調査名目の特産品

1970年頃まで、地方の特定の地域ではカレーライスの肉が鯨肉だったところがあった。
この頃鯨肉は豆腐一丁くらいの塊で新聞紙に包まれ、行商の魚売りの人達が売っていたケースもあるが、価格はとても安く当時良質な蛋白源の無い日本には貴重な水産資源だった。

だが、現実にこの鯨肉が日本の食卓から姿を消したのはいつかと言うと、1987年3月から・・・と言うことになろうか。
この年日本は南氷洋の商業捕鯨を中止しているが、1988年には沿岸の商業捕鯨も禁止したからである。

国際捕鯨委員会(IWC) は1985年に母船式捕鯨禁止を採択、翌1986年には沿岸捕鯨も禁止する決議が採択されたが、日本はこれに反対、異議の申し立てをし捕鯨を続行したが、その申し立て期間が2年しかなかったため、いずれも2年遅れでIWC採択決議を受け入れたのである。
こうして日本の食卓から鯨肉が消えたのだが、、国際捕鯨委員会はもともと鯨を捕獲する国々の機関だった。

この時期日本はまだ非加盟だが、1931年ジュネーブで最初の捕鯨取り決めが行われたことに端を発し、1946年には国際捕鯨取締条約がワシントンで開かれ、無秩序な捕鯨に一定の枠組みを設けたのだが、終戦直後だった日本はこの条約には参加できず、GHQマッカーサーが捕鯨業認可区域、通称マッカーサーラインを設定して、戦後混乱期、蛋白源の少ない日本の食糧事情を考慮した捕鯨枠を保護したのである。

こうした背景から日本の商業捕鯨はアメリカのお墨付き・・・と言う意識が日本にはあって、その後1951年、日本がこの国際捕鯨取締条約に加盟してからも、日本の捕鯨はその枠が保護された状態だった。
ところが、世界的な「公害」問題が発生し始めた1972年、国連の人間環境会議で10年間の商業捕鯨緊急一時停止宣言「モラトリアム」が決議されたのを契機に、この国際捕鯨委員会に次から次へと反捕鯨国が加盟し、37の加盟国の内、捕鯨国は日本を含めた3国しかない状態となり、一挙に「反捕鯨」組織となったのである。

日本はこと捕鯨に関しては首尾一貫強行姿勢をとってきたが、国際的な反捕鯨の流れの中で、せめて調査捕鯨だけでもとアイスランドがアメリカと2国間協議で調査捕鯨の容認を取り付けると、日本もこれに追随、しかしアメリカは日本のこうした態度に対日制裁を発表する。
その後、捕鯨は調査名目で年間捕獲数を決めてしぶしぶ認めるが、商業捕鯨は一切禁止するとした流れが出来てしまい、こうしたことに反発したアイスランドは1992年IWCを脱退、ノルウェーもIWC決議を無視して1993年から商業捕鯨を再開したが、日本は留まっている。

どうだろうか・・・現在でも加盟70国のうち、捕鯨国が3国しかない国際捕鯨委員会、IWCの科学委員会では1992年南氷洋で、今後5年間で2000頭のミンク鯨が捕獲可能とされながら、同じ総会で捕鯨の全面禁止が採択されている。
また2006年の年次総会では商業捕鯨の一時禁止措置の撤廃などをうたった「セントキッツ・アンド・ネビス宣言」が賛成多数で採決(法的拘束力がない)されているが、未だに商業捕鯨の窓は閉じられたまま、僅かに認められた調査捕鯨でも、昨年日本の調査捕鯨船が受けた環境団体活動家たちのあの妨害行動である。

欧米の価値観が絶対的なものと言う態度は、こうして国際社会の中でいろんな問題を発生させている。
一つは宗教観、イスラム教の価値観を認めなかったブッシュ前アメリカ大統領の政策はどれほど国際社会を乱したか、また捕鯨で言えば、牛や豚は食料にしていながら、鯨は知性のある生物だ・・・と言う独善的な価値観は日本人にはなかなか受け入れられないだろう。

そしてここからは個人的な意見だが、私は鯨の肉が好きではなかった。
どれだけ水に付けて血抜きをしても独特の生臭さがあり、とても美味しいとは思えなかった。
それがなぜかこの頃、地域起しで「特産品」、懐かしい味で好評、と言う風潮があるのには少々疑問を持った。
調査捕鯨しかしていないのに、何処かの特産品であることは不可能なはずで、その流通量も限られているが、何故こうした表記ができるのか、また「家の鯨肉は新鮮で・・・」と言う言い方も調査捕鯨の払い下げしかないはずなのにおかしい・・・。

むかしこの地方では鯨肉が食べられていた・・・と言うなら、そうした地域は日本の殆どの地域でそうだし、本当のところは貧しくて牛や豚が食べられなかった、その代用品として流通した肉と言う背景もある。(勿論江戸時代から鯨の沿岸捕鯨をしていた地域もあるが・・・それは限られている〉

牛や豚、その他こんなに多くの食べ物が溢れる時代、秀吉ではあるまいし、太閤になって瓜売りをして懐かしがるようなことはどうか・・・と思うが・・・。

農協無残物語

「んーっと・・・そこに親戚とその家族構成、特に結婚間近の親戚や結婚直後の人がいたら二重丸にしといてね」
「それから一応保険はまず最初、自分と家族の保険を切り替えて・・・と、それを契約第1号ってことでね」

就職先の無い田舎で「農協」と言えばある種のエリート職でもあったが、口では農家の皆さんの・・・と言いながらその実態は農家パラサイト状態のこの組織は、まず就職するときから「コネクション」が重要なポイントで、血縁親族を頼って「どうか家の息子を・・・」または「家の娘を・・・」から始まるが、就職してからがまた大変だった。

少し話はずれるが、皆さんの中で生命保険会社の内部を見たことがある人はいるだろうか、大概保険会社は担当者がやってくるか、最近では通販だが、その会社へ行ってみると仰天だ、壁には成績表が大きくかかり、各自の営業成績が棒グラフになっていて、壁には「今日を闘わぬ者に明日はない」とか「やがて、やがての末路に結果はない」など非常に怖い標語がかかっていて、顧客の前では優しそうな勧誘員もここでは目が釣りあがって、派手なスーツに化粧バッチリのおば様・・もとい、お姉さまたちがこぶしを振り上げているのである。

この生命保険の保険勧誘システムは、とにかく新人の勧誘員を引き入れることから始まり、その新人の親戚縁者、友人知人の全てを自社の保険に切り替えさせ、最後に何も顧客がいなくなったら、成績が下がっていられなくなるような形になっている。

つまり個人の人的財産を吸い尽くしながら、発展していくのが生命保険の仕組みなのだが、近年米の販売が自由化されてきた地方の農協では、遅ればせながらこうした生命保険会社のシステムを導入し始めていて、冒頭の場面は各支所へ配属されたその日、新人農協マンが最初にやらされる業務だ。

