始皇帝の歴史的意義

中国の古代王朝としてはまず殷、周が存在しているが、伝統的な歴史観、つまり伝説としては太古の世に三皇、五帝と呼ばれる聖天子が現れ、いろんな発明をして人々の生活を豊かにし、世の中を太平に治めたとされている。

この内、五帝の最初が「黄帝」であり、この帝は世にはびこる悪を滅ぼし、黄河流域に初めて国を建てたとされているが、後世漢民族の始祖として尊敬され、五帝の最後が「舜」(しゅん)になっているが、その「舜」に帝位を譲ったのが「堯」(ぎょう)と言われ、こうした帝位を譲る形の皇位継承のあり方を「禅譲」(ぜんじょう)と言い、古来より中国の中ではもっとも平和的で理想的な皇位継承と考えられてきた。

この「舜」が黄河の治水に功績のあった「禹」(う)に帝位を譲り成立したのが「夏」王朝であるが、何分この夏王朝の話は後の「周」王朝の文献に記されるのみで、実際にあった王朝なのか、伝説上の王朝なのかが明確になっていない。

よってここでは中国最古の王朝を「殷」として話を進めるが、この「殷」も「周」もその国家規模は河南地方を中心とする華北の地に限られたもので、その支配体制も封建制とは言え、それは各地方に自治を許し、その上に成り立っている、緩やかな統制にすぎないものであった。

もっと判りやすく言えば、今日我々が知る契約による封建制ではなく、本家や分家のつながりで構成されている社会であり、従って秦の始皇帝がこうした亜封建制諸国をことごとく滅ぼして全国に郡県制を布き、中央集権的官僚支配体制を確立したことは、中国の歴史上画期的な事件であり、これを成し遂げた始皇帝こそは、まさに中国最初の偉大な皇帝と言うべきものだ。

それにもかかわらず、始皇帝は歴史上ローマの皇帝ネロと並び評される暴君とされているが、その原因とされているのが極端な思想弾圧政策である。
本来理想化され、伝説となっていた周の政治体制に憧れを持つ儒学者たちの中には、秦の政治を法による強制的な統治として非難する者が少なくなかった。

始皇帝は異論をなくする為、民間にある詩経、書経、諸子百家の書物を没収して焼き捨て、儒教の説や政治批判を唱えるものを死刑にすると厳命を下したが、これが「焚書坑儒」として後世の学者たちから非難され、永く暴君の汚名をを冠せられる原因になったのである。

しかし「焚書」については医学、薬学、卜占(うらない)、農業の書物は除外していただけではなく、朝廷や博士が所蔵する古典類の書物はそのまま保存されていたので、始皇帝は儒学書、儒教学問を全面的に否定した訳ではなかった。

また「坑儒」に関しても、実はその前に国家統一を完成させた始皇帝が、もはや手に入らぬものは「不老不死」のみであり、何とかこれを手にしたいと思い始め、この話を聞いた諸生たちが、「不老不死の妙薬を探してまいります」と言って始皇帝を謀り、大金を貪った詐欺事件があり、始皇帝はこの事件に連座した諸生、430余人を捕縛して坑殺したのである。

諸生、儒生とは言うが、その中には儒者は殆ど含まれておらず、この事件に連座した者たちは神仙道を説く、方士と言う修行者たちだったのである。

始皇帝が民間の政治批判を禁じ、思想統一をはかったことは事実であるが、ではそれまで学者たちが理想としていた「周」の社会はどうだろう。
狭い範囲の国家、親戚縁者による支配であれば、それは「徳」と言う理想でも治められたかも知れない。

しかしその外の幾多の小さな社会を治める時、相互信頼による理想主義的思想の支配は、実際のところ全く通用しなかったのではないだろうか。
だからこそ中国はこの時期春秋戦国時代と言う、500年にも及ぶ混乱の時代を迎えることになったのではないか、つまりそれまでの親戚縁者による国家形態から、より広い国家への成長に従って、相互信頼や理想主義的相互理解と言う形なき形態から、契約や法、罰則と言った、理想や信頼を担保する制度の必要が現れたのではないだろうか。

春秋戦国時代には諸子百家と言って、多くの思想家が世に現れ、その中で次第に道徳や信頼と言ったものが、実は統一された価値観があって始めて成立すること、またそれを形として示す方法が、あらゆる次元で考えられたに違いない。

孔子は道徳をあらわすのに「形式」を選択した、韓非子は「限りない疑い」を、そして実際に中国統一を成し遂げるために、始皇帝が選んだ道は法と罰則による支配だった。

つまり、形のない「徳」や「信頼」に法と言う紐をつけ、その先に「懲罰」と言う錘をつないで「心」を担保させる仕組みを作ったのであり、こうした有り様はおよそ、その後アジアの支配形態のみならず、世界的にも支配形態として大きな影響を及ぼし、その意味で始皇帝は宗教や主観的理想論などの方法に頼らず、この世界を人の世とした上で、人が治めるとしたら、どうあるべきかを世界で始めて示したとも言えるのであり、それは漢以後の学者たちが非難するほど暴虐なものだったとは決して言えない。

中国に最初の統一をもたらし、外敵を退け、中国民族としての国境を確定させ、中央集権的官僚支配を打ち立てた始皇帝、彼は偉大な帝王だったと言うべきだろう。

始皇帝の「秦」は15年で滅んだ。
しかしこの秦帝国の国威は外国にも及び、外国人が中国を「シナ」と呼ぶ名称も、秦(Tsin)がその語源とされている、すなわちヨーロッパ、イギリスでは(China)、フランスでも(China)、ドイツでは(Cina)、インドのサンスクリット語では (Cinasthana)チナスターナと称され、日本でも江戸時代から用いられている「支那」の語源は、やはりこの「秦」から来ているのである。







スポンサーサイト



遠い日の食卓

ロンドンの東、緯度もロンドンよりは少しばかり上がるかもしれないが、コルチェスターと言う都市がある。
ここで知人の家の夕食会に招かれた私は、彼ら夫婦の4歳になる娘のプレゼントにと思い、可愛らしい人形を買って奇麗にラッピングしてもらい、家を訪ねた。

10月頃のこの地方の気候は日本からみるとかなり寒い、また心なしか日が落ちるのも早く感じるが、そんな中で窓からこぼれるオレンジ色の灯りは何かとても暖かく、そしてどこかでホッとさせてくれるものである。

ドアを叩くと、そこに現れたのは懐かしい友の顔だった。
「お招き頂き、ありがとう」
「何を言ってるんだ、早く入れ」
形式ばった挨拶に、肩を抱くようにして友人は私を室内に招き入れると、ブロンドが美しい彼の妻と娘を私に紹介し、私はプレゼントを彼等の娘に差し出したが、彼女は大喜びですぐに箱を開け、人形を取り出すと両手で抱きかかえ、何度も何度も高くかざして嬉しがった。

通常こうした時代、まだ日本ではヨーロッパの夕食と言うと、まるでフルコースのディナーでも出てくるように思っていたかも知れないが、一般家庭の食事などはバブリーな日本から比べれば質素なもので、パンにスープ、ポテトにハムか、薄く切ったステーキなどがあれば、それでかなり上等なものだった。

私たちは友人の妻が作った料理を前に一通りの挨拶を終えると、祈りを捧げ、さっそくスープをすくったが、暫くして彼の妻は私に話しかけた。
「何かお気に召さないことでもあるのですか」
どうも彼女は私が食事中全く喋らずに食べているのを見て、怒っているのかと思ったようだった。

