庚申待ち

時は徳川将軍様の時代、江戸の町では時々みなで集まり、酒も加減しながらチビチビ飲み、それでいてそろそろ家へ帰るのかと思えばそうでもなく、つまらない話と古女房で朝まで大騒ぎ、方やバクチに興ずる者と、なぜかみんな一晩寝ない夜があった。

これが世に言う「庚申待ち」の夜だ・・・。

江戸時代には一大ブームとなったこの信仰は現在では知る人も少なくなったが、今夜はこの話をしておこうか・・・。

「庚申待ち」とは人間の体内にいるとされる三尸(さんし・尸は屍または何かを司るの意味)と言う虫に話が始まるが、三尸と言う虫は庚申(こうしん・千支で表される日の一つ)の夜、寝ている人の体内を抜け出て、その人の犯した罪や悪行を天帝に告げ口すると言われていた。

そして天帝はこうした三尸からその人間のいろんな所業を聞き、それで人間の寿命を決める・・・一般的にはこうした場合寿命は短くなるのが相場だろうが・・・そう言うことになっていた。

それで庚申の夜、この三尸が体を抜け出し天帝に告げ口できないように、夜は寝ないで過ごすと言うのが「庚申待ち」だ。
だが面白いのは、なぜか人々は悪行や罪を犯すことを止めようとは考えず、虫の告げ口を封じることを考える点だ・・・とても人間らしい考え方に好感が持てる。

この三尸、面白い事には1匹ではなく、上、中、下の3匹の虫だと言われていて、上は人の頭にあって視力を奪い、顔に皺をつくり、白髪を増やすとされているが、中の虫は人の腹の中にあり、五臓六腑を傷つけ、また悪夢を見させると言われ、暴飲暴食を好むとされていて、下の虫は足にあって、人から精力や命を吸い取ると言われている。

「庚申待ち」の発想からすると、人間はただでさえこうした三尸によって、いろんなものを吸い取られているのに、その上天帝に告げ口までされて、寿命が縮められた日には生きる時間がなくなってしまうと言うことなのだろうか。

当時庚申の夜はあちこちでバカ騒ぎが起こり、踊り明かし、飲み明かし、バクチや喧嘩三昧・・・また静かにしていると眠ってしまうからと大声で騒ぐ者と・・・ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。

庚申の三尸の発想は恐らく中国の道教にその端を発しているだろうが、この尸は日本の陰陽師達には天文の神とされていて、これ自体は全く根拠のないものなのだが、なぜか天文をつかさどるものになっている。
そして一般大衆の間では疫神の一人と言われている「青面金剛」信仰となっていたり、道教で言う天帝が帝釈天だったり、閻魔大王だったり、更には三猿にかけて「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹の猿などと混同されていたりで、訳が分からないことになってしまっている。

つまりその地域で独特の風習や、その地域独特の民間信仰と混じって、三尸も天帝も別のものに置き換えられている場合が多く、その結果詳細を説明できる者が誰もいない正体不明の信仰となっているのである。
また虫は三尸のほかに九虫がいることになっているが、これは三尸九虫三符などの秘符で一挙に祓われることになっている。

三尸の正体は、実は老化、不摂生、と言うものに対する恐れ、そしてこれは人間の煩悩、「業」と言うものを指しているように思う。
が、「庚申待ち」を知らなかった私は、今まで何回の庚申で眠ってしまったのだろう・・・。
三尸がしっかり仕事していれば、今頃天帝が大激怒して、この瞬間にも命は絶たれるのかも知れない・・・。





伝言板

昭和と言う時代は何かしらとても雑な感じがするが、その中に強さがあった。

駅などもそうだが、ボサっと歩いていると、「こら、バカ野郎、どけー!」と後ろからどやされ、まだ少年と言うにも幼い私などはこれで傷つくかと思いきや、全く気にもならなかった。
このくらいのことは日常茶飯事に大人から言われていたし、警官なども、学校へ防犯活動に来ると、「悪いことをしたら牢屋行きだぞ」ぐらいのことは平気で言って、子供を脅していたものだった。

冬は近くの、と言っても2キロは離れていたが、学校へ歩いて通っていて、途中でなだれが起こる場所があって、そこを通るときは声を上げないように集団で通るのだが、土建会社の人などが除雪車で後ろから来ると、大きなショベルに子供たちみんなを乗せて、家の近くまで送ってくれたものだった。

今の親ならこうした光景でも見ようものなら、「もし落ちたら、責任取れ」となるのだろうが、この時代はそうしたことを言う親は誰もいない、落ちたらそれは自分が悪い・・・ことは言わずと知れたことだったのである。

昭和40年代だとは思うが、私の町にはまだ蒸気機関車が走っていた。

確かC61かC62・・・そう言う番号だったように思うが、大きな黒い機関車が汽笛を鳴らし、蒸気を吐き出す音はかなり離れていてもビクっとするほど大きな音で、幼い私はそのたびに立ち止まり、家の影から激しく噴出している蒸気を眺めていたものだった。

そして駅にはライトグリーンのペンキが剥げた改札が横に3列あり、その手前には木製のベンチが背中合わせに4列、壁に沿ってやはり4列づつ並んでいて、そこから少し離れたところには、新聞やガム、コーヒー牛乳、パン、蒸し饅頭などを売るかなり大きな売店があり、夏にはアイスクリームの冷蔵庫が3列も並んでいた。

この当時の機関車は30分に1本、それも4両編成だったが、それでも夏の観光シーズンには満員で、多くの人でごった返していたが、その駅のペンキが剥げた木の板壁には、ちょうど1メートルほどの黒板が掛かっていて、チョークが置かれていたが、これを「伝言板」と言って、今のように携帯電話などない時代、非常に重宝したものだった。

友人より先に汽車に乗って、それを友人に伝えるには、「○○分の汽車に乗った」と書いて、自分のあだ名を書いておけば、後から来た友人がそれを見て、先に帰った私を更に待つことは無くなるし、恋人たちの告白、集会の案内、そして時にはどう言う意味か子供には分からなかったが、「さよなら」とか書いてあったこともあった。