またこの頃の農協は金のためなら・・・いや言い間違えた、顧客の為なら何でも売る組織になって、健康器具から酒、タバコ、車にガソリン、家電製品、洋服の販売から掛け軸の修理までやっていて、その殆どがそれぞれの農協職員に営業ノルマとして販売が課せられている。
このノルマは厳しいもので、例えガソリンスタンドのアルバイトでも、農協系列なら営業ノルマがあり、大体可愛そうに思った親などが年金をはたいて買っていたりするのだ。

これらの中でも最も収益が高いのは「金」を扱うことで、金融業務、保険業務は現在農協の主軸業務だが、葬祭事業がこれに追随しているか・・・何せ全ての納入商品に販売手数料がかけられる葬祭事業はきっといい商売になっているだろう。
その反面、以前までは政府や行政から来る補助金を一手に引き受け、農家に安い金を払って、これら補助金を高い手数料として農家から取り上げる仕組みがあって、米や野菜を扱ってもウマミがあったが、米の自由化でこれらから収益が上がりにくくなった為、現在の農協は農業生産物に関しては政府買い上げの代理店に過ぎない態度になっている。
つまり「まあ、米も扱いますけど・・」と言う感じになってきているのだが、化学肥料や農業用機械の販売には力が入っている。

さてこうして農協の各支所へ配属された新人達だが、この採用には試用期間があり、例えば半年後、一定のノルマが達成できていない新人はここで支所業務から外され、ガソリンスタンドや、配送業務などに回されることになっていて、これを裁定するのが所長なのだが、この所長にも上からの裁定がある。

せっかく入った農協だが、この時点で新人は辞めていく場合が多い。
考えてみれば酷い話だが、高校を卒業した、または大学を出て田舎へ帰り勤め始めて、家族や親戚そのまた親戚と頼って保険を集めてくるのだが、これは昼間の窓口業務が終わって夜にやらねばならず、まあ親戚や知人の息子か娘なら仕方なく、皆保険に入るのである。
何ともいびつな営業だが、こうした販売は保険だけではなく、家電製品、「家の○」などの月刊誌、貯金、ビールまであるのだ。

私はしばらくではあるが、営業の世界にいたこともあって、現在でも営業は仕事の半分を占めているのだが、こうした農協のようなシステムの営業では絶対やっていく自信など無い。
去年4月、地元有力者を頼んで専門学校を終えた息子を農協へ入れた父親、この人は私の友人なのだが、彼の息子は10月頃、保険勧誘の成績が振るわず、ガソリンスタンドへ配属変えになったが、その後人間不信から引きこもり状態になり、退職した。

こんなことなら始めからガソリンスタンドに勤務していれば、少なくとも保険勧誘などしなくて良かっただろうし、入ったときにはこうした制度になっていることを知らず、銀行員のように窓口業務をしていればいいのか・・・などと思っていたこの友人の息子にとっては辛い結果となってしまった。

後日、まあ取り合えず挨拶に行こうと、この友人は農協へと顔を出し所長と会ったが、所長は「我々も上から成績が上がらないとうるさく言われるもので・・・」と答え、終始低姿勢だったと言う。

派遣切りで、農業や林業、漁業への転身を考えている人もいると思うが、こうした産業は現在人件費を無視して成り立っているし、新しいやり方でこうした産業を変えよう・・・と言っている地域起こしの団体や個人は凡そだが、その地域では余り高い評価が得られていない場合が多い。

仕事は大変だし、生きていくことも大変だが、どんな仕事にも光と影がある・・。

最近こうした傾向が強くなってなっているが、この話もフィクションと言うことでお願いしたい・・・。

長い間、ご苦労様でした。

この間長く取引がある会社の社長が家を訪れたとき、業界の全国理事長もしている彼が「やー本当にひどい時代になった」と言うので、どうしたのか訪ねた私にこんな話をした。

何でも会員の会社が、それまで製品を納入していた某コ○コーラへ、材料も値上がりしたので少し価格を上げさせて貰えないか、とわざわざ交渉に行ったらしいのだが、コ○コーラの担当者は「分かりました、少し考えさせてください」と言うことになり、自分の会社へ帰ったのだが、その交渉に行ったのが午前11時頃、やがて午後3時頃1枚のファックスが届く。
「長い間、ご苦労様でした」とそこには書いてあり、それで30年も製品を納入していたのに取引が終わりになった、と言うのである。

またこれは別の洋菓子店の店主、彼は比較的低価格のお菓子を作っていて、こうした不景気でも忙しくしているのだが、アルバイトの若い女の子が忙しい時間になっても出てこない、仕方ないので電話したら留守電になっていた。
おかしいな・・・と思っているところへやはり1枚のファックスが届き、そこには「今日でやめまーす」と書いてあったというのだ。

いやはや何ともな時代・・・と言うか人達である。
普通こうした場合は少なくとも面会に来てことの次第を話すのが妥当ではないか・・。
それが無理ならせめて電話でもいい、一言生の声があってしかるべしと思うのは私だけだろうか・・・。
同じような話は知り合いの銀行員もしていたが、不景気になるとローンなどの返済が遅れることが増え、当然のことながらそれには督促をするが、それでも返済は延ばされ何の連絡もない、電話すれば「忘れてた」ぐらいしか返ってこないのだが、本来金を借りていて返済が遅れる場合は、返済する側が先に連絡を入れるべきではないか・・。

今の日本の不景気は基本的にはアメリカの不景気が影響しているが、ことの本質は先の建築基準法の改悪と、消費者金融規制法にあることは間違いない。
建築基準法が厳しくなってから住宅着工件数は低下したし、サラ金や「街金」といった消費者金融の規制は中小企業、零細企業の資金繰りを停止させてしまった。

例えトヨタや日産が悪くても、こうした中小零細企業が何とかなっていれば、ここまでの景気の落ち込みはなかったはずなのだが、こうした背景と現在の日本の中途半端な姿勢、政府のおちゃらけ振りから、日本全体が「どうでもいい」感じになってしまっているのではないか、そしてこうしたことが積み重なって、今まであった「礼儀」とか「思いやり」「感謝」と言ったものの中身が薄くなっているように思うのである。

日本はもっと「礼儀」正しい国だった。
領土は周辺諸国から侵害されながら放置し、その割にはソマリアの海賊は退治に行く、日本国憲法はきれいな憲法だが、それを担保しているのはアメリカ、そのアメリカは日本にある基地の使用料は払っていない、ロシアはこうしたアメリカに対抗しようとしている、北朝鮮は援助欲しさにミサイルを触っている、国内政治は完全に停滞、経済見通しは全くなし・・・。

麻生さんが無理なら次の総理でもいい、こうした日本が抱える根本的な問題に道筋をつけない限り、日本はいつまでも不安定だ。

そしてこうした解決が出来ない問題を放置すると、その国民の基本的なルールや礼儀、慣習、心情と言うものが犯されてくる、その結果希望を失ってしまうのである。

また評論家や大学の先生は少なくとも、話をしたら最後、自分なりの解決策を提示するのが本当だろう。
「・・・を皆で考えなければならない」や「・・・が急務」「・・・が課題である」は小学生でも理解していることで、そんな話はする必要がない。