これに対して私の友人は妻に笑いながら「彼はサムライだから・・・」と言い、「サムライは食事中に喋ってはいけないことになっているんだ」と説明した。
適当な説明ではあるが、ある種言い得て妙な友人の説明に、まったく理解ができない彼の妻・・・。
そこで私は彼女為に日本の話をした。

私のグランドマザーはサムライの時代の次の時代(明治)の女で、私は彼女に育てられた。
そう、そこでは食事中に喋っていると殴られるか、厳しく怒られる。
しかも食事を長い時間かけて食べているのは非常にだらしないとされ、できるだけ早く食べることが良いとされ、不味いとも美味いとも言ってはいけなかった。

そもそも食事を作るのは、その家では食事を作るプロである母親か祖母が作るのであり、こうしたプロの仕事に文句を言うのは言語道断だが、これよりもっと悪いのは自分が作りもしないのに、それに批評を加えることだった。

特に養われている身分の子供が美味いなど言うのは100年早かった。
また更に怒られるのは食事中に笑うことであり、汁物やおかず、ご飯などは残すことなど恐ろし過ぎてやったこともなかったが、多分やれば次の食事はさせて貰えなかったに違いない。

また、男子たるもの厨房に入るのはご法度でもあったが、そこはやはり女の聖域、子供であっても男がそんなところでウロウロしていると、「男がこんな所にいるものではない」と怒鳴られたものである。

友人の妻はこの話に目を丸くした。
多分とても大きなカルチャーショックを受けたのだろう。
だがその反面少し面白かったのか、もっと日本のことを聞きたいと言うことになり、私は更に話を続けた。

日本では笑うことは恥ずかしいことであり、人を馬鹿にしていると思われるので、男は特に歯を見せてはいけないことになっている。

また笑うと言うことは、自分に自信がなくて相手に媚を売らなければならない状態でもあるとされることから、海外で日本人が言葉がわからず、ただニヤニヤ笑っていれば何とかなると思うのは大きな間違いだ。
そんな者はただの馬鹿者だ。

そして日本では多くを語るものは信用がない、ぺらぺら喋っているとそれだけで警戒され、決して人の心をつかむことができず、不信感から理解しあうどころか、人が離れていく。

友人はさらに大きな笑顔になり「クラシックな男だからな・・・」と呟くとともに、妻の方に顔を向けたが、彼の妻はまったく唖然とした様子だった。
「まるで軍隊みたい・・・」
また彼らの娘はこう言った、「グランマザーはクイーンなの」
これは良い意見だった。

「日本では年を取ると、みんなからクイーンやキングのように尊敬されるんだよ」
私は椅子に深く座り直して、誇らしげに答えたが、ついでにこうしたことを子供に教えてくれるのは「女」の人であることも付け加えたものだった。

あれから、かれこれ20年近く経って、わが身を省みれば、日曜日にはしっかり女房子供のために昼食を作り、ついでにその際各人にオーダーまで聞いていたりする。
周りを見れば、みんな同じように取って付けたような軽薄な笑顔で囲まれ、ぺらぺら喋ることは自己主張と名前を変えてまかり通っている。

年寄りは後期高齢者と呼ばれ、保険証ですら差別を受ける社会、私が祖母や母と言った女たちから「男はこうあるべき」とされた男はどこに行ったのだろう。

優しいと言う言葉は危い。
それは裏を返せば自信がないことの表れであるかも知れない。
私などもう少し稼ぎが多ければもっと家族から尊敬され、その結果オーダーを取って食事を作ることも無いだろうが、悲しいかな稼ぎが少ないから、こうしてご機嫌を取らなければならない現状を鑑みるに、実に男の責任を果たしていない結果として、この姿がなのである。

また自分に自信があれば、そんなに無理して笑顔を作らなくてもみなが必要とするだろうに、それ程の力がないから、こうして引きつった笑顔でも見せて愛想をしておかなければならない。
子供の頃、そんな者は男のクズだと言われた、そんな者にしっかりなってしまっているのである。



そして誰もいなくなった

アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の町アズサ・・・。
この近くに総面積6万エーカーにも及ぶロサンゼルス国立公園があり、広大な原始林の公園にはウィルソン天文台、美しい人造湖、キャンプ場などがあり、人々のレクリェーションの場として親しまれていた。

緑の山々が連なり、とてもきれいなところだが、この公園には緑の海と呼ばれる原始林地帯があり、1956年8月、事件はここから始まった。

その日の朝、13歳の少年ドナルド・リーは隣の家の娘ブレンダ・ハウエル(当時11歳)を誘って、近くのガブリエル貯水池へと出かけたが、こんなことはしょっちゅうのことで、2人にとってはほんの朝の散歩がてらと言う感じのことだったのだが・・・。

「8時までに戻ってくるのよ、今日は9時に教会へ行くことになっていますからね」
「オーケーママ、大丈夫自転車で行くからすぐ帰ってくるよ」
母親の言葉に元気よく答えたドナルド、そして2人は自転車に乗って山道を走って行った。
が、これが2人をこの世で見ることができた最後の姿になってしまった。

2人はそれきり夜になっても帰って来なかったのである。
家族から知らせを受けたアズサ警察署の捜査隊は、急いで2人の捜索に向かったが、貯水池に近い森で2人の自転車とドナルドのジャケットを発見したものの、肝心の2人はどこにもいなかった。

「2人は貯水池に落ちて溺れたかも知れない・・・」
今度は警察の連絡でアメリカ海軍、フロッグマン部隊が駆け付け、貯水池の捜索にあたったが、貯水池は長さ2km、深さは20mもあり、捜索は困難を極めたが、フロッグマン部隊はその殆ど全域の水中をくまなく捜した。

しかし2人の遺体はおろか着衣の1部すらも発見できなかった。
また陸上ではアズサ警察署が総動員で、他にも森林保安員、山岳警備隊なども加わり、総勢数千人規模で、森の中をそれこそ隅々まで徹底的に捜索したが、結局何1つ発見することはできなかったのである。

この事件は当時ロサンゼルスの多くの人達の知るところとなった事から、連日新聞が書き立てた為、かなり有名な事件となってしまい、ついには「人喰い森」の噂まで出てきたが、この翌年さらに不可解な事件が起こってくるのである。

1957年4月25日。
「そんなに急ぐな、もっとゆっくり歩いたらどうだ」
サン・ガブリエルに近い森を行くピクニックの二家族、その先頭に立って走り回るトミーに父親が声をかけた。
「そうよ、お兄ちゃん、少し早すぎるわよ」
妹もぶつぶつ言う、そしてその下の弟は既に疲れ切った様子だった。

総勢7名のこの一行はトミーの家族に、叔父のゴードン一家3人が加わっていたが、父親の声にも耳を貸さず、「おそいなー、もっと早く歩けないの」と、じれったそうに先頭のトミーは歩き始め、その先ほんの数メートルの小道を曲がり、生い茂る木の葉に隠れて一瞬姿が見えなくなった、その時だった。

この距離、ほんの数メートル、時間にして2秒ほどだが、トミー以外の家族も遅れてその道を曲がった。
が、「あっ、お兄ちゃんがいない」弟のジョンが叫んだ。
その場所はさっきの緩い曲がり道を過ぎると、後はほぼ直線の道が続いていて見通しがきく場所だったが、トミーの姿はさっきまで彼がいた所に家族が追い付く、ほんの2秒ほどの間に忽然と消えてしまったのである。

