赤いミョウガ

そんなに驚く程のことではないが、少し変わったものを見た・・・、と言う連絡が留守番電話に入っていたので、今夜はその話をしておこうか・・・。

連絡してくれたのは能登地方に住む74歳の男性だが、たまたま昼間は稲刈りで留守にしているため、折り返しこちらから電話で事情を聞いたのだが、どうも「赤いミョウガ」が発生してるようだ・・・。

ミョウガと言うのは6月頃と、9月後半の今のような時期に2度生えてくるが、通常だとあのコロコロした可愛いスタイルが一般的だが、生えてきたミョウガを採らずにそのままにしておくと、ミョウガの先から鉄砲百合状の白い花のようなものが出てくる。
そしてこの白い鉄砲百合状の花を、多くの地方では「ミョウガの花」と呼ぶが、この花の色は白が普通だ。
しかし20年に1度、一部地域の伝承では50年に1度、ミョウガに血のような真っ赤な色の花がつくことされている。

今回連絡してくれた男性が見たものと言うのはこの伝説の「赤いミョウガ」であり、自分が耕作している畑で昨日の朝、3個の赤い花を付けたミョウガを発見したというもので、遠目には地面に血の塊が落ちているように見えると言うことだが、例年ならこの季節になるとミョウガが生えてくるので、採取しようと出かけたところ、今年はまったくミョウガが生えておらず、たった3個生えていたミョウガが真っ赤で、これはおかしいと思ったらしい。

だがこれは以前取材したので記憶しているが、能登地方では平成16年の秋、そして同じ能登地方でも南部では、平成18年に「赤いミョウガ」が大量発生した事実がある。
当時現地取材をおこしているから間違いないが、あたり一面血に染まったようになって生えているミョウガは、限りなく不気味で禍々しいものだった。

そしてこうした現象の理由を現地の古老に尋ねたのだが、古老曰く、ミョウガは50年に一度ほど赤い花をつける・・・、そしてその花が咲くのは大抵秋のミョウガであり、これが咲いたら翌年には大きな地震が起こるか、何か大きな災いが起こる・・・と言うことだった。

しかしもしそうだとすれば、少しおかしいではないか・・・、50年に1度しか起こらないようなものが、なぜ数年の間に2度も3度も起こってきているのだろう。
気候のせいかもしれないと思ったが、平成16年はとても暑い年だったが、今年は割りと冷夏だった・・・、このことから気温が原因ではないことが分かるが、では地震との因果関係と言ってもどうだろう、そこまで因果関係があるようにも思えない。

後考えられるのは磁場と紫外線、空気成分の変化だろうか、例えば今年の太陽は黒点活動が大変弱かったことが知られている、また紫外線量もこの20年の間には劇的な変化をしているが、CO2などの増加もこうしたことに影響しているのだろうか。

「何かまた悪いことでも起きるのですかね・・・」男性は電話の向こうで心なしか元気がないような声でそう言ったが、それに対して「大丈夫ですよ」と言いながら、私もまた何か得体の知れない、嫌な感じがしたのも事実だった・・・。
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月夜の出来事・後編

そうか、これが海の不思議ってやつかもな、木村君は先輩の乗組員から常日頃航海中にはいろいろ不思議なことが有ると聞かされていたので、てっきりこうした女の声もそう言うものに違いないと思ったが、その女たちの声に混じって時おり「うーん、うーん」と言う男のうなり声まで聞こえてくる。

「なんだ・・・、どこから聞こえて来るんだ」、木村君は不審に思い、また足音を忍ばせ、声のする場所を探していったが、その声はどうも船大工のいる個室から聞こえてきているようで、これはいかん、船大工が病気になったに違いないとその個室のドアをノックしたが、意外にもそのドアの鍵は開いていて、勝手にスーッと開いたのだった。

その部屋の中には消灯した暗闇に丸窓から月の光が差し込み、ベッドの辺りが照らされていたが、なんとベッド脇の床に船大工の柏木満(33歳、仮名)が、うんうん唸りながらうずくまっていたのである。

「柏木さん、どうした大丈夫ですか」、てっきり柏木が病気にでもなったのではないか、と思った木村君は柏木のところに走り寄ったが、その声に一瞬ギョっとなった柏木は木村君の姿にたいそう驚いた様子で、「お前、何か見たか」と尋ねた。

「いや何も見なかったが、何人かの女の声が聞こえた」、木村君はなぜ自分がここへ来たかを柏木に説明したが、それに対して柏木はひどく慌てたようで、「そんなバカなことがあるわけはない、つまらん話をするもんじゃねぇぞ」と言うと、いきなりポケットから1000円札を取り出すと、木村君に握らせた。

この1000円は何のためにくれたんだろう、木村君は釈然としないまま柏木の個室を出ると、階段を登りブリッジに上がったが、そこには2年先輩の青柳信二が当直で見張りをしていて、木村君の姿を見ると、なぜか「助かった」と言うような表情になってこう言った。
「おい、木村、お前いまそこで女を見なかったか」青柳はぶるぶる震えながら奇妙なことを尋ねたのだった。

だがしかし、木村君にとってこの問いは初めての問いではなく、今しがた柏木からも同じ事を聞かれたばかりだったので、「いや見ませんでした、でも声は聞こえました」と答えると、青柳はこわばった顔で、先ほどまで何があったのかを木村君に話し始めた。

青柳信二がブリッジで一休みしようとタバコに火をつけたときだった。
それは初め幻覚かと思ったが、なんと月明かりで照らされた木の床から青白い「手」が生えるように現れてきて、その手は次第に腕から次は顔、上半身から全体となって、若い女の姿になったかと思うと、青柳のことなど全く気に止めず、ブリッジから下へ降りていったと言うのだ。
しかも最初の1人から後4人、合計で5人の若い女が床から生えてきて、やはり下へ降りていったとの事で、それでちょうど木村君が出くわしているはずだ、と言うのだ。

