対象物に乗じる場合だが、この2者は自身の内に在って区別がつかない。

厳密には区別する事すら難しいのかも知れないが、個人差が存在する為、それが見える人間に取ってはこうした個人差をして、それが本質ではない事が見えてしまうのかも知れない。

だが元々差が存在するものからズレを認識すると言う場合、つまり比較の起点がはっきりしないものの誤差を何で測るのかと言えば、それは「数の多さ」と「時系列的整合性」の欠如なのかも知れない。

こうした閉塞して動きのない時代、多くの人間は大きな変化を求めず、小さな喜び、感動、満足を欲する傾向が在り、例えば1970年頃の日本の一般大衆の夢は「家を持つ」事だったが、失われた30年が継続中の今の時代、それがディズニーやユニバーサルスタジオ、或いはおいしい食事やスィーツと言う具合で小さく細分化される。

同様に感動も少なくなって、何か感動できるものが在れば、沢山の人間がそれに群がる事になり、これは本質的感動ではなく、何かの祭りのようなもので、感動したいが為に自身の言動思想の時系列的整合性を考えずに飛びつき、これに気付く少数の者は、こうした大衆の時系列的整合性の欠如をして、それがズレである事を認識している可能性がある。

多くの人間がこうして時系列的整合性を欠いた状態の中、これがズレである事に気が付く少数の人間が「ズレ」を主張しても、その時の大衆は気が付かないどころか、「善」や「美」に対するアンチと捉えてしまう。

今の時代で言えば「炎上」になってしまう訳である。

ただ、こうした時系列的整合性の欠如は、現在が過去になって行くと、過去の中で時系列的整合を獲得して行く。
つまり今それがズレである事に気付いた者は、それを記録し、5年後、10年後と言う時期を見計らって、それを世に出せば賛同者や理解者が多くなるのである。

ズレに気付いた者は、何故これが小さくても深く自分の中に残るのかと言えば、グレーの沢山の粒の中に、周囲のグレーより僅かに薄いグレーの粒が1つ存在した場合、これが僅かな差でも認識できる事、数が少ない故に際立つのである。

時系列的整合性の欠如は、一種の感情の増殖である事から、もう一つ例を挙げるなら、上に木の枝が在って、降ってくる雪は自分の所では積もらないが、周囲にはどんどん積雪量が増え、自分が周囲より沈んで見える。

この事が不安感に繋がり、自分が正しい、言い換えれば時系列的整合性を欠いていない事を主張したくなる為、焦燥感を覚える事になるが、春が来て雪が解ければ皆春を楽しみ、過ぎ去った雪の事は考えない。
大衆とはそうしたものだ。

今大衆の「ズレ」に気付いた者の心を埋めるのは難しいが、チャーチルが「最低だけど今はこれがベストだ」と言った民主主義と同じように、必ずしも正解ではないが、気付いた者は「利」を求めるしかない。
多くの者がズレを認識できない状態なのだから、これに便乗して「利」を得る事を考え、後にそのズレが解消された時、多くの者の油断を付いて利を上げた事をして対価とするしかないだろう。

利益は虚しいかも知れない。
豪華なホテルに泊まろうが、高額な食事をしようが、見目麗しい異性を傍らに侍らそうが、決して心は満たされない。
しかし、「利」は今の時代、人間社会で形なきものを形した、その形の最上位だから、虚しくてもこれを確保するを怠らないのが、人間社会に措ける唯一の正義、「善」だろう・・・。

[時系列整合性の欠如」2に続く

「理性の否定」

例えば「立派な大人になりなさい」と言った時、その言葉を発した本人の中では「立派な大人」と言うものに対する具体的な概念が存在している。

しかしこれを聞いている者にとっては「立派な大人」は限りない漠然性を持っていて、言い換えれば、それは無限に連続しているものとなる。
つまり片方で具体的な概念が存在していても、それはすべての人が理解し得るものではなく、無限に連続する概念は存在しないことと同義となる。

従って人間の言語は、全て大小のフレームに収まっていることで相手に伝わり、このフレームが小さければ小さいほど、その概念は明瞭化し意思が正確に伝達、もしくはその意思や概念が共有されやすくなる。
カメラのファインダーやモニターには、すべての景色から切り取ったフレーム内の部分が撮影されるが、これで全景が写るとそこに撮影者の意図が失われ、余分なものを排して始めて、そこに撮影者の意思が感じられるのと同じである。

