個人情報保護法

私の友人と言うのは地元の人が少なく、他府県ばかりで、そのためみんなが集まって一杯やろうと言うことになると、年に1度、持ち回りで季節は交通事情の良い夏が多くなっている。

2年前のことだが、こうした集まりをやろうと言う話が出てきて、順番から滋賀県の友人の家でと言うことになった。
この友人はとてもいい奴なのだが40過ぎで独身、ただいま花嫁募集中だったが、このグループではもう1人独身がいて、そいつはバツ1での独身だった。

滋賀県の友人はさすが独身貴族で、マンションの1人暮らし、大型テレビがドーンと置かれ、部屋の家具も高級なもので揃えてあった。
集まったのは6人だったが、食材は皆それぞれ地元特産の物で、料理も男だけしてみんなでやるのだが、これがそれぞれにこだわりがあって、「いや、そうじゃない」「これはこうだ」と喧しく、普段妻に「お前は喋り過ぎだ」と言っている者達としては、とても妻達には見せられない光景だった。

と、その時だった、突然電話が鳴った。
ちょうど漬物を切っていた滋賀県の友人は、隣で包丁が空くのを待っていた別の友人に「済まんけど、出てくれ」と電話を取るよう頼んだ。

「オーケー」頼まれた友人はそそくさとリビングの電話を取りに行ったが、この時リビングには誰もいなくて、みんなダイニングにいたので、暫くして「お前だ、早やく出た方がいいぞ」と言って帰ってきた友人の焦り具合が、いかにも妙な感じになっていた。

滋賀県の友人が「分かった」と言ってリビングに行ったが、電話に出た友人がひそひそとこんなことを言った。
「女だった・・・、しかも若い・・・」
これには他の一同「えー」となったが、「それでどんな感じなんだ」と言う話になり、「声からしても20代前半かも知れんぞ、それにいい声なんだこれが・・・」
「20近くも年が違うなんて犯罪だぞ」
「あいつも隅には置けんな・・・」
みんななぜかヒソヒソ話になっていたが、もともと人のプライベートを立ち聞きするような、姑息な精神には抵抗がある男ばっかり揃っているので、リビングに近づいて立ち聞きすることもできず、5人が息を呑むように黙って突っ立っていた。

確かにこの滋賀県の友人はこれまで浮いた話1つなく、誠実で几帳面、しかも割りと社交的なのだが、それは男に限られると言った感じだったので、バツ1の友人なんかにしてみれば、40過ぎで20代前半の女など、とても許しようの無い話でもあった。

やがてリビングの戸が空いて本人が戻ってきたが、その表情は出て行ったときと何も変わらぬ様子で、漬物を切り始めていて、これには周囲がどう反応して良いものか・・・となった。
「大事な電話だったんじゃないか、漬物は俺が切ろうか」
電話を取った友人がおそるおそる訪ねたが、「まあー、大事って言えば大事だが、それほどのことではないから」と言う返事が返ってきた。

私もさすがにこの一言は「余裕ジャン・・」って思ったし、カッコいいかもとも思ったが、それにごうを煮やしたバツ1の友人が、「おい、今誰か付き合ってる彼女なんかいるのか」とずけずけ聞くに至って、滋賀県の友人もようやく皆が何を思っているのか気づいたようだった。

「お前ら、何か勘違いしてないか」
「いや彼女からの電話かと思って・・・」電話に出た友人が小さな声でそう言うと、滋賀県の友人から「ばかだな、クレジット会社が、銀行口座から残高不足で引き落とせないって言う電話だよ」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
バツ1友人が思わず電話に出た友人の背中を肘でこずいていた。

「このバカが・・・、何でそんなことが分からないんだよ」
電話に出た友人はみんなから責められたが、無理も無い、近頃個人情報保護法のおかげで、銀行なんかは「○○銀行です」と言うが、クレジット会社だとたまに会社名ではなく、個人名で始まって本人が確認されると、会社名を告げるケースもあるようなのだ。

そう言えばこのごろ家にかかってくる電話でも、女で個人名、よく聞いて見ると健康食品、教材、怪しげな金融機関って言うのが多くなっているが、こちらは先に会社名を言えば切られてしまうからか・・・。
いずれにせよ、とんだバカ者の早とちりで暫く気まずい雰囲気になったこの日の宴会は、この友人を徹底的にバカ者にすることで少しだけ盛り上がり、みんな酒も飲んでいたし、その日はこの友人のマンションで全員泊まって、次の日それぞれが家へ帰って行った。

レジェンド・オブ・たわけ・・・私のブルーのシャツ事件に次いで、この事件も集まるとよく酒の肴になる話なのである。
ちなみに滋賀県の友人は今も独身だが、多分金は持ってると思う。

最後に、私がこのブログを始めて3ヶ月、最初自分が書くものを読んでもらえるのかとても不安でした。
でもこうしてブログを始めて良かったと思っています。
皆さんとこうして知り合えた事は幸せでしたし、コメントを頂ける事はこんなに嬉しいことは有りません。 ありがとうございました。

では1年の最後に付き、皆さんのこの1年の労苦をねぎらい、新しい年をお祝いして、・・・
はなはだ僭越ではございますが・・・・乾杯!

健康で良いお年を・・・。
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その時は必ずやってきて・・・。

今日はいい天気・・・・。

風も無く穏やかで、この季節にしては暖かく、外へ出るのも楽しくなるが、今から10年ほど前の一時期、私は晴れた日が悲しく、毎日朝が来ないことを祈った時期がある。

当時仕事で独立して10数年、次第にいろんなところから認められて、新聞取材やテレビ取材もぼつぼつ出始めていた頃、「いつかは世界を土俵に」と思っていた私は出会うべくして二人の男に出会う。
一人は最先端の技術者、そしてもう一人は営業のスペシャリストだった。

年齢は私よりもはるかに上だったが、この二人と出会ったその日から意気投合、伝統技術は私が、最先端は○○が、営業は○○と言う具合で、特に凄かったのはこの営業だった。
日本全国を走り回ってクライアントを見つけてきたのだった。
このままだと3人で全国シェアの80%を押さえることになるんじゃないか・・・などと話していた。

