2009/01/30
寝たきりの神様
祖母が元気な頃いつも和服で、歩くときは杖をついていたが目が悪く、光が当たり過ぎないようにサングラスをしていた。このサングラスは私が祖母に送ったもので、レイバンのグレーバージョン、丸縁だったが、こうした出で立ちで外を歩いていると、私のところへ訪問してきた人が大体こう言ったものだ。「お婆さんは元女優か、なんかだったんですか・・・」
こうした問いに始めは否定していたが、だんだん面倒臭くなってきた私は女優と言えばそう、文壇と言えばそうで相手が思うようにして頂いていたが、確かに和服でサングラス、杖をついていたが元々社交的な祖母は、ただの田舎の婆さんにしてはかなりモダンだった。
この頃独身で向かうところ敵なしの私は、祖母を病院へ連れて行く役割をしていたのだが、高級スポーツカーを乗り回し、祖母の送迎もこの車だったことから、病院では若い男にスポーツカーで送らせる祖母は、やはり「ただ者ではない」と言うことになっていたらしい。
だがそれは何でもない骨折から始まった。
冬、隣の家へ遊びに行っていて、その軒先の凍結した通路で足を滑らせて転倒した祖母は足を骨折、このことがきっかけで、それから後もあちこち骨折を繰り返し、ついには這うことは出来ても歩くことは出来なくなってしまった。
食事は作って運び、トイレは簡易便器を室内に取り付けた生活が始まったが、それも2年ほどしたら足が完全に弱ってしまい、骨粗鬆症から半分寝たきりになってしまった。
これからが大変だった。
始め施設か病院で・・・と思ったのだが、祖母はこれを拒否し、家族も近くの施設や病院では必ず知り合いがいて、病状や風評がどこからともなく漏れてしまうとして、施設入りには難色だった。
田舎の狭い社会では病院や施設には必ず知り合いが勤務していることになり、それは同級生や近所の子息、親戚と言った具合で、病院などは皆自分が住んでいる市町村の隣の病院へ行くのは、例えば癌などだと、本人が告知されていない間から、周囲が皆知っていると言う事態が起こってくるからだが、この他に老人施設入所には順番待ちが当たり前、それが嫌なら有力者に金を払って・・・と言う話もまことしやかなものがあった。
結局祖母は自宅介護になったが、私の父母は建設会社の管理者をしていたことから、事実上介護はこの頃になると結婚していた私と妻が引き受けることになったのだった。
あさ、昼、晩と食事を作り運ぶのだが、我がまま、頑固、愚痴っぽいを地で行く祖母は食事のたびに「あれはマズイ、これは食べられない」と言い、排泄でもオムツをはずす時のやり方が粗暴だと文句を言った。
気持ちは分からないでもなかった、自分で自分の体のことが出来ない、人の世話になることが一番嫌いだった祖母は、そうした歯がゆさから私たちに当たっていたのは分かっていた。
だが晩年になるとそれは更にエスカレートし、夜中無理やり這って玄関へ出て動けなくなったり、「こんなもの食べれるか」と妻がわざわざ希望を聞いて作った食事を突き返したり、「痛い、痛い」と夜中に騒ぐなど、私たちの家庭生活までが大きくバランスを崩して行った。
当時仕事しているときに何度も妻が「家を出て行く」と言って離婚届を持ってきたが、介護に疲れ、それでも容赦ない祖母を私は何度叩こうと思ったか知れない、何度死んでくれたらと思ったか知れなかった。
容姿ない言葉は看護士にも及び、週1回訪問してくれる看護士にも「薬が効かない、お前の注射は下手だから他の者を連れて来い」と言う調子で、帰り際靴を履いて顔を上げた女性看護士が泣いていたこともあった。
私は看護士に「すみません」と謝ることしかでき無かったのだが、看護士や医師も辛かったと思う。
家族は疲労から気力や希望を失い、祖母はこうした経緯からどんどん精神的に不安定になっていった。
「こんなことがいつまで続くんだろう・・・もしかしたら祖母より先に私達が先に死ぬんじゃないか・・・」などと思うようになっていった。
だが祖母は時折こうした中でも優しいこともあった。
妻に「いつも大変だからこれで何かおいしいものでも食べなさい」と小遣いをくれたり、私に「仕事の邪魔をしてすまない」と言うときもあったが、ああこれで祖母も少しは分かってくれたんだな、などと思っていると夜にはまた大騒ぎが始まったものだった。
それからしばらくして祖母は言葉が少なくなり、食事も余り食べなくなった。
元々痩せた人だったが、その痩せ方は激しさを増して、骨と皮だけになり、時々訪れる見舞い客にも、言葉をかけれる力さえなくなっていった。
毎週来てくれるかかりつけの医師が、そろそろかも知れません・・・と私達に告げたが、その頃になると祖母は金魚のように口を開けて、ただ呼吸しているだけだった。
8月16日朝、私達と老医師、看護士、本家の当主が見守る中、祖母の呼吸は止まった。
医師は落ち着いて脈を計り、閉じた目を開かせて瞳孔を確認し、「ご臨終です」と言い、しばらくしてから祖母に向かい「ご苦労さまでした」とお辞儀した。
91歳と言う祖母の旅はこうして終わった。
本家から分家した祖父の妻は子供と一緒に死んでしまい、その後添えとして嫁いだ祖母、戦争を挟んで祖父が怪我を負って働けなくなり、生活に追われながらも前妻とその子供の供養を忘れたことはなく、その縁者を気にかけ、行方不明の甥を最後まで心配していた偉大な人だった。
私達残った家族はなぜか気が抜けたようになってしまった。
もうこれで介護の必要は無くなった、7年にも及ぶあの苦難の日々はもう終わったのだが、くしくもあの泣いていた女性看護士の言葉が私たちの気持ちを代弁していた。「なんか、寂しくなりますね」
そうだ、あれほど苦労し、時には憎み、死んでくれとさえ思った祖母だが、この空しさ、はかなさは何だろう・・・。
確かに心の重い気持ちはとれた、しかしこれまでそれを中心に生きて来たし生活してきた者にとって、何か大きなものが無くなったことは確かだった。
私達は祖母のお陰で全力で生きてきたのだった・・、具合の悪い祖母は家族が力を合わせることの大切さを私たちに教えてくれていたのだ。 私達は祖母を中心に、この時を全力で生きることが出来たのだった。
祖母は「寝たきりの神様」だったのだ。
もし自分が死に方を選べるとしたら・・・,西行の歌「願わくば春、桜の木のしたで眠るように」・・・と行きたいところだが、実は何かと闘い続け敗北し、泥水を飲んで死ぬのがお似合いか・・・。
「ばあちゃん、何度か辛くて・・死んでくれと思ったことがあった・・・許してくれ・・」