寝たきりの神様

祖母が元気な頃いつも和服で、歩くときは杖をついていたが目が悪く、光が当たり過ぎないようにサングラスをしていた。
このサングラスは私が祖母に送ったもので、レイバンのグレーバージョン、丸縁だったが、こうした出で立ちで外を歩いていると、私のところへ訪問してきた人が大体こう言ったものだ。「お婆さんは元女優か、なんかだったんですか・・・」

こうした問いに始めは否定していたが、だんだん面倒臭くなってきた私は女優と言えばそう、文壇と言えばそうで相手が思うようにして頂いていたが、確かに和服でサングラス、杖をついていたが元々社交的な祖母は、ただの田舎の婆さんにしてはかなりモダンだった。

この頃独身で向かうところ敵なしの私は、祖母を病院へ連れて行く役割をしていたのだが、高級スポーツカーを乗り回し、祖母の送迎もこの車だったことから、病院では若い男にスポーツカーで送らせる祖母は、やはり「ただ者ではない」と言うことになっていたらしい。

だがそれは何でもない骨折から始まった。
冬、隣の家へ遊びに行っていて、その軒先の凍結した通路で足を滑らせて転倒した祖母は足を骨折、このことがきっかけで、それから後もあちこち骨折を繰り返し、ついには這うことは出来ても歩くことは出来なくなってしまった。

食事は作って運び、トイレは簡易便器を室内に取り付けた生活が始まったが、それも2年ほどしたら足が完全に弱ってしまい、骨粗鬆症から半分寝たきりになってしまった。
これからが大変だった。
始め施設か病院で・・・と思ったのだが、祖母はこれを拒否し、家族も近くの施設や病院では必ず知り合いがいて、病状や風評がどこからともなく漏れてしまうとして、施設入りには難色だった。

田舎の狭い社会では病院や施設には必ず知り合いが勤務していることになり、それは同級生や近所の子息、親戚と言った具合で、病院などは皆自分が住んでいる市町村の隣の病院へ行くのは、例えば癌などだと、本人が告知されていない間から、周囲が皆知っていると言う事態が起こってくるからだが、この他に老人施設入所には順番待ちが当たり前、それが嫌なら有力者に金を払って・・・と言う話もまことしやかなものがあった。

結局祖母は自宅介護になったが、私の父母は建設会社の管理者をしていたことから、事実上介護はこの頃になると結婚していた私と妻が引き受けることになったのだった。

あさ、昼、晩と食事を作り運ぶのだが、我がまま、頑固、愚痴っぽいを地で行く祖母は食事のたびに「あれはマズイ、これは食べられない」と言い、排泄でもオムツをはずす時のやり方が粗暴だと文句を言った。
気持ちは分からないでもなかった、自分で自分の体のことが出来ない、人の世話になることが一番嫌いだった祖母は、そうした歯がゆさから私たちに当たっていたのは分かっていた。

だが晩年になるとそれは更にエスカレートし、夜中無理やり這って玄関へ出て動けなくなったり、「こんなもの食べれるか」と妻がわざわざ希望を聞いて作った食事を突き返したり、「痛い、痛い」と夜中に騒ぐなど、私たちの家庭生活までが大きくバランスを崩して行った。

当時仕事しているときに何度も妻が「家を出て行く」と言って離婚届を持ってきたが、介護に疲れ、それでも容赦ない祖母を私は何度叩こうと思ったか知れない、何度死んでくれたらと思ったか知れなかった。

容姿ない言葉は看護士にも及び、週1回訪問してくれる看護士にも「薬が効かない、お前の注射は下手だから他の者を連れて来い」と言う調子で、帰り際靴を履いて顔を上げた女性看護士が泣いていたこともあった。
私は看護士に「すみません」と謝ることしかでき無かったのだが、看護士や医師も辛かったと思う。
家族は疲労から気力や希望を失い、祖母はこうした経緯からどんどん精神的に不安定になっていった。

「こんなことがいつまで続くんだろう・・・もしかしたら祖母より先に私達が先に死ぬんじゃないか・・・」などと思うようになっていった。

だが祖母は時折こうした中でも優しいこともあった。
妻に「いつも大変だからこれで何かおいしいものでも食べなさい」と小遣いをくれたり、私に「仕事の邪魔をしてすまない」と言うときもあったが、ああこれで祖母も少しは分かってくれたんだな、などと思っていると夜にはまた大騒ぎが始まったものだった。

それからしばらくして祖母は言葉が少なくなり、食事も余り食べなくなった。
元々痩せた人だったが、その痩せ方は激しさを増して、骨と皮だけになり、時々訪れる見舞い客にも、言葉をかけれる力さえなくなっていった。

毎週来てくれるかかりつけの医師が、そろそろかも知れません・・・と私達に告げたが、その頃になると祖母は金魚のように口を開けて、ただ呼吸しているだけだった。
8月16日朝、私達と老医師、看護士、本家の当主が見守る中、祖母の呼吸は止まった。

医師は落ち着いて脈を計り、閉じた目を開かせて瞳孔を確認し、「ご臨終です」と言い、しばらくしてから祖母に向かい「ご苦労さまでした」とお辞儀した。
91歳と言う祖母の旅はこうして終わった。

本家から分家した祖父の妻は子供と一緒に死んでしまい、その後添えとして嫁いだ祖母、戦争を挟んで祖父が怪我を負って働けなくなり、生活に追われながらも前妻とその子供の供養を忘れたことはなく、その縁者を気にかけ、行方不明の甥を最後まで心配していた偉大な人だった。

私達残った家族はなぜか気が抜けたようになってしまった。
もうこれで介護の必要は無くなった、7年にも及ぶあの苦難の日々はもう終わったのだが、くしくもあの泣いていた女性看護士の言葉が私たちの気持ちを代弁していた。「なんか、寂しくなりますね」

そうだ、あれほど苦労し、時には憎み、死んでくれとさえ思った祖母だが、この空しさ、はかなさは何だろう・・・。
確かに心の重い気持ちはとれた、しかしこれまでそれを中心に生きて来たし生活してきた者にとって、何か大きなものが無くなったことは確かだった。

私達は祖母のお陰で全力で生きてきたのだった・・、具合の悪い祖母は家族が力を合わせることの大切さを私たちに教えてくれていたのだ。 私達は祖母を中心に、この時を全力で生きることが出来たのだった。
祖母は「寝たきりの神様」だったのだ。

もし自分が死に方を選べるとしたら・・・,西行の歌「願わくば春、桜の木のしたで眠るように」・・・と行きたいところだが、実は何かと闘い続け敗北し、泥水を飲んで死ぬのがお似合いか・・・。

「ばあちゃん、何度か辛くて・・死んでくれと思ったことがあった・・・許してくれ・・」



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危ないところだった・・・。

大量の生き物が一つの方向に、凄い速度で向かっている光景は、ある種「言葉に表せない恐怖」がある。
アメリカ、オバマ大統領の就任演説で200万とも言われる民衆が「オバマ、オバマ」とこぶしを振り上げ連呼する様は、ただ見ているとナチス・ヒトラーを支持するドイツの民衆と重なって見えたが、これは言い過ぎだっただろうか。

