いつか・・・きっと

富山、新潟の県境朝日を過ぎると上越までもう一息と言うところだが、いつも長野へ行くときはこの国道8号線を通って、しかも大体がこうした冬に入る季節になることが多く、決まって親不知(おやしらず)付近で一休みするのだが、冬の日本海は厳しい。

鉛色の、そしてこれから起こること全てが絶望にしかならないような、低く重い雲がたれこめ、海はこの身が起した一切の悪行を責め立てるが如く、必ずこの暗い海の底に引きずり込んでやるとでも言っているように怒り荒れ狂い、遠い沖から冥府をさまよう亡者達の唸り声のような音をたてて風が吹きすさぶ、冷たい雨は風で上から降れず、岸壁の下から吹き上がり、それを横風が折って波しぶきと共に白い矢となって眼前を通り過ぎる。

生まれてからずっと眺め続けてきたこの景色は、恐らく日本海に面したところに住む者共通の景色だが、維新時代やはり高杉晋作がこの冬の日本海を見て故郷を思い出し、吉田松陰の門下生でありながら、亡き松陰の崇高な精神を未だ実現できぬその身を振り返って号泣する姿もまた、この景色でなければなし得なかっただろう。

だが、私はこうして荒れ狂った日本海が好きだ、そしてこの絶望しかない海こそが自分の基本だったとも思っている。
貧しく何もない中で誰にも頼る事は許されず、人は皆悪意からしか始まらないものだと固く信じた少年はいつしか、その悪意からしか始まらないと思っていた世の中で絶望の中から多くの人達に教えられた。
「人は最後は善だと言うことを」

会社を辞めて、自分が理想とする人を探す為に迷走し、やがてそれは自分自身が目指す以外ないことに気づいた。
また短い期間ではあったが、アムステルダムの友人のおかげで少しだけ「世界」と言うものも見ることができた。
しかし、その中で見えたものは人間の醜さ、愚かさ、汚さばかりだった。

カメラを首からぶら下げてアジアの貧しい国で10歳にもならない女の子を金で好きにもてあそぶ日本人、彼女達は10代前半でエイズに感染し、宗教系の施設でその後を送ったことを知っているだろうか。
故郷へ帰ろうとしても金で売られ、その上HIVに感染したら、親からも帰って来るなと言われた彼女達のことを考えた事はあるのだろうか。

生活するのがやっとで到底地元の人が買えないブランド品を、外国からやってきて金に糸目を付けず買い漁るブランドに身を包んだ日本人、いつか僅かでもその国の人の気持ちを考えたことがあるだろうか。
高邁な理想を語りながら、自分は額に汗することなく若い人の理想や夢を食い物し、自身の生活を向上させることしか考えなかった経営者は若い人に夢や希望を、無為に過ぎ去らせた歳月を返せ。

私は時々人間が大嫌いになることがある。
滅んでしまえと思うことすらある。
だけど、それでも、どれだけ憎んでも後から後から「人は良いものだ、信じられるものだ」と何かが湧き上がって来て止められない。

海はますます荒れてきて風が、雨がこの身に突き刺さる。
煙草をくわえた私は手で囲うようにしてライターで火をつけようとするが、強い風が指の間を縫うように入ってきて、なかなか火がつかない。

暫くカチカチと同じ行為を繰り返すが、やはり火は付かない、腹いせに煙草を海に向って投げつけたが、風でそれは押し戻され足元をころころ転がって水溜りに落ちた。

まだ何もなし得てはいない、多くの人の期待や励ましに対してこれっぽちも返せていない、生活するのがやっとで何も出来ませんでした・・・と言うのか、それで良かったのか、そんなことで終わるつもりか。
私はその煙草を足で踏んで粉々にし、そして天を睨む「例え明日死んでも、絶対諦めるものか、いつか・・・きっと」
スポンサーサイト



天下無敵のPTA

少し前のことになるが、長女が小学生の時、当初PTA総会で決められていない行事が間にポンと入って、何も分からないまま集金がされたことがあり、どうもPTAで仲の良い人数人で決めてそれが何の相談も無いまま実行されたことが分かったので、学校へ事前に父兄全体に承認を取るよう申し込んだ。

しかし学校からもPTAからも何の連絡もなく、同じ事が繰り返され、大事な情報すらも恣意的な連絡形態が取られるに至って、私はPTAからの脱会届けを提出し、会費の納入を拒否した。

ここに至って始めて事の重大性が分かってきた学校は、何故それに気づいたと言うと。学校からの連絡文書でPTA連名になっているものが家の長女だけ配布できない、つまり本来公平であるべき学校教育が、PTAに参加していなければ不公平が生まれてしまう、学校教育を円滑に運営するための組織が逆に差別を生むことに気づいたのである。

そこで校長から電話があり、「○○さんの言っていることの意味が分からなかったけど、やっと分かりました。でもこれは脅迫ではないのですが、こんなことをしていたら娘さんの将来にとって決して良い事にはなりません。何も行事には参加しなくてもいいからPTAからの脱会は撤回して貰えませんか」との話だった。

充分脅迫にはなっていたが、この辺が妥協点かとも思った私は、臨時の行事決定には父兄全員に事前通知して採決をはかることを条件にしてPTAに復帰した。

日本国内に置いて法的に参加が義務付けられている団体は存在しない。
つまりPTAは唯の任意団体に過ぎないことを分かっていない父兄は多い、というか殆どがこうしたことすら知らずに役員になり、何も考えずに上部団体にPTA会費は上納されているのである。

本来PTA、保護者会はその学校での運営の円滑化、学校行事の協賛団体であり、上部のPTAへ資金納入することが目的とはならないはずであり、こうした上部組織の行事では人員の動員などが平気で行われ、「私の顔が立たないから出て欲しい」と言う、PTAがまるで私物化されたような発言まで出てしまうのである。

だがこうした一連の騒動以後、私はもう意見を言わなくなった、と言うより虚しくなってしまった。
学校で生徒に授業を行っている教員、そのトップである校長にしてPTAは任意団体だと言う意味が分からなかったからだ。
勿論全国の教員の全てがこうした状態だとは言わない。
中には私生活を犠牲にしてまで児童生徒の教育に全力を尽している方も多い。