そしたらやっと世界に出て行ける、自分の敵はソニーだ松下だ、ディオール、シャネルだと思っていた私は胸が躍ったし、もしかしたらそれが夢ではないかも知れないと思っていた。
だが不幸はある日突然訪れる。
最先端部門の技術者から、営業の男の様子がおかしいと言う電話が入った。

3人とも住んでいる場所は同じ県ではなかったし、それを繋いでいたのが営業の役目だったことから、私は急いでもう一人のところへ車を飛ばし、二人で営業の男の家へ向った。
高速を走っても4時間近くはかかるのだが、営業の男は昼間から家のカーテンを引いて酒を飲んでいた。
「何をやってるんだ・・・」開口一番の言葉がこれだったが、男の目は死んだ魚のように生気がなく、反応も鈍かった。

彼は確かに営業のセンスは抜群で、どんなに取引を組むのが難しいクライアント企業でも必ず落としていたし、彼等からの信用も得ていた。
だが、問題は「女」だった。
遅く結婚した彼は妻を愛し過ぎていた。

自分が気に入った服を着せて、自分が望むような女であることを妻に求めたこの男は、次第に妻が浮気をしているのでは・・・と疑い始め、ついに軟禁状態にしてしまう。
これに耐えられなくなった妻は実家へ逃げて帰らなくなってしまった。

やがて言うこと聞かなければカッターを突きつけ、脅して夫婦生活を維持しようとしていた男は離婚訴訟でも当然だが、一方的に敗訴、妻の付近50メートル以内に近づけないことになってしまった。
それから男は何度も自殺未遂を繰り返すことになり、その度私ともう一人は駆けつけ、豪胆なもう一人の技術者は「女ぐらいなんだ、欲しければどれだけでも連れてきてやる」とまで言うのだが、男の耳には届かなかった。

雪の中で酒を飲んで寝る、睡眠薬を大量に飲む、交通事故に遭うなど男は何度も自殺しようとして、その度に私ともう一人の技術者に阻止されていた。
だが、ほんの僅かな隙だった、前日少し落ち着いているのかなと思った私達は仕事のこともあり、1度それぞれの家へ帰ったのだが、その明け方だった、路上で寝ていた男は車に轢かれ即死した。

葬儀で私ともう一人の技術者は、お香を投げつけようかと思うほど悔しかったが、その後男には保険金が出ることになり、今度はそれを巡って元妻と男の両親が裁判を始め泥沼になり、私達はため息しか出てこなくなった。
だが本当の問題はそれからあとに起こってきた。

男はクライアントの受注を管理していたのだが、300件以上の受注が放置され、そのすべてが他では調達不可能、つまり私ともう1人の技術者で製作しなければならなくなっていた。
年間50くらいの受注をこなすのが精一杯の私は完全にコントロールを失い、営業まで兼務しながら事に当たっていたが、未回収の代金を抱え、オープンが迫っている店舗などでは損害賠償の訴訟を起こされる寸前だった。

多分もう1人も同じだったと思うが、毎日朝から晩まで電話が鳴り、その全部が「まだ仕上がらないのかー、一体いつまでまたされるんだ」になっていた。
そんなある日、長い取引がある企業の重役が家へ訪れ、この人も仕事の催促だったのだが状況から私の事情を察し、帰り際にこんなことを言った。

「どんなに悩んでも苦しんでも、その日は必ずやってきて、必ず何とかしていくものだ、それができていようがそうでなかろうが同じだ、必ずやって来て何とかはなる」
「なんともならなかったら死んでる事になるぞ」
この言葉は私にとても大きく響いた。

それまで朝がくる度、何で太陽が昇るんだ、しかも何でこうも天気が良いんだ、と朝がくることを恨み、青空を見ていると知らない間に目に涙がたまっていた。
それから私は、一つずつ整理をし、謝らなければならないところには土下座して謝っていった。

だがこの整理が終わるまでには4年の月日を要し、その最後が一番大変だったのだが、母親が直腸癌で入院、妻が心臓病で手術、共に田舎では治療できなかったため100キロも離れた大学病院での治療になり、おまけに地元マスコミ関係者と共同で、コミニュティー紙を創設するため編集委員もやっていて、子どもは小さく食事を作りながら、仕事もして農業も、いうことになっていた。

そのためせっかくこの仕事が好きで、遠く関東からわざわざ家へスタッフとしてきていた女の子にはろくな給料も払えず、その上にストーカーにまで遭っていたことを知らなかった。
既に生活に疲れたスタッフの女の子は実家の関東に帰ることになり、確か12月22日だったと思うが、彼女をバス停まで送った私はバスが発車しても、いつまでも冷たい雨に打たれていた。

そして家へ帰って仕事場へ上がると、そこには彼女がバスの時間ギリギリまで何かしようとしていたのだろう、油を拭いたりするときに使うウェス(布切れ)がたたんで綺麗に積まれていた。
私はそのウェスに顔をつけて大泣きした。
こんな辛い思いをしてまで、この仕事を続けなければならないのか・・・と思った。



今でも時々、この事を思い出す・・・。
でも、もうあんなドジは踏まない。
今はこの天気を素直に喜べるし、青い空も美しいと思える。

もう1つ、昨日から正月休みで実家に帰ったが、あの頃は女の子だった彼女も30を過ぎてしまったが、今私の後継者としてスタッフに復帰していて、私は手厳しく管理されながら仕事をしている。










風よ止まれと思うな!

大変な1年だったが、今日でどうにか私の所も仕事納めになった。
厳密にはまだ2,3送付しなければならないものもあるが、スタッフが午後3時で帰って、これから1月4日までお正月休みになる。<

本当あっと言う間だったが、景気の悪い中、何とかなったのは奇跡だったと思わざるを得ない。
年齢は少し上だが、日頃仲良くしている社長のところでは、12月25日で2名の女性従業員を解雇することになり、社長はひどく落ち込んでいた。

「企業の社会的責任は従業員を解雇しないことだ」いつもそう言っていただけに、2年間も銀行融資で繋いで頑張ってきたが、もう限度を超えてしまったと話す社長は、これから自身がどうやって生活していくのかを考えなければならない。

また解雇された女性達も、そうした社長の苦しい事情を知って、必死に頑張ってきたことも私は見ているだけに、何もしてやれないことが本当に辛かった。
だが私の所だって来年はどうかと言うと、それは不透明だと思う。
少なくとも借金をしていないこと、米や野菜は自分で作っていることが、他よりましだろうか、そんなところに過ぎない。