みんな駅へ入ると必ずこの「伝言板」を見ていたものだったが、多分私が高校生の頃までは、こうしたものが各駅に備え付けられていたように思う。

勿論この頃になると既に蒸気機関車はなくなり、ディーゼル機関車になっていたが、古くて相変わらず雑然としていて、それでいて少し汚いのだが、掃除はされている、そしてたくさんの人が行き交う駅の「伝言板」には多くの人が何かを書き込んでいて、それらは分かる人には分かるのだが、他人には預かり知らぬ内容で、夏の日、機関車が発車して暫く経ち、駅に人通りが少なくなり、そこに西日が当たると微妙に切ない感じがしたものだった。

高校2年生くらいだろうか、夏の日、私は同級生3人と家へ帰るため電車に乗ろうと、自分の住んでいる町から2つ離れた駅・・・いつも通っていた駅なのだが、そこで次の機関車を待っていたが、白いカッターシャツのボタンを3つも外し、だらしなく木製ベンチに座る私たち不良3人組は、とても不思議な光景を目にすることになった。

柄物のシャツから出ている腕は逞しく、私の腕の4倍の太さはあろうか、黒く筋肉で鋼鉄のように強靭に見え、身長は私より低かったが、体重は私の倍、しかも頭は丸刈りで、目つきの悪い男が伝言板の前に立っていて、その男、何を見たのか突然両側に下げていた手を握り締め、それがかなり離れたところから見ていても、少し力を入れすぎて震えているのが分かるほど、ブルブル震えたかと思うと、下を向き、何と泣いていたのだった。

既に次の機関車に乗ろうとする乗客が少しずつ増えてきていたが、そんな全ての人が何らかの動きをしている中で、その男だけは立ち止まり、そして下を向いて泣いていた・・・自分を振り絞るように泣く男、おおよそ涙など似合わない風体に、その姿とのギャップはなぜかとても胸が詰まるような思いがあり、私たちは男に気付かれないようにずっと見ていた・・・。

やがて次の機関車が到着し、私たちはそれに乗り込んだが、窓から眺めるとまだその男は伝言板の前に立っていた。

機関車はやがて電車になった・・・。
駅も綺麗に新築され、この時伝言板もなくなった。
が、その後4両編成だった電車は乗客の減少にともない、3両、2両と減らされ、1両でも乗客は数名になった。
そして私の町の電車は廃線になり、駅も閉鎖された。

あの夏の日、男は何を見ていたのだろうか、何をして彼を泣かせることになったのだろうか・・・。
それは分からない・・・、だがたまに荒れ果てた駅を車の窓から横目で眺めるにつけ、妙に気になる・・・。









何故こんなものが・・・アジア編

1953年、一人のエクアドル人がアメリカのスミソニアン博物館を訪れ、クリフォード・エバンズ教授がこれに応対したが、このエクアドル人は「趣味で古い遺跡を調べているのだが、少しばかり教えて頂きたい」と言う・・・。

彼の名前はエミリオ・エストラーダと言ったが、エクアドルでは自動車販売にアメリカ式の合理的な方法を取り入れ、やり手の実業家として有名な人物だったが、「私の尊敬する人はドイツの有名な考古学者、ハインリッヒ・シュリーマンだ」と公言するほどの考古学マニア、仕事の合間にこつこつ考古学を勉強し、そして商用に出かけるたびに、その地方の遺跡を丹念に見てまわっていた。

エクアドルの人里離れた淋しい海岸にやってきたのも、そう言う機会を使ってのことだったが、「この辺に古い遺跡が出るところはないかね・・・」と土地の者に訪ねるも、皆顔を横にふるだけだったが、そうだこうした場合は・・・すかさず金を握らせたエストラーダ、すると「そう大した物は出ないよ、だけどこんな土器のかけらなら、たくさんある」と言ってその土器の出る場所へ案内された。

そこは荒れた畑の端だったが、ちょっと見ただけでもたくさんの土器のかけらが散らばっていて、古代の遺跡らしかった・・・、エストラーダは足元の土器のかけらを拾い上げ、そして首をひねった・・・。

「はて、見たこともない模様の土器だ、ひょっとしたらこの遺跡はまだ学会には知られていないのかも知れない、これは大変な物を発見したかも・・・」と思い、帰って考古学の図鑑や論文を読みあさったが、それらしいものはどこにも掲載されておらず、似たものすら見つからなかった。

こうしてエストラーダはエバンズ教授に面会を求めたのだったが、持参した土器のかけらを見たとたん、エバンズ教授の目は輝いた。
「これは珍しい土器だ、つい最近他でも発見され、マヤやインカの古代文明を探る重要な手がかりになるかも知れないといわれている、どこで見つけたのですか」と言うことになり、その場でエバンズ教授との共同研究機関設立の約束ができた。

翌年1954年、エクアドルにやってきたエバンズ教授の指導のもと、海岸の遺跡発掘が始まったが、余り大した成果は上がらず、教授は滞在許可が切れてきれてしまい、帰国してしまった。
エストラーダは一人で発掘を進めなければならなくなったが、1956年の夏、海岸沿いのパルディビアの村の近く、エストラーダはかなり大きな遺跡を発見した。

こんもりした丘の上、土器のかけらがたくさん散らばっていた、「おお・・・この土器のかけらは・・・前に発見したものと良く似ているぞ」エストラーダは我を忘れてその発掘に精を出した。

成果はすぐに上がった。
僅か数十センチ表土をどけると、またも見慣れない土器のかけらが現れ、かけらの面に斜め平行な線が刻まれ、互い違いに重なった模様を成している。
そのかけらを拾い集め繋ぎ合わせてみると、縁が波状になっている奇妙な土器になった。

「こんな形の縁を持つ土器はまだ発見されたことがない、今度こそ大発見だ」エストラーダはダンスを踊り、エバンズ教授に電報を打った。
ふたたびエクアドルにやってきたエバンズ教授は相当喜んでくれるはずだったが、その顔はなぜか厳しい表情で「あなたは、もしかしたら私をバカにしているのかね」とエストラーダに不快感もあらわに問いかけた。

「これは、古代日本に特有の縄文式土器にそっくりだ、斜めの線模様、波状縁、底すぼまりの形、全て縄文式土器の特徴と一致している、一体どこから発掘したのですか」
エバンズ教授は実際自分の手で発掘してみるまで、とても信じられない気持ちだった。
が、しかし発掘の結果は更に訳の分からないものとなった。

アジア型住居の埴輪、インドで発見されるような土製のおもり、ビルマで出土する左右対称形の笛、台湾などに見られるイカダ、日本の縄文時代に見られる耳栓などが、ぞくぞく発見され、そのどれもが南方海岸から運ばれたものらしかった。