「えー・・・、それじゃあの女の声は、まさか・・・」木村君は訳も分からず体が震え始め、先ほど柏木から1000円貰ったことも忘れ、柏木の話を青柳に話して聞かせた。

そしてこれらの奇怪な話は、いつの間にか船員たちの間に広まり、それだけではなく濃霧の晩、月のない晩、火の玉を見たという者、女の泣き声を聞いたという者、柏木がうなされ、しきりに誰かに謝っている寝言を聞いたという者、また飲料水に女のものと思われるような長い髪の毛が入っていた、などいろんな証言まで出てくるに至って、船長が直々に柏木から事情を聞くと言う事態になっていったのである。

そして観念した柏木の証言は衝撃的なものだった。
彼は横浜港を出航するとき、横浜黄金町の売春宿の女将と結託し、海外でひと稼ぎできると言い、5人の女をだまして売春宿から連れだすと、密かにこのS貨物船に乗船させたのである。

もともと女好き、ギャンブル好きの柏木は、船大工と水タンクの係りも兼務していたことから、通常は使用しない空の水タンクに女たちを隠し、ロサンジェルスへ着いたら日本人街へ売り飛ばして金を儲けようと考えていた。

だが運の悪いことに出航間際になって航路が延長され、空タンクも満水にしろと言う命令を受けた柏木は、密航を手引きしたことが発覚することを恐れ、タンク内に女たちがいることを承知で水を注水したのだった。
「やめて、助けて・・・」と中からタンクを叩く女達の声を聞きながら、柏木は知らん顔で水を注いでいたのだった。

この告白でくだんの水タンクを開けて中を確認すると、柏木の証言通り5人の女の腐乱死体が現れた。
そしてその中の1人は富山県押川の中川芳江さんであることが判明した。

「あの馬が騒いだ夜、鯉が暴れた夜、きっと芳江が家に来てくれたんでしょうね・・・」芳江さんの母親は静かにつぶやくと、目を閉じて下を向き、そして黙ってしまった・・・。




月夜の出来事・前編

富山県押川に住む中川武雄さん(仮名)の長女、芳江さん(19歳、仮名)が東京へ行きたいと言い出したのは、ちょうど1年半前のことだったが、初めはなれない都会暮らしを心配した中川さん夫妻、一度は反対しては見たものの芳江さんの意志は固く、仕方なく親戚を頼りに、港区金杉の食堂で住み込み女店員として働く口を世話して貰い、芳江さんはそこで働き始めたが、最初の1年はお盆と正月に実家へたくさんの土産を持って帰省していたが、次の年からどうした訳か実家へ帰省してこなくなった。

それで少し心配になった芳江さんの母親タカさん(仮名)は、富山の「昆布かまぼこ」の詰め合わせを食堂の主人宛に贈り、それとなく娘の様子を教えてもらおうと思ったのだが、なぜか港区の食堂からは何の返事もなかった。

「いったい芳江はどうなっているのか・・・」と武雄さんとタカさんは首をかしげていたが、やがてそこへ食堂の主人から手紙が届く。
そして「芳江さんは富山の実家へ帰ると言う理由で先月、暇をくれと言って店を辞めた」とその手紙には書かれてあった。

単刀直入に言うとこれで芳江さんは消息不明になってしまった訳だ。
武雄さんとタカさんの心配は想像に難くないが、しかしこうした田舎のことである、捜索願いでも出して妙な噂でも立つと、芳江さんの結婚も難しくなることから、2人はどうしようかと思案に暮れる毎日を送っていた。

ところがそこへ今度は芳江さんから手紙が届き、「食堂の仕事は辛いので別の仕事にした。今度の仕事は楽で、しかも給料もいいので心配しないで下さい」と書かれていて、住所は川崎市木月町となっていたが、どんなところへ勤めているのか、その内容についてはまったく何も書かれていなかった。

しかしまあ取り合えず連絡もあって、仕事もしているようだからと思った中川さん夫婦は一応安堵したものの、一抹の不安は拭い去れずにいたが、それから2ヶ月もしないうちに、今度また別の仕事に変わったという葉書が芳江さんから届き、その住所は横浜の黄金町と言うところになっていた。

さすがにここまで来ると、娘とは言えどうしても不審に思わざるを得ない。
都会生活の実態がつかめない母親のタカさんは特に適齢期の娘を心配し、一度実家へ帰るよう手紙を書いたが、その手紙と入れ違いにまた芳江さんから手紙が届いた。

「凄く良い話があって、ちょっと外国へ行くかも知れません・・・」そこにはそう書かれていたが、これに驚いた武雄さんとタカさんは、どちらにしても一度家に帰ってきて自分たちと相談して欲しいと手紙をしたため、横浜の住所に送った。

それから一週間ほどした頃だろうか、中川家では何となく不思議なことが起こってきていた。
月の出が早い晩のこと、夕食の支度をしようとしていたタカさんは、農耕用に飼っている馬が異常な鳴き声を出して騒いでいる物音を聞き、急いで馬小屋へ走ったが、馬が何に驚いたのか前足を上げて棒立ちになり、そのあと後ろ足でしきりに馬小屋の羽目板を蹴って鳴き続けていた。

「何かきたんじゃないか・・・、どうしたんだ」、武雄さんも駆けつけ、芳江さんの弟の正人さん(16歳、仮名)も駆けつけたが、付近には犬一匹いなかった。
武雄さんはひどく興奮している馬を、「ドウドウ」と声をかけて気を静めさせようとした、しかしいつもなら素直なこの馬がこのときばかりは盛んに暴れ、それはなかなか収まらなかった。

結局犬か何かが来て馬が驚き、みんなが来たら犬が慌てて逃げたのだろう。
騒ぎが収まってから武雄さんはそう言ったが、この馬は仔馬から育てたもので6歳馬だが、そう言えば芳江さんがひどく可愛がっていた馬でもあり、そのときタカさんは何となく娘の芳江さんに何もなければいいがと思ったと言う。

その後食事の用意も終わり、家族みなで食事をしていたときのことだった。
近所の村田乙松さん(仮名)が珍しくこんな時間に訪ねてきた、そして開口一番この村田さんが言うことには、中川さんの養殖池で養殖している鯉が、どう言う訳か凄い勢いで跳ね上がって暴れているというのである。