私はローンが嫌いで、それには理由がある。
昔、若い時知人に勧められた店で車を買うことになり、そこでセールスマンに言われるままにしていたら、結局70万円ほど資金が足りなくなり、ローンを組むことになった。
契約用紙を持ち帰り、自宅で書き込んでいて、何気なく裏面の細かい契約内容が目に入った私は、そのあまりに無礼な文面に腹が立って、次の日あらゆるオプションを外し、貯金で払える金額にして車を買った。

以後何を買うにしてもお金を貯めてから買うか、現金で買える範囲でしか物を買わなくなった。
だからたまにどこかの店で買い物をして、カード決済が現金より安いと言われると、
必ず言うのは、どうして現金よりカードが安くなるのか、カードよりもっと基本的で直接的なのだから、少なくともカード決済より安くして欲しい、と言うのだが、それでもカードの方が安いと言われた場合は、その商品を買わないし、その店から物は買わない。

だが帰りに、もし現金の方を安くすると言うのだったら「こちらへ電話して」って言うことで名刺を置いていくと、そうした店の中で何軒かは、後日品物を届けてくれた上に、カード決済より割引な値段にしてくれることがある。
そう言う店はそれから後も大切にする。

日中友好条約が結ばれた時、毛沢東(もう・たくとう)中国国家主席は田中角栄首相にこう言った「1度喧嘩をしなければ、本当に相手の事は分からないものですよ」
そして友好条約に調印したが、これほどでは無いにしても、前払い、現金決済、後日決済の順で有利なのは国際ルールであり、これが分からない者とは一時的に喧嘩してでも私はこれを押し通すが、分かって貰えれば以後は仲良くするし、まず最初に声をかけることにしている。

カード社会の中で、こうした方式がいつまで続けられるか、と言う問題もあるが、リーマンブラザースの件を見ていると、以外にも私よりカード社会の方が、先にその仕組みの変更を余儀なくされるかも知れない。

私はどうも、このブログへコメントを寄せてくれている方も自身のブログで書いていたが、「ひとやま当てて・・・」と言う思考的流れが好きで、荒れた海に荷物を満載して、生きて帰ってこれたら億万長者、死んだらそれまで・・・と言う感じにとても憧れている。

また怪しげな国、怪しげな商人を相手に現金をだけを信じて乗り切っていく様な、ストイックで冷たい「男」と言うものも憧れるが、これは無い物ねだりか・・・。

とにかく、もう少しで今年も終わる。
そして来年はどうなるか分からないが、いつでも嵐を行く船、その舳先に立つ大商人のつもりでいたいものだ。(現状は小規模零細職人だが・・・)
穏やかな海であれば、誰でも船は出せる、しかし本当に儲けたいのであれば、誰も船を出せない大嵐に船を出して高い金を取る。
光は闇で、闇はまた光だ。

若い頃、映画「空海」のコマーシャルで、調度こうした大荒れの海で船が波を被り、船員達が「もうだめだ」と騒いでいる場面、空海が数珠を握り締めて「風よ止まれと思うな、おのれが風になれ」と喝を入れる。
いい場面だった・・・このコマーシャルに引かれて私は「空海」を見に映画館へ走った。

ちなみに、この「風よ止まれと思うな、おのれが風になれ」の次に間髪を入れず「クシャミ3回、ルル3錠」と風邪薬のコマーシャルが入るのだが、何か1粒で3回美味しい感じがしていた・・・。

ええじゃないか、ええじゃないか・・・。

1866年(慶応2年)この年、坂本竜馬の仲介で成立した薩長同盟は、一挙に討幕運動を加速させたが、この年の12月、討幕には反対だった孝明天皇が崩御、一部では討幕派の毒殺説も流れる中、翌年1867(慶応3年)には明治天皇が即位し、時代の流れは一挙に大政奉還、王政復古へと傾いていった。

慶応2年は余り伝えられていないが、江戸時代全般で最も百姓一揆や打ちこわしが多かった年であり、特に大阪で起こった打ちこわしは、将軍が大阪にいる時に起こっていて、このことは幕府の第2次長州征伐に大きな影響を与えた。

そして翌年慶応3年、秋から冬にかけて畿内を中心に起こった「ええじゃないか」は全国的な運動となって倒壊寸前の幕府支配機構を麻痺させてしまったが、その背後には討幕派の影がちらつき、討幕派はこうした民衆の動きを助長していた形跡がある。

「ええじゃないか」とは有名社寺の札が天から降ってきたと言う噂が広まり、群集が「ええじゃないか、ええじゃないか」とはやし立てながら狂乱する一種の社会現象で、みな仕事も生活も放り出して踊り続け、そのために治安は完全に崩壊した。

慶応3年の「ええじゃないか」はこの内最も規模が大きいが、その背景には混乱の極みにある国情と、それに引きずられる庶民生活の大きな不安、不満がやけっぱちと言う形を取って爆発したとも言える性格のものだった。

しかしこの「ええじゃないか」実は似たような現象が慶応3年のこの時期だけでなく、江戸時代全般を通して数回起こっている。

この基本形態は「お蔭参り」と言うもので、やはり天からお札が降ってきたと言う噂をきっかけに、群集が仕事も生活も放り投げて踊りながら伊勢参りに行くというもので、その道中には宿泊や食物の供与があったりして、それを支援する者も多かったことが知られている。

こうした「ええじゃないか」や「お蔭参り」は飢饉や政治的混乱期に、群集の打ちこわしが起こるのと前後して発生している。

元禄から享保年間への移行期、幕府や武家財政の困窮、農民社会への商業の進出などによって商人以外の武士や農民は多くの窮貧者を出した。
加えて幕府は財政再建策として天領などの年貢率を1割引き上げた結果、それまでは散発的だった百姓一揆も組織的になっていくのである。

名君として名高い徳川吉宗だが、農業政策では失敗し、各地で一揆や打ちこわしが横行するのだが、もともと百姓一揆に対する幕府の姿勢はとても厳しく、首謀者は死罪、家族血縁、そこを代表する名主までもが咎めを受けることから、民衆の一部は形式的には幕府に逆らわず、しかし仕事や生活を放棄して伊勢参りに行くと言う、間接一揆として「お蔭参り」の行動を取ったのではないだろうか。

