死後の格差

地獄の沙汰も金次第。
いや、まさかそんなことはあるまい、せちがらい世の中とは言え、せめて死んでから後ぐらいは公平であろうと思いたいが、やはりそうはいかないものらしい。

2009年6月28日、富山市で生活保護を受けていた56歳の男性の遺体が、生前本人の同意がなかったにもかかわらず、富山市によって学生の解剖実習用に、日本歯科大新潟生命歯学部(新潟県)へ引き渡されていたことが、地元新聞などによって報道された。

それによると男性は2009年4月22日、市内のアパート自室で死亡しているのが発見されたが、富山県警は事件性がないと判断、警察署に一時安置したものの、富山市の依頼を受けた日本歯科大学が、4月24日に引き取ったと言うものだ。

この男性は富山県出身で日雇い労働者として働いていたが、その際勤務中に骨折し、路上生活者となってしまい、2008年末から生活保護を受けていたが、孤独死のうえ、連絡したが遺族からは遺体の引き取りを拒否された。
それで富山市は日本歯科大学への引渡しを了承したと言うことだ。

富山市福祉課は「受け入れ先が見つかった以上、市の仕事は効率的、経済的にすべきだと判断した」と語っているが、確かに火葬して無縁墓地に埋葬するから見れば、大学が引き取ってくれれば金もかからず効率的だ。
が、この男性は生前に献体の同意をしていなかった。

法的には「死体解剖法」で、こうした引き取り手のない遺体の場合は、本人の同意がなくても研究機関での解剖が認められてはいる。

亡くなった人が生前「献体」の登録をしている場合も同じだ。
しかしこの登録がなくて引き取り先がない遺体は行政が生活保護法、墓地埋葬法などに鑑み、都道府県が費用を負担して埋葬する方法が1つ。
そしてもう1つ、献体用に大学などの研究機関に引き渡される方法の2つがあるが、どちらも合法ながら、これでは遺体によって死後の扱いに随分と大きな差が発生しかねない。

またこれは北陸の他の県での話しだが、こちらも50歳代の男性が生活保護を申請中に、料金未払いで水道や電気を止められ、市営住宅で餓死したことがあり、これなどは積極的殺人と言えないまでも、消極的な放置による殺人とも言える可能性すら出てきかねない。
革新系市議が市長を追及したが、行政には一切責任がないとこれを否定した上で、議会終了後、この革新系市議に対して市長は「そんなことを議会で言ったら観光に影響が出る、風評被害だ・・・」と言ったとする話もある。

何とも乱暴な話だが、万事が金次第の今の日本らしい話である。

数年前、大学の研究機関では解剖用の遺体が不足していた時期があった。
それで行政は表には出していなかったが、大学の要請に応じて右から左で大学に遺体を引き渡していたが、景気の悪化に伴いこうした引き取り手のない遺体が増えてきたのではないだろうか、最近では火葬して埋葬する方式と、献体送りの2つに分かれて「処理」されていたと見るべきかも知れない。

だが片方は火葬して、取り合えず埋葬してもらえ、片方は大学で解剖実習用に使われる。
どちらも生前、特に献体の希望を示していた訳でもないのに、この在りようにはどうしても落差を感じてしまう。
基本的人権は死後のことまでは規定しているとは言えないが、死後もし自身の意思が無くなってから、こうした格差があるとすれば、これはこれで生きている内にその死生観に影響を及ぼす問題ではなかろうか・・・。

ちなみにこの地元新聞は生活保護者の場合、死亡してから埋葬に関わる経費を、行政が援助する制度があることを、この男性の遺族には伝えていなかったとしている。

もし資金的に苦しくて遺族が遺体の引き取りを断ったとしたら、市の担当者の責任は軽くはないだろう。
そしてこうした問題はおそらく表に出なくても、全国で発生していることだとも思うし、何となくカチンと引っかかる話である。

それにしても、どうだろうか片方で法に触れない、経済的だと言う理由で献体送りの措置があり、自分が死んだ時は盛大な葬式と共に、皆から涙を貰って送られる事を望む。
神仏は果たしてどちらを、お望みになるものだろうか・・・・。





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たった1度の栄光

中国科学院、地球物理学会理事長の「顧攻叙」(こ・こうじょ)はまず自身の補佐役に「査志元」(さ・しげん)を選んだが、その査志元とその関係研究者、それから自分の後輩などを選任して、どうにか国家地震局の形は整えたが、具体的なプランはまだ全く見えていなかった。

「顧同志、私は人民に必ず地震が起こる前にそれを予測する、これは中華人民共和国の威信にかけて約束すると言った。どうかよろしく頼みますよ・・・」いつものようににこやかに、そして穏やかに話す毛沢東(もう・たくとう)国家主席の声が顧理事長の頭の中でぐるぐる回っていた。

全くの貧乏くじだが、これでうまく行かなければ、自分がこれまで築き上げてきたものも全て失うだろう。
それにしても本当にあの指導部の連中は、地震など予測できると思っているのだろうか・・・。
顧理事長は来る日も来る日も、何か良い方法がないかと考えていたが、これと言った方策は何も思いつかないままだった。

話は前年の1966年に戻るが、河北省で大地震が発生、甚大な被害を出した。
そのとき毛沢東は周恩来(しゅうおんらい)首相を地震被災地へ見舞いとして送り、国家目標として、将来必ず地震予測ができるようにすると発表したのである。

中国共産党は自分達より上のものは、例え神であろうとも認めないと言う姿勢、これによって神を超える中国共産党のイメージを作り出したかったのかも知れない。

もともと中国には地震学の非常に長い歴史があり、統計、民間予測方法や記録が残っていたのだが、長い間の封建制度と半植民地的な近代情勢の中で、地震研究は顧みられることが無くなり、1945年当事、地震研究者はたったの4人、観測所は2箇所しかなかった。

この状況は1960年代でもそう大幅に改善されてはおらず、これを「完全なものにしろ」と言われた顧理事長は苦難の日々を送っていた。
しかも今度は国家主席が人民に約束したのだ、外せばどうなるかは目に見えたことだった。

そんなある日、査志元が、遼寧省から面白い男を連れてきたのだった。

「私は遼寧省の海域地震であれば、金さえ出してくれれば10日と違えず地震を予測してみせる」
そのよれよれの人民服の男は、そう言うと、自分を国家地震局で働かせてくれと顧理事長に言うのである。

今や金も権力も地震予測の為ならどうにでもなる立場である顧理事長は、どうしたものかなと思ったが、この時この男を強く押すのが同じ遼寧省出身の「朱鳳鳴」(しゅ・ほうめい)であり、朱はこの男は地震予知では有名な男だと、顧理事長に伝えていた。

これをを聞いていた査志元は、顧理事長を別室に促した。

「もともと、中国全土の地震を予測するのは困難なことです、これは理事長もご存知のはず」
「だから当たりやすいところを選んで当てる、これだと外れは少なくなるから、主席も約束を守ったことになるのではないでしょうか」

「それは・・・、外れないところだけを予測すると言うことかね・・・」
顧理事長は少し厳しい顔で査志元を見返す。

「そうです、幸いなことに遼寧省の海域地震については周期予測が立てやすく、しかも1960年ごろから活動が活発になっています」
「その上にあの男の予測方法を使えば、何とか1度は地震を予測できるかも知れません」

「だが、それだと唯1回だけになるかも知れないが、その後はどうする」
「それはその時にならねば分かりませんが、今は1度でも地震を当てないと、私も理事長も炭鉱送りは間違いないでしょう・・・」