「これは・・・一体この遺跡はいつごろのものなのだろう」と言うことになり、この土器と一緒に発見された貝殻で、炭素14を使った年代測定が行われた。
放射性炭素14は他の炭素成分と一定の割合で混じり、そして一定の割合で減っていくことから、貝殻に含まれる放射性炭素14の残量を測定することで、おおよそのものが何年経過したかが分かるのだが、結果は信じられないものだった。

何と約4500年前のものと測定されたのである。

以後エストラーダは発掘に夢中になり、論文をまとめ考古学専門誌に次々と成果を発表したが、そうした発掘と仕事の両立の中で無理がたたり、1961年、45歳の若さで死んでしまった。

こうしたエストラーダをおもんばかってか、エバンズ教授は、エストラーダの論文をアメリカの科学専門誌「サイエンス」に投稿、これが発表されると、ニューズ・ウィークやワシントンポストといった、大御所新聞社までが取り上げ、世界的な特ダネとなったが、当時日本の東京大学文化人類学教室では、この発見を認めなかった。

それにしても、4500年前に日本やアジアのこうした土器が何故エクアドルへ運ばれたのか、さっぱり見当がつかない。

ただ、指し示された現実に拠れば、現代より4500年前のほうが海上交通が発達し、頻繁に貿易などが行われていたと言う事を現している。






ここらで一発大博打!

すっかり博打通いが板に付いてきた麻生の旦那、今日はこれまでの負けを取り戻そうと、既に2兆円もつぎ込んだが、どうもうまくない、負けが込んできたので困っていたら、眼鏡をかけたカマキリ顔の胴元が近くに来てそれを覗き込んだ・・・。
「おっと、これは麻生の旦那・・・どうしました。あーこれはこれはいけねーやな、随分負けが込んで来やしたね・・・どうですここらでスカッと一発大逆転、勝負に出ては・・・」

「何、もう2兆円もつぎ込んだが、それでもはかばかしくねえーって・・・そうですかい、良ござんしょ、更に15兆円お貸ししましょう。なになに良いってことですよ、その代わり女房子供は質に入れてもらいやすがね」
「そんなことはできないってですか・・・何を度胸のないことを言ってるんです、そんなことだから負けが込んできたんじゃないですか、、男はビシッと一勝負、勝てば何の問題も無い訳だし、なーに勝てば良いんですよ・・・勝てば・・・」

麻生の旦那が博打で挽回できる確率はとても低いように思うが・・・実は今回政府与党が出した追加経済対策、補正予算案は一発逆転の大博打的要素が強く、日本および日本国民はこれによって、かつてないリスクを背負うことを覚悟すべきだと思う。
本予算が衆議院を通過して1ヶ月以内に補正予算と言うのは変な話で、そんなくらいなら本予算の中に補正予算を組み込むのが本来の姿・・・だろうが、財政支出15兆4000億円、事業規模56兆8000億円と言う数字はどこから来ているかと言うと、この数字は国内総生産(GDP)の3%であると言うことがポイントだ。

2008年9月にアメリカ大手証券会社リーマンブラザースの破綻に端を発した、世界的金融危機によって各国がそれぞれに影響を受けたが、当初最も影響が小さいとされていた日本の景気が、輸出だけをとっても、今年2月の輸出額が対前年同月比で50・4%減と言う落ち込みになり、金融危機の震源であるアメリカで、実質経済成長率がマイナス2・6% 、ヨーロッパでもっとも影響が大きいだろうとされていた、イギリスでもマイナス2・8の減少に留まったのに対して、日本の実質経済成長率はマイナス5・8%だったことから、このヨーロッパとの差・・・3%の実質経済成長率のマイナスを埋めよう、と言うのがそもそもの考えだが、これでやっとイギリスと同じなのであって、ここから財政出動をするイギリスやアメリカとは、そもそも差は埋まらないことが明白だ。

つまり日本はこれでもアメリカやイギリスが何も手を講じないのと同じで、結果として今回の世界不況からの離脱は一番遅くなる可能性が高く、15兆円の財政出動もその思想は定額給付金と同じように「ばらまき」の雰囲気が強い、これまでにない高額な児童手当の給付は単年度、しかも一番お金がかかる年齢の子供には支給されないことを考えると、経済的効果も少子高齢化対策にもならない、文字通り選挙対策のためのばらまき・・・といわれても仕方ないのである。

またエコカー買い替えのための新車購入補助金の支給も、結果として国内需要を見込んだものだろうが、これまでの日本経済を見れば明らかだが、日本経済は輸出によって支えられてきたことから、このような国内需要に対する補助は、実質保護貿易主義的発想であり、大きな流れとして日本経済にはマイナス要因が出る。
更にこのような施策は、大手企業を一時的に少し助ける効果はあっても、国内企業の大部分を占める中小企業への対策にはならず、場合によっては中小企業の倒産件数を増大させる危険性もはらんでいる。

この傾向はソーラーパネルや、エコ家電購入補助金についても同じことが言え、そもそも補助金が出るからと言っても、1度は購入価格分を払わなければならない訳だから、何かまた別の家電品に対して支出しないとその効果はないが、これなどは明らかに大手家電メーカーを保護しようと言う意図が明確で、消費者がまんまとこうした手に乗るか・・・と言うと甚だ疑問な点もある。

そしてここからが重要なことだが、この追加経済対策の財源・・・15兆円のうち11兆円を赤字国債に頼り、残りの4兆円余りは「埋蔵金」でまかなうと言う計画は余りにも無謀な財源確保である。
「埋蔵金」の殆どは既に表に出ているのであって、もう埋蔵金化しているお金はそれほど多くないし、11兆円の赤字国債(つまり国の借金)発行により、年度を通じた発行額の合計が44兆円に及び、これは過去最高の発行額に膨らむ。
政府はこうした景気対策補正予算案を提出すると同時に、景気回復後の消費税引き上げを確実にするため、税制改革「中期プログラム」の見直しも、対策に明記しているのである。

麻生首相は4月9日の経済成長戦略で、今後3年間に最大200万人の雇用創出を目指すとして、その第1弾が今回の補正予算だとしたが、景気が急速に悪化した昨年秋以降合計3回、事業総額で75兆円に上る経済対策を策定しているが、国内需要の落ち込みには全く歯止めがかかっていない。
それにもかかわらず、「大幅な財政出動をするからには、中期の財政責任をきちんと示さなければならない。消費税を含む税制の抜本改革は、景気の立て直しを前提に必ず実施しなければならない」としていることから、景気対策が主なのか、税制改革(増税)が主なのかよく理解できない発言となっている。