それが証拠にこの享保年間から発生してくる飢饉、それに伴う打ちこわしに連動したように「お蔭参り」が突然発生してくる。

享保、天明、天保それぞれに飢饉が発生しているが、中でも天保のそれは想像を絶するものがあり、凶作による飢饉は半ば慢性化し、農村部では飢饉や疫病で人口を失うだけでなく、堕胎や殺児(間引き)などの産児制限、希望を失った村人の逐電や欠落(かけおち)などの流出、質奉公や身売りなどの人身売買などによっても人口を失い、その結果農村は荒廃し、更なる飢饉を誘発させていった。

(天保4年)1833年は奥州一体が飢饉になり、その3年後(天保7年)には全国的な飢饉が発生、特に関東、奥羽の惨状は目を覆うものがあり、米などの物価は激しく上昇、それに対して幕府、各藩は買占めの禁止や備蓄政策、穀物の移動制限などを行ったが、悪徳商人達は果物や穀物の買占め、売り惜しみをして物価はさらに上がり、飢饉被害を拡大させたのである。

この頃記録に残っているだけで、江戸では1日180人、上方(大阪)でも1日170人の餓死者がでていた。
民衆はこうした事態に完全に理性を失い、没落して農村から江戸に流入した無籍の貧民達が富裕な米屋、高利貸し、商家を襲い、米や借金の証文などを襲奪していった。

一揆は段々と組織力を増していったが、後世ナチスが用いた密告の奨励などによって、幕府は一揆が大規模化、政治運動化する事は抑止していったが、基本的にはこうした一揆、打ちこわしの流れの果て、1833年の天保の大飢饉から34年後に大政奉還が成立していった。

人間は極度の悲しみや絶望に出会うと笑うものだと言われている。
それはもはや感情が麻痺し、意識がどこかへ飛んでしまうからだが、先が全く見えない幕末、飢饉で絶望しかないところで狂ったように踊りだし、「ええじゃないか、ええじゃないか」とやったら、みんなもうどうでもいいと思ったに違いない。
民衆がこうした壊れ方をしたときは、その国も同じような壊れ方をしているのだ。

そして日本にはもう1つこの「ええじゃないか」や「お蔭参り」に似た風習がある。
神頼み、狂ったように踊る・・・、そうだ祭りだ。
「らっせらー、らっせらー」と踊るねぶた祭り、「踊るあほうに、見るあほう」の阿波踊り、みんな狂ったように踊る祭りで、たいがいの祭りはこうして我を忘れた部分、一種の狂気をはらんでいるものだ。
日本人の根底にはこうした祭りに対する独特の感情がある。

それは苦しい時も、楽しい時もどこかで何か自分ではどうしようも無いものの力を信じ、それにすがる思い、即ち日本独特の宗教観がそこに横たわっているように思う。

「ええじゃないか」はそうした日本人独特の宗教観がなせる、人々ができるたった一つの最後の行動だったのではないか、屍が路に転がり、乳飲み子が死んだ母親のそばで泣き叫び、荒れた形相の男達がたむろしている中、現実にあるのは絶望の中を「ええじゃないか、ええじゃないか」と老いも若きも男も女も踊り明かす。

案外地球最後の日が来ても、人々はもしかしたら気力を失ってがっくりしていないのかも知れない。
意外にも「今日が地球最後の日だ、こんなめでたい事は無い」などと言いながら飲んで踊っているのかも知れない。

もしそうだとしたら、人間は結構偉大だと思う・・・。



聖なる夜に・・・。

クリスマスツリーの頂点に大きな星が飾られるが、この星は名前がある。

「ベツレヘムの星」といい、キリストが生まれることを知らされた学者達が集まった場所、キリストが生まれた場所である。

奇跡の星がキリストの生誕と共に現れ、ナザレから160キロもロバに揺られてベツレヘムに着いた聖母マリアは、たまたま泊まろうとした宿が満室、仕方なく馬小屋(正確には家畜小屋だったが)に泊まっていたが、この星の出現と共にメシア(キリスト)を産むのである。

ツリーの頂点に飾られる星はこのベツレヘムの奇跡の星を意味している。

クリスマスはキリストの生誕を祝う日だが、新旧どちらの聖書にも、その元になった死海写本にも、キリストの誕生日は具体的に記されていないが、4世紀に西方教会でキリストの誕生日は12月25日と初めて決められたようであり、東方では1月6日となっている。

さらに本来なら西暦はキリストの生まれた年を0年としていなければならないのだが、キリストは紀元前4年に生まれたことになっている。

これに付いてはそれまでローマ帝国の暦がローマ市創建を起算日としていたものを、キリスト教をローマ帝国の世界宗教としたとき、皇帝の命によってローマ暦からキリスト暦に置き換えたのだが、そもそもローマ市創建日が間違っていたことから、キリストの生誕年が紀元前になってしまったのである。

イエスは幼年期、大変貧しい暮らしにあり、7人兄弟の長男として家族の生活を支えていたようであり、1部外典の福音書ではイエス幼年期の奇跡談が載せられているものもあるが、これらの信憑性は極めて低い。

イエス幼年期の記述は聖書では少なく、特に12歳から30歳までは空白になっているが、マリアはイエスに彼の父がヨセフである事は告げていたが、神の子とは告げていなかった。
マリアは受胎告知を受けていたから、本来イエスにこのことを話すべきだったが、これを幼年期のイエスが逆にマリアに指摘する場面がある。

イエスは「自分の父の仕事に携わる」とマリアに告げ、マリアはこれに動揺するのだが、この記述ではイエスはヨセフの仕事を継ぐのか、神の仕事を継ぐのは分からないはずだが、これを記述したルカは後者であると判断して、マリアが動揺する場面を書いている。

しかし、本当はマリアはどちらか分からなかったのではないだろうか、ただ未だに告げていない真実の、その影に動揺したと言うのが正しいように思う。

またイエスは聖母マリアに対しては極めて醒めたもの言いをしている。
即ち、母を器に過ぎないと言うようなことまで言っているのだが、片方で罪深い女、後にカタリ派がキリストとこの女の子どもがいるとした、マグダラのマリアには極めて寛容かつ、大きな役割を与える。