私が虚しいのはむしろ父兄の一部についてだ、「モンスター・・・」と言う父兄が自分の知っている狭義な民主主義をPTAに持ち込んだ時、PTAは学校教育の妨げになる危険が生じてくる。
教育改革で、先生の地位や権利が相対的に保護者より劣化していくことには危惧があると思う。
先生が信念を持って行った行為が評価されないのであれば、それは先生の指導に虚無感となって現れ、ただでさえ雑事に追われて時間の無い先生にとって更なる精神的負担となるからだ。

昔の話だが、三島由紀夫が学校で一人の先生に殴られた子どものことで、その学校を訪れたが、当時すでに右側の人として有名だった三島の訪問に対し学校では激震が走る。
だが、その子どもを殴った先生は三島から何故殴ったのか聞かれ、「悪いことをしたからだ」と答え、三島が「それに絶対間違いないか」と尋ねるのだが、その先生は「私は信念を持って教育のため殴った」とこたえるのである。

三島は立ち上がり、その先生の手を取って握り締め「先生、これからもよろしくお願いします」と言うのである。




プライベート

少し遠くに住んでいる友人の所へ遊びに行って帰ってから1週間ほど経ってからだと思うが、その友人からこんな電話がかかってきた。
「この間の写真、フィルムともども売って欲しいと言う人がいるんだけど、いいか」と言われた私は暫く何のことか分からず、友人の説明を聞いてやっと事の次第が理解できた。

そう言えば遊びに言ったとき、鉄道マニアでもあるこの友人と2人で廃線になる駅の撮影に同行し、愛用のニコンで20カットほど撮影したのだが、その内この駅でイベントに参加していた人を撮影したカットがなかなか良いと言うので、現像したポジフィルムを友人のところに置いてきたのだった。

友人はそれをプリントし、自分の写真と一緒に地元で写真展を開いていたのだ。
だがそれがどうしてフィルムともども買いたいと言うことにつながったのか分からなかったが、友人曰く、私の撮った写真の中にカップルがビールで乾杯していたカットがあって、これを展示していたらどうもこの女の子の方が高校生らしく、しかも友人の住んでいる所で議員をしている人の娘さんだったと言うのだ。

だが私はこのカップルから撮影の許可を得ていたし、まさか高校生とは思っていなかった。
この議員の支持者の人が偶然友人の写真展を見に行って写真を発見、すぐこの娘さんの母親が現金入りの封筒を持って友人宅を訪れたと言うのだ。
いやはや何とも・・・の世界ではあった。

「そう言うことなら金はいらないし、すぐフィルムを渡して、写真はすぐ撤去できるのか」と尋ねた私に「どうしても金を受け取ってくれって言うんだ、そうしないと安心できないらしいんだ」友人は困った声で答えた。
仕方なく友人宅にいるこの母親に直接電話で10分も話して納得して貰い、どうにか金を受け取らずに済んだ。
それから友人は慌てて写真を撤去し、どうにか事なきを得たのだった。

しかし、この娘さんの母親は凄い人だった。金を受け取ってくれなければ、どうしても私を信じることが出来ないと言ったのである。
気の毒だが、この人は旦那が議員をしていても、周囲にはそう言う人しかいないと言うことなのだ。
だから友人も私も自分達はそんな人間ではないと言っても、聞き入れて貰えない勢いだった。

それに基本的には高校生にもなった子どもがたまに羽目を外したくらいで、議員が責められると言うのもおかしい話である。
議員は議会で職務をまっとうすれば問題は無いのであって、プライベートで娘が羽目を外したことがそれほど重要な問題だろうか。

これは政府でもそうだが、そもそも国民が豊かで、それが代議士や官僚達の働きでそうなっているものなら、たまに料亭で宴会しようが、天下りしようが特に問題にならないのである。
それが庶民は貧しく政治家や官僚達だけが優雅な感じだから国民に責められ、それをカバーするために私生活まで細心の注意を払って暮らさなければいけなくなるのである。

私達は政治家に何を求めているだろうか。
性格の良さ、人柄、正義感、弁舌の美しさ・・・そんなものだろうか、それよりもっと大切なのは私たちが豊かに暮らせて、子供達にもそれが続くように仕事をしてくれることではないだろうか。
失言がどうこう言うレベルで言い訳している国の代表は、見ていても辛い気がしてしまうし、金で解決しようとしたこの地方議員の妻より、方法はともかく覚悟が足りない感じに思える。

昔のことになるが、フランスのミッテラン大統領に「隠し子」疑惑が浮上した時、空港で待ち構えていたゴシップ大好きなイギリスの放送局BBCの記者が、「ミッテラン大統領どうなんですか」と大統領に詰め寄ったところ、「ああ、いるよ(隠し子)、大きくなってるよ」とあっさり認めて、スタスタ行ってしまったのである。

大統領の隠し子は19歳だったが、取材していたのは全て海外メディアだけで、チャンネル「2」の記者たちはこの海外メディアを逆取材していた。

フランスでは例え大統領と言えどもプライベートは個人の自由で、それに干渉しないと言う不文律が確立していて、フランス国民にとってはミッテラン大統領に隠し子がいたぐらいのことでは、スクープどころか何の問題にもならなかったのである。

この時のミッテラン大統領は実にカッコ良かったし、フランスと言う国がとても大人に見えたものだった。


弦楽六重奏曲第1番第2楽章

星が見えない・・・と言う事は曇りと言うことか、また嵐が近づいているのかも知れない。
こう言う夜は何か激しい音楽が聞きたくなる。そうだ今夜はブラームスの話をしようか・・・。

この話は有名な話だから知っている人も多いかも知れないが、3Bと呼ばれる作曲家、バッハ、ベートーベン、ブラームスは連続する煌びやかな模様のような曲がバッハ、ゴッホの絵のようにダイナミックかつ繊細な曲がベートーベン、そしてレンブラントの絵のようだと言われるのがブラームスだ。

ブラームスは青年の頃、作曲家シューマンに弟子入りしているが、当時シューマンは新婚で、彼の妻クララはとても綺麗な女性だったと言われている。

青年ブラームスは一目でこのクララに憧れるのだが、しかし彼女は師匠の妻であり、道ならぬ恋は到底許されるものではなく、それはブラームス自身の内にあっても同じことだった。<
またブラームスは作曲家としてだけでなく人としてもシューマンを尊敬していた。

