バロックは部屋の灯りを消して

それにしても生きていると金がかかる・・・長男のバス定期に6万円、教科書が8万円、長女は中学生だから余り必要なものはないが、これに農業用の種モミ、肥料、土や消毒で40万円・・・大した稼ぎがないにも拘らず、どうしてこうも金は出て行くばかりなのだろうと落ち込んでいたら、懐かしいスピッツの「チェリー」がラジオから流れてきた。

懐かしい・・・思わず窓を開けて少し冷たい空気を入れ、青空を眺めた。
「君を忘れない・・・」・・・聞いていると少し目が潤んできた・・・そんな辛い訳ではないが、なぜかこの曲を聞いていると自分がズレて来ていることが分かる。

何をやってるのかな・・・そんなことを思うのだが、生活に追われ働いてばっかり、目が醒めれば厳しいことしか起こってこないし、そんな話ばっかりで、自分の考え方までセコクて姑息になって来ているような気がする・・・。

暫く仕事の手を止めて、昼に入れた冷たくなったコーヒーを飲み、空を眺め続ける・・・。
やがて一番いいところで、ディスクジョッキーの女性のトークが始まり、無常にもせっかく浸った爽やかな気分はまた現実に引き戻されるが、それにもめげずに今度はCDをかけて、ついでに「空も飛べるはず」まで聞いてしまった。

だがどうしてスッピツのアルバムは、アルバムの中でだんとつ1位の曲があって、他の曲は割りとそうでもないのだろう・・やはりこれも販売方針なのだろうか。

夜になった・・・、今夜は曇り空で星も見えないが、部屋の電気を消してまた窓を開ける・・・今度はバッハの「G線上のアリア」をかける・・・バッハの音楽は「壁紙」みたいなもので、それは規則的に同じような音階が繰り返され激動こそないが、静けさがあり、綺麗な女性が長いドレスの裾、そのレースを引きずって階段をゆっくり上がるような崇高さがある。

今度は入れたてのコーヒーを口に運び、ゆっくりと味わいながら聞き入る・・・思わず自分の力のなさに号泣しそうになるが、昼間はスタッフがいるからその手前、我慢もしやすいのだが、こうして1人だと本当に泣きそうになる自分と必死で戦わなければならない・・・。
今まで出会った人達のこと・・・みんな「お前には力がある・・・」と言って励ましてくれたのに、まだ何もできていなければ、何も形にしていない・・・そのことが悔しいし、申し訳ないのである。

だが「済みませんでした」と言って泣いてしまえばそれは負けだ・・・みんなの気持ちを裏切ることにしかならない・・・まだ終わってはいない、勝負はこれからだ、だから泣くことはできない・・・。
やがてバッハが終わり、今度はパッフェルベルの「カノン」が流れてくる・・・この曲はある意味私の「テーマ曲」みたいなものなのだが、始めて聞いたのは小学6年生のときだった。

「こんな綺麗で、優しい音楽があったのか・・・」と思ったものだが、ジェノバに旅したとき仲良くなったデザインスクールの学生たち数人が、最後日本へ帰るときに、私がこの「カノン」が好きだと言うことを知って、3人編成の楽団を連れてきてくれ、聞かせてくれた思い出の曲でもある。

「世界は狭い、やがて力があって才能があるならきっとまた会えるだろう・・・いつかまた会おう・・・」そう言って別れてもう20年以上経ってしまった。
胸がかきむしられるようだ・・・生きるのに必死で何もできなかった・・・いつ彼らとの約束が果たせるのか分からない・・・でもこの命がある限り諦めるわけには行かない。
死ぬまでには何とかしなければ・・・私はだからいつも焦ってきたし、恐らくこれからもそうだろう・・・。

「カノン」はやがて終わりに近づいた・・・
私は電気を付けて、壁に寄りかかりまたコーヒーを口に運ぶ・・・この世で成すべき自分の責任を全てクリアしたら、いつか自分の為に自分を使わなければ・・・と思う。
さあ、明日もまた頑張るぞ!
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平城京の公務員

さて・・・ようやく偉い先生方が帰り、まだ夕飯までには間があるから、何か少し記事を書こうかと思ったら、偶然だが昔の面白い資料を見つけたので、今日はこれを少し書こうかと思う。

まったく、最近は先生方も皆テレビの受け売り、評論家の話をここで延々語っていくので、にこやかに相対していると最後には空しくなり、そしてやがて疲れが訪れてくるが、こうして昔の資料でその時代の人の暮らしを追っていくと、自分とそう変わらない哀愁が感じられ、何やら一緒に酒でも飲んで語り合いたい心境になってしまう・・・。

さて話は733年、日本、720年には「日本書紀」が成立しているが、この時代の都は平城京・・・奈良市だが、当時の平城京周辺の人口は20万人、現在の奈良市の人口と比較してもその人口の多さが伺われるが・・・、その中で一人の下級官人のなんとも言えない記録が残っているので、今日は彼の生活ぶりを追うことで、いつの世も変わらぬ生活の厳しさを認識しようではないか・・・。

平城京、左京8条1坊に住む、秦常忌寸秋庭(はたつねのいみき・あきにわ)は当時34歳、左目の下に黒子がある男だったが、官位は「少初位上」つまり下から2番目の位で、仕事は中務省図書寮の表装係りをしていた。

表装とは掛け軸を作ったり、本の装丁をしたりする仕事だが、家族は秋庭を含めて男9人、女19人の28人で、女の多い家族だが、当時の「郷戸」と呼ばれる家制度の単位としては標準的な人数とも言え、最もこうした人数が左京8条に全て住んでいたかと言えばそれは疑問で、むしろ何割かは故郷で暮らしていて、秋庭達も農繁期は休暇を取って故郷へ帰っていたのだろう。

官人には5月と8月に15日間の休暇、これを田仮(でんか)と言うが、そうした休暇が許されていて、彼の給料は僅かな月給と、こうした季禄(季節ごとのボーナスみたいなもの)ぐらいしかなく、決して多くはない。

「少初位上」の位ではあしぎぬ1疋、綿1屯、布2端、鍬(くわ)5口が季禄になるが、鍬は故郷にある口分田やその他の田畑を耕す為に使われ、当時の官人の生活が農業とは切り離せない環境にあったことが分かる。