顧理事長はこの遼寧省の男を国家地震局の職員に加え、朱鳳鳴を正式に遼寧省地震局研究員に任命し、毛主席から要請があった国家地震局を発足させた。

このやり方はどちらかと言えば汚いやり方ではあるが、日本でも比較的データが揃っていて、傾向がわかっている東海地震域に殆ど全ての高額機材を投入し、これを当てて地震予測ができたと言う実績にしようとしているのに似ているが、こうしたやり方は外れない地域での予測で、本当は地震予測とは程遠いものであり、顧理事長はこのことで躊躇していた。
しかし他に方法はなかった。

そしてこの遼寧省出身の男だが、名前が公開されていない、またその素性も明らかではないのだが、昔から中国では民間で動物の変化や気象での変わったこと、井戸水の水位の変化や植物異常で地震を予測する方法があり、彼はこうしたことをもとに、地震を予測することができたのではないかと思うが、それが証拠に、これ以後国家地震局は国を挙げての宣伝を行っていく。

大量の人員を動員して、映画、展覧会、宣伝カー、パンフレット、ラジオなどで地震の知識の普及を行っていく傍ら、一般人民に情報の提供を呼びかけるのだが、その情報とは犬が騒ぐ、月の色がおかしいなどの日常生活上の変化の情報だった。

国家地震局がやっていたのは、遼寧省でのこうした異常現象の分布による解析と、高額な観測機器の併用による地震予測だった。
つまり遼寧省の海域震源域近くで全ての機材を投入して科学的観測を強化し、これと同時に民間の異常現象を集めて、それで地震発生の日時まで予測しようと言うものだった。

1回でいい、地震を当てれば国家主席の顔は立つ・・・と言う形式のものだ。

1970年、国家地震局は遼寧省を地震発生重要監視区域に定め、そして1974年ついにそのときはやってきた。
遼寧省海域付近の沿岸で地電流の変化が始まり、ネズミの大量移動が始まったり、冬眠中のヘビが出てきて雪の上で死んだり、井戸水が濁ったり、水位が上昇してきたりの異常が始まってきたのである。

1974年12月20日、国家地震局は近いうちに海域の北側でM4~5の地震が発生すると発表し、12月22日M4・7の地震が発生した。

しかしこの地震の後も民間の異常現象の報告はますます増加し、動物たちの異常行動は更に激しくなっていく。
また細かな微動が続き、土地傾斜計は正常起動を外れて、加速度的な屈折を示してきた。
1975年2月4日、午前0時30分、国家地震局は中国共産党指導部に緊急の通報を行い、2月4日か5日の間に地震が発生する・・・と伝えた。

そして2月4日午前8時、ついに住民に対して「避難命令」が出され、人民解放軍が病院や大きな工場などから人々を避難させ始め、午後3時50分、地電流や土地傾斜の急変が始まり、ここに至って国家地震局は3時間以内に大地震が起こることを予測した。

午後6時、緊急避難命令が発令され、最後に残った住民も全て自宅の火の後始末をして避難は完了した。
そして午後7時36分に海域近くでM7・3の大地震が発生したのである。

背景はどうあれ中国が世界で初めて地震の予測に成功した瞬間だった。

中国政府はこの実績を大々的に海外メディアに発信し、各国で要請があれば国家地震局の職員を派遣してその業績を宣伝した。
しかし、査志元や顧理事長が恐れていた通り、その次に別の場所で大きな地震が発生した時は、これを予測できなかった。

1度は地震を当てているから何とか言い逃れはできたものの、また後が無くなった顧理事長等は頭を抱えていたが、1976年1月、周恩来首相が死去、また同じ年の9月には毛沢東国家主席も死去し、中国は「華国鋒」(かこくほう)の元での体制変革が始まり、地震予測プロジェクトなどは無駄だと言うことになってしまった。

結局、顧理事長や査志元たちの炭鉱送りは無くなったものの、国家地震局は解散、その後地震予測などは「非科学的だ・・・」と言うことになっていったのである。
不完全で見せかけだけだと言えばそうだが、それでも国家地震局の活動がもし今日まで続いていたら、あるいは先の四川省大地震は予測されて、一人の死者も出さずに済んだかもしれない。

最後に、国に動乱や混乱があるとき、天変地異もまたそうした時にやってくる・・・世界中のあらゆる地域でささやかれる民間伝承である。

日本もそろそろ何かの足音が聞こえてきているのではないか・・・。




自分が歩いてくる

1967年6月、ニューメキシコの砂漠地帯を走る道路での事だった。
長い運転に疲れた夫に代わって、今しがた車の運転を始めたクリスティーナは、照りつける太陽の下、快適なドライブを楽しんでいた。

ラジオからはポップな音楽が流れ、このまま行けば次のガソリンスタンドまでは70km・・・。
しかしガソリンはさっきのスタンドで満タンにしたばっかりだったし、ふと隣を見れば夫はもう軽い寝息を立てていた。

まっすぐな道路で、走っている車は自分が運転している車しかいない。
たまにすれ違う車があってもそれは大したことはなかった。
ただ気を付けなければいけないのは眠気との闘いだが、それもさっきまで休んでいたし、特に眠気も感じてはいなかった。

だがふと道路の遠くに目をやったクリスティーナは「あらっ」と目を凝らした。
こんな砂漠の道路を誰かが歩いている、しかもそれはショートパンツのシルエットから「女」であることは間違いなかったが、ちょっと瞬きしたとたん、その姿はかき消されたようになってしまった。

「いやだわ、疲れているのかしら・・・」クリスティーナは幻を見たのだと思い、そのままアクセルを踏んだ。
とその時だった、さっきの「女」が車の目の前をこちらに向かって歩いていて、慌ててブレーキを踏んだがもう間に合う距離ではなかった。
そして接触する瞬間、はっきりと見えたその女の顔は誰だったと思うだろうか・・・
何とにこやかに笑って車に向かってくるその「女」は、クリスティーナ自身だったのだ。

「きゃー」と言う絶叫とともに車は急停止した。
が、間違いなく人を撥ねてしまったはずなのに、何の衝撃もなく、恐る々々目を開けたクリスティーナを、びっくりしたような顔をした夫が覗き込んだ。
「どうした、何が有ったんだ」
夫の不思議そうな顔にクリスティーナは「自分を撥ねてしまった、自分を撥ねてしまった」と震えるばかりだった。

さっそく車を降りて、誰か撥ねたのか確かめようと2人は付近を捜したが、死体はおろか付近に人影など全くない。
また車もぶつかった形跡も何もなかった。

またこれはあるセールスマンの話だが、同じ道路を会社の会議で遅くなったので、かなりのスピードで走っていたところ、月夜であたりはほのかに明るく、行き交う車も殆どなかったが、疲れていたのか一瞬眠ってしまい、目を醒ました瞬間だった。

目の前に大きな事務所の建物がそびえたっていて、道路を遮るようになっていた。
しかも窓や、キラキラするガラスに映る金文字さえ見えたのである。
「ダメだ、これは間に合わない・・・」セールスマンはとっさにハンドルを切ってブレーキをかけたが、いつまでたっても車はにはぶつかった衝撃がなかった。

良かった間に合ったか・・・、セールスマンはホッと一息ついて顔を上げた。
が、あれっ、そこには何もない、そびえたつ事務所はおろか、薄明るい月夜の道が続いているだけだった。

他にもある。
これはある牧畜業者の体験だが、夜道を飛ばしていたこの牧畜業の男性が、やはりこの道路にさしかかったところで、突然道路を塞ぐように巨大なスタジアムが出現したのだった。
良い天気で、風にはためく沢山の旗が見え、観客のどよめきまで聞こえてくる。
そしてなぜかそこだけ昼間なのである。

