誰と闘っているのか・・・。

2001年5月、平成13年大相撲夏場所のことだが、怪我で不調だった横綱貴乃花の復活が確定的かと思われたこの場所、貴乃花はこの日まで13連勝の快進撃、そして迎えた14日目、対戦は無双山だったが、何と横綱はこの一番で土俵際、無双山から突き落としを食らい転落してしまう。

貴乃花は土俵下で手を突いて立ち上がったが、土俵へ戻るその足取りは明確に片足を引きずる様子で、これを見た観衆たちは誰もが「もしかしたら怪我がまた悪くなったのでは・・・」と沈黙するに足る姿であった。
だが貴乃花の怪我は観衆が考える以上に軽い話ではなかった・・・。
右膝半月板の損傷、この膝では動くことすら痛みを伴い、ましてや相撲など取れる状態ではなかったのである。

親方はじめ、周囲は皆「休場」を勧告する、しかし貴乃花はその勧告に首をふることはなく千秋楽に出場、このときの対戦相手は武蔵丸であったが、この一番は話にならない取り組みとなり、怪我をした貴乃花は一方的に土俵の外に押しやられてしまう、貴乃花は13勝2敗で武蔵丸と並んだ。

千秋楽同日、優勝決定戦にまでもつれ込んだこの場所、少し前の取り組みを見ていた観衆、テレビでの視聴者は誰もがこう思ったことだろう。
「貴乃花、もうよせ、その怪我ではだめだ」

だが貴乃花はここで横綱の意地を見せる、おそらくこの一番で死んでも構わんと思っていたのだろう、そう言う覚悟で武蔵丸に投げを打つ。
結果、貴乃花は豪快な上手投げで武蔵丸を土俵に沈め、見事に優勝を果たした。

そして狂喜乱舞する観衆のどよめきの中、あの名場面が現れるのである。
土俵に振り返った貴乃花の顔はまるで仁王像のように眼前を睨みつけ、両の手は硬く握られ、満身から「力」そのものが周囲を制するほどになって感じられ、微動だにしない姿がそこにあった。

観衆は見たことだろう、それを意識しようと意識せずとも、そこに日本人と言うもの、いや日本と言うものを・・・。
貴乃花は闘っていた、それも武蔵丸との対戦に勝利した直後から・・・
自分自身と自分の体と闘っていたに違いない。

「やった」と言ってガッツポーズをしようする、いやそこまで行かなくても、何らかの形で喜びを外に出そうとする自分の体と闘っていた。
だからその驕った精神を律するために口をきつく結び、眼前を睨みつけた。
満身に力を込めて自身の体を律しようとしたのだが、おそらくこの自分との闘いの方が、武蔵丸との対戦よりも遥かに多くの「力」を要したに違いない。

「怪我をおして、良く闘った、感動した」、当時の小泉純一郎首相自らが表彰状を渡したこの優勝授与式でも、貴乃花は首相をしっかり見据え一礼し、その姿勢からは一点の驕りも高ぶりも感じられなかった、完璧だった。

私は相撲ファンでもなく貴乃花のことは何も知らないが、こうした貴乃花の横綱としてありように、ひたすら肉体を鍛え勝負に生き、その中で精神までも鍛え上げられた男としての姿、いや人間としての姿に「究極」を見させてもらったと思っている。

そしてこの貴乃花が自身と闘った様の中には遠く孔子が示し、道元が「古徳」と読んだ一つの人として有り様が潜んでいる。
すなわちそれは「驕り」であったり「高ぶり」に対する有り様だ。

この世には多くの人が存在し、多くの考え方があり、多くの状況がある。
今この瞬間をとっても幸せな者もいれば、不幸な者もいる、例えば恋人と上手く行っている人は普段男女のことなど、難しいことは考えもしないが、今恋人とうまく行っていない人はどうだろう、ましてや恋人ができずに困っている人は尚のことだ。

今この瞬間恋人と上手く行っている人は、2人きりの時なら何をしても許されるだろう、しかしひとたび他人が存在する社会に出るときは、そうした今幸せではない者の事も考えるのが大切ではないだろうか。

またこれは自分の身内の話でも同じことであり、私の知人に医師をしている者がいて、彼は子どもをやはり医師にしようと思っていたが、この子がどうしても学業が嫌いで高校を中退し、新聞配達の仕事で暮らし始めたことを知ってから、私は自分の子供がどこの高校へ入ったとか、どこの大学へ行くとか言う話をしなくなった。
と言うより一般論として自分の子どもの、少なくとも自慢話になるような話は誰に対しても避けるようになった。

自分が評価されることは嬉しいことだ、また自分の子どもや孫も、やはり人から評価されることは嬉しい。
しかしそれはあくまでも自分のことであり、他人から見ればそれはどうしても自慢話にしか見えないだろう。
そう言うことを考えて、子どもにも何かで勝ったとしても、いかに学業で優秀な成績を修めようとも、決して人前では喜ぶなと言い続けてきた。

また知識もしかり、何かを知っていると言うことは、それだけだと唯道具を持っているだけで、しかもその道具は先人たちから自分が受け継いだものに過ぎない。
これをして人前で披露し、自身が賞賛され悦にいるなどは愚かさの極みであり、道具は自身が使い切ることができなければ、責任を持って後世の者に伝え、いつかそれを役立てて貰えるように努力するのが正しい道だろうと思う。

親切の奥には憐れみがあり、その憐れみのさらに奥には自己と他の比較がある。
その比較の中で自身が少しでも優位にあれば、人は他に施しをしようと思うが、その根底には自分がある。

すなわち電車内でお年寄りに席を譲るとき、これを「無心」で行える者はいない、しかしこれが例え憐れみであれ、自己満足でもそれを施された者にとっては同じことであり、そこにあるのは現実のみである。

そしてその施しを肯定できるか否定しなければならないかは自身の内にあり、それが憐れみや自己満足であるかは自身が決めることであり、この意味においては自身の有り様を、例えそれが好ましからぬものであったとしても、知っていることはまた尊い。

さらに周囲の賞賛を得ようがために行う善行であっても、それが為されないよりは為される方が良い。
今この瞬間にも病と闘っている者もいれば、悲嘆に暮れている者もいる。
悲しみの中で苦しみもがく者もいる、思った通りにならず焦る者もいる。

人を助けようと思う、人のためになろうと思う、こうした心があるなら、それは何も金や物を恵むことだけがそうであるのではない、むしろ人を思いやり、人のことを思って自身の行動を見つめることもまた、もっとも尊い人に対する施しなのであり、これをして「徳」と言うのである。




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鵺(ぬえ)の鳴く夜

キャップの下から髪を伝って信じられないほどの汗が滴り落ち、それが目に入って痛い・・・、すでにTシャツは突然のスコールにでも出合ったように、絞ればこれも汗が滴ることだろう。

暑い、いや正確には蒸し暑い、それも地面から立ち上がる水蒸気と、山の緑が出す独特の熱気、夏の夜の、空気が止まったような暑さで、まるで蒸し鍋で蒸されているような暑さだ。

草薮を歩いていると懐中電灯が時々光を失い始めて、不安定になってきた。
月はなく完全な闇夜、「おい、懐中電灯の電池は持っているか」
「おお、有るが、俺のポケットだ」
「もうこの電池は限界だ、交換しないとだめだ」

私はもう一人の相棒から電池を受け取ろうとしたが、せっかく握ったのに電池は汗で滑り、ストンと下に落ちた。
「馬鹿野郎、何やってんだ、こんなところで落としたら見つからんぞ」
「ちょっと待ってくれ、今ライターに火をつけるからそれで探す」

カチカチ音を立ててやっと炎を上げた100円ライターは、あたりをこれまた異様なまでに不安定に照らし始める。
そしてこのライターの光に反射して、草むらの中で落とした電池がキラッと輝き、私はそれを拾った。
懐中電灯の後ろのキャップを緩め、使い古した電池を抜き、それをポケットにしまうと新しい電池を2本入れ、またキャップを閉めスイッチを押す・・・、「おお、やはり電池が新しいと明るいな・・・」