そして、ああそうだった。
明後日はクリスマスイブだった。
枝葉な話は止めてやめておこう、皆でクリスマスを楽しもう。

この日ばかりは地上に争いがありませんように・・・皆が幸せでありますように、そしてこの世が優しさで満ち溢れますように・・・。





本当に戦争が終わるのは・・・・。

1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し降伏した際、朝鮮に展開していた日本軍の降伏受理と武装解除に当たっていたアメリカ軍とソビエト連邦軍は、互いの国家イデオロギーの相違と対立、相互不信から、連合してこの処理に当たることができず、アメリカの提案により両軍活動境界線を設定し、ソビエト軍もこれに同意、ここに38度線なる朝鮮半島分断の歴史が始まっていった。

この経緯を巡っては戦後一時期、1945年2月に開かれた、第2次世界大戦の終戦処理をめぐる各国協議、アメリカ、イギリス、ソビエト首脳が会談した「ヤルタ会談」での秘密協議によるものだとした説もながれたが、もしそうだとしたら、日本がまだ降伏していない時期に、朝鮮半島はソビエトとアメリカによって、戦利地分割に近い交渉が行われていたことになるが、現代史はこれを否定している。

その後アメリカとソビエトは国家政策をめぐって激しく対立、世界は東西冷戦時代に入っていくのだが、こうした欧米の共産主義に対するアレルギーはもともと第2次世界大戦以前から存在していて、大戦初期、日本軍が満州に軍を展開し始めていた頃、イギリスはまだ「日本はいい所に防御線(ソビエトに対して)を張った」と言っていたのである。

また、ソビエトと中国の共産主義に関しては、その経緯に日本が少なからず関与していて、日露戦争当時ニコライ帝政を打倒するため、影で日本政府がロシアに発生し始めていた共産主義活動に、資金援助をしていた事は明白な事実であり、中国共産党の創設者「毛沢東」(もう・たくとう)もまた日本で武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)が開いていた一種の理想郷、これは原始共産主義と言う本当に理想でしか存在し得ないものだが、こうした世界を見て中国で共産主義国家を打ち立てるのである。

方や欧米ではこうした一党独裁政権はナチス・ヒトラーの独裁政権と同じに見えていて、統制経済もまた資本主義、自由経済の社会からしてみると、耐えられないものだったのである。
その対立の最前線は西ではドイツ、極東では朝鮮半島に集約され、1950年6月25日、北朝鮮人民軍が突如この38度境界線を越えて韓国に侵攻、ここに朝鮮戦争が勃発、同年10月には中国人民志願軍(中国軍)が介入、アメリカを中心とする国連軍との間に激しい戦闘が展開されていった。

1950年6月27日、国連安全保障理事会は加盟国に対して韓国への援助を要請し、同年7月7日、アメリカ軍指揮官マッカーサーに国連旗の使用を許可、加盟15ヶ国の軍隊はすべてこのマッカーサーの指揮下に入るのである。

戦闘は3年続いた。
そして1953年7月27日、停戦協定が成立、休戦の状況を監視するため国連軍5名、北朝鮮、中国軍側から5名で構成される「軍事停戦委員会」が板門店(パンムンジョム)に設置された。
だが、1994年4月、北朝鮮は委員を引き上げ、代わりに「朝鮮人民軍板門店代表部」を設置すると通告、同年9月には中国人民解放軍も委員を引き上げてしまったが、この機能は未だ有効になっている、つまり北朝鮮を巡っては現在もまだ「休戦協定」のままだと言うことである。

北朝鮮のこうした委員の引き上げは、従来から主張している「休戦協定」を「平和協定」に変えるべきだという意思を、行動に表わしたものと考えられている。

ちなみに朝鮮戦争前の境界である38度線は、この戦争のあと38度線を交差する形で軍事境界線が引かれたため、現在正確には38度線が軍事境界線となっていない。
この朝鮮戦争の背景には、当時アメリカが韓国政策に消極的だったことから、アメリカの参戦は無いと踏んだ北朝鮮がソビエトの全面支援のもと、一挙に朝鮮半島の武装統一を計ろうとしたものだったようである。

その背後にはスターリン自身が大きく関与していたことが、1993年6月にロシアを訪問した金泳三大統領に、エリツィン大統領から手渡された朝鮮戦争に関する機密文書、216件548ページに記されている。
その内容は開戦準備にかかわるスターリンと金日成(きむ・いるそん)国家代表との協議を詳細に伝えているが、現在に至っても北朝鮮は韓国軍の北進が戦争の発動事由であると主張している。

世界はこれから後も、ますます東西の対立を深め、共産党、社会主義国家が集まったワルシャワ条約機構と、アメリカを中心とした自由主義国家間連携のナトー(北大西洋条約機構)の2つの勢力分布に世界全体が色分けされ、軍事的にもベトナム戦争など、その代理戦争となる戦争、紛争はあとを断たなかった。

しかし1985年、チェルニェンコ、ソビエト書記長の死去に伴って現れたゴルバチョフ書記長は、経済的に破綻したソビエト経済の建て直しを計るため、社会主義体制国家から自由主義国家への方針転換を図り、この時点で事実上東西冷戦時代は終わりを告げるのである。
当時イギリスのサッチャー首相と握手を交わし、レーガン、アメリカ大統領と戦略核兵器削減交渉の文書を交わして握手したゴルバチョフ書記長の姿に私は涙が流れた。そしてこれで世界は平和になる、と思ったが今日のこの姿は何だ!・・・・まあ良い、先を続けよう。

同じように中国でも民主化運動が起こるが、1989年6月4日に起こったこの運動は、当初権力を委譲されたばかりの江沢民体制内で事態収拾の方策を巡って混乱、見かねた鄧小平が軍隊を動員して緩やかな解放へと軌道修正するが、この事は結果として中国の混乱を最小限に押さえて民主化に成功すると言う今日の経済大国、中国の礎ともなった。
現在中国は基本的には一党支配の独裁政権ではあるが、既にその独裁制が形骸化し、事実上かなりの部分が自由主義体制へと移行している。

ヨーロッパの東西軍事境界線だったドイツ、ベルリンはソビエトの崩壊と共に1990年10月3日統一され、ここにヨーロッパでの第2次世界大戦が招いた不幸は完全に収拾された。
だが、極東の朝鮮半島はまだ事態の解決がついていないのである。
社会主義と言うものも無くなった、東西冷戦もなくなった、中国も解放経済へと移行した、いまや朝鮮半島の統一を妨げるものは北朝鮮の政治体制だけなのである。

