この条文は六法全書の冒頭、第1章「天皇」の次、第2章に出てくるが、第2章はこの第9条のみが記載されていて、見出しは「戦争の放棄、戦力、交戦権の否認」となっている。
9条は2項あり、それは次の通りだ。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
10条国の交戦権は、これを認めない」
日本国憲法は第2次世界大戦時まで有効だった大日本帝国憲法を、少し改正して終わらせようとした、「松本蒸治」国務大臣起草案(政府案)を拒否したマッカーサー率いるアメリカ占領軍GHQが起草し、交付したものだが、1946年8月24日に衆議院を通過、同年11月3日公布、1947年5月3日より施行されることになった。
この新憲法はGHQ,幣原(しではら)内閣の合同草案を出発点としたが、極東委員会に現れた国際的反ファッショ(全体主義)連合の力と、もう戦争はこりごりだと思う日本国民の要求とが、あらゆる反動を排除して成立したものだ。
だがこの憲法には弱点がある。
特にこれまでも幾度となく改正論議に拍車をかけてきたのが、日本国憲法第9条である。
新憲法制定当時、戦争を永久に放棄し、戦力を保持しないとしたのは世界史上類がなく、その後もこれほど理想に満ちて、美しい条文はないと評されたが、この美しい理想を担保、保障する術が全てアメリカにかかっていたからである。
そしてこうした実情は日米同盟を通じて今も変わってはいない。
相変わらず日本はこの平和憲法とそれを担保する「力」の間でさまよっているのである。
第2次世界大戦後勃発した朝鮮戦争により、日本は戦後経済を急激に復活させていったが、1949年4月、反共産主義連盟である北大西洋条約(NATO)が成立、翌年1950年2月には、この共産主義国家間の中ソ(中国・ソビエト)友好同盟条約が成立する中で、にわかに日本の自衛権の問題が論議されるようになるのである。
1950年1月、マッカーサーは年頭声明で日本の自衛権を強調し、やはりこの年の1月来日したアメリカ統合参謀本部議長が、同じように沖縄基地の強化と日本の軍事基地強化を声明するのだが、これにより日本の自衛権論議が大きく高まり、日本の野党外交対策協議会は憲法9条の思想を強く主張する共同声明を発表する。
また同じ年の7月8日、マッカーサーは警察予備隊を編成する指令を出すが、これによって8月には警察予備隊が設置され、この予備隊の目的は米軍が朝鮮に出兵した後の、日本国内治安維持に対する応急処置を表面上の理由としながら、以後、日本の再軍備に道を開くのが、その側面の目的だった。
アメリカが主導して作った平和憲法は、そのアメリカによって発足直後から既に放棄したはずの自衛権と名を変えた消極的交戦権に話が及んでいたのだが、1953年に来日した国務長官ダレスは、日本に対してMSA援助(反共産主義国援助協定、相互安全保障協定を含む軍事協定援助)を与える代わりに、35万人の軍隊を持つよう要望し、ついで来日した合衆国副大統領ニクソンは、「日本に平和憲法を認めたのは誤りであった」とまで演説した。
かくて1954年3月、第5次吉田内閣によって日米両政府間にMSA協定が調印され、これに伴い6月に防衛庁設置法、自衛隊法が成立させられ、7月には防衛庁と15万人の自衛隊(陸上・海上・航空)が発足し、以後1957年以降アメリカ軍の撤退が始まると同時に、急速にこの自衛隊は強化されていくのであり、こうした経緯を考えると、日本の平和憲法第9条は、この時点で既に有名無実化していたのである。
しかしとにもかくにも表面上とは言え、日本の平和憲法が今日まであらゆる矛盾の中で、何とか成立しているように見えてきた事は事実で、その背景はひとえに「経済」の力によるものだ。
日本の経済力を見込んだアメリカは、日本の自衛権の代わりを米軍が担うかわりに、その代償を金銭に求める仕組みに変えていったが、湾岸戦争、イラク戦争を見ても明白なように、日本は既に事実上アメリカの要請を受け、集団的自衛権を行使している。
日本人からしてみれば「金を出すのは戦争ではない」と思うかも知れないが、戦争、紛争、国家間の問題と言うのはどちらか一方の考え方だけが正しいのではなく、こちらに対して相手がどう認識したかと言う問題がある。
日本が金を出してアメリカがそれで戦争を起こせば、相手国は日本とアメリカが敵国になるのであり、このことを避けて集団的自衛権を放棄していると言う主張は、通常の国際的概念であれば通用しない。
日米安全保障条約は、敗戦直後は占領政策とその国家をアメリカが守る形の、日本にとっては従属的な条約だったが、現在の安全保障条約は一応対等、双方性があることになってはいる。
だが日本が攻撃された場合、アメリカは条約によって集団的自衛権を行使、つまり日本に代わって日本を防衛する義務を負うが、アメリカが攻撃された場合、日本はその集団的自衛の義務を負っていない。
つまりアメリカが攻撃されていても見殺しでいいと言うことなのだが、その明確な不均衡を日本は「金」で払っていることになっている。
しかし幾度となく繰り返される北朝鮮のミサイル発射実験は、あからさまな日本叩きで、アメリカを燻りだそうとする意図である事は明白で、これに対するアメリカの日本防衛概念は、自国の国益に叶わなければ日本が国家として成立する要件を満たせなくなっても、言葉だけは送るがそれ以上踏み込まないと言う結果が、中国、ロシアの領土侵犯問題で既に示されている。
言い換えれば、始めから微妙なバランスの上に浮いていた日本の平和憲法は、完全に宙に浮いていることがはっきりしているのであり、またこれまで平和だったゆえの驕りか、日本の防衛のお粗末さ加減も相当なものになっていいる。
迎撃ミサイルの位置や、スカッドシステムの配備まで報道する在り様は、有事に措ける作戦機密漏洩で有り、本来なら軍事裁判に処せられるくらい重大な国家背信行為だが、国営放送を初め、すべての民放放送局がニュースとして世界配信している状態は異常である。
こうした国家の防衛に関しては超法規的措置が至上命題だし、軍事システムの配備などは最高機密であるべきにもかかわらず、おめでたくその配備状況から位置まで報道しているのは、憲法論議以前の問題だ。
日本国憲法第9条は確かに一つの理想でしかない。
またそれを守る術も日本は持っていない。
だが太平洋戦争が終わって「もう戦争はこりごりだ・・・」と思った日本民族の「願い」がそこにはある。
下らない言い訳で拡大解釈を続け、派兵機会を拡大していく手法は自国憲法を紙屑にしているに同義で有り、反対に担保を持たない9条を宗教にして崇め奉り、9条こそが憲法の全てと考える在り様もまた、憲法を蔑ろにする行為と言える。
そして憲法の改正はいずれ必要になるが、この時代の与党、野党の在り様では到底それを提起、議論する資格はない、と私は思う。