私はこう言う時代、自分だけは礼儀を守ろうと思うし、法律や慣習も守ろうと思う。
相手の気持ちに立ってことに当たろうと思う。
そして眼前の与えられた仕事に全力を尽くそうと思う・・・なぜならこうしたことが、私が日本と言う国家に対して出来る唯一の貢献だからである。

ここにも天使がいる。

その記憶は非常に曖昧だが、ある夏の暑い日、恐らく4・5歳だった私は祖母に手を引かれ、ジリジリ照り付ける太陽の熱で逃げ水が走り、ゆらゆら陽炎が立っている道を歩いていた。

当時のこの辺の道路はまだコンクリートだったように思うのだが、そのあちこちにヒビが入っていて、それを補修したのか少し盛り上がったところがあるその道は遠く、祖母の顔を見上げながら、まだ着かないのか、まだ着かないのかと思いながら暑さと疲労で泣きそうになっていた。

やがて祖母はそうした私に気づいたのか、自身も暑さで辛くなったのかは分からないが、一軒のカキ氷屋へと私を連れて入っていったが、どうだろう恐らく何かの祭りの時期だったようで、午後2時くらいと言うのにその店には大勢の男や女、そして私より少し上くらいの子供で賑わっていた。

祖母は確かイチゴの赤いシロップのカキ氷を注文し、その量の多さに私は一挙に暑さが吹き飛んだ気がしたものだった。

祖母は和服に巾着を持っていたが、こうした格好は今なら目立つかもしれないが、当時こうした格好はさほど珍しくもなく、下手をすれば女でも薄いシャツを着ただけで乳房が透けて見えたり、脇から少しそうしたものがはみ出ていても、本人も周囲もさほど気にするような繊細な時代ではなかった。

誰もがみんな若く、生きる為、子供を食べさせる為に必死の時代、貧しいけど力のあるときだったのだろう、少しくらい胸が見えたくらいは、例え男でも目に止まる事すらなかったのかも知れない。

カキ氷屋を出た祖母と私は左側に大きな川が流れ、少しずつ漁師町に近づいたのか魚が干されるにおいがするところを通って、うっそうとした緑に囲まれた、この地域ではかなり大きな神社にたどり着いたが、周囲には何十、いや百くらいはあろうかと思われるほどたくさんの屋台、夜店が並び、陶器を売るもの、鎌などの農具を売るもの、タイヤキや綿飴など、ありとあらゆる物が売られいて、子供が歩くのは困難なくらい大勢の人で賑わっていた。

私はこの時てっきり何か買ってもらえるものだと思っていたのだが、何故か祖母はそうした屋台を素通りすると、神社の端にある怪しげな小屋の前まで私を連れていった。

今にして思うが、この時これは私の為と言うより、祖母が見たかったのだろうと思っているが、その小屋の看板には毒々しい女とヘビが描かれ、「ヘビおんな」と言う見せ物をやっていたのだった。

内容は・・・とても子供の見る代物ではなかった。
どこから素肌でどこからが化粧か分からないほど不自然に色の白い女がキラキラの衣装で出てきて、ヘビを口から入れて鼻から出す、切って細かくしてそれを食べる、たくさんヘビが入ったガラスケースに女が入って・・・云々、やがて火をつけたロウソクをたらしたり、口から火を出してヘビを焼いたりと、滅茶苦茶な光景が広がり、私は子供ながらに唖然・・・と言うより漠然とだがそうした行為に神に対する冒涜のようなものを見ていた。

その見せ物は恐らく40分くらいだったように記憶しているが、終わったあと私は目が開いたままになったが、祖母はさほど気にかけた様子もなく、私の手を引いて小屋を出ると、お目当ての稲刈り鎌を買おうとしたのだと思うが、ここで私は祖母とはぐれてしまう。

小さな背丈では祖母の姿は見えずあちこちさまよったが、最後に私は唯一通った記憶があったあの見せ物小屋まで戻ってしまった。

見せ物小屋は何時間か間隔を置いて上演していたのだろう、私がその入り口に辿り着いたときは誰も客がいなくてシーンとしていて、私はそこで来る保障もない祖母を待っていたが、そこへ一人の若い女がやってきて声をかけた。

「母ちゃんとはぐれたのか」その女は恐らく20歳は超えていなかったように思えたが、喋る言葉が少し変だった。

舌足らずと言うか、発音がはっきりしない、明らかに普通の大人の言葉ではなかった為、私はとても大きな警戒心を持ったことを憶えているが、その次の瞬間もっと怖いことになった。

なんと女が持っていた風呂敷包みの端からさっき見たヘビ女の衣装らしきものの柄が見えたからだが、女はそうした私に気を遣ったのか「オレも母ちゃんに会えないんだ」と言うようなことを言い、恐らくなだめようとしたのだろうが、ここまでが限界だった。

ヘビ女だ・・・食べられる・・・それしか考えていなかった私は、ついに大きな声で泣き出してしまったらしい。

意外にも近くまで来ていた祖母はその泣き声で私に気づいたらしく、慌てて見せ物小屋までやってくると、「家の子に何をする!」とばかり、私の手を引っ張って抱き寄せた。

なぜか分からない・・・が、こうして今になってあの時の女の顔が浮かんでくる。

祖母はまるで誘拐犯人か悪者のように女を見ていて、そうした態度だったが、女は黙って何も言わず小屋へ入っていって、その時の顔が鮮明なのだが表情が思い出せない。

後から知ったことだが、こうした見せ物小屋と言うのは体に障害のある人を使っていて、障害者の人達の収入源だったらしいのだが、その昔はひどいもので、奇形の子供や障害者をこき使って見せ物にし、場合によっては誘拐までして卑猥な見世物につかったり、人身売買で売られた子供がこうしたことに使われた時代まであったのだが、昭和50年に障害者をこうした見せ物に使うことは法律で禁止された。

そしてこうした話でもう1つ私の記憶に残っているものがあるのだが、確かはるか昔に読んだ本で、民間放送でも紹介されたことがある、中村久子と言う人の話だ。

3歳のときに脱疽病にかかり、両手両足を切断、再婚した母は彼女が11歳の頃から厳しく教育し、裁縫、刺繍、編み物と両手が無いにも関わらず、出来なかったのは帯が結べないことだけだった、と言われるほどまでにするが、20歳で見せ物小屋へ売られ、その時の芸名が「だるま娘」、人前で編み物や、刺繍などの芸を披露するのだが、「何だ、それだけか・・」「おい、だるま」など20歳の娘には辛い言葉が浴びせかけられ、彼女には絶望的な日々が続いていく。

そんな彼女は救いを仏の世界に求め、やがて書道家の沖六鳳、同じよう両手両足が無く寝たきりだった座古愛子らとの出会いから、やがて日本の身体障害者の地位向上運動へと活動を広めていく。