祭りもこれと同じで、神社と言う特殊な空間、その中で酒が入り、普段とは違った多少理性を失っても許される状況、いや少しくらいは普段より羽目をはずすのが当たり前の中で繰り広げられる儀式、人間の躍動はどこかに「狂」が見え隠れする。

私は小さい頃からこうして大勢の人間が理性を失って激高してる場面が恐かった。
そこに見ていたものは「危険」と「狂気」だったが、世の中にはもうひとつ恐怖がある。
それは見えない間にやってくる狂気、しかも自分でも気づかない間に、すっぽりとそこに飲み込まれている狂気だ・・・。

2008年12月、雇用不安が表面化し、大手企業が次々派遣社員の大量解雇を発表していた時期、NHK夜9時のニュースで、契約途中で解雇された、ある派遣社員男性の実情をルポタージュしたニュースが流されたが、彼の年齢はまだ20代後半だった。

この男性はもう1ヶ月以上も職がなく、手持ちのお金も底を付き、夜は12月の寒空のした駅のホームで寝ていたが、衝撃的だったのは食べ物を買うお金もないため、なんとゴミを漁って、棄てられている弁当を食べていたことだった。
取材記者は男性に同情し、大企業の無情ぶりを映像全体に渡って訴えていた。

この光景を見た私の父は「日本もここまで来たんだな・・・」と険しい顔でつぶやいたが、70年も生きている彼をしても、こうした光景は戦後間も無くならともかく、今までで初めてのことだと語った。
だが、同じニュースを見たらしい会社スタッフの女性は、翌日出社してこう言う話をした。

彼には両親はいなのだろうか、もし両親がいるなら彼はそこへ助けを求めるべきだろうし、それに彼は自分の条件に合う職業がない、と言って仕事が見つからないといっていた。
だとしたら、それは選択されたホームレスではないのか、謝れば許してくれる親がいてもそこに頼むこともなく、自分が望む仕事がないから働かない・・・それは困っているのでも何でもない、ただ贅沢を言っていてその結果だから、ただ甘えているだけだ・・・と言うのである。

これにはさすがに私も目からウロコだった。
やはりこんな貧乏会社を選んで働きに来るだけのことはある「覚悟」の感じられる彼女の言葉は、私の曇った目に一条の稲妻のように衝撃を与えた。
彼女の言うとおりである。

そもそも派遣社員はこうしたことを覚悟の上で派遣を選択していたのであり、一時派遣がもてはやされた時期には「正社員のような拘束がないし、時間が自由になる、若い人だと「使う分だけ働けば良いんじゃない」と言う者までいたし、それが景気が悪くなって解雇された・・・すわ社会が政治が、と言うのはどうかと思う。

また派遣社員でもしっかり働いて貯蓄し、自前で住むところを確保していた人もいたわけで、全ては「自己責任」だったのである。

それに元々仕事だから、全て自分が満足できる条件など景気のいい時ならともかく、そんなにあるはずがない。

私たちが就職したときは、まあ仕方ないが生活の為だと思ってこの仕事に就いたし、今でこそこうして対外的にはこの仕事が好きだと言ってるが、本当は好きで選択した職業ではなかったのである。

何でもいい、贅沢を言わずに取り合えず働いてはどうか・・・と思う、たとえそれで生活するのは苦しくても、またプライドが許さなくても、何もしないで困ったと言っているよりは遥かにいいと思う。
そしてそれでも職がない中高齢者に対しては国家が就職を斡旋したり、補助を行うのがいいと思うし、こうした財源に2兆円が使われれば麻生さんの株も上がるのではないだろうか。

それにしてもNHKには危なくやられるところだったが、昨今のマスコミ、特にテレビは本当にどうかしているのではないかと思うときがある。
弱い者、小さな者、少数の意見が正義や真実であるかのような報道は扇動であり、大きな大きな者、強い者は悪いとする考えとともに、もっと公正にことの本質を報道しないと、日本国民はオバマ大統領のような分かりやすいものではなく、パンデミック(大流行するインフルエンザ)のようなウィルスで狂ったネズミのように、海に向かって飛び込んでいくことになる。

確かに職を失っている人は可愛そうだし、彼らは悪いわけではない、だが可愛そうだからそれが正しいと言う考え方はおかしいし、ましてやそれが法に違反していても、許される根拠にはならない。
私が小学生の頃は「道徳」の時間と言う授業があり、その中でソクラテスの話が出てきたが、ソクラテスは悪法と知っていてもそれに従い毒杯をあおぎ、死んだ。
そしてこれが「道徳」の時間に出てきたのだから、人はこうあるべきだと言うことだったのだろうが、「道徳」は時代によって変化するものなのだろうか・・・。

小さな者の正義はこのブログの「アザゼル」末尾にも書いたが、神の袖に隠れて狭義の聖剣を振り回す者と同じである。

すなわち多くの善良な人々を傷つける。
マスコミにはこのことを良くかみ締めて仕事をしてもらいたいものだ・・・・。

ざんねーん、予選落ちー

今はもうこうしたことも昔話になるのかも知れないが、テニスの試合におけるジャッジの権限は絶大で、例えジャッジミスがあったとしても、これに異論をはさむことは出来なかった。
それで明らかにジャッジミスがあった場合、そのジャッジで有利になった選手は、次の場面で1度わざとミスをしてプレーの公平さを保ったと言われている。

数年前のことになるが、私は小学校の大会で優勝し、市の陸上競技大会に出場することになった長女を連れて、その競技場まで足を運んだが、どうせ予選落ちだろうと思い、帰ってからまた出てくるのは面倒なので、競技が終わるまで待つことにした。

どうも人前で自分の子供を応援するのもバカっぽいし、かと言って他の親のように、毎日顔を合わせている子供をビデオ撮影するのもアホらしい、それで昔少しだけやっていた走り高飛びでも見学しようと思ったのだが、たまたま走り高跳びはやっていなくて、仕方なく隣で走り幅跳びを見ていた。

さすが、各学校の優勝者達だけのことはあって、記録はなかなかのものだったが、一人の女の子がスタートを切ったときだった。
小学校低学年くらいの男の子がその選手の走っていく先、つまり砂場を横切ってしまい、それを気にして助走速度を落としたこの女の子は、満足に飛ぶことが出来ずに終わってしまったのだった。

普通こうした競技は2回記録をとって、良いほうを記録にするのだが、どうもこの女の子の場合すでにこの競技が2度目だったらしく、ひどくがっかりした顔で砂場を去っていこうとしていたが、この時審判の50代くらいの男性は、砂場を横切った男の子に「だめじゃないか・・・」と言っただけで、そのままメジャーで距離を計り、競技を終わらせようとした。

これには見ていた私が腹が立って、審判に抗議した。
こうした記録競技は妨害が入ったら記録を取り直すのがルールだ、今のは明らかに妨害であり、記録は取り直さなければならない・・・私は審判の男性にそう言った。