2009年度日本国の一般会計税収は企業の業績悪化に伴い、当初見込みの46兆1000億円を大幅に下回り、41兆円台にとどまる公算が強く、4兆円から5兆円の税収減は、追加対策予算と同時に赤字国債に頼らざるを得ない状況で、新規国債発行額は、戦後始めて国債を発行した1965年以来、初めて税収を上回る可能性が高くなっている。

また2008年度税収は、第2次補正予算(46兆4000億円)から3兆円が不足しそうで、決算は7年ぶりに支出が収入を上回る「歳入欠陥」に陥ることが確実で、この不足分も10年度までに、税収か赤字国債で埋め合わせなければならない。
「これだけの支出をするのだから、必ずそれは取り返す」・・・政府高官は今後の税制改革「中期プログラム」を見直す意義を力強く説明したが、追加対策に乗じて疲弊した財政を再建しようと、消費税引き上げを画策する政府の狙いは明確で、今回のばらまきの代償は「大増税」と公言し、そのことを納得してもらうと言う付加価値までついている。

だが、この追加経済対策は不完全なもので、経済対策には程遠い・・・ただの一時的な「ばらまき」だ。
定額給付金の受け取りに日本各地の行政窓口が大混雑・・・「これはいけるぞ」と思ったのかも知れないが・・・、恐らくこうしたことでは何の効果もなく終わり、ついでに冒頭の説明でもあるように、日本の経済回復が遅れれば、大量発行により日本の国債は暴落、信用を失い、経済は低迷したまま金利は上昇、食料以外の製造業はデフレに見舞われ、その上に大増税・・・と言う事態に陥る危険性があるのだ。

麻生の旦那・・・今からでも遅くない・・・もう無謀な賭けはやめて、真面目に働いたらどうですか・・・。

不老不死

ある個体生命が生まれてから死ぬまでの期間、個々の寿命をある集団について平均化したものを「平均寿命」その集団の中で最も長生きした者の寿命を「最大寿命」と言うが、この内平均寿命については生物学的な意味からすると、少し異なった方式を指している。

生まれてからの各年齢(小動物だと月齢)における生存率を求め、生存率が50%になった時の年齢を、平均寿命と言うのが正確な方式だ。

平均寿命は人の場合、医療の発達によって時代とともに大きく変化してきたが、日本人だと1891~1898年(明治24年~31年)に男性42・8歳、女性では44・3歳だったが、1950年~52年(昭和25年~27年)になると男性59・57歳、女性62・97歳になり、現在では特に女性では80歳を大きく超えている。

動物でも平均寿命は環境の影響を受け易く、マウスでは食料を食べ放題にしたとき約21月齢、最初制限食を与えたものは約29月齢生きる。

最大寿命の方は「種」によって遺伝的に決定しているので、時代による変化は少ないと見られているが、種による寿命の違いは普通各生命体の最大寿命の比較になり、例えば、マウス3年、ウサギ13年、ライオン35年、馬62年、人間120年がほぼ最高値で、一般的には体が大きい生物ほど最大寿命が長くなるが、人間は例外的に長生きな生物になっている。

またツパイ、赤毛サル、手長サル、ヒヒ、ゴリラ、チンパンジーなどの霊長類について言えば、最大寿命と性成熟年齢の間には見事な比例関係が成立しているが、こちらでも人間は例外的なことになっていて、性成熟年齢と比べると最大寿命の数値が圧倒的に大きい。

生物の老化は一般に子孫をつくり、育てる生殖期を過ぎる頃から始まり、従って性成熟までの時間が短い、つまり最大寿命が短い「種」ほど早く老化が始まるが、同じ種によっても個体差があり、特に人間の場合にはその違いが著しく、また何をして老化と呼べるか、と言う概念が統一されていない。

植物の場合は1年生、2年生、多年生によって老化の仕方が異なり、多年生植物では器官による違いがあるが、葉などの緑色の器官では老化にともなって緑色素であるクロロフィルが分解する。
また根や茎の細胞では細胞壁にいろんな物質が沈着し、細胞質が減少することをして、老化と言うことができる。

ただこうした細胞レベルのことを言えば、人間も色素沈着、小脂肪球の蓄積、細胞質の減少、核の萎縮などが見られることになるが、分子レベルではDNAの切断の増加、DNAの複製の誤りの増加、修復機能の低下、DNA端末粒(テロメア)の減少などが老化と言うことになるだろう。

さて、ではこうした平均寿命や最大寿命、老化を防ぐ、もしくは回避する術はないのだろうか・・・。
言わば不老不死だが、実は面白いことがわかってきている。
まだ実用段階は僅かな一つの可能性に過ぎないが、最後にこの不老不死について少し説明しておこう。

生物の細胞や個体がその生命を維持し続ける生体を作っている体細胞は、普通ある程度の回数分裂を起こすと、その後は分裂しないで、やがて死んでしまう。
が、がん細胞を含むある種の細胞は、適当な栄養を与えると、無限に細胞分裂を繰り返し、こうした細胞の系列は樹立細胞系と呼ばれている。

可死細胞と不死細胞とを細胞融合して作った雑種細胞を調べ、染色体と不死の関係を調べる研究は既に始まっているが、人間とハムスターの不死化した細胞の融合実験では、人間の第1染色体が欠ければ不死化することが分かっていて、またある種の人間のがん細胞で不死化したものでは、第4染色体が欠けていることがわかっている。

不死細胞にある種の染色体を入れれば可死化し、この原因としてDNAの末端にある「テロメア」と言う小粒の存否が、可死か不死を決めているとも言われている。

テロメア・・・老化の説明でも出てきたが、DNAの端末粒、こんなものが、もしかしたら生死をコントロールしているかも知れないのである。

そして人は未だに何故生きているのか、が、説明できないでいる・・・・・。







悲劇の預言者

1940年11月、ちょうど世界が第2次世界大戦と言う深い暗雲に覆われていた時期だが、この年に起こったルーマニアのブカレスト大地震。
大変な被害をもたらしたが、実はこの地震はあらかじめ予言されていた。