家族はトミーの名前を呼んで、あたりを探しまわったが、トミーは煙のように消えてしまい、二度と再び戻って来なかった。
アズサ署はこの事件でまた大捜索活動を始め、400人の捜索隊、数百人の警官と森林保安員、ヘリコプターや犬まで動員して捜索するも、トミーの姿だけではなく、何の手がかりも得られず終ってしまうのである。

そして1960年7月13日、今度も「人喰い森」の名前に恥じない恐ろしい事件が発生する。
場所は初めの事件でドナルドとブレンダがいなくなったガブリエル貯水池の近く、YMCAキャンプ場だった。
「ブルース、気分でも悪いのか、顔色が良くないぞ」リーダーのマコーミックが心配そうに、その少年の顔を覗き込んだ。

ブルース・クレマン、Tシャツにジーンズ姿、胸にはYMCA夏季クラブの花文字が付けられていたが、彼がキャンプに参加したのは7歳になったこの年が初めてだった。
「僕、気持が悪い」
「ああ、そうだな、ここは海抜2000メートル地帯なんだ、そのせいで気持ちが悪いんだよ、戻って休みなさい」

リーダーのマコーミックはブルースをキャンプ場の入り口まで連れて行ったが、ブルースはどうも力ない足取りで、1歩、2歩・・・と歩いて行く。
しかし、後ろから付き添っていたマコーミックは、この時信じられない光景を見ることになる。

先を行くブルースの姿が少しづつ薄くなったかと思うと、やがて半透明になり、そしてマコーミックの眼前でスーッと消えてしまったのである。
マコーミックは夢かと思い、自分の目をこすったが、そこにブルースの姿はなく、この日を最後にブルースは忽然と消えてしまったのである。

後にアズサ署で事情を聞かれたマコーミックは、「まるでロウソクの炎が風で吹き消されるように、フッと消えて行ったんです」と語っている。
これ以後ブルースの姿を見たものはいない。

また1963年にはこの上空で飛行機が事故を起こし、墜落したがこれも消失してしまっている。
何人も目撃者がいて、大体どの辺に墜落したかもわかっていたのだが、その墜落場所付近には、機体の破片1つ落ちてはいなかったのである。

ちなみにこのガブリエル貯水池付近の事件は、その後すべて迷宮入りになり、人々は「人喰い森」と呼んでこの付近には出入りしないようになったが、今でもガブリエル貯水池にはきれいな水がたたえられ、穏やかで美しい景色が広がっている。







土下座

「おい何だ、その簾(すだれ)みたいな頭は、そんなんで前が見えるのか、椿油でも塗って前髪は上げておけ」
「自眠党の幹事長が来るんだぞ、車はセドリックぐらいじゃだめだぞ、灰金建設からプレジデントを借りて来い、あー、話はつけてあるからな」

40代後半の地元市議は若い者を集めて、今日の指示を出していたが、国政選挙ともなれば地方も大変である。
なにせその地方だけでは既に経済的に破綻していて、どうしても中央から事業を引っ張って来ないと、みんな御飯が食べられなくなる。

そして地方の経済は何だかんだ言いながら、税金を使った公共工事が主体経済だから、土建関係の仕事がないと、どうにもならなくなってしまうのだ。
思わずテンションは上がり、中央の与党幹部が地元衆議院議員候補の応援に来るともなれば、将軍様のおこしか、天皇の勅使のご到来のようなことになってしまう。

そしてこうした中央の政府与党幹部のご到来に合わせて、地元代議士候補の「総決起大会」なるものが開催され、そこには系列県議は勿論、周辺の市町村議会議員までもが参列、地元住民を大量動員しての一種の「祭り」が繰り広げられるのである。

市町村議会議員などはそもそも大方が土建業者や地元の事業主であり、そこに勤務している従業員は、大概こうした総決起大会には大会ボランティアがその業務になるのだが、男女問わず自眠党指定カラーのジャンパーを着て、有力者をお迎えに行く者、代議士、県議の接待をする者、会場整備や誘導と言った具合に若い者が振り分けられ、美形の女性受付嬢などは1日秘書のお役目を仰せつかり、代議士のカバン持ちをさせられることもある。

こうして開催される総決起大会であるから、中途半端なことでは許されない。
1000人入るホールは当然のごとく満員になって、しかも座れない人が大量に出るくらいの盛況ぶりでなければならない、いや絶対そうでなければ地元市町村議会議員や県議、代議士候補の与党幹部に対するメンツが立たなくなるのだ。

暑い夏、ナイロン製のジャンパーを着ていると、下に着ているTシャツなどは一瞬にして絞れば水が滴るように汗だくになり、わがままな議員たちに顎でこき使われ、それでも文句が言えない各事業所の若い者たちは、こうした機会を通じて政治家の馬鹿さ加減、もとい、社会勉強をを勉強をさせて頂くのだが、ひどいものでは時間が押しているからと言って、20代男性に制限速度を50kmもオーバーさせて車の運転をさせていた県議がいたり、途中食事をすることになって洋食レストランに入ったが、ステーキを注文して箸がなかったため激怒し、しかもその店は本格的なステーキハウスだったらしく箸を置いていなかったことから、何度もそれを丁寧に説明する女性ウェイターをさらに怒鳴りつけ、ついにはそのウェイターが泣き出してしまって、それでも無理やり「箸を買って来い」と怒鳴って、結局箸を買って来させた市議などもいたようだ。

また人集めに駆り出された人は更に悲惨で、自分が住んでいる地域全部を回り、夕方から始まる決起大会に参加してくれるよう頼んで歩かねばならず、しかもこれには1人で何人集めなければならないと言う割り当てがあり、大きな声では言えないが、寿司の折詰が出ることを餌に住民を集めるのだ。

そして夕方にはこうして誘った住民の送迎もしなければならないが、いざ総決起大会ともなれば玄関で整列し、「ご苦労様でした」とか「ありがとうございました」と、声を揃えて挨拶もしなければならないことになっている。

全員が必勝のハチマキをした会場は人々の熱狂で冷房が利かず、会場へ入れないほどの熱烈な支援者?で埋まり、いよいよ総決起大会が始まる。

地元有力者の挨拶に始まり、市町村議会議員や県議の挨拶、どれも記述するには余りにも情けないものなので削除するが、そうした挨拶の後、いよいよ自眠党幹部の挨拶と代議士候補への激励があり、最後に代議士候補の謝辞と、支援者に対する更なる支援のお願いがあって、候補者は来賓1人1人に握手を求め、そこでも激励されるが、この時感極まった候補者は、舞台で両手をついて支援者の皆様に土下座する。

これを見た会場の聴衆からは思わずどよめきが起こり、その後大きな拍手が起こってくる。
会場は異様な熱気と感動の渦で満たされ、誰もがこの候補でなければこの地域は絶対繁栄しない、彼こそが我々の希望だと思えてしまう雰囲気で一同が満たされる。

だがこのとき裏では、昼間人集めをした若者たちが、どこの町の誰が来なかったかを一人一人チェックしていて、後日そうした家や事業所には再度、別の形での支援要請が行くのだが、そこでも協力的でない、または反抗的な家や事業所はしっかり記録され、後でいろいろ不利益を被らせる仕組みになっている。