「おかしなことがあるものだな・・・」
中川さんは急いで養殖池に駆けつけた。
が、そこでは月明かりに照らされて鯉が水面を激しく泳ぎまわり、盛んに跳ね上がっていた。

「誰か毒でも入れたんだろうか・・・」、呆然と池を眺める中川さん、しかし不思議なことにその後30分ほどしたら、あんなに暴れていた池の鯉が、まるで何もなかったかのように静かになったのである。

それから4日後、母親のタカさんはどうしても娘のことが心配になり、富山から上京、手紙に書かれていた横浜の住所を訪ねてみたが、そこはいかがわしいサービスの店、つまり売春宿であった。

「この間まで芳江は家にいたけど、どこへ行ったか知らないわ、それに男もついていたからね・・・」、年齢には不釣合いな、荒い花模様のミニスカート姿の女将はタバコに火を付けると、チラッと横目でタカさんを見て、そっけなく答えた・・・。

ところで1965年8月、N商船会社の貨物船S号(7000t)が横浜港を出航し、予定より少し遅れてアメリカ・サンフランシスコ港に到着したのは9月7日のことだったが、そこで積荷をし、食料や水も補給、次は一路ロスアンゼルスに向かって航行していた。

この船の乗組員、木村正二君(当時19歳、仮名)は船乗りになってまだ1年にもならない見習い船員だったが、彼は夜中に便所に行きたくなって目が醒めた。
が、ここは船首部分の大部屋だから、他の乗組員を起こさないように気をつけないとな、木村君は足音を忍ばせて大部屋のドアを開け、デッキへと向かおうとした。

だがその途中おかしなこともあるものだ、この船は貨物船で女は乗っていないはずなのに、なぜか数人の女がぺチャクチャ喋っている声が聞こえてきた。

(後編へ続く)










時を楽しむ

祖母が生きていた頃、こう言う話をしてくれたことがあった。

「家の近くに青木を植えるな」
これはどう言う意味かと言うと、青木とは杉やヒノキなどの売れば金になる木のことだが、こうしたものを家の近くに植えると、どうしてももう少し大きくしてから売れば金になる、もう少し・・・と思ってしまう。

そしてその内大きくなった木は台風などの大風で、家の方に倒れてくると言うものだが、基本的には「欲張るとろくなことがない」と言う意味だ。

そして私は今、毎日この言葉をかみ締めながら稲刈りをしている。
米と言うものはたくさん収穫できれば良いと言うものではなく、一本の稲に余りたくさん穂が付きすぎると、その穂の重さで雨が降れば稲が倒れてしまう。

そして倒れた稲を刈るのは普通の稲刈りの倍以上の時間と労力を要する為、稲が雨で倒れない限界まで穂をつけるようにして、それ以上にしない工夫、つまりバランスが求められる訳だが、昨今の天候不順のおかげで、こうしたバランスをとるのが難しくなり、29枚ある田んぼの9枚ほどが穂がつき過ぎて、強力な整髪スプレーでビシッと決めたようにしっかりと倒れてしまった。

これを朝早くからコンバインで刈り取れるように下準備をして、朝露がなくなる午前10時ごろから刈り取りにかかるのだが、倒れた稲の内側は水が回って醗酵したようになっていて、コンバインの刃や巻上げ部分が詰まってしまい、その度に刈り取りを中止して詰まった稲を外していると、暑さと疲労で目眩がしてくる。
そして思うのだ、何で米の収量ぐらい少し減らしても、倒れない程度の肥料にしておかなかったのかと・・・。

またこうして稲刈りをしていると、カラスや鳶などがカエルや虫を狙ってやって来て、人間の近くで平気な顔をしていて、ついでに汗まみれで作業をしてると、まるで「はっ、馬鹿だな・・・」と言う感じで見ているようだ。
その姿を見ると一生懸命焦っている自分が少し馬鹿らしくなり、田んぼの土手で冷たい水を飲み、タバコに火を付ける。

空が青くて眩しい・・・。
もうこんな日が4日も続いているが、まだ後10日くらいはかかるだろうか・・・。
むかし、これも祖母に言われたものだが、「お前は何でもかんでも一度に方を付けようとするから苦しくなるんだ」
「少しずつやっていればいつかは終わるし、焦って冒険すれば失敗も大きくなる、まずは食べることを何とかして、そしてチャンスがあったら勝負するんだ・・・」

せっかく良いことを言ってくれてたのに、今に至っても何も生かせていないな。
そうだ今も焦っていた。

何とか早く終わらそうと必死になっていたが、思えば農家などやっている者がこんな時間の考え方ではいけないな、もっと時間を大切に使わないと・・・。

時間と言うものは面白いもので、「時は金なり」も確かにそうなのだけれど、ここで言う時間とは「楽しむ」事を言い、例えば「時は金なり」ではやはり焦りにしかならないが、同じ時間でもその状況を楽しむ時間の使い方と言うものがある。

これは遠い山道を歩いているとき、ひたすら早く目的地へ着こうとして焦るとその道は遠くなり、途端に苦しくなる。
しかし周囲の景色や鳥の鳴き声、植物や蜘蛛の巣に至るまで眺めながら歩いていると、いつの間にか目的地に着いている・・・と言うものだが、以前知り合いになった剣術の大家が似たようなことを言っていた。

すなわち斬るか斬られるかの真剣勝負の最中・・・、しかし周囲に落ちる枯葉の音が聞こえ、それに季節を感じない者は、決して一流の剣術家にはなれない、枯葉の音を聞く者には絶対勝てないと・・・。

思えば私が幼い頃、大人たちは苦しい労働を、苦しいと言いながらも、どこかで楽しんでいた・・・、と言うよりどこかに何らかの非合理性を含んだものを持っていた。

例えば祭りなどは春は田植えの最中、秋祭りは稲刈りの最中にあるのだが、この日に仕事をすると怪我をしたり病気になると言われていて、大したものではなかったが家で普段より少しは豪勢な料理を作り、餅をつき、それを食べて必ず休んでいたものだった。
忙しいさなか、「時は金なり」ならこんな非合理的なことはないのだが、人間は機械ではない。