この男性も、突然目の前に現れたこのスタジアムを避けることは不可能な距離だった。
「もうダメだ・・・」と思ってブレーキを踏んでいるが、やはり顔を上げてみると、そこには暗闇が続いていて、コオロギの声が聞こえるだけだったのである。

更にやはりクリスティーナのように、自分が目の前を歩いてくる人を撥ねた、と思った新聞記者の男性の体験は、なんと衝突する瞬間、煙のように、そのもう1人の自分が消えてしまったと言うものだった。

この道路は年間1000件以上の怪しげな事件が起こり、数百人の命が失われ、アメリカのドライバーからは「魔の道路」と恐れられているが、こうした現象に心理学者の1人は、直線で単調な道路では眠くなることが多く、心に思ったことが幻のように目の前に現れるのではないか、と言っているが、普通もう1人自分がいるなどと、そんなに頻繁に考えるだろうか・・・。



「仏教の成立」後編・宗教はどこへ行く

およそ1つの宗教はそれのみが突然に発生してきたものでは有り得ない。

仏教を見てもその前にバラモン教があり、キリスト教、ユダヤ教に至ってもそれ以前にバビロン、メソポタミアの宗教観の中から一つはそれを取り入れ、一つはそれに反発する形で自身の宗教を創造して行ったに過ぎない。

だから宗教と言うものの本質はその流れにあり、いつの時代も普遍な価値観を与えるものではなく、時代によってそれは変化し、また個々の人間においてもその概念は決して安定してはいない。
すなわち自身の概念としてある「無常観」と、他が概念として持つ無常観は同じように見えて異なり、その違いを人間は決して確かめることができない。

ガウタマ・シッダールダが興した仏教、しかしインドは決して安定した勢力が統一を果たすと言うことがなく、仏陀の死後マガダ国が仏教とジャイナ教を保護したこともあって、仏教はこのマガダ国を中心にして幾つかの教団に分かれて活動したが、紀元前3世紀、マウルヤ朝のアショカ王が仏教を強力に保護し始めると、飛躍的に発展していったが、このアショカ王が仏教を保護し始めたのは理由があった。

インド東海岸地方にあるカリンガ王国を滅ぼした際、その戦い方は残酷を極めた。
アショカ王はこの戦いをひどく後悔し、そのために自身が仏教を信仰するに至ったと言われている。

そしてこのチャンドラグプタが起こしたマウルヤ朝が勢力を弱めると、今度は南インドにアーンドラ朝が興り、その自由な空気の中でナーガールジュナたちの「大乗仏教運動」がおこったが、大乗の思想自体は紀元前からあったもので、既存に対しては新仏教と呼ばれる性質のものだが、利他主義の立場から人間一切の成仏を説き、戒律にとらわれず菩薩信仰を中心に、広く衆生の救済をはかろうと言う、ある種の回顧思想だった。

仏教教団は、シャカの死後多数の学派に分かれて論争をしていたが、この大乗の精神はそうした中から改革運動で起ってきたものであり、それまで仏教としての個人は厳しい戒律を守り、苦行してその悟りを開こうとするものだったが、こうした古典形式の仏教を、大乗仏教側は小乗仏教と呼び、区別した。

したがって、小乗仏教という呼び方は大乗仏教側の呼び方であって、古典仏教が小乗仏教と呼ばれる根拠には正当性が無い。

紀元前6世紀から紀元後3世紀ほどまでのインドは正確には小国の乱立状態で、その中の勢力の強いものがインドの大部分を征した形で、その入れ替わりは激しく、それぞれの為政者が仏教を保護した為、仏教は栄えたが、こうした為政者がイスラム勢力の干渉を受けるに従って仏教の衰退が始まった。
この背景には宗教的復興精神が新興宗教の仏教では無く、古典宗教であるバラモン教に及んだ点にある。

だがこうした傾向は現在も同じで、およそ人間とはこうした思考形態の動物であると、考えたほうがいいだろう。

すなわち、同じものなら古いほうに価値を見出し易いからであり、これはどう言うことかと言うと、例えば皿にしようか、土の中から明治時代の皿と飛鳥時代の皿が見つかったとすると、人間は明治時代の皿がいかに優れていても、飛鳥時代の皿により大きな価値を見てしまう点にある。

一つ前の時代に流行っていた仏教よりは、その前のバラモン教により大きな価値を見出す動機はここにあるように思えるが、インドの地理上の位置からしても、異文化の侵食を受け易い土地柄から、その地域の独自性と言う観点でも、より古典的な思想が尊重され易い下地を持っていたと見るべきだろう。

仏教は紀元後3世紀にはバラモン教の復刻版とも言える、ヒンドゥー教に押され少しずつ衰退していったが、チャンドラグプタ2世のグプタ朝、その後紀元6世紀の北インドで興ったヴァルダナ朝までは、インドでその信者の活動を見ることができるが、その後7世紀には諸国王が乱立して争い、数世紀にわたる暗黒時代を迎えることになり、やがてイスラム勢力の支配を受けるに至って、インドでの仏教は消滅した。

しかしアショカ王の時代、王は仏教を統治の根本精神と定め、広く布教に努め、仏教は非常に発達した。
また王は諸外国にも仏教の布教に努めたが、ことにセイロン島の布教が大成功を収め、このルートから東南アジアへの仏教伝来が始まった。

そしてこのアショカ王が信仰していたのが小乗仏教だった経緯から、東南アジアでは同じ仏教でも小乗仏教が伝播し、この後紀元2世紀、マウルヤ朝が衰退してクシャーナ朝が起ったときには、カニシカ王が大乗仏教を信仰していた為、今度は大乗仏教がクシャーナ朝の出身地だった中央アジアへ伝わり、中央アジアの道路網(シルクロード)を通して中国、朝鮮、日本へと伝わるのである。

大乗仏教の経典の多くはこのカニシカ王の時代に編纂されたものであり、こうした伝播ルートから大乗仏教を北伝仏教、一方東南アジアルートは南伝仏教とも呼ばれ、大乗仏教の原典はサンスクリット語で書かれ、チベット訳、漢訳の大蔵経があり、小乗仏教の原典はパーリ語で、南伝大蔵(邦訳)などがある。

またこうした仏教の教義が分裂化、細分化して混乱する為、時の為政者は「仏教結集」と言う、教義の統一的見解をまとめる為の宗教会議を開いているのもまた、面白い。
こうした宗教会議はキリスト教にも見られるからである。

仏教結集とはシャカの没後、仏教経典の整理統一を行ったもので、彼が生前語った法話が失われるのを防ぎ、また異説が生じないように弟子たちが集まり、各自の記憶するところを述べて、同異を正し修正したのが始まりで、4回の結集があり、第1回はシャカ入滅直後、紀元前5世紀半ば頃、マガダ国の首都ラージャグリハ付近の洞窟に、約500人の弟子たちが集まって開かれた。

第2回はその100年後の紀元前4世紀、マガダ国のヴァイシャリーで、700人の比丘が集まり戒律の問題で討議した。
そして第3回の結集は紀元前3世紀、アショカ王が開いたもので、この時はサンスクリット語で総合的な結集となった。

またクシャーナ朝の首都プルシャプラを中心とするガンダーラ地方には、ヘレニズム文化の影響を受けた仏像彫刻がおこり、ギリシャ式仏教美術が栄え、その栄えた地域にちなんで、これをガンダーラ美術と言うが、インドでは始め信仰の対象を人間の像で表すのは畏れ多いと考えて、仏像は作られていなかった。

しかしバクトリアのギリシャ人がガウタマ・シッダールタを人間的に彫刻したのがその始めで、そのためこの仏像はギリシャ神像に似ていることになったが、ガンダーラ美術は大乗仏教とともにシルクロードを通って中国に伝わり、更に朝鮮半島から日本にまで影響を及ぼしたのである。