それゆえ、人間が「正義」や「愛」を口にしたとき、そこには全ての場面、立場に措いて既に結果や取るべき行動が決定されていて、しかもこれは連続して細部に至るまでに及ぶ事から、人間がそれぞれに持つ自分のフレームが「他」と共有される事は有り得ず、この意味に措いて人間のフレームは、その大きなものは多くの異なるフレームによって共有されたように「誤認された状態の共有」を生じせしめ、逆に小さなフレームはそれが個人的な感情に近い分だけ「他」との共有を少なくするが、その共有の濃度に措いて大きなフレームより深さを持つ。

また一般的に「感情」で言語を使うことと、「理論的」に言語を使うことでは、感情を主体とした言葉には合理性が無く、理論、知性が有ることをして、そこに合理性や真実を見てしまいがちだが、人の世の正義や愛と言ったものは、大きなフレームでは漠然とした共有感を持つことが出来ても、その正体は千差万別の「感情」に繋がったものであることから、ここに「正義だから勝つ」「愛が人を救う」と言った理論は初めから成立していない。

しかし人間は理性や正義、愛と言ったものに対し、そこに真実を思い、合理的であることをしてその根拠を求めるが、理性、正義、愛は何をしてその存在が確かめられるかと言えば、その反対の状態が有って始めて成立する危ういものであり、ここで言えることは理性的であることをして、合理的であることをして、愛や正義をして、それが正しいと言うことにはならない。

むしろ理性や合理性、愛や正義は結局何かの他のものの「隠れ蓑」にしかなっていない場合が多い、もしくは常に「誤認」されている恐れを持たなければならないと言うことになる。

人間はその連綿と続く歴史の中で多くの「勘違い」を「常識」としている部分が有り、例えば時間や空間に歪みが有る事が分かったのはこの100年以内のことであり、地球が太陽の周りを周回していることが衆目に知らされたのも、この500年ほどのことで有ることを考えるなら、現在我々が常識としている知識もまた、いずれこの先違った事実が現れる事を予想しなければならず、この事を恐れない者は甚だ傲慢なことになり、真実を求めるとするなら、そこにこうした議論を欠くなら、それは何かを見ないようにして理論を組み立た、非合理的な「仮説」としかならない。

そしてこの社会が持っている「誤認」、これは現代の情報化社会を見ていれば良く理解できると思うが、この社会が理論的常識として包括しているものもまた、初めから勘違いされている部分を多く含んでいる。

いや先の人類の歴史上の「誤認」と同じように、殆ど全てが「誤認」で有る可能性すら有り得る。

また一般的に学術は間違っていないと考えがちだが、これも多くの「誤認を」内包しているものであり、難しい言語を使って難解な文章が書ける事をして、素晴らしい文章だと勘違いしている研究者たちの理論は、推論と、完全にこの宇宙が終わるまで一定普遍だった事実を捉えたものではなく、わずかな入り口の事象を拠とした稚拙なものであり、これが大学などの権威によって、事実以上に信頼を受けている、つまりは「権威に隠れた大きな誤認」へと繋がっているのである。

更にこうして考えて行くなら我々個人はどうだろうか、およそ世界の隅々まで熟知し、あらゆる知識を自身の内に持っている訳では無いのに、それでも国家や人道、愛や正義を語り、自分を疑うことすらない。
結局自分は自分の範囲を出ることができない「井の中の蛙」でしかないことを省みることもなく、自分こそが正しいと思ってはいないだろうか。

理論とか合理性、真理と言うものはこうしたものである。
初めから根拠のはっきりしないものの上に組み上げられた「幻想」「勘違い」であり、ここに真理を求めて合理的、理論的に物事を考えていけば、合理的で有ろうとすればするほど、理論的で有ろうとすればするほど、合理性は失われ、理論は意味を失っていく。

そもそもこの世界の人間の多くは、真理はどこかで探さなければならないと思っているかも知れないが、それが本当に真理なら初めから隠されてはいないはずであり、真理は重いものだとも考えがちだが、誰か真理を持ってみた人間が存在しただろうか。

もしかしたら大変軽いもので有る可能性も有り得る。
道を歩いていたらそこに大きな石が転がっていたとしよう。
この場合の真実は「石が転がっている」事が真実であり、ここに人間は自身や社会生活からいろんな意味を見ようと無理やりもがき、そしてそうした中から真理を探そうとするが、探さなければならないような真理は初めから外に対して開かれている。

なおかつ「石が転がっている」と言う真実を一番見えにくくしているものは、理論的に合理的に真理を探そうとしてきた人類の「誤認」、社会が持つ大きな勘違い、権威に隠れた不勉強、井の中の蛙を認識できない我々個人の無知なる傲慢と言うものである。

そしてこうした人間が宿命的に持つ誤認した状態を「感覚的錯覚」と呼び、ここで私が書いたような事を「理性批判」と言うが、1700年代後半のヨーロッパではこんな事が考えられていたのである。

