「容量で数える」



「Harvard University 」或いは日本で言うなら東京大学 でも良いが、その国家の最高学府の単位を取得した者が常に優秀であるとは限らない。国家の最高学府は一つの篩い(ふるい)に過ぎず、人間社会の一つの定規による個人の評価である。

一般生物の記憶形成に措ける仕組みでは、パーソナルコンピューターに例えるならアプリケーションが誕生時に形成されているものの、その後は周囲の社会環境を加味して誕生後急速に形成され、人間を始めとする生物は社会文明と言う仮想システムと、地球や自然と言った現実、それに宇宙が持つ自己相似性と、それが分布する逆べき分布の中に有って、従ってマクロ的には個人差は確かに存在するものの、基本的には同じ原理の中に有る。

輪島塗職人になる為の資格はかろうじてでも良いが名前を書ける事、そして数が何とか50まで読めれば、それで事は足りた。

これは徒弟制度の原初、事業者である「塗師屋」(ぬしや・漆器製造販売元)代表の親方が、雇用する個人の教育を含めて責任を持つからだったが、日本が昭和と言われる時代に持っていた「終身雇用」の概念はこれを背景とし、尚且つこの就寝雇用の精神基盤は武家制度が持つ「封建思想」に支えられていたものと言う事ができる。

すなわち輪島塗りのみならず、日本の徒弟制度はある種日本の雇用制度の精神的指針だった訳で、ここでは事業主体者である「親方」には封建制度の指導者に必要とされる「帝王学」と同じものが必要だった。

彼には人の指針となる素養が必要だった事になるが、こうした素養は大学などの学府で学べるものではなく、人間関係の実践に置いてしか身に付かない。

10代前半で名前すら書けない子供に文字を教え、人として生きていく術を教えていくと言う点では、これは古い時代の大工の棟梁も同じ事だが、「親方」は小規模な「学府」機能も持っていたと言う事になる。

数を認識する概念は数字によるものが最も一般的だが、輪島塗の世界では「容量測」と言う仕組みが存在した。

これは10代前半でしかも数が読めない子供が弟子として入門してくる事から、凡その数を容量で認識する方法であり、極めて位相幾何学的な部分を持っている。

特定の大きさの竹篭や木製の箱に入る椀などの数は、大体しっかり詰めれば同じような数しか入れることが出来ないが、弟子を指導する職人はこの籠に一杯椀が入っていれば、その椀は100個有る、この木の箱だと80個と言う具合に数字を名詞として、或いはラベルのような概念で教えていく。

そして数の読めない弟子は箱一杯の椀を80個と言う名詞に近い概念で認識し、やがてそれが数の概念の入り口になり、最終的には数が読めるようになって行ったが、そうして弟子に数を教えている職人もまた、「親方」から同じ方式で数を教えて貰っていたのである。

同様に椀や皿などを塗って乗せる「手板・ていた」と言う細長い板、これでも例えば煮物椀などの大きな椀なら4個、吸い物椀などの通常直径の椀なら5個と言う具合に、乗せられる数が決まっていて、この手板に乗せられる数が凡そ決まっているなら、それが乾燥用の「塗師ふろ」に満載で入れられた時の数は、椀の種類とどのくらい入っているかの目測に拠って数量認識が可能だった。

ちなみに手板(ていた)の寸法は昭和40年(1965年)以前の寸法より、それ以降の寸法は幅で20mm程、長さで40mm程大きくなっている。

これは主に木材価格の下落が起因しているが、塗り師の道具に措いても必要最低限から少しばかりの「心の余裕」が出てきたと言えるのかも知れない。

そしてこうした容量測の有効な面は視覚に拠る感覚的判断、つまり「勘」を鍛える点に有り、数学の計算などでも式を立てて計算して答えを出す方法が一般的だが、世の中には数字の配列を見て視覚から答えが浮かんでくる者も存在する。

或いは原初の人類は視覚から感覚的に数を概念していたのかも知れず、こうした事を考えるなら、容量測と言う一般的には曖昧な数字の概念も大変奥深いものを感じるのである。


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「雇用の一線」



昭和50年(1975年)には販売も含めると、毎年70名前後の新規就業者が存在した輪島塗の世界だが、これが10年後には半減し、更に10年後の1995年には輪島塗関係の求人がほぼ0になってしまっていた。