暗闇で光ほどありがたいものはない。
ほっとした私たちだったが、その時どこか遠いところからピーン、ピーン・・・と一定の間隔でだれかが杭を打っているような音が聞こえた。

「おいあれは・・・」
「ああ、モヨウだ」
この地方ではモヨウと言うが、正式名称は「鵺」(ぬえ)、顔は猿、狸の胴体を持ち、虎の手足、尻尾は蛇とされる伝説の雷獣、その正体は「トラツグミ」と言う鳥らしいが、古来より限りなく不吉とされるこの鳥が鳴くには、その夜は余りにもお似合いの夜だった。

以前から精神的に不安定で家族も注意していたのだが、近所の男性(71歳)が夕方になっても帰って来ない・・・とその男性の妻が家を訪れた頃には、すでに辺りは暗くなりかかっていて、時間にしたら8時ぐらいだっただろうか、それから村人すべてに連絡し、みんなでいろんな備品を揃え、捜索に向かった時は9時近くになってしまっていた。

こうした村では行方不明者の捜索はたまにあることで、この場合はある程度の手順が有り、まず警察に連絡し、それから一番最初にその人間が住んでいる最小単位の「区」、およそ15軒前後だが、それでまず捜索し、それでも見つからなければ村全体、凡そ80軒から1人ずつ出てもらって探し、さらに見つからないときは地元消防団や、自警団が動く仕組みになっていて、これはどちらかと言えば行方不明者を出した家にできるだけ負担がかからないように、初期は少人数で探し始める仕組みと言えるだろう。

この晩は一番最初の段階で、15軒ほどの近所の家から足の達者な者はすべて出てもらって、2人1組になり、鎌と2メートル前後の竹竿を持って、山の方へ歩いて行ったと言う目撃談から、皆で山へ捜索に出かけていたのであり、当然我が家からも私と私の父、それに母までがみんなで山に入っていたのである。

子供ころ庭のように熟知していた山だが、やはり夜ともなればその様子はまったく違ったものに見え、私と組んでいる近所の男性もまた、僅かな物音にもビクっとしながら歩いていたが、この場合何らかの理由で行方不明者が死んでいる場合もあり、草むらを竹竿でつつきながら、怪しい草むらは鎌で草を刈って探すのだが、何分暗闇を懐中電灯で探していると、怪しいといえばすべてが怪しく見え、鳥が飛び立つ音や狸や狐が逃げるときに出る「ガサッ」と言う音でも、絶叫してしまいそうになる。

7月終わりの頃だったと思うが、本当に蒸し暑い夜で、それだけでも不気味なのに、行方不明の人を探しているとなると、「頼む、自分たちが第一発見者にならないでくれ・・・」と祈りながら探しているのが実情だった。
そこへ「鵺」の鳴き声なのである。

鵺の鳴き声は本当に薄気味悪いもので、まるで遠くの山で誰かが一定間隔で杭を打ちつけている音のようでもあり、また蛇口に溜まった水滴が、洗面器に残ったに水の上に一滴一滴落ちているようにも聞こえるし、女が高い声で叫んでいるようにも聞こえる。

こんな蒸し暑い夜に鳴き、それは1番中続き、一度気になりだしたら絶対朝まで眠れなくなるが、私の住んでいるところでは「鵺」には雄と雌がいると言われていて、その鳴き声は微妙だが違っていて、雄の鳴き声はピーン・・・と言う具合に最後に僅かな止めが入るが、メスはどちらかと言うと、ピー・・・と言う具合で雄のような止めがなく、ひどい夜にはこの雄と雌がまるで鳴き声で互いを確かめるように、交互に朝まで鳴き続けることがある。

平安の時代から不吉とされるこの鳥の鳴き声は、私たちのところでもこれが鳴くと人が死ぬ・・・と言い伝えられていて、それでなくてもこれを聞くと、家に何か悪いことが起こると言われている忌み鳥である。

私と相棒の男性は、林道をたまに藪の中へ入りながら行方不明者を探していたが、さすがに夜の12時を過ぎる頃になると、山もそうだが、近くを流れる小さな川の水の音が変わってくる。

周囲は静かになるのだが、川の水の音は逆に少し大きくなってくるのであり、一瞬にして気配が変わったようになる。
そこへ鵺がピーン、ピーン・・・と計ったように規則的に鳴くのである。
「おい、今夜はもうこれくらいにして、明日、明るくなったらまた探さんか・・・」、相棒の男性が私に言う。

私は待っていたようにこれに賛成した。
そうして2人で林道を引き返そうとしたときだった・・・、「おーい、今夜はこれで終わりにするぞ・・・」と言う声が少し離れたところから聞こえてきた。

どうやら今夜は誰も行方不明の人を見つけられなかったらしく、これで解散と言うことになるが、こんな季節のこと、朝は5時前から明るくなってくる、しばらく仮眠を取って明日また探そうと言うことになった。

家へ帰ってシャワーを浴びた私は体が火照ってしまい、扇風機を当てながら布団の上に横になったが、そこへまたピーン、ピーン・・・と鵺が鳴く・・・、むかし幼い頃この鳴き声が聞こえると、私はなぜか青白い顔の坊主が、向かいの山で何か恐ろしい目的のために杭を打っている場面を想像し、なかなか眠れなかったものだが、この晩も同じように眠れなかった。

「早く来ないとこの男は連れて行くぞ・・・」と青白い顔の坊主が言っているようで、結局明るくなるまで鵺の鳴き声は続き、一睡もできなかった。

翌朝5時30分ごろ、昨夜に続いて捜索を始めてすぐのことだったが、行方不明の男性は、山の林道付近の水が通っていない古い水路でうずくまっているのが発見された。

どこも怪我はなく、夜になって動けなくなったので一晩中そこにいたと言うことだった・・・が、おかしなことにその場所は私と相棒の男性が少なくとも4回は探した場所で、昨夜はそこに人などはいなかったのだが・・・。





後退と言う前進

アフガニスタンの大統領選挙が今、世界中の注目を浴びているが、2001年12月から事実上この国の大統領の地位にあるハミド・カルザイ、、彼は1957年生まれでアメリカやインドへの留学経験を持ち、イスラム武装勢力のタリバンがパキスタンの支援を受けて一時的に首都カブールを占拠し、タリバン政権を樹立(1996年~2001年)する以前の、ラバニ政権期には外務次官を勤めていた。

その後タリバン政権に接近した時期もあったが、父親が殺害されてから以降は、タリバンと距離を置くようになっていった。
アメリカ軍のアフガニスタン介入時まではアメリカ中央情報局(CIA)や石油メジャーとの関連もあったとされている。

2001年12月、ボン会合(タリバン政権を打倒し、その後のアフガニスタン新政府樹立のスケジュールを国際社会で話し合った会議)を受けて発足したアフガニスタン暫定行政機構議長に就任して以来、一貫してアメリカとの強い関係を背景に国家再建を目指しているが、2002年6月、緊急ロヤ・ジルガ(全国規模の伝統的意思決定会議)の決定によって、その後2004年12月7日には正式に大統領に就任した。

カルザイは暫定行政機構議長就任時、世界的な注目と期待を集め、アメリカとの強い関係によって、アフガニスタンの統一と平和を打ち立てようとしたが、その道は険しく、あまたの困難が立ちふさがっていることを国際社会も熟知していた。

ロヤ・ジルガなどの意思決定機関などを見ても分かるように、カルザイがアフガニスタン再建の基盤としてきたのは、旧勢力の長老や有力者、軍閥などで、結果として国際社会が行った多額の資金援助は、こうした旧勢力者たちが殆ど横取りし、端末の一般市民には何も行き届かなかったのである。