田植えをしながらヒワの姿に目を細め、ツバメが来ないかと気にかける、労働の中に枯葉の音を聞いていたのであり、季節を楽しんでいたに違いない。
しかしそれが日本の経済的発展とともに「時は金なり」になっていき、祭りは観光客を呼ぶためのイベントに変わり、経済にしか重きのない、言うなれば目的地を焦るだけの山道になっていった。

だが思うに、これからの日本は少し「楽しむ」べきではないか、すなわち何でもかんでも「金」にしようなどと言うことではなく、今まで車を使っていたなら、たまには歩いてみる。
自転車で行けるところなら自転車をつかう、そして景色を楽しみ、時間がかかることを楽しんでもいいのではないか・・・。

秋茜(あかとんぼ)が投げ出した長靴の先に止まったが、これを口実にもう少し休んでも良いのだが、これ以上休んでいては、それは「楽しむ」の範囲を超えて「怠惰」になる。
さあ、稲刈りの続きを始めよう。

やかましいコンバインのエンジン音の中に、枯葉が落ちる音でも聞いてみようか・・・。




地方分権の奈落

朝、目が醒めて何気なく自室の机を見たら、その上に缶コーヒーが置いてあったが、そうだった昨夜飲み切れずに半分ほど残したものだった.
大したことはなかろうと手に取りチビチビ飲んだが、最後の一口を飲んだら口の中で何かおかしな感触がした。

これは・・・・、嫌な予感は的中した、口の中から出てきたものは何と小さな「蛾」だった。
しまったせめて冷蔵庫にでも入れておけば良かったとは思ったが、すでに手遅れ。
そうした訳で今日は何となく冴えない1日のスタートになってしまった。

「おー、久しぶりだな、どうしたその頭は、随分涼しげじゃないか・・・」
「何だと、そういうお前こそ何だその腹は、妊娠6ヶ月か・・・」

その料亭の座敷にはどうだろうか、30年ぶり、いや40年になるか、それくらい久しぶりにこうして中学時代の同級生が顔を合わせたが、みんなどこかで面影はあるものの信じられない変貌振りで、懐かしいやらおかしいやらで盛り上がっていた。

そして宴もたけなわに差し掛かった頃、大してうだつの上がらない同級生の中で、1人だけだったが、どうにかこうにか成功した者がいて、みんなの話題は自然とその男の話で持ちきりになり、ついにはこの町の英雄のために「記念館」でも作ってはどうか、などと言う話になっていったが、そうした話になると必ず出てくるのは、「俺は市長と知りあいだから」とか「俺は代議士の何某とは懇意だ」と言う輩である。

まあここまでだったら笑い話だが、田舎の恐ろしいところはこの話には続きがあることで、何とこうした話を本当に市長や代議士のところに持って行ってしまい、それに乗って仕事がない土建業者が話を応援し、ついには議会で予算が通り、信じられない話だが「記念館」が本当に建築されてしまうことだ。

そして総工費1億5000万円の○○様記念館はついにオープンを迎え、建設に尽力した同級生代表が感極まって涙を浮かべ、来賓の祝辞を受ける姿などが報道されるが、そうした同級生代表の隣で、所在投げに記念館を建てられた本人がいたりする。

また実際は60人しか来なかった記念館オープンの記事は、地元新聞では200人が参加して大盛況だったなどと報道される。

記念館オープンから1ヵ月後、その記念館を訪れてみると、なかなかえぐい光景がそこには広がっていて、観覧客はまったくおらず、1日の平均来場者数は2名しかいなかったりするが、職員はしっかり3名いて、行政が運営しているものだから、特に反対がなければ年間数千万円の人件費その他が、税金で支払われてもまったく問題なしの状態になっている。

そしてこうしたことに市民から何か意見が出るかと思えば、住民の殆どが高齢者、なおかつ親戚縁者には必ず公務員が1人はいる社会主義地域と言う状態では、どんな話でも反対意見など出ようはずもないのである。

またこちらはとある地方空港、半径60キロメートルの範囲に2つも空港があるにもかかわらず、また新しい小さな空港を作って、しかもその周辺市町村の人口はすべて合計しても5万人以下、完全な過疎地域だが、こうした空港では本来東京までの往復運賃が3万円前後になるが、この30%を地元自治体が運賃補助を出して空港の維持に努めている。

だから旅行代理店はこうした往復運賃よりはるかに安い料金で宿泊食事が付いたパックを販売しているが、行政の補助が特定の業者のみに利益的保護を与えることは、大変大きな問題なのだが、このようなことがそもそも議論しようにも、いけないことだと言う概念が田舎にはない。

観光が優先され、そのために税金が使われ、他の産業との不公正が発生しているのだが、例えば知事ですらこうした感覚がない。

また地方空港では航空会社との契約で「搭乗率保障制度」の約定を結んでいることが多いが、これは飛行機に乗る客の搭乗率が決められた割合を下回ると、行政が航空会社にその減少分を保障する制度で、空港の建設費、その維持管理費すらも行政が毎年数億円単位で拠出して、過疎の観光業者のためだけに税金を使い、地元では「空港がなくなってもいいのか」を合言葉に、バスなら安くなる旅行を無理やり飛行機を使っていくと言う非合理的な話になっているのである。

つまり税金を使って航空会社や観光業者を養っているだけであって、こうした仕組みと言うのは、膨大な税金を使って過疎の小さな産業を、それらしく仕事になっているように見せかけているだけだ。

民主党のマニフェストには盛んに地方分権がうたわれているが、地方分権とはこうした、とてもではないが、まともとは思えない者たちに予算をどうぞ、と言うことであったとしたら、日本は破綻してしまう。

官僚は自分たちの保身や機構維持のために税金を食い物にしたが、地方の行政などはそれ以下だ。
システムを作って予算も地方へ配分します、しかしその予算を使う側の能力をどうする。