秋庭がそのような薄給に甘んじて官人生活を送っていたのは、理由があった。

官人にはこうした現実の収入の少なさに対して、その他の特権があったからで、まず第1に位階に応じて「免税」の特権があった、秋庭も少なくとも雑徭(ぞうよう・国司が国内の人民を労役に使用する人頭税、年間60日を越えない範囲とされていたが、後に悪用が絶えず、農民達の困窮に拍車をかけた)免除の恩恵を受けていたし、第2に一般農民が容易く手に入れられない品物、例えば鍬などを手に入れることができ、これによって農業生産を上げることができたのである。

また第3にはどんな下級とは言え、位階を持つことは、故郷の農村での社会的地位の向上につながり、秋庭の戸(一族)は一般班田農民に比べればはるかに恵まれた環境だったのである。

しかし彼の戸が負担した租税を見ると、これでも余り楽な暮らしではなかったようだ・・・・この郷戸で男7人、女17人が口分田の受田資格者だったとして、全部で3町6反240歩の口分田が班給(割り当て支給)されているが、いくら租(税)が低いとは言え、凶作の年もあっただろうし、それに兵役、雑徭(秋庭以外の者に対して)、調などの税もあっただろう。

またこの頃の1反当りの米の生産量は恐らく2票「120キログラム」を超えないだろう・・・つまり現在の約4分の1の収量しかない上に、全てが米を生産できるわけではないことを考えると、非常に辛い気持ちになる。

秋庭はその後、東大寺の写経所の表装役になり、その技術はとても素晴らしかった。

749年には陸奥から黄金が献上され、その特授などによって750年、従7位上となるが、この前後には特に欠勤が目立ってくる。
748年には1年で48日間、751年では5月と6月だけ出勤したに過ぎないが、どうも病気を患ったらしく、こうした年代の前後に写経所を去っていくことになったようだ・・・。

奈良時代の政争渦巻く中央政府の中にありながら、それとは何の係わりあいも無い、あたかもそれとは無縁と言わんばかりの暮らしぶり・・・、彼が始めて出仕したのは25歳前後、それから30年間真面目に勤め上げ、ようやくたどり着いたのは従7位上である。

この位は、従4位の父を持つ嫡子が21歳になれば与えられるものであり、従3位以上の貴族であれば、21歳になれば黙っていても従6位以上の位が与えられることに比べれば、いかに儚いものか判るだろう。
貴族や位の高い者には蔭位の制(自動的に位が授けられる)があったが、彼のような下級官人にはこのくらいが上限だったのである。

下級官人は一生下積み生活が強いられた、そしてこれが律令国家、律令制の1つの本質である・・・がしかし秋庭のような下級官人こそが、天平文化の成立をもたらした基礎であったのだと私は思っている。

最後に、ここで使われた資料は特殊なものではなく、比較的研究している人にとっては馴染み深い資料でもあります。もし既に記事として書かれた方がおられましたら、重複してしまいますことを、まずお詫びしておきます。

それにしても秋庭さん・・・あなたのおかげで日本はこんなに豊かになりました。
五賤と呼ばれる身分制度もなくなり、皆平等になりましたし、山上憶良(やまのうえの・おくら)の貧窮問答歌のような悲惨なこともなくなりました・・喜んでやってください・・・。

そして今宵は秋庭さん、あなたと共に酒を酌み交わしたい気分です・・・。



月のメッセージ

さて今夜は月にまつわる少し不思議な話を一つ・・・。
怪しい感じはするものの、こうした証言をしている人が、かなりの地位の人や専門家であること、また実際に公式の記録に残っていることを考えると、「それはデタラメだ」と一笑に付すこともできない話でもある・・・。
それでは始めようか・・・。

1958年9月29日、午後8時30分、自宅で望遠鏡を使い月を観測していた明治大学教授、豊田堅三郎氏は「何だこれは・・・・」と首をかしげ、目をこすりながら何度も望遠鏡に浮かび上がる月を確かめた。

何と、月の中央、少し上よりの通称「晴の海」と呼ばれる暗い部分の下にある白く輝く部分に、まるで黒く墨で書いたように[pyaxjwa]の文字が二行になって並んでいるではないか・・・
「こんなことが・・・信じられない」豊田氏は思わずつぶやいた。

同氏は工学博士だったこともあり、こうした場面であらゆる可能性を考えてみたのだが、望遠鏡のレンズや内部に何か付着していないか、少し望遠鏡をずらしてみて確かめ、窓ガラスも確かめたが、窓は開いていてガラスの干渉は受けていなかったし、望遠鏡をずらしてしまえばその文字は写らなかった・・・。
つまりその文字は間違いなく月の表面に書かれていたのだった。

博士はさすがに自分でも信じられなくなり、居合わせた姪や近所の人達に代わるがわる望遠鏡を覗いてもらって、全員が見えることを確認したのである。

また博士はこのスペルを調べてみたが、こうした英語のスペルは存在せず、、当時「十七夜の月に、英文字が書かれているのを確認した」と実名で発表した豊田博士のこの事件に対しては、何かの暗号ではないか、月面の地形と、太陽光線のあたり具合によって、そう言う陰ができたのではないか、などの話も出たが、結局今に至ってもこの現象はそれを説明できる何の方策もないままなのである。

またこれは1954年に火星が地球に大接近したときのことである。
パロマ天文台では青色フィルターをかけて火星の写真撮影を行ったところ、火星の真ん中にくっきりと「W」の文字が現れていたのである。

天体望遠鏡の画像は倒立画像だから、実際には「W 」ではなく「M」・・・つまりMarsの頭文字ではないのかと言う話になったのだが、パロマ天文台の当時の責任者リチャードソン博士は「どう説明すべきか、誰か教えて欲しい」・・・と見解せざるを得なかったのである。

この「M」の文字・・・その後火星が地球に接近するたび出現しているのだが、今だこれが何なのかは解明されていない。
しかもおかしなことに、こうした話はその後1990年ごろを境に全く報道もされなくなったのである。

イギリスやブラジルでも非公式だが、一般市民が月に文字や、意味のないスペルが現れたとする通報が警察になされているし、その目撃例も比較的多かった時期があるのだが、近年こうした情報は全く報道されない。

