おーい、誰かいるか・・・

昭和のSF界にショート・ショートと言う1つのジャンルを築いた天才、星新一の作品にこんな話がある。

ある日突然、地面に1つの丸い穴が開いているのが見つかり、深そうなので「おーい」とか叫んでみたが反響音が返ってこない。
ついで小石を投げてみたが、これもどこまで行っても落ちた音が返ってこない。
不思議な穴は底なしだと言うことになり、初めは遠慮がちに、その内どれだけ棄てても埋まってこないので、人々はどんどんゴミや産業廃棄物を棄てるようになっていき、ついには放射性廃棄物なども棄てられていくようになった。

そしてどこか遠い国のビルの屋上、一人の男性が屋上の空気を吸っていると、空から「おーい」と言う声が聞こえてきて、変だなと思っていたら、今度は小石が飛んできて頭に当たる・・・・。

1962年1月の事だ。

その夜事件現場付近で寝ていた住民は、夜中過ぎにゴーっと言う竜巻のような音と、まるで鋭い物が空気を切っていくような音で目を覚ましたが、この音はたった1回だけだったので、気にはなったものの、みんなまた眠りについた。

だが翌朝、さすがにあの音は尋常ではなかったと思った近くの農場経営者は、昨夜音がした場所の近くまで行ってみたが、そこで奇妙なものを見つける。

なんと直径50cmほどのきれいな星型の穴が開いていたのだった。
その星形はまるでニンジンを金型で切って作ったような鋭さがあり、しかも底は見えず、かなり深そうな様子で、農場経営者は腕を入れてみたが、そのようなことで確認できる深さではなかった。

そこで農場経営者は付近の他の住人にも知らせ、皆で調べてみたが、石を落としてみても一向に底に着いた音はしかった。
そればかりかロープの先に石を結んで、更にロープを何本も繋いでたらしてみたが、これもどれだけロープを繋いでもどんどん入っていくだけだった。
つまりこの穴は底なしだったのである。

さすがに恐くなった住人たちは警察に連絡したが、いくら警察でもこんな穴を見たことはなかったし、何の見解もできなかったが、取りあえず長い棒を差し込んでみたものの、結果は住人達の方が先に分かっていた。

それでは今度はと、長い巻きがある針金をくりだしてみたが、やはり一向に底には行き着かなかった。
「何だこの穴は・・・」困り果てた警官たちは本署に連絡、数日経って数人の科学者を交えた調査隊がやってきたが、どれだけの調査をしたのかは不明ではあるものの、一応の見解はこうだった・・・。

調査の結果は「地盤沈下現象」、こんなきれいな星型の、しかも深さがどれだけかも測れないほど深い地盤沈下?、住人はもとより、この見解には警察当局も納得はできなかったが、そうこうしていると、今度は軍隊の車がやってきて穴の周囲を広い範囲で立ち入り禁止にしてしまい、中で何かやっている様子だったが、ここまで来ると一般住民は「相当まずいことになってるらしい・・・」と感じたのか、この付近には近寄らなくなり、その話も何となくタブーのような感じになっていった。

暫くして軍隊もこの穴の科学的検証を発表したが、なぜか先の科学者たちの調査発表と同じ「地盤沈下」で、しかも今度は軍隊側でしっかり穴を埋めたとまで発表され、この穴の証拠は無くなってしまったのである。

そしてこうした穴は実は1つではなかった。

同じ晩にホランドとハンプシャーの2つの地点で同じものが発見され、いずれも似たような経緯で最後はイギリス軍が穴を処理してしまっていたが、当初イギリス軍はこの穴をソビエトが打ち上げたスプートニクと関係があるのではと考えたようだ。

この事件から1年後、非公式の見解ではあるが、この穴の処理を現場指揮したという軍関係者の話を、1人の記者がメモに残していて、そこには穴は確かに底が無く、もしかしたら宇宙から飛んできた何かの生物でもいるのではないかと言う意見が出され、放置しておくと危険だということになり、周囲を深く掘って鋼材を渡し、コンクリートで穴に蓋をするように固めて、その上から土を乗せて周囲と分からなくしたことが記されていたとの事だが、ことの真偽は分かっていない。

現在ではその場所すら明確には分からなくなってしまったらしいが、その内いつか空の片隅から石が落ちてきて、繋げられたロープが現れなければ良いのだが・・・・。




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報道に対する最も適切な対応


少し前のことだが、いつも遊びに来る某○営放送の記者が、よほど記事がなかったのか、家へ立ち寄り、何か面白い記事がないかと言うので、たまたま少し知り合いだった公共施設の館長に電話したところ、何やらイベントをやっているとの事、さっそく紹介したのだが、さすがに自分も長い間顔を出していないし、記者だけを指し向けて知らん顔と言う訳にもいかず同行したが、このイベントがまた華々しくつまらないイベントで、観客も殆どいない状態だった。

どうする、こんなんで記事を作れるかと尋ねる私に、記者も暫く考えていたが、「仕方ないでしょう、今日はニュースが1本もないんじゃデスクに怒られますから・・・」と言うので、このイベントを2人で無理やり記事に仕立て上げることにした。

まず屋外の庭にいる子供や人に、みんな施設の中へ入ってもらって、イベント展示を見学しているような映像を撮影し、それから館長と、子供、それに主婦が1人いたので、みんなにそれぞれこちらで即興で作ったコメントを渡し、その通りインタビューに答えてもらった。

しかし全員集まっても6人しか人がいないので、施設職員や私までが顔を写さないことを条件にエキストラをやらされたのだが、カメラは常に人が集まった状態を撮影し、夕方のローカルニュースで編集した映像を見ると、大変な大盛況ぶりで映っていた。

程なく昼間の記者から電話がかかり、「いやー、助かりましたよ・・・またこれからもよろしく・・・」などと言うので、こうした手段は何回か使うとばれるから、気をつけるように伝えた。

全く冴えないイベントを大盛況のイベントに作り上げるのは比較的容易だし、よくある手でもある。

しかしこうした場合、面倒なのは協力してもらった人たちだ、みんな何時に放送されるのか聞きたがるが、実際のところニュースは撮影されてもそれが放送されるかどうかは、デスクや報道部長などが裁量権を持っていて、記者ではその場で明確な回答ができない・・・。

それで後からお知らせする、と言うことで連絡先を教えてもらい、それに電話しなければならなくなる。

おそらくビデオ撮影でもして、自分や子供が映っている場面を録画する為だろうが、こうしたことをしながら、私はある場面を思い出す・・・。

1985年8月12日、午前6時56分、その事故は起こった・・・。

ボーイング747SR、日本航空123便、東京の羽田から大阪伊丹へ向かって飛行中の、このジャンボジェットが群馬県多野郡上野村の高天原山に激突したのである。

乗員15名、乗客509名のうち、生存者は僅か4名のこの悲惨な事故は、墜落までに少しだが時間があり、その間に遺書をしたためた人が多く存在した。
また殆どの遺体はばらばらの肉片になってしまい、その後の身元確認でも多くの大学研究機関の協力を必要とした。