宗教は唯見ていると皆がそれぞれに違っているように見えるが、実はその根底を流れるものはそう相反したものではなく、むしろ同じような側面を持っている。

つまり1つの考えがあって、これに賛同する者も反対する者も、結局原型となるものがあっての話で、こうした意味ではその時反対側にいた者が、将来の改革や復興でまた反対の反対になる可能性も秘めている。
しかもそのことは年々歳々移り変わっている。

宗教は決して止まった状態のものではないのである。

ネアンデルタール人たちはその生活の中で「死生観」を持っていた。
その後クロマニョン人は音楽を楽しんでいたようだが、現在互いに争い、憎しみ合っている宗教は元々兄弟の関係にあるものだ。
おそらく、すべての宗教を辿っていくと、本当は1つの観念から始まっている可能性が高い。

シャカは晩年老いたわが身を引きずり、故郷の丘に立った。
しかしそこは戦争と混乱で幾多の亡者が積み重なり、男も女も乞食のように身をやつし、生き地獄の有様だった。
シャカはこの有様を見てこう言う。

「ああ・・・生きていると言うことは何と素晴らしいことだ、この世は何と甘美なものなのだろう・・・」



仏教の成立・前編・・・その夜明け

インドのカースト制度、身分社会の成立初期段階、今から3000年前の形態は「バラモン」と呼ばれる僧侶階級が最上位で、宗教と学問をつかさどり、彼等が司祭する宗教を「バラモン教」と言い、この下に「クシャトリア」と言う武士、貴族階級があり、この階級が軍事、政治を行っていて、「ヴァイシャ」と言う上から3番目の階級が庶民階級であり、農業、工業、商業に従事し、納税の義務を負っていた。

そしてその下に「シュードラ」と言う奴隷階級があったが、この身分の者の多くは被征服民族だった.
が、後世のインドでは社会の発達、分化に伴って多くの新しいカーストが生まれ、この4つの階級の更に下には4つのいずれのカーストにさえ属さない、最下層の賎民として「パリア」(不可触賎民)があり、ガンジーが社会問題として取り上げたのが、このパリアに属する人々の救済だった。

尚カーストの語源は、16世紀にインドを訪れたポルトガル人が、この制度をポルトガル語の血統、家系を意味するカースタと読んだことに、その歴史があり、このカースト制度は職業的、宗教的身分制度で、各カーストは職業を世襲し、他カーストとの間の結婚は禁止されるなど厳格なものだったが、こうした傾向は時代を経るとともに厳格化、細分化されインド社会の発展を妨げるものとなっていった。

バラモン教の経典はリグ・ヴェーダを中心にサーマ、ヤジュル、アタルヴァ、のそれぞれのヴェーダがあり、リグ・ヴェーダにはアーリア人たちがインドに侵入した当事の彼等の宗教、社会、風俗慣習などが記され、サーマ・ヴェーダにはインド古典音楽に関するもの、ヤジュル・ベーダは複雑な祭式が記されていて、アタルヴァ・ベーダには民間で行われた呪術などが伝えられている。

これらが成立したのは紀元前800年ごろと言われていて、これら4つのヴェーダを根本原理として複雑な祭式を行う一方、汎神的な哲学思想を展開、太陽神ヴィシュヌ、火神アグニ、雷神インドラをもっとも重要な神として崇めた。

バラモン階級の支配力は非常に強大なものだったが、やがてこうした社会でもその宗教の形骸化が進み、貴族階級による諸王国の統合が進んでくると、手工業や商業の発展が著しくなり、次第に農村を中心とした社会制度が崩れ始めてきた。

こうした状況を背景に、カースト第2位の「クシャトリア」や第3位の「ヴァイシャ」の実力がバラモンに対して高まり、バラモン支配に満足できない気運が成長してくる。

そして人々の要求に対して、バラモン教の中から更に深い哲学思想を持った「ウパニッシャッド哲学」が生まれてきたが、これは紀元前7世紀に成立した「ブラーフマナ」の巻末にある「ウパニッシャッド」(奥義書)の中に述べられている思想で、ブラーフマ(梵)と個人の中心生命であるアートマン(我)との究極的一致を説く深遠な思想を展開している。

が、バラモンの形式的な教義に対する反省とはなっていても、結果としてバラモンの優位を更に深めたものと言うこともまたできるだろう。
この哲学は後に近代ドイツ観念論哲学に大きな影響を与えたといわれている。

またこうした流れと同時並行してバラモン教に反対する新興宗教が発生してくる。

これが仏教とジナ教であり、ジナ教はまたを「ジャイナ教」とも言い、釈迦と同じ時期、クシャトリア階級出身の「ヴァルダマーナ」がおこしたものだが、カースト制度を否定し、人生を「苦」と定義して解脱を説き、極端な「不殺生主義」を唱えたが、苦行の実践と戒律の厳守を必要とした点ではバラモン教との類似点があり、ヴァイシャ階級に支持されたこの宗教はインドで広く信仰を集め、今日なお多くの信者がいる。

しかしこうしたことを見てくると、インドでは戒律が厳しい、若しくは苦行を励行する宗教はその後も残ったが、こうした厳しい戒律を持たず、苦行と言うほど厳しいものを一般に求めなかった仏教は、この後900年はインドで繁栄するが、今日まで定着しなかった背景には、中世の政治的支配制度とは相反するものだったと言うことができる。

すなわち古代から中世にわたる世界的支配傾向として、「封建制度」やそれに似たものが各地に発生してくるが、バラモン教の階級制度や職業の世襲などは、封建制度とは言えないが、封建制度の特性を持っていて、これらが政治的支配にはとても便利だった、と言うことができるのではないだろうか。

7世紀中期以降諸国が乱立し、数世紀に渡る暗黒時代を迎えたインドは、やがてイスラムの支配を受けるが、こうした社会でいち早く国家を築くためにはバラモン教のような仕組みが有利に働き、人々の文化的復興意識も連動し易かった。

こうした背景から、バラモンの復興形であるヒンドゥー教や、全体からすると信者は少ないが、ジャイナ教などが、今日までインドに定着したのではないかと思うのである。

さて話は少し横にずれたが、ジャイナ教と同時期に発生した仏教は、ガウタマ・シッダールダ(紀元前566年~紀元前485年)が興したものであり、別名のシャカ(釈迦)とはシャカムニの略称で「シャカ族の賢人」と言う意味だが、ガウタマ・シッダールダはアーリア系のシャカ族が建てた、カピラ国の王子として生まれた。

しかし衆生の苦しみを救おうと29歳の時に家を出て、バラモンについて学んだが、修行6年目のときバラモンの非を悟り、ブッダガヤの菩提樹の下に端坐し、始めて解脱の道を悟り「仏陀」となった。
時に35歳、以後諸国を巡って説法し、紀元前485年頃クシナガラで没した。

このガウタマ・シッダールダの起こした仏教の教えは、紀元前6世紀末ごろから始まったが、バラモンが階級の別を厳守することに反対し、人間は一切平等であり、八正道(はっしょうどう)、つまり仏教で言う実践修行の要件とされる八種類の徳目、「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「正定」を行うことにより、人間世界の苦(生、老、病、死)や煩悩から逃れられると説いた。

強権によらず人間の道義心を高めることによって、平和に社会改革を行うことを理想とした訳である。
また徹底した無常観をとり、精神的修行を主張し、こうした教えはバラモンに不満をいだくクシャトリア階級からの支持を受けた・・・。