今夜は地震を予言し、そのために命を落とした世紀の預言者プラカータと言う青年の足跡を追ってみようか・・・。

プラカータはコンスタンタの海辺に住む占星術師だったが、彼は星の奏でる音楽を聴くことができると言われ、それを楽譜に書き留めることまでしていたとされているが、その音符は当時のどんな音楽家も理解し得ない神秘的なものだったらしい。

また彼はこうした天の音を聴く為には、絶対ピューリタンな生活を送らなければならないとして、独身を守り、いかなる女性も近づけない生活を送っていたが、それは親族にさえも変わらなかった。

そしてその信条は「自分の神は宇宙を運行する星である」として、いかなる宗教もこれを拒否、異端的な状態に固執するをはばかることもなく、こうした側面から周囲の人とコミニュケーションがとれず、相当な「変わり者」と言われていた。

この占星術師プラカータが天体から不思議な予知を受けたのは、1940年8月のことだったが、星の音符を聞き取ろうとして精神統一をはかったが、何度やっても楽譜として表現できない乱れたものになり、ディモニッシュな不快音にしかならない。
これは何かある、それもとても大きな災いだと感じたのだった。

そこでプラカータは「近い将来、我がルーマニアに大きな天変地異が降りかかるだろう」と予言を発したが、何せ世界大戦のさなかのことである、たちまち官憲の耳に入ることとなり、取調べを受ける。
が、特に政治的な意図がなく、どれだけ追求してもなにも出てこない、相変わらず自説を曲げないプラカータは狂人として扱われ、そのことが幸いし、この時は特にお咎めを受けることもなく終わる。

しかし大地震の起こる2週間前・・・プラカータの目には天体の星が平常とは違った妖しい色を帯びて見え、昼間の太陽は紫色に輝いて見えると言い出し、ここで始めて「近日中に大地震が起こる」と唱えるのである。

さすがに官憲も、またしても訳の分からないことを言うプラカータを捨て置くことはできず、彼を拉致、そして厳しい取調べが行われ、でたらめを流布して国家の治安を乱したとして、起訴されることになったが、この起訴する書類を作成中に予言は的中する。
首都ブカレストは未曾有の大地震に襲われたのである。

この大地震では14階の高層建築カールトンビルが大音響とともに崩壊し、ビル内の人員を押し潰し、当時の近代建築の粋を誇るカールトンビルが一挙に崩壊するくらいだから、他の建築物は推して知る結果となった。
一瞬にしてブカレストは死の街と化したのである。

直ちに戒厳令が布告、一切の報道に対して管制が敷かれたが、そのため情報がない各国の報道機関は、ブカレストの大油田地帯に大爆発が起こったのでは・・・などと報道していた。

この地震では、地震が起こる1日前から、占星術師プラカータが言うように太陽が紫色に輝き、空も暗紫色となってただならぬ妖気が漂っていたとされている。
また大地震が起こる前には空中に花火のような電光が走り、地震発生の直後にも恐ろしい発光現象が現れ、ブルガリアのルスチュクからもこの発光現象は確認されたと記録されている。

占星術師プラカータはこのとき、ブカレスト警察の留置場にいて、倒壊した建物の下敷きになって圧死した。
何とも皮肉なことだが、彼は自分が予言した大地震であっても、自分を救うことができなかったのである。

2009年イタリアでも大きな地震が発生したが、この地震も1ヶ月も前から予測し、広報活動をしていた人がいた。
またある物理学者は3日前に異常な微震動を観測し、「大きな地震発生の恐れあり・・・」とブログに書いていた。
しかし当局はこうした予測に対し治安を乱すとして、ブログなどを閉鎖する措置をとっていた。

70年前も今も地震予知に対する政府当局の対応は同じ、「封殺」なのである。



割り麦6分に米4分

いよいよ春がやってきました。
川面には山桜の大木が枝をのばし、その下をいつの頃からか住み始めた黄色い大きな鯉が1匹、暖かい陽射しにゆっくりと生きることを楽しんでいるのが見えます。

その鯉の姿をタバコに火を付け、農作業の休憩に眺めていると、毎年皆が無事で冬を越えた同志であるような思い、また共に今を生きる仲間のように思うのです。

さて今夜は1900年から1930年頃の日本、ちょうど何度も恐慌が起こり、日本の景気が小さな上下を繰り返しながら下落し、1929年10月24日、ニューヨークウォール街で発生した世界恐慌で完全に経済が崩壊、その後台頭してくるファッショ(全体主義)により戦争への突入と言う、何となく今の時代に良く似た時代の話、その中でも一番底辺にいた人達の労働環境について少し話してみたいと思います・・。

1900年前後のマッチ工場の姿・・・
まず工場へ入れば、その中に大人の労働者は全くいない、全て貧しい家の子供たちばかりで、その殆どが女の子だった。

そしてそうした女の子でも14、15歳の子は希で、大半が10歳前後、中には8歳と言う者や、信じられないかもしれないが6歳、7歳の子供までたくさん働いているのだが、特にマッチの軸を並べる作業場では10歳以下の子が8割以上、みんな痩せていて、普通の家の子供なら学校で「いろはにほへと・・・」と勉強しているしているのが本来の姿だろうに、マッチの軸を並べる機械の隙間から顔を出して、左右をキョロキョロしながら軸木を並べているのである。

またこうした工場では現在のように休憩時間など殆どなく、朝早くから暗くなって作業が終わるまで休みなく働き、その食事も殆どが雑穀であったとされている。

またこれはやはり1900年代初頭、桐生、足利での話し・・・。
この当時製糸会社の羽振りのよさはつとに知れ渡っていたが、聞くと見るとでは大違い、豊かな自然に恵まれ、出会う人も親切なこうした工業地帯の実態は、言うにはばかられるような悲惨さだった。

製糸工場で働く労働者は全員女性で、さすがに10歳と言う者はいなかったが、それでも12、13歳から20代前半の女性が働き、忙しい時期には労働時間など決まっていなかった・・・朝目覚めたらすぐに作業所に入り、夜12時になるまで働くことも珍しくなく、トイレでさえ朝と昼にそれも交代で決めて行く・・・と言うような有様だった。