こうした背景とその事故の大きさから遺体収容、および生存者の救出には自衛隊の出動が求められ、この中で当時11歳の少女はあのような事故にもかかわらず、殆どかすり傷程度の状態で救出され、自衛隊員がヘリコプターから垂らされたロープを使って、少女を救出するシーンは感動的ですらあった。

だが乗員、乗客含めて524名、このうち生存していた4名は全て女性だった。

それも客室乗務員や先の少女などだった為、不謹慎な話だが、芸能界、出版界では彼女たちの誰かが体験手記でも書かないか、また芸能界デビューでもと考えた者が多く存在していた。

そのため連日彼女たちは同情したような顔をした、リポーターや記者たちに追い回されるようになり、ことに映像でその救出シーンが全国放送された少女については、そのルックスや年齢の若さから、そうした期待が高まっていた。

しかし、この少女はこうしたマスコミの態度に「報道のおじさんたちへ・・」と言うコメントを出し、明確にマスコミ報道を拒否した。
こうした態度に習ったのだろう、他の生存者たちもそれから全くテレビでは報道されなくなった。

私はこの少女の姿、その表情を今でも忘れることができない。

テレビの取材にこれほど「嫌悪」の表情を表す人間はかつていなかった。
それに彼女には影があった。
そう当時大スターだった山口百恵のようなハイレベルな「影」があり、おそらく体験手記でも書いて社会の同情を集めれば、大スターも夢ではなかっただろうし、当時そうした自身の不幸な身の上を元に、スターの座に駆け上がろうとする者も少なくなかった。
また彼女にそれを望んでいた者も大勢いた。

だが彼女の態度は一応こうした事故だし遠慮して、ではなく報道に対する嫌悪感のようなものすら感じた。
実に立派だった。

おそらく彼女はしっかり人間が見えていたのだろう。
報道と言う虚飾に満ちた世界の虚飾まみれの言葉、その態度、そして不幸な事故を取材する同情者の仮面の下に隠された醜い心無さ。
多くの人が死に、自身の親まで事故で亡くした彼女に、心配そうに近寄ってくる汚い大人の姿が、手に取るように分かったのではないだろうか。

また凄いのは彼女の両親だ。
僅か11歳の少女に、こうした一言をしっかり言えるよう教育したその親の偉大さ、やろうとすれば出来ただろう華やかな暮らしに目を曇らせることなく、道理を持ってNOと言える彼女の人間的崇高さ。
それをそうあらしめた親の偉大さを感じるのであり、本来一般の人が報道に対してとる態度としては、彼女ほど適切な対応をしたものは他にいなかった。

確かあの少女の夢は看護士さんだったと思うが、今頃どこかできっと人の命を沢山救う仕事で頑張っているだろう。
いや彼女にはそう信じさせてくれるものがあった。











今こそ日本が果たすこと・・・。

戦争における要諦は、それをどこで終わらせるかにあり、すなわちこれは何をして戦争の目的が達せられるかだ・・・、だから戦争は目的の為の手段に過ぎず、作戦の終了点が決まっていない戦いは、戦争ではなくただの暴挙でしかない。

戦争を始めたときはその目的の為の外交、諜報活動も含めて全てが作戦なのであり、この作戦・・・戦争終結点があらかじめ定められていないものは、その戦火が拡大し、多くの人民を殺戮する・・・またそうした暴挙による戦いでは、絶対に勝利などおさめることはできない。

1945年4月29日午前3時30分、ナチス総統アドルフ・ヒトラーは官邸防空壕で側近の祝福を受けていたが、ベルリンはヒトラー総統の誕生日、4月20日を期して始まったソ連軍の総攻撃により、既に陥落寸前になっていた。
ベルリン市街は完全に焦土と化し、電柱には脱走罪で処刑されたドイツ兵の死骸が長く列を成してぶら下がり、砲火や銃弾は夜となく昼となく撃ち込まれ続けていた。

首相官邸の庭に掘られた地下二階の総統防空壕は、絶え間ない着弾とともに揺れ続けていたが、ヒトラー総統はついに最後の覚悟をし、愛人エバ・ブラウンを正式の妻として来世に同行すべく、4月29日午前1時から結婚式を挙げていたのである。
ソ連の砲撃音が鳴り響く中行われた式は実に簡素で淋しいものだったが、僅かに側近たちがかかげるシャンパングラスの輝きだけが、結婚式らしい雰囲気を醸し出していた。

そしてヒトラーは次のような遺書をしたためた・・・。
「この30年間、私はひたすら我が国民へ愛と真心を持って活動し続けてきた・・・、1939年に私が、いやドイツ国民が戦争を買って出たというのは全くの偽りである。
かの戦争が起こるのを希望し、けしかけたのは全てユダヤ人の子孫である国際政治家、あるいはユダヤ人の利益のために働いてきた国際政治家たちである。

ドイツ国民と国防軍はこの長く苦しい闘争に全力を出し尽くした・・・、しかし、不忠と裏切りの為、私は国民を勝利に導くことができなかったのである。
現在の陸軍参謀本部は第一次世界大戦当時のそれとは雲泥の差がある・・・」
私は間違っていない、この戦争に負けたのはユダヤ人と将軍たちのせいだ・・・と言うのである。

同じ4月29日、その前日に北イタリアでゲリラ部隊によって処刑されたイタリア・ファシスト党首ベニト・ムッソリーニとその愛人クラレッタ・ぺタッチの死骸が、ミラノ市の広場に逆さ吊りにされていた。
これを知ったヒトラーは、同じように死後の辱めを受けることを恐れ、4月30日副官にこう厳重な指示をしている・・・。
「これは私の最後の命令だ、私と妻の身体は死後直ちに完全に焼却せよ」

午後2時、昼食を済ませたヒトラーとエバは居室の中に入り、ヒトラーは午後2時40分、ピストルを口の中に突っ込み弾を発射して死亡、エバはその後で青酸カリを飲んで息絶えた・・・。
2人の死体は毛布に包まれて防空壕の外の庭に運ばれ、大量のガソリンがかけられた・・・、そして火をつけようとしたその時、庭に砲弾が着弾・・・、防空壕入り口まで退避していた側近マルチン・ボルマンは、あらためて火をつけたボロ布を投げ、2人の死体はあっと言う間に炎に包まれて燃えていったのである。

4月29日・・・同じ頃日本では天皇が午前11時30分、やはり防空壕の「御文庫」で木戸内大臣から祝辞を受けていた。
この日は何かと言うと「天長節」つまり第44回目の天皇誕生日だったのだが、新聞には天長節恒例の儀式が挙行されたと報道されていたものの、実際は東京上空を好き勝手に行き来するB29のために、警戒警報の発令と解除が続き、儀式の挙行などはなく、皇族たちの拝賀も中止になっていた。

4月12日に急死したアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト・・・、死因は脳出血だったが、日本はこの大統領の死去に伴い、世界的な政局の変化に期待したが、4月14日327機、4月15日109機のB29の空襲を受け、東京は火炎地獄となっていた。

せめてもの救いはその前の3月10日の大空襲の時に延焼して、地面だけになっていた地域を避難所として利用できたおかげで、死傷者が以外に少なかったことだが、蒲田、大森、品川、向島などで68443戸の家が焼失し、軍需工場の多くもこの空襲で焼かれてしまっていた。
東京を起点とする汽車や電車は、食料の買出しや疎開で地方に行こうとする老若男女でごった返し、こうした空襲ごとに東京を離れようとする人の数は日増しに多くなり、駅は連日乗車を争う民衆の怒号と悲鳴が響き渡っていた。