完全に科学が説明できるものしか報道できない。
いたずらに市民の混乱を招く・・・とする報道の姿勢があるのか、こうした怪現象そのものがなくなったのかは分からないが、なんとも余裕のない、夢のない社会になったものだと思う。

ちなみにこの「月のメッセージ」・・・どちらかと言えば、満月かそれに近い月齢の時の目撃例が多かったらしい・・・。

たまには英文でも書かれていないか、月を眺めようかな・・・。



日本人のルネサンス

数年前から会合などに出かけると、必ず出てくる言葉に「ルネッサンス」と言うのがあるが、このルネッサンス、文芸復古とも訳されるが、その言葉の本質は何か分かったようで分かりにくい・・・。

また日本ではルネッサンスと発音している者も多いが、実のところ「サ」の発音はそれほど強くないことから、ここでは「ルネサンス」と発音させて頂くことにしたが、今夜少し格調高く、このルネサンスを考えてみようではないか・・・。

ルネサンスと言うと、文化芸術の復古革新を意味しているように思うかもしれないが、その背景にはイタリアルネサンスの口火を切ったのが、人文主義者たちであったこと、人文主義(ヒューマニズム)はもともとギリシャ・ローマの古典文献研究を言い、こうした古典の研究者が人文主義者と呼ばれたことから、復古のイメージが強いが、その古典の中から新しい「人間と自然の発見」・新しい人間観、世界観へと昇華していったものを指し、決して単なる古典への回帰や哀愁ではないことを理解しておかなければならないだろう。

またルネサンスとはそれ単体と言うより、ルネサンス、ヨーロッパの地理上の発見と、宗教改革をセットにして考えないと良く理解できない。
これらはヨーロッパの近代化を告げる最初の重要なポイントで有るが、こうした事象には確かに新しい精神性が強く現れていて、例えばルネサンスにおいては、今までの「神」中心的な考え方に対して、人間中心的な考え方、人間の個性とその自覚がはっきり見られるし、地理上の発見、大航海には未知なるものを求めて進もうとする冒険的な人間の情熱、古い殻を破って新しい天地を求める自由な精神が伺われる。

そして宗教改革には腐敗堕落しきったカソリック教会に対する批判精神、純粋な信仰に生きようとする新しい宗教的情熱も感じられ、そうした意味では古いものを打破し、改革しようとする性格が見て取れるが、歴史は必ずしも一面からは判断できない。

ドイツやイギリスではルネサンスと宗教改革は不可分の条件となっていたが、イタリア・ルネサンスは確かに文化面では華々しい側面があっても、宗教的にはカソリック信仰と深く結びついていたし、ルターやカルヴィンの教義も、真に個人的な信仰の自由を確立していたとは言い難い。

また地理上の発見にしても、12世紀以来の十字軍運動、特にイベリア半島における国土回復運動の延長線上と見るべき性格も持っている。
皆がルネサンスと言って思い浮かべる時代14世紀、15世紀、そして18世紀末ごろまでの時期は、明確に新旧が入れ替わっていたのではなくて、古いものと新しいものが拮抗しながら、次第に近代ヨーロッパ(市民社会)が形成されていったのであって、今日我々が抱くような、ガラリと何かが変わるようなものではなかったのである。

そしてルネサンスの精神は大まかに次の要点がある。

その一つは「現実の肯定」と言うものだが、封建社会の解体と都市の発展などの社会的機運を背景に、封建的伝統によって束縛されない自由、独立の精神と合理主義精神が芽生え、自然や人間を神中心的な見解から解放し、現実をあるがままに肯定する。
人間を人間として理解し、その独自の価値を承認する考えが発展してきた。

「うるわしの青春も、とどむるによしなし、さあれ人々よ・・・今を楽しみてあれ、明日は定かならねば・・・」ロレンツォ・デ・メディチの言葉は現実生活の肯定と、享楽を示すものである。

また「人間は自らの欲するままに自らを形成しうるのであり、神のごとくにも、獣の如くにもなりうる力を持っている」としたのは15世紀の人文主義者ピコ・デラ・ミランドラであり、人間性の絶対的肯定が現されている。

そして二つ目は個性の尊重と自覚に付いて、この現実的人間の肯定は神の模倣物としての人間と言う、キリスト教的価値基準を崩壊させる意味があり、そこから何者にも拘束されない個人、自覚した我、精神的存在としての個性を持つ行動的な個人と言う思想が現れた。

「万能の天才」は究極として現れる・・。
万能の天才の典型アルベルティは、「人は欲しさえすれば、自分の力で何事でもできる」と断言した。

またこの個性の解放、尊重は「私の仕事の目標は名誉である、幼少の時から自分の名の不朽なるを望んできた」・とペトラルカをして語らせ、ここに強い近代的な名誉欲を生み出し、更に強烈に自己中心的な考えに発展していった。

人間の表現、これが三番目になろうか・・・。
この個性の尊重が人間の心の動きや、感情などへの深い関心をもたらし、例えば文学における性格や心理の描写、絵画における肉体美の表現などにも影響を与えていった。

聖母マリアは神の子の母、天国の女王としてではなく、地上の1婦人としての理想像として表現される。
ボッティチェリは聖母マリアを女性美の典型として描いたが、それはフロレンスやベニスの家庭や、街頭で普通に見られる女性の姿であり、こうして美の世界でも、信仰からの解放が始まっていったのである。

また自我の肯定は個人主義の発展を促し、その個人主義はまた「我が故郷はこの世界・・・」と言う民族や地域を越えた、人間と人間が人文主義的教養によって結ばれようとする、世界市民「コスモポリタン」の思想へと繋がる。

自然は神によって作られ人間を乗せる台座にしか過ぎない、と考えられていたキリスト教的自然観に対して、自然それ自体の持つあるがままの美しさが表現されるようになり、岩石や樹木そのものの美しさを認め、自然美を称えて登山の為の登山を試みた、(つまりそれまでは理由がなければ登山はしなかったと言うことだが)ペトラルカのヴァントゥール山登山は、こうした自然に対する新しい感覚の現われである。

このような感覚は更に自然の認識にまで進むが、それはあるがままの自然を背景に、あるべき自然の姿、法則的な自然を見出すことにまで発展し、絵画における遠近法、肉体描写における解剖学の研究などに繋がっていき、この自然の認識が、近代自然科学の出発点となっていったのである。