だがこの審判、「強化選手じゃないから記録は1回取れればそれでいいんですよ」と面倒くさそう答え、その場を去っていこうとしたので、私は更に続けた「子供の競技や記録に不公平があれば、その子は次からやる気を失う、スポーツの審判は公平でなければ記録として成り立たない」

だが、相変わらずぶつぶつ言って記録の取り直しをしないこの審判に、私は名前を尋ね、大会本部へ直接抗議することにしようと思ったのだが、意外にもこれを止めたのはこの選手の父親だった。
「いいんですよ、どうせ県大会へ出れるほどではないし、これでもめて学校でいじめられたら困りますしね・・・」
その父親は女の子の手を引いて並んで私に「ありがとうございました」と言ったが、彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。

強化選手・・・実に嫌な響きだが、どの学校でも記録を出しそうな優秀な選手は目をかけて育てるが、その他はこうした選手の盛り上げ役くらにしか思っていなくて、そうした意味では学校、審判、スポーツ主催団体と言うのは一つになっていて、こうした強化選手と呼ばれる選手は普通より多くの恩恵を受けることが出来る。

例えばジャッジ、器具や備品などの優遇、記録が悪くても引き上げるなどの優遇があるし、審判とも顔見知りになっている場合が多いのだ。
高校生のバスケットボールだと強化チームになれば、不利な試合でも審判に圧力をかけ、強化チームの対戦相手チームの反則を厳しく取って負けさせる事だってできるのだが、こうしたことは表には出ず、たまに「なんかこのジャッジはおかしい」と言う試合の裏側は、かなり組織的なアンフェアが行われていたりする。

優しそうな父親、そして大人しそうな女の子、いい加減な審判によって彼女がうしなったものは余りにも大きいことが分かるのは、きっと彼女が大人になってからだろうと思う。

もう10年以上前かも知れないが、私はあるマスコミ関係の男に頼まれて、長距離走の試合を代理取材したことがあって、この日は朝から今にも雨が落ちてきそうな天気、一応大会は始まったが途中から雷を伴った激しい雨になった。

次から次へとゴールしてくる選手達、そして恐らく最後の選手と思われる選手が帰ってきて30分くらいは経っていただろうか、観客や私達取材陣も帰ろうと後片付けをしていたその時だった、ヨロヨロになって倒れそうな男子高校生の選手が、グラウンドへと入って来たのである。

バケツをひっくり返したような激しい雨の中、その高校生はゴール手前で立ち止まったかと思ったら、ガクっと膝を落とし両手を地面につけ、苦しそうな呼吸は体全体を大きく揺らしていた。
始め何が起こったのか分らなかった観客は、この時点でようやくことの次第が理解できた。

慌てて大会関係者が駆け寄った、だがその選手は自分で立ち上がり、また歩き出した、顔やウェアに着いた泥が瞬く間に雨に流され、苦しそうに開けた彼の口にまでそれは流れ込んでいた。
会場からは大きな拍手が巻き起こり、やがてそれは「頑張れー」と言う声援に変わっていった。
そしてゴールラインを超えた瞬間、うつむせに倒れてしまった。

激しい雨の中、多くの人が彼の周りに駆け寄り、彼は一人の男性に背負われて建物の中へと運ばれていった。
翌日の某新聞、片隅に小さくだがこのことが載っていたが、無理やり頼んだのは私だった。

「おとうさーん」・・・。
コンクリートの側壁の低いところで座って、ボーっと昔のことを思い出していた私は、長女の嬉しそうな声で現在に戻された。
「おっ、どうだった」
「ざんねーん、予選おちー」
やっぱりな・・・。



大切な文化は語ることができない。

最近この辺でも何かイベントがあると、ロウソクをともしたり松明(たいまつ)焚いたり、はたまたライトアップという具合で「光物」が多くなってきたが、行ってみるとどこか不自然な感じがしてしまうし、そこにいる人も何かみんな同じ雰囲気で同じことを言う。

「自然に優しい、環境を思っている」と、それはいいのだが、どこか雑誌やテレビで聞いた話ばかり、おまけに環境がどうこう言いながら大型車で乗りつけ、茅葺(かやぶき)古民家を我が物顔である。

こうした田舎の古民家と言うものは、とても古い歴史があり、その地域で強大な力を振るっていた家が多く、地域住民にとっては特別な思いがあるもので、そこには「格式」と言う今は懐かしい「規律」のようなものがあり、そうした格式のある家には一般住民が入れなかったし、その家へ入れることはある種のステータスでもあった。

だからこうした古民家には必ず当主と特別なお客用の玄関と、普通の人の為の玄関、勝手口の3つの玄関があり、例え時代が変わってこうした家が行政の所有になり、一般公開されたと言っても地域のお年寄りはその「家」に敬意を払い、決して当主用の玄関から入ったりはしないが、それを平気な顔をして学生や、先生と言われる人達が靴を脱ぎ捨て通っていく。
田舎の文化を研究しているとする彼らがである。

そう古い文献でなくても、例えば昭和初期の記録には、こうしたその地域有力者の家での「村寄り合い」、分かりやすく言えば(現代の自治会集会)の様子を記録した文書が残っていて、そこには座敷に座れる者、居間に座れる者、廊下に座れる者、それ以外は軒先の外でしかこの寄り合いに参加できなかったことが記されている。
それもどの家の誰がどこに座るか、と言うことが細部に渡って決まっていたのである。

今これを読む人は、こうした話を聞くとそれは「差別」ではないか、と思うだろう。私も若い頃はそう思ったし、それが嫌でこの地域が嫌いだったが、この時代の有力者は地域のために道路を作る為の金を拠出していたり、地域社会に経済的恩恵を与えている部分もあり、そうした経緯からも地域住民からは妬まれながら、尊敬もされていた。

私の家は貧しかったから、私も幼い頃そんな激しいものではなかったが、やはりこうした格式のある家の子供から差別されたことがあったが、そのお陰で私は「いつかこんな奴滅ぼしてやる」と思い続けて来た。
そして動機は浅ましいが、こうした感情から頑張ってこれた部分は大きいと思う。

だが時の流れと言うものは残酷なものがある。
こうした格式のある「家」はその規模の大きさ故にすべて没落していき、今では一人暮らしのお婆ちゃんの為に私が米を作っているし、若い頃反発してひどい言葉を浴びせた別の有力者夫妻もすっかり老いてしまい、私が茶菓子など持って遊びに行けば、目を潤ませて喜んでくれる。

私は「恨み」が好きだったし、これを大事にしてきたが、そう恨みはその動機としては愚かだし非常に具合の悪いものだが、「力」の源でもあった。
だが、その行き着く先はこうした空しさだ・・・、ただ時が流れただけでその根拠は無くなり、逆に懐かしくさえ思う。

私はこうした旧家へ入ったときは、例え誰も住んでいない公開家屋だったとしても、絶対床の間を背にして座らないが、それはその「家」に対して敬意を払い、その当主に対しても尊敬の意をあらわすためだ。
私が最も憎んだ「田舎の仕組み」、形はどうあれ経済的差別、なぜかそうしたものが今はとても懐かしく、力さえも感じてしまう。