ヨーロッパでの戦線が終わったいま、日本の戦争もその終焉を迎えていたのだが、これから2度の原爆が投下されても尚、軍部は戦争継続を主張、外務大臣や首相等とポツダム宣言を巡って対立し、最後は天皇の「御聖断」を仰ぐこととなっていったのだ・・・。

戦争を起こすことは容易いかも知れない、しかしそれが終結するときは勝っても負けても民衆の死骸の山に築かれるものだ・・・、その目的は何か、それがどうしても国民にとって必要なことか・・・政治家はそれを考えて発言しなければならない。
もしそれが自国の「誇り」や「名誉」の為と言うなら、相手国がただ謝ってくれれば気が済むようなものなら、そんなものは棄ててしまうことだ。

北朝鮮は焦っているだけだ・・・、何かを引き出したくて結果を急いでいる。
こうした相手に対して国連決議などは意味を成さないばかりか、その作戦に乗っていくだけ・・・、また日本国内から起こる激しい憤りの声もそうだ。
北朝鮮を孤立化させてはならない。
第2次世界大戦開戦前、今の北朝鮮と同じように日本は孤立化した・・・、そして太平洋戦争を起こしてしまった・・・、こうした経験を持つ日本だからこそ、北朝鮮のこともまた理解できる部分があるのではないか、国際社会との間に立って交渉のテーブルに戻す努力を、日本がすべきなのではないか。

ポツダム宣言受諾の際、昭和天皇が肉声で読み上げた詔書には、アジアの共栄とその安寧と言う言葉があった・・・、今こそ日本はこの役割を果たす時なのではないか。

万民が平和を称える都の夢

京都で夕飯時期まで遊んでいると、「夕飯でもどうですか・・・」と言われるが、これを真に受けて「それでは・・・」などと言ってはいけない。
この言葉は「夕飯時期まで人の家にいるとは何と礼儀を知らない奴だ、そろそろ気を利かせて帰れ・・・」と言っているのである。

「おっと・・・思わぬ長居をしてしまいました、そろそろおいとま致します」が礼儀らしい。

さて今夜はその京都が都としてどう言った歴史を辿ったのか見てみようか・・・。

781年に即位した桓武天皇は、それまで「道鏡」以後著しくなってなっていた仏教の政治介入を嫌い、仏教界を大きく粛清し、その影響の大きい平城京から長岡京への遷都をはかるが、784年に始まった遷都は翌年785年、遷都に反対する大友、佐伯、多治比氏(首謀者はこの前月に死去していた大伴家持とも言われているが)等の謀略により、造営長官の藤原種継が暗殺され、多難な船出を迎えた。

またこうして遅れに遅れた長岡京遷都はその後、井上皇后が天皇を呪い殺そうとしたとされる事件、これは桓武天皇を擁立しようとした藤原百川らの陰謀説が有力だが、この事件で皇后と他戸皇太子が廃され、その後2人とも獄死してしまったことから始まる怨霊騒動に桓武天皇が悩まされ、788年には夫人の藤原旅子、789年皇太后の高野新笠、790年皇后藤原乙牟漏が相次いで死去するにいたり、その怨霊に対する恐怖は頂点に達し、ついに桓武天皇は長岡京を諦め、和気清麻呂の建議を受け入れ、現在の京都、平安京に遷都を変更するのである。

桓武天皇はよほど仏教支配体制を嫌ったらしく、平城京からの寺院の移転は一切禁止していて、仏教と政治を完全に切り離してしまう。

しかしもともと長岡京でもその造営は捗らず、784年に占定が始まっていながら、791年の段階でもまだ平城京の諸門を長岡京へ移す命令を出しているような有様、35万人の百姓を動員した結果がこれだった訳で、794年、怨霊におびえ平安京遷都が始まっても、この造営は大幅に長引いていき、結局初期の平安京は完成を待たずに805年に一応打ち切られる。

このときの平安京は平城京より少し広い程度で、平城京の外京を除けば、全く大差のないものだった。

東西4・2Km、南北4・95Km、大内裏から84mの朱雀大路を中心に左京、右京に別れ、各京は9条4坊からなり、1坊は4保16町、1町は4行8門の32戸主からなっていたが、都城としての外郭である羅城は完成しておらず、72坊・300保・1216町と言われた京が果たしてどこまでできていたかは疑問で、未完の都だった。

長岡京に続いて営まれた平安京が、それまでのように地名による京名を持たず、平安京とされたのは、京にやってきた民衆が異口同音に平安京と呼んだからであり、その思いの根底には万民が平和をたたえるようにと言う思いがあったと言われている。

805年に一度造営が中止された平安京だが、819年の記録では京中を見ても閑地は少なかったことが分かるし、862年にもなると朱雀大路には昼は牛馬が行きかい、夜は盗賊のたむろ、横行した府であったとなっている。

つまり平安京は初期の頃から、人は増えたがどこかで秩序が保たれない、荒廃した感じがあったようだ。

そしてこれは982年、慶滋保胤(よししげの・やすたね)が記した「池亭記」からだが、低湿地帯の右京はもはや京ではなく、この頃から白昼の京に強盗が横行するようになってきた。
つまり摂関政治は左京で行われていたことを示しているが、969年、「安和の変」で大宰員外帥に左遷された「源高明」の四条大宮の東北にあった邸宅、これなどは左遷後3日目にして殆ど全焼し、「誠に是れ象外の勝地なり」と言われた庭も荒れ果てたと記されている。

やがて貴族の政治が、東国の武者たちによって脅かされてくる平安末期になると、都は一層荒れ果ててくる。
1156年「保元の乱」、1159年「平治の乱」が京を舞台に繰り広げられ、1177年には京の大火があり、1180年には「大風」が有って多大な被害を出していたが、それとともに反平氏勢力が勢いを増し、その年の6月には福原遷都が始まって、平安京は廃墟に近いところまで荒廃していくのだった。

中世に入ると平安京は政治都市であるとともに、中世最大の商業都市としての性格が強くなっていたが、しかしこうして性格を変えながらでも、生き続けてきた平安京もようやく終末の時期を迎える。
公家の経済的基盤の最後のよりどころだった荘園が崩壊していく中で、1467年から11年に及ぶ「応仁の乱」が起こり、平安京は劫火に焼かれ、燃え尽きてしまったのである。

平安京がその政治的中心であった時期は、我々が思うほど長いものではなく、その成立時期から決して安定したものではなかった。
常に不安定かつ、荒廃した時期の方が長い。

「応仁の乱」以降戦国時代が始まり、やがて安土桃山時代、江戸時代と続き、結局都として政治が行われた時期は500年ほどだ。
しかし我々が「日本」を思うとき、どこかで京都、平安京を意識するのではないか、どこかで心のよりどころとなっているのではないかと思う、そしてこれこそが「京都」の意義ではないだろうか。

