2009/07/30
始皇帝の歴史的意義
中国の古代王朝としてはまず殷、周が存在しているが、伝統的な歴史観、つまり伝説としては太古の世に三皇、五帝と呼ばれる聖天子が現れ、いろんな発明をして人々の生活を豊かにし、世の中を太平に治めたとされている。この内、五帝の最初が「黄帝」であり、この帝は世にはびこる悪を滅ぼし、黄河流域に初めて国を建てたとされているが、後世漢民族の始祖として尊敬され、五帝の最後が「舜」(しゅん)になっているが、その「舜」に帝位を譲ったのが「堯」(ぎょう)と言われ、こうした帝位を譲る形の皇位継承のあり方を「禅譲」(ぜんじょう)と言い、古来より中国の中ではもっとも平和的で理想的な皇位継承と考えられてきた。
この「舜」が黄河の治水に功績のあった「禹」(う)に帝位を譲り成立したのが「夏」王朝であるが、何分この夏王朝の話は後の「周」王朝の文献に記されるのみで、実際にあった王朝なのか、伝説上の王朝なのかが明確になっていない。
よってここでは中国最古の王朝を「殷」として話を進めるが、この「殷」も「周」もその国家規模は河南地方を中心とする華北の地に限られたもので、その支配体制も封建制とは言え、それは各地方に自治を許し、その上に成り立っている、緩やかな統制にすぎないものであった。
もっと判りやすく言えば、今日我々が知る契約による封建制ではなく、本家や分家のつながりで構成されている社会であり、従って秦の始皇帝がこうした亜封建制諸国をことごとく滅ぼして全国に郡県制を布き、中央集権的官僚支配体制を確立したことは、中国の歴史上画期的な事件であり、これを成し遂げた始皇帝こそは、まさに中国最初の偉大な皇帝と言うべきものだ。
それにもかかわらず、始皇帝は歴史上ローマの皇帝ネロと並び評される暴君とされているが、その原因とされているのが極端な思想弾圧政策である。
本来理想化され、伝説となっていた周の政治体制に憧れを持つ儒学者たちの中には、秦の政治を法による強制的な統治として非難する者が少なくなかった。
始皇帝は異論をなくする為、民間にある詩経、書経、諸子百家の書物を没収して焼き捨て、儒教の説や政治批判を唱えるものを死刑にすると厳命を下したが、これが「焚書坑儒」として後世の学者たちから非難され、永く暴君の汚名をを冠せられる原因になったのである。
しかし「焚書」については医学、薬学、卜占(うらない)、農業の書物は除外していただけではなく、朝廷や博士が所蔵する古典類の書物はそのまま保存されていたので、始皇帝は儒学書、儒教学問を全面的に否定した訳ではなかった。
また「坑儒」に関しても、実はその前に国家統一を完成させた始皇帝が、もはや手に入らぬものは「不老不死」のみであり、何とかこれを手にしたいと思い始め、この話を聞いた諸生たちが、「不老不死の妙薬を探してまいります」と言って始皇帝を謀り、大金を貪った詐欺事件があり、始皇帝はこの事件に連座した諸生、430余人を捕縛して坑殺したのである。
諸生、儒生とは言うが、その中には儒者は殆ど含まれておらず、この事件に連座した者たちは神仙道を説く、方士と言う修行者たちだったのである。
始皇帝が民間の政治批判を禁じ、思想統一をはかったことは事実であるが、ではそれまで学者たちが理想としていた「周」の社会はどうだろう。
狭い範囲の国家、親戚縁者による支配であれば、それは「徳」と言う理想でも治められたかも知れない。
しかしその外の幾多の小さな社会を治める時、相互信頼による理想主義的思想の支配は、実際のところ全く通用しなかったのではないだろうか。
だからこそ中国はこの時期春秋戦国時代と言う、500年にも及ぶ混乱の時代を迎えることになったのではないか、つまりそれまでの親戚縁者による国家形態から、より広い国家への成長に従って、相互信頼や理想主義的相互理解と言う形なき形態から、契約や法、罰則と言った、理想や信頼を担保する制度の必要が現れたのではないだろうか。
春秋戦国時代には諸子百家と言って、多くの思想家が世に現れ、その中で次第に道徳や信頼と言ったものが、実は統一された価値観があって始めて成立すること、またそれを形として示す方法が、あらゆる次元で考えられたに違いない。
孔子は道徳をあらわすのに「形式」を選択した、韓非子は「限りない疑い」を、そして実際に中国統一を成し遂げるために、始皇帝が選んだ道は法と罰則による支配だった。
つまり、形のない「徳」や「信頼」に法と言う紐をつけ、その先に「懲罰」と言う錘をつないで「心」を担保させる仕組みを作ったのであり、こうした有り様はおよそ、その後アジアの支配形態のみならず、世界的にも支配形態として大きな影響を及ぼし、その意味で始皇帝は宗教や主観的理想論などの方法に頼らず、この世界を人の世とした上で、人が治めるとしたら、どうあるべきかを世界で始めて示したとも言えるのであり、それは漢以後の学者たちが非難するほど暴虐なものだったとは決して言えない。
中国に最初の統一をもたらし、外敵を退け、中国民族としての国境を確定させ、中央集権的官僚支配を打ち立てた始皇帝、彼は偉大な帝王だったと言うべきだろう。
始皇帝の「秦」は15年で滅んだ。
しかしこの秦帝国の国威は外国にも及び、外国人が中国を「シナ」と呼ぶ名称も、秦(Tsin)がその語源とされている、すなわちヨーロッパ、イギリスでは(China)、フランスでも(China)、ドイツでは(Cina)、インドのサンスクリット語では (Cinasthana)チナスターナと称され、日本でも江戸時代から用いられている「支那」の語源は、やはりこの「秦」から来ているのである。