さて仏教に関する話の前編は、殆どバラモン教の話になってしまったが、最後に私が好きな仏陀の逸話で、今夜は締めくくろうか・・・。

強盗に襲われ、「動くと殺す・・・」と言われた仏陀、しかし一向に慌てた様子も無く「何を恐れている、動いているのはお前だ、私は何も動いてはいないのだよ・・・」と言う。

強盗に襲われたら一度こうした言葉を言ってみたいものではある。
が、私だとアッと言う間にやられて終わりかな・・・・(笑)



進化のかたち

ハチの祖先はアリ?・・・と考えている人もいるかもしれないが、実はアリはハチの進化形、つまりハチが進化したものだと考えられている。

どう見てもハチとアリではハチのほうが羽根もあるし、強力な毒も持っている.
地面を這いずり回って働いているアリからすれば、いかにも進んだ感じがするのだが、それを構成している生物的社会組織を比べると、アリのほうがハチより3世代ほど進んだ安定性と、生物としての自然適応能力を獲得しているのである。

つまり現在の段階で、もし環境が激変しても、アリのほうがハチよりはるかに適応能力と耐性があり、アリは自身の環境に対する必要上羽根を持たなくなった、と言うより必要としなくなったのである。

生物の世界では大きな生物より体積の小さい生物のほうが常に有利であり、こうした小さい生物は単体では大きな寿命を持たないが、種全体としてみた場合は、小さな種で繁殖能力を大幅に拡大していった生物種の方が自然環境に対する適応力が高い。

また運動能力や機能の面で、人間はどうしてもこれらに優れている生物の方が、より進化した形と考えがちだが、実は後退したような進化もまた存在する。

今夜はそうした後退に見えて進化した「亜生物」ウィルスについての話だ・・・。

ビールス、バイラス、濾過性病原体などとも言われるが、細菌よりも小さく、10~300ナノメートルの粒子で、DNAかRNAかいずれか一方の核酸とたんぱく質を含み、自身で物質代謝やエネルギー代謝はできず、他の生物の細胞内でのみ増殖することから「生物」と言うことは難しいかも知れず、それゆえ「亜生物」と表現したが、普通はウィルスも微生物の一種と見做されている。

ウィルスが増殖するのに必要な情報は核酸の中に含まれているが、ウィルスは寄生する相手によって「細菌ウィルス」「植物ウィルス」「動物ウィルス」に分けられ、また含んでいる核酸の種類によってもDNAウィルス、RNAウィルスに分けられることがあるが、多くのウィルスはDNAウィルスに属している。

RNAウィルスには1本のRNAを持つもの、同種のRNAを2本持つもの(レトロウィルス)などがあるが、インフルエンザウィルスなどでは、8本もの異なるRNA分子を持っている。
感染した細胞でRNAがDNA に逆転写されるウィルスを「レトロウィルス」と言い、インフルエンザウィルス、HIVウィルスなどがこのレトロウィルスである。

ウィルスはかつては単体でも生物であったが、他生物の細胞内で寄生生活を続けるうちに、自身の物質代謝やエネルギー代謝の能力を失い、自己増殖能力のみが残って発展したものと考えられている。

つまり、機能を失ってしまったが、これも一つの進化の形なのである。

また生物や細菌などでは原因は解っていないが、進化の形として突然変異がある。

冒頭のハチで言えば、アフリカミツバチとヨーロッパミツバチの混血種で「キラービー」、殺人ハチと呼ばれる猛毒を持つハチの存在が知られていて、刺されると50%ほどの確率で死に至るものがあり、このハチが南米大陸から北米大陸に向かって増え続けている可能性がある。

これまでに数百人の死亡が確認され、数千頭の動物が犠牲になったと言われているが、その正確な数字はまだつかめていない。

ヨーロッパミツバチに比べ、アフリカミツバチは獰猛な性格を持っていて、1957年にブラジルの検疫所から逃げ出したアフリカミツバチが、ヨーロッパミツバチと混血を繰り返しながら、増殖している恐れがあるとされている。

ウィルスの場合、常に寄生する細胞によっての変化や、抗生物質の投与によって突然変異、と言うより「ゆらぎ変異」を起こしやすい性質があるが、こうしたウィルスよりもう少し安定した生物である細菌は、比較的突然変異を起こしにくいと思われていた。

が、例えば溶連菌、これなどは喉頭痛などの原因にはなりやすいが、本来一般的にどこにでも存在する常在菌である。
しかし1985年、この溶連菌が突然牙を剥く、アメリカで若い男性が感染したのはこの溶連菌だったが、なんとこの溶連菌は1時間に2・5cmのスピードで人体の筋肉組織や脂肪組織を侵食していったのである。

生きながらにして体をバクテリアに食べられてしまうこの病原菌は、単なる溶連菌との区別がつかなかったが、A群溶連菌(溶血性連鎖球菌)感染症、劇症溶連菌感染症と名付けられ、欧米では既にこの時点でも数百人の感染者を出していて、その死亡率は実に全感染者の70%と言うもので、日々バクテリアによって体を侵食される痛みは想像を絶するものだったと言われ、その挙句に腐食しながら死に至る恐ろしい感染症だった。

日本でも1993年には感染者が40名、その内死亡したものは30名と言われた、全く治療方法も無く唯見守るしかなかったのだが、それ以降はなぜか世界的に感染者数が減っていくのである。

また同じくアフリカで突然発生した「エボラ出血熱」などは、全く感染ルートが分からず、1つの村で次から次、口や耳、目、生殖器などから大量の血を噴出し、村人が失血死していった。
WHO はこの村を隔離し、外部との接触を完全に封鎖したが、初期段階で感染が空気感染であることが分からなかった医療関係者十数名、救護活動に当たっていたシスター10名などが感染して死亡した。

この感染症でも感染者の実に80% 以上が死亡していて、村は全滅かと思われたのだが、感染ルート、病原体、治療方法の一切が分からないまま、その後この感染症は消滅してしまった。
つまり突然始まって、何もしないまま感染は収まったのだが、未だに再発の可能性は否定できず、いつまた猛威を振るうか予測すらできないのである。

今、世界は「H1N1」のインフルエンザに警戒しているが、これはもしかしたら方向が違うかも知れない・・・、本当に恐いのは感染して死亡率の高い「H5N1」、つまり鳥インフルエンザが大きく変貌したウィルスかも知れない・・・

突然現れて、原因も分からぬまま気づけば消えていったH5N1は、人智で撲滅したのではなく、自然消滅した・・、なぜか「A群溶連性球菌」や「エボラ出血熱」のような、得体の知れない恐怖が拭い去れないのである。



未亡人の共同執筆者

世の中には不思議なめぐり合わせの人がいる。

さして望んでもいないのに大変な事業の手伝いをさせられ、しかも後世それほどの名声も残さず、唯黙って人生を駆け抜ける人がいる。
私はこうした人こそ本当の意味で尊敬に値すると思っているのだが、今夜は私が最も尊敬する女性の一人、「おみち」さんを紹介したいと思う。

「そうじゃない、何度言ったら分かるんだ、棒を書いたら左右の点々、その点は下が止めだぞ、良いかこれを間違えるな・・・」

「棒の下は放しですか、止めですか・・・」
「そんなことも憶えとらんのか・・・、止めに決まってるだろう、その隣は弟だ、良いか弟の字は分かるか」

暑い夏の日、さしたる風も通らぬ粗末な部屋、セミの声がいかにも喧しく、丸うちわをパタパタやっても一向に涼しくならないので板間に放り出した老人の視線は、全くあらぬ方向に向いていた。
その傍らで長さ2尺8寸(約84cm)、幅1尺2寸(36cm)の机に向かい、額の汗をぬぐいながら、余りうまくない字で一生懸命紙に向かって奮戦している女の姿があった。