怨霊に怯え、造営が始まった当初からうまく行かなかった平安京。
しかしどうだ、万民が平和を称える都の夢は、今や世界の都となったのではないか・・・。




からくり予算

「あ・・・、どうぞ入って・・」
「これはこれは大臣、わざわざお声をかけて頂きまして、恐縮です」
「ま、堅いことは良いから、座って・・・、それでこの間の件なんだけど、どうかな」

与謝野財務大臣は次官に席を勧めると、自分もソファに座り、手を前に組んでいつものポーズを取ったが、麻生総理の気まぐれ発言で、仕方なく組まなければならなくなった「骨太予算」、つまり追加経済対策では、一体どうして良いものか悩んでいた。

それで財務省全体としてはどうなのかなと思い、それとなく次官に意見をまとめさせていたのだったが、次官が持ってきた追加経済対策案はとても「えぐい」ものだった。

一通り書類に目を通した与謝野大臣・・・、「うまいことを考えたね・・・、これだったら国民は分かりはしないだろう」

「はっ、ありがとうございます」
「だが、この予算の使い道は何とかなるのかね・・・」
「そちらは各部局に指示して、今使い道を精一杯出させているところです」
次官は少し誇らしげに追加経済対策の構想を話し始める・・・、それはこう言うことだった。

15兆円の追加経済対策・・・、この予算の裏づけ、つまりどこから金を持ってくるかだが、11兆5000億円は赤字国債、そしてポイントは3兆5000億円・・・、これが埋蔵金から拠出することになっていた、何と各省庁でプールしている金を使おうという訳だが、「そうか霞ヶ関も国民の窮状を考えて、覚悟したんだな・・・」とか思ったら大間違いだ。

この追加経済対策予算の内、使い道がきまっているものは殆どなく、目的の明確ではない・・・つまり使い道のない金になっていて、結局霞ヶ関は3兆5000億円を出しても、少なくとも7兆円がまた各省庁や、その天下り先へ戻ってくる仕組みになっているのだ。

3兆5000億円出して7兆円が返ってくれば結構なものだ、またこうして霞ヶ関も3兆円以上吐き出しましたよ・・・と国民にアピールできる、官僚批判もかわせる一石二鳥の策なのだが、ついでにこの追加経済対策案には将来の増税がセットになっていて、よく考えてみれば国民が15兆円の追加経済対策予算の内、使えるのはせいぜい6兆円くらい、後は訳の分からないところへ消えて行き、将来増税と言う形で負担させられることになっているのである。
こんなものは追加経済対策でもなんでもない、泥棒にプレゼントを贈っているようなものなのだ。

冒頭で与謝野大臣が、次官に予算の使い道は何とかなるか・・・と聞いているが、これはきちんと名目を付けて、予算をまた回収できるか・・・と訪ねているのであり、これに対して次官が、一生懸命何とか根拠のない名目を付けて、予算を使ったように見せる工夫をしています・・・と答えているのである。

小泉内閣ではアメリカに倣ってコンパクトな政府を目指していたが、その後安倍、福田内閣と放り投げ内閣が続いた結果、麻生政権ではまた大掛かりな政府、バラまき財政、大幅増税の道を辿ってきているのだ。
しかし、この責任の一端は国民にもある。
バブル経済が破綻してから、銀行が政府から公的支援を受けるに至り、アメリカ型の会計システムが導入され・・・この背景には会計の国際基準をアメリカのシステムに求めたからだが、このおかげでそれ以降銀行の貸し出し基準が厳しくなった。

ついでに先のサラ金規制法案によって、中小企業や小規模事業主の資金調達が困難になってしまい、こうした背景から公的資金、つまり補助金を目当てにした事業展開が増え、ますます政府や行政に対してものが言えない環境になり、その上更に政府や行政頼みの企業が増加していった。
こうした一般市民の政府、行政頼みの体質が求める先はバラまき財政に他ならない。

また2009年5月18日、アメリカの格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは円建て日本国債の格付けをそれまでの「Aa3」から「Aa2」に格上げしたが、これで先進7カ国の中で最下位だった日本国債はイタリアと並んだ。
しかし、これはどう考えても不自然だし、おかしい・・・、追加経済対策では11兆円を超える赤字国債を発行し、その先行きの見通しもきわめて甘い日本経済に対して、国債の格付けは引き下げられても、引き上げる要因がないのだ。

この背景はアメリカのエゴイズムにあるだろう。
アメリカ経済の建て直しには、暫く日本の経済力が必要になる、それには日本経済が破綻してしまってはどうしようもない為、追加経済対策で一番危険になった日本の国債を持ち上げて置く必要があった、しかしアメリカが何かを担保するようなことは避けたいので、ムーディーズに国債の格上げをさせた・・・と言うのが正解だろう。

ムーディーズは日本経済が赤字国債の大量発行にもかかわらず、景気回復後には赤字削減路線に入る・・・と言っているが、こんな甘い見通しの格付け会社などそもそも信頼できない・・・、同社は否定しているが、必ずアメリカ政府が背後にあって、操作している。
この格付けに日本政府は気分をよくしているかも知れないが、これによりドルに対して円が高くなり、日本は自動車などの輸出で競争力が弱くなる・・・つまりアメリカは自国産業を保護する目的も持っているはずで、まさに一石三鳥を狙っているのである。

この結果日本の行く末はもう分かるだろう、アメリカが経済を立て直す頃、日本は大増税の時期を向かえ、そのとき日本経済は一挙に不景気に陥るが、それはアメリカには関係がない、むしろアメリカ経済にとっては好ましいことなのだ。

「次官、君は確か東大だったね・・・」
「はっ、大臣の3年後輩になります」
「いいね・・・これからもよろしく頼むよ」
「はっ、それは総理を目指されると言うことですね・・・」
「何を言っているんだ、私は総理など考えたこともないよ・・・」
「そうでしたね、このプランでは麻生総理はどうお考えになりますかね」
「あー・・・、あの方にはこんなことは分からないよ、それより君はなかなかセンスがある、今度どうかね、時間をとるから一緒に食事でも・・・」
与謝野大臣は余り表情を表に出すタイプではなかったが、この時少しだけ口元が緩んでいるのを次官は見逃さなかった・・・。

この話はフィクションと言うことで・・・。

生物絶滅の歴史

羊が1匹・・・羊が2匹・・・眠れなくて困っているとき、羊を数えて眠った経験のある人は多いと思うが、こうした場面でどうしても途中まで行くと、「そこへオオカミが出てきてガォー」・・・とか言いたくなった私は、やはり少し変な子供だったのではないかと思う・・・。

さあ、今夜は生物の絶滅について考えてみようか・・・。

太陽が生まれて間もない頃、その明るさは今の太陽より暗かったのではと考えられているが、そう今の太陽の70%くらいの明るさだったようで、その後地質時代を通じて少しずつ明るさを増していったと推測され、こうしたことから温室効果がある二酸化炭素の量が、もし現在の地球に存在する量と同じなら、確実に海は凍結していることになる。

太陽光が地球に与える影響は大きく、数%減少しただけで海は全凍結してしまう。

しかし地質学的検証ではこの38億年の間に海が完全凍結した事実が殆どなく、太陽が暗い太陽から明るい太陽へと変化してきた経緯を考えると、海が完全凍結しなかったと言うのは不自然であり、このことを「暗い太陽パラドックス」と言う。