そして地域住民が思うその地域の文化とはこうしたものだ。

キャンドル焚いて「キャッ、キャッ」、私が決して背を向けて座らない座敷の床の間で、その床に腰掛けてすわり、日本文化について語る有識者・・・それをもっともらしく聞いている知識人や文化人、正直な気持ちを言おうか・・・文化を一番分かっていないのは君たちだ・・・。

また樹木はイルミネーションや夜のライトアップで年輪が歪むことを知っている人はいるだろうか。
クリスマスや正月、イルミネーションに輝く道路の木を見て可愛そうだと思う人間は少ないだろうが、私は木々に「済まない」と思いながら通っている。

米を作っていると、僅か自動販売機の光でさえ稲穂が出る時期に影響が出てくることがわかるし、近くの木の葉が少し小さくなっていくことがある。

また夏の夜のライトアップは近くに蛍が生息していたら確実にそれは減っていき、大体夜は暗いことが自然の仕組みの中で、無理やり光を当てられる木々がどんな苦痛を味わっているかも考えない「環境に優しい人達」のイメージの無さには、説明することさえ空しさを感じる。

だから何も人間に「楽しむな」とは言わないが、楽しんだらきちんと後片付けをしてくださいと言うことだ。
1週間なら1週間、10日なら10日でもいい、その期間が終わったらまた元に戻して置いて欲しいということなのだ。

都市に置いてならともかく、何も田舎にいてまで都市の真似をしなくて良いだろうし、第一都市に住む人がそもそも田舎に来て、自動ドアがサーッと開いてそれらしく作務衣(さむえ・お坊さんが作業時に着る作業着)を着たおねえさんが「いらっしゃいませ・・」とお迎えする、そうした観光を求めるだろうか。

私ならせっかく田舎へ来たのだから、引っかかって開きにくい戸を無理やり開けて、中にいる無愛想な男や女に会いたいと思うが・・・これは個人的嗜好だったか・・・。

自然環境を語るなら、まず自分がやることをしてからにすべきだし、文化を語るならその地域住民が一番話したがらないことに耳を傾けるのが良いと思うが・・・。



日本の新聞はどこを見ているのか・・・

1959年、独裁者バチスタを倒して権力を握ったキューバのカストロ、彼は老いて弟に議長の座を譲った直後、記者の「あなたは事実上40年以上独裁者の地位にあったわけだが、独裁と言うものはどう言う気分のものか・・・」と言う質問に次のように答えている。

「独裁者?それは私のことかね、残念だが私は国民の奴隷に過ぎないのだよ」

キューバ国内では絶大な人気を誇り、また海外でもファンの多いカストロらしい言葉である。
2009年1月20日、アメリカの首都ワシントンでは黒人初の大統領となるバラク・オバマ上院議員が合衆国憲法に忠誠を誓っていた。
この様子、大統領就任式は全世界へ配信され、昨年1年話題を振りまいた新大統領の演説を聴こうと、皆が固唾を呑んで見守ったが、意に反して就任演説は短くまた凡庸なものだった。
大統領選挙期間は歯切れの良かった経済政策も「数年の時間がかかる」と言う表現にトーンダウンしていた。

日本国内でこれを聞いていた大衆は一様に拍子抜けした感があったらしく、マスコミ、評論家と言われる先生の意見は醒めた論調に加え、麻生内閣との比較から自虐的哀愁を帯びたものとなっていた。

だが心配しなくてもいい、オバマ大統領の演説は、元々民衆を引き付けるだけの為に計算されたもので、実現などしなくていいことばかりだったし、大統領選挙期間中は大統領になることが目標で言葉を発していたのだ。
だから大統領になってしまうと、あらゆる現実から言葉が慎重になってしまっただけで、アメリカ経済を立て直す能力など、1人の人間に求めることがそもそもおかしいのである。

アメリカが皆さんに何かするのではなく、皆さんがアメリカになにが出来るか・・・と名演説をしたジョンF ケネディ、彼もまたその期待に反してキューバ危機では最後まで決断が出来ず、ソビエトのフルシチョフ首相が慌てて譲歩した為、偶然に危機を回避できたに過ぎなかった、したたかな計算があってあの結果があったのではなく、何も出来ずにいただけなのだ。

また1930年前後、世界恐慌に見まわれていた時の合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトはニューディール政策で有名だったが、この政策は基本的に自由主義経済が原則のアメリカ経済に、統制経済を持ち込む形となったことは事実であり、アメリカ建国以来の理念である「自由」を制限し、保護主義を進めた結果、「持てる国」と「持たざる国」の格差が激化、世界がブロック経済化し、その影響で持たざる国はファシズムが台頭してくるのであり、アメリカ経済はニューディール政策の国内インフラ事業で経済的危機を脱したのではなく、その後起こってくるヨーロッパの戦争によって軍事産業、工業などの利益向上によって経済的危機を脱していったのである。

こうした背景からアメリカ経済が冷え込んできたときの特効薬は「戦争」と言う図式が出来上がり、アメリカ経済は周期的戦争経済と呼ぶべきものなのである。

バラク・オバマ大統領はニューディール政策をどれほど勉強したのだろうか、もし正確に勉強したならニューディール政策では経済の復興が無理なことは明白だったはずで、これをグリーンニューディールとした時点で、その背後に別の思惑が無い以上アメリカ経済は立ち直らない。
だが、もしオバマ大統領が今後また再燃するであろうパレスチナ、アフガン、イラク、イランなどでの紛争、戦争を視野に入れてこうした発言をしているとすれば、これほど恐ろしい大統領はいなくなるが、その可能性は低く、彼は恐らくケネディのように偶然に救われることはあっても、計算で世界を動かすことはできないだろう。

そしていずれにしても今後日本は蚊帳の外になることは間違いない。
1月20日大統領の就任演説に対して、麻生首相が世界第1位の経済大国と、第2位の・・・と発言したが、現状で日本を世界第2位の経済大国などと思っている国など1国だっていないだろう。<
また、オバマ大統領は合衆国の大統領であり、その責務は合衆国の利益の為・・・であり、日本はマスコミが扇動するほどオバマ新政権に期待してはいけない。

彼は合衆国の利益の為なら躊躇無く日本に苦難を押し付けるだろうし、その姿勢は昨年どうでもいい麻生総理には会わなかったことでもはっきりしている。
彼は頭が良くて合理的だから「用の無い者」には会わないし、利益の無い国には関心が無いはずで、日本が思っているほど日本を重要視していない。

そしてもう1つ、日本が力を入れている国際連合も、例えば一昨年自衛隊によるインド洋沖の給油法案が、民主党小沢一郎党首の反対で参議院での審議が出来なくなっていた時期、小沢代表の「国連の要請があれば合法とする」とした発言を受けたアメリカが、無理やり国連の要請を取り付け、これに対してロシア、中国は一国の議会の都合で、こうして国連が要請を行うことは遺憾だ・・・としながらもこの要請を通した背景にはアメリカの強い圧力があったからで、アメリカ大統領就任式に合わせて終結させたイスラエルのパレスチナ侵攻も、アメリカ議会のイスラエル支持により、効力を失っていた国連の即時戦闘回避要請など、イスラエルは歯牙にもかけなかった。