前原国土交通大臣の姿と、それに対応するダム建設賛成派の住民や、同地区の行政の長をテレビで見ていて思うのは、田舎の難しさだが、少なくとも大臣が「会いたい、話をしよう・・・」と言っているのに、それをボイコットした者たちの陰口などは、大臣がまともに取りあう必要はないと思う。




赤い盾の紋章

1904年2月8日、日本海軍の仁川、旅順におけるロシア艦隊への奇襲攻撃に始まった日露戦争、その戦費として調達した17億1600万円では、戦争継続は長くて1年しかなった。
だがこうした17億円余りの戦費も、そのかなりの部分を欧米列強からの借金でまかなおうとしていた日本政府は、当然といえば当然だが国際社会からの信用が得られず、当初その戦費確保は絶望的になっていた。

しかしここにある後ろ盾が現れ、日本が発行した外貨建て国債を引き受けることになり、このことが信用となって日本は国際社会から外貨を集めることに成功したが、この背後には意外な名前が浮き上がってくる。

ニューヨークの銀行家ジェイコブ・シフ、彼は日本の外貨調達に支援を申し出るが、新興国も甚だしい日本が大国ロシアと戦争しようと言う訳だ。
どう見ても日本には勝ち目がなく、そんなところに金を貸してもドブに金を棄てることになると思われていた国際情勢の中、なぜジェイコブは日本支援に動いたのだろうか。

その答えはロンドンのロスチャイルドが影で動いていたからである。
ロスチャイルドは同じユダヤ系のジェイコブを動かし、日本の資金調達を支援する体制を取った。
そしてこうした背後の勢力のおかげで、信用が増した日本の外貨建て国際は募集に成功したが、ではなぜロスチャイルドがと言うと、ここには現在のアメリカにも通じる利益本位主義的な思考形態がある。

すなわち戦争当事国への双方投資であり、ロスチャイルドは、この頃から世界的注目が集まりかけていた「石油」調達のためにロシアへも投資していて、万一日本が負けても石油で利益を上げる仕組みを作り、その上で日本にも投資をしているわけで、結果としてどうなったかと言うと、日露戦争でかろうじて勝利した日本は、ロシアからの金銭的賠償を求めることができなかったため、国債の金利をロスチャイルドに払い続けることになっていったのであり、この戦争で本当に利益を得たのは日本ではなく、実はロスチャイルドだったとされるゆえんがここにある。

ロスチャイルドは16世紀末ドイツ、フランクフルトのユダヤ人隔離地区(ドイツ語でゲットーとも言うが)で赤い盾を家の標識にしていた者がいて、この赤い盾のことを付近住民達がドイツ語でロートシルトと呼んだことに起源があるが、このスペルを英語読みすれば「ロスチャイルド」、フランス語では「ロチルド」となっていったのである。

創業者のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1743年~1812年)には5人の息子がいたが、長男のアムシェルをフランクフルトに置き、ザロモンをウィーン、カールをナポリ、ヤコブをパリに分家させ、ネイサン・ロスチャイルドはロンドンに置くという具合に支店を分散させた。

このうちネイサンは1803年事業所をロンドンに移し、フランスとの戦争拡大とともに、イギリス政府の金融事業に着手、イギリス政府は毎年2000万ポンドの国債を売っていたが、このような大金は市場でも直接吸収が難しく、そうした事情から公債の一部は、顧客を見つけて「公債販売請負人」に直接売り渡される仕組みになっていて、織物取引の為替手形によって高い信用と顧客を持っていたネイサン・ロスチャイルドは、この「公債販売請負人」のシンジケートに参加し、国債為替手形の引き受けもやっていたが、1815年の段階でロスチャイルドの資本は14万5000ポンドに達し、その内10万ポンドがネイサン・ロスチャイルドの資産だったと言われている。

さらにロスチャイルド家は手形を流通させるために、重要な金融に関するニュースを発信する、新聞社の経営まで行っている徹底ぶりだった。

そしてこのようにロスチャイルドがなぜ手形取引を重要視したかと言うと、ユダヤ人に対する迫害がこの当時すでに起こっていたからであり、その根底にはイギリスにロスチャイルドがあれば、敵対していたフランスにもロスチャイルドがある、彼らは我々の争いに乗じて利益を上げているのではないか、と言う見方があったからだ。

そしてこうした迫害や暴力に対して一番被害が少ないのが、万一すべて没収されても直接金銭がなくなるわけではない手形であり、こうした判断からユダヤ人社会では、外国の暴力から財産を守る方法として手形と言うものが重視されていた。

だがこうして一時は繁栄を極めたロスチャイルドだが、現在残っているのはロンドンのロスチャイルドとフランスのロチルドだけで、他は20世紀までにヨーロッパの政治経済の変動と、ユダヤ人迫害によって消滅している。

ただ、残ったロスチャイルドだが、多国籍企業へとさらに躍進し、巨万の富を集中させ続けていることは確かで、現在では南アフリカの同じユダヤ系、オッペンハイマー財閥とともに、金やダイヤモンドの国際価格を操れる存在にまでなっている。

金は事実上ロンドンにある通称「黄金の間」と呼ばれる場所での取引により国際価格が決まるが、これはロスチャイルドの本拠地N・M ・ロスチャイルド&サンズの中にあるのだ。

またこのほかの巨大ユダヤ資本だが、例えばダイヤモンドは、ベルギーのアントワープが世界のダイヤモンド加工と、取引の中心となっているが、この中心地区に住んでいるのはすべてユダヤ人であり、南アフリカのダイヤモンド王と言われるバーネイ・バルナート、それにロスチャイルドとも関係が深いアーネスト・オッペンハイマーは、世界屈指の宝石会社デビアスまでその手中に収めている。

このようにユダヤ人がなぜ宝石かと言えば、その背景にはやはり迫害の歴史があり、ダイアモンドであれば、万一のとき洋服に忍ばせても見つかりにくいとした時代があって、そこから発展してきたものだとも言える。