ではこのパラドックス(矛盾)をどう考えたらいいのか、二酸化炭素の量が現在より大幅に多く、それによって地球に温室効果があり、太陽光が少なくても海が完全凍結しなかったのではと考えられたが、こうした説も現在では地球の初期大気成分がメタンであり、温室効果がメタンガスによって得られていたとされるようになってきている。

この理論からすれば、メタンから二酸化炭素に切り替わったとされる時期が出てくる訳で、約23億年前、多分地球は陸も海も1回完全凍結していたことになる。

そしてこの時地球に発生していた生命は細菌類だったと思われるが、この状況を細菌類は生き抜いて現在の生態系に至っているのか、絶滅して新しい生命の進化が始まったのか、それとも細菌類はそのまま生き抜いて、凍結期間が終わったら別進化系の生物が発生したのかはわかっていない。

また原始の地球大気が入れ替わってきた時期、それまであった二酸化炭素を吸収して光合成を行うラン藻類などは光合成により酸素を放出するようになる。
これにより少しずつだが確実に大気や海の酸素濃度は高まり、結果として二酸化炭素を吸収して生命を維持していた生物にとっては緩やかな絶滅があったと考えられる。

地球大気の変化は、二酸化炭素呼吸の生物から酸素呼吸の生物への入れ替わりになり、空気中の酸素はオゾン層を形成、太陽の紫外線を除去した環境が生まれ、ここから時間をかけて水中生物から陸上生物の時代が始まっていった。

カンブリア紀、今から5億7000万年前だが、脊椎を獲得した生物と、脊椎がない無脊椎動植物の区分けがこの辺から始まり、それまで海草やクラゲのような生物しかいなかった海に、魚類や三葉虫などの生物が発生してくるが、この3000万年前からそのまた2億年前、つまり今から8億年から6億年前には大規模な地球の寒冷化があり、この時にもそれまでの生物は大量絶滅しているはずである。

さらに今から2億6000万年前、地質的な年代区分では二畳紀(ペルム紀)の後期と言うことになるが、このときは地球上の全生物の70%が失われたとされていて、ここから1000万年後の2億5000万年前には実に全生物の90%が、その後 二畳紀と三畳紀の間、2億2500万年前にも全生物の90%が死滅したことが、調査によって明らかになってきている。

これらの期間は2段階、3段階で生物の絶滅が進んでいて、その原因はおそらく地球規模で始まった大規模火山活動によるものと推測されている。

中国南部、コロンビア、シベリア、アフリカ、ブラジルなど広く分布する火成岩の年代が、これらの生物絶滅の時期と重なることから、こうした考えが唱えられるようになったのだが、火山活動によって海水の酸素が急激に失われる現象が起こったようで、「海洋超酸素欠乏現象」と言う名前で仮説が立てられているが、宇宙からやってきた天体との衝突を唱える者も一部には存在し、オーストラリア北西部の海底に2億5000万年前の衝突構造が発見されたことから、一時議論になったが、天体の衝突説には疑問も残っている。

このときの生物絶滅期をP/T境界と言い、二畳紀と三畳紀の境界を指しているが、この生物絶滅期に三葉虫やフズリナなど、カンブリア紀に発生した生物は絶滅した。
シダ類などの陸上植物、肺魚、昆虫や爬虫類なども3000万年の間に3段階で大部分が死滅していったのである。

そして中生代白亜紀と新生代第三紀の境界にあたる今から6500万年前、このときも地球の生物の90%が死滅している。
恐竜や2億5000万年前の絶滅を生き抜いたアンモナイトまでがこの時期絶滅し、哺乳類の多くも死滅した。

このときの原因は小惑星や彗星の衝突であったとされているが、イタリアのアルパレッツ達が白亜紀と第三紀の境界の地質を調べた結果、この地質に通常より高い濃度でイリジウムが含まれていたことから小惑星衝突説は有力視され、ユカタン半島に直径100Kmの衝突構造を形成した小惑星の衝突が、この時期に一致していることから、生物絶滅の要因とされてきた。

しかし近年生物絶滅とこのユカタン半島の小惑星衝突は、30万年のずれがあることが分かってきている。
ユカタン半島の小惑星衝突は、生物絶滅の30万年後のことだった。

また恐竜の絶滅に関しては、この時期の少し前から植物が裸子植物から被子植物への変化を示していて、これは簡略に言うと「木」から「草花」への移行であり、これによってそれまで大型の草食恐竜達の食物だった「木」がなくなり、草花では高さが低く、食べることができずに草食恐竜が死滅、それを捕食していた肉食恐竜も死滅したのではないかと言う説もある。

これによると、植物は裸子植物では恐竜に食べられてしまい、子孫を残せないことから、自身を草や花のような被子植物へと変化させた、つまり種の存亡を賭けて恐竜達に抵抗したことがきっかけで恐竜が滅んだことになるが、何とも生命の機微を感じる説である。

かろうじて人類の祖先が発生してきた頃、今から400万年前から今日まで、たったこれだけの期間でも氷河期が5回以上あって、そのたびに少しずつ生物は変遷をとげている。
またこれまでに地球で確認されている衝突構造、つまり小惑星の衝突痕は150個以上。
つまり150回は小惑星が地球にぶつかっていて、その内何回かは地球生物の殆どが死滅したこともあっただろう。

だが、こうして見ると大量絶滅がある度に、次は破格の多様性を持って生物は繁栄を極めている。

生物にとって大きな試練はまた大きな繁栄ももたらしている。
だから滅びることは何も恐いことではなく、次に興る生物の為の道筋ともなっているのであり、私たちもまた連続する生命の流れの一端なのであり、これをして生物は永遠の生命を持っているとも言えるのである。

だから個々の生物はどんなことがあっても生きることを諦めてはいけない。
どんなに辛くても苦しくても、今を生きる者は生きる責任を持っている。
この地球に生命が生まれてから38億年、現在この地上に存在する全ての生物は、幾多の絶滅の危機をくぐり抜けてきた誇り高き「生命」の末裔なのだから・・・・。



「金の卵を生むガチョウ」

これまでいろいろ怪しい話を書いてきたが、今夜の話はその中でも群を抜く怪しい話と言うことになろうか・・・笑わずに読んでいただきたいが・・・。

1955年、アメリカ農務省の1室、このところ3日を開けずに届く手紙に閉口していた職員は、仕方なく7月17日、手紙の差出人であるマックレガー農場に立ち寄った。
この農場の経営者であるマックレガー老人が何を農務省の職員に問い合わせていたと言えば、ガチョウの卵の孵(かえ)し方だったが、そのようなものは大して難しい話ではなく、凡そむかしから決まっているものなのだが、それを何度教えてやっても、どうも上手くいかない、何か方法を教えてくれ・・・と言うのだ。

今日こそはそのことをはっきり本人に伝えてやらねば・・・そう思ってマックレガー農場を訪ねた職員の目の前には、広大な綿花畑が広がっていて、ガチョウの群れが騒がしく鳴きながら畑の草をついばんでいた。