国連は第2次世界大戦の終戦処理機構の延長線上にあり、その利益の先は戦勝国にしかないことを覚えておくと良いだろう。
日本はその拠り所として「精神性」や「人道主義」を思っているが、世界は日本ほど老人大国の事なかれではない・・・、中国を見てもそうだ、粉ミルクの偽装をした業者は「死刑」になる。
10億以上の人口があれば、こうしたことは当たり前で、日本は国内にいれば分からないかもしれないが、余りにも優しすぎる。

こんなに弱くては、いずれくる世界の大きな変革の中で流されてしまうだろう。

また人の国の大統領を羨ましそうに指をくわえてみている場合ではなく、新しいアメリカとの新しい仕組みを考える為には、私達国民がもっと自分のことを考え、そして自分の夢のために動かなければならない。
希望は確かに与えられる時もある、しかしその実現は自分がしなければ、救世主もまた救世主になれないのである。

最後に、昨年発生したリーマンブラザースショックの直後、日本銀行は市場のドル不足に対して大量のドルを市場に供給し続けていた。
日本銀行が他国の通貨をこうして市場に流すことなど初めてのことだった。

またこれはFM富山で朝9時前に放送している番組内に、アイバック株式会社の(こざわ・ただひろ)と言う人の論評があるのだが、彼はこう言っていた。

「アメリカが経済危機になったとき、日本はIMF(国際通貨基金)に10兆円の資金を供給し、これによってアメリカ発の世界恐慌は少なくとも「危機」におさまった、日本は世界恐慌を防いだ・・・」

日本はオバマ大統領のように華々しいことは出来ない・・・がしかし誰も見ていないところでこうして世界経済を支えている事だってあるのだ。
こうした日銀の努力、IMFへの資金供給に対してアメリカはこれを無視したし、日本のマスコミも大きく取り上げたところはなかった。
日本の新聞はどこを見て何を書いているのだろうか・・・。

食の安全は政府が保証する

毎年、師走の30日、正月の餅と、寒の最中に食べる切り餅を作るが、この米は勿論自分が作ったもち米であり、決して廃棄米などは入っていない純国産の米が用いられているが、餅は「寒」の最中に作って切り餅にして吊るし、乾燥させると梅雨時期でも火で炙って食べられるし、油で揚げると香ばしい「かき餅」になる。

この際餅に少しだけ甘みを入れて作ると、これがまた後でなんとも言えない風味が出る。

ようやく「寒」も本番、20日から「大寒」に入り、我が家でも切り餅を作った。
師走に作った餅がこの頃までには食べてなくなってしまうからだが、なまこ状にして固まった餅を包丁で薄く切って寒い部屋で吊るして置いて、これを順次下ろしてストーブの上などに置いて焼き、来客にお出しすると、たいそう珍しがってくれるし、喜ばれるのだが、そのため通常は梅雨時期まで・・・と思っていたものが春には無くなってしまうこともある、というか春までには必ず無くなってしまうのである。

餅は切り餅も確かに美味いが、それ以上につき立ての餅は格別で、こうして切り餅を作った時、僅かにつきたての餅をくすね、別の部屋で隠れて食べるのがまた最高なのだが、その時いつも思うことがある。
それはもしこの場面で餅を喉に詰まらせたら、家族の誰にも分からず死んでしまうのだろうな・・・と言うことと、そうして死んだ場合、新聞に○○町の男性、隠れて餅を食べ喉に詰まらせ死亡・・・とか書かれるんだろうな、と言うことだ。

大体餅の場合、食べて喉に詰まらせたらそれは自分の責任だが、おかしなことにこれがマンナンフーズのコンニャクゼリーだと会社の責任になり、政府までもがこの会社に業務改善や広告差し止めなどを勧告することになっている。
だとしたら私が餅を作って誰かにあげて、それで相手が喉に詰まらせ死んでも、私は訴えられるのだろうか。
この辺は何となくおかしいと思う。

私が幼い頃、どこかの店でパンを買ってもたまにカビが生えたものがあり、それは店へ持って行けば交換してくれたし、私や両親もその為に次からその店で物を買わないと言うことは無かった。
食べ物に関しては「自己責任」だったはずである。

それが最終的には政府が保証しなければ・・・などと言うのはどうだろうか・・・・。
昨年コンニャクゼリーはあれほど政府から叩かれながら、その政府農林水産省の太田大臣はカビが生えた偽装米でも「全然健康に問題は無い」と言ったのである。

食べ物と言うのは作って見るとわかるが、本当は命を賭けて探すべきもので、その昔「神農」と言われた者は自分の体で食べられる物とそうでない物を試していったと言われているが、まさにその通りなのだ。
キノコ、薬草、植物の根、これらは食べると死ぬものがあるし、同じものを食べても、例えば「サバ」などは一定量以上に食べ過ぎると味噌煮でも食あたりを起こす。

本人の体調によっては何でも無いものでも食中毒になったりするのだ。
これは富山県、石川県、福井県での話しだが、昨年発生した食中毒で、これまで食中毒の菌として指定されてきたもの以外の菌で食中毒を起こした、原因不明の食中毒事件が数件発生している。

またコンビに弁当、例えば1月20日が賞味期限になっていたとして、これをちょうど1月21日の午前0時に食べたら危ないかと言ったら、全然問題は無いはずであり、そもそもメーカーが指定する賞味期限の根拠はどこにあるかと言ったら、何も無いのである。

パンにカビが生える条件は気温と湿度で違い、もし気温34度、湿度80%なら早ければ2時間後から菌の増殖は始まり、気温10度、湿度30%なら4日後でも無事かも知れないし、防腐剤が入っていれば30日後でもカビは生えない可能性だってある。
これらを一律にくくって48時間以内・・・・などとと言う賞味期限のあり方は、太平洋の海水をコップですくい、それが安全だから太平洋全てが安全です・・・・と言っているようなものである。

世界を見てみるといい、安全な飲料水は全淡水の20%に過ぎないし、食料が足りない地域は年々増加、それは先進国と言われる国の中でも起こり始めている。

私の住んでいるいるところは、元々殆んどの家が米や野菜を作っていたが、現在は私だけになってしまい、賞味期限が切れた「おにぎり」は無残にもこうした元農家だ った人によっても棄てられるのである。
これが本当の豊かさだろうか・・・。

むかし、デパートでは展示会に招待したお客様のために昼食が用意され、それはさすがにデパート外商部の顧客用だから相当豪華な弁当だったが、こうした豪華な弁当でさえ、顧客たちにとっては貧相なものだったのだろう、誰も手に取る者はなく、午後2時になると大部分が棄てられていたが、この弁当を私はよく貰ってきてアパートの住人や近所へ配った。