やがて少しずつその音楽的才能が現れ始めていたブラームスは、周囲から師匠より才能があるのでは無いか、とまで囁かれることになるが、彼がやはりシューマンを師匠として尊敬し続けることに変わりは無かった。

そんなブラームスにやがて大きな決断の時がやって来る。
師匠シューマンの突然の死、病死だった。

そして若き妻クララが残された。

曇った空を刺すような深い緑に囲まれた石畳の道、後ろに手を組んで、苦悩するブラームスの歩く姿が見えるようだ・・・。

その後ブラームスはクララの生活の面倒を見ていくことになる。
それもクララが生きている間ずっと何も言わず助けていくのである。
彼はクララに自分の気持ちを打ち明ける事はなかった。

勿論ブラームスが自分に好意を抱いていることはクララも知っていたし、もし彼が心を打ち明けたならクララ自身にもその覚悟があったはずである。
でもこの古典的な男は生涯愛する人を、尊敬する師匠の妻として扱っていくのである。

弦楽六重奏曲第1番第2楽章はブラームスがこの師匠の妻クララに送った曲である。
もともとピアノ曲だったが、後に弦楽曲として有名になった。

この曲は屈折するブラームスが1番現れている、激しい炎のような情熱を古典的な形式に押し込んだ、まるで自身の激しくクララを愛する気持ちを、道徳とか倫理と言う型に無理やり押し込んだ、その気持ちどおりの曲である。
そこにはブラームスの露出した心臓がえぐられるような苦悩が現れている。

ブラームスはこの後本当に綺麗なシンフォニーを作っていくが、その根底には遭う度に自分自身と闘っていかねばならなかったクララへの思い、そうした思いを乗り越えていこうとする、未熟で若いブラームスのこうした姿が出発点となっているように思うのである。

弦楽六重奏曲はとても鋭角的で、ひどく古典的な楽曲である。
だから彼のシンフォニーよりは一般的に知名度はないが、若きブラームスの姿を知りたいと思う人は是非聞いて頂きたい一曲である。

もしかしたら女性に取っては「いけず」なのかも知れないが、私はこんな古典的な男が好きだ。
誰もが超えることを許容しそうなこうした一線を、心臓をえぐられるような苦悩と闘いながら、かたくなに原則通り守り通す男がたまらなく好きだ。

枯れ木に花は・・・危ない。

大正12年8月、鎌倉の平野屋別荘に行った時、軒先の藤が花をつけている。手洗いの窓から外を眺めると八重の山吹、そのうえ珍しいことには小町園の菖蒲(しょうぶ)、蓮が咲き競っている。どうもこれはただ事ではない。自然に発狂の気味がある。それで遭う人ごとに天変地異が起こりそうだと話したが、誰も真に受けない。8月25日に東京に帰った。

この8日後、文壇の鬼才、芥川龍之介は関東大震災を目のあたりにすることになる。
上の記述は芥川龍之介がその手記「大震雑記」に記した関東大震災前の植物の異常を記したものだが、春から夏の花が1度に咲いている様子が良くうかがわれる。

大きな地震が起こる前には秋に桜が咲いたり、春に夏の花が咲いたりと言う話が多い。だが、桜は品種によって秋に咲くものがあるし、季節外れでも1つや2つ花を付けることは植物にはたまにあることで、これで大地震が・・・と言うことはないと思う。
またこのブログで初期の頃にも書いたが、竹や笹が白い花をつけてその群生全部が枯れることがあるが、竹や笹は約60年に1度、こうして花を付けたら枯れてしまうのは普通の生態だし、サトイモの葉に白い花がつくこともあるが、こちらも珍しいが夏の気温が高いと稀に見られる普通の生態である。

赤いミョウガが採れることもあるが、これも24年ほどに一度現れる「ミョウガの花」と言われるもので、これが出たからと言って地震が起こる訳ではない。
さらにジャガイモが大きくならず不作になることもあるが、これは菌の繁殖によってしばしば見られることで、ジャガイモが小さかったと言うだけで大地震が起こるわけでもない。

中国の古典文書には、天変地異の時「地面から手が生える」「椿の木に人の顔が現れる」としたものもあるが、地面から生える手とはキノコの一種で、白く小さな手のように枝分かれした形状ものがたまに生えることから、そう書かれたと思われるし、椿に人の顔が・・・と言うのは恐らく椿の腫瘍だと思われるが、この2件に付いては現物写真が残っていないので何とも言えない部分もある。

野菜、例えば大根などが人体の下半身そっくりのものができ、男女揃ってと言う話もおおいが、これも養分が少なければ比較的多くみられることであり、大地震はこうした事とは関係なく起こる。
大地震が起こる前の植物の異変、実は芥川龍之介の記述がそれを端的に表わしている。
つまり、植物が季節外れに満開に近い状態でしかも広範囲に咲いていることだ。

通常秋には咲かない桜、例えば代々木公園の桜の殆どが、秋に五部咲き以上で咲いているとか、夏にサザンカの木で花が大量に咲いた、冬に筍が採れたなどである。
こうした場合は大地震を疑った方が良いかも知れないが、芥川の例にもある通り、これを見たら明日地震が来る訳ではなく、1週間後とか場合によっては数ヶ月後ということもあるので大慌てしないことが大切だ。

地震の前に植物が起す異変に付いては阪神淡路大震災の被災者で、当時20代前半の女性が地震が起こる当日、午前1時頃帰宅したところ、風も無いのに鉢植えの欄の葉が一枚だけ上下に揺れていて、不思議に思って近くまで行って確認したが、何故揺れているのか分からなかったと話していて、同じような話は日本海中部地震でも出てくるが、植物に感情がある事は研究者の中では広く知られていることで、こうした植物の中でも欄は最も感情が豊かだとされている。彼女の欄は必死に彼女と自分に危機が迫っていることを知らせようとしていたのだろうか。

また大正時代に地震を研究していた椋平広吉(むくひら・こうきち)氏によると、「おじぎ草」は地震の起こる40時間も前から開いている葉を閉じたり、閉じている葉を開いたりするとしていて、同じ研究は1970年代でも一部の民間研究者達によって研究されてきたが、現在はこうした研究がなされていない。