その間には結婚と離婚、そして結婚、出産と波乱の人生を展開し、書道でも有名になった久子は、もう見世物小屋で働かなくても良いほどになっていたが、なぜか23年、つまり久子が43歳になるくらいまで、この仕事を続けるのである。

久子が見せ物小屋に出なくなったのは、正確には他のことが忙しくて出られなくなったと言うべきなのだが、この頃の彼女はあんなに辛くて嫌った見せ物小屋の仕事を、なぜか嬉しそうにこなしていたと言われていて、観客もそうした久子をもう誰も笑わないばかりか、大きな拍手を持って迎え入れたと言う。

1937年に来日したヘレンケラーは中村久子に面会し、その両手がないこと、両足がないことを知ってこう言う・・・

「ここにも天使がいる・・・」

あの夏の日・・彼女は母ちゃんに会えたのだろうか・・・。



ああ・・私は飛べないのだよ・・・。

毎年のことだが、春、田植え前頃になると、必ずたくさんのツバメがやってくる。
ツバメと言うのは随分しつこい鳥で、私の仕事場の1階が車庫になっていて、その南側には窓があるのだが、毎年今年こそはツバメを入れないようにしようと考え、その窓を閉めたままにして置くのだが、そうすると2階仕事場の網戸の上に巣をかけようとする。

一度そうして頑張ったら、ついに網戸に巣をかけられ、その年は網戸を開けることができなくなってしまったことがあったので、それからはツバメの姿が見えるようになると、車庫の窓を少しだけ開けて置くようになった。

私の両親などはツバメは家に繁栄をもたらすとして大歓迎なのだが、実は糞の被害は絶大で、ツバメが入っている時期は車庫に車が入れられず外へ追い出されるし、猫よけの取り付けや、蛇からも守ってやらねばならず、ヒナが孵って成長し飛べるようになってもまだ巣に戻ってきている時は、へたに蛍光灯のスイッチさへ押せなくなる。

夜パッと明かりがつくとツバメたちはパニックを起こし、室内を飛び回った挙句どこか隙間にでも落ちたら、助けない限り死んでしまうからだ。
だから毎年黒くて早いあの姿を見かけるようになると、そうか・・・また来たかと言う嬉しさと、これから大変だな・・・と言う両方の思いにかられるのだ。

ツバメは言い伝えでは育った家を憶えていて、そこへ帰ってくると言われているが、実際のところみんな同じ顔にしか見えないので本当にそうかは分からないが、つがいでやってきて、何を喋っているのかは不明ながらも2匹で一生懸命相談しているような様子からことは始まっていく。

泥や草、昨年刈り取った稲藁のくずなどを集めて巣を作りはじめるが、この巣の大きさはその年生まれる卵の数によるとされていて、それではツバメは生まれてくるヒナの数を、生まれる前から知っていることになるが、こちらも後からヒナが多すぎて巣が落ちそうになるときがあるので、必ずしもそうだといい難い部分がある。

またツバメのテリトリー争いは熾烈で、こうして一番最初に入ったカップルは、あとから同じように車庫に入ってこようとするカップルをこれでもか、これでもかと言うくらいに攻撃、気の弱いカップルは追い出されるが、卵が生まれる頃まで頑張るとそれ以上の攻撃はしない。

毎年この車庫では3組のカップルが1回はヒナを出して、2組ほどが2回のヒナを出すから、大体1年で25羽以上のツバメがここから巣立っていき、それが少なくとも私が生まれる前から続いているのだろうから、既に膨大な数のツバメがこの家を故郷としていることになるが、先の話のように糞のことや、いつも窓を開けておかなければならないことなどから、最近ではツバメが入れる家も少なくなっている。

生き物と言うのは不思議なものだが、こうして最大の天敵である人間の近くで巣を作ったり、その近くを生存圏にしている者が多いが、ハチなどもそうで、私の仕事場は南に面して窓が大きいことから屋根の下に毎年ハチが巣をかけようとする。

年寄は、ハチは火事や地震があるところに巣をかけない、幸運の証だと言うのだが、1度それに従って巣が大きくなるのを黙ってみていたことがあったが、共存できたかと言えば微妙だった。
部屋へ弱って動きが鈍くなっているハチが迷い込んできていたので、可愛そうに思って放っておいたら、半日ほどして忘れてしまっていて座布団の上のハチを触って刺されてしまったことがあった。

恩を仇で返された形だったが、1度は助けると決めながら、こんなことで殺してしまう訳には行かないと、律儀に考えた私は家族から笑われたが、その後私の手はドラエモンの手のようにまん丸に腫れて、これには子供までもが面白がった。

さてツバメだが、こうして巣を作ったら卵を産むが、ひとつの巣で生まれる卵の数は4つから7つ、平均で5個ぐらいか・・・、年寄り達は毎朝その巣の下で、まだヒナが孵らないか、などと思いながら眺めているが、ヒナが孵ると半分に割れた小さな卵の殻が巣の下に落ちている。

そしてこれからが戦争である。
とにかく喧しい、仕事をしていても小さな音だと音楽が聞こえないくらいに騒いでいるが、それでもこうして毎年だとツバメ言葉も何か「仲良くしよう」と言う言葉と「危ない」くらいは分かってきた。

そしてこの危険が迫っている鳴き方が聞こえると、私は2階から降りて様子を見にいくのだが、大方は外にいるカラスや猫に親鳥が警戒している場合が多く、こうした時の親鳥の姿勢は果敢で徹底攻撃である。
猫などには頭すれすれに飛んで威嚇するが、こうした威嚇に猫が頭を下げて歩いているのは何ともユーモラスでもある。

だが夜中にこの危険だと言う鳴き声が聞こえたら大変だ、この鳴き声はとても大きな鳴き声なのだが、びっくりして見に行ってみたら、親鳥が車庫に入り込んだ蛇に体を半分ほど呑み込まれていたことがあった。
慌てて蛇を捕まえツバメを引き出すのだが、助かった親鳥は吊るしてある止まり木で「やれやれ・・・ひどい目にあった」と言う様子でボーっとしていた。

そして蛇はやはりこれも「生業」でやっている訳だから、川の近くの土手まで持って行って放してやる。

ツバメの親鳥は1日中ヒナに餌を運んで育てるが、これは本当に雨の日も風の日も、嵐の日もだ、ヒナはじきに大きくなり、私たちが行くと始めはサッと巣に隠れるが、やがては身を乗り出して上から見ているようになり、小さな顔が幾つも並んでこちらを見ている姿はかわいらしいものだ。

車庫の窓は夕方暗くなって親鳥が帰ってくると閉められ、朝5時には開けられるのだが、この管理のうち夜は私が窓を閉めるが、朝は両親が窓を開けることになっていて、ある日の朝、ツバメの巣立ちは午前中から始まる。

親鳥がしきりに「大丈夫、飛べる、飛べる」と言っているようで、それに羽をばたつかせてヒナが合わせているが、見ている訳にも行かなくて仕事に戻ると、昼近くには静かになる。
行ってみるとあれだけ賑やかだった巣が、何もいなくなってしまっているのだが、たまにまだ飛べなくて迷っているヒナがいると、兄弟や親鳥たちがそれを必死に励ましていることがある。