これは一体何の場面だと思うだろうか・・・
実はこの老人が滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)であり、紙に向かって奮戦しているのが、この馬琴の息子の嫁の「おみち」さん、そしておみちさんが一生懸命書いているのが、かの滝沢馬琴の長編大作「南総里見八犬伝」である。

滝沢馬琴については、作家の「杉本苑子」女史がその著書「滝沢馬琴」で詳しく書いているが、1767に生まれ1848年に没した滝沢馬琴は、その81歳の生涯のうちで300もの「読本」(よみほん)を書き、その代表作がこの「南総里見八犬伝」であり、馬琴はこの時代を代表する売れっ子作家だったのだが、寛政年間以降、享楽的な心中話などの人情物語に対する幕府の規制が強まった結果、こうした八犬伝のような勧善懲悪主義的な通俗文学が流行していったのである。

こうした読本は歴史上の人物や事件、更には中国文学からの翻訳が素案になっていたり、場合によっては説話そのもの、ストーリーはそのままに脚本化したものもあり、雄大な思想の背景には儒教、仏教思想に基ずく教訓を伴っていたので、幕府当局もこれを容認、もしくは快く思っていたに違いない。
滝沢馬琴の読本はいずれもその構想のスケールが大きく、複雑な因縁が少しずつ解かれていくストーリーの心地よさから、多くの世人に愛された。

だが馬琴がこの「南総里見八犬伝」を執筆中のことだった。
「ああ・・雨が、雨が降ってきた・・・」家の中にいて馬琴はこう騒ぎ始め、失明した。

そのショックは大きく、馬琴は一旦八犬伝の執筆を断念するが、その生涯に置いて集大成とも言える八犬伝の完成をどうしても諦めることができず、家族に口述代筆をしてもらうことを考えたが、彼の妻は寝たり起きたりで病弱だった、また息子も病弱で早くに他界していた。

残る候補は息子の嫁の「おみちさん」しかいなかったが、このおみちさん、それまで全く文学などには興味が無く、そもそも文字ですら名前の他に書けるものが少ないほどだったのではないだろうか。
江戸の町屋の平均的な主婦で、筆など持ったことすら無かったに違いなく、馬琴の書いていた読本に対しても、それほど興味が無かったのではないかと思う。

馬琴はおそらく必死でおみちさんを説得したことだろう。
盲目となった今日、自ら筆を持つことは叶わない、唯一つの方法がおみちさんだった。

そしてこの家の収入の大方が馬琴の読本で成立していたこともあって、初めは「そんなことできません」と言い続けていたおみちさんも、次第に仕方が無いと思うようになっていったのだろう。
こうして嫁と舅(しゅうと)のでこぼこ二人三脚が始まっていった。

しかし、この作業は一言で言って地獄だった。
冒頭のやり取りはその一場面だが、良く考えてみるといいだろう、日本の平均的な一般主婦が、盲目の舅が語るヘブライ語の聖書を聞いて、書き写さなければならないとしたら・・・。
いや、おそらくそれより困難なことをやろうとしていた訳である。

馬琴は漢字の大家でもあったから、その頭の中には20万を超える漢字が入っていたと言われ、それらの中には微妙に違う漢字で、微妙に違う雰囲気を伴うものがあったり、前後または遠いところで書いたことが、今の場面で効力を発揮すると言うものもあった。
これを漢字を知らないおみちさんが聞き取って、紙に書いていくと言うことがどれほど困難なことか、と言う話だ。

これが、おみちさんが馬琴の弟子だったと言うならまだしも、今まで農業しかしたことが無い女性に、いきなり法務省法制審議会の報告書類を書けと言っているようなものだ。
辛かったに違いない。

朝早くからおきて掃除をし、ご飯を作って病弱な姑に食べさせ、盲目の舅にも食べさせなければならない。
洗濯が終わってやっと後片付けも終わり、舅のところへ行くと、待ちかねて機嫌が悪くなった舅からは容赦ない言葉がポンポン出てくる。

「本当にたわけだな、何度言ったら分かる、その漢字は同じものが近いところで並ぶと、文章の流れがおかしくなるのだ、だから同じ意味の違う漢字を使うのだ、この前教えただろう」
馬琴がいらついて大きな声を上げる。

「そんなもの、忘れました!、もう沢山です、そんなに言うならお義父さんが自分でやってください」
おみちさんは泣きながら表に飛び出す。

しかし、やがて涙を拭いたおみちさんは、気を取り直してまた静かに机に向かう。
少し落ち着いた馬琴がまた口述を始めたに違いない。

盲目となった馬琴にはおそらく焦りがあったはずで、そうした焦りの中で全く畑違いのおみちさんに、漢字1字1字を口伝えで教え、文章にさせたその熱意は並のものではない。
また中年になって、もの覚えも若い頃とは衰え、そのうえ全く関心も無かったにもかかわらず、漢字の大家が使う20万とも言う漢字を勉強し、馬琴の世界を世に現した「おみちさん」はひとえに努力の人である。

そして今日、日本文学史上不朽の名作となった「南総里見八犬伝」は、完成したのだった。

号泣、怒り、忍耐、情、そうしたものの怒涛の中で耐え抜いた「おみちさん」がいなければ、今日私たちは「南総里見八犬伝」読むことはできなかっただろうし、それによって感動することもまた、できなかったに違いない。

世に名作と呼ばれるものは、極限まで追い詰められた作者の情念のほとばしりであり、不思議なことにこうした作品は、あらゆる困難の中で、嵐に浮かぶ小船のように危うくなりながら、それでも必ず世に出てくる。

ここに人は天の意思を垣間見るのだが、その本質は人の情念が成せる業か、天の力が成せる業かは定かではない・・・。










我が友に捧げる・・・。

太平記の1場面から・・・
執権、北条高時は闘犬と田楽、酒に溺れる毎日、小うるさい年寄りはそれでもこの高時の在り様を何とか正そうと写仏を勧めるが、そこに顔を出した足利高氏(後の尊氏)は黙ってこの様子を伺っていた。
そんな高氏に北条高時が誰に言うとも無くつぶやく。
「見たことも無い仏などどうして描くことができるかの・・・」

足利尊氏は後年この事を懐かしく思い、そうだその通りだと呟く事になる。

だがこの尊氏、内紛の元凶となってしまった実弟、足利直義に毒を盛る。
「直義、直義、どうしてこのようなことに・・」尊氏は毒で体が動かなくなった弟を抱き寄せ泣き叫ぶ。
「こうでもならねば足利家の内輪もめは収まりますまい・・・」
直義はこう言って息を引き取るが、蓮の花が枯れた池を眺めながら尊氏は放心状態となっていた。

また時は下り戦国時代。
今川義元に人質として取られていた松平広忠の子、後の家康は今川家の軍師だった雪斎禅師からこう訊ねられる。
「こうした戦国の世なれば、親子兄弟と言えども互いに離反しなければならぬことも出てくる、また殺さねばならないようなこともあろう、そこもとはそうした場合如何する・・・」

幼き家康は利発そうにこう答える。
「そのときは覚悟を決めて親兄弟と言えども戦に及ぶまで、殺しまする」
この答えを聞いた雪斎は激怒し、烈火のごとく家康を打ち据える。
「簡単なことを言うではない、親子や兄弟はそのように軽いものではない、このたわけ者めが」

後年家康は妻の築山殿とその子、つまり自分の実子を織田信長の命によって殺さなければならなくなる。
雪斎禅師の言葉をこの時始めて、嫌と言う程かみ締める事になる。

人が生きていれば、こうした殺す殺さないまでは及ばないものの、時に友人を裏切らざるを得ない場面や、家族親族と言えども関係を絶たねばならない場面が必ず出てくる。
ましてやこれが夫婦ともなれば所詮は他人、親子兄弟より遥かに縁が切れ易い。