韓国は朝鮮戦争後、アメリカとの軍事協定で、相互防衛条約を結んでいるが、この規定でもし2国のうちどちらかが軍事攻撃を受けた場合、アメリカは「憲法上の手続きに従って」援助措置を行うとなっている。
つまり同じ軍事協定でもナトー軍と結んでいる「すみやかに」援助するとは別の意味を持っているのだが、これに関して韓国はナトー軍事協定と同じにするようアメリカに求め続けてきたが、今日でも変更されておらず、協定の有効期間は無制限になっているが、一方の通達によって1年後に協定は終了できることにもなっている。


アメリカは基本的に朝鮮戦争当時から、朝鮮半島での政策に消極的だった事はこうしたことからも分かるが、現在眠れる獅子と言われていた中国の経済的台頭を目の当たりにし、再び朝鮮半島の安定化に関与せざるを得ない状況が訪れている。
そして、かねてより噂されている北朝鮮トップの金正日(きむ・じょんいる)代表の健康状態を含め、今後数年の間にこの地域の情勢は予断を許さないものになる可能性がある。

ここ3代の韓国大統領は、北朝鮮に対して融和政策を取ってきた、またアメリカや中国、日本を含む6ヶ国協議でも、基本的には北朝鮮に有利な方向で物事が進んでいるが、当の北朝鮮の動向は理解し難いものばかりで、今後「何か」が起こりそうな予感は誰もが感じることである。
だが、いつか朝鮮半島が一つにならない限り、第2次世界大戦の不幸もまた終わらないのではないだろうか・・・。

ドイツ、ベルリンの壁が崩壊し暫くして、私はベルリンへと向った。
そこは既に群集の興奮が冷め、私のように物見ゆさんで訪れる外国人でごった返していたが、30ドルほどでベルリンの壁のかけらが売られ、旧ワルシャワ条約機構軍の軍服や将校バッジ、帽子などが安く売られていて、私はソビエト軍下級将校の軍用コートを買った。

厚い生地で重く、肩がしっかり立っていて格好がいいものだったが、意外だったのはソビエトと言えばあの大きな体格を思っていたが、体重60キロ未満の私が着てもそれほど大きすぎないことだった。

同じ時期、偶然だったが日本の海部俊樹首相がドイツ入りしていて、私はドイツ国内のテレビで日本の総理を見ていた。

あの方は当時日本国内でもそうだったが、「弁舌さわやか、内容は無い」コメントをしていた。
「おめでとうございます。良かった。日本も援助してます」こればっかりが繰り返されていて、日本語だからドイツの人が分からなくて良かったものの、言葉が分かる者には聞いていられないコメントだった。

そうではないだろう、少なくとも第2次世界大戦では枢軸国の同志として共に戦った国、その仲間だった国の不幸の陰で日本は繁栄してきたのだろう。
「ありがとう、そして長い間すみませんでした」が正しかったのではないだろうか。

私は朝鮮半島がいつか1つになることを希望している。
過去1つの国だったものが2つに切り裂かれ、肉親ですら会うことができない状態はこれほど辛い事は無い。
そしてもしその日が訪れたら、今度は海部さんのような言葉ではなく、きちんと「ありがとう、あなた方の犠牲に上に日本は繁栄してきました、長い間すみませんでした」と総理大臣に言ってもらいたい。
それが終わったときやっと、第2次世界大戦は終結するのだと思う。

雨は夜更け過ぎに・・・。

もうすぐ、クリスマスがやって来る。
そしてこの季節になるとFMから必ず流れてくるのが、山下達郎の「クリスマスイヴ」だ。
この曲は知っての通り、ベースが「パッフェルベル」の「カノン」と言うクラシックの曲だが、さすがに卒のない山下達郎、とても滑らかに作ってある。

だが山下達郎がこの曲を作った当時、実は余りヒットしなかった。
この曲がヒットしたのは、遠距離恋愛中のカップルを描いた場面に、「雨は夜更け過ぎに、雪へと変わるだろう・・・」と曲が入り、その経験のある者、また現在進行形のカップルにとっては涙無くしては見られなかった、あのJR東海の名コマーシャルで使われてからだ。

そしてこの「クリスマスイヴ」はヒットチャートを駆け上っていくのである。

山下達郎はその昔、松任谷由美、そのころは荒井由美だったが、彼女のアルバムでバックコーラスを勤めていたが、このアルバムの恐ろしいところはキーボード、坂本龍一、ギター、高中正義と言った具合で、現代では雲の上の人達をバックで使っていることだった。

後に松任谷由美が「坂本がね・・・」とか坂本龍一を呼び捨てにするのは、こうした経緯があったからだ。
話はさらにそれるが、80年代一つの時代を築いた「ジ・アルフィー」彼らにしてもデビュー当時「研直子」のバックバンドをやっていた。

山下達郎の奥さんは竹内マリアだが、この2人の音楽ジャンルは、実は普通歌謡でもある。
つまりロックや演歌ではなく、その時代を反映したメロディーや歌詞で曲を作っていく方式で、同じ系統でも「踊るポンポコリン」に携わった大滝詠一や織田哲郎らから比べると、その遊びのセンスはかなり浅く、こうした面で才能と言うよりは、商業的センスに秀でているように思う。

だが、これは決して山下夫婦を低く評価しているのではなく、例えば福山雅治はシンガーの「ミーシャ」にこう語っている。

「時代に無理やり逆らうんじゃなくて、流されて良いと思う。その流されていく中でちょこっと自分を織り交ぜていければいいんだ」さすが福山らしい言葉だが、こうした事は大切なことだと思う。

崇高な精神、特殊性、自分らしさを表現しようとする余り、とんでも無いところまで行ってしまったもの、また自分がファンから何を求められているのかが分からない者は、やはりトンチンカンになる。
人間はどれだけ頑張っても同じ人間だから、それほど大きな差がある訳ではなく、才能と言うのはごく僅かなスパイスみたいなものだ。

だからとんでもないものを考えるのではなく、基本の上に少しだけ自分を乗せればいい、その少しの部分が全体を引っ張って、それは明確に「自分らしさ」になる。
そしてこの基本と言うのが、その時代のことで、その時代とは「普通の暮らし」のことだ。