おかしなものだ・・・親鳥はあれだけ大きさにバラ付きがあったヒナに、大体同じ日に巣立ちが出来るよう餌を与えていたのだ。
だがそう・・・年に1羽か2羽、こうして成長しても飛び立つことが出来ずに、みんなが飛び立って2日後もまだ巣から出られないヒナが出る。

兄弟や親鳥は心配そうにその様子を見に来ているが、やがてそのヒナは巣の下で死んでいる。
また卵から孵った直後、親鳥はなぜか1羽のヒナをはじき出すことがあるが、これは育っても多分飛ぶことの出来ないヒナを巣から落としていると言われていて、悲しいが何度人間が巣に戻しても必ずはじかれる。

これが自然に生きる者の厳しさか・・・。
私や両親はこうしたヒナたちを見つけると土に埋葬する。

ツバメは巣立ちが終わって1週間ほどは夜になると巣に戻ってくるが、それが過ぎると巣は完全にもぬけの空になる。
夏も終わりの暑い日、農作業で外に出ると、なぜか周りに黒い小さな鳥が集まってくる。

そうだ、今年巣から飛び立ったツバメの子供たち、まだ尾羽が少し短いが嬉しそうに私の周りを飛び、その数はどんどん増えてきて、頭や顔をかすめるように近づいてくる。
いつも階段を行き来していた私を憶えていて、多分グズな奴だが仲間だと思っているのだろう。

みんな眼前をこちらを見ながら飛んでいて、その顔は「どうした・・・早く一緒に飛ぼう・・・」と誘っているよう・・・だ。
「ああ・・ありがとうよ・・・」
生きていることは素晴らしい、何と甘美なこと・・・、なんと良きこと・・・。

我が心はお前らと共に青き空にある・・・だが私は飛ぶことができないのだよ・・・。



匿名と言うことで・・・。

この間、1年ぶりくらいに家を訪れた新婚夫婦、どうやら5ヶ月前に子供が生まれたらしく、その子を抱いて私に見せに来たのだが、これがまた可愛らしく、人相の悪い私を見ても本当に嬉しそうに笑ってくれるのである。

「おお・・なんと可愛いものだ」そう言う言葉が何も考えず出てきたが、そのあと自分を振り返って「なんで、こうなっちゃったんだろう・・・」と呟いてしまい、少しだけ目頭が熱くなってしまった。
さて今日はブログの話をしようか・・。

                   「近未来ブログ・レジスタンス」
西暦20○○年4月19日、内閣情報室、破壊活動監視課、ブログ対策係・・・。
「おい、この数字とアルファベット配列は少し不自然じゃないか」一般大衆のブログの中から政府批判に関係する内容が記載されたブログやコメント、それをかいくぐって暗号でブログのやり取りがなされている可能性のある記載が、全て引っかかる特殊フィルターソフトに挙がってくるブログを監視している監視員の1人は、隣の女性監視員に確認を求めた。

「そうね・・これはくさいわね・・」
「どう見たってこれは一般の文書形態ではないだろう」
「バージョン7乱数票で解読してみればどうかしら・・・」
「よーし・・・おっ出てきたぞ・・・これは・・・集合場所だ。黒皮スカートの女・・・か」
「公安警察に連絡するわ・・・」

品川区西品川4丁目○○番のレストラン、黒皮のスカートの女は落ち着かない様子でテーブルにすわり、オーダーメニューを見ながらパスタを注文した。
傍らにはA4ぐらいの大きさ、厚さ5センチくらいの包みが入った紙袋が置かれていたが、この時代、破壊活動防止条例に治安維持法違反までもが強化され、もはや個人宅で3人以上が集めるだけで警察の捜査が及ぶ社会では、こうして通信は携帯電話やブログ、そして物を運ぶにも公安警察の目を盗んで会わないといけなくなっていた。

ブログが発達した初期の頃は良かった・・・みんな匿名で自由に意見を言えたし、そこでグウタラな政府批判も出来たが、ブログ書き込みによる個人攻撃を防ぐ為に制定された「公安監視法」によって次第に強化されたブログ監視は、いつしか政府批判に対しても適応されるようになり、ブログでもはや政府批判などしようものなら、すぐに公安が逮捕状を持ってやってくることになってしまったのである。

だからこの時代では政府批判はかなり前時代的だが、ビラを印刷して撒くといった方法しかなくなったのだったが、ブログはこうした中で政府の検閲、つまり「楽しいブログ利用の手引き」に書かれている事意外は書けなくなり、次第に政府批判は暗号を使って行われるようになった。

そしてこうした暗号を解読するソフトも作られたが、暗号は進歩し現在はそのバージョンも7まで作られていた。

「待たせたな」女の前に立ったのは若いが、髪が長く病気かと思うほど色白の男だったが、女がその男に政府批判のビラが入った紙袋を渡した直後だった。

「公安警察の者だ、手をあげてひざまずけ!」突然レストランに踏み込んできた、腕に公安の腕章をした冷血そうな男たちは、その男女を取り囲むと全員が彼らにピストルを向け、自衛隊の海外派兵では使用が認められていない、3丁の自動小銃までもがその頭に向けられていた。  (この話はフィクションです)

ちょっとハードボイルドな感じの小説風にしてみたが・・・やはり下手だな・・・。
だが、この話・・・実は今でもこの通りのことが起こる可能性は無いとは言えないのである。
2月5日までに警視庁中野署は、お笑いタレントのスマイリーキクチさん(37)のブログに殺人事件の犯人であるかのような誹謗中傷、脅迫文を書き込んだ17歳から45歳の男女18人を名誉毀損、「殺してやる」と書き込んだ川崎市の29歳の女を脅迫の容疑でそれぞれ書類送検した。

スマイリーさんは事実無根の話でブログにこうした書き込みをされ、アクセスが出来ないほどになる、通称「ブログの炎上」現象の被害を受け、その身の危険を感じていたと言う。

またお隣、韓国では昨年、有名女優がやはりこうしたブログで悪質な書き込みをされ、それを苦にして自殺したことから、韓国政府はこうした悪質書き込みに対して捜査、取り締まりをする法案の作成を急いでいるが、これとは別に国際相場、株式や為替を見事なまでに予測し、それをブログで書いて、やることなすこと全て裏目だった韓国政府をバカにした・・・と言う罪で捕まった男性の事件があり、この逮捕を巡っては「これが罪か」と言う、韓国国民の政府に対する不信感が生まれ、こうしたブログの捜査に関する法制化は韓国を2分した論議になっている。

確かにこうしたブログの悪質書き込みは、健全にブログを楽しんでいる者にとっては非常に不愉快だし、傷つくとも思う。

だから警視庁の今回の取り締まりは正当性があるが、一方でこうして考えてみると、「知ろうと思えばできるんだ・・・」と言うことも分かってしまった。

つまり現状でも「それなりの権力があればブログは匿名ではなくなるんだ」と言うことで、もし警察や国家権力が「犯罪や治安に関してこれを予防する為」と称した場合、そして誰がどんな書き込みをしたか知ろうとしたら、少なくとも彼ら権力者にとっては匿名ではないんだということである。