「食べられなかったら棄ててください」・・・そういって配ったが、みんな後から「いやー、美味かったよ、またどんどん貰ってきてくれ」と喜ばれたもので、そのお陰でタバコ屋、本屋、映画館、雑貨店、お菓子屋さんなどに「ツケ」が利いたものだった。
だが、時々天ぷらは大丈夫だったけど、煮物のシイタケはちょっと来てたな・・・・などと言うこともあった。

食へのスタンス・・・私は今でもそうだが、食べられるかそうでないかは自分が決めることにしている。
そして餅を食べるときは喉に詰まらせないように、自分が注意していて、勿論コンニャクゼリーも自分の責任で食べているので、何かあってもメーカーや政府に責任を問うようなことはしない・・・・と思う。

茶坊主みたいな真似。

田舎に住んでいると、何か集まりがあって出かけて行けば、集まっている人の殆どが自分の父親や母親くらいと言うケースが多い。

そう言う場では何かしら自然に無言の圧力が加わってきて、どうしてもお茶などをお入れしているのが自分になって、ついでに「先生、御無沙汰しております・・・」などとついつお心にも無いお世辞も言っていたりするが、こうした習慣と言うものはなかなか抜け切らないもので、他の割と若い年代が集まっている会合でも、なぜかお茶をお入れしているのが自分になっていたりする。

そして「○○さんの御活躍は本当に私もみならいたいと・・・」などと、ここでもかなり年下の人にお世辞を言っているものだから、同年代の知り合いがいると「お前も結構いい立場なんだから、そんな茶坊主みたいな真似はよせ」と言われる。

だがこのブログの始めの方にも書いたと思うが、私はエレベーターすら待っていられないほどのせっかちだから、黙って座っているのがとても苦手なうえ、何か人からものを貰ったり、何かされたりするとプレッシャーを感じてしまうのだ。

例えそれがお茶1杯でもそう思ってしまうから、いつも自分が先に動くことにしてるし、そもそも確かにお世辞なのだが、その時は心から言葉どおりのことを思ってもいるのだ。

昔やはり駆け出しの頃、こうした会合や会議に出ると、巨匠、先生という感じでみんなドーンとしていて迫力があったし、駆け出しの若造がお茶を入れたくらいでは、言葉一つもないのが普通で、「若い者はどう思う」などと意見を聞かれて、正直に思うことなど話そうものなら「ばか者」と一喝されて終わりだった。

本当のことを言うと私も時々「ばか者」とか言いたいこともあるのだが、つくづく40代と言うのは「損」な年代だったと思う。
若い時には「ばか者」で一蹴され、今度は自分がそうした年代になったら、なぜか昔の巨匠や先生方は私達より更に若い、「こんなの作ってまーす」の女の子や都会から来て「頑張ってまーす」の青年達の感覚が素晴らしい、「お前ら40代は本当に才能がないと言うか、つまらん」で、結局ずっと評価されないままなのである。

その結果、20近くも年が違う若い女の子に私がお茶をお出しして、見るに見かねた同年代の知人が「そんな惨めな真似はよせ」となるのだが、残念ながら私がそうしているのは卑屈になっているからではないのだ。

若い時はたまに人の夢や希望が、自分の希望と重なったように見えたこともあったが、
こうした年齢になってしまうと、人の夢や希望と重なるものがなく、特にこうして団体で「業界の発展」や「地域経済への貢献」を語っても、自分とは噛みあわなくなってきてしまった。

私は「私利私欲」のために働いているのであって、地域や社会への貢献は利益を出して税金を払うことだと思うし、まず考えなければならないのは、家族とスタッフの幸せであって、それが満たされて初めて地域や社会への貢献を考えるべきだと思っているので、こうした組織内での立場や地位には関心がないばかりか、もう崩壊すべき時が来ているように思っている。

だから「楽しんで頂けてなんぼ、笑っていただけてなんぼ、の世界、お笑い芸人をやっているのだが、これはある種の「ええじゃないか」でもある。
どうせ壊れて行く、終わってしまうものなら面白おかしくそうなって行くのも楽しいかも知れないと思っているのだ。

そして他の者はともかく、私と私の関係者だけはこの世界で生き残って見せる、チャンスがあったら、必ずまた世界を狙ってやる。そう言う傲慢な野心があるからこそ、笑ってやれる茶坊主なのだ。

ちなみに私の仕事場では、勿論うら若き?女性スタッフがいるのだが、大概の人はここへ訪れると、当然彼女がお茶を入れてくれるものだと思っているが、実は40男の私が汚い手でお茶をお出ししている。

どうしてかと言うと、彼女は仕事をしに来ているからで、お茶くみ、掃除、雑用は代表の私がすべきことだからだが、それ以前に「ああ、お茶をお出しして」と偉そうに若い者を使う、そう言う態度が大嫌いだからだ。

もしかしたら、生まれついた時から茶坊主の才能があったのかも知れない・・・・・。






もう、1人でも大丈夫さ・・・

春5月、暖かい陽射しの日だった。
車を出そうと車庫を開けた私の足元へ、転がりこむように走ってきたその白い塊は、勢い良く私の足にぶつかり、横になってコンクリートに頭をこすり付けるようにして嬉しそうにしていた。

白い猫・・・・。家は県道沿いでしかもこの田舎具合、猫を棄てるには持って来いの立地条件だが、その為これまでにも何度と無く棄てられた猫を飼っていたし、農家で大量の米を保管している事情もあって、幼い頃から取り合えず猫は大歓迎の家だったので、さっそく両手で抱いて顔を近づけた私は一瞬にして言葉を失った。

この猫には両目が無かったのである。
まるでくり抜いたように眼球そのものが無く、まぶたを開いても肉壁しか無いのだった。
恐らく棄てた人もこうしたことから棄てていったのだろうが、こうなるとがぜん燃えてしまう私はなにが何でもこの猫を飼うことに決め、家族も可愛そうだと言うことでこの猫は家族の一員に加わった。

本当にかわいい猫だった。
人を疑うことを知らず、呼べば全力で走ってきてぶつかって止まり、えさの時間が遅いときは背中にコンコンと2度ほど頭をぶつけて知らせ、極端に心霊現象を恐がる私が夜一人で仕事していると、必ずやってきてストーブの前で横になり、時々私の仕事振りを聞き耳を立てて聞いていた。

私はこの猫のお陰で夜遅くなっても安心して仕事ができたのだった。
ただ、やはり両目のことは来る人みんな「これはどうしたんだ」と言い、かわいそうだと言う人と気味が悪いと言う人に分かれたが、この猫が本当に優しい奴だと分かってきていた私にとっては、もはや目が有ろうが無かろうが関係の無いことだった。

そんなある日、家へ新興宗教の勧誘に来た一人の男性がいたが、ちょうどまだその頃元気だった祖母が相手をしていて、何か様子が変だったので行って見ると、祖母は大変な勢いで怒っていた。
男性が話していると、そこへ猫が顔を出したらしく、猫の目が無いことから「これは呪いの猫だ、家に災いをもたらす」・・・・そう祖母に告げたらしい。