またカルザイは農村部や首都から離れた地域に対しては、小麦などの農産物を耕作するなら資金援助、灌漑施設の整備もしよう・・・と言う約束で「アヘン」の生産を止めるよう訴え、これに対しては農村部や遠隔地の人々も大きな期待を持ったが、事実はどうなったかと言うと、先に出てきたとおりで、金は途中ですべて搾取され、農民たちには援助物資も届かなければ、灌漑施設整備の約束も守られなかった。

もともとアフガニスタンではアヘンなどの麻薬の栽培が盛んで、世界の麻薬栽培のメッカとも言われていたが、カルザイはタリバンの資金源を断つ為、この麻薬生産をやめさせようと考えたのだが、その結果は悲惨なもので、カルザイを信じてせっかく麻薬の栽培を止めた農家は、約束を守って貰えず結局また麻薬栽培に戻り、そこへタリバンが接近、資金源としていったため、一度は滅ぼされたかに見えたタリバンは、麻薬を通じてその勢力を地下で拡大させ、反カルザイの意思を利用して、農民たちの心を摑むことにも成功してしまった。

イスラム武装政治運動家タリバンがアフガニスタンを実効支配した時期は、1996年から2001年までの5年ほどだが、アメリカがこの国に深く関与せざるを得なかったのは、9・11アメリカテロの首謀者オサマ・ビンラディンが、このアフガニスタンのタリバンによって、かくまわれていたとされたためだ。

こうしたことからアメリカは何が何でもタリバン撲滅を目指すことになるが、この作戦はカルザイの政策と連動して失敗している。

2001年には国際的非難に配慮して、末期のタリバン政権がアヘン、つまりケシの栽培を禁止する政府通達を行い、これによってアヘンの生産量は激減したが、その後カルザイ政権に移行してからは、逆にアヘンの生産量は増加してきているのである。

アフガニスタンのアヘンの生産量は、最盛期の1999年には4565トン、つまり全世界のアヘン生産量の80%に及んでいたが、その後タリバン政権が2001年に栽培禁令を出してからこれが激減、しかしそれからタリバン政権が倒され、カルザイ政権に移行して2004年1月に制定された新憲法で、麻薬密輸拡大を禁止しているにもかかわらず、改善の傾向は見られず、現在はほぼ全世界のアヘン生産量の約90%を生産するまでに、その生産水準を回復させていると言われる。

国連薬物犯罪事務所(UNODC)事務局の発表では推測だが、2006年にはアフガニスタン全土で約6100トンのアヘンが生産されたものと言われていて、これが本当なら過去最高の生産量で、実に全世界の生産量の92%にもなる数字だ。

またその栽培面積も、栽培が盛んだったタリバン政権時をはるかに凌ぐ17万ヘクタールに及んでいると推測されていて、中央アジアは麻薬の生産拠点であると同時にロシア、トルコ、ヨーロッパへの麻薬の中継基地ともなっているのである。

カルザイはアメリカと組んだのはまだしも、その後タリバン政権でさえ内戦を深刻化するとして排除していった軍閥を頼り、それを元に国家再建を考えたのが間違いのもとだった。
なぜならアフガニスタンを今日のように混乱させてきたその背景が、この「軍閥」なのであり、地方を困窮させ、そのためにタリバンを復活させる原因となっているからである。

またアメリカがその威信を賭けて誓った、イスラムテロ組織の撲滅は、余りにも虚しく意味の無かった十字軍の遠征に似て、その先にあるものは泥沼の混乱であり、後世こうした現状が歴史として語られるときが来れば、21世紀十字軍の遠征として語られ、その評価はきわめて低いものとなるのではないだろうか・・・。


神風

チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは大都(北京)に都を開き、ここに「元」が国家として成立したが、時に1271年のことだった。

そして「元」はその後日本に対して大軍を擁して攻め込むが、どういう訳かうまく行かない・・・、しかし日本では元寇(げんこう)、蒙古襲来(もうこしゅうらい)として恐れられた、こうした元の日本攻撃には2つの大きな理由があり、その1つは皇帝フビライの日本征服の野望だが、もう1つの理由は日本の海賊問題だった。

元の属国となっていた朝鮮半島の「高麗」には日本の海賊「倭寇」(わこう)が頻繁に出没し、人はさらう、食料は略奪する・・・、と言った具合でその被害は甚大なものだったが、元が名目上も成立する以前から、高麗は元に対してこの日本の海賊問題で救いを求めていた。

つまり、元の日本進出の背景には、海賊対策を申し込んでも一向に埒が明かない日本に対して、統一国家としての国威の発動に近い意識がフビライにはあったようで、1268年以降、高麗を通じて日本に対して3回に渡って使者を送り、服従を求めた。

最初から服従とは「我に逆らうものは、その命を絶対に落とす。これは今まで征服した者たちも、これから征服される者たちも同じである・・・」としたチンギス・ハーンの孫らしい言葉ではあるが、当時18歳の北条時宗とその有力御家人たちは、この要求を拒否するならまだしも、「無視」と言う手前勝手かつ、極めて日本的情緒が伺える方法で回答するが、これはポツダム宣言の受諾が遅れたのと非常に良く似ていて、「服従しろ」と言っている相手に、「日本の事情も分かってね・・・」と言っているようなもので、相手としては一番侮辱された印象を受ける回答形式でもある。

1274年10月、何度使者を送っても一向に返事の無い日本の態度に激怒したフビライは、元と高麗の連合軍3万を、900隻を越える数の船で編成し、博多湾沿岸に上陸させ、日本軍もこれに応戦するのだが、元軍の集団戦法と毒矢、火を使った攻撃にひとたまりも無く退散、大宰府の水城(みずき)まで撤退した・・・、が、なぜか元軍はここまで攻撃しながら、理由も無く船に引き上げてしまい、翌日10月20日の夜に発生した暴風雨で、その多くの兵が船とともに博多湾の底に沈んでしまったのである。これを文永の役と言う。

さらに1279年、ついに宋を倒し中国を統一したフビライは、再度日本遠征の準備を行い、1281年、元、高麗、漢人で編成された4万の軍が朝鮮半島から出兵、対馬、壱岐を制圧し、またしても博多湾に迫ったが、今度はあらかじめ攻撃に対する備えをしていた日本軍の前に苦戦する。

日本軍、主に九州、中国地方の御家人たちだったが、彼らは海岸に石の塁、つまり石の壁を築いてこれで防御し、この4万の蒙古軍を撃退していた。
またこれとは別にフビライは南宋人10万人で編成された江南軍も博多湾に派兵していたが、博多湾に到着直後、この江南軍もまた暴風雨にあって、多くの兵や船が海の藻屑となってしまうのである。

これが「弘安の役」だが、フビライはこの前後2回にわたって日本征服を試みている、この2回はどちらかと言えば圧力を加えるのが目的だったのか、その規模は文永や弘安の役の規模よりは、はるかに小規模なもので、弘安の役の後にも3度目の大遠征を企てていたフビライだが、元の国内で親族の内乱が勃発して以降内乱が相次ぎ、ついに日本征服の夢は潰えてしまうのである。

さてこうして考えてみると、フビライの日本に対する執着は、並の執着ではないような気がするが、ここで考えたいのは日本征服の野望がどこに端を発しているかである。
海賊問題は確かに国家権威を考えれば捨て置けない問題ではあるが、それにしてはこの執着は深すぎる。

実は面白い話がある。
ヴェネツィア生まれのイタリアの探検家マルコ・ポーロは1271年、アジア大陸を陸路から横断し、1275年には「元」の皇帝フビライと会見してる。
その後マルコ・ポーロとフビライは意気投合、マルコ・ポーロは以後17年間に渡って元に滞在し、元朝に仕えて政務に携わった。

そして1292年に元を出発し、海路でペルシャを経てヴェネツィアに帰ったが、その間の旅行談を筆記したのが「東方見聞録」であり、この中で日本は黄金、真珠、宝石の多い国で、無限の富を蓄えていると記されている。