ちなみに土下座については、私の知り合いの住職が面白いことを言っていた。

何でも日曜日の午前中、門の前を箒(ほうき)で掃いていたら、見慣れない黒塗りのベンツが止まった。
しかしそのベンツは窓に黒いフィルムが貼ってあり、そこから降りてきた人物は葬式でもないのに黒のスーツ姿、恰幅は良いが目つきは冷たい、一見してヤクザだと分かる人物だった。

そしてこのヤクザは住職に一軒の家を尋ねたが、その家は寺の近所で勿論住職も知っている家だった。
だが相手はヤクザだ、借金取りか恐喝か、いずれにしてもその家に迷惑がかからないとも限らない、教えて良いものか悪いものか・・・、住職は返事に窮していた。
その様子を見ていたヤクザは住職の思いを察したのか、ハッとした表情になり、次の瞬間地面に両手をついて土下座した。

「自分がこうしたものだから、たった1人残った姉にもこれまで随分不義理をしてきました」
「しかしどうも姉が危篤と知って、一目会いたいと思ってきました」
「どうか家を教えてください」
そのヤクザは頭を下げたまま、そう言うのだった。

住職はしばらく考えたが、確かにその家ではこのヤクザの姉くらいの女性が危篤状態だと言う話は聞いていた、またこうして地面に頭をすりつけるようにして顔を上げない、この男には何某かの「真実」が感じられた。
住職はその家をヤクザに教えた。

それから程無くこの女性は亡くなり、数日してくだんのヤクザが玄関に立っていた。
そして「おかげで、最後に姉に会うことができました、ありがとうございました」と住職に挨拶していったのである。

近頃土下座も随分軽くなって、議員などはしょっちゅう土下座しておるが、その実選挙で当選すればみんな偉そうなものだ。
それに比べれはあのヤクザの土下座は本物だった・・・・とは住職の談である。

この話はフィクションと言う事にしておこうかな・・・(笑)




帝国主義の概念

一般に帝国主義と言えば、強大な軍事力にものを言わせて他国を侵略、若しくは力を背景に言うことを聞かせて・・・と言う印象があるかもしれないが、これは結構広範囲な意味での帝国主義で、この観点からすれば帝国主義はすでに古代から存在していたが、より厳密な歴史的概念として帝国主義を考えるとき、それは別の様相を現わしてくる。

帝国主義の理論的な解明を試みた著作としてはイギリス人、ホブソンの「帝国主義論」(1902年)、オーストリア生まれでドイツ社会民主党の理論的指導者となったヒルファーディングの「金融資本論」(1910年)、ポーランド生まれでドイツ社会民主党の左翼急進派の指導者となったローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」(1913年)、それにレーニンの「資本主義の最高段階としての帝国主義」(1917年)があるが、これらの帝国主義論の中で最も有名なのはレーニンのそれであり、古典的ながらも現在もこの理論が一番分かりやすい。

レーニンの帝国主義の概念はこうだ・・・。
資本主義が発展してくるとともに、生産と資本がますます少数の大手企業に集中し、産業界ではこれら一握りの大企業の姿がそびえ立つようになる。

そしてこれらの大企業は利潤を吊り上げる為に、相互にカルテル、トラスト、コンツェルン、シンジケートなどの企業結合を結び、ここに自由競争に代わって独占組織が産業界を支配するようになる。
この独占の形成こそは、帝国主義のもっとも根本的な法則であり、帝国主義は独占資本主義とも言い換えることができるのである。

このような産業界における資本の集積や独占の形成には、その過程で産業資本と銀行資本との間に綿密な結合関係が発生し、こうした産業資本と銀行資本との癒着、結合したものが金融資本と呼ばれ、帝国主義段階では、一国の経済機構だけでなく政治機構までもが、この一握りの金融資本の支配を受ける。

そして金融資本は国内市場を支配するだけでは満足できず、より高い利潤を求めて国外、特に労働賃金が低く原材料価格の安い後進地域に活発な投資を行い、このように商品の輸出と並んで資本の輸出が大規模に行われることが、帝国主義段階の大きな特徴なのである。

国内でカルテル、トラストなどの独占を生み出した資本家たちは、更に国際的な規模でも、市場の分割のための協定を結ぶ。
そして後進地域を経済的に支配する為には、その地域を植民地化してしまうのが最も確実な方法であり、そこで帝国主義段階においては金融資本が国家権力をかり立てて植民地の獲得に乗り出す。

その結果、大国の間で植民地の獲得を巡って死闘が展開され、むろん、植民地獲得の政策そのものは、すでに古代から認められるが、それが金融資本の利益と結び付いている形態をして「帝国主義」と言うのである。

レーニンの帝国主義に関する概念が、最も良く該当していたのは19世紀末から第1次世界大戦にかけての時期であるが、この時期欧米、そしてそれに続いて日本もそうだが、これらの列強が、国内に成立した金融資本の利益を背景として、植民地獲得をはじめとする、帝国主義的な政策を繰り広げていった。
その結果列強同士の間で帝国主義的利害が衝突し、次第に国際的緊張が高まっていった。

第1次世界大戦は本質的には、こうした独占資本主義の対立、つまり帝国主義の対立の極みで生じたものと言えるだろう。

そして1929年10月24日に起こったアメリカ・ニューヨーク・ウォールストリート発の大恐慌は瞬く間に世界を襲い、見せかけの信用で膨張し続けていた金融資本は一挙に収縮、資源を持つ国や列強はこれに対して高い壁を作り、自国資本の流出を抑えたが、資源が少なく経済的な弱小国の金融資本は、それまでのような利潤と言う生易しいものではなく、生存、生き残りをかけた膨張を求めって行ったのであり、そこではもはや膨張などと言う中途半端なことでは納まらず、植民地奪取、侵略と言う手段に訴えるしか道を無くしていた。

つまりレーニンの独占資本は「牙」を持つに至り、その牙は結果として最後は、独占資本そのものにも向かっていったのが、第2次世界大戦の有り様ともいえるのであり、少なくともドイツ、日本、イタリアはこうした傾向が当てはまるのである。

そして現代を見てみればどうだろうか、何かレーニンの帝国主義とは違った要素はあるだろうか・・・。

カルテルと言うのは同一産業部門の独立企業どうしの協約であり、市場統制による超過利潤の獲得を目指すものだが、これが発展するとシンジケートになり、カルテル自身が共同販売機関を持ち、参加企業の商品の一括販売にあたるものだ。

そしてトラストは主にアメリカで起こったものだが、市場の超過利潤獲得はカルテルと変わらないが、企業の経済的独立性はほとんど失われる、いわば企業合同と言われるものであり、その本質は吸収合併に近いものだと理解した方が良いだろう。

またコンツェルンは、第2次世界大戦前の日本の三井や三菱などと言った財閥が行っていた仕組みで、市場支配よりも資本関係の支配を目的とした仕組みだったが、こうした形態やこれに近い仕組みは今でも残っているし、トヨタ、日産、ソニーやパナソニックを見ていると、これを独占資本と言わずして何と言うべきか、である。

またこうした独占資本主義はしっかり銀行資本と連動し、金融資本を形成し、そして国際市場へと向かっているのであり、自民党麻生政権時には「大企業偏重経済政策こそが景気回復につながる」とした声高な発言と連動して、当時の御手洗経団連会長の顔からは、独占資本主義をして国家権力をかり立て・・・と言う言葉が実にリアルに具現化している状態だった。
この状況は現在の安倍政権でも何ら変わらない、と言うより、更に一層の大企業偏重経済政策となっている。