祖母は明治の女で、私とは違って?とても気性が荒く、特にこの手の話には烈火の如く反応することを知らなかったこの男性には気の毒なことになった。
「たかが猫一匹で傾く家なら、始めからそんなものは見込みがなかったんだ、この猫で家が傾くならそれで本望だ」と言うような事を言っていた。

祖母の余りの勢いに、たじたじになった振興宗教の男性は悪態をついて出て行ったが、私はやはりこの人の孫で良かったな・・・と思ったものだ。

この猫は目が見えないにも関わらず、呼べば障害物にぶつかる事もなく走ってきた、声の調子で人の心を理解し、そして何より誰か他の者を助けよう、その者の力になろうとする心があったように思う。
いつも人に頭をこすり付けてゴロゴロと喉を鳴らしていたが、そうした行動の中から私はこの猫に「心」を見ていた。

だが、別れは意外に早くやってきてしまった。
家へ来て2年経った頃、この猫は突然体が弱ってきて、餌も余り食べなくなってしまったので、獣医さんに診てもらいに行ったら、「よく2年も生きられたな」と言われたのだった。

もともと白い猫は奇形や障害が起こり易くて、この猫もそうした理由で始めから目が無い状態で生まれてきたのだろう、そしてこうした障害の場合は生まれて数ヶ月しか生きられないのが普通だが、良くぞここまで・・・・と言う話だった。
これは助けられない、ある意味この猫の寿命と言うべきものだ・・・・と言われた。

私は猫を抱いて車に乗せ家へ連れて帰り、いつも彼が寝転んでいた仕事場の指定席で寝かせ、時々綿棒に水を浸して飲ませながら仕事をしていたが、朝方何となくいつも動いている耳が動かなくなったので、水をやろうとして近づいても顔を上げない、なみだ目になりながら頭を撫でたがすでに彼は死んでいた。

私は身近な者、親しい者が死んだとき「ありがとうございました」と言うことに決めているのだが、このときは彼の出生から始まっての苦難を思い、「よく頑張った」も付け加え、もしかしたら生き返ることが・・・・などと思って一日待ったが、そうはならなかったので、翌日家の近くの川沿いの田んぼ、その土手に穴を掘って埋め、少し大きめの石を乗せて墓碑にし、花を飾った。

数日後、すでに彼の特等席に置いてあった座布団も洗濯し片付けてしまった頃だが、午前中、仕事場で焦って仕事していた私は、入り口の戸が2回押されたような音がしたので「シロか・・・」と思って戸を開け、また仕事に戻ったが、しばらくして振り返ると特等席がガラーンとしているのを見て、彼がいなくなったことを思い出した。

猫はいつもここへ来ると2回、頭で戸を押して私に知らせていた、いつもニャーンとは鳴かなかったのである。
もしかしたら風の音だったかも知れないが、何となく猫が心配して様子を見に来たのかな・・・多分夜に来ると恐がるので午前中にきたんだなと思ってしまった。

「もう、一人でも大丈夫さ、恐がったりしない・・・だからお前はお前自身のことを考えるんだ・・・」

あれからかなりの年月が過ぎ去って、祖母も死んでしまったし、私も年を重ねてしまった。
でも今でも仕事場の戸が風で押された音がすると、一瞬戸を開けようとして振り返る私がいる。



自分を手本としない・・・。

少し前のことだが、ある女流ピアニストの話を聞く機会があって、多分アルゼンチンの「大家」と呼ばれるピアニストだったと思うが、彼女が面白い話をしていた。

それによると「自分の演奏を手本にしない」と言うことだった。

んー、この言葉はとてもいい・・・・。
人間と言う者は弱いもので、例えば私のように物作りをしている、また作品活動をしている者は、どうしても1度成功するとそこから出られなくなる。

偶然に良い物ができた、それが人から評価を受けた、そうすると人の評価が恐くて、やはり系統的に同じ物を作ってしまうが、人の暮らしや感性、文化とか言うものはある種の「流れ」であり止まってはいないため、人や社会に追いついて行かなくなる。

当然そこから苦悩が始まるのだが、日本の作家、これは美術、文芸、伝統すべてそうだが、「実力」の世界では無く、「人付き合い」の世界なので、所属している団体や派閥の人間関係を壊さなければ、何とか食べて行ける世界でもあり、これに行政の地域起こしなどが加われば、それなりの地位を築くことも可能だ。

20年前、某○展の入選は300万円、特選は600万円などと言う金額で、派閥ごとの順番、持ち回りでその順位が決められていたとされていたが、これは今も変わってはいないだろうし、伝統○○展も恐らく同じだろう。

また自費で本を出版し、それを足がかりに自分を売り込んでいく方式もそうだが、メディア戦略でがんがんマスメディアに露出し、それで有名になってと言う方式の者もいるが、いずれにせよ彼らの「才能」は「創造」ではなく「世渡り」の才能と言うことができる。

ただ、これはこれで特に悪いことではなく、過去の著名な画家たちが、パトロンのお陰で作品活動をできた事から見ても必要な才能と言うべきものだが、いかんせん作品や物が、周囲の小物によって作品になっているようなもので、そこにあるのは「言葉による感動」「その人の人間性に対する感動」・・・つまり演出された幻想に対する「感動」でしかないため、「本物」の前では何も言えなくなる。

そしてこうした経緯から彼らは「本物」を避けることになっていき、実は彼らが言う「人との出会い」もまた「利益をもたらしてくれる人との出会い」であるため、それは謙虚さに見せかけられた「カモ探し」でしかなくなるが、ここまでくると自分が自己顕示欲の塊、人間性を売り物にしていながら、その間逆をやっていることに気がつかなくなる。

その結果、1度成功した過去の栄光を大切にし、その作品は自分でなければできない、今まで誰もやったことが無い、自分のオリジナルだ・・・と言う主張をしていくが、ひどい例では、過去に作られた物のイミテーションを作りながら「この作品は原作者を越えている」と自分で主張する者までいて、その原作者は誰もが知っている大家だったりする。

だが、残念ながら人類は、これまでの歴史の中で全ての表現、技法をすでに出しつくしている。
つまりオリジナルはもう存在していないのだ。
日本で言えば。400年前に全部の技法、表現が完成されていて、それ以後は1部改良か改悪でしかない。

パブロ・ピカソはギリシャ・ミケーネの遺跡にそのヒントがあったのではないかと言われているし、ヨーロッパ印象派の画家は日本の写楽や北斎にそのルーツを見る事ができる。
それにも関わらず、自身オリジナル、自分しかできないなどと言う表現はただの「無知」にしかならないのだが、地方ではこうした言い方が通ってしまうのは「本物」が黙 っているからで、なぜ「本物」が黙っているかと言えば、本物だからだ。

何も説明する必要が無いから黙っているし、煌びやかな偽者と関わりあうことを嫌うからだが、例えば農業でも、本当に米を作っている人は「講演」なんかしている時間はないし、仕事でやっていることを自慢げに人に語ることはないのである。
だから米を作っていない者ほど米つくりを語るのである。