同じように「ネムの木」もその葉を開いたり閉じたりするとされているし、木の中を流れる微弱電流の変化で地震が予測できたとされている話もあるが、現在はどうなっているのか、こうした研究の話が少なくなって来ている。
どうも天変地異の前に起こる植物の異変はかなりダイナミックな変化か、相当変わったことが起こるようで、1,2本桜が咲いたとか、変な時期に1,2個花が咲いたと言うのは天変地異につながらないことが多いようだ。





いつかこの時が・・・。

麻生太郎総理になってからと言う訳ではないが、安倍首相の頃から日本とアメリカの間に僅かずつヒビ割れが入って来ているように思うのは私だけだろうか。

北朝鮮拉致被害者問題にしてもそうだが、日本は韓国とほぼ同レベルかそれ以上の北朝鮮攻撃被害対象国だが、サブプライムローン問題やイラク戦争で汚点を残したブッシュ大統領最後の点数稼ぎのため、日本抜きで交渉が進められ、拉致被害者問題はおろか、核問題までも棚上げのまま6カ国協議は合意され、北朝鮮のテロ支援国家指定は解除された。

またアメリカに端を発した世界的金融不安でも、やはりヨーロッパと比較すると日本は蚊帳の外だったように思える。
日銀が毎日ドルを供給していたにも関らず、こうした何か隙間風のような、まるで無視されたような雰囲気は何故だろう。
確かに日本国内を見れば民族的にかつて例の無い少子高齢化で、GDPは確実にマイナス成長だし、政治は2人続けて途中放棄、その上今の総理だっていつまでと言えば疑問符が付く、諸外国にしてもどこまで真剣に付き合えば良いのか分からないのも頷けるが、最大の要因は中国、インドの台頭だろう。

もはやアジアの中心は日本ではなくなっていることを日本政府と国民は自覚しなければならない時が来ている。
この11月の麻生総理のアメリカ訪問にしても、ブッシュ現大統領は麻生総理との対談を数十分にし、中国首脳との対談は1時間を割いているし、オバマ次期大統領に至っては麻生総理との対談を拒否している。

もはや落日を迎えた国との関係はそれほど重要ではないと考えているだろうし、それが国家を引っ張る人間としては当然の対応だ。

だが日本はアメリカを恨んではいけない。
アメリカは独立国家、それも超大国であり、国民の利益を考えたら不利益なことは出来ないのが当たり前で、日本はその不利益な国になりつつあることは事実なのだ。

また太平洋戦争で敗戦国となった日本を助けてくれたのはやはりアメリカ合衆国であり、その民衆だった。
日本は国家の安全保障、経済、外交、日本国憲法までもアメリカの後ろ盾で保障されてきたのだ。
そして敗戦国の国民、政府としてもこれ以外に選択の余地は無かった。
だからお互いよくここまで頑張ってきた、これは世界的にも称賛に値すると思う。

だが、中国やインドと言う今まで長く辛抱を続けてきた国々が成長し、力をつけてきた、これまで余裕のあったアメリカもこれからは真剣に頑張らねば生きて行けない状況が出てきたのである。

だからこれからは日本は日本だけで、自分の力で生きていかなければならない時が近づきつつあるのだと思う。
今まで何かあったらアメリカに泣きつけば何とかしてくれた、しかしこれからはもう日本が泣いて帰るところは無いのである。
海千山千の国際社会で自分だけの力で生きて行かなければならなくなってきたのである。
今年に入ってアメリカが取り続けている態度はこう言うことを意味していると思った方がいい。

そしてこうした事は日本の国民もその仕組みまでは理解できなくても、何となくどこかで感じていることなのだ。
にも関らず、国民1人1人に1万円配りますと言うのではあまりに情けない。
国民が求めているのは「夢」であり「希望」だ。

昔アフリカへの援助が金や物資だけだった時、その国の国民は働かなくなり、唯で貰えることだけ願うようになった。
こうした反省から海外援助は技術を指導したり、その国の人達が働いてお金を得るための援助に切り替わってきた。
日本の国民が今望んでいる事は、こうした新しい国際社会の仕組みの中で日本がこれからどうしてお金を稼ぎ、海千山千の諸外国の間を縫って国の安全と繁栄をどうするかと言うことだ。

それは唯でくれるものなら1万円でもありがたいが、その先に増税があり国民負担があったら誰が嬉しいと思うだろう。
まず石油代替エネルギーの開発、それを国際社会へ売って貿易収支を上げ、食料自給政策を作り食糧の確保を行い、平和憲法をどう自国で保障するか考え、他国が核兵器を作るなら、日本はその核が爆発しない平和兵器を考えればいい。

もともと核は不安定な原子構造のウランなどに中性子を当てて核融合を起させる仕組みだから、この不安定な物質を安定させる方法や中性子の効力を無くする「場」の研究でもいい、こうした研究をしておけば、核拡散防止条約など関係なくいずれ世界から核兵器が必要とされない時がやってくるはずだ。

人間は現在を生きられない生き物で、必ず少し未来を見ながら今を生きている。
だから少し先の未来が暗ければ、今も悲観的な生き方しか出来ず、その結果今の段階で見ていた未来の暗さが現実のものになり、これを繰り返すと「希望」を失い、生きる気力を失ってしまう。

今は目の前のニンジンではない、その先の明るい草原を政府には見せてもらいたいものだ。
まっ、その上で1万円も頂ければもっと嬉しいが・・・。

東京の雪

一度は故郷へ帰ったものの、すぐまた田舎暮らしが嫌になり、家出同然で知人を頼って上野に着いた私は、取りあえず仕事を探そうと歩いていた。

どこへ行けば良いのか分からず、多分浅草寺裏側の付近だったと思うが、ぶらぶらしていてふと電柱の張り紙に目が止まった。

『時給1000円、随時面接可』のその張り紙に引かれ、何人もの人に道を尋ねながらその会社と言うか事務所までたどり着いた私は、一瞬で「しまった」と思い帰ろうとしているところへ、幸か不幸か中から人が出てきてしまった。