レオナルド・ダヴィンチの「モナリサ」は実に7人とも9人とも言われているが、女性の解剖によって描かれていると言われている・・。

私はこのルネサンスと言うものが、何か陳腐に感じて余り好きではなかったし、人通りの少なくなった商店街の再開発に○○町ルネサンス・・・とか言う名前をつけることに非常に違和感があったが、それもこれも個人の解放と自由に繋がっているのだろうか・・・。



男らしくないな・・・。

大体こうした事と言うのは、今日だけは勘弁してくれ・・・と思うような忙しい時に起こるのだが、その日も納期に追われ時間がなく、頭から蒸気を吐く思いのところへ1本の電話がかかってきて、それは始まった。

電話の相手は久しぶりに聞く同じ村の伯母からだったが、同じ村と言ってもこの村は総延長で7キロメートルにも及ぶ長さと、それを2乗した面積があり、仕事場から伯母の家までは、はおおよそ1キロほど離れていたが、その伯母が家の近所に住む婆ちゃんが、下の道を歩いて行ったと言う報告をしてきてくれたのだった。

この婆ちゃんは家のすぐ近く、30メートルほど離れたところに住んでいるのだが、認知症で1人暮らし、息子夫婦は100キロ離れたところで暮らしていて、放っておくと行方不明になる可能性が高いため、村の皆が少し離れたところで姿を見かけると、家へ電話してきて、それで私が迎えに行くことになっていた。

この村には70軒の家があり、それが15軒ほどのまた小さな地区に分かれているのだが、この15軒ほどの地区にはそれぞれ2人から3人の認知症の人がいて、こうした人は放って置くと行方が分からなくなってしまうので、誰が決める訳でもなく、その地区で昼間車を運転できる人がこうした高齢者の救護に当たっていて、一番端の地区は、行政には非常に非協力的な私がその役割をしている。

勿論民生委員などもいるのだが、こうした狭い田舎の民生委員と言うものは権威職みたいなもので、大方が自己顕示欲の塊のような人が多くて、ひどい場合には煩くなったら暴言を吐いて脅してしまうような者までいることから、おいそれと頼んでも、そこまでは面倒見てくれないのが実情だ。

またこうした認知症の高齢者は施設へ入れて・・・と言う話もできないことはないが、国民年金しか貰っていない高齢者が、月々10万円以上かかる施設へ入れないし、こうした費用が払えるほど、離れたところに住む子息が優雅ではない場合は、やはり近所の人が何とかするしかないのである、
本当は親の面倒は子供が見るのが正しいだろう・・・だが遠く離れたところに住む息子夫婦には子供がいて、そこを離れると仕事がなくて生活ができない。

たまにそうした経緯から、家へその息子・・・、と言っても私よりはるかに年上だが、彼とその妻が来て「いつもお世話になっています・・・」と深く頭を下げる姿を見るに付け、何も言えないのである。

そしてまあ、こんな村にも若い・・・と言っても全員が40代だが、それがいない訳ではないが、みんな昼間は働きに出かけていっていて、残っているのは高齢者だけになり、それで昼間も自宅で仕事をし、農業もやっている私のところへは、あらゆる問題がが舞い込むのだ。

だが、こうした高齢者たちは自分が小さい頃には、菓子をくれ、イタズラすれば怒ってくれた人達だ・・・言うならば私が私で有り得たのはこう言う人達のお陰でもある・・・、私は生きている間、何とかなる間はこうして頑張りたいと思っている。

「婆ちゃん、帰るよ・・・」車で迎えに行った私は婆ちゃんを車に乗せ、自宅まで送り、それから今は隠居している私の母に暫く相手をしてやってくれるように頼み、落ち着かせるのだが、こうした年齢になると皆同じことを言うものだ・・・生まれた家に帰る・・母や父に会いたい・・・と。
私はこうした言葉を聞くと胸が熱くなる。

一生懸命働いて、子供を育て、必死で生きてきて最後は1人暮らし・・・どうしてこんな社会なのかな・・・と思う。
そしてこうした仕組みも、もうそう長くは続かない、私が老いて認知症になった場合は誰もたすけに来てはくれないだろうし、よしんば一人暮らしで死んでも発見されないかも知れない・・・。
でも自分の目の黒い内は、そう言う思いをさせないし、ここから見える田んぼは毎年必ず、秋に小金色の稲穂で満たしてみせる。

月に1度はこうして緊急な出動があり、年に1度は山での行方不明者の捜索、そして数年に1度は火事を消しに行っている私は、仕事の納期がどうしても間に合わないことが出てきて、クライアントに必死で謝っている事があるのだが、いつもは言い訳ができないから、今夜はブログで言い訳をした・・・。
男らしくないな・・・。

自由化への道

日本に農業と言うものが定着したのは縄文時代とも言われているが、少なくとも米に関しては、日本の歴史上常に最大産業であり食糧として、あるいは対価通貨として、また権力の基盤として君臨し続けてきた。

しかも日本の人口が3000万人未満の時代、つまり明治時代まではこの食料としての米は常に不足状態で、特に徳川吉宗が行った農業の商業的改革に見られるように、農業を商業的センスで捉えた時代ほど、農業生産は落ち込み困窮する民衆がふえるのだが、意外な事にこうした傾向に気付く学者や研究者は少ない。

もともと日本では食料としての米はもちろん、米は通貨としての役割も果たしていたが、時代によっては米が通貨の信用を追い越した時ですら存在し、そうした意味合いから米をたくさん所有できるものは、大金を所有しているのと同じ意味合いがあり、ここに権力が群がる仕組みは、2000年来、実に現在まで続く伝統的な仕組みなのである。

だがこの日本の農業が崩落して行った背景、その最大の要因は「自由化」と言う世界経済の波、それに米の国際化である。

そもそも1つの国家における食料の調達は非常に保護主義的なものだが、こうした国家の中でも生産が容易な国と、そうでない国があり、生産が容易な国はそうでない国に対して安く売ることを考え、たまたま食料の生産が容易ではない国に工業力があれば、この工業力をして食料の対価とする、言い換えれば品物を売って米を買う方がより効率的なのだが、こうしたことが成立する背景には相互に「自由」に物流が行われる取り決めが必要になる。