フビライが当初日本征服目標としていたのは確かに国威の発動だろうし、周辺征服だったかも知れない、だがマルコ・ポーロの話を聞いてから、それには経済的欲求も加わったのではないか、そのため弘安以降も諦めきれずに日本征服をもくろんだのではないかとも考えられる

皇帝フビライはなかなかの男だった。
日本を揺さぶるために、使者や書簡を時の権力者北条家だけではなく、天皇周辺にも送っている。

これはどう言うことかと言うと、万一天皇がフビライを認めてしまうと、北条家が逆賊となり、それを名目に元が天皇との直接交渉で、日本を手中に収める方法もあった訳だ・・・、幸い武力侵攻が功を奏さなかったおかげで、こうしたことは実現しなかったが、一歩間違えれば日本の歴史は今とまったく違うものになっていた可能性がある。

また元の襲来を事実上阻止したのは「暴風雨」とされているが、時の亀山上皇を始めとする公家たちは、元の襲来に対しても、昔ながらの敵国降伏の祈願を諸方の大社、大寺に通達しただけだった、しかし現実に元軍が撃退されると、これらの何もしなかった者たちが、祈願の熱意が神冥を動かした結果であって、暴風雨は「神風」であったと考え、日本は神々が鎮座し守護してくれる神国であると言う、いわゆる神国思想を喧伝しだしたのである。

だが現実はどうであろうか、元軍は船でやってきている以上、その道の専門家、つまり船乗りたちや、気象を経験的に予測できる者をも乗船させていただろう。

そしてそうした者たちは、暴風雨が来ることをある程度予測できたはずであるが、こうした予測こそが敗因になったのではないか、つまり暴風雨が来ることが分かり撤退しようとして、その判断をフビライとまでは行かなくても、ある程度の責任者に確認している間に撤退も侵攻もできずに、海に沈んでいったのではないだろうか。

もちろんフビライは撤退を絶対認めないし、その中で万一船を降りて、日本の陸上で戦闘になっている間に嵐が来れば、船が沈んで帰れなくなり、日本で孤立する。
気象をある程度予測できたからこそ、どうにも判断できずに暴風雨に巻き込まれた・・・と言うのがことの真相ではないだろうか。

また幕府はそれなりの防御策を講じていたし、西国御家人たちはこの事態に一挙に注目を集め、こうした場面で軍功でもあれば褒賞が・・・と言うこともあって頑張っただろう、さらには元軍は異民族混成部隊であり、先の話ではないが、海戦に慣れてはいなくて、その連絡網も後になれば後になるほどずさんだったに違いない。

第一、 もともとフビライに征服されたか、服従させられた民族で編成された軍隊でもあり、こうしたことから戦いには消極的な者も、少なくなかったのではないかと考えられるのである。

最後に元寇(げんこう)と倭寇(わこう)だが、前者は元のどちらかと言うと軍を指し、後者は日本の海賊のことだ。
人間は偶然が2つ重なると、眼前の判断を失い、そこに何か大きなものの存在を見るようになるが、偶然が2つ重なって悪いことが起こるときは、早くそれを忘れようとする傾向がある。

これが「神風」と言うものの正体かもしれない・・・。




火の車

1m間隔に100円が1個ずつ落ちている道がずっと続いているとしようか・・・、それを拾いながら歩いていると、何とか1日暮らせるだけの金額になり、毎日それを拾いながら暮らしている者がいる。

だがある日、1mの間に100円が2個ずつ落ちていた、そしてその次の日には何と100円が同じ間隔で3個も落ちていて、こうなると半日も拾えば暮らしは十分どころか、酒も飲めるし美味いものも食べれるようになり、これは良いな・・・と思うようになった。

この者に100円を拾わせているのは、優しくそして余り物を考えない神様だったが、ようやく気づき始めた頃はすでに遅かった、100円を拾いながら暮らしている者の喜ぶ顔につられて大盤振る舞いしていたら、なんと道に落とし続けてやるべき100円硬貨が、袋に残り少なくなってなってきていて、このままではマズイ・・・と言うので今度は2mに1個に減らし始めた。

だがこれに俄然文句を言うのは「拾う者」であり、一度覚えた酒は毎日呑みたい、美味いものも食べたい、1日拾い続けて以前の半分以下とはどう言うことだ・・・と神様に抗議した。

神様といっても辛いもの・・・、所詮人気商売で人間の人気が無ければ神社は荒れ果て、神様の世界でも地位が低くなってなってしまうことから、何とかして人間の人気をつなぎとめておきたい・・・、そこで仕方なく来年の分の100円硬貨を使い始め、また1mに3個ずつの100円を落とし始めたが、こうなると3年分を1年で使ってしまうので、3年もすれば9年分の100円硬貨を使ってしまい、ついには神様もお金が無くなってしまった。

ある日、道にはどこまで行っても100円硬貨が落ちていることは無くなり、それを拾って暮らしていた者も何も食べることができなくなった・・・。

これは何の話だと思うだろうか・・・。
そうだ経済対策の話だ。

経済と言うのはいろんな理論があるが、それは起こった現象について、後から説明しただけと言えばそれまでのものであり、本当はその仕組みは単純明快なものでもある。
毎日食べる米やパンなどは、例えば今日のうちに明日の分を食べて貯めておく・・・と言うことはできない。

だからこうしたものの消費はそれ程大きな変動がないが、では食べ物以外の自動車や家電製品はどうだろうか、これらは今日壊れていなければそれ程慌てて買う必要は無く、本来社会的変動が少なければ、毎日売れる数は決まっているものでもあるが、それが他の理由で景気が悪くなった場合、毎日売れる数が減ってきてしまう。

そこで経済対策でエコカー減税や、エコ家電補助金制度が出てくる訳だが、これによりトヨタや日産などの自動車メーカー、大手家電メーカーなどの製品が一転して注文に追いつかないほどの盛況ぶりになる。

結構なことだ・・・が、よく考えてみると、これは本当なら1日に1台しか売れなかったものが、3台売れてしまっているのであり、このチャンスに・・・と思う消費者心理が、購買行動を前倒ししているのだ。
つまり今後2年ないし、3年の間に起こる消費、購買行動を先食いしてることになる。

3年で30台売れていく自動車が1年で30台を売り切ってしまい、ついでに経済対策が終わると、アッと言う間に残り2年の売り上げが無くなってしまうのだ。

もちろん最初の1年に出た利益はあるが、その前に他の理由で被ってしまった借金の返済に充てられ、その後また未来の消費を呼び込む方法が無ければ、そこで消費は失速してしまい、以前よりさらに経済が悪化する可能性があるのだ。

勿論、経済対策が終わった途端、まったく売れなくなると言うようなことは無いだろうが、それでも先食いした分は苦しくなってくる、また自動車で言えば、しばらくして世界経済が持ち直せば、当然原油価格の上昇も見込まれ、ハイブッリド車の消費につながって行く可能性も視野に入っているだろう。

だが、原油価格が上がれば今度は経済全体がまた失速し、根本的な経済が冷え込むだろう・・・、そしてもしこうしたときに経済対策期限切れ、基本消費の先食いによる消費低迷が起こった場合、日本経済は決定的な打撃を受ける。

事実タスポカード導入により混乱したタバコ販売は、コンビニでは店頭販売だったことから、自販機からコンビニへの消費移動が起こり、このおかげで自販機でタバコを売っていた小売店の売り上げは壊滅的な打撃を受け、その打撃のおかげでコンビニは業績を向上させたが、これですら暫くすれば安定してしまい、結果として今度はまたコンビニの売り上げも落ちていくのである。

つまりタスポカード導入のおかげで一時的にコンビニの売り上げは上がったが、その影で小売店の大量廃業があり、またさらに今度はコンビニ業界の売り上げも落ちてくるのである。