流行とは世の中の多くの人が望むことを言うのだから、まず「普通」が分からない者には時代が分からないし、もし自分が時代の先端を走っているなら、その時代には合っていないはずだ。

クリスマスイヴの原曲であるカノンは他の多くのアーティストもそれを編曲して自身の曲に作り変えている。
NHKのアニメ「地球へ」のエンディングに使われていた加藤ミリアの曲、「ザード」、エヴァンゲリオンなどだが、この中でも山下達郎のクリスマスイヴは珠玉の一曲だと思う。

北陸もクリスマスの頃は、雨は夜更け過ぎに、雪へとかわるだろ・・・になるようだ。
きっと君は来ない、1人きりのクリスマスイヴ・・・。
昔のことだが・・・遠距離恋愛でフラれた者としては、この曲を聞くたびにジーンとなってくる。

魔のトライアングル

昨日見た光が具体的に何だったのかは、今日も今ひとつはっきりしなかった。
天文台ではそんな光源は確認されていないと言うことだったし、未確認飛行物体の研究機関と言うものにも連絡したが、こちらはよく話しも聞かない内から「それはUFOです」で、最後は年会費3000円で会員にならないかと言うことだった。

やはりこうしたものと言うのは怪しいことにならざるを得ないのか・・・。

今日偶然だが、懐かしい記事を見つけた。
17日付けニューヨーク発、共同通信によると、アメリカ東岸イギリス領バミューダ諸島の南1200キロ付近で、12人が乗った旅客機が15日から行方不明になり、アメリカでは「魔のトライアングル」に遭遇したのではないかと話題になっている・・・と言うものだ。

アメリカ、ノーフォーク沖の大西洋上にバミューダ諸島と言う島が有り、この付近を中心とした三角形の海域では船や飛行機が忽然と姿を消したり、突然正体不明の船が現れたりして、昔から「謎の海域」とされていた。
四次元に通じている、磁場の異常で次元転移を起すなど、想像逞しくいろんな説が流れたが、確かにこの地域での遭難は多く、その殆どが全く何の連絡も無く突然姿を消していることから、長年世界の七不思議に数えられていた。

そうした不思議な事件の中でも、スティブン・スピルバーグとジョージ・ルーカスが世界に衝撃を与えた映画「未知との遭遇」で、最後宇宙人の船から解放される第2次世界大戦当時の兵士達の場面、何故彼等が宇宙人によって現代に開放されることになったか、その元になった事件を少し紹介しておこう。

1945年12月5日、フォート・ローダーダール海軍航空基地を出発した6機の軍用機、(乗員27名)はフロリダ上空での飛行訓練へと向っていた。
2時01分、訓練は順調で、管制塔にも「飛行状態良好、これより訓練に移るため暫く連絡を中止する」と無電があった。
この訓練にはかなり腕のいいパイロット達が搭乗していた。

3時45分、訓練終了間際のことだった。
突然管制塔にメーデーの無電が入る。
「管制塔、管制塔、こちら指令機。現在位置不明、進路不明」
「陸地が見えない。我々がどこにいるのか見当が付かない」
「こちら管制塔、雲に突っ込んだのか?他の機はどうした」

管制官は必死で呼びかけた、しかしそれに対する返事は「ガーガーガー」と言う雑音で、応答が無い。
それから暫く無電は途切れたが、5分後に今度は飛んでいる訓練機同志の連絡がキャッチされた。
「司令機から5番機へ、こちら指揮不能に付き、5番機より指揮を頼む・・・」
管制塔は明らかに異常が起こったことを察知し、何とか連絡を付けようと試みる。

「司令塔より司令機へ、応答せよ、応答せよ」だが、どうしても連絡は取れなかった。
4時45分、帰着時間はとうに過ぎていた。
不意に連絡が入る「どこにいるのかはっきりしない・・・・基地の北東360キロ?・・・」
そして「見ろ、我々がいるところは・・・・」
という驚愕の声がして、後すべての会話は途絶え、空電だけになった。

ただちに大型マーチン飛行艇が13人の搭乗員と救命用具を積んで救助に向った。
しかしこの飛行機も5分後に連絡が取れなくなってしまう。
こうした事態に大型空母「ソロモンズ」をはじめ、21隻の艦艇が遭難海域を捜索、300を越える航空機が空から、12の捜索隊が陸から付近一帯を探索したが、破片1つ、油の痕跡1つ見つからなかったのである。

後に海軍査問委員会は次のように報告している。
「この件に付いて、原因、事態が何であったのかすら誰も理解できなかった」
この地域ではこれまで30機に及ぶ航空機が跡形も無く消失しているが、いずれも事故究明委員会がその説明すら出来ないままになっている。

スピルバーグとジョージ・ルーカスはこの事件を映画の中で解決し、現代の兵士達に彼等を丁重に扱わせていたのである。
今回15日からこの付近で行方不明になっている旅客機もどこか未知の次元に迷い込んでしまったのだろうか・・・。







空から恐怖の大王が・・・。

今日の夕方、6時を少し過ぎた頃、長女を学校へ迎えに行った帰り、道路は東側へ向っていたのだが、目の前を緑色の大きな星が上から下へ落ちていった。

一番最初に考えたのが、北朝鮮からのミサイルだったが、それにしては形や色が緑色と言うのはおかしい、それで次に考えたのが流星だったが、大きさが半端ではない、この間まで綺麗に大きく見えていた、金星の10倍はあろうかと言う明るさで、流星にしては落下スピードが遅すぎる。
それに曇り空だった。

飛行機のライトかとも思ったが、飛行機のライトでこの距離なら音がしているはずで、しかもああ言う角度で落ちていたら間違いなく墜落だ、ついでに飛行機の点滅灯で緑はないし、第一点滅していなかった。

同じものを車の中から見ていた長女は「UFO」だと騒ぎ、家へ帰りつくと家族みんなにUFOだ、UFOだと言って歩いたが、醒めた顔で長男が「火球」では・・・と言い始め、、それも考えられるな、とも思ったが、それにしては球形ではなかったこと、始めから終わりまで光の強さが同じで、突然消えてしまったことなどから、やはり正体不明ということは変わらなかった。