レーニンの言葉を借りるなら、日本は今も一層の帝国主義国家と言う事になる。






童子

元弘の変により隠岐に流された後醍醐帝、或る夜、帝は不思議な夢を見る。

後ろから黒い影が追いかけてきて、それは今にも帝の肩を掴もうと言う勢いであった。
必死でその影から逃げようとする帝、しかしついにそれは帝の装束に手をかける。
が、その時一瞬にして眼前に内裏から外の庭の景色が広がり、その先には2人の古装束姿の童子がかしずいていた。

2人の童子は帝の姿に気付くと立ち上がり、さらに奥の方を手で案内していたが、その先にあるものは雷に打たれたように輝く1本の大きな楠(くすのき)だった。
やがてこの楠から閃光が発せられ、帝の後ろに迫っていた黒い影は、この閃光によって瞬く間に消失していったのである。

大粒の汗をかき、この世の終わりかと思えるように唸っていた帝は、ハッと目を醒まし考えた。
これは如何したことか、もしやこれは・・・。
そして河内の悪党、楠木正成(くすのき・まさしげ)の所へ、帝から「味方するように」と言う使者が訪れるのである。

また時は939年、「新皇」つまり新しい天皇を名乗った平将門(たいらのまさかど)、彼が叔父の平国香(たいらのくにか)を殺して関東を平定し始めていた935年、将門は一人の童子に出会い、それから連戦連勝の将門の前には、いつも古式ゆかしい童子が立っていたと言われている。

また、こちらは戦国時代、甲斐の武田信玄。
深い霧に包まれた合戦場、武田軍はまだ攻めて来ぬかと待ち構えていると、やおら遠くから諏訪太鼓の音が近づいてくる。
「イャー」「ハァー」霧を裂くような子供のかけ声が、太鼓とともに魔を切りながら少しずつ近付いて来る。

そして太鼓の音が止まり、一瞬の静寂が訪れたと思った瞬間、怒涛のように武田軍が押し寄せて来るのだ。
初めて武田軍と対戦する武将は、この諏訪太鼓と先鞭の子供のかけ声に、言いようのない恐怖を感じたと言われている。

このように古来から子供、童子は何か吉兆があるときに現れたり、または魔を裂くものとして考えられてきた経緯があり、こうした考え方の背景には妙見菩薩に対する信仰が内に潜んでいるように思うが、妙見菩薩は同時にとても禍々しい存在でもある。

それは例えて言うなら、ガラスのような危うさとでも言おうか、一発逆転の際の力は絶大だが、そこに穏やかさがない。
陰陽道の「泰山府君」(たいざんふくん)に近いものがあり、この泰山府君は人の寿命に関わる神とされているのだ。

後醍醐帝のその後を考えれば分かるだろうが、一時は天皇中心の社会を築くが、瞬く間に足利尊氏によって攻められ、吉野へ追いやられ、そこで生涯を終えることになる。
また平将門にしてもそうだが、勢いに乗じて関東を平定するが、その先に人々の願いが生かされていなかった。
その事が最後、わずか400人ばかりの手勢で敗走と言う結果に繋がった。

武田信玄もまた京へ上洛と言う絶頂時に、流れ弾に当たって最後を迎え、その後「武田勝頼」の代には織田、徳川軍によって滅ぼされてしまうのである。

そしてこれは一般の人の例だが、1972年、岡山県赤磐郡で酒屋を営んでいた男性(41歳)が、前夜お得意先の家で話が盛り上がり遅くなった。
眠くて仕方ないので、ちょっと昼寝をしようと座布団を折って枕にし、うとうとしていた時のことだ・・・・。

何やら耳元が喧しいので目を醒まして、ごろんと後ろを振り返ったが、何とそこには枕元に立ててあった屏風に描かれている唐子(からこ・中国の昔の格好をした子供)が、絵から抜け出してみんなで踊っていたのである。
男性は唐子たちに気づかれないように薄目を開けて見ていたのだが、その唐子たちは嬉しそうに手をつないで輪になって踊っていた。

はじめは夢かと思っていた男性だが、やがて自分の眼は確かに開いていることに気付いた。
その途端、言いようのない恐怖が体を駆け回り、「わあー」と大きな声を上げてしまい、これにびっくりしたのは踊っていた唐子たちである。
大慌てで或る者はつまずき、或る者は走って、それでもきちんと屏風の中の元の絵に戻っていったのである。

男性はこの経験の直後、経営していた酒屋のすぐ近くに大きな道路がつくことになり、それ以降毎日大変な売上になって行き、大きな資産を蓄えることになる。
が、そうしたある日、暮らし向きも楽になって使用人も雇う立場になった男性とその家族は、皆で海水浴に出かけた。

それは久しぶりの家族団欒、楽しい日のはずであったが、何とこの海水浴場で2人の子供が溺れ、死んでしまうのである。
どうだろうか、このように童子を見てから以降、大変な幸運に恵まれたと言う話はとても多いのだが、それが終わると何某かの不幸も訪れていることが多い。

そこには何か幸運、不運の等価性のようなものが潜んでいるように思えるのだ。
そしてこうした話の延長線上に「座敷わらし」があり、座敷わらしは東北にその話が多いとされていて、一説では古くから冷害の多かった東北では飢饉が多く、その度に貧しい農民たちは生まれた子供が養えず、「間引き」や「戻し」、つまり生まれた子供を殺してしまうことがあった。

それがこうした座敷わらしの話にくっついて行ったとも言われているが、座敷わらしの話は北陸や山陰にもそれが残っている。

また「座敷わらし」はその家に住み着いている間は家に繁栄をもたらすが、それが去ってしまうと、その家は貧しくなるとされていて、どうもこれは幸運も司るが、同時に不幸も司る存在に思え、そうした点から童子に姿を変えた妙見菩薩とも通じているようにも思える。

貧乏神は自分が去ることでその家に繁栄が訪れる、つまり貧乏神はまた幸運にも関与しているのと同じようなニュアンスが感じられ、漠然とだが「庚申待ち」のような疫病や、寿命と言うものに対する恐れのようなものも感じてしまうのである。

すなわち、あまりにも強大な野望や情念は、その思いの大きさゆえに禍々しく、しいてはそれが自身に跳ね返って来やすいものだと言うこと、また心穏やかに平凡に生きる。
つまり、大きな野望によって寿命を失うよりは、命を長らえることをして幸福、勝利とせよ、と言うことを遠回しに表しているように思う。

そしてこうした思いの遠い先に、いずれも古代神話の「破壊と創造」の概念が待っているような気がしてしまうが、どうだろうか・・・。




別れの言葉

「生きているなんぞ、つまらぬものだな・・・」
無意識のうちに口をついて出た私の言葉に、スタッフの女性が「どうしたんですか、何かあったんですか」と問いかけたが、はっと我に帰った私は「いや、何も」と答えた。

1989年1月7日午前6時33分、89歳で昭和天皇が崩御された。
64年に及ぶ激動の昭和はこの年で終りを告げ、同年から平成が始まったが、私の生まれた町では古くから天皇が崩御されると、その年のお盆に神輿を出して喪に服する、つまり崩御の祭礼が行われることになっていて、明治天皇、大正天皇の崩御の際も、同じ祭礼がおこなわれていたことが記録として残っていた為、地元宮司や有力者の意見もあり、この年盛大な祭礼が行われた。