日本は先の9・11アメリカのテロ事件を契機に集会を捜査する権限の制定、有事法案、国民投票条令など、戦前にあった治安維持法に近い法案や、憲法をすぐにでも変えられる法案を全て議会通過させ法制化している。
やろうとすればこの下手なハードボイルド話と同じことが今すぐにでも出来るのではないか。

匿名と言う形態は必ずしも望ましい状態ではないかも知れない、事実新聞の投稿、警察、消防などへの通報、行政への通知などは匿名では受け付けていないし、これはそれでいいだろう。

だがブログの世界では、本人は良くても、本人が実名を名乗った為家族、子供、知り合いまで公になる可能性があり、こうした経緯ではやはり「匿名」と言う形態を自由選択できることは必要なことであると思う。
そして我々ブロガーは、今回のような悪質書き込みの取り締まりは確かに歓迎するが、これが政府や権力者によって発言や思想を制限、もしくはコントロールする方向で少しずつ動いていくことがないよう警戒していかなければならないだろう。

ブログの匿名性・・・見かけ上「匿名」と言うことにして置きましょう…だと言う事をお忘れなく・・・。

来るところまで来てしまった・・・。

「ねえ、あんたお金ないけど、あしたカードローンの支払いだよ。どうする」
「どうするっておい・・・金はないしこれ以上借りるのも無理だよ」
「困ったわねー」
「仕方ないな、それじゃ奥の手だ、金を印刷しよう」

中年夫婦の旦那はさっそく政府のホームページを開いて1万円札印刷をクリック、ダウンロードしてカシャ、しばらくしてプリンターから政府公認の1万円札が6枚綴りで出てきたが、さすがに裁断は自分でやらなければならなかった。
「いくら印刷すればいいんだ」<
「そうね子供達の小遣いやら生活費、40万円くらいかしらね」
「よっしゃ、任せとけ」旦那は更に印刷を繰り返し結局60万を印刷、これで今月も安泰になった・・・。

また別の家では、豪邸に住んでいてこの家のローンが払えなくなったので、こちらはこの家の写真をモチーフにして「我が家紙幣」を印刷、これだけの豪邸に住んでいるのだから金はあるので、後で日本銀行券と交換するから支払いはこの「我が家紙幣」で・・・と言う話になった。

2月2日から政府自民党やテレ朝で盛り上がっている話はこう言う話だ。
政府日銀の計画で紙幣が印刷されている訳だから、金が足りなかったら印刷すれば良いだけではないか・・・と言う議論が巻き起こってきて、さすがに3日まではまさかこんなバカなことを真剣には考えないだろうと思っていたが、なんと4日の朝にはテレビでコメンテーターが「究極の方法」などと発言、自民党内部でも激論の見出しが躍っていたのだった。

折もおり、その次のニュースは「円天」と称する疑似通貨を流通させ、挙句商品を揃えられなかったL&G会長の「波和二」氏に逮捕状の見出しだったが、この両者の思考回路には誤差がない。
片方は政府だからお咎めなしだが、L&Gは民間だから詐欺罪になっただけで、やろうとすることは同じである。

政府自民党は先の2兆円ばら撒き法案が余りにも国民の評判が悪く、その追加政策として総額50兆円の政府発行紙幣を印刷し、これを景気浮揚策や公共事業の財源にしようと言う話を真剣に考え始めたのだ。
勿論日銀の白川総裁は反対、細田自民党幹事長、財務大臣、財務金融担当大臣も反対したが、自民党内部ではこの方法なら赤字国債を発行する必要もない、まことに素晴らしいと言う国会議員が現れ始めたのである。

だが日本の予算編成はすでに一般会計と特別会計の二重構造になっている上、これに政府発行紙幣が加われば3重構造の予算編成になるばかりか、これでは日本の通貨が信頼を失ってしまうことは明らかで、こうした議論を擁護した評論家は後に必ず汚名をこうむるだろう。
去年から始まった世界大不況が何故起こったか考えてみれば分かる、元々あてのない未来に対してお金を出し、それに保険をつけて売ると言う、一粒の梅干が6つも7つもあるかのごとく計算から膨れ上がった、見かけのお金が収縮したため起こった不況なのだ。

そしてついでに言わせて貰えれば、こうした100年に1度の大不況だからこそ地道なセオリーを確実にこなすしかない訳で、起死回生の手法など始めから無いのであって、負けが込んできて「ここらで一発大逆転」の発想はバクチの発想だ。
1000兆円の借金をし、もうお金がないから別の通貨を発行してまた仕切りなおそう・・・そんなことが許されると思うほうがどうかしている。

元々通貨は対価物が担保されているか、それに見合うだけの物資を調達できるか、どちらかの信用に基づいて使用されるもので、
1つしかないものに複数の信用を担保する能力はないのであり、現状でも国際社会は通貨本体、先物、株式、国債、為替などの複数対価物が入り組んだ状態で通貨を使っていてこれをコントロールできないことは日本のバブル、そして今回の世界同時不況を見れば明白なのだ。

こうした状態で更に別の通貨を発行した場合、対外的に日本の通貨は信頼を失い、国際為替は暴落する恐れがあり、生活必需品はインフレ、その他の製造業はデフレと言うスタブレーションを起こす危険性があることは高校生でも分かるが、これを起死回生と言った議論は国民を質草にバクチを打とうと言うのに等しい。

むかし、地方有力者は国内通貨とは別に「票」と言う独自通貨を出していたものだが、これはこの「票」をその家に持ち込めば、即時現金か対価商品の支給を受けられたから流通したものであり、こうした地方有力者が没落したときの「票」は無効、つまり現金の回収が出来ずに終わったし、大東亜戦争のときも軍が「軍票」を発行して物資を調達したが戦争が終わると紙屑になった。

また明治の一時期、戦時中にも政府発行の紙幣が印刷されたが、これは硬貨鋳造する為の金属不足のために行われたもので、足りなくなったら印刷すればいい・・・と言う発想とは異なるものだ。
こうした政府発行紙幣がまかり通るなら、赤字国債もこれで買い取りましょう、不良債権も・・・と言うことで借金をチャラにさえ出来てしまうが、これだと今の1万円札は紙屑になってしまうことは誰でも分かるはずだ。

一部で言われているように、現在日本銀行が通貨の流通をもっと増やせという政府の意向に、インフレ懸念から従わないことに対する政府関係者のプレッシャーならそれでいいのだが、そもそもこうした話がマスコミに伝わることが既にどうかしている。