ここに工業と農業が同じグランドに立った自由化が発生するが、工業は商業的取引によって発展するため、その基盤はきわめてもろい・・・が、方や農産物はそれがなければ国民の生命が維持できない、と言う始めから同じグランドに立てないものが、セットになった取り決めをしなければならないのは、工業を主とする国は自身が自由主義経済を主張していなければ、自国の工業製品が不当な扱いを受けるからである。

すなわちこうだ、工業が主で農業生産が容易ではない国は、始めから農業生産が容易な国と比較して、不利なスタートラインに立っている、つまり始めから一方は食料を盾に取られた場合、譲歩せざるを得ないことを自覚しておかねばならないが、このことは多分弥生時代、戦国時代、どの時代を通じても同じことだっただろう。

日本の農業は第2次世界大戦前までは、何千年にも渡って鎖国状態を維持してきた・・・このことは気候によって、また政策によって食糧危機も招いたが、一方で米の価格、価値が高い位置で安定していた事実ももたらしていた。

また米に関しては、それまでアジア地域で自国消費しか生産されていなかったが、戦後日本の復興が始まり、工業やサービス業が発達し、資本主義経済の仕組みの中で、日本は工業や貿易で資本を得るに至り、この資本を巡って農業生産が容易な国が米を作るようになる・・・ついに米の国際化が始まっていったのである。

日本の農業は第2次世界大戦、敗戦と言う結果から、アメリカによって自由主義経済へ組み入れられたが、この時点で今日決定的となっている日本農業の問題は始まっていた。

安い農地で巨大資本によって効率化が図られたアメリカやヨーロッパの農産物価格は、根性と伝統、郷愁によってかろうじて生産されている日本の農業、その生産物価格など問題ではなかった・・・、戦後暫くは許されていた米の保護主義的措置がやがて圧力を受けて撤廃、縮小されたとき、日本の農業は崩壊の危機に直面していった。

日本政府はこうした外圧から何とか自国農業を守ろうと、食料管理制度を設け、米の価格を安定させ自国農産物を保護すべく、米を高く買って安く売るシステムを作ったが、こうした補助金事業的仕組みは行政や農協、経済連などに搾取を容認して行く結果となり、農業従事者に行き渡らず終わったばかりか、1987年にスタートしたウルグアイラウンド農業交渉が合意に達した、1994年前後から急激に赤字経営農家を増やす結果となったのである。

またこの農業交渉の結果日本は6年間の関税特例措置を認められるが、昨年米の偽装で問題となったミニマムアクセス米・・・つまり関税特例の替わりに一定量の外国米を輸入する義務を負わされ、関税特例措置を続ける場合は、継続してミニマムアクセスも継続することが義務付けられている。

こうしたことから、政府は高く買って安く売る食糧管理制度、いわゆる食管制度の撤廃に向かっていくのだが、保管料だけでも高額な予算を費やし、長年支払い続けてきた減反政策に対する補助金の軽減をはかろうとするこの政策、そもそも減反政策は米の市場価格に、政府買い上げ米価格を近づける為に設けられていたが、米の自由化とこの減反政策の併用は「米は作るなと言うことか・・・」と言う印象を農家に与え、急激な経済の発展に伴い、離農を促進してしまった。

そして経済が順調ならそれでも米は海外から買えばよかったが、その後の経済は急降下、気がついてみれば農業従事者には高齢化が進み、田畑は荒れ果て、2008年に起こった小麦の高騰に、改めて国内を見てみれば、食料自給率の余りの低さに驚いたのである。





神のみぞ知る

小学校2年生頃だろうか、始めて九九を習い始めた頃、「数と言うのは随分不公平だ・・・」と思ったが、これが中学生になり平方根、つまりルートと言う数字が出てきたとき決定的になった。

1と言う数字は何回かけても1のままだが、2だと4、8と数字が増えていき、2から3の間になると更にこの差が出てくる・・・だから数字の間を距離で考えると、その距離は1に近いほど広く、数字が大きくなるに連れその距離が狭いのではないか・・・と教師に話したら・・・、そんなことを言ってるからお前の成績はは上がらないんだ・・・と一喝された。

時々思ってたことがある・・・電車に乗っていてジャンプしたら、何故自分は後ろへ飛ばされないんだろうと・・・おかしいではないか重力があってそれに引っ張られているから体重が発生しているので、これが電車に乗っていて動いている自分がジャンプして離れればその瞬間に電車は動くが、自分は地球の重力で静止することになり、結果として自分は止まり電車は動くのが正しいはずで、この場合電車が進んでいるスピードで、自分は後ろへ流されていくのが本当なのではないか・・・。

高校生の頃この疑問を解決したくて、何度か電車の中でジャンプしてみたが、いつも自分が後ろへ流されることはなかった。
そんな時こうした疑問に「○○、お前は面白いことを考えるな・・・」と言って非ユークリッド幾何学を教えてくれたのが、高校時代の数学教師、Y先生だった。

通常我々が使っている数学や物理は地球上であればそれで差し障りはないが、例えば「光」や「時間」を考えていくと、それでは説明できないことが出てくる・・・○○、関数座標でx軸とy軸があって、ここに任意で決められた2点を結ぶ直線は何本あると思う・・・。

こうして始まったこの先生の物理学講座は勿論生徒は自分1人だけ、それも日曜日や土曜日、夜など先生の都合の良い時間、この先生の家で行われ、わたしはすっかり物理学に夢中になっていった。

関数座標で2点を結ぶ直線は、ユークリッド幾何学では当然1本だが、実は2本ある、
この説明をすると数式が延々並ぶことになるので控えるが、では高い山と平地では同じ寿命だったとしたら、どちらが長生きできると思うだろうか・・・答えは平地のほうが長生きできるのである。

時間は低いところより高いところの方が遅く進む・・・つまり長生きになるのであるが、その差は1秒の数千万分の1と言うところか・・・また動いている物は止まっている物よりも時間の進み具合が遅い・・・つまりいつも走っている人は、動かない人より時間が遅く進むのである。

さあー、走ろうか・・・でもその差はやはり数千万分の1秒に過ぎないが・・・。

夢のタイムマシーン・・・今のところ未来へは行けるが、過去へ戻ることは難しい。
光の速度、秒速30万キロメートルで動くと、時間は止まってしまう。
だが動いていないものは時間が流れるから相対的に未来へ行ってしまうのである。