火球とは流れ星と基本的には同じだが、大きくて燃え尽きなかった宇宙の塵が、地球の大気で燃えて、それが球形に見えることを言い、その塵の成分によって緑色のものと赤いものがあるが、私と長女が見た光は形状が5角形で、火球よりはるかに明るかった。

相当大きい流星ということも考えたが、もしあの大きさで流星なら、大気圏突入時に大きな「どーん」と言う音がしているはずである。それに大きな流星なら尾を引いているが、とても大きな星がパラっと落ちていくような感じだった。

では長女の言うように、UFOかと言うと、これはこれで疑問だった。
動きが、貼ってあった星の飾りがぽろっと落ちたような動きで、それはUFOのような物理的に理不尽な動きとも言い難いのだ。

早速気象庁へ電話して他に同じ目撃例がなかったか確認したが、同じ目撃例はなく、家族には「どーん」と言う突入音が無かったか聞いたが、誰もこうした音を聞いたものはいなかった。
近くの天文台にも確認したが、こちらは閉館時間後で、留守電になっていた。

「んー・・・気になる」
そう言えば昔私がまだ小学生の頃、中学生のお兄さんやお姉さんが「あんた達私達より若くして死ぬんだよ、かわいそうにね」などと言って、五島勉の「ノストラダムスの大予言」の話をしてくれたが、それによると「1999年、空から恐怖の大王が降ってきて・・・」人類は滅亡するとか言う話だったが、せいぜい4、5年しか違わない割には随分同情されたもの言いで、今に至っても死んでいないところ見ると、こうした予言は外れたらしいが、ああ言う本を書いた著者は今ごろどうしているのだろう。

しこたま稼いで、タヒチとかの白い砂浜、褐色の肌のお姉さんからトロピカルドリンクなど渡されているのだろうか。
だとしたら随分な話だが、この正体不明の光を見て、もしかしたら天変地異の兆しか、少し遅れて大予言が来るのか・・・などと一瞬考えてしまった。

それにしても子どもの頃は自分も素直だったのだなと思う。
こうした話を信じて、子どもながらに何歳で結婚して、何歳で社長になって・・・とかそれなりの人生設計を考えていたことを思い出したが、この頃の設計図通りにはならなかったものの、30代で滅亡の憂き目にも会わずに済んだようだ。

勿論明日はわからないが・・・・。



共存

2008年9月25日、1度絶滅した朱鷺(とき)がついに日本の大空を舞った。
関係者は長年の苦労に涙を流して感激し、多くの見物人もこれを喜んで眺めた。

ニッポニア・ニッポン、学名でも日本を代表するこの鳥は、昭和30年の時点で数羽しか残っておらず、それも昭和50年代には絶滅したとされていたが、日本の空にもう一度朱鷺を・・・と願う多くの人達、中国政府の協力もあって、ようやく中国の朱鷺を親にした孵化に成功、地道な飼育と自然環境で餌を取れるよう訓練までして、選ばれた10羽がこの日新潟県の大空に放たれた。

しかし現地で朱鷺が放たれた時点で1羽が既に行方不明、同じ年の12月16日には山でメスの1羽がタヌキなどに襲われて捕食された残骸で見つかった。

思うに、人間と言うのは何と残酷で傲慢な生き物なのだろう。
1度自然の状態で滅んでしまった生物を、もう一度空に舞う姿を見たいと言う1部の人間の意志によって無理やり復活させ、それを飛ばして喜ぶ、このありようは何なのか。
自分が見たいと言うだけで、自然と言う摂理がなくしてしまったものを蘇らせる、このことがいかに危険なことなのかを関係者や、のんきに空を眺めた人達は考えたことがあるのだろうか。

朱鷺は昔から農家にとってはサギと同じように害鳥だった。
苗を植えた田に入って餌を取るため、苗が踏まれ、そこだけ米が取れなくなるのだが、こうしたことを言う人間が日本には1人もいないのが不思議である。

日本野鳥の会と農家は天敵同士のようなもので、片方はサギの巣を保護しようと監視までして、片方は何としても巣を落として、サギの数を減らさなければと必死の攻防である。
またカモなども、実った米をあぜ道に沿って食い荒らすため、農家はその巣を見つけたらすぐに卵は持ち帰り、ゆで卵にする有様で、家の父親などは野鳥の会と聞いただけで、「帰れ」の一言だ。

自然と言うのは2つの面がある。
一つは住んでいる者の自然、そうしてもう一つは見る者の自然だが、住んでいる者の自然とは生活に密着していて、そこには大局的な生物体系や、景観、あるものを守ろうとする概念が無い。
片方、見る側の自然は、大局的な生物体系や保護の概念があっても、そこに暮らす人達のことは考えられていない。

近年こうした実体が無視されて、地域住民の暮らしに不都合な問題が発生することから「世界遺産」の指定を受けることを躊躇する地域があるのはそのためだ。

日本と言う国は不思議な国である。
全ての地方自治体が、当地の産業は「観光」がメインになっていて、「観光」をスローガンにみんな協力させられているが、その実そこの地域で観光産業などほんの1部なのであり、では観光産業が他の産業のために何かすることが有るかと言えば、何も無いのである。

日本の全地域がうちは観光で・・・と言っていてどうしてこれが成立すると思うのかそれが分からない。
コインばくちで、みんなが表に賭けているのと同じなのだ。

朱鷺を巡っては北陸の各県がこの次の放鳥場所となることを環境庁に陳情しているが、観光業者はそれで良いだろう、また多くの関係ない者も賛成だろう、だが直接被害が出る可能性のある農家は、苦い顔で賛成している者もいることを知って欲しい。

数年前から家の田んぼの用水付近に2匹のサンショウウオがいて、多分オスとメスだとおもうのだが、年々大きくなってきているが、これは特別天然○○物の○○サンショウウオではないかと思う。
だが、私はこの話を家の両親には話したが、一切口外しないように口止めしている。

もしこれが発覚すれば、その付近は保護地域になり、人間が手をだせなくなり、毎日のように見物客が来て・・・になることは間違いなく、その結果それまであった綺麗な環境は荒れて、最後はサンショウウオが住めなくなるか、死んでしまうかどちらかになるのは、目に見えて分かっているからである。

このサンショウウオは私が田んぼを作っている環境で、少なくとも5年以上は暮らし、この環境に適合している。
即ち私とサンショウウオは「共存」しているのだ。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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