理性と言う言葉からは何かに対する強い否定や、激昂した感情、愚かさや「悪」と言ったものが感じられないが、それゆえに人間は理性と言う言葉が感じられると、そこに真実や正義を重ね、批判の対象から外し続けてしまう。
しかし理性的であると言うことは一つの表現上の形式であって、それをして正しい、もしくは真実であるとは言えないのである。

今夜は18世紀ドイツの哲学者「カント」(Immanuel Kant)の「純粋理性批判」の扉の前に立ってみた・・・・。

「カルマ」業の解釈

紀元前1200年~紀元前800年、インダス文明後期、末期の記録には既に「業」(カルマ)の概念が出現しているが、この時の概念は「action」、つまり行動や何らかの動き全体を指していた。

この概念が著しく変遷して行ったのは「ヴェーダ」「リグ・ヴェーダ」に始まっていた「業」(カルマ)に対する紐付けが、学術的体系を為してきた紀元前600年~紀元前400年頃と考えられる。

仏教の基礎宗教で有るヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などの出現に拠って、理論体系が組まれて行った経緯を持つが、この理論体系は現在でもそれらしく見えるが、基本的には人間社会の概念を出ない範囲で構成されたものである。

東洋哲学は「偶然」を嫌う。
それゆえあらゆる結果には「因」が在るものと考えられ、因果応報、善因善果、悪因悪果と言う凡庸で窮屈な考え方が、恐らく理論的には見えたのだろうが、支持されて行った背景を持つ。

だが、人間社会は悪人の上にも陽が差し、善人の命も奪われる事を知っている。
それゆえ、その結果が逃れられないものとする理論が必要になり、ここに前世、現世、来世と言う三層仮定理論を拡大して、この現世に措ける矛盾を解決しようと考えた結果、発生してきたのが輪廻転生の思想と言える。

更にこうした思想は、それが権威的信頼を得る為、複雑な理論に細分化され学問的な様相を為す事で、人心を得て行った経緯を持つが、基本的には子供の「ままごと」が回を重ねるごとにリアル感を得て行く過程、田舎の無学な若者が共産思想の理論的な部分に憧れ、それをして自身が知性を得たと勘違いする過程に同じである。

元々生物がその個体を維持するのは至難なのが普通であり、明日を生きられるかどうかが決定していないのは、文明社会も自然界の動物も同じである。
この中で、善行を重ねても報われない時、その整合性を保つために、前世での行い、来世に備えた修行と言う事で、現世の理不尽を解決しようと考えた訳である。

ここでは良い行いをすれば、結果は良い事が起こる事になるが、現実の社会では良い行いが必ずしも良い結果になるとは限らず、邪な考えだからと言って、それが成就しない訳でもない。
その場合、前世にまで及んで現在を測るなら、大部分の事は整合性を保った解釈ができるが、この理論で言えば人間の数は初めから終わりまで一定量になる。

客観的に見れば、人の一生全てが茶番劇のような話になるし、生まれて間もなく死ぬ運命の者は、それを仏に悲しまれても救われはしない。

「業」(カルマ)の始まりは「action」、そこには何の意味もなく、また眼前に広がる現実に対する対処、その結果までは問われていなかった。
つまり元々「偶然」である事象の結果は「偶然」と考える自由さが感じられるが、これに網をかけて捕まえ、色んなものをくっつけて重くしてしまった為、それまでは空を飛んでいた「業」(カルマ)が、人間に拠って鎖で地表に繋がれた。

紀元前600年~400年頃に発生してきた宗教が「業」(カルマ)の自由を奪い、運命と言う重いもので縛り付けたとも言えるのかも知れない。

売名を目的に為された親切は、行動にした瞬間から自分の手を離れて他者の手に渡る。
他者が有り難いと思っても、それは悪のままか・・・。
反対に純粋な善の心が愚かなら、その結果は悲惨な事態を引き起こす。

努力しても努力しても報われない事を、前世に逃げたところで何も解決はしない。
良い行いをしていても報われず、ずるい事をしている者が栄え、力を以て善なる者を踏みにじる事も有れば、善人が報われる時もたまに在る。

単なる偶然で有り、そこには何の意思も意味もない。
ましてや辛い現実を来世に報われる事をして逃れたところで何になる。
生物に措けるチャンスとは確定していない未来に在るのではなく、この眼前に広がる現実、今を於いて他にはあり得ない。
古代文明の「業」(カルマ)はそう言っていたのではないだろうか・・・。

「業」(カルマ)は「action」、何らかの行動、動きであり、それをして先がどうなるかは決まってはいない。
が、確実に何かが動き始め、或いは広がり始めた、そう言う事だったのではないだろうか・・・。

プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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