アルゼンチンの女流ピアニストの言葉は言いかえれば「恐れを忘れるな」と言うこと「自分が最高は止まったことだ」と言うことを意味している。
自分が手本じゃ、もうおしまいだよ・・・・・と言っているのである。

少なくとも芸術、美術を志した者は常に自分の力を疑わなければならないし、いつでもチャレンジしていかなければ先は無いのであって、それは自分が作ったものも同じなのだ。
壊して更なる可能性、もっと広い荒野を目指さないとそこに言葉を必要としない「感動」などないのである。
そして、これは何も芸術や物作りだけに限った事ではなく、サービス業、金融、店員、レジのパートに至るまで同じことだ。

「自分を手本としない」この誇り高さと自信、最近どこでもそうだが、何かの個展を見に行くと、製作者はとても雄弁で愛想が良いか、反対に素朴を売りにしているかのどちらかだが、「自分の作品を大したことは無い」と言う製作者が少なくなった。

物選びの極意・・・・それは自分が好きか嫌いかだ。
評論家の意見、ギャラリーの意見、製作者の説明などは、本来聞かなくても事は足りるのだが・・・。










言葉は無力だ・・・。

人はせっかく生まれて来たのに、なぜこうも戦い、その命を奪わないといけないのだろうか。

2009年、1月13日、イスラエル地上部隊はついにパレスチナ暫定自治区「ガザ」の1部に侵攻した。
これは国際法に順ずる協定に対する違反であり、事実上の「侵略」だ。
こうしたイスラエルの行動に対して、国連人権理事会はイスラエルを強く抗議する声明を賛成多数で可決したが、イスラエルは完全に無視している。

パレスチナ側の死者はすに900人を超えているが、アメリカ議会は下院、上院ともイスラエルを指示する決議を採択している。

一昨年、インド洋での給油法案可決の条件で民主党小沢代表が「国連」の要請を・・・としたその国連など、本当の戦争ではこの程度のものでしかない、何も役に立たないのである。

事の起こりは1945年以降、第2次世界大戦の混乱に乗じ、民族2000年の悲願だったユダヤ人によるパレスチナの占領と、イスラエルの建国が実現に移されたことにその端を発しているが、1947年には国連がパレスチナ分割を決議、ついで1948年、これを受けてイスラエルは独立国家となった。
そして当然の如く、それまでそこに住んでいたパレスチナ民族と、イスラエルの際限の無い殺し合いの歴史が始まっていくのである。

だが不思議だと思わないだろうか、どうしてあの小さな国をアメリカやソビエト(現在はロシア)、その他ヨーロッパ諸国もこれほどまでに養護するのだろう。
勿論ナチスによる虐殺に対する民族的同情もあっただろうが、それ以上に世界的なユダヤ支配が存在しているからだ。
ユダヤ資本、人脈はアメリカやヨーロッパで絶大な力を持っていて、「フリーメーソン」(ユダヤ石工組合)に代表されるような、影の国際的組織までその存在が疑われるほどなのだが、こうした背景からアメリカは何があってもイスラエル支持しか選択肢が無かった。

しかしオバマ次期大統領の出現により、パレスチナ、アラブ諸国、しいてはイスラム教との融和政策が始まりそうな気配に、イスラエルの焦りがあり、絶対裏切らないブッシュ政権下で「侵攻」を実現したのだが、オバマ大統領はこうした背景からも中東政策を誤ると、自国内部、イスラム政権諸国そのどちらからも命を狙われる危険性があるのだ。

またイスラエルがこうした侵攻を強行するのは「オルメルト政権」がもうすぐ迎える選挙、その支持を集めるためと言う見方があり、イスラエル国内では度重なる「ハマス」の攻撃に強硬論が渦巻き、オルメルト政権はこうした国民の声を意識して軍事作戦を展開しているとも言われている。
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そしてこうしたイスラエルに対抗しているパレスチナ・「ハマス」だが、アラビア語でイスラム抵抗運動の頭文字を取った、パレスチナのイスラム教、スンニ派の原理主義組織を言うが、こうした組織はもともとPLO(パレスチナ解放機構)の傘下にあったものだが、アラファト議長の死後、それまでもあったインティファーダ(パレスチナ内部に置ける住民運動指導体制やイスラエルに対する住民抵抗運動)にハマスが少しずつ関与するようになり、ついにはアラファト議長から政権を引き継いだアッバス議長が、こうした民族運動や小さな部族団体からの支持を失ってしまった。

もともとアラファトの時から不安定だったパレスチナの政治主導体制は、それでも完全に交渉相手を失うよりは良いだろう、という周囲の配慮で成り立っていたが、アッバス政権になって穏健的、イスラエルよりの政策がパレスチナ民族の指示を失い、ハマスはアラファトが率い、アッバスが受け継いだ勢力「ファタハ」に対しても反発し、これをパレスチナ民族は支持した。
そして「ハマス」の精神は徹底抗戦である。

侵略された国土を奪回すべく「聖戦」を戦っているのであり、こうした考えからイスラエルにミサイル攻撃を加え、これをアラブ諸国全体が支えているのである。

だが、国際社会は「ハマス」をパレスチナの政治的組織として認めていない。
国際社会はアラファトが率いたPLO、ファタハを国連の順加盟国扱いしているが、現在この議長であるアッバスは、事実上ハマスとの内部分裂闘争に負け、パレスチナの統治能力が無いのだ。

だからイスラエルは交渉相手のいない戦争をしているのだが、ハマスに影響力のあるエジプトなどアラブ諸国は、今後こうした紛争が拡大し、また中東戦争となることを望んではいない。
またイスラエルも自国が自由を主張し、他国の自由を認めない政策を続ける事は困難で、そろそろ紛争解決に向けて時期を見計らっているだろう。

多くの死者を出し、まだ終わらない戦いが続いているが、この両国国民に「闘いをやめろ」と私は言えない。
親を殺され、妻や子供を殺され、自身も傷を負った者に、その経験の無い者が何を言えるだろう。
そしてこうした憎しみによる殺し合いに対して言葉は無力だ。

数年前、「言葉は無力だ、でも私たちは言葉を信じている」と言うフレーズのコマーシャルを出したのは「朝日新聞」だが、同紙は第2次世界大戦時、軍部の政策に協力的だったことから、戦後どちらかと言えば社会主義、共産系、左側に近い視点の紙面構成が多かったが、最近ではまた政府よりの紙面構成が目立っている。
その反対に読売新聞、「ナベツネ」会長がこの間面白いことを言っていた。
自分は靖国神社へは入れない、外で参拝しているのだが、それは多くの戦友たちが死んで自分だけが生き残った、申し訳なくて・・・と言うことだった。

政府を挙げて「日本は悪い事をした国なんだ」としか言わせない国に置いて、国家として、国民としての誇りをもう1度考え直すには、「無礼者」と怒るこの「ナベツネ」さんの言葉の方が、少し重く聞こえてくる気がする・・・。

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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