光の速度で宇宙を旅している場合、理論上は時間の経過がないので、年を取らないことになるが、そうして200年後に地球に帰ってくれば自分は年を取らず、それ以外の地球や宇宙は200年が経過している。
つまり結果として未来へ行ったことになるが、勿論その場合もとの時代へは戻ることはできない。

浦島太郎の話はこの近代物理学に合致した話なのだが、そもそも「時間」と言うのは一つの考え方に過ぎない。
時計の針が一回りした間に、こんなことをしたと言う比較上の変化を指しているだけだ。

だからもし生物の変化が時間経過を理由にしていなければ、例え時間が進まなくても体が壊れ腐食するものなら、時間などあってもなくても同じことだ。
が、これを区別して確かめるすべがない。

円周率、3・14・・・と言うあれだが、最近の研究で分かってきた範囲では、この数字にはいつか終わりがあるものではなく、永遠に続く数字配列なのだが、そこに登場する数字のうち1から9までの数字で、どれが一番多く現れるかと言うと、どうやら1から9までほぼ同じ割合で現れてくるらしい・・・。

今日は難しい話をしてしまった・・・。
本当は高校時代の先生の話をしたかったのだが、この先生を語ろうとするとどうしてもこうした話になってしまう。

○○、これはどう思う・・・、それはどうしてだ・・・。
そうだ○○、その通りだ・・・いつも意地悪な子供のようにわたしの顔を覗き込み、正解するとニヤッと笑い、本当に嬉しそうに物理学を語ったこの先生、いや恩師だ・・・卒業したとき家に呼んでくれて、最後の講座として、科学はまだ何も分かっていない、宇宙の始まりといわれるビッグバンでも、最初何もないところへ一条の光が差してこの宇宙誕生が始まるのだが、ではその光はどこから来たか・・・と言うと、今のところそれは「神のみぞ知る」としか言えないのだ、何か少しくらい知っているからと言って、偉そうにするなよ・・・と締めくくった。

母校から他の学校へ転任されてから全く連絡が取れなくなってしまい、もう長い間お会いしていませんが、お元気でしょうか・・・今でもこうして星を見ていると先生の嬉しそうな笑顔が思い出されます。

先生の話す物理学はわたしの青春そのものでした。ありがとうございました。



「あきさめよー」

「何だよ、酒ばっかり飲んで・・・見てるだけで腹が立つんだよ」
その小柄な男は大柄で、どっちかと言うとごっつい感じの男にそう咬みついた。
「うるさい、お前に何が分かる」
ごっつい感じの男は普段は温和で、穏やかな男だったが、この時ばかりは虫の居所が悪かったらしく、そう言うが早いか、小柄な男を突き飛ばした。

「くそー、お前なんか死ねばいいんだ」
口を切ったのか、少し唇に血が滲んできた小柄な男は、そう言うと台所へ走り、戸棚から出刃包丁を持ち出すと、大柄な男に向かってそれを構えた。

「殺すのか、殺してくれ・・・」大柄な男は逃げるどころか、そのまま小柄な男に近づいていった。
「バカ野郎何をやってんだ」
もう一人の少し長身の男は、やっと事態が緊迫してきたことがわかったのか、慌てて2人の間に入ったが、時既に遅し、小柄な男は大柄な男めがけて突進していた・・。

だが運が良いのか悪いのか、小柄な男は畳の縁につまずき転倒、その足が部屋を仕切っているガラス戸に当たり、ガラスは砕け散ったが、出刃包丁は大柄な男性の手前で空を切ったのだった。

1980年代、この頃既に派遣社員と言う労働形態は確立していたのだが、現代の派遣社員、派遣会社から見ればひどいもので、イメージからすれば江戸時代の「両替商」や「口利き」と言った感じとでも言うべきか、とにかく社長は刺青が入っていないと言うだけ、殆どヤクザで、労働者たちを仕切る派遣会社の社員も素性の知れない人が多く、このような会社を頼ってくる人もまた、何某かの事情を抱えた人が殆どだった。

また大手自動車会社や電気メーカー、繊維メーカーなどは派遣社員の他に東北、九州、沖縄などから期間社員を募集し、冬の間仕事の無い地方の人達は職業安定所、現在のハローワークだが、そこの斡旋でこうした大手企業の期間社員として働く人が多かった。

だがこのように大手の期間社員はまだ良い方だった。
雇用形態は社員に順ずるものだったし、3人から4人で住まなければならなかったが、それでも1人1部屋が確保できる寮へも入ることができたし、雇用保険や労災保険も完備されていて、誕生日には小さいが、ケーキが支給されるところまで社員並みだった。

悲惨なのはこうした期間社員以外の派遣会社から派遣される労働者たちである。
こちらもやはり地方から集められた人が多かったが、寮と言っても会社が借りたアパートや一軒家、そこに10人ほどで住まわされ、保険や年金もなく、労災ですら入っていなかった。
給料は日給、それを半分ほど会社がピンはねし、文句を言えばクビ、労働条件も正規社員なら確実に問題なるような勤務形態になっていた。

冒頭の話は実際にこの時代の派遣会社に暫く勤務していた人が遭遇した1場面である。

彼は東北の出身だったが、この小柄な男と、大柄な男は沖縄出身で、一部屋に3人で住んでいたが、沖縄出身の大柄な男は酒で会社を潰し、逃げるようにこの派遣会社にもぐりこんでいたし、小柄な男もまた女性問題で故郷にいられなくなってこの会社にもぐりこんでいた。

だが大柄な男はこうした状況にもかかわらず、酒を飲んで働こうとせず、同じ部屋に住む2人からしょっちゅう金を借りて、返すこともなかった。
そこで小柄な音が注意した結果が、この惨事だったのである。

大柄な男はアルコール中毒だった。
やがてこうしたことは会社の知れるところとなって追い出され、その後の消息は不明、それからも次々新しい社員が入ってくるのだが、大方が社会に適合できない人、親から見捨てられた放蕩息子、詐欺師、暴力団関係者、破産した人、前科がある人と言った具合で、みんな派遣された企業で問題を起こすか、盗みを働くかで、3日と続く者はごく1部しかいなかった。