しかし一方でバブル経済が崩壊した日本の社会では、それまでの金融システムの崩壊から価値観の迷走が発生し、職人の世界に憧れる傾向が出てくる事になり、この傾向は特に首都圏近郊の若い女性に多かった。

「何か確かなもの」を求めていたのかも知れないが、決定的な背景は男性が選択する職業としては賃金が低く過ぎる事、またリスクが大きかった為、男性より圧倒的に女性の修行者が増大したものと考えられる。
1995年前後には輪島塗関係の求人が全く無いにも関わらず、石川県外の女性弟子修業希望者が増大する事になる。

そしてこうした環境の中で発生した状況が雇用の逆流と言うものだった。

つまりは「どうしても輪島塗の職人になりたいから、給料無しでも修行させてください」と言う者が発生して来たのであり、この環境は輪島塗の親方の感覚を蝕(むしば)んで行った。

「自分は善意で教えてやっている」と言う形が蔓延してきたので有り、ここでは徒弟制度が本来持っている「若年者を育てる」感覚が失われ、親方はその責任を放棄し乍只の労働益を得るようになり、しかもこの状態が当たり前になってしまったのである。

賃金の支払いの無い雇用主は基本的に権威が無いものだが、ここで親方が権威を維持する方法が必要以上の自己価値の広言だった訳である。

すなわち輪島塗は素晴らしいものなんだ、その輪島塗でも家(自分)がやっている輪島塗こそ最高なんだ、と言う言い方が出てくるのであり、ここからまた更に景気が悪くなって売り上げが落ちるとどうなるかと言うと、環境が厳しい程、困難な程価値が有るとする価値反転性の競合が始まる訳である。

一種のカルトだが、厳しい程、苦しい程その道が崇高になって行く事になり、この中で肥太った親方と痩せた若い女性の弟子の組み合わせが、あちこちで見られるようになって行き、こうした親方の在り様は権威を担保するものとして、更に既存の小さな権威にすがって行く傾向を生じせしめ、嫌が上でも実質の伴わない伝統権威の株を押し上げて行った。

またこうした既存権威を得にくい親方などは「婦人画報」などを始めとする雑誌や報道の権威を頼るようになり、為に実際は周落に有ったマスメディアも権威が上がってくるが、これなどはまさに価値反転性の競合そのものだったと言える。

ちなみに雇用制度の法体系の中では、賃金を支払わなければ労災保険の加入規定から外れる事になるので、弟子を只で雇用している親方には労災保険の加入義務が免責されるが、只では可愛そうだと思って僅かでも賃金を支払うと、それに対して法的根拠を持った労災加入義務が発生してきて、労災に加入義務が発生すると、当時の職業安定所から失業保険の加入促進が始まり、最終的には最低賃金を払うか雇用を断念するかと言う形になった。

おかしな話だが、若い労働力を只で雇用している者には労災加入義務が無く、善意で少しでもと思って僅かな金銭でも支払うと、それによって雇用継続が困難な状況が発生したのであり、細かい法はグレーゾーンにいる者まで闇に突き落とす事になる、愚かな立法が現実を虐げる今日の日本の在り様は、1995年にはもう始まっていたのである。





「雨の日に想う」



輪島塗の塗師屋(ぬしや)と言う組織には「筆頭職」(ひっとうしょく)と言う立場が有って、これは通常ならその塗師屋の一番弟子で、修行期間である年季明けが終わった者が、他の塗師屋でも働いて経験を積み年齢を得て、もとの塗師屋で指導的立場に有る、商家で言えば「番頭」の立場に有る者を言う。

だがもしその塗師屋が創業間も無い時は、暫定的にその家の一番弟子の年季明けが終わった時点で、事実上の筆頭職になる場合が有り、筆頭職は親方の次に権威を持っているが、高齢の筆頭だと時には若い親方の指導も兼務している重要職となる。