「ガチョウを飼うのと畑の雑草とりを一石二鳥でやっているのか・・・結構たいしたものだ」職員はさっそくマックレガー老人に面会を求めたが、マックレガーは血色の良い太った老人で、職員は取りあえずガチョウがいる小屋を見せてもらいたいと伝えたが、どうもこの老人の話は訳が分からなかった・・・小屋を見せてくれと言うと、「それは困る」と言い、状況が分からないと解決策も分からない、と言うと、ここで教えてくれ・・・と言って妙にガチョウ小屋を見せることを拒むのである。

「マックレガーさん、冗談はもう止めにしてくださいよ、私はもう帰りますよ」・・・、見せろ、見せないの押し問答になった職員は苛々してこう切り出したが、マックレガー老人はこれにはさすがに参ったようで、慌てて引き止めると、ポケットから一個のタマゴを取り出した。
見たところ何の変わったこともない普通のタマゴだったが、何気なく手に取った職員は危うく落としそうになった・・・、それはタマゴの重さではなかった、ズッシリと重かったのである。

「大丈夫、落としても割れませんから・・・」マックレガー老人は笑って見ていたが、職員は言われるとおり板の床に落としてみた・・・、当然グシャっと割れると思ったが、何とゴトっと言う鈍い音がしたものの、卵は割れなかった。
拾い上げてみると、タマゴの白い殻が少し剥げ落ちていたが、その下に見えたものは信じられない話だが、金色をしていた・・・、つまりこのタマゴは白い殻の中身が金色になっていたのだ。

「まさか、これは金・・・」職員は思わず老人の顔を覗き込んだが、老人は得意そうに「そうじゃ・・・」と答え、今度はそのガチョウがいる小屋へ職員を案内した。

広いガチョウ小屋には、片隅に特別製のかごが置いてあったが、その中には何の変哲もないガチョウが1羽だけ入っていて、老人の説明によると、このかごのガチョウが問題のガチョウなのだが、元は畑に放してあって、ある日突然金の卵を生みだした・・・と言うのである。

「うーむ・・・取りあえず本省へ報告しないと・・・」職員は唸ってしまったが、これはひょっとすると大変なことかも知れない、上司に報告せねば・・・と思い、急ぎ帰ろうとしたのだが、老人は「それは困る」と言う・・・、このタマゴをうまく孵せば金の卵を生むガチョウを幾らでも増やせる・・・金鉱を探り当てたようなものだ、どうだこのことは2人の秘密にしておいて、タマゴの孵し方を教えてくれ、そしたら分け前をやろう・・・と言うのである。

だがこんな話に乗れるはずがない、職員はマックレガー老人を説得し、金の卵を一個貸してもらい農務省へ戻ったが、「バカだなお前は・・・、そんなものサギに違いないぞ」・・・、上司は実物の金の卵を見ても信じなかった。
しかしまあ、取りあえず研究室へ回して調べることは許可してくれたので、研究室へ持ち込んだ職員は、その結果に唖然とした・・・、大きさは普通、しかし金の殻は厚さが平均で2mmもあり、その重さは853gもあったのだ。

おまけにその金の殻の中にはちゃんと白味と黄味が入っていて、その成分は普通のタマゴと変わらなかった・・・、が、黄味を熱してみたとき始めて差が出てきた・・・、カチカチに硬くなったのだ、テストをしたテンプル大学の科学者は言った、この卵は何らかの事情で黄味が金の成分の影響を受けている、これでは孵化しないのは当然で、その金の卵を生むガチョウは一代限りのミュータントなのだ・・・と。
しかしどちらにしてもこのタマゴが金の卵であることはこれで実証されたのである。

7月20日、農務省はこの結果を受けて極秘に「ガチョウ計画」を立ち上げた。
マックレガー農場に自動小銃を手にした軍隊が降り立ち、「ここはわしの農場だ」と立ちはだかるマックレガーの前に、役人が紙切れを突き出す・・・、政府の強制接収だった。

「騙したな・・・」マックレガーは叫んだが無駄だった、確かにただで取り上げる訳ではなかったが、強制的に農場全部が買い取られ、この瞬間からマックレガーは農場の一切の権利、つまり金のガチョウの権利も失ってしまったのだった。

その後、この農場の周辺には鉄条網が張り巡らされ、一切の立ち入りは禁止、軍の厳しい管理下に置かれることになったが、やがてそこへ科学者たちも現れ、綿密な調査が行われた。
その結果この金の卵を生むガチョウの肝臓と卵巣に金の成分が多く含まれていることがX線写真でわかったが、ではその金はどこから入ってくるのか・・・と言う問題が出てきて、飼育飼料や農場の土なども検査したが金など全く出てこない、仕方なく今度はガチョウの胃の中を調べてみたが、何と飼料には全く含まれていないのに、胃からは金の成分が検出されたのだった。

「とすると・・・金は外から摂取されたものではなくて、ガチョウの体内で生産されていることになるが・・・」
「バカな、そんなことが有るはずがない」

8月25日、この調査の研究会議が開かれたが、科学者たちは皆頭を抱えたままだった・・・、が、ここで1人の科学者がこんな話をする。

これは核の融合反応・・・つまり水素原子4つをくっつけてヘリウムに変える・・・、あの太陽と同じしくみで、ガチョウの体内で何かが金に変わっているのではないか・・・、だから毎日40グラムもの金を生み続けることができるのではないだろうか・・・。

この会議を受けて9月5日、マックレガー農場に今度はカリフォルニア大学から、大勢の物理学者たちがやってきた。
そしてその調査結果がこれだ・・・。
「このガチョウは空気中から吸い込んだ酸素を鉄に変え、その時に発生するエネルギーを使って鉄を金に変えている・・・、それでバランスが取れていて、水爆のように爆発を起こさないのではないか、つまりこのガチョウは生きている原子炉・・・と言うことになる」と見解した。

鉄を金に変える話は、今に始まったことではない、古来より永久機関とともに、あらゆる時代でそれを試みた者がいるくらいだから、人類憧れの研究で、こうしたことを指して「錬金術」と言うのだが、何もないところから金を生み出すことで言えば、カネ儲けのことも言うが、未だに伝説はあっても誰も成功したことがない研究、これをガチョウがいとも容易にやっている・・・、にわかには信じがたい話で、この物理学者達の調査研究発表でも最後にはこう言う言葉が付け加えられた。
「現代の科学では解明がつかない、また私たちも信じられない・・・」
そしてこの研究に関して言えば、未だにその内容は極秘のままになっている。

この話を家のスタッフ女性に話したら、軽く笑われてしまった・・・が、この話の出所はボストン大学生科学教授、アイザック・アシモフ博士なのだが・・・・。

民主主義の行方

一般に西欧民主主義には3つの発展段階があると思ったほうが良いだろう。
第1の段階は19世紀の中頃までで、言わば「お金持ち仲良しクラブ・民主主義」とでも名づけようか、この段階の民主主義の特徴は議会の選挙権が資産、租税額、教育程度などによって制限されている、つまり制限選挙制下での民主主義である。

この場合民主主義と言っても一部のお金持ちや有力者がそれを享受できるのであって、政治の運営はもっぱら教養と財産を持つ名家(上層の商業ブルジョアジー、知識人、地主層)などにそれが委ねられていた。
言い換えればこの段階では小ブルジョアジーや労働者などの社会的下層、大衆が政治に主体的に参加する道は閉ざされていた。