「何だおまえは」その50代後半の目つきの悪い男は上から下まで確かめるように私を見て胡散臭そうに尋ねた。

「はい、張り紙を見てきたんですけども」とっさにそう答えるしかなかった。

すると男の態度は急に穏やかになり、「そうかおまえ働きたいのか」と言うと「まっ、中へ入れ」と私を事務所に招き入れた。



社長との出会いはこうして始まったが、彼がその筋の人であることに気付くのにそう時間はかからなかった。

だが社長は良い人だった。

田舎から出てきたと聞いただけで目をうるませ、「俺が必ず一旗上げさせてやる」と言って、その晩は鮨屋に連れて行ってくれた。

またアパートも共同トイレ、風呂なしだったが敷金、礼金無し、家賃1万5000円のところを紹介してくれた。

仕事は「女の時間割と金貸し」だった。

クラブの経営と、デートクラブにはなっていたが、どう考えてもいかがわしい感じにしか思えないもの、ホステス専用の金融業を経営していたのだった。



しかし、この社長きわどいことをしていながら従業員のホステスはじめ、やたら女に人気があり、一緒に歩いていると声をかける女は一人や二人ではなかった。

この社長が紹介してくれたアパートは木造二階建て、築年数は数十年というものだったが、四畳半2間にキッチンが付いた部屋が6つあり、4部屋は先に住人がいた。

私は1階の左端から2番目の部屋だったが、隣はバーの経営をしていると言う男性で、40代後半にはなっていたように思えた。

また、一番右端には会社員と言うことにはなっていたが、30代半ばの女性、2階には芸能関係の仕事をしていると言う50代の男性、その一間隣には特殊な女優業、若作りはしていたが30代後半だろうなと言う女性が住んでいた。

つまりこのアパートには私を始め、まともな人間が住んでいなかったのである。



だがこうした環境でもみんな私には優しかったし、バーの経営者の男性や特殊な女優業の女性はしょっちゅうみんなを招いて焼肉や、すき焼きパーティーを開き、酒を飲んだ。

東京へ出てきて3ヶ月目くらいのことだったろうか、二十代で一番年が若かった私は男性二人からは「○○ちゃん」と呼ばれ、女性二人からは「○○」と呼び捨てになっていて、この晩もバーの経営者の部屋でみんなして酒を飲んでいたが、以前から金を貯めこんでいると評判になっていた30代半ばの女性に私は「どうしたら○○さんのような一流の営業になれるんですか」と尋ねた。



すると彼女はおもむろに私の右手をつかんでその上に新聞チラシを一枚乗せると、彼女の左手が下に添えられ、チラシの上からは右手が乗せられた。

「あったかいだろう。こうして100グラムのものなら100グラム、200グラムのものなら200グラムの力でそっと上から押すんだよ」

「もっと重いものならもう少し力を入れて押してやるんだ。そうすれば客はパンフレット1枚でも買ったような気になる」

彼女は少し苦笑いして私の手からチラシをとって下に置き、ヤキソバを箸ですくった。

これには一同「おー」と言う歓声があがったものだった。



だが、彼女はこの8日後自殺する。

東京に雪が降るのは2月が多い、これは春へと気候が変わるしるしで、太平洋側を低気圧が通りやすくなるからだ。

その日も晴れていながら東京には小雪が舞っていた。

朝7時ごろだっただろうか、「あぁー」と言う深い叫び声に私やアパートの住人は思わず飛び起きた。

見つけたのは彼女の母親と家主だった。



前日娘からかかって来た電話に異変を察知し駆けつけた彼女の母親は、荷造りロープを首に巻いてぶら下がっている娘の足を抱え、首に負担がかからぬよう持ち上げようとしていたが、その行為が既に意味を為さないことは誰の目にも明らかだった。

芸能関係の仕事をしている男性が近くの公衆電話まで警察に電話しに走り、部屋には私とバーの経営者、そして彼女の母親が残されたが、人間の足が地面から離れている光景と言うのは耐えがたく冒涜的なもので、彼女の母親は私たちに「頼む、降ろして欲しい」と何度も何度も懇願した。



バーの経営者はテレビの台からテレビを降ろして上に乗り、「○○ちゃん、下支えてて」と言うとロープをほどきはじめた。

このアパートの畳間には小さいけど床の間がついていて、その部分は他のかも居より高さがあり、上は簡単な欄間がはめ込まれていて、そこにロープが巻かれていたが、簡単にはほどけなかった。

台所から包丁を持ち出したバーの経営者は私に「しっかり支えて」と言うと一挙にロープを切ったが、彼女の腰から腹へ手を回し支えていた私は、ロープが切れた瞬間はずみで彼女を後ろから抱きかかえたまま一緒に倒れ込んでしまった。

顔に彼女の長い髪がサラサラとかかり、一瞬彼女が「○○が私に手を出すのは10年早いわよ」と少し笑って振り向くのではないか、いやそうあってくれと思った途端私の目から涙がこぼれた。



彼女の体はまだ弾力があったが、腰から足まで排泄物が流れ、冷たくなっていた。

すかさずバーの経営者は押入れから布団を取り出すとそれを敷き、私と二人で彼女を寝かして上から毛布をかけた。

彼女の目は堅く閉じられ、口は半分開いたまま、鼻からも汚物が出ていたが、彼女の母親はその顔を拭き、奥にかかかっていたタオルをかけた。

暫くして警察官が二人やってきて「何で死体を降ろしたのか聞かれたが、母親が「どうしても見ていられなかった」と言うとそれ以上何も言わなかった。



私は7歳年上の彼女が好きだった、姉のように慕っていた。

ネクタイの締め方がゆるいと、すぐ「それじゃ一流の人に会ったときバカにされる」と直してくれたのも彼女だったし、彼女のシャツはいつもピシッとノリが効いていて、スーツはダークグレーか深い紺色、余り高くないヒールの黒い靴は埃一つ付いていないほどに磨かれていた。

時計も茶色のベルトのシンプルなものだったし、ネックレスや指輪も一切付けていなかった。

姿勢が良くて同じ歩くのでも私とは違って颯爽としていたものだった。

いつも憧れていたし、彼女のようになりたかった。

彼女は時々私に「○○はいつかきっと大きな商いをするような男になる。その才能がある」と言って励ましてくれた。



以後今日までスーツを買えばダークグレーか深い紺色、シャツは白、靴下と靴は黒、時計は革のベルトでシンプルなものと言う私の美意識は彼女のものだ。



自殺の原因についてはあくまでも噂話でしかないが、マルチ商法に手を出していたのではないか、また先物取引をやっていたなどの話が出ていたが、明確な原因は分からないままだった。