またイスラエル建国時にイギリスがイスラエルよりだった背景にも、ロスチャイルドの資本を無視できなかったイギリス政府の苦しい胸のうちがあったのだが、現在オッペンハイマーやロスチャイルドは、イギリスとオランダの合弁会社を通じて、石油市場への参入にも力を入れているばかりか、背後にはアメリカを通じて軍事産業や食料市場への参入まで行っている。

ちなみに日露戦争時、ユダヤ資本がロシアにも日本にも資本投資していた形、これを「両側投資」と言うが、ユダヤでは伝統的な形と言えるものの、現代社会に措ける「ファンド」と概念は同じものであり、またこうした「両側投資」の概念の中には「民主主義」の発生過程が潜んでいる・・・・。

我々の金が自分のものだと思ったらそれは少し甘いかもしれない、実は今我々の財布の中に入っている1万円札には、すべて見えない糸がついていて、ある日どこぞの誰かが糸を引くと、サッと飛んでいってしまうかも知れない・・・。




クレオパトラ7世・後編

プトレマイオス13世の死後、クレオパトラは一番下の弟、プトレマイオス14世と結婚、共同統治者とするが、この間、紀元前47年にクレオパトラは子どもを生むが、その名がカエサリオンだったことから、後世この子はカエサルの子どもだったように言われているが、実はカエサルの子どもだった根拠はなく、もしかしたらダナエウス・ポンペイウスとの間にもうけられた子どもかもしれない。

また共同統治とは言え、殆どカエサルが背後にあるクレオパトラの政治は、プトレマイオス14世を使った傀儡政治であり、紀元前46年、カエサルのローマ凱旋に伴いローマを訪ねたクレオパトラは、紀元前44年、カエサルが暗殺されるまでローマに滞在した形跡があり、この間の代替統治者としてプトレマイオス14世を選んだのではないかと言う憶測も発生してくるが、その根拠はカエサルが死んですぐにエジプトに帰国したクレオパトラと入れ違いに、プトレマイオス14世が原因不明で死亡したいるからで、こうした背景からプトレマイオス14世はクレオパトラによって、毒殺された可能性が否定できないのである。

さてこうしてここまででも波乱に満ちた人生だが、このときでもクレオパトラは25歳なのである。

クレオパトラはかねがね、息子のカエサリオンを後継者にしてもらいたい旨をカエサルに申し出ていたが、しかしいくらなんでもエジプトの愛人の子どもであることから、さすがにカエサルもそこまではできなかったと見えて、死期が近いことを薄々感じていたカエサルは、後継者を縁戚から向かえ養子とし、それを後継とするよう遺書を認めていた。

カエサル亡き後、クレオパトラはエジプトに帰るが、絶妙なタイミングでプトレマイオス14世が死亡、幼いカエサリオンを共同統治者にしたクレオパトラは、その後紀元前42年、カエサルの死後また権力闘争になったローマでは共和派のブルートゥスを支持するが、これを共和派の対立勢力である三頭政治派のマルクス・アントニウスが破り、敵対勢力に加担したクレオパトラは、アントニウスから出頭を命じられる。

クレオパトラはまたしても薄絹をまとい、その上からエンジ色の布をかけ、そして高価な香を焚いて体のにおいを消し、アントニウスに謁見、また自身も宴を開いてアントニウスを招き、その席でも体が透けて見える衣装に身を包み、そして豊かな話をしたと言われている。

カエサル同様異国の刺激的な装束、そしてその知性にすっかり虜になったアントニウスは、すぐにクレオパトラを愛人にし、以後まったくローマを顧みなくなっていった。
またこうした背景からローマではオクタヴィアヌスの勢力が台頭してくるようになり、このオクタヴィアヌスの姉がアントニウスの妻だったのだが、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉とも離婚してしまう。

そして紀元前39年、クレオパトラはアントニウスとの間にアレクサンドロス・ヘリオス、クレオパトラ・セレネの双子の男女をもうけ、紀元前36年にはプトレマイオス・フィラデルフォスを産んだが、この間一番最初の夫であるプトレマイオス13世とともに自身に反抗した、妹のアルシノエ4世をアントニウスに頼んで殺害させている。

2度に渡ってエジプトの雌猫に指導者をたぶらかされたローマの怒りは大きかった。
やがてギリシャ、アクティウムでクレオパトラ・アントニウス同盟とオクタヴィアヌスは海戦となったが、この海戦のさなかクレオパトラはなぜか戦線を離脱、それを追ってアントニウスも戦線を離れたため、オクタヴィアヌスは何の苦もなく勝利を収め、こうしてアントニウス対オクタヴィアヌスの戦いが、いつしかエジプト対ローマの戦いになってしまった「アクティウムの海戦」はローマ勝利で幕を閉じた。

そして海戦で敗北したクレオパトラは自殺したと言う噂を信じてしまったアントニウスは、クレオパトラの後を追おうとして喉を短剣でついて自刃、それをクレオパトラが救い出したものの、アントニウスは彼女の腕の中で息絶えた。

クレオパトラは最後の朝、プトレマイオス廟の前で、侍女に用意させたイチジクを入れた籠に潜ませた、「アブス」と言う毒蛇に自分の左乳房を噛ませ、眠るようにこの世を去っていった・・・。
クレオパトラ7世フィロバトール、彼女の短くも激しい、生きることの闘いはこうして39年でその終わりを迎えた。

後世、次々と指導者をたぶらかされたローマ市民の怒りは大きく、今でもローマではクレオパトラの評判は良くない。
またローマに残るクレオパトラ像やドイツでもそうだが、残っているクレオパトラ像はどれも、こう言う言い方してはどうかとも思うが不美人である。

歴史上の美人が本当の美人だったかどうかの議論は諸説あると思うが、どうもその後のローマを考えるとき、造形的クレオパトラは意図的に不美人に作られていった経緯があるように思えてならない。