この祭礼は注目を浴び、それまで近隣市町村では盆踊りぐらいしかイベントがなかったため、その中で20近くもの神輿が出る祭礼の儀式、と言っても見た目は祭りなのだが、これには多くの帰省客や観光客が訪れ賑わった。

だが問題はその翌年に起こった。
昨年あれほど活況を呈した祭礼の儀式を名前を変えて、祭りとして毎年行おうと言う話が地元有力者たちの間から起こってきて、あれよあれよと言う間にこの話は決まってしまったのである。

これに対してお盆の暑い日に神輿を担ぐ若者や、いたみ易い時期に弁当料理を用意しなければならない関係者たちは陰で不平を言ったものの、事を荒立てたくない、また取りあえずは地域活性化の名目もあり、表だって反対はできなかったが、当時まだ若かった私と一部の若者たちは、真っ向からこれに反対し、役場へ抗議に行き、地元有力者でこの話の提唱者でもあった、町の名家として権勢をふるう建設会社社長のところへも抗議に行った。

この時役場の職員は何と言ったかと言えば、「少し前の時代なら上で決まったことは、各地区に伝えるだけで誰も逆らわなかったのに、今はそれがこんなにやりにくくなるのか、難しい時代になったものだ」と溜息をつかれ、有力者だった建設会社の社長に至っては、さらに話にならない言葉が返ってきた。

「お前らのようなゴミが、とやかく言うことではない、帰れ」と一喝されたのだが、これに対して、「貴様のような奴が町にはびこっている限り、この町は絶対良くはならない、貴様こそ黙れ」、私はそう言って玄関の戸を閉めたものだった。

おおよそこの崩御の祭礼は天皇の崩御に対する喪の意味があり、この祭礼を毎年行うことは、現天皇に早く崩御してくれと言っているようなものになりはしないか、またせっかく貰ったお盆休み、家族や親せき、帰省した懐かしい友と、ゆっくりしたいと言う若者達の気持ちも考えて欲しいと言うことがあって、私たちは反対していたのだが、結局この祭りは決行されることになった。

そしてこうしたことがあってから暫くして、私は東京への出向が決まり、やがて会社も辞めて放浪生活になってしまうのだが、都会への憧れに一区切りついた私が故郷へ帰ってきてから数年後、ある地元施設の移転計画の企画メンバーを行政から頼まれていたので、出席してみると、昔、「お前のようなゴミは・・」と言われた、くだんの建設会社社長がこの同じ会合に参加していたのである。

私はこの会合でも厳しい意見を述べ、特にこの建設会社社長のことは終始、睨みつけたままだったように記憶しているが、やがて会合が終わり、急いで帰ろうと役場の玄関に出た私を後ろで引き留める者がいた。

「相変わらずだな・・・」、そこには髪に少し白いものが増えた建設会社社長が立っていた。
が、その顔は昔のような人を見下したような表情ではなく、ニコニコ笑っていた。
「どうだ、これからどこかで食事でも行かんか」
社長はどうした風の吹きまわしか、こんなことを言ったのだが、当時、いや今でもそうだが、了見の狭い私は「時間がないのでこれで・・・」 とそれを断った。

しかし、家へ帰ってラーメンをすすり、午後の仕事にかかろうかと思っていたら、この汚い作業所の階段を上がって来るものがいて、それはやはりくだんの社長だったのである。

私はこのとき「あんたのことは大嫌いだが、本来なら上がることすらはばかられるような、汚い作業場へこうして足を運んでくれたことは、感謝する」と言って仕事場へ上がって貰った。
そして昔のことや、この町のこと、経済の話をしたが、それはお互い必ずしも一致しないながら、それでいて、この男、根っからの悪でもないんだなと思わせるものだった。

そしてこのことがあってから以降、何かあるとお互い忙しいこともあってか、会うことはなくても電話で時々話をするようになり、やがて私が不完全で、たった数回しかスポンサーが付かなかったローカル新聞を発行すると、これが当時社長が支持していた政治家を結果的に応援することになってしまった経緯から、さらに親密になっていくが、結局私も社長もこの政治家の寝返りにあって、ひどい目に遭うことになる。

そんな中、私を励まそうと社長は地元の有力者を集めて宴会を開き、その席で「この町でたった1人だけ、最後まで自分を曲げずに生きて来たのはこの男だけだ」と私を持ち上げるのである。
たまたま偶然でそうなっただけで、大きな勘違いではあったが、私は社長のこうした気持が嬉しかった。

またある時、私はどうしてそこまで人に憎まれ、強引なことまでしてもいろんなことをやるのか、と尋ねたことがあったが、その時社長は嬉しそうな顔で「夢」だ、自分は夢がないと生きられないと言っていた。

だが社長の評判はどんどん悪くなっていて、その背景には見た目の地元有力者の裏側に潜む、会社経営の不振があったからだろう。
豪邸に住みながら、高級国産車を乗り回しながらも、この会社から支払を受けられない業者が沢山いるとか、いつ倒産してもおかしくない、あれは詐欺師だと言う噂で一杯で、それはずっと昔から続いていたことだった。

そしてこの社長は行方不明になり、山の中で死んでいるのが発見された。

思えば生まれてから70年ほどの生涯のうち、調子が良くて幸せだったのは30年くらいだろうか、あとは死ぬ直前まで「金」との戦い、金に追われた人生だったに違いない。
その中で必死になって負けずに戦って、最後に精根尽き果てたのだろう。

傲慢な人だったが、その傲慢さには心があった。
思えば喧嘩ばかりしていたが、その実私と社長は同じ性質の人間だったのかも知れない。

私の生きる動機は恨みだった。
いつかあいつだけは必ず見返してやる、あれを徹底的に潰すために力をつけてやる。
そうしたことが私の力だった。
しかしどうだ、そうした相手が日々年老いて穏やかな老人になり、自分と会うと涙を流して喜ぶ姿を見て私はどうしたら良いのか、自分に力があってこうしているのではなく、唯周囲が衰えただけで残っている私はどうしたらいいのか。

もう喧嘩もできなくなった、本当につまらない世の中だ・・・。
そして今夜、仕事が終わったら、負けて自分で命を絶って行った「大バカ者」の為に、大泣きでもしてやろうかな・・・。





坂道を登って行く車

ヨハネスブルグで溶接業を営むA・カリルは、ある日、ヨハネスブルグからベリーニングに続く主要道に沿って、約10kmばかり続いている1つの丘のふもとへ入る道に自動車を止めた。

客と約束した刻限までにはまだ時間がある。
天気も良いことだし、道端に腰かけて外の空気を吸い、ついでに煙草も一服したかったので、ポケットから煙草を出して、火をつけたが、そのさい何気なくさっき止めた自分の車に目が行った。

その瞬間、カリルの顔色はハッと変わり、持っていた煙草を放りだした。
何と自動車がジリジリと一人手に動き出していたのだ。
しかもその自動車は坂道を少しずつ登っていたのである。

誰か悪戯でもしているに違いないと思ったカリルは、慌てて自動車に戻り、ドアを開け周囲を見回した。
だが誰もいない。
そしてその間も車は少しずつ坂道を登って行く。
驚いたカリルはそのまましばらく考えたが、今度は自動車をUターンさせ、もう1度ブレーキを外して見た。