このことがあって数日後、さすがに連絡先ぐらいは教えて置こうと思った私は、母親に社長の事務所の電話番号を連絡先として教えた。

程なく母親から社長にことの次第が伝わり、私は社長から殴られる、「てめーだけ面白おかしく暮らせればそれでいいってか、俺はそんな奴が一番嫌いなんだ」社長は本当に怒っていた。

これ以降私は都会へ逃げることをやめた。



でも、今も晴れていながら小雪がちらつく天気には東京を、上野を思い出す。

右手を出して目を閉じると、彼女の手の重さを思い出す。

あれから20年以上の歳月が流れた。

もし今彼女が私を見たら何と言うだろうか、「手を出すのは10年どころか100年早い」と言われそうで、せつない。





 

蜘蛛になりたい。

そう冬が始まるこの季節、毎年大きな雷と共にヒョウが降り始め、大嵐になるが、それが終わると1,2日はいい天気になる。

気象用語で言う3寒4温の裏返しみたいな天気だが、こうした嵐の後のいい天気にはよく見ると空中を細い蜘蛛の糸が何本も漂っている。
それが太陽の光でキラキラ光っていて、しかもあちこちで沢山漂っているのである。
昔からこれは多分、嵐で蜘蛛の糸がちぎれて飛ぶんだろうと思っていたが、つい最近これをカメラで撮ろうと思い、望遠レンズで追いかけたら以外なことが分かってきた。

何と細い蜘蛛の糸の先や真ん中に小さな子どもの蜘蛛が乗っているのである。
そうだ、地を這っている蜘蛛が空を旅していたのだった。
「ああ、凄いな・・・こんな小さな生き物、しかも通常なら空を飛ぶなんて考えもしない生き物が、こうして自由に空を飛んでいるんだな」と思うと、胸が熱くなってしまう。

昨夜、少し離れた所に住んでいる友人から電話があって、ゴボウのケーキがとてもまずくて食べられなかったとしきりにぼやくので、よく話しを聞いて見ると、何でも地域興しで、大学生と地域住民が連携してゴボウをその地域の特産品にすることで行政から補助金を貰って、新商品を開発してたらしいが、その試作品はゴボウのケーキだったらしく、その試食会に招かれて参加していたら、隣に座った人が「あなたに半分あげます」と言って自分にそのケーキをくれた。
しかしそのケーキはとても食べられた物ではなく、友人は自分のケーキを半分またその人にお返ししたと言うものだ。

田舎ではありがちな話ではあるが、他にもいろいろある。
蜂蜜入りの醤油は刺身には使えないし、ニョクマムに似た魚醤(魚を発酵させて作った醤油)のクッキー、地元の人が絶対飲まないほどまずい地元産ワイン(新聞・テレビでは首都圏で好評と言うことだが・・)
いつも誰もいない交流センター、記念館、数え上げたら切りが無い。

でもどうしてこんなことが分からないのだろうか、野菜は野菜で食べた方が美味しいし、クッキーはやはり卵と小麦粉の方が美味しいに決まっている。
それに高齢化が進んで、年間1000人近く人口が減っている地域で、コミニュティーセンターと言っても誰が使うのかと言う感じだ。

これには何か大学に対する政府の助成制度に問題があるように思えてならない。
経営的に厳しい今の大学に対して産業界や地域と連携して事業を起した場合、政府が補助金を出して支援するため、各大学が無理やり田舎に入り込んで地域再開発を煽っているように思う。
そして基本的に田舎でこうした学生や先生の相手が出来るほど時間の余裕があるのは高齢者しかいない。

高齢者は若い人が来て話しを聞いてくれるのが嬉しくて全面的に賛成し、それで現実性の無いはかない夢と、親から学費を出してもらっている経済的責任のない学生の夢が一致、それで地域はイベントをしなければならなくなり、働いて税金を納めて、子どもを養っている一番忙しい時期の人達に地域興しと言う実際の負担が押し寄せてくるわけで、こうした回転が地域をさらに疲弊させていることを皆理解していない。

また、都会からこうした田舎へ移り住んでくる人と言うのは、取り合えず現役を引退した人か、若ければ都会生活に適合できなかった人が多く、それでも田舎では進んだ人と思われ地域興しのリーダー的存在に祀り上げられてしまうが、都会でしっかりビジネスとして、日々を戦っている人にかかれば到底勝ち目が無いことも理解しておくべきだと思う。

どこかで見たような映画のセットのような町並みに人通りは無く、ひどく場違いなカラー舗装、必死に都会への発信を唱える地域コンサルタントと言う何が仕事の人か分からない人の話は「・・・が重要な問題である」で終わり、長い時間公演を聞きながら最後はただの問題提起なのである。

人はなぜ滅ぶことを恐れるのだろう。
滅んでしまう、なくなってしまうと言うことがそんなに悲しいことだろうか。
田舎に人が住めなくなって滅んでいくことは私にはとても自然に思える。
だから無理して活性化してくれなくても何も影響はないし、いらなくなった物が棄てられていくのは森羅万象の理だと思う。

雨の日、腰をかがめて歩いているお年よりの脇を高級車で水を跳ねて走っていて、地域興しを語られても私の耳には届かない。
私は自分が住んでいるこの町が嫌いだ。でも近所のお婆ちゃんや、爺ちゃん、これらの人達によって曲がりなりにも何とか人にして貰ったから、また都会で何か大変なことが起こった時自分の親族が帰ってこれるための保険と思ってここで暮らしている。

かなり前になるがフランス人の自称数学者の友人が私にこんな話をしてくれた事があった。
それは恐竜の滅亡の話だったが、恐竜の滅亡によって哺乳類や他の生物の進化があった、確かに滅んでしまうと言うことは悲しいことだけども、それがその生物の究極の形でもある。

そしてそこからまた新しい生物が生まれ、生物はこれを繰り返し、一つの大きな流れになっている。
だから滅ぶことを恐れてはいけない、もし自身がその滅亡の瞬間に立ち会ったなら、それこそ、そんな瞬間など滅多に見られないことだから喜べ・・・だ。