生きている人間と言うのは愚かなもので、自分がいなければ周囲が何もできないかのように思う。
しかし現実にはもし今自分が死んでも、数ヶ月は混乱した後、まるで水が低い土地に入り込むように何とかなっていく。

例えそれがどんなに厳しい事実となろうとも、明日に命の約束が無い生き物にとっては、どのように思うとしてもこの現実は避けられない。

つまり我々が生きている事実と言うのは本来無くても影響の無いもの、まるで「おまけ」のようなものでもあるのだが、皆自身があたかも主役であるかのように考えて日々を暮らしている。
そしてこの事が生きる上の「喘ぎ」となっていくのである。

悩んでいるとき、人はその心の内に既に答えを持っている。
答えがあるから苦悩しているのだが、その決断がつかないだけだ。

だが、雪斎禅師の言うように、簡単に決めてはならない。
そこに人間の姿、己に忠実な生き物の姿があり、これこそが無意味に近い自身の存在を唯一、この世に引き止めている動機なのだ。

仏教にこんな逸話がある。

我が子を失った母親が仏陀に我が子を生き返らせてくれと頼む。
仏陀は分かったと返事をして、今までに一度も死者を出したことが無い家を探してくるように伝え、そうした家を探してくれば子供を生き返らせると告げる。
が、そんな家などあろうはずも無く、母親は仏陀の元に帰り、仏陀はこう言う。
「我が子、我が子と言うが、それは唯おまえの胎内を通ってきただけのこと・・・」
これで全てに気づいた母親は仏陀の弟子になる、と言う話だ。

しかし私はこの話が余り好きではない。
そうかも知れない、いや仏が言うのだからそれが真実だろう。
でもそれでも我が子だ、何とかしてくれと頼むのが人の親であり、人間の姿だろう。
たとえ無間地獄に落ちようとも、いかに愚かでも、こうした思いがあっての「生」ではないだろうか。

そして大方の悩みは、その答えがあってこその悩みだとしたら、仏陀であればそれを躊躇無く行えるが、人であるなら身を切り刻まれる思いをしてそこに至るべきだと思う。

結果は悩んでも悩まなくても同じだ。
できれば悩まずに済めばそれに越したことは無い。
が、その悩む姿こそ人としての美しさに満ちている・・・。

・・・・この記事を我が友に捧げる・・・・



マニフェスト・デスティニー

今夜はリンカーンの時代のアメリカを見てみようか・・・
何となく今のアメリカ人の考え方が、どうしてできてきたのか、おぼろげながら見えて来るかもしれない。

大西洋沿岸の13植民地から出発したアメリカ合衆国は、1783年独立、ミシシッピー川から東の地を得たが、1803年にはフランスからルイジアナを、1819年にはスペインからフロリダを買収して1840年までには独立当事の2倍の領土、その人口は3倍に増加したが、1845年にはメキシコから独立していたテキサスを合併し、その後メキシコ戦争の結果、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアなど広大な南部、西部地方を獲得していった。

更に1857年アラスカをロシアから買収し、1860年には33州に及ぶ大陸国家となっていたが、このような領土的発展は急速な西部開発運動と結びつき、フロンティア(開拓線)の西進と言う現実を生み、絶えず未開の土地を開拓して西進するアメリカ人の中に、自由で不屈の個人主義を養うとともに、アメリカ社会の固定化を防ぎ、「膨張はアメリカ人が神から委ねられた天命である」と言うマニフェスト・デスティニー(膨張の天命)と言う思想を植えつけた。

またフロンティアと言う言葉はここでは開拓線と訳したが、単なる境界では無く、マニフェスト・デスティニーと深く連動したものであり、アメリカ人の精神と生活をきたえ、独立、自由にして進歩的な人間と社会を生み、民主主義の発展を支えた精神でもあり、こうした西部の開発に伴い北部と南部は政治体制、政治組織、貿易政策、奴隷制度などで利害関係が対立していった。

そしてともに西部を味方に付けようと言う動きになり、例えばミズーリの連邦加入を巡って南北が対立したが、ミズーリ協定(1820年)によって、南部の主張どおりミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、同州以北を将来自由州に編入することを協約して、決定的衝突は一時的に回避された・・・。

この自由州と奴隷州と言うのはアメリカのフロンティアが西進するに連れて、将来州となるべき地域で黒人奴隷を認めるか否かに関して、北部と南部の利害が対立、ミズーリ州までは奴隷制度を認めるが、メイン州では奴隷制を認めない自由州とするとともに、将来北緯36度30分以南を奴隷州、以北を自由州とする協定が結ばれたが、1854年カンサス・ネブラスカ法案の成立によって協定は破棄され、奴隷州か自由州かの決定は住民投票にゆだねられることになった。
この結果、奴隷州の拡大の可能性が高まり、南北の対立は更に激化していった背景を持つ。

もともと南部は植民地時代からタバコ、米、藍などの生産が盛んだったが、単純で過激な労働を必要とするため、17世紀末から黒人奴隷が多く使われるようになっていった。
こうして単一作物を奴隷の労働によって生産するプランテーシュンが発展し、特にイギリス産業革命による需要の拡大に伴って綿花栽培がめざましく発展、黒人奴隷数も1790年には65万7千人だったものが、1860年には384万人に増加していた。

このように奴隷制と自由貿易に基礎を置き、自由な州権分立を望む南部に対して、早く、1830年代に産業革命を迎えていた北部は、原料、食料の供給地、生産品の市場として西部と結びつき発展していた。

そのため国内市場の安定と、生産物の保護貿易を推進する中央集権的国家統一を望んでいたが、こうした南北の対立は特に南部の黒人奴隷制度の存在が、北部の発展にとって必要な労働力の確保と、国内市場の拡大を妨げる要因となったとき、破局は避けられないものとなっていったのである。

ストウ夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」(キリスト教的人道主義の立場から、黒人奴隷の悲惨な生活を描いた著書)の出版など、北部における奴隷制度廃止の気運は次第に高まり、1854年北部産業資本家を中心に「共和党」が結成され、奴隷制廃止運動が全国的規模で拡大、1860年、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選するに及んで、この南北対立は決定的なものになった。

熱心な奴隷制廃止、中央集権論者であるリンカーンの当選を機に、1861年民主党の地盤である南部諸州(11州)は合衆国から離脱し、ジェファーソン・デヴィスを大統領に「アメリカ盟邦」を形成し、首都はリッチモンドに定められた。
そしてこの対立はついに武力衝突となり内乱「南北戦争」(1861年~1865年)が起ったのである。

戦況は、はじめ南軍(司令官リー)が優勢で、一時はゲティスバーグに侵攻したものの、激戦の末北軍に撃退され、リンカーンは北部の有力な産業と人口を背景にしぶとく戦争を継続するとともに、1863年1月奴隷解放令を発し、300万の全奴隷を解放して戦争目的を明確にした。

その後、北軍の司令官グラントは勢力を回復し、海軍で南部を封鎖、1865年4月南部のリッチモンドを占領して南北戦争は北軍の勝利となり、合衆国は統一を取り戻した。
これによってアメリカは実質的な連邦国家体制を完成させ、著しい資本主義の道を開いていくのである。

難解な説明であったかったかも知れないが、現在アメリカにある2大政党の民主党と共和党は、こんな時代からの歴史を持っているのであり、アメリカ社会に根底的に眠る拡大思想は、西部開拓時代から培われてきているものなのである。