春3月、まだあちこちで雪が残り、細かく冷たい雨が降っている日だった。

年季明けが終わって間もない私は一番弟子だった事も有って、暫定筆頭職になっていたが、そこへ一人の、30代半ばくらいだろうか、ジャンパー姿の男性が訪ねてきた。

だがおそらくその男性は言語に障害が有ったのだろう、言葉は途切れ々々でしかも発音もしっかりしない。

そこで私は紙とマジックを持ってきて、それで筆談する事にしたのだが、彼は輪島塗の下地職人で、今現在解雇されて仕事が無くて困っている事、障害者である事を紙に書き、つたない発音で「何でもします、どうかここで雇ってください」と何度も何度も自分より年若い私に頭を下げるのだった。

オイルショックか何かでとても景気の悪い時だったやも知れぬが、さすがに人を雇う事に関しては親方の範囲である事から、彼を事務所に待たせて親方に相談に行ったところ、親方は自分が直々対応すると言って事務所まで来ると、「済まない、家も景気が悪くて今は人を雇えない、本当に済まない」と、その職人に頭を下げた。

藁にもすがらんばかりの職人は更に悲しそうな顔になり、そして来た時と同じようにつたない口調で「分かりました、ありがとうございました」と言い、また冷たい雨の中を去って行った。

現在漆芸技術研修所に入所する者の中には美術工芸大学を卒業後入所している者、又は漆器が好きで頑張っている者が多い。

そして若い人や、それを支援している塗師屋も頑張っている事や、やる気が有る人が評価されているのは、それはそれで悪い事では無い。

だが「夏の器を作りました・・・・」と言うお洒落なダイレクトメールなどが送られてくると、私は何故かあの冷たい雨が降る日の職人の事を思い出してしまう。

もう親方も亡くなって久しいが、私は今もガックリ肩を落として去って行く、あの職人の後姿を見送りながら、親方と2人で「済まない」と謝り続けているのかも知れない・・・・。


「塗装工と言う誇り」



もう20年近く前になるだろうか、仕事で某和紙産地の作家と共同製作品を作る機会が有り、私は細い紙の帯を朱や緑などの漆で拭いて、それを編み上げて敷物を作ったが、これに和紙作家が意匠を加えたと言う事で仕上がりを楽しみしていた所、出来上がってきたのは表面にべったり和紙が糊張りされた状態のものだった。

これでは別に下で編み上げた漆の風合いなど始めから必要が無く、こうした作家の有り様に私は漠然とこの和紙産地の衰退の速さを見た気がしたが、同じ事は輪島塗にも言え、基本的に漆は塗料である事から、輪島塗職人は塗装工の範囲の中にある。

それゆえこれを勘違いすると「漆芸家」や「漆芸作家」なる者が存在し始めるが、自身の価値をこうした形で高める有り様は、他の塗装を職業とする者を賤しめるものとなる事を畏れなければならず、ここを間違えるとその作られた品物も卑しさから逃れられない事になる。

江戸時代中期から晩期の指物(さしもの)と言って、箱など角のある器物を漆で塗ったものを修理していると、そこに塗り職人の名前は出て来ないが、箱を作った指物師の名前が箱に刻まれている場合がある。

私がこうしたものを見てきて思った事は、「ああ、漆は塗料なんだな」と言う当たり前の事だった。

だが輪島塗の世界に有って、そして輪島と言う地域だけで暮らしていると、どうしても漆が塗料で有る事を忘れ、まるで自分が作ったように思ってしまうが、本質は躯体に有る。

つまり素地となる木製の器物が無ければ、或いは脱乾漆でもそうだが、元になる形が主であり、漆はその塗料なのである。

だから漆を塗ってはいけないものも存在する訳で、幅3尺、長さ6尺を超える杉や桧の板は、それだけで杉なら50万円、桧や欅(けやき)の場合200万円とも700万円ともの価値を持つのであり、これに漆を塗ると価値が下がってしまう。

ここでは漆を塗ってあることで何か不都合を誤魔化しているのでは無いかと見られてしまう訳である。

同様の事は「神代杉」(じんだいすぎ・杉の化石化したしたもの)でもそうであり、基本的には桐箪笥(きりたんす)なども、漆を塗るとその空気や湿度調整機能が失われる事から、よほどの事情が無い限り、それを塗ってしまうと職人の質が疑われる事になる。