資本主義の原理は常に拡大にある。
そしてこの拡大の先に待っているものは破綻であり、世界経済は100年のスパンで見たとき、必ず1度は破綻し、そこからまた経済活動が再開され、また拡大に向かい、そして破綻すると言うサイクルを繰り返している。

またこうした破綻に伴い、新たなる市場を求め、資本は外へ向かっていき、これは帝国主義の原理とも等しいものである。
今まさに経済的に世界は帝国主義国家間の戦争状態とも言えるのであり、こうした場合、資本がある国や資源がある国は保護主義へと道を転じ、持たざる国、経済的に弱い国家は武力で、または混乱を利用してそれを乗り切ろうとしていくものである。

日本経済はとても危うい状態にあり、国際的なあらゆる外交や交渉でも日本の影響力が弱くなっている背景には、これまで経済力で無視できなかった状態から、もはや経済的にも影響の少ない国家として、対外的に看做され始めているからである。
小さな水溜りを避けて、さらに大きく深い水溜りに落ちないように、祈るばかりだ・・・。



青い空は少し哀しくて。

「その企画では、だめだと思います」
「○○さん、それはどうして」

目が大きくクリッとしていて、少しきつい感じはするが、口元がきりっと結ばれているときの彼女の顔は、可愛いというよりは綺麗だったし、身長こそ低かったが輪郭のしっかりした姿勢は、ある種の精悍さも感じられ、社内では結構人気が高かった。

しかしこの女、なぜか私には徹底的に楯突くと言うか、逆らうと言うかの態度で、同じように地方出身だからと思い、親近感を持っていたにもかかわらず、私の企画には必ず反対し、他の社員にはにこやかなのに、なぜか私には「ふんっ」と言った感じで、振り向いて去っていくとき、後ろに結ばれた長い髪が私の眼前をよぎる瞬間、その速度にまで憎しみを感じるほどだった。

勿論、私が彼女にセクハラでもしていたのなら、そうした態度もやむなしだが、そんなことは無く、何か気に障るようなことも言った記憶も無かったが、出向でこのデパートに来ていた期間を通して、結局彼女とはいつも対立と言う手段でしかコミニュケーションが取れなかった。

やがて私は生まれ故郷にある本社の経営が悪化してきたことから、北陸へ戻ることになり、それを機会に独立したが、東京から帰って1年半ほどのことだろうか、1本の電話がかかってくる。
そしてそれは懐かしくも苦々しい、くだんの徹底抗戦の女からだった。

「会えないかな・・・」、彼女はどう言う風の吹き回しか、少しばかり元気が無い声でそう話したが、思わず「会えない」と言おうとした私は、少し大人気ない気もして「いいよ」と答えると、彼女が待っている近くの駅まで車を走らせた。

彼女はこの地域の景色にはどこか溶け込んでいなくて、ベンチに座っていてもすぐに分かったが、下を向いている姿は昔よりは少し輪郭が弱くなっているように感じた。
「久しぶりだな・・・」
声をかけると、驚いたように私を見上げた彼女の顔は昔とまったく変わっていなかったが、わずかに憔悴しているような気がした。

ちょうど昼食をとっていなかったので、私は彼女を誘って馴染みのレストランに入って定食を頼み、彼女も同じものを頼んだが、こう言うところはやはり仲が悪かったとは言え、その職業人らしい「気の短さ」だ。
食事のオーダーは同じものを頼めば早くなる。
時間の無い者の考え方だった。

彼女の話は衝撃的なものだった。

彼女は米沢の近くの出身だったが、父親が土建会社をやっていて、その父親が亡くなったので、今度自分が後を継ぐことになったと言うのだ。
子供は自分1人しかいないし、母親はずっと体が弱く寝たり起きたり、他に選択の余地は無く、10日前に葬儀を終えて、東京まで荷物の整理に行った帰り、遠回りをして北陸にまで来たとのことだった。

そして、彼女は私に「ごめんなさい」と一言、それに対して私は「なぜ」と答えたが、私が本当は彼女のことが好きだったと言うと、顔を上げた彼女の顔は一瞬でバラの花が咲いたようになり、自分もそうだった、でも私が長男でいつか帰ってしまうことを知ってから、そのことで物凄く腹が立ち、ずっと反発していたと語った。

彼女はそれを言いにわざわざ北陸まで遠回りしてきたのだった。
そしてここでこんな話をすると言うことは、彼女は私にお別れを言いに来たのだ。
彼女らしい「かたのつけかた」だが、これから先、土建会社を仕切るのは大変なことになる、ましてや彼女は女だ、その道はとても険しく失敗するかもしれない、でも彼女はそれに命を賭けるつもりなのだ。

だから昔の自分と決別するために、心に引っかかっていた私に本当のことを告げ、心おきなく先に向かおうとしていたのだった。
そしてこの場面で私に自分と付き合ってくれとは言わないのは、自分が土建会社を継がねばならないことからも分かるだろう、自分ができないことを人に求める女ではないし、それより何よりも彼女は同情されたくなかったに違いない。

だからせっかく過去の因縁が氷解したとしても、これは素晴らしい「別れ」の場面だったのである。

こんなことがあって翌年、彼女が私に仕事を頼んできたので、それが仕上がったとき様子を見に行こうと思った私は連絡を取り、米沢の近くの駅で待ち合わせたが、そこへ迎えに来た彼女は何とグレーのベンツを運転していた。

「さすがに土建会社の社長は違うな・・・」などと言い、ベンツの助手席に乗り込んだ私は、何気なく後部座席に目をやったが、そこには白いヘルメットと長靴が下に置かれていて、座席は図面や地図などが散乱していた。

また彼女は紺色のワンピース姿だったが、もともと色白だった昔の面影は無く、健康的な小麦色の腕で狭い道路をベンツですり抜けていくのだった。

彼女はその後ほど無く結婚し子供が生まれたが、今度は婿殿を社長にし、自分は専務になってこれを支える形にしたようで、業績も順調だったらしく、それから年に1度くらいの割合で私のところへも仕事が来たが、以後は仕上がるとこちらから送ることにして、直接会うことはなかった。

だがそれも今から10年ほど前からは、まったく仕事が来ることも無く、年賀状や暑中見舞いのやり取りしかなくなっていたが、5年ほど前に年賀欠礼があり、旦那が亡くなったことは薄々感じてはいた。

そして今年のお盆、8月16日、突然彼女から10年ぶりくらいに電話がかかってきた。
彼女の電話はいつも衝撃的だが、今度は何かと言うと、なんと「倒産」だった。
仕事が無く、旦那も亡くなってしまったし、これ以上続けていても借金が増える一方だから、この際家や財産のすべてを失って何とかなるならと思って、土建会社を倒産させたと言うのである。

子供もすでに大きくなったし、後は母親の面倒を診ながらアパート暮らしだけど、スーパーのパートも始めていて、これはこれで「金」を工面する心配も無く、なかなか良いと話す彼女の声は、どこかすっきりしたと言う感じの声だった。

私がまだ相変わらずの小規模超零細企業をやっていることを話すと、そんなの早く辞めて、どこかパートにでも出れば余計楽になる、などと言ってもいた。

男と女のこうした関係とはいいものだ・・・。
肉体関係などたかが知れている。
若いころはどうしても男は女を女と見るし、女は男を男と見てしまう。
がしかし、その前にともに働き、頑張った来た同志、仲間であり、それがこうした年齢になると自然に男女を越えたものになっていく。

青い空は少し哀しい・・・。
そして私はいつも辛いときは心の中に緑の草原をイメージする。
風に吹かれて1人で立っている姿を思い浮かべる。
何も無い、そして孤独・・・。
だがすべてはこれからだ、これから始まるのだと思っていつも頑張ってきた。