こうした派遣会社のシステムは無一文で住所不定、前科があってもその日から食事にありつけ、作業服も貰えるし、とり合えず仕事さえしていれば、やがて小遣いぐらいは何とかなる。
上手くいけば貯金もできるようになってはいるのだが、いかんせん殆どが社会的落伍者ばかりで、3度食べれたら大方はまた行方不明になるものが多かった。

この東北出身の男性の話は続く。
労働者たちを車に乗せて企業に連れて行く役、つまり派遣会社のスタッフでも、「俺は一週間前に刑務所から出てきたんだが金が無い、誰か車で撥ねてくれんかな、足一本ぐらいなら構わないんだがな・・・」とつぶやく者がいた。

またある日には、一言も喋らない若い男性が入ってきたが、会社が契約していて「付け」で食事ができる大手電機メーカーの近くの食堂で、その新入社員はうなぎ定食を3人前食べて、会社の「付け」にし、翌日はもう行方不明になっていた、など応募してくる方も結構なものだったらしい。

そして労働条件は厳しかった・・・。
3交替勤務で、交替なし勤務が週1回義務付けになっていたり、社員からのいじめ、期間社員ですら彼ら派遣社員を見ると差別した。
一番危険な仕事や、部品洗浄、つまり揮発性物質を扱う場所での作業などは、歴代ずっと派遣社員向けの仕事になっていた。

この男性は3年近く同じ派遣会社で勤務したが、その間に移動した派遣先企業は9社にもおよび、この期間に入社した人は憶えているだけで200名近く、その全てが1ヵ月内に辞めて行ったか、警察に捕まったか、行方不明だと言う。

スナックの女と2人で行方不明になった同郷のヤクザもいた。
「彼は車を置いて忽然と姿を消したが、心根の良い男でした・・・」と懐かしそうに男性は語った。
勿論この時代の派遣会社の全てがこのような状況だった訳ではないが、どうだろうか今の派遣会社とは一味も二味も違う深いものがあるのではないだろうか・・・。

ちなみに「あきさめよー」は、男性が沖縄出身の男性2人と住んでいた頃に習った、沖縄言葉だということだ。
その意味は「あーあ」とか「どうしようもないな・・・」と言う意味だと教えてくれた。







青い天上人

時は文化13年(1812年頃)の江戸、9月とは言っても残暑きびしい毎日、寝苦しい夜が続いていたが、この年こうした暑さにはぴったりな、何とも不可思議な話が江戸の町をかけめぐり、両国橋に並ぶ茶屋はどこも夕涼みの客でいっぱいになった。

そしてこうした客たちは夜がふけてもいっこうに帰ろうとしない、そればかりか川端をぶらつく人は逆に増えてくる勢いで、皆おしなべてしきりと本所界隈の夜空を眺め、何かが起こるのを心待ちにしていた・・・。

さてその話の真相とはいかに・・・。

幕府の侍医、山本宗英法眼が夜の10時頃両国橋を渡っていると、吾妻橋から大橋の方へ青い光の炎が動いていくのが見えた・・・元柳橋の方へそれは漂っていく・・・。

何事だろうと闇を透かして目を凝らした法眼、腰を抜かしそうになった.。
なんと空中を、青い衣の衣冠束帯の行列が、騎馬をやはり青い火炎で守護しながら、ゆっくり進んでいくのが見えたのである。
みんな黙ったまま、静々とその行列は橋から数メートル上空を歩いていく、そしてやがてのこと、その行列は少しづつ角度を上に向け、空に上るような格好になって消えていったのだった。

この話は当時の江戸でもっぱらの噂になり、講釈師がまたそれに尾ひれを付けて語り、話に油を注ぎ、かくして噂を聞きつけた人達が、一目青衣の行列を見ようと、両国橋にわんさと押し寄せる事とあいなったのである。

またこれが記録に残っている話としては、8月18日の夜、儒学者・多紀貞吉が家の者4,5人を引き連れ、両国橋あたりを夕涼みにぶらついて、そろそろ九つ(午前0時)すぎのこと・・・・。
良い月夜だが人通りもまばらな広小路にさしかかったときのことだ、お付のものが突然「あれ、あそこに何やら・・・」と言う言葉に皆がそちらに目をやった。

何と、かなたの家並の上空にパーっと花火のような火の玉が、ふわふわと飛んでいく・・・.
「人魂ではないか・・・」
一同は恐る恐るその光を目で追ったが、その直後皆であっと叫ぶことになる。
火の玉に少し遅れて、奇怪なものがその姿を現したのだ。

狩衣姿の人が青い馬にまたがり、空中を静かに進んでいく。
地面から3メートル以上も上の空間を、しかも膝から上は見えているのに蹄(ひづめ)のあたりからボーっと消え、それが月明かりの中に、はっきりと浮かび上がっていたのである。

女たちは歯がガチガチ鳴って止まらなくなり、男たちにしがみつき、家に帰っても恐ろしさの余り一睡もできなくなってしまった。

多紀貞吉は、この不思議な目撃談をすぐに兄で医師の山崎宗固に話し、宗固は江戸城に出仕したおりこれを同僚に話したが、その弟子が「我衣」と言う随筆集を出し、この話をその中に集録した。

1812年、この年の9月4日、関東一帯は恐らく台風だと思うが、激しい暴風雨に襲われ、それはこれまでに無い激しさで、大きな被害を出した。
そこで人々はこの幻の騎馬の目撃談を、この大暴風雨の前兆と考える向きもあったようだが、1812年は江戸で「火球」(流れ星の大きなもの)の観測が相次いでいた事から、その話に尾ひれがついて、こうした話になった可能性も有る。

しかし古来より世界各国の伝説でも、流れ星と水害を関連付けたものが多く存在し、水害に関しては「水上馬」と言って、白い馬が走ってきて大洪水になる伝説も多く残っている。
馬に乗った青い天上人、火球、水上馬、水害・・・、この関連性の微妙さは、とても趣が深い・・・。

単なる幻想や、言い伝えだけでは片付けられないものもあるように思う。

月夜の晩は気を付けようか・・・。








正法眼蔵を見よ2・「古徳」

第1回目に「道元」を書いたとき、こうした遥か昔から続く人としての先達の言葉、その考えに触れることは、今の日本人に最も大切なことのように感じたが、一つは国を治める為の「仁」、つまり孔子の教えであろう、そしてもう一つは生きる為の「徳」、これを道元に求め、この2人を学ぶことによって、乱れた時代に一つの光明を見出すことができるかも知れないと考えた。