この言葉は私にとって嬉しい言葉だった。
私もそう思っていた。
地上を謳歌している人間は滅ぶことを恐れてゴボウでケーキを作り、蜘蛛は晴れた日に青い空を旅している。 

私は蜘蛛になりたい。






アザゼル・・・。

もし世の中に正しいものとそうでないもの、光があって闇があるなら、今日は少し、正しくないもの、闇に付いて語ってみよう。

聖書レビ記16章弟8節から10節にかけて「アザゼル」と言う言葉が出てくる。
この中で、司祭は2頭の山羊(やぎ)についてくじを引いて、1頭はヤハウェ(神)に、そしてもう1頭はアザゼルの為にとあり、神のために選ばれた山羊は生贄として奉げられるが、アザゼルの為に選ばれた山羊は司祭がその頭に手を置いて民の罪を告白し、その後人のいない荒野へ放たれるのである。

では2頭の山羊を神と分けた形になるアザゼルとは何者だろうか。
これに付いて教会へ問い合わせると、ある神父は口を閉ざし、またある神父は「話したくない」と答えた。

またゼカリア5章弟6節から11節、ここに「エファ升の女」が出てくる。
エファ升とは円形の桶のことだが、この中に女が入っていて、「これは邪悪だ」と聖霊が言い、やがて別の2人の羽が生えた女が来てこの升を運んでいくのだが、邪悪だとしたこの女は、なぜかシナイの地で家を建てて貰いそこで置かれると言うのだ。

この女の正体は何で、彼女を運んだ別の羽の生えた2人の女は神の側か、邪悪の側なのか。

この2つ、アザゼルとエファ升の女を正確に答えてくれる教会は意外と少ないかもしれないが、2つとも正体は光に対する闇である。
アザゼルはサタンを指し、エファ升の女は恐らくアシュタロテ、メソポタミアではイシスと呼ばれた豊穣の神だが、ユダヤ教では姦淫によりこの世に悪を振りまく存在とされている邪教神である。
だが、不思議なのはこうした邪悪なものをなぜ神は滅ぼしてしまわず、家を建ててやったり野に放ってしまうのだろうか。

まずアザゼルから見てみようか、サタンはもともとナイル川のワニの神だったものが、ユダヤ教では元聖霊のルシファと重ねられ、サタンはこうした経緯からワニの神としての性質を持っていて、アダムとイブが知恵の実を食べたのに対して、命の木の実を食べたのでは・・と言う研究者もいる。

また他の説では神が沢山の聖霊を創ったためその精霊達が地上の女と交わり、そこからよからぬものが多く生まれたとしているものもあるが、ヨブ記では神が多くの聖霊を招いたとき、そこにサタンも来ていて、神が「あなたは何者?」と問いかけ、サタンは「旅の者です」と答えているが、そもそも神にしてはサタンに何者か訪ねる必要など始めからないはずなのでは、と思ってしまう。

さらに、こうした邪悪な者に対していくらお祓いの儀式だとは言え、サタンの為に山羊を、サタンのためにである。
そしてエファ升の女、アシュタロテはもともとバビロンで豊穣の神として信仰を集めていた女神で、エジプトにその像が残っているが、数え切れないほどの乳房を持つ女神像だ。

豊穣の神とは穀物の豊作と、多く子どもが生まれることを祈願するためのものだが、ユダヤ教は結果として民族的に交わることをその教えの中で厳しく制限したのは、他の民族が民族同志で交わって行ったため、国とか民族が崩壊していったことを良く理解し、それを防ぐ手立てを取っていたのではないだろうか。

邪悪な者を滅ぼさなかったのは、実は滅ぼせなかったのではないだろうか。

どうもこうした記述からユダヤの神が後発の神だったからで、もともとあった近い宗教と区別をつけるため、古い宗教はそれが盛んな地域で押し固めて、自分達の宗教を守る形にしたということだったようでもある。
古代バビロニアの遺跡から出土した印章にはアダムとイブの物語に非常に近い物語がレリーフになったものや、命の木に関する記述が多く刻まれた粘土板が出土されている。

このため創世記でアダムとイブが食べた知恵の実の他に命の木があり、「この木をケルプ達と・・・に守らせた」(創世記3章24節)とする記述から、この2つの実を食べれば神になれるとした伝説がまことしやかに言い伝えられたのは、神はイブ達が知恵の実を食べた後、命の木に厳重な警護を付けたからであり、サタンはイブより先にその両方の実を食べたのではとする説がここから出てくるのである。

「サタンに何者?」と訪ねるのは神の方が新しかった可能性があるのではないか、そしてアザゼルにせよ、エファ升の女にせよ、何か人事のようなこの軽さは何だろう。
まるで昼間はサラリーマンやってますが、朝、新聞配達のアルバイトもしていますと言ったような、職務主義的邪悪さが感じられる。

神と善悪を巡って激しい攻防を繰り返しながら神の儀式ではのこのこ出向いてお祓いに参加しているアザゼル、まるでどちらでもどうでもいいような羽の生えた女、そしてなぜか邪悪なのに家を貰って住むエファ升の女、それによって実際血の償いをしなければならない民衆、なぜか現代の我々が住む社会と重なって見えないだろうか。

また黙示録20章弟7節から10節に出てくるゴクとマゴクは神の民に最終的に逆らう民の総称として用いられているが、これはエゼキエル書では北、つまりロシア、アルメニアなど北方民族や小アジア民族を指していることが明白であることから基本的に悪魔としての概念ではないが、女の偽預言者が未来を訪ね、それに答えるペルゼブブは固体悪魔になっている。

ペルゼブブはハエの王と呼ばれるが、実はバビロニア、メソポタミアでは情報を教えてくれる神、神託、予言の神としてあがめられていた。

だから聖書中個体名詞を持つ悪魔はサタン、アシュタロテ、ペルゼブブであるが、いずれもその地方の古代神でもある。

よくヨハネの黙示録がいろんな予言をしていると言うキリスト教関係者は多い。
だが、ヨハネの黙示録的話は旧約聖書を読めば何度もでてきていて、それを視覚的にダイナミックにしただけであることが理解できるはずである。
またこうした普遍性の高い内容は、孫子の兵法と同じで、殆どの事柄に当てはまるものなのである。