しかし凄い女性である。
弟2人と結婚して両方とも殺害し、妹も殺し、その上に愛人は3人、そのうち2人は帝国ローマの指導者である。

だが私たちは彼女の何を分かるだろうか、結婚相手は兄弟、しかもその兄弟と結婚するのは自分だけではなく妹や姉であるかも知れない、そしていつ敵になるかも分からないのである。
こうした状態が幼い頃から当たり前となっている女性が持つ「性」は、おそらく肉体的関係と精神が切り離されたものだったに違いない。

すなわちここで考えられるクレオパトラの「性」は相手が男性であれば、また権力者であれば、そこに肉体的関係が持つ意味など全くなく、呼吸をするように当たり前のことだったのではないか、そしてこうした当時のエジプト王朝の背景から、今日われわれが持つモラルなど存在出来ない状態だったのではないかと思える。

だが初めて兄弟以外の男と肌を合わせたクレオパトラは、そこで始めて肉体の繋がりが持つ意味と「言葉にできない気持ち」を、例えそれが理解できなくても感覚的に感じたのではないだろうか。
だから最後アントニウスの時には、自らも命を絶ってしまったのではないかと思うのである。

つまりクレオパトラは、王家の血で血を洗う歴史の中で、女であることを躊躇なく武器として最大限使わねば生きてゆけない、またそれが当然の社会の中から、最後に本当の女としてのよろこび、「愛」を勝ち取ったのではないか、だからこそ最後に「死」の選択があったのではないだろうか・・・・。







クレオパトラ7世・前編

「畜生、あの淫売め・・・」プトレマイオス13世は頭に載せていた王冠を石の床に叩き付けると、玉座に座り込んだが、これでローマ軍との戦いは決定的になった。
また実の姉にして妻でもあるクレオパトラは、もはや絶対に許すことはできなかった。

「私は神である」と言った人間は、狂人や愚か者以外に、歴史上たった2人しかいない。
その1人はモンゴル帝国のチンギス・ハーンだが、もう1人はマケドニアのアレクサンダー大王だ。

そしてこのアレクサンダーが夭折して以降、家来たちの領土争いによって、世界の半分とまで言われたアレクサンダー帝国は分断され滅びるが、家来の1人である「プトレマイオス」がエジプトにプトレマイオス王朝を築き、これがアレクサンダー帝国を継承した形となるともに、エジプト王朝を名乗る。

しかしこのプトレマイオス王朝も、クレオパトラが生まれる頃には既にその栄光に翳りが見え初めていて、事実彼女が14歳の時(紀元前55年)には父親のプトレマイオス12世と、姉のベレニケ4世の間に勢力争いが起こり、プトレマイオス12世はローマの力を借りて、ベレニケ4世を戦いで撃破し、これを処刑している。

この辺は何ともアレクサンダーのマケドニアの因習と言うか、暗い歴史を踏襲しているようでもあるが、やはり問題はその政治体制にあったのではないか、すなわち日本の天皇制のように、王を有力豪族が支えて王朝が成立している、そうした体制の元では常に有力な豪族が入れ替わり、その度に王家が骨肉の争いに巻き込まれる仕組みとなっていたのではないだろうか。

そしてこうした仕組みは情報伝達の容易な今日とは違い、広大な領土を治めるにはある種避けられないことだったようにも思う。

さらにエジプト王朝は歴代その「血」を重視することから血縁結婚しか認められていなかった。
つまり兄弟姉妹の間でしか婚姻ができなかったわけだが、万一生まれた子どもに男女が揃っていなければ、父親と娘、母親と息子の暫定的関係も存在せざるを得なかったことだろう。

こうしたことからエジプト王朝の「夫婦」と言う概念は、ある種義務的な要素、つまり子孫を残すために兄弟姉妹が義務のために夫婦の交わりを持つ慣習のようなものであって、そこに情愛の存在は薄いか、むしろ無かった可能性もあるのだが、その価値観として「権力」や「家」と言うものが最大限の価値になっていたのではないかと推察され、こうなると肉体関係と言うものはある種のしきたりのようでしかなくなる。

また極秘ではあったが、周辺地域の事情や体制の中での愛人関係による子どもの概念がなければ、こうした近親婚にはつきものの「子どもの奇形」も防げなかったようにも考えられる。
そしてこのような考えを基本にしてクレオパトラを見ていくと、その本質が見えやすいのではないだろうか。

紀元前51年、クレオパトラ18歳の時、父親のプトレマイオス12世が死去、姉のベレニケ4世が既に処刑されていたことから、年長のクレオパトラ7世が、弟のプトレマイオス13世と結婚して2人共立のファラオとなるが、既にこの王朝ではプトレマイオス12世とベレニケ4世の争いにも見られるように、かなり前から少なくとも2つの大きな勢力が争っており、結婚した当初からこの2つの勢力はクレオパトラ派と、プトレマイオス13世派に分かれ、互いに隙あらばと狙っていた経緯があり、結婚生活も政治的統治の意味からもこの姉弟の結婚はうまく行っていなかった。

そこにこうしたエジプトに干渉を強めていたローマ帝国内の権力闘争が影を落としてくる。
カエサルと対立していたポンペイウスは息子のダナエウス・ポンペイウスをアレクサンドリアに送り、クレオパトラに食料や兵員の協力を求めるが、この時クレオパトラは父であるプトレマイオス12世が、やはりポンペイウス派だったことから、むこうが予想するより遥かに多い食料や兵員を提供し、またダナエウスの寝所を訪れ、そこでダナエウスと男女の関係を持ち、以後彼と愛人関係にまでなっていく。

これに業を煮やした、と言うより単純に不信感かもしれないが、それを懐いたプトレマイオス13世とその勢力は、アレクサンドリアの住民がクレオパトラに反抗して起こした騒乱に乗じ、紀元前48年、クレオパトラを辺境のペルシオンへ追放する。

しかしローマ帝国でポンペイウスを打ち破ったカエサルは、今度はエジプト内のポンペイウス残党を討伐するためかの地を訪れ、クレオパトラとプトレマイオス13世の争いの調停に乗り出すが、当時ペルシオンでプトレマイオス13世の勢力と闘っていたクレオパトラは、その戦線からいち早く離脱し、プトレマイオス13世派の監視をくぐり抜けるため、巻かれた絨毯にその身を潜ませカエサルに謁見する。