すると自動車は後ろ向きのまま、またもや丘の頂上に向かって登り始めた。
この状況に、カリルはなんだか急におかしくなってしまい、1人でゲラゲラ笑い出してしまった。

後日この話を聞きつけた南アフリカ連邦の「ザ・フレンド」紙の記者がカリルを訪ね、もう1度一緒に試してみることになった。

その丘は見たところ普通の丘で、他の丘と何か変わったところもなければ、周囲の様子も変わったことはなかった。
あまり急な坂と言うわけではなかったが、坂の両側には丈の高い草と、所々にトゲのある木が生えているくらいのものである。

「どちらの道からテストしますか・・・」
「この辺からでいいでしょう」
カリルの問いに記者が答え、カリルは自動車のエンジンを切って、ブレーキを外した。

自動車はまたもや、しずしずと丘を登って行く。
そこで自動車を止め、降りて丘を調べた2人はやはり何も見つけられず、結局自動車の周りを何度ぐるぐる回ってみても、どうしても謎が解けず、顔を見合せて大笑いするしかなかった。

このニュースは当時世界的なニュースになったが、そうこうしているとフレンド紙へ、スコットランドから抗議の手紙が舞い込んできた。

スコットランドの西海岸カルジーカルスの近くに、全く同じ不思議な丘があり、そこの坂道も同じように自動車が坂を登って行くことから、こちらの方が世界最初の不思議な坂だと言うのである。

またその坂は付近の人たちから「電気坂」と呼ばれ、親しまれてはいるが、何か不思議な力が働いているわけではなく、全くの錯覚に過ぎない。
つまり丘の周囲を取り巻く田園風景と見比べたとき、その位置の変化で登っているように思い違えるだけだ。
だからそもそも不思議でもなんでもないのだと、ご丁寧な解説まで付いていた。

これに対して「ザ・フレンド」紙の記者は反対の意見をスコットランドに送り、くだんの坂道は凄いでこぼこ道で、普通の坂ならブレーキなしでも十分自動車を停止させておける状態であり、またバケツに水を張った実験でも、その坂道は間違いなく見た目の方向に登って行く坂道であり、断じて錯覚ではないと主張した。

が、スコットランドからは特段確認にも来ない割には、やはり「錯覚だ」と言う主張が繰り返され、その後もこのヨハネスブルグの坂道の不思議は、決着がつかないまま今日に至っている。




戦は始まった時に終わっている。

策多きものは即ち勝ち、策の少なきものはこれ、敗れる。
尼子義久を破って、ついに中国地方をわが手中に収めた毛利元就、彼が座右の銘としていていたのが、この言葉であり、基本的には「孫子」だが、この延長線上には尾張のうつけ、織田信長がある。

信長が桶狭間の合戦で、その手柄第1位としたのは、今川義元が桶狭間にいる事を知らせた者だったのである。

このように戦いに置いては、常に情報を先に入手したものが戦局を有利に進めることができるが、そうした意味からも世界各国は情報を集めることを専門とした機関を持ち、こうした機関を諜報機関と言うが、その規模が最も大きいのがアメリカのCIAであり、旧ソビエトのKGB、中国の諜報機関などがこれに次ぐものだった。
そうそう女王陛下のジェームス・ボンド氏が所属していた、MI6はイギリスの諜報機関だった。

だが、その規模ではなく、最も情報収集能力が高いとされている諜報機関はどこかと言うと、これは群を抜いてイスラエルの諜報機関、「モサド」であることは、世界中の諜報機関関係者が口を揃えるところで、これはイスラエルが公開している情報なので、いささか自慢げに思えないでもないが、モサドが脚光を浴びたのは第3次中東戦争のとき、1967年の「6日戦争」のときである。

イスラエルはエジプトとの戦争が勃発するはるか以前から、モサドとその下部組織カッツァの要員をエジプトに潜入させていて、こうした要員たちは戦闘機の準備状況、パイロットや技術者の氏名年齢は勿論、その生活スタイルや酒癖、性的嗜好まで調べ上げ、毎週テルアビブに伝えていた。

またモサドの中にあるLAP(心理戦争局)はエジプトの航空兵や地上要員、参謀や将校のファイリングを行っていたとも言われていて、彼らの飛行実績やその昇格のしかた、つまり実力か人間関係で昇格したかの区別、はたまたアルコール依存症、同性愛者、無類の女好きで売春宿に通っている者など、詳細に渡って調べ上げていたのである。

その結果エジプトの戦闘機が出撃しにくい時間帯を、午前8時から8時30分と割り出したモサドは、このことをイスラエル空軍司令官に報告、1967年6月5日、イスラエル空軍は午前8時1分、シナイ半島低空から爆撃を行い、思いのままに地上の戦闘機や施設を破壊したのである。

この間エジプト軍が全く反撃できなかったのは、午前8時からの30分間、カイロの総司令部には作戦を指揮できる責任者の数が少なくなるからで、こうした情報をイスラエルは的確に把握していたのであり、イスラエルの攻撃がなぜ6月5日に決定されたかと言うと、このあと数日でエジプト軍の戦力がすべて整うことが分かっていたからだ。

またエジプトのナセル大統領の関係者の中にも、モサドが潜り込んでいた可能性もあった。

ではこのモサドとは一体どういう組織なのかと言うと、1951年3月2日、イスラエルにそれまであった5つの情報機関の統合本部、調整機関として設けられた機関で、「ハ・モサド・レ・テウム」と言うのが正式な名称だが、略してモサドと呼ばれ、主に海外での情報収集活動が目的とされていたが、運営や政治上の理由から外務省の管轄下になっていた。

その構成人員は既存情報機関からの引き抜きや、イスラエル国防軍政治部の対イラクスパイ組織網所属者が多く、事実上はこのスパイ組織が中核となった新しい組織と言う面があったが、その構成員は僅かで、300人未満と言われている。

これは故事に基づき、かつてイスラエルの士師ギデオンがたった300人の精鋭部隊を率いて、大軍を打ち破ったことにならったものであり、毎年900名以上の新規採用があるアメリカCIAや、2000人のエリート集団MI6から比べると、かなり小規模なもののように感じるかも知れないが、このモサドの下にカッツァと言う場所や状況に応じて活動して、報酬もその都度支払われる仕組みになっている、モサド支援組織があり、これを通じて全世界に散らばるイスラエル人から情報を集める仕組みがあることから、事実上モサドは世界最大の諜報機関とも言える。

イスラエルと言う国は、良くも悪くも歴史的普遍性を持った事実を、そのとおり実践する国である。

モーセの死後、神に選ばれたヨショアがエリコを攻略するときに出てくるのは、スパイと売春婦であり、これは記録に残る世界最古の職業と言えるだろう。
そしてその重要性は現代も全く変わっていないばかりか、特にスパイの重要性を最も高く認識している国がイスラエルなのである。

そしてモサド構成員の資格、また一体どう言う人材がこの組織に所属しているかと言えば、正統派ユダヤ教徒はこの資格から除外されている。
イスラエルのために働くのだから、ユダヤ教の熱心な信者が良さそうなものだが、これだと宗教的制約をしっかり守って、スパイ活動に支障が出るからで、「あ、今は祈りの時間なので・・・」ではスパイ活動は無理だからである。

またイスラエルには独自の農業や工業の共同生産組合、と言った性格の共同体組織があるが、これを「キブツ」と言い、こうした共同体出身者がモサド構成員になっている例が多く、その理由はユダヤ人としての民族意識が高く、同時に共同体の中で生活してきた人材は、組織活動に向いているとされているからである。