食事はワリ麦6分に米4分、これを7分以内に食べて、寝るところは豚小屋と殆ど変わらず、中には布団ではなく藁の中で寝ている者まであった。

そのうえ、雇用主やその子息から関係を迫られる者もいて、彼女たちはそれで子供でもできれば、認知してもらえたのかと言うと、僅かな金を渡され放り出されたのである。

そしてひどい工場になると、こうした製糸の仕事が暇なときは、復帰する時期を決めて他の工場や女給の仕事へ奉公に出され、その給金は全て雇用主が収奪していたのであり、彼女たちの1ヶ月の給金は多くても20円を出なかった。
20円を現在に換算するのは難しいが、例えば一家4人が1日に消費する食事代の40日分、8万円から10万円だろうか。

こんな状況だから当然結核や、他の病気にかかる人も多く、そうした人達は医者にかからせて貰えることもなく、工場の片隅に作られた小屋へ入れられ、大した食事も与えられず、死を待つだけだった。

この当時の米の値段は1升8銭から9銭、大手といわれる機械制の大工場でも男子の1日の日当は17銭、女子にいたってはこうした意味で1流企業といわれるところでも1日あたり12銭で、しかもこれは昼夜兼行2交代制で12時間労働の場合であり、紡績労働者の国際比較では、日本の女子の最低賃金がイギリス女子の10分の1、イタリア女子の5分の1、植民地だったインドの女子労働者より安い賃金で働いていたのである。

当時、紡鍾1本あたりの1年間の綿花消費高はイギリス35ポンド、インド134ポンドに対して日本は220ポンドと異常に高く、いかに長時間労働が強いられていたかがわかる。

また1918年に起こった米騒動では、この年の3月に1升20銭だった米の値段は7月には40銭、8月には50銭と言うスーパーインフレに陥り、これはどういうことかと言うと、この当時の日雇い人夫の給金が1日50銭だから、1日働いて米が1升しか買えなかったことになる。

これでは当然暮らせず、その後大変な米騒動に発展して行くのだが、1923年には関東大震災が発生している。

そしてこれは1932年(昭和7年)の記録。
当時世界恐慌から沢山の失業者をかかえ、その上この恐慌は農村部にまで及んだため、農村部の惨状は目を覆うものになった。

この年の国内農家の借金合計は47憶円に達し、1戸あたり平均で837円。
この額は当時の平均年収より多く、欠食児童(経済的困窮から、決まってご飯を食べることができない子供)が多くなり、食料にするために木の根やわらびを取りにいって、学校を欠席する児童が増え、また娘の「身売り」も横行した。

山形県のある村での話し、この村には15歳から24歳までの娘が467名いたが、その内借金のために売られた娘が110名もいて、他に女中や酌婦に出ている者が150名いたと言う・・・。

いつの時代も厳しい状況のとき、真っ先に犠牲になるのは女性や子供、弱者である事には普遍性が在る。









納税組合

国家や権力者にとって、税の徴収は最も重要な課題だが、これを給料を払って専門の役人にやらせると、厳しくすれば批判が起こって来るし、甘くすると評判は良くなるが、自分の懐は苦しくなる・・・。

何か良い方法はないかと考えたときに現れるのが、準自主納税だが、こうした考え方はそもそも為政者が考えたと言うより、自然発生的に現れたと思うのが妥当だろうが、恐らく原始社会の終わり、つまり原始共産主義社会が終わった頃から既に存在していたのではないか・・・。
今日は何やら馴染みのない言葉だが、この長い歴史を持つ半自主納税システム「納税組合」の役割について考えてみよう。

現在では田舎にしか残っていないかも知れないが、全ての税の徴収を村や地区で担当者を決めて、その人が各家から集金し、それを行政に納付する仕組み、これを「納税組合」と言い、この場合組合員はその地域に住む全ての住民を指すが、現在のように金融機関が発達していない時代には随分と便利な仕組みだったし、行政側も何の苦も無く税が徴収できて、双方大歓迎の制度だった。

無論こうした意味では行政が徴収業務を行わなくて良い分、僅かだがその地域住民に税金の還付ができていて、その還付額は納めた税金額の1割が相場で、その還付金は村や地域の予算に組み入れられ、各地域の事業支出や、祭りの経費に組み入れられたりしていた。

だが、こうした仕組みは、ある種封建的部分が残っていないとなかなか成立しない。
つまり各家の税金の額が担当者に全て分かってしまうからだが、家によって格式や立場が固定している時代であれば、こんなシステムも容認し易いが、現代社会のように、個人の情報が保護対象となるような社会においては、この制度は確実に個人情報保護法に違反している。

ただ、行政に取ってこのシステムは今でもやはり業務軽減の立場から、魅力的な部分が多く、決して法律違反だから止めてくださいとは言わないのが実情で、例えば役人が集金に行っても「今は少し都合が悪い・・・」と断れても、隣近所の人が集金に来るのでは「そんな格好の悪いことはできない」と言う思いから断りにくく、従って税の徴収率は高くなるのだ。

昭和と言う時代まではこの仕組みは殆どの町内会や区、村で使われていたのだが、この仕組みが壊れてきたのは、貧富の差が無くなってきた頃、ちょうど昭和の終わりの頃で、経済の発展とともにみんなの収入が上がってきたこと、それに伴って地域社会が個人化し、地域社会の連携が希薄になって来たときから崩壊が始まった。

昔なら納税組合に入っていない、それはすなわち村八部の扱いだったのだが、人に自分の納税額を知られたくない若い世代は、平気で納税組合を脱退して行くし、引っ越してきた家庭などは町内会すら入会しない為、始めから納税組合など入らない家庭も増えてきたのである。

これに追い討ちをかけるように、税制の公平性の立場から行政は、それまで納税組合に還付していた還付金を大幅に削減、その還付はスズメの涙ほどになってしまった。
従来ならその地域の経費を負担できたり、納税組合担当者に僅かでも駄賃を払えたものが払えなくなり、これでは地域社会も納税組合を維持する意識は低くなっていく。
また田舎ではお年寄りの一人暮らしが増え、担当者も集金が困難になっていくなど、急激に問題点が多くなってきた。

つまり制度が時代に合わなくなり、役割を終えようとしていたのだが、それにも関わらず行政の納税窓口は納税組合担当者に「金が集まらなければ、立て替えてでも払え・・・」と言うような暴言を吐くこともあり、これはひとえにその役人個人の認識不足が招いたものだが、こうした言葉に激怒した組合担当者と喧嘩になって納税組合が潰れるケースもあった。