そして電話で彼女の声を聞いていると、何となくこいつは自分と同じなんだな、いつも1つのことが終わったら、そのときが何かの始まりのやつなんだなと思った。

いつかまた、何かの機会で一緒に仕事がしたいものだな・・・。
今度は互いにいがみ合うのではなく、力を合わせて何か素晴らしい事を企画したいものだな・・・。
いつかきっと・・・。



聖母マリアの涙

イタリアのテレサ・テスコと言う女性は、数年前に自身が撮影した、ファテイマにある聖母マリア像の白黒写真を引き伸ばし、自分の部屋にかけておいたのだが、1974年の夏の夜、眠ろうと思い部屋の明かりを消そうとしたその時だった。
おかしなことに、ふと目が行った聖母マリアの写真、その顔の近くで何かがキラッと光って見えた。

「何だろう」と思ったテレサは思わず写真の近くまで行って確かめたが、何とその聖母マリアの写真の目にはは涙がくっついていて、涙ははじめ小さな水滴のように透明だったのだが、次第に赤みを増して膨れ上がると、真っ赤な血の涙となって流れ落ち、聖母の心臓あたりに溜まったのだった。

そしてこの血の涙はそれから800日も流れ続け、多くの人がこの不思議な現象を実際に目撃し、その様子はたくさんの写真ににも収められた。

勿論、こうした話だから聖母マリアの写真を入れた額に、何か仕掛けがあるのではないかと疑う者も多かったが、額には何の仕掛けもないばかりか、実際に涙が流れているにもかかわらず、写真の裏側は完全に乾いた状態だったのである。

だが聖母が血や涙を流すという話は、実はそれほど新しい話ではなくて、その事例は古くから記録されているが、他にもブラジルのポルト・ダス・カイシャスでは、1968年、300年前のキリストの木像から血が流れ出し、血は木像に描かれた傷口から周期的に流れ出し、信者がその血を採って自分の体の傷に塗ったところ、傷は驚くほど早く治ったと言う話まで広まった。

またアメリカ・ペンシルバニア州エディンストーンでは1975年、聖ルカ教会の高さ70センチのキリストの石膏像、この両手から赤い血が流れ出したが、このようにキリスト像の場合、キリストが処刑された時に受けた額や両手、胸の「傷」から出血し、聖母マリア像では両眼から血や涙を流す事が多いようだ。

1953年、シシリー島シラキュースのマリア像が涙を流し、その涙は8日間止まらなかったが、この時はマリア像の涙が科学者によって成分分析され、その結果聖母マリアの涙は、まさしく人間の涙だったとされている。

また1960年、ニューヨークのアイランド・パークに住む女性が、自宅でマリアの肖像画に祈りを捧げていたところ、普段は祈りのため閉じられているマリアの瞼が開き、大粒の涙がこぼれるのを目撃したが、これは翌日、教会の牧師によっても同じことが目撃され、教会の記録にも残されている。

そしてこれは日本での話しだが、秋田市湯沢台のカトリック修道院にある、高さ1メールほどのマリア像・・・。
どこと無く日本的な顔つきのこのマリア像は、1960年代前半に日本人彫刻家が桂の木を彫刻したものだったが、1973年、突然このマリア像は両眼から涙を流し始める。

また何とそのマリアの右手には十字架の形で血が滲み出した事まであり、さらに不思議なのは、このマリア像を写真撮影すると、なぜか写ったり写らなかったりしたらしい。
秋田大学医学部では、このマリア像から流れた涙と血について成分を調べた記録が残っているが、涙は人間の涙と成分は同じ、また血についても人間の血液で、その血液型はB型だったと記録されている。

そしてここからが面白いところなのだが、その記録の末尾には「聖母マリアがその血と涙で表したかった悲しみとは何なのであろうか、それを人々はどう理解するのだろうか・・・」と締めくくられているのである。

私の幼年時代、社会には終末思想と言うものが流行した。
そして現在でも一定年齢の中では確実にこの思想が存在しているとも言われるが、終末思想とは未来において確実に人類の終わりが来ると信じていることを言い、これが自身の寿命でもいつか終わりが来ることとあいまって、未来にはどんなことがあるかは分からないが、絶対的な存在から与えられる「滅亡」が必ずあり、それを避けるためには行いを正したり、人を愛したり、などと言う一種の宗教観に近いものにまで発展していった思想がある。

この傾向はキリスト教「ヨハネの黙示録」から引用された、キリスト教的思想の発展といえば、キリスト教信者から怒られるか・・・。
どちらかといえばキリスト教を勝手に膨らませたものが多く、当時の社会に対する警鐘とも、扇動とも判断しかねるものだった。

こうした聖母が涙や血を流す現象は、1960年から1970年末まで、その発生報告がとても多い。
しかし1989年を境にこうした聖母マリアの奇跡はまったくマスコミから姿を消し、その後は忘れられたかのような感じである。

聖母マリアが涙や血を流してでも人間に伝えたかったことと言えば、当時の消費崇拝社会、環境に対する配慮の無さや、人間的「質」の下落であっただろうか・・・。
そしてそれに対する神の怒りが、人間に降りかかることに対する悲しみだっただろうか。

だとしたら今の時代こそ、聖母は涙や血を流して人間に警鐘を鳴らさなければならないが、こうした話はここ20年近く聞いたことが無くなった。
これはどう言うことなのだろう。
もしかしたら慈愛に満ちた聖母マリアにさえ人類は見捨てられた・・・と言うことなのだろうか。

こう言う末文の書き方こそ、終末思想家の特徴だったか・・・・・(笑)






東条英機・最終章

総理が小磯国昭に変わってから、戦局はさらに悪化の一途を辿り、昭和20年に入るころには、日本軍は半ば投げやりとも思えるような、作戦ばかりが目立つようになっていった。

やがて4月、今度は大日本帝国最後の首相となる、鈴木貫太郎枢密院議長が小磯に変わって内閣総理大臣に就任する、このとき鈴木に課せられていた条件は「大東亜戦争の完結」であったが、その就任式の日、まさに日本海軍の威信、象徴でもあった戦艦「大和」が撃沈されていた。昭和20年4月7日のことだった。
ここに大日本帝国海軍はその終焉を迎えていたのである。

そして昭和20年8月15日正午、「耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのび・・・」のあの天皇のお言葉がラジオから流れてくるのである。
しかしこの玉音放送はその録音技術もさることながら、国内にあったラジオの精度の悪さから、殆どの人が何を言っているのか分からないまま、ただ悲しくて泣いていたのである。

やがて日本に降り立ったダグラス・マッカーサー・・・、東条に言わせればフィリピンで、自分が指揮していた将兵を見殺しにした軍人の風上にも置けぬばか者だが、彼は真っ先に東条英機の身柄確保に動き、東条の家へアメリカ軍憲兵を差し向けたが、外から出て来いと言うアメリカ軍憲兵軍曹に対して、「今から行く」と答え窓を閉めると、東条は拳銃で胸を撃って自殺をはかる。

だがこの東条が撃った銃弾はわずかに心臓から外れ、そのためアメリカ軍は必死でその治療に当たる。
「こんなことで死なせてたまるか、俺たちの仲間や友人、父や兄はこの男のために死んだんだ、何が何でもアメリカの手で殺されなければならない」、アメリカ兵、そしてその医師たちは皆こんな思いから東条の命を救い、そして東条は回復して巣鴨の戦犯収容所へ収監される。

昭和23年12月23日未明、巣鴨の収容所にある絞首刑台で、東条はその64年の生涯を終えた。
東京裁判で判決が出る少し前、面会に訪れた夫人に東条は、「巣鴨で宗教を勉強できてうれしい・・・」と語っていた。

東条英機の名は、戦争開始から終戦間際までの日本の戦争指導者で、何がしかの象徴を求めるアメリカではヒトラー、ムッソリーニに並ぶ悪の権化として、また直接の敵国指導者としては、それ以上の「憎き敵」として思われていた。
またマッカーサーの進駐とともに、自国のプライドが剥奪された日本人は、その戦火の苦しみ、そして戦後のこの惨めさのなか、何がしか自身の内にも戦争に対する引け目を感じながら、身内を失った悲しみをぶつける対象として東条英機にそれを向けていった。