1954年、モサドのトップはアメリカ・CIA長官に就任したばかりの「アレン・ダレス」と会談しているが、イスラエルからダレスに贈られた短剣があり、そこには「イスラエルを見守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と言う詩篇の一節が刻まれていたと言われ、それに対してダレスは「私も・・・」と答えたとされ、ここにイスラエルとアメリカの諜報機関同士の提携が成立したとされている。

やがてアメリカから最新鋭の機材提供を受けたモサドは、中東戦争に勝利すべく、アラブ諸国のすべての主要都市に潜り込み、貴重な情報を探り出し、暫くしてモサドとCIAの間には互いの組織間に極秘ルートや、ホットラインが設置されていき、その情報は必要に応じて共有される仕組みが作られて行ったのである。

最後に・・・、モサドは第二次世界大戦中、ユダヤ人を迫害したナチス戦犯逃亡者に、爆発物を郵送して報復する暗殺任務も担当していたが、これなどはモサドの中に作られた「レオン」と言う機関がその任務を担当するようになり、半ば爆弾テロ組織化し、モサドの名はどちらかと言えばテロ組織として国際社会から恐れられた経緯がある。

リビアのカダフィ、PLOのアラファトも暗殺計画があったが、モサドはこれに失敗した、と言われている。




天の怒り・第1章

「随分死んだな・・・」
一人の男が木片を焚火(たきび)の中へ投げ込みながらそういった。
真っ黒焦げになって積み重なっているところは、まるで海鼠(ナマコ)のような容(かたち)だ。
「近所の人もみんな死んでしまった、もう人間の世も今夜で終るのでしょう」
そう言って老人は口をつぐんだ。 (杉重太郎・「火焔の中の幻覚」より)

1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分44秒、それは初め地面が低く唸るような音から始まった。
やがてその大勢の人間が地獄の底でもがくような音は、どんどん近付いて来る。
そして初めは瓶に入れられ振り回されているような大きな横揺れが、その後相次いで下から突き上げられるような衝撃を感じた頃には、帝都東京の半分が瓦解していた。
M7・9、関東大震災はこうしてはじまった。

おりから昼飯時期のこと、各々の家では火が使われていたことから、あちこちで火事が発生し、その火が集まって秒速17メートルから30メートル近い火焔風を起こし、何十本とも知れぬ火焔竜巻となって帝都をなめつくした。

人々は火焔地獄の中を彷徨い、わずかな水を求め大富豪「安田邸」の池の中に身を沈めたが、いかに安田財閥の池とて所詮は池、幾多の老若男女が飛び込んだ池は、襲い来る火焔の熱で一瞬にして沸き立ち、水が見えぬほどに殺到した人達は、絶叫とともに茹でられ、或いは焼かれてしまったのである。

またこれはある兄妹の証言から・・・。
「何しろ親父も、母親も目の前でじわじわ焼け死んで行くんです」
「気が狂ったようにして死んで行くのを見ながらどうすることもできません」
「それも一度に焼け死ぬならまだしも、風が吹いてくる度に着物から肌から、じわじわ一枚一枚焼かれていくんです」

「ですから風が引くと生き返ったようになるんですが、その間にそこいらの泥濘(ぬかるみ)から泥を掬ってかけるんですが、また風が襲ってくると火がついて燃えだすんです」
「周りは火の海でどこへも逃げるところはありませんでした」
「地べたにひれ伏して土に息をかけるようにしていなければ煙で喉が詰まります」
「死んだ人を上から被って火の風がやってくるのを待つだけでした」

「私は今年16になる妹と2人で、両親とは2間ばかり離れた所にいたのですが、両親が焼け死んだのを見ると、妹はもうたまらなくなり、焼け死ぬのはいやだから私に殺してくれ、と言うんです」
「私もどうせもう駄目だから、一思いに殺してやろうと思いまして、2度まで妹の首を絞めたのですが、手に力が入りませんでした」

「早く、早く殺してよ・・・、と妹はせがみます」
「が、その姿を見ると可憐しくてどうしても力が出ないのです」
「それで妹の細帯を解かせ、それを妹の首に巻きつけ、今度火の旋風が来たらもう最後だから、その時はきっと締め付けて殺してやると言いながら待ったんです」
「そして有たけの力で目を瞑って絞めることは絞めたのですが、帯がすでに焼けていたと見えて、途中で切れてしまったんです」  (婦人公論・大正12年10月号より)

この兄妹はそれからどうなったか、そうだ証言してくれているから、家族8人中奇跡的にこの2人は助かった。

だが、隅田川では全身焼けただれて、男とも女とも分らぬ死体が無数に流れ、橋のたもとでは死体の間に頭から焼けただれて片足になっている者、背中を一面焼かれて動けずにいる者など、瀕死の男女が幾人も死を待つようにうなだれ、少しばかりの空地には僅かばかりに命を拾った人が集まり、焼けたトタンを屋根に名ばかりの小屋を作っていたが、死人の匂いも半死の重傷者の声も耳に入らぬか、貰った玄米の握り飯をガツガツかじっている。
これが地獄でなくて、地獄がどこにあろう。

またこれは東京駅付近、翌日にここを歩いた人の話だが、降車口近くで足元を見ると、糸でからげた紙筒みがあり、何かと思って見てみると、そこからは生後いくらも経たない嬰児の片足が、紙の破れ目から覗いていた。
そしてこうしたことが全く目に入らず、人々はそれを蹴とばして歩いていたのである。 (大正大震災大火災・より)

さらにこれは震災後3日目、横浜でのことだが、泥まみれの浴衣を着て憔悴しきった感じではあるが、どこか興奮しているような30前後の女が歩いていた。
一見してその有り様から、今度の震災で焼け出されたどこかのおかみさんであることは明白だったが、やがて山の手の避難所にきたその女は、そこの人混みにまじってウロウロしている2人の子供を見つけると、「あ、いた、いた」と叫びながら嬉しそうに走り出した。

その様子を見て誰もが、ああそうか、生き別れになっていた子供を見つけたのだな、と思ったのだが、次の瞬間その女は傍に落ちているレンガを拾うと、その子供たちの頭を滅多打ちにして殴りつけた。
女は既に気が狂ってしまっていたのである。 (婦人公論・大正12年10月号)

この震災と大火で正気を失った者の数はわかっていないが、こうして気が狂った者や、嬰児がいた女性などでは、ショックから乳が出なくなった者が多数あり、それが原因で子供を失った女性も多かった。
彼女たちが髪を振り乱して苦悩する姿が見えるようだ・・・。

火災は9月3日にほぼ鎮火したが、両国橋はまだこのとき燃えていたと言われる。
本震以来続く余震は114回にもおよび、人々はその揺れの恐怖から、避難しようと東京駅に殺到していた。

この地震と火災による被害は焼失家屋46万5000戸、死者9万1300人(この内4割の38000人が被服廠跡地などでの焼死だった)、被災者は140万人、帝都東京の半分が焼失したことになる。

そして震災から3日後の記述にはこうある。
「しかし、失うべきものは全て失い、生きていることすら不思議と言える今、彼らは新たなる生への力をよみがえらせつつあった」

「3日午後の豪雨に、野宿していた避難民はぬれ鼠となったが、やがて日比谷、上野などにはバラックが建ち、その周囲にはスイトン屋、あずき屋、牛丼屋、床屋などが軒を並べ始めた。行方不明の家族の名を書いた旗を担いで焼け跡を彷徨う人、その傍では鉄道隊、電信隊、工兵隊などの軍隊が焼け跡の修復に着手しはじめていた」

(第2部へ続く)









プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