これに対して19世紀末になると、各国で普通選挙が普及してくるとともに、西欧民主主義は「お金持ち仲良しクラブ」の段階からいわゆる大衆民主主義の段階、第2段階へと転換し始め、この新しい段階においては社会の下層大衆が、政治に参加する道が制度的にも開かれていくのである。

そして20世紀、第2次世界大戦後の民主主義、学説的にはこうした区分はないが、これを第3段階として、「人気取り民主主義」とでも呼ぼうか、いわゆる「過ぎた民主主義」が発展してきたが、これは第2段階において発生してきた政党の大衆化によって、その兆しが見え隠れしていたものが、決定的になった状態を区分したものだ。

民主主義がそれまでの「お金持ちクラブ」から大衆化して行くとともに、政治にさまざまな新しい傾向が目立ってきたが、その1つは政党のあり方である。
「お金持ちクラブ」の段階においては政党は有力者たちだけによって構成され、しかも組織的な結合の弱い文字通りクラブのような存在であったのに対して、大衆民主主義の到来によって、政党は広く社会の下層大衆を党員として包摂し、その組織もきわめて大きく発達した大衆政党になる。

その代表的な例がドイツの社会民主党で、同党は第1次世界大戦勃発のころには100万の党員を擁し、ピラミッド型の膨大な党組織を持っていた。

このような政党のあり方の変化は、議会政治そのもののあり方にも大きな影響を及ぼし、かつて議員は自分自身の判断に基づき、比較的自由に議場で発言したり、投票することができたが、組織の発達した大衆政党のもとでは、個々の議員の発言や行動は、その党の方針によって厳しく律せられることとなり、もしそれに違反すれば党の処罰を受けることになる。
つまり「お金持ち仲良しクラブ」の段階では政治の単位が個人だったものが、大衆民主主義の段階では政治の単位が政党となったわけである。

その他、労働組合や企業家連盟、農民団体などのように、社会の各層がそれぞれの利益に応じて利益団体を結成し、政党や政府に働きかけるようになるのも、大衆民主主義段階の特徴の1つと言えるだろう。

だがこの大衆民主主義は弱い部分がある。

それは日本の犬飼毅内閣(1931年)の例をみれば分かりやすいだろう、彼はそれまで国際社会との協調外交をその方針としていたが、総理の椅子欲しさに大衆や軍部に迎合し、それまでの方針を転換してしまうのだ。
その結果がどうなったかと言うと、同じ日本軍の中にあった統制派と皇道派の派閥争いに巻き込まれ、統制派に反発した青年将校が5・15事件を起こし、この犬養首相は射殺され、ついには日本の政党内閣は終焉を迎えてしまったのだった。

総理の椅子と自身の政治的信条を取引した犬養は、政党、つまり支持団体に迎合したのであり、その結果が政党政治の終わりに繋がってしまった。
いわゆる軍部独裁政権の道へと繋がって行った。

また政党政治は暴力に対して弱い。
これは団体であるが故の責任の分散によるもので、自分の意見に対する覚悟が薄いことに起因している。

そして戦後、日本だけではなく、世界は経済的発展を遂げ、その情報伝達手段も破格に早くなった。
また豊かさは更なる富を求めてさまよい、人々は政党を通して政治を自身の利益誘導手段として活用するようになったが、この段階でも日本の民主主義はまだ「お金持ち仲良しクラブ」の要素を持っていて、それは長い封建制度が形骸とは言え、まだ形を成していたからだが、政治家は2世、3世の世襲が多く、また政治家になろうと志す者は、依然として地方の有力者であるパターンがあったからだ。

これがバブルを挟んで1990年初頭、自民党の衆議院総選挙の敗北を機に、一挙に世論に敏感なものになっていき、形として民衆の言いなりのような形になっていったが、ここで世論と言うものに対する過剰な意識は、相対的にマスコミの影響力を増長させる結果とも繋がって、それを政府が利権を盾に利用していく図式が出来上がった。

さらにインターネットの普及とともに、次第に民主主義が過剰に個人的な意見に左右されることとなり、マスコミの影響力は次第に低下し、映像中心主義へと変節、インターネット社会がついにマスメディアを追い越すに至って、政党や政治家は「世論」と言うものにびくびくしながら政党、政治活動を行わなければならなくなった。

こうした民主主義を「民衆主義」「衆愚政治」と言うのであり、すなわち政治家はその政治的能力はともかく、民衆受けしなければならなくなり、ここに国家を概念としたイデオロギーを持つ政党政治は消滅し、民衆の「個人」は政治家に潔白、品行方正であることを求め、その政治的評価の基準が「人間性」と言う事態を迎えるのである。

民衆と政党は民主主義における車輪の両輪に相当するもので、どちらか片方が力を増すとその意義は薄れ、政治は誤った方向へと向かってしまう。
また総理総裁と言う椅子は、時に政党や民主主義そのものを、その椅子と取引させるほど、魅力のあるものだと言うことも憶えておくと良いだろう。

最後に・・・潔白、性格の良さと政治的手腕は、相反命題、絶対一致しない。




生命の単位

生物と言うものを究極的に追い詰めていくと、それは細胞と言う単位にまで行き着くが、この細胞を探っていくと、非常に哲学的な概念が発生してくる。

今夜は一つ細胞から人間を追いかけてみようか・・・。

細胞を初めて顕微鏡で観察したのは17世紀のフックだが、1838年シュライデンは細胞が植物の生命の単位であると主張、翌年シュパンが(ショパンではない)それを動物にまで拡大し、こうして細胞がを自立的な生命単位として認められるようになった。
つまり理論として確率するのは、19世紀のことだった。

だが細胞が細胞分裂によって増殖することが明らかになるのは、更に多くの研究者たちの研究を必要とし、その中でも余りにも有名な「細胞は細胞から」の言葉はビルヒョウの標語だが、生命単位イコール細胞説の登場によって、人体の構造についての解釈が激変していったのである。

まず「個体発生」の概念だが、精子と卵子が受精し、次に単一細胞である受精卵が分裂をしていく過程であることが分かってきた。

これ以前は個体発生について、前成説と後成説に分かれていて、大激論になっていたのだが、前成説は完成された身体の構造が精子や卵子の中にあらかじめ存在すると言うものであり、後成説は、胚の単純な構造が完成体の複雑な構造へと発展していくと言うものだった、そして細胞説は前成説を否定する結果となったのである。

細胞説とそれに基づく個体発生の概念は人体の男女差の概念においても影響を与え、すなわち男性と女性の身体的構造は基本的に異なってはいない、個体発生の僅かな違いによるものでしかないことが認識されてきた。

男女差が最も顕著な生殖器であっても、個体発生の途中までは、男性器の原基と女性器の原基が両方とも作られ、その後に男女どちらかに向かって分化し始める・・・。

さらに発生過程の違いは染色体の構造の違いによって生じるが、人間の染色体は46本あり、その内の44本は男女が共有して持つ常染色体で、2本の染色体が男女の違いを発生させる染色体であり、男の染色体はXとY、女の染色体はXとX、男と女の差はたったこれだけのことなのである。