こうした話と言うのは経済破綻のときに囁かれることなのだ。
今回の政府発行紙幣の話は対外的に日本の通貨の信用をどこかで大きく落とす結果となるだろう。

また日銀は銀行の株式を買い取る決定もしたが、これは銀行の資本を増強させ、それで中小企業への貸し出し枠を増やそうと言う発想のものだが、昨年末、各地の商工会議所などを見に行った人はいるだろうか。
年末だというのに背広姿の経営者でごった返し、彼らは商工会議所の書類を持って銀行へ行くのだが、銀行では信用保証協会の保証を付けるよう指示され、遠く離れた信用保証協会まで保証を依頼に行くのだが、銀行で保証付の書類を出して貰わないと保証をつけられないとして、みんな断れたのである。

国や県がこんなに貸し出し枠がありますよと言う、あの言葉は見せかけだったのだ。<
にも関わらず、銀行はこうして優遇され、同じ株式会社でも銀行以外は何の助けもない、そして潰れていくのである。
その上、金がなかったら印刷すればいい・・・の話が出てきたら、国民は思うのである。
「来るところまで来てしまったな・・・」

「なごり雪」

その子が転校してきたのは春4月、新学期初日のことだったが、黒板を背に自己紹介をした彼女の言葉遣いはちゃんとした標準語、この辺の小学校では余り流行っていなかった紺の制服に白いワンピース姿で、やはり都会から来た子と言う感じだった。

この頃この田舎の学校は複式学級、つまり3年生と4年生が同じクラスで先生が一人でその両方を教える方式だったが、こうした教室は生徒数の少ない学校では比較的多く取られていた方法だった。

彼女は両親の事情で両親の親元、彼女の祖父母の家であるこの村に移ってきたのだが、
当時まだ古いしきたりが残るこの村では彼女について両親が事業に失敗しただの、いや離婚しただのと言う噂が広まっていて、そうした背景から地元有力者の娘で私より1級下、つまり同じクラスの3年生の女の子から目をつけられ、転校してきたその日からこの子の陰険ないじめが始まっていった。

何かにつけ自分が中心でないと気が済まないこの子は、親でさえ遠慮した扱いをし、同じように一族の有力者の子供を従え、気に食わない子をいじめていたが、少し変わった子供だった私もまた目の仇にされていて、仲間はずれなど日常茶飯事のことだった。

転校してきて初日、こうした複式学級では先生が授業を進める便宜上から4人ほどの班を作って連帯して勉強することになっていたのだが、この班を決めるやり方はまず班長になる者が推薦されるか、立候補し、その班長が好きな子を集めていくと言う方式だったのだが、予想したとおりこの転校生は最後まで行ってもどの班の班長も引き取らなかった。

有力者の娘の目を伺ってのことだったが、たまたまこのとき班長が回ってきていた私は彼女を最後に指名した。

こんな場面と言うのは本当に悲しいもので、誰も自分を班に引き取ってもらえない情けなさは公式に皆から拒否されているようなものだったが、こうした時最後には先生が出てきて、「○○、何でみんなお前を選んでくれないかわかるか、いつものお前の態度が悪いからだ」と言われ、それで先生の斡旋で仕方なくどこかの班に入れてもらえるという仕組みになっていた。

だが、本当は違う、みんなこの有力者の娘に遠慮し、自分だけいい子になったら後が恐かっただけだった。
転校してきた女の子、彼女は私と同じ4年生だったが、それから後私たちのどちらかが班長になったときは必ずお互いを一番最初に指名し、2人とも班長になれないときは2人揃って最後までどの班にも指名してもらえなかったが、私は仲間が出来たようで嬉しかったし、実際彼女はとても意思の強い子だった。

小学生の間と言うのはどうしても男の子よりも女の子のほうが体も大きいし、言葉も活発で、私はそれからこの転校生の女の子に、どちらかと言うと守ってもらっていたように思う。
夏休みのラジオ体操でも私たちが行くと、いつもこの有力者の娘の家の庭で集まるのだが、みんななぜかヒソヒソ話で、仕方なく私たちは2人でラジオ体操をしていたものだった。

彼女は私より背が高く、スポーツも得意で、学校の教科も国語が得意だったが、都会から来た、そして自分より何となく可愛くてて主張を曲げないこの転校生と有力者の娘は結局卒業式のその日まで仲良くなることはなかったし、私も同じだった。

私たちは家へ帰る道が途中まで同じだったことから、よく山道を道草しながら帰ったが、女の子と一緒に帰ることが何となく恥ずかしかった私はいつも彼女の後ろを離れて歩いていた。

卒業式の数日前、やはり彼女とこうして家路へ向かっていた・・、晴れて薄い青空になっている春特有のいい天気だったが、突然前を歩いている彼女が立ち止まり、「○○元気でね」と言って振り返ったが、その目は少しだけ潤んでいたように見えた。

「ん、中学は行かないのか」と私は訪ねたが、彼女は母親と大阪で暮らすことが決まったこと、そして卒業式が終わったらすぐ母親が迎えに来ることを私に話した。

私たちはそれから黙って歩いた。
彼女は私の前を歩いていたのだが、家の前まで来るとなぜか何も言わず、走って家の中へ入っていった。
彼女とはこれが最後の別れだった。

6年生の梅雨の時期だったか、2人で歩いていて私の頭に触るとかぶれてしまう蛾の幼虫が落ちてきたことがあって、気づかず歩いていた私に近寄って彼女が払ってくれたことがあって、そのとき彼女の胸が少しだけ膨らんでいたことを知った私は、なぜか彼女が遠くなったような気がして悲しかった。

時が行けば幼い君も大人になると気づかないまま・・・今春が来て君はきれいになった。
どうしているかな・・・お互い会えないほうが多分幸せかな・・・。



ブルドーザー選挙

「おい、この酒と料理は○○町の某家、こっちは○○会社だ、こぼさないように行けよ。それとパトカーが見えたら待機だぞ」
「おーそれはな、お前らは中を見るんじゃないぞ、いいか朝方4時ごろから、新聞配達の時間と同じくらいに配れ、こっちも同じだパトカーが来たら逃げろ、人には見つかるな、他の候補の運動員だったら顔を見られないようにして黙って一発殴っとけ」

改正公職選挙法施行前の選挙事務所の風景だが、景気の悪い街中にあってここだけは人々が激しく出入りし、若い者やうぐいす嬢、婦人会の女性から年配の古老までと大勢の人で賑わっていた。

田舎では、いやこれは日本全国同じだが、大東亜戦争が終わり、アメリカの自由主義経済が否応なしに導入された結果、それまで戦時中と言う半ば鎖国状態にあった経済システムは完全に濁流に呑まれ、木材、米などの価格が大暴落、貧富の差はあっと言う間に縮まったが、そのお陰で少なくとも地方経済は破綻した。

政府はこうした事態に新たなる経済活動として「公共事業」と言う税金による地方救済策を講じていったが、この仕組みは国会議員を頂点とするピラミッド型の、地方仕事分配組合のようなかたちになっていった。
だから地方における政治は分配された公共事業を主経済とする利益誘導手段となり、ここに国家の理想やイデオロギーなど求めようものなら「狂人」扱いされることはあっても、理解されることなど始めから無理だったのである。