そして東条はなぜ頭を撃たなかったのか、自殺するなら頭を撃てば確実なのに、なぜ胸を撃ったかである。
東条はその心中に天皇のことがあっただろう・・・・、もし自分が自決してしまえば戦争責任は当然昭和天皇に向かう、自分はいかなる惨めなことがあっても自決できない、そう心に決めていたに違いない。
しかしいざアメリカ軍が自宅までやってきて、あの横柄な態度であり、東条は発作的に自決しようとしてしまったのだろう・・・・、が、心の片隅のどこかで引っかかっていた「天皇」が東条に頭ではなく、胸を撃たせたに違いない。

私はこの東条の「迷い」に戦争に対する責任「観」を感じるのであり、1人1人は善良な人々でありながら、その背後に動き始めた歴史の大きな車輪に自らを贖うことができず、巻き込まれ、その運命とも言える激しい流れの中、それぞれが命を賭けて生きようとした思いにおいて、東条もまた戦場に散っていった多くの若者たちと同じであると思うのである。

日本人はそれぞれが少しずつ背負わなければならなかった責任を、終戦時すべて東条に背負わせ、またどうにも立ち行かなくなったら天皇を頼った。
散々好き勝手して、悪者は東条にし、そして天皇に泣きついた・・・、これが日本である。

「おお、まじめにやっとるか」甲高い声で問いかける東条・・・、戦争で家族を亡くし、苦しい目に合っていると聞けば目に涙を浮かべて給料袋から金を出し、唯一の嗜好品だったタバコをふかしている東条、もし時代が平和なときであれば、彼はきっと役人として成功し、平凡な暮らしを送っていたことだろう。

終戦記念日の8月15日に当たり、未来を信じて大空に散っていった者、砲弾や銃弾に血を吐いて死んでいった者、原爆で何がなにやら分からず死んでいった者、劫火に追われ逃げまどい死んでいった者、それらすべての魂に、今日ここにわが身があることを感謝し、謹んでその魂の心安らかなることを希望する。

東条英機・第3章

禿頭、口ひげ、ロイド眼鏡に小柄な東条の声は甲高く、まじめ一筋、法に照らし合わせて一切の妥協が無いその有り様は、ともすれば人に冷たい印象を与え、多分こうした人間と言うものは余り人気が無いものだが、不思議なことに東条は人情家でもあり、ずっと作戦現場よりは軍務、事務職畑を歩んできた割にはその統制力には定評があった。

少年時代の東条は「けんか東条」と呼ばれるほどの「乱暴者」だったが、東京陸軍地方幼年学校2年のとき、級友数人に「生意気だ」と言われ、袋叩きにあった。
どうもこれ以来東条は一転してくそ真面目な勉強家になったようで、東条の勤勉ぶりは日本陸軍史上にも類例が無いほどになっていく・・・、結婚してからも「俺は頭が悪いからね、勉強しなければ偉くなれない」と言って毎晩勉強していた。

東条の知人友人に対する挨拶は、まず「まじめにやってるか」であり、何か大切だと思うことがあれば、すぐに胸ポケットから手帳を出して書き込むのが癖だった。
歩兵第一連隊長時代には部下全員、それも一兵卒に至るまでその氏名を暗記していたと言われ、独特の甲高い声では難しかったのか「号令」を、一人ひそかに海岸や松林で練習していることもあった。

賭け事、将棋、トランプ、釣り、マージャン、酒、女、東条の身辺にはこうしたものがまったく出てこない。
およそ趣味と呼べるものが1つも無く、映画や演劇、漫才などでも笑ったことが無いと言う東条は、ひたすら軍務が趣味だったと言えようか、それもただ唯過ちの無いように気を配るのだ。

甥の山田玉哉少佐は東条のことをこう証言している。
それによると、東条は夫人と一緒に散歩すらしたことが無く、山田少佐の知る限りでは長い年月の間で、ただ一度だけ子供をつれて歌舞伎見物をしたことがあり、おそらくこれが東条の死に至るまでの生涯のうちで、唯一遊びに費やした時間だろう・・・と言うのである。

また東条は女性関係については厳格で、潔癖すぎるほどだったらしく、この山田少佐が東条の妹、つまりおばの家を訪ねたとき、あいにく不在だったが、幼いころから慣れ親しんだ気安さからあがり込み、女中にビールとうな丼をとらせて、おばの帰宅を待ったことがあった。

そのとき少佐は退屈しのぎに女中と話しながら、ちょっとだけ手を握り、「だんだん、きれいになってきた」などとお世辞を言ったのだが、その夜東条からお呼び出しがかかる・・・、山田少佐が東条の家の玄関を開けた瞬間だった、奥からスタスタと出てきた東条は「このバカもの!」と山田少佐を張り飛ばした。

おそらく女中からおばへ、そして東条の耳に入ったのだろうが、「およそ妻以外の女性に接したり、ましてや手を握るなど、大日本帝国軍人の風上にも置けぬ」、東条はこのとき烈火の如くに怒鳴りつけたらしい。

こうした傾向は何も女性問題だけではなく、東条と言う男はその処分を実に厳しく断行している。
ことに2・26事件では陸軍内部の「皇道派」がその首謀者だったこともあってか、同じ陸軍で皇道派とは対立している、統制派に属していた東条は、反乱軍の同情者や市民までいっせいに検挙させ、その調査は入念を極め、検挙者は2000人を越えた。

だがその迅速かつ大量検挙により、関東軍内部の動揺は未然に防がれ、東条の辣腕に対する評価は一挙に高まっていくのである。

東条が本当の意味で独裁者となったのは昭和19年2月21日のことだったが、これは「統帥権」に関わる問題だった。
大日本帝国憲法第11条の規定には、天皇が陸海軍を統帥す・・・とあり、これに基づき軍事行動は陸海軍の管轄だが、統帥事項、つまり作戦や用兵は天皇に直属する参謀総長、軍令部総長が統括するシステムを言い、こうしたシステムはこの時代の殆どの国が同じ仕組みを持っていたが、アメリカでは大統領が、ドイツもヒトラーが、ソビエトではスターリンが、軍政とこの統帥権を軍最高司令官として調和させていた。

しかし日本では行政大権と統帥大権を、責任の無い天皇が保有してるため、総合的な軍事作戦が難しい状態だった。
東条は真珠湾攻撃以来連戦連敗の戦局を打破するために、この統帥権をも自身に集中させようとして画策、これに成功するも戦局は一向に好転しないばかりか、ますます絶望的な状況になっていく。

そしてサイパン島の陥落が決定的となった頃、もう東条では無理だ・・・が政府、陸海軍でもささやかれ始め、東条内閣の倒閣運動が始まっていく。

昭和19年7月18日、内閣改造で急場をしのごうとした東条は、岸国務大臣の辞職拒否に合い、これでは重臣を閣僚に入れて内閣改造とする計画が実行できず、木戸内大臣に総辞職を決意した旨を伝えた。

そのときの心境を木戸はこう語っている。
「東条内閣については、もはやこれまでと言う思いと、しかしこうなってから東条以外の誰が戦争を指揮するのか、と言う相反する2つの思いがあった」・・・、つまり確かに東条は限界だが、ではこの後誰がこの責任を・・・が暗に伺えるのである。

太平洋戦争はある意味、日本が日本の本当の姿を知る戦争でもあった。
身分不相応に膨らんだ幻想で戦争を始めてみたものの、次第にこの戦争は戦争の終結点を失い、泥沼となり、全世界を敵に回した戦争ではこれを調停してくれる存在もなかった。