また日本では「政党公約」のように概念されている「マニフェスト」だが、アメリカででは1つの考え方、思想を始まりとしているのである。

では最後に1863年11月、ゲティスバーグで行われた、リンカーンの戦没者を葬る式典での演説を聴いて、この話を終わりにしようか。
ちなみにこのときのリンカーンは、我々が知っているような立派なあご髭をまだ生やしていない。
彼があご髭を生やすのは、この後1人の少女の「髭を生やしたほうがカッコいいわよ」と言う勧めに応じたものであった。

生き残っている我々こそ、むしろここで戦った人々が、かくも雄々しくおし進めてきた未完成の事業に、この地で献身すべきであります。
むしろ我々こそこの地で、我らの眼前に残された大いなる責務に献身すべきであります。
すなわち、これら名誉ある戦死者より一層の献身を受け継いで、彼等が最後の全力を挙げて身を捧げたその主義のために尽くすべきであります。

これら戦死者の死を無駄死に終わらせないように、ここで固く決意すべきであります。
「この国に、神の恵みのもとに、自由の新しい誕生をもたらし、また人民の、人民による、人民の為の政府が、この地上から消え去ることのないようにしなければなりません」




石鹸をください・・・。

「おーい、石鹸はどこだ」
洗面所で顔を洗おうとしていた吉田喜平さん(仮名)は妻のふみさん(仮名)を呼ぶが、ふみさんもやはり首をかしげるばかりだった。

「どうしてこうも毎回石鹸が無くなるんだ」
喜平さんは釈然としないまま、また新しい石鹸を出したが、吉田家ではここ1年ほどこうしてたびたび石鹸が無くなっていて、まあ石鹸ぐらいのことだから、大騒ぎして近所に迷惑がかかるのも如何と思い、黙ってはいたものの、何となく気にかかる毎日を送っていたのだった。

この前日にも喜平さんが自分で新しい石鹸を出したのに、もう無くなっていたので、こうして騒いでいたのだが、そうした2人の会話を聞いていた喜平さんの母親がポツリとこぼした。
「おかしいとは思わんか・・・」
「何となくいつも2の付く日に石鹸が無くなっているんじゃないか」と言うのだ。
言われてみれば確かに今日は11月12日、「加代子はもうこの世におらんのかも知れんな・・・」
喜平さんの母親はうつむいて呟いた。

喜平さんには加代子(仮名)と言う娘がいたが、どちらかと言えば外交的で派手好みの加代子さんと喜平さんの母親、つまり加代子さんにとっては祖母になるが、2人は普段から折り合いが悪く、加代子さんは行儀作法にうるさい祖母に対し、とても反抗的だった。

当事加代子さんは高校1年生だったが、よからぬ男との付き合いが始まり、学校から指導は受けるわ夜遊びで帰宅時間が遅いはで、ある日ついに朝帰りした加代子さんに激怒した祖母は「あんたのような子は家の恥だ」とまで言ってしまう。

翌日加代子さんは家出、八王子の伊藤と言う家でお手伝いとして住み込みで働くことになったのだが、ここまではこの伊藤家の人が気遣ってくれて、喜平さんたちに居場所を連絡してくれていたし、気が変わったらまた高校へ復帰できるようにと言ってもくれていた。

しかしここでも彼女は余り素行の良くない男と知り合い、毎晩のようにその男とバーへ遊びに行き、ろくに仕事もしないばかりか頻繁に朝帰りを繰り返し、伊藤家へ来て3ヶ月目ぐらいだろうか、未成年と言うのに酒に酔って朝帰りをした加代子さんを、伊藤しずえさん(仮名)がたしなめたが、それを根に持ったのか、翌日になると加代子さんは実家へ帰ると言ったまま行方不明になってしまったのである。

そしてここから先は、捜索願に基づいて捜査した刑事が調べた加代子さんの足取りになるが、その後加代子さんは男と遊びに行っていたバーでホステスとして働いていたが、この店で働いていたのは7ヶ月間、結局加代子さんはこの店の支配人と関係ができてしまい、この支配人の内縁の妻が同じ店でホステスをしていたことから、関係がばれて店を追い出されてしまったらしかった。

それからの加代子さんの行動は随分華々しいものだが、立川の繁華街にあるバーでまたホステスとして働いていて、ここでは約3ヶ月しかいなかった割には人気があったと言うことだった。
「彼女はどんな客にも恋人になったふりをするのがうまかった、男出入りも相当なものだったんじゃない」と話すのは当時彼女と一緒に働いていたホステスの談だ。

その後、新宿花園町にあるアパートを借りた加代子さんは、新宿のバーでホステスとして勤務し始めるが、「彼女は若かったけれど、彼女に付いている客は多かったですね、日野、八王子、立川方面から来たと言う客が多かった」と店のバーテンやホステスが語っている。

「どういう関係だったんですかね、彼女の客同士が店で鉢合わせになって、酒が入っているもんだから、喧嘩になったこともありましたね」と言う話もあった。

そしてその年の12月12日のことだが、加代子さんは午後3時過ぎ銭湯に出かけ、4時には帰ってきていたが、それから身支度を整えると、4時30分にはアパートを出て、少し早いがいったんバーに顔を出した。
だが外から男の声で電話が入り、「ちょっと出かけてくる」と言って店を出た。

これが彼女の最後の姿となった。
加代子さんはそれから消息が分からなくなり、持ち物から身元が分かって家族に連絡されたが、昨年の夏休みに家出してからここまで1年4ヶ月・・・、これが加代子さんの足取りだった。

それから1年後の12月12日、ちょうど喜平さんの母親が「2の付く日に・・・」と言っていた日から1ヵ月後のことだったが、朝食を終えて畑仕事に出た喜平さんは、近くの丘陵地で土地の造成作業が始まったことを知り、同じように畑仕事に来ている近所の男性と話をしていたが、その作業現場で何か起ったらしく、急に騒がしくなったことに気づいた。

「何かあったのかのう・・・喜平さん、騒いでいるのはなんでやろ」
近所の男性が声をかけてきた。
2人はクワを置いてその造成地へ向かって歩き出した。

野良犬が盛んに吠え立て、あたりは騒然となっていたが、喜平さんたちはその中でヘルメットをかぶった作業員に声をかけた。
「何の騒ぎですかの」そう問いかけると、「死体が出てきたんだよ、それも若い女の死体が・・・」その作業員は警察に連絡するんだと言って、息を弾ませながら駆け出していった。

何となく胸騒ぎがした喜平さん、急ぎ足でその現場へ行ってみると、なるほど人間の形をした塊がそこには転がっていたが、死体とは言ってもミイラみたなもので、泥ではっきりしなかったが、確かに顔は若い女だった。
しかもそれは加代子さんだったのである。

警察ではこの死体を鑑識に回したが、水で表面の泥をを除いた検証医は腰を抜かした。
なんとその死体は石鹸状になった若い女の「死ろう」、つまり人間の形そのままで表面から中までロウソクのロウで固められた状態の死体、これがロウの代わりに石鹸で成されていたのである。

いかに検証医と言えどもこんな死体を見た事はこれまでに1度もなかった。
第一「死ロウ」現象自体が、土葬死体や犯罪によって土中に埋められた死体全てのうちで、何百万件に1件有るか無いかの珍しい現象で、それがロウの代わりに石鹸ともなれば、こんな完璧な状態の死体など、どんな文献でも知られていなかったのである。

この死体は加代子さんに間違いはなかった。
そして他殺らしいことは推測できるが、犯人は不明。
加代子さんはどうしてこんな実家に近いところで埋められていたのだろう・・・。
また喜平さんの家から石鹸が無くなっていたのは何故か・・・。

自分の体が腐らないように、2の付く日に実家から石鹸を持ち出していたのだろうか・・・。
この事件は1970年代に時効が成立し、結局犯人が特定されずに迷宮入りとなった。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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