国会議員、県議、市議町議、行政という流れで仕事が降りてきて、これの配分で地方経済、つまり土建業が成り立っていたのであり、この思想は今も過疎地などでは変わっていないばかりか、公共事業が減った分その内部葛藤は熾烈を極めている。
それゆえその地域の選挙、ことに市議町議の選挙は一般市民にとって「飯椀」(めしわん)と呼ばれ、支持する候補の当落で仕事が増えるか減るかの天国地獄、天下分け目の決戦となっていたのである。

各地域は何としても市議町議候補を出したがったのは、例えば除雪、市議がいる地域では朝起きて大雪だったらすぐ市議に電話、そうすると瞬く間に除雪車が来て道路は除雪されるが、市議がいない地域だとそれが後回しになることはざらで、ひどくなると道路整備や護岸工事、学校施設の補修まで後回しのことがあったのだ。

また田舎ではどうせ大した仕事も無いことから、親は長男を跡継ぎとして定着させる手段として市役所や郵便局、銀行、各種団体職員にさせることを第1目標としていて、その為に支援した候補にこれを依頼する仕組みも出来ていた。

今から20年ほど前でも市役所の相場は初任給1年分、特別養護老人施設職員が100万、学校の先生、つまり教員採用試験だが、これは300万と言うのが「裏金」の相場だったし、市長が土建業者に仕事の便宜を計ったときは、市長クラスだとかなり「タヌキ」だったから、業者がお礼に行くと「いやいや・・私は市長だからそのような物は受け取れません・・・が私の息子が○○の商売をしております、よろしく」で、業者はその市長の息子が代表を務めている会社でそれ相応の消費をするのだが、その相場は取得工事額の3%から10%になっていた。

これは補助金、災害復興支援でも同じことで、イベントや事業の補助を受けるときは特定政治家系列の下部組織、これは個人の場合もあるが、そこを通さなければ申請が通らなかったり、逆にイベントで配るお菓子代金が数百万ということが簡単に通っている事だってあって、この申請代行者は平然と補助金額面の15%を報酬として要求する。

つまり経済の仕組みから暮らしそのものまで政治に縛られているのだが、これは田舎が経済的に成り立っていないことを示していて、全て都会からの税金で暮らしている、「物乞い」経済なのだが、これを自覚できないほどこうした仕組みが長く続いているということなのだ。

そしてこれがまた何とも田舎らしいのだが、黒澤明監督の「七人の侍」ではないが、貧乏くさい農民がまた上手く侍(政治家)を使っていて、こうした悪事が決して表に出ないような仕組みにもなっているのだ。
だから今日書いた記事が法的に追求されると私は証拠がないので、この記事はフィクションと言うことにさせてもらうが、そう言うことでお願いしたい。

さて選挙だが、選挙を仕切る最高責任者は「事務局長」になっていて、その下が運動員だが、こうした地方市議選挙や町議選挙はとても面白い。
各地域の有力者や区の組織、婦人会、それに青年団と言う大本営の時代から続く組織の長が各構成員を束ね、候補者は大体土建業者が多かったが、これに農協や森林組合がからみ、漁協や地元医師会、企業の社長といった者まで参加していて、バトルが繰り広げられるのだ。

冒頭の風景は支援者と名乗る人や会社へ酒や料理を届け、それで支援を得るツールにしようというものだが、この支援者というのも怪しいもので、ただ酒や料理を要求するだけの場合も多かった。

また選挙では怪文書はこれもまた大事なツールで、同じ地区から出るほかの候補者の誹謗中傷、悪口などをそれらしくまとめて文書化し、それを印刷して夜配っていると警察に怪しまれることから、新聞配達の時間に合わせて、コツは全部の家庭に入れるのではなく、5軒に1軒くらいの割合で入れることとなっていたが、実によく計算された方法だった。

そしてこうしたことを実行するのが若者の役目だったが、それは万一のとき切り捨てが出来るからだったに違いなかったが、それでも若者は金が貰えて料理酒は飲み放題、何かスパイ活動のような響きに胸は騒ぎ、血肉踊るものがあった。

こうした選挙期間中は候補者の土建会社、支援団体は仕事を休んで活動し、選挙事務所には料理、酒、菓子やタバコにジュースが飲み放題、食べ放題、みんな笑顔で楽しい選挙だったことから、古老の中には「選挙と祭りはやめられん」というものが多かったが、確かに神社が選挙事務所に変わっただけのようなお祭り騒ぎだった。

選挙は「金だ」と言うのは正論だ。
大体市議選では1票5000円だが、それが投票日前日になると10000円になる。
金を渡す方法は「取りまとめ」と言う、ある程度票を持っている会社社長や有力者にまとめて金を渡す方法と、個別に秘密にして渡す方法があるが、いずれも現金取引が基本で、こうした活動は夜行われたため、各地区では道路の各所で運動員や若い者が火を焚いて威嚇的防衛をし、道路沿いの家では提供された菓子や酒を飲みながら、こうした金による投票の切り崩しを監視していた。

こう言う時期、夜タバコなど買いに出かけようなものなら、すぐ後ろを付けられて自動販売機の前で若い衆に囲まれ「何をしている、○○の運動員じゃないだろうな・・・」てなことになるのだった。

そして選挙の山場は投票日前日の夜だ、
後援会のしおりに挟まれた1万円札のセットがたくさん作られ、浮動票といわれる「金で動く」人や地域めがけて出かけ、1票ずつ買い取り、それで足りない票を補うのだが、こうした金で動く人というのは投票前日の夜はわざと遅くまで電気をつけてあって、運動員を誘導していたもので非常に分かりやすかった。

そして投票日、普段は見向きもしないお年寄りにまで「車の送迎」があり、人相の悪い若者が慣れない丁寧な言葉で、親切に投票場まで連れて行き、施設入所しているお年寄りには送迎付の期日前投票も呼びかけられていた。

選挙の当落は文字通り天国と地獄だ。
当選した候補には明るい未来が待っているが、落選した候補のところへはそれまで支持していた人すら1人も来ないばかりか、寝返りが続出し、「あの候補に加担したのは○○に頼まれたからだ、本意は当選した候補だった」などと言うことになるのだ。

仕事は減り、子供も市役所へは入れられないし、補助金も来ない、市長選なら職員の左遷まであるわけで、落選は悲惨だった。
だから負けられない選挙になって行ったわけで、争いは熾烈だったのだが、それに対して候補自体はどうかと言うと、この県議は当選したが、「私が当選したあかつきには、自動車の運転免許証の点数が無くなったら言ってください。必ずなんとかします」が選挙公約だったし、別の市長選では「私は本当は市長などしたくない、しかし皆さんの要請で仕方なく引き受けました、よろしくお願いします」だった。

まだあるがこれ以上かいても意味は無いだろう、こう言う人が候補者だったし、これは今もそう変わっていないだろう・・・現在こうして大変な事態に陥るのは必然だったと言うべきか・・・。

くどいようですが、この話はくれぐれもフィクションと言うことで・・・。









プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