聖書のこの記述は当たっています、この記述もそうです・・・だから神を信じるべきなのですと言う勧誘、終末が来て審判の日が来る、その時救われたいとは思いませんかと言うキリスト教関係者はおおいが、これは最も神の教えに遠いものであると思う。

そもそも神を信じているなら聖書の記述など当たっていようが、いまいが関係ないことだし、予言があったとしても、それによって自分の何が変わると言うのか・・・。
どの道そうなることなら、例え明日世界が滅びようとも私達は何も変わらないのである。

ヨハネの黙示録には終末の時、偽りの救世主が現れ、世界を混乱の底まで導くとされているが、救世主を求めるから偽りが顕れるとも言えるのである。
神の袖に隠れ、自らの小さな概念で信じた聖剣を振り回す者は多くの人を傷つけるだろう。

そして本当に神を信じるならこの言葉が相応しいだろう。

「予言が私の未来を変える事は無い」



あの頃彼女は綺麗だった・・・そして今は美しい。

無謀が夢と言う言葉にすりかわり、金を稼げない奴は罪だと言われた時代、夜ごと繰り出す社長さんはスナックでバーでホステス達に1万円札をばら撒き、マハラジャでは黒服が押し寄せる客を断るのに必死だった1980年代後半、不景気など来るはずも無いバブルの真っ只中だった。

東京への逃亡癖もようやく落ち着いてきた私は、あるスパゲッティやカクテルを出してくれる店へ頻繁に出入りするようになり、店のオーナーとも親しくなった。
このオーナーも私と同じで、田舎の暗さや閉鎖的なところを嫌って暫く都会暮らしをしていた人だったが、妙に気が合って常連客達とも段々親しくなり、男女7,8人のグループが出来て行った。

そして毎週休みにはみんなとテニスに行ったり、京都までビリヤードに行ったりと毎日が夢のような生活が続いていたが、どちらかと言うと女の子の数が多かったこのグループの男性陣は、結果的には「足」代わりになっていたようでもあった。
みんな当時の流行を気取って、流行っていることは一通りやってみようと言う感じで、特に女の子はワンレン・ボディコン姿に男を見下したようなところがある子が多かった。

ある夜、この日は平日だったが、12時近くになったのでもう寝ようと思っていたところへ、このグループの女の子の1人が突然訪ねてきた。
勿論こうした事は始めてだったし、この女の子と特別親しい訳でもなかったが、帰す訳にも行かず、私は部屋へ入れた。

彼女は「何か暇でさ・・」といって一つしかないソファーに座ったが、私はコーヒーを出して、昼間親戚から貰ったカステラを運んで、自分のベッドに座った。

「何か、あったの」
「別に何も」
そんな気まずい会話が続いたので、私は新しく手に入れた「天空の城ラピュタ」でも見ようかと話を変えた。
彼女は途端に嬉しそうな顔をして「えっ、ラピュタあるの」と問い返し、私はそれに頷いてビデオのスイッチを押した。

それから私達は並んでラピュタをみた。
大きく開いた肩がすぐ近くに見え、どこか一部分でも触れてしまえばそれで終わりの世界だった。
だが遠く600キロも離れたところにいる女の子と付き合っていた私はどうしても裏切ることが出来ず、彼女の肩に手を触れことができなかった。

エンドロールがながれ、井上あずみの主題歌が流れ、それも終わって2人の間には沈黙の時間がながれた。
彼女はそれじゃ今日は帰ると言い、私は「ごめんな」と言った。
「いいよ、分ってる、ラピュタ楽しかった」彼女は少し笑って玄関を出て行った。

このグループはその後も続き、みんなで旅行したり夏は海に行ったりしていたが、やがて1人結婚し、2人結婚、そして私も結婚して子どもができ、家の農業を手伝わなくてはならなくなったりで、すっかりこのグループには顔を出せなくなっていた。

それから十数年後、妻の都合が悪くなり、下の女の子の運動会へ代わりに出なければならなくなった。
しぶしぶ弁当を持って中学校グランド脇の土手で、子どもの走り競争など観戦していたが、何か面白いわけでもなくボーっとしていたら、後ろからポンと誰かが肩を叩いた。

振り返った私の目に入ったのは髪はボサボサ、化粧もしていなくて、トレナー姿ではあったが、昔2人でラピュタを見たあの彼女だった。
こう言う狭い町だから、いつかはどこかで出会うと思っていたが、まさかこんなところで出会うとは思いもせず、言葉に詰まった私に「余り変わらなかったね」と彼女は声をかけた。

だが、激変したのは彼女の方だった。
昔は長い髪にしっかりメイクをし、ぴちっとしたミニスカートが定番だった彼女の髪には白いものが混じっていて、化粧もしていない、よれよれのトレーナー姿だったのだ。

私達は少し距離を置いて土手に腰掛けた。
「どうした、何か大変なのか」と訪ねた私に彼女は昔のように少しだけ笑って「ううん、何でもないんだよ」と答えた。
また昔のように沈黙が続いた。
ただ、昔のように気まずい感じではなく、むしろ風に吹かれているような清清しさがあり、むしろこの場面では沈黙の方が嬉しかった。

「あんた、本当に何もかわらないね」
「そんな事はないさ、しっかりおっさんになってしまったからな」と言ってる途中だった。
彼女は突然立ち上がり、「ごめん、下の子に障害があって・・・また今度・・・」と言うと、走ってグラウンドの端を無茶苦茶に走っている幼稚園の女の子を追いかけていった。

やがて彼女は女の子をつかまえ、手をつないで、幼稚園の先生の所まで連れて行くのが見えた。
私はいつまでも、彼女に視線を向けていたが、何かとても良い物を見た気がした。
人間が困っている時というのは、本人は大変なのだが、その時自分が持つ全ての力を使って何とかしようとしているときでもある。
即ちその人に最も力がある瞬間でもあるのだ。

こうした田舎の運動会は幼稚園から中学校までが合同でおこなわれ、彼女は私と話ながらも沢山いる子ども達の中でしっかり自分の子どもを見ていて、発達障害のその子が突然前後構わず走り出してしまったのを見ていたのだった。

走る彼女の後ろ姿には今まさに水を打って天に昇ろうとする龍、キリストを抱いた聖母マリアが重なっていた。

あの頃の彼女は綺麗だった・・そして今の彼女は・・・美しいと思う。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