また納税組合はおろか、行政は各区や村に、本来行政の責任で配布しなければならない広報刊行物などを、無料で配布委託をしているケースが多く、この場合には町内会などに入っていなければこうした刊行物はその家庭には配布されず、新しく引っ越してきた家庭と行政、町内会の間で紛争が起こることもしばしばになっている。

おそらく現在、納税組合と言う制度が残っているのは地方の田舎だけになっただろう、そしていずれこうした制度は完全崩壊、消滅するのではないだろうか・・・。

むかし、この納税組合の担当者、つまり組合長だが、こうした役割と言うのはとても名誉なことで、区長や村長に次ぐ信頼があったのは、それなりの立場と金を着服しないだけの経済力、信用が無ければなれなかったからで、地域社会で認められたことを意味していた。

行政、政府は明治以降ずっと、このような一般住民感情や個人の名誉欲を、上手く使って税の徴収をしてきたのだが、明治以前はこれを村の代表者が一手に引き受け、その家は世襲制になっていた。
これが庄屋、十村の制度であり、この場合は為政者から特定の権限が与えられ、それなりの収益も出せる仕組みだった。
が、村民が問題を起こせば、その責任も取らされる厳しい立場だったことも付け加えておかねばならないだろう。

そしてこうした仕組みは名称こそ変わるが、大和朝廷、もしくはそれ以前から存在し、宗教においても江戸期には規模こそ大きくないが、同じ形態の集金システムが存在していた。

中央集権的体制では、このような仕組みでなければ、国民全体の動向は量れなかっただろうし、今日行われる国勢調査などもこの仕組みならば、容易かったことは想像に難くないが、個人の暮らしが楽になり、そして自由になった。
地域の連携が壊れ、少なくとも1600年続いた制度も崩壊する。
何とも社会とは不思議な生き物のようだ・・・。



日本国憲法第9条

この条文は六法全書の冒頭、第1章「天皇」の次、第2章に出てくるが、第2章はこの第9条のみが記載されていて、見出しは「戦争の放棄、戦力、交戦権の否認」となっている。

9条は2項あり、それは次の通りだ。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

2項
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
10条国の交戦権は、これを認めない」

日本国憲法は第2次世界大戦時まで有効だった大日本帝国憲法を、少し改正して終わらせようとした、「松本蒸治」国務大臣起草案(政府案)を拒否したマッカーサー率いるアメリカ占領軍GHQが起草し、交付したものだが、1946年8月24日に衆議院を通過、同年11月3日公布、1947年5月3日より施行されることになった。

この新憲法はGHQ,幣原(しではら)内閣の合同草案を出発点としたが、極東委員会に現れた国際的反ファッショ(全体主義)連合の力と、もう戦争はこりごりだと思う日本国民の要求とが、あらゆる反動を排除して成立したものだ。

だがこの憲法には弱点がある。
特にこれまでも幾度となく改正論議に拍車をかけてきたのが、日本国憲法第9条である。
新憲法制定当時、戦争を永久に放棄し、戦力を保持しないとしたのは世界史上類がなく、その後もこれほど理想に満ちて、美しい条文はないと評されたが、この美しい理想を担保、保障する術が全てアメリカにかかっていたからである。

そしてこうした実情は日米同盟を通じて今も変わってはいない。
相変わらず日本はこの平和憲法とそれを担保する「力」の間でさまよっているのである。

第2次世界大戦後勃発した朝鮮戦争により、日本は戦後経済を急激に復活させていったが、1949年4月、反共産主義連盟である北大西洋条約(NATO)が成立、翌年1950年2月には、この共産主義国家間の中ソ(中国・ソビエト)友好同盟条約が成立する中で、にわかに日本の自衛権の問題が論議されるようになるのである。

1950年1月、マッカーサーは年頭声明で日本の自衛権を強調し、やはりこの年の1月来日したアメリカ統合参謀本部議長が、同じように沖縄基地の強化と日本の軍事基地強化を声明するのだが、これにより日本の自衛権論議が大きく高まり、日本の野党外交対策協議会は憲法9条の思想を強く主張する共同声明を発表する。

また同じ年の7月8日、マッカーサーは警察予備隊を編成する指令を出すが、これによって8月には警察予備隊が設置され、この予備隊の目的は米軍が朝鮮に出兵した後の、日本国内治安維持に対する応急処置を表面上の理由としながら、以後、日本の再軍備に道を開くのが、その側面の目的だった。

アメリカが主導して作った平和憲法は、そのアメリカによって発足直後から既に放棄したはずの自衛権と名を変えた消極的交戦権に話が及んでいたのだが、1953年に来日した国務長官ダレスは、日本に対してMSA援助(反共産主義国援助協定、相互安全保障協定を含む軍事協定援助)を与える代わりに、35万人の軍隊を持つよう要望し、ついで来日した合衆国副大統領ニクソンは、「日本に平和憲法を認めたのは誤りであった」とまで演説した。

かくて1954年3月、第5次吉田内閣によって日米両政府間にMSA協定が調印され、これに伴い6月に防衛庁設置法、自衛隊法が成立させられ、7月には防衛庁と15万人の自衛隊(陸上・海上・航空)が発足し、以後1957年以降アメリカ軍の撤退が始まると同時に、急速にこの自衛隊は強化されていくのであり、こうした経緯を考えると、日本の平和憲法第9条は、この時点で既に有名無実化していたのである。

しかしとにもかくにも表面上とは言え、日本の平和憲法が今日まであらゆる矛盾の中で、何とか成立しているように見えてきた事は事実で、その背景はひとえに「経済」の力によるものだ。

日本の経済力を見込んだアメリカは、日本の自衛権の代わりを米軍が担うかわりに、その代償を金銭に求める仕組みに変えていったが、湾岸戦争、イラク戦争を見ても明白なように、日本は既に事実上アメリカの要請を受け、集団的自衛権を行使している。

日本人からしてみれば「金を出すのは戦争ではない」と思うかも知れないが、戦争、紛争、国家間の問題と言うのはどちらか一方の考え方だけが正しいのではなく、こちらに対して相手がどう認識したかと言う問題がある。

日本が金を出してアメリカがそれで戦争を起こせば、相手国は日本とアメリカが敵国になるのであり、このことを避けて集団的自衛権を放棄していると言う主張は、通常の国際的概念であれば通用しない。

日米安全保障条約は、敗戦直後は占領政策とその国家をアメリカが守る形の、日本にとっては従属的な条約だったが、現在の安全保障条約は一応対等、双方性があることになってはいる。