もしこの命があるなら、この他にも共に学びたいことは山ほどあるが、まずは道元の正法眼蔵への序章としてこの「隋聞記」を学び、孔子の「論語」を解説して行けたらと思うが、こうした話ばかりが続くのはさすがに私も疲れるから、月に1度くらいの割合で進めていけたらと思う・・・こう言うペースでは永遠に終わらないかも知れないが・・・。

まず表題の「正法眼蔵」・・・これの読み方だが、(しょうほうげんぞう、またはしょうぽうげんぞう)と読み、この教えは道元の仏法の集大成と呼べるもの、その奥義について書かれている・・・これは一般の我々がいきなり学ぶには余りにも深い・・・そこで出てくるのが「正法眼蔵隋聞記」(しょうぽうげんぞう・ずいもんき)と言う道元の高弟が記した、日々の暮らしの中で道元が語った教えを、記録したものから学んでいこうと思う。

正法眼蔵が煌めく閃光のように崇高で確固たるものなら、「隋聞記」は仏の温もりがある、やわらかさがあり、それゆえに我々のような一般人にも親しみ易い日々の教訓となるのではないだろうか・・・。

では今夜はまず「古徳」と言うものから始めようか・・・。

人はそれぞれ大きな欠点がある。その第一の欠点は「おごり高ぶる」ことであるが、このことについては仏典の中でも、他の書物でも同じように注意を与えているが、儒教の書に「貧乏な暮らしをしていても、おべっかを使ったり媚へつらいして、人の気持ちに取り入ろうとするような真似は、決してしない清らかな心の持ち主はあるが、お金や者をたくさん持っていておごり高ぶらない者はいない・・・」とある。

これはお金やものをたくさん所有することを制御し、おごり高ぶる心が起こってこないよう注意し、配慮せよと言うことだ。

自分は身分も卑しく貧しい人間だが、身分の高い人、良い家の生まれの人には決して負けまい、劣るまいと思う、人に勝とう、人より優れようと思うのもまた、おごり高ぶりの甚だしきものである・・・がこれはまだ制御がしやすい。

豊かな財宝に恵まれ、そのような財宝を集めることのできる力、徳分を持った人もいるが、このような人には親戚縁者や一門の関係者などが取り巻き、人もまたそれを許している・・・それをいいことにおごり高ぶるから、側にいる賤しく貧しい人達はこれを見て、きっと羨ましく思い、わが身の在りようを哀しみ不満に思うだろう。

このような人達の心の痛みに対して、富や力のある者は一体どのように気を配ったらよいか・・・、おごれる人には忠告や助言をするのが難しく、仮にそうしたとしても彼らが身を慎み、控えめな態度を取るようなことなど、到底望むべくもない。

また思い上がる気持ちなど少しも無いのだけれど、勝手気儘に振舞えば、傍らにいる貧しい人達は、それを羨み迷惑に思うだろう・・・このところに十分配慮して誤らないようにすることを、「おごりを抑え、高ぶりを控える」と言うのである。

自分の富んでいることに無責任であり、貧しい人が見て羨望したり妬んだり、不平不満を抱いたりする心情のあり方に無神経だったり、これを無視するような粗野な心を「思い上がり」の心と言うのである。

沢山のことを知っている・・・そのことをして人に勝ったと思っている・・・いや勝とうと思う・・・だがそれがいかほどのことか・・・、自分が人より多くのこと知っているからと言って、決してそのことをして誇りに感じ、思いあがってはならない。

自分より劣った人の不都合や間違いを言い、あるいは先輩や同僚たちの過ちを知って、これを悪し様に言い、罵り非難するのは思い上がりも甚だしい行為だ・・・。

昔から物事の真実を心得た人の前では負けても良いが、ものの理をわきまえぬ愚かな人や、その人がいる前で勝ってはならないと言われている。
自分が詳しく知っていることを他人が悪く理解して受け取ったとしても、その人の過ちを言って非難すれば、それはまた同時に自分が間違いを犯すことになる。

古人や先輩達の悪口を言わず、またものを知らぬ愚かな人たちの心を傷つけたり、妬みや不満の気持ちを起こさせるような場では、よくよく考えて発言に注意し、十分に心を配らねばならない。

人は他の悲運を見て内心に安堵し、他の幸運をうらやんで内に妬みの想いをいだく・・・、世に生きるとき、人は必ず他との比較において自身の位置を定め、幸も不幸も多くはそのような意識や構造の中ではかられる。

人の一生は、言うならば自己充足のための果てしない旅である・・・、それは「もの欲しさ」の旅、そしてそれはいつも他との比較においてである。
ここに人の「喘ぎ」があり、人は「喘ぎ」において生きることの喜びを知り、哀しさを知る、喜びも哀しみもこの「喘ぎ」の一様に過ぎない。

しかも人は「喜び」をうる為に喘ぎ、「哀しみ」そのものにおいても喘ぐ、あるときは「喘ぎ」それ自身が力となって「生」を支えることもある。

恥じらいを忘れ慎むを捨て、声高に自己を主張することは、いつの世にも言わば時代の正義として行われてきたに違いないが、しかし己を省みることなしに、無闇に叫ばれる自己主張は、そのまま根源的な人間喪失の主張となり、他との関係を破壊する契機となる。

自己主張にはどこかに「もの欲しさ」が付いてまわり、人の営みには必ず心に願い求めるものがある。

「謙虚さ」とは己と言うものへの限りなき反省と、自己存在の事実についての誤りなき「自覚」をその主としなければ、単に他に対する儀礼の一様式でしかない、固定化し儀礼化した謙虚さは、自己の醜悪さを隠蔽する為の一種の演技とも言えるだろう。

謙虚さの底には、人間的な痛みの共感があり、慎ましさの奥には人間の「さが」の本質的な虚構に直接する魂の共振がある、いたわりや思いやり・・・それを喪失したとき、その行為は傲慢な人間そのもの、凶器となって人の心を傷つけるに違いない。

今夜はここまで・・・。
道元の人間洞察は鋭い・・・そしてやはりわたしは今回も道元が誤りだとしていることに、見事にはまっていた・・・。
私は、僻み(ひがみ)で出来ていた事がわかってしまった・・・。


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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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