茶道の千宗家十職の一つ「一閑」(いっかん)の「一閑張」の技法は和紙を躯体に糊で何枚も貼って、その上から柿シブや漆を塗って仕上げる技法だが、ここで注目すべきは「漆や柿シブ」と言う表現であり、明確に漆が選択塗料の一種でしかない事が記されている。

ゆえ、こうしたものを修理する場合、もう二度と絶対剥がれないように紙を漆で張ってしまうとそれが価値を失う。

つまりこうしたものは表面の漆が切れて紙が剥がれてきたら、水で少しずつ表面の紙を剥がし、そこからまた糊で和紙を貼って仕上げるのが正解なのであって、これを輪島の堅牢優美に照らし合わせ、漆で貼って仕上げる事は、冒頭の和紙作家にも似たりの風情の無さ、傲慢な事になってしまうのである。

ちなみに欅の話が出たので、お寺の丸柱に付いて最後に記しておこう。

直径1尺(30cm)の丸い柱は、古くは全て欅(けやき)が用いられているが、実はこうした欅の丸柱を日本で探すとするなら、1本が1億円でも探すのは難しく、東南アジアから似たような木を輸入したとしても1本が500万円くらいになる。

これらの木が何十本と使われた日本の古代建築のスケールを思うとき、自身のやっていることの小ささを思うのである・・・。

「春」







首都圏がウィルス感染に拠ってロックダウンに向かいつつ有りますが、こんな大変な時でも桜の花は咲き、鳥はさえずり、風は暖かな菜の花を揺らします。

人間の世界ばかりが世界ではなく、その一部である事を自然の姿から感じ取って頂けたらと思います。
暫く外出も控えられる皆様に、春らしい動画を見つけましたので、ご紹介させて頂きました。

遠い昔、私が初めて漆の世界に弟子入りした時、師匠は既に80歳近くでした。
私が彼の最後の弟子だったのですが、師匠は明治、大正、昭和と言う時代を腕1本で生きていた人でした。
戦争、大地震、恐慌、デフレ、戦後の混乱を生き抜いてきた彼が私に言っていた事は、「食べる為なら、何をやっても構わない」「仕事に拘るな」と言う事でした。

太平洋戦争後、材料の漆が手に入らず仕事もなかった時、師匠は屋根のペンキ塗りでしのいだとも言っていましたが、その以前、戦時中は静岡の軍需工場で爆弾も塗っていたと語っていました。

「食べて行ければ、それで良いんだよ」
ウィルスで日本中が停滞し、混乱から先が見えない時、なぜか春の日の暖かな光の中、師匠のこの言葉が思い出されます。

無理をせず、待っていなければならない時は、その待っている事すらも楽しむ・・・。
状況が許さず、避けられないものなら、それを嘆くのではなく、どっちでも同じなら泣くより、私は笑う・・・。
辛い事も幸いな事も天の采配ならば、どちらも有り難く頂戴する。

今微細なウィルスに拠って日本の太陽は雲間に隠れてしまったかも知れませんが、この雲は長く続くものではない。
やがて雲は切れ、明るい光が差し込んできます。

それまでの間、泣いても笑っても同じなら、少しは笑いましょう。
どんな事が有っても春になれば必ず花を咲かせる、そんな者たちの力を感じてみましょう。

偶然にとても重厚な桜と音楽の企画を見つけましたので、今日はご紹介させて頂きました。


秋田幸宏氏と、tokyosallyさんのコラボレーションです。


秋田幸宏(あきた さちひろ)
1941年、青森県旧岩木町生まれ。
弘前市常盤野で「山の家 ぶなこ」を経営する傍ら、岩木
山の四季折々の表情を30年以上にわたって撮り続ける。
また「四季をふむ会」の会長として、ブナ林やかまくらを舞
台としたコンサートを開くなど岩木山の豊かな自然を広く紹
介するさまざまなイベントを企画。
2017年2月9日逝去。


プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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