だが日本が攻撃された場合、アメリカは条約によって集団的自衛権を行使、つまり日本に代わって日本を防衛する義務を負うが、アメリカが攻撃された場合、日本はその集団的自衛の義務を負っていない。
つまりアメリカが攻撃されていても見殺しでいいと言うことなのだが、その明確な不均衡を日本は「金」で払っていることになっている。

しかし幾度となく繰り返される北朝鮮のミサイル発射実験は、あからさまな日本叩きで、アメリカを燻りだそうとする意図である事は明白で、これに対するアメリカの日本防衛概念は、自国の国益に叶わなければ日本が国家として成立する要件を満たせなくなっても、言葉だけは送るがそれ以上踏み込まないと言う結果が、中国、ロシアの領土侵犯問題で既に示されている。

言い換えれば、始めから微妙なバランスの上に浮いていた日本の平和憲法は、完全に宙に浮いていることがはっきりしているのであり、またこれまで平和だったゆえの驕りか、日本の防衛のお粗末さ加減も相当なものになっていいる。

迎撃ミサイルの位置や、スカッドシステムの配備まで報道する在り様は、有事に措ける作戦機密漏洩で有り、本来なら軍事裁判に処せられるくらい重大な国家背信行為だが、国営放送を初め、すべての民放放送局がニュースとして世界配信している状態は異常である。

こうした国家の防衛に関しては超法規的措置が至上命題だし、軍事システムの配備などは最高機密であるべきにもかかわらず、おめでたくその配備状況から位置まで報道しているのは、憲法論議以前の問題だ。

日本国憲法第9条は確かに一つの理想でしかない。
またそれを守る術も日本は持っていない。
だが太平洋戦争が終わって「もう戦争はこりごりだ・・・」と思った日本民族の「願い」がそこにはある。

下らない言い訳で拡大解釈を続け、派兵機会を拡大していく手法は自国憲法を紙屑にしているに同義で有り、反対に担保を持たない9条を宗教にして崇め奉り、9条こそが憲法の全てと考える在り様もまた、憲法を蔑ろにする行為と言える。

そして憲法の改正はいずれ必要になるが、この時代の与党、野党の在り様では到底それを提起、議論する資格はない、と私は思う。




静かに走る馬

見渡す限り雲一つない晴天、見事な松林を颯爽と駆け抜ける白馬、その馬上にはこれまた凛々しい将軍様・・・・。
ご存知テレビドラマ「暴れん坊将軍」のオープニングだが、徳川吉宗をモデルにしたこの時代劇、実はこの時代ではあり得なかったものが登場している。
いや殆どの時代劇、NHKの大河ドラマでさえ、よく考えてみれば不自然なことになっているのだが、それは何だと思うだろうか・・・。

ちょっとクビを傾げるかも知れないが、それは馬の「パッカ、パッカ・・・」と言うあの音だ。
今夜は馬が走るときの音「パッカ、パッカ・・・」の歴史について考えてみようか・・・。

時は浦賀にペリー率いるアメリカ艦隊が押し寄せ、江戸幕府がその終焉を迎えようとしていた1856年、ここに老中堀田正睦(ほった・まさよし)に日米通商条約の締結を迫った、アメリカ総領事ハリス(T,Harris)が記した、同年11月23日の日記が残っている。

「運動養生のために乗馬をしたいと思い、馬を注文していたのが届いた。
それは元気の良い競争馬ではないが、私の目的はかなうものだった。
値段は小判19枚、つまり26ドルである。
この馬を牽く馬丁は1ヶ月一分銀7枚、つまり7ドル75セントである。
馬は草鞋(わらじ)をはいている。
この草鞋は約1時間の道のりしか耐えることはできない」・・・・とある。

またイギリス人のロバート・フォーチュンの「江戸と北京」の文久三年(1863)の項目にはこう記されている。

「ハリス氏は日本における馬の蹄鉄(ていてつ)に関して面白いことを述べた。
ハリス氏が始めて江戸へ居住する為に赴いた時、彼の馬は普通よく見られるように鉄沓を付けていたが、この時まで日本人の馬は藁沓を付けているか、また沓はまったくついていなかった。
ある日1人の役人がハリス氏のところに来て、彼の馬を貸してくれと頼み、その目的に付いてはどうか聞かないで欲しいと乞うた。この奇妙な頼みは機嫌よく承諾された」

「そしてその馬は暫くの間連れ去られた後に、きちんと返された。
それから2,3日後に馬を貸してもらった役人がアメリカの公使館へ来て、宰相が馬の沓を調べる為に馬を借りによこしたことをハリス氏に告げ、もう宰相の馬には同じような沓をつけさせたこと、そして他の役人の馬にも全部同じように沓をつけさせていることを語った」・・・と言うことだ。(ハリス日本滞在記より・坂田精一訳)

ハリスの日記によれば、1856年当時、馬は草鞋をはいていて、それは約1時間も走れるか走れないかの代物だったと記してあるが、ロバート・フォーチュンの書籍の中には草鞋から馬蹄に変っていく様が詳細に記録されている。
つまり少なくとも明治時代以前は、馬が走る時の音はパッカパッカではなく、パタパタ・・・かドスドス・・・と言う音だったのである。

今日どのようなドラマ、映画を観ても時代劇の馬はパッカパッカと威勢の良い音を鳴らして走って行くが、本当はどうだったかと言うと、遠出をするときは馬用の草鞋を沢山持って出かけ、それを45分から1時間の間で交換しながら走っていたのであり、間違えても疾走するような真似をすれば、30分もせずに草鞋交換が待っていたのである。

またその沓も今日見るような鉄製の立派な物ではなく、藁の沓だったし、それでもまだついていれば良いほうで、沓がない馬まであったのだ。
そしてそれは1860年頃、明治時代直前まで続いていた。
日本における蹄鉄や鉄沓の歴史は比較的浅い、せいぜいが150年くらいだろう。
つまり徳川吉宗がパッカパッカはあり得ないことだし、ましてや武田信玄や上杉謙信の時代なら言うに及ばずだ。

時代考証専門のスタッフをロールで流しながら、こうした在りようは少しどうかと思うが、誰かエキセントリックな監督が現れ、道を草鞋が切れないように静かに馬を走らせ、どしゃ降りの雨の中、その草鞋を交換するシーンなどを撮ったら、それはそれでシブイものになるのではないだろうか・・・。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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