また大国がいかなることをして大国たるゆえんかを知らず、アメリカが持つ豊かな資源、その工業力、経済力を甘く見たうえ、それを精神力、気概だけで何とかなるかもしれない・・・と言う神頼のような戦争を継続し、結局自国では戦争を終結させられず、敵国によって始めて戦争終結の機会を得られたのである。

東条内閣総辞職は、海外はもちろん国内でも極秘扱いになった。
時にこのことをアメリカが知ればアメリカ軍の士気は大いに高まるだろうし、国内的にもサイパン島陥落の公表を控えていたため、混乱を避けるためだったが、先の木戸の予感は的中し、この後新しい内閣の指名について、重臣会議でも次の首相を決めかね、消極的排除方式で、小磯国昭を次の首相とすることにしたのである。

小磯はこの大任が下った直後、同じ官邸にいた東条を訪ねてこう言う。
「戦争を始めた輔弼者(首相)が、その終結まで責任を負うべきではないか」・・・、いかにも小粒な話ではあるが、これに対して東条の答えはこうだ、「それは私のせいではない、岸のような閣内にいた者までが結託して私を追い落としたのだ」・・・と。

その国が終焉を迎えるときはかくも寂しい権力者たちの話となるのである。

東条英機・第2章

第二次世界大戦は、本当のところ日本が真珠湾攻撃を開始しなければ、この段階では世界大戦にはなっていなかった。
ドイツ、イタリアのヨーロッパアフリカ戦争だったが、ドイツ攻撃をもくろむアメリカの作戦は、対立していた日本を追い込み、そこから戦争大義を得てドイツ攻略の足がかりとするもので、この点ではその戦争視観において、平面と立体ぐらいの差があった。

真珠湾攻撃は東京時間の12月8日、午前7時45分、第一次攻撃隊の先頭を飛行する淵田総指揮官機に搭乗する、水木徳信一等兵曹のモールス信号「ト」の連送で始まった。突撃命令の「ト」であったが、同日午前7時52分、淵田中佐は水木兵曹に「トラトラトラ」の打電を命令する・・・、すなわち「われ、奇襲に成功せり」である。

真珠湾攻撃を巡っては、もともとこの作戦は海軍、山本五十六が推していた作戦であり、その背景にはアメリカを良く知る山本が、こうした奇襲作戦である程度勝利を収めた時点での講和がその作戦目的だった。
つまりこの時点では戦争目的と作戦の終了点が存在してたのだが、日本はこの作戦で勝ちすぎた、また暗号電文の解読に手間取り、宣戦布告の通知が真珠湾攻撃の後になってしまったこと、これらがあいまって「日本は卑怯だ、絶対許せない」と言う気運がアメリカ国内に拡大していくのである。

戦争を始めなければならないときの首相、その決断をしたとき、人間はどう言うことを考えるものだろう。
東条は家へ帰っても、家族には一切政治や軍のことを話さなかったが、それは東条の軍人としての職務ゆえ、また家へ帰れば一家の父としてできることが、ただ黙っていることをして、自身ができる精一杯の思いやりだったのかもしれない。
太平洋戦争の開戦を決意した日、東条はいつものとおりに帰宅し、まずは先祖に挨拶をするつもりだったのか仏壇にお参りし、それから婦人に1人にしてくれと言って早めに休んだようだが、その夜明かりが消えた東条の部屋からは、遅くまで東条の押し殺した嗚咽が聞こえていた。

天皇陛下のご期待に最後まで応えられなかった、もとより陛下のためであれば、この東条、命をかけてお仕えする覚悟なれど、大勢の意そこ(開戦)にあれば、我、大勢をおもねる者としては、これに贖うことかなわず、それをして陛下の御心に翳りを生じせしむるを、ただ唯、申し訳なく・・・。

私が幼い頃、神棚の隣には昭和天皇と皇后、明治天皇の写真が飾られていて、大人たちはそこを通るたびに姿勢を低くして頭を下げていた。
写真で見る昭和天皇と皇后は、明治天皇からすると、その威厳と言う点で少し見劣りがしたが、私も大人たちと同じようにそこを通るときは頭を下げて通ったものである。

そしてその写真は今も家の神棚の隣に掲げてあり、私はたまにそれを眺めているが、こうしてみると昭和天皇も随分と風格があることに気づく、そして大して尊敬もしているようには思えないが、なぜか僅かでも頭を下げてそこを通る自分がいる。

東条は戦争の恐ろしさを分かっていて戦争を始めたかどうか、おそらく分かってはいなかっただろう。
この点では木戸幸一とさほど大差が無いが、東条の開戦の決断、この話を何か感動的なものと思ったら、それは違う。
東条の天皇陛下に対する気持ちは分かる。

しかしそこには感動的な話の影に隠れて「国民」の姿が消えているのであり、東条が婦人や子供たちのことを考えなかったとは言わないが、1人1人の命が極めて軽く考えられていることだ。

誰でも、もしかしたら戦争を決断しなければならない状況のとき、総理大臣の椅子は躊躇するだろう。
皇族は天皇との関係を考えて大日本帝国憲法へのかねあいから、皆内閣の組閣を拒んだが、東条は余りにも官僚主義的、事務的男だったことから、この大命を引き受け、ただ唯黙々と事務的に戦争をこなしていくのである。

軍人と言えども平時のときは1つの組織であり、そこに求められるのは高い事務処理能力だ。
東条は若いときから努力の人であり、自分に与えられた仕事を全力で全うしようとするところがあり、大変な勉強家でもあった、このことが東条をどんどん高い地位へと押し上げていくのだが、その根底はどうしても法令順守の型抜きされたようなものの考え方であり、だから開戦前、陸軍、海軍、その他財界や皇族からも、「開戦時の総理としては東条は妥当だが、戦争には向かない男だ」・・・とされていた。

随分卑怯な話である。
戦争の表紙を東条にして、後は好きなことをしようと言う、こうした輩の姿勢は終戦後まで続いていくことになる。

真珠湾攻撃で大勝した日本は、国内中が日露戦争当時の再来と湧き立ち、関東大震災以降ずっと続いていた不景気に加え、その後の世界恐慌でズタズタになっていた民衆の生活の中に光を差し込ませた。
「アメリカ何するものぞ・・」大本営の発表は、今や世界の半分を手に入れた超大国日本に敵なしの雰囲気を伝え、民衆の多くも「ああ、これで少しは暮らし向きも良くなるかも知れない」と思った。

そしてこうした戦況に伴い、東条の人気も上昇していったが、現実は小さな風船が大きく膨らんだだけのことであり、このことは現在の日本でも余り変わらない。
すなわち日露戦争での勝利は戦争による勝利ではなく、むしろ外交交渉による勝利だったことを日本国民が自覚していなかった。

このことから一挙に国際的注目を浴びた日本は、その身分をわきまえず、自身を大国と思い始めたことに、太平洋戦争の鍵が潜んでいた。

ここに日本は、本来の実力以上の力を自国に信じ、その根拠となるものが軍事力しかなかったことに、しかもその軍事力は継続作戦が可能なものではなかったにもかかわらず、ナショナリズムと言うプライドに押され、方や追い詰められた資本主義の行き場としての、帝国主義から戦争にひた走っていったのである。
そしてこうした状況は何故か今の日本でも余り変わっていないように思う。
中国に追いかられ、その立場も風前の灯にありながら、相変わらず世界第2位の経済大国、人々は休日になると旅行やゴルフに出かけ、困った金が無いと言いながらも、多くの人は週末ショッピングを楽しみ、豪勢な食事をし、その生きることを楽しんでいる。

しかし現実の日本は負債が、公式見解でも860兆円、実に国家予算の10年分の借金をしていて、その上まだ40兆円を超える財政出動を借金しているのであり、増税は避けられないとしながら、膨らんでいく風船の空気を、さらに入れ続けているのである。

この姿を見ていると、まるで太平洋戦争開戦時の、まったく一時の夢幻でしかない大日本帝国が膨らんでいく有り様に重なって見えるのである。

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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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