また個体発生における、「個」と他の識別についても面白い概念がある。
身体を細菌やウィルスから守る免疫反応だが、細胞が表面に持っている「組織適合抗原」と呼ばれる物質を利用して、異物の抗原を認識していることが分かってきていて、免疫系の働きの基本は自己と非自己の物質を識別することにあることから、リンパ球は抗原提示細胞の表面に、異物の抗原と同時に自分の組織適合抗原を認識して、始めて抗体を生産し始めるので、組織適合抗原は免疫系にとって不可欠の条件になっている。

免疫系は他人の組織適合抗原も、勿論排除し、細菌などの異物は貪食細胞に取り込まれ、その細胞が持つ組織適合抗原と一緒に提示され、異物として認識される。

分かりにくかったかも知れないが、免疫機能は自分と言うものの見本と、それ以外の他を同時に出して、比べて「他」を排除する為に必要な措置を講じているということだ。

個人の境界として哲学的な自我はあっても、それの明確な区別は人間には見えないし、なかなか理解できない。
しかし現代医学では自身の体がそれを明確に区別して、他を排除している。
すなわち自己と他は、既に遺伝子によって支配されるものとなっているのである。






黒いストッキングの女

1980年代、ある日のポーランド、ワルシャワ・・・。

この数年前に旅したときはソビエト(現在のロシア)も、このポーランドもひどいものだった。
レストランがあって、やっと入ることができても、1時間以上待っても誰も出てこない、こちらから呼びに行って始めてウェートレスが出てくるが、そのメニューは沢山あっても作れるのは1品しかないなど当たり前、ホテルの部屋は、これは安かったからかも知れないが、小さな電燈のスイッチは手で閉めたり緩めたりの形式だった。

だが、この2度目のワルシャワでは少しどころか大変な変貌ぶりで、それもホテルや一流レストランで見かけるのは、多くのネクタイをした日本人の姿だった。
みな、同じ日本人だと思えば陽気にグラスを掲げ、それに応えるようにあちこちで酒のグラスが掲げられていた。

レストランでのことだったが、たまたま近くにいた会社役員と言う、50代ぐらいの日本人男性が私に話しかけてきて、「今夜の相手はいるのか・・・」と言ったが、はじめ何のことだか分からなかった私は、その内、この男性がサウジアラビアから女を買いに、ワルシャワに来ていることが分かり、ついでにこの会社役員の武勇伝を聞かされることになった。

「150ドルで3人とやった・・・、本当にワルシャワは良いな・・」
彼はワルシャワ女性が1人100ドルだと言うのを、「まけろ、まけろ」といい続け、ついに70ドルまで下げさせたが、3人で200ドル、つまり3人買ってくれと言うわけである。
3人は要らない、1人でいい・・・の押し問答が続き、結局3人を150ドルで買うことになったと言うのだ。

全くどう言う体力をしているのか理解に苦しむが、彼はホテルのロビーで延々女性たちと交渉を続け、その夜は3人を相手にしたらしかった。

私はこの時代の日本人が一番嫌いだった。
金さえあれば何でもできる、いや何をしても良い、そう思っている。
何が悪いことで何が良いことなのかを見失っていた時期だと思う。

だからこうしてあぶれている夜の女たちは、仕事がなくなるよりは、と思って自分を安く売ってしまっていたのだが、金をもっていて、なおかつこうした女性たちを安く買おうという、そう言う精神が気に食わなかった。

この時代ワルシャワでは150ドルが大金だったことは確かだ。
1ドルが約50ズロッチ、これが闇のドルレートだと更にドルが高かっただろうし、日本円でも1ズロッチが5円ほどの計算からすると、彼女たちは一晩で150万ズロッチを稼いでいたことになるが、これはこの頃のワルシャワの労働者たちの年収に相当する額面だ。

こうした背景から、ワルシャワでは一般家庭の女の子や、それまで普通の暮らしをしていた女性までが「夜の女」になって行き、挙句の果ては需要があったのか、幼い少女までが男の遊び道具となっていたのである。

また当時の日本は石油関連の事業を伸ばしていたから、商社や金融、一般大手企業も中東へ社員を派遣しているケースが多かったが、戒律の厳しいイスラム社会では到底「女」など調達できるものではなく、他人の女房を長く眺めていただけで罰せられる場合もある訳で、こうしたことから派遣されている企業の社員たちは、当初フランス・パリなどで「女」を調達していた。

だがこの時代、パリやヴェネチアでも「夜の女」と言えば、一晩の稼ぎが普通の職業労働賃金の2.3日分、つまり余り面白くない職業であることから、一般的には危険な女が従事していた。
薬物中毒、アルコール中毒、生活破綻者などの女性が多く、金を盗まれる、背後で仕切っている暴力組織とのトラブルなど、日本企業の社員がいざこざに巻き込まれるケースも多かった。

それゆえ社員の安全性を考えて、企業はその慰安と称するものを、安くて一般家庭の女性が多いワルシャワに求めていたケースがあった。
つまり企業が推薦して女はワルシャワで・・・とやっていたのである。

だからワルシャワを歩いていれば若い女からよく声をかけられ、みな怪しげな日本語が喋れる訳だ。
この頃聞いた話だったが、彼女達のようなワルシャワの女たちの顧客リストには、大量の日本人の名刺があったと言われている。

そして日本人が好むのが、黒いストッキングをはいた女で、白も人気があって、ワンピース姿が隠れたアイテムだったらしい。

くだんの会社役員は嬉しそうに話を続ける。
女と寝るときは、こちらへ(ワルシャワ)きた時に交換した、他の日本人の名刺を使って寝るのが流行ってるんですよ、本でもそう書かれてましたからね・・・。

私は本当は心のどこかで、今日の日本の窮状を妥当だとしている部分がある。
どこかで日本を憎んでいる。
それはこうした事を見て来たからかも知れない。
「こんなことをして・・・いつか滅んでしまえ」と何度も思ったことがあった。

始めてワルシャワへ旅したとき、貧しかったが普通の女の子、それもおそらく10代の女の子が100ドルで自分を買ってくれと言うようなことはなかった。
ホテルにはそれらしき女性もいたが、かなりの年齢で、しかも数は少なかった。

経済的に貧しい国ではまともに働いても大した金は稼げないが、そうした地域へ外貨が入ってくると、女の値段は国際的に何百倍、何千倍と言う格差がないため、女にかかわる産業が一番稼ぎが良くなり、そうした世界へどんどん人が引き込まれていく。
やがてその国の経済が発展してこうした女を売る価格の国際的格差がなくなると、自然にその国から女を売る仕事に従事する者が少なくなる。

これは一つの経済的原理であるかも知れない。
またこうしたことがなければ、その国の人たちが暮らしていけないのも事実だろう。
だったら、せめて金を持っているなら女の子を「値切るな!」

私もホテルのロビーで2人の女の子から声をかけられた。
2人とも20代前半くらいだったと思うが、「金がない」と言って断った。
少し不思議そうな顔をしたが、次の瞬間にはニコッ笑ってお辞儀し、別の日本人男性のところへ移っていった。

彼女たちのあの明るさがワルシャワの唯一の救いだったか・・・。
外はワルシャワらしい冷たい雨が降っていて、彼女たちもまた黒いストッキングをはいていた。







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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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