巻かれた絨毯が開かれると、そこから出てきたのは、裸体に、薄く下が透ける繊維で編まれた布をまとったうら若き女、しかもエジプト特有の孔雀石を砕いた粉末を目の周りに塗ったその様子は、現代のシャインカラーアイシャドーのようなものだっただろうか、そうした化粧をした、しかもクレオパトラは髪には泥を塗って棒を巻きつけ、髪にくせをつけていたと言われていることから、現在のパーマをかけたような髪形だったのではないか、またもともとはエジプトではなくギリシャマケドニアの血筋であり、メディア語、ヘブライ語、アラビア語など7カ国の言語に通じ、その声はどんな楽器もかなわない美しい声であったらしいから、これが絨毯から出てきたときには、さすがのカエサルも一目で虜になったのは無理もないことだった。

クレオパトラの絨毯がカエサルのもとに運ばれたのは、紀元前48年9月、夜の10時ぐらいではなかったかと言われているが、だとするとこのときクレオパトラは21歳、しかもファラオであり、その知性と独特の美しさに、カエサルはローマ女性にはないエキゾチックな魅力と、どこかに「この女とは避けられない」と言う思いが芽生えたのではないか、だからカエサルは確かに武力ではクレオパトラには引けを取らないが、その美しさと知性のバランス、こうしたものに人間として、男と女の関係として「無条件降伏」してしまったのではないかと思うのである。

カエサルは取り巻き達に早く帰るように指示すると、クレオパトラを尊敬を持って抱き寄せたに違いない。

そしてクレオパトラはカエサルの愛人になったが、一度はカエサルの調停で和議を結んだプトレマイオス13世、しかしクレオパトラとカエサルの関係を知ってから、幼い頃からその性格は嫌と言うほど判っている、女としての慣習、王朝の歴史の上に立つあの姉のことである、いつかきっと自分は殺されるか追放されると判断し、調停が成立してから15日後、挙兵しカエサルに戦いを挑むが駐留していたローマ軍によって打ち破られ、ナイルの戦いに措いて溺死させられてしまう。

冒頭のシーンはカエサルとクレオパトラの関係を知った瞬間の、プトレマイオス13世の様子である。

(後編へ続く)




案山子の神

日本神話の中で「大国主命」(おおくにぬしのみこと)が出てくる出雲神話の一節に、案山子(かかし)の神様が出てくる場面がある。
そして昔から案山子は「知恵」の象徴とされ、案山子の神もまた「知恵」「知識」の神様として信仰を集めてきたが、ここで言う案山子とは、田んぼで雀を見張っている案山子とは少し様子が違う。

大国主命が出雲、美保の崎に出かけたときの話だが、途中でガガイモのサヤを割った船に乗り、蛾の皮を剥いで作った着物を着た小さな神様がこちらにやってくる。
大国主命はその小さな神に名前を尋ねた、しかし小さな神様は口を結んだまま何も答えようとはしない。

困っていると、そこへヒキガエルがやってきて大国主命にこうささやく、「案山子の神にお聞きなさい」
そこで大国主命は「久延彦神」(くえびこのかみ)と言う案山子を呼び、この案山子の神に眼前の小さな神の名を聞いた。

すると案山子の神は「この方は少彦名命(すくなびこなのみこと)です」と教えてくれ、それ以後この「大国主命」と「少彦名命」は実の兄弟のように仲良くなり、お互い助け合って国造りをしたとされている。

古代に措いて、自分の本名を教えると言うことは重要な意味があり、それは互いの信頼を表す様式とされていたようであり、ここで大国主命が少彦名命の名前を知ろうとしたことは、既に少彦名命に対する1つの信頼の表し方であり、少彦名命の名前を知ったときから、大国主命は少彦名命との間に心のつながりを生み出したことになる。

そしてこの話に出てくる案山子の神だが、実は意外なところにそのルーツがあり、その伝承ルートの端は東南アジアとされているが、原型は「太陽神」が変化したものだと言われている。
石川県羽咋市(いしかわけん・はくいし)に「久氏比古」(くてびこ)神社と言う社があるが、ここの神は案山子だとされている。

久氏比古と言う神は足が悪く、道を歩くときに、ちぐはぐな足跡を残すと伝承されているが、このような動作はそう遠い距離感を持たずに案山子を連想させてくれるものであり、また久氏比古神社にはもう一体、「天目一箇神」(あまのまひとつのかみ)と言う一つ目の神も同祭されている。

だがこの2つの神、元は一つ目一足の神だったのではないだろうか。
神社では大概複数の神が祭られることが多く、久氏比古神社では「一つ目」の性質が「天目一箇神」になり、「一足」の性質が「久氏比古神」の話として伝承されてきたが、ベトナムにも古代には「ドククオク」と言う神に対する信仰があり、この神は一つ目一足の神である。
しかもこの神、光のような速さで動き回り、世界中のことを知っていたと言う。

どうだろうか、久氏比古神はこのベトナムの「ドククオク」神に非常に良く似ているのではないか、そして出雲神話に出てくる久延彦神(くえびこのかみ)は一つ目一足の案山子神であり、「古事記」ではその神は足で歩くことはできなかったが、天下のことは何でも知っていたと書かれている。

こうしたことから考えると、久延彦神は南方ベトナムなどで極めて古い時代に信仰されていた「太陽神」が、形を変えて日本に伝わったものだと思われるのである。

そしてこの場合、日本での案山子神の歴史は久延彦神が基本形となって久氏比古神になったのか、その逆かは不明だが、現在もその信仰の形跡が残る、久氏比古神が基本となって、久延彦神に発展して行った可能性の方が高いのではないだろうか。

またベトナムの「ドククオク」の一つ目とは「太陽」のことを指していて、古代信仰では、太陽には一本の足があると考えられていたものが多い。

天照大神(あまてらすおおみかみ)は日本の最高神だが、大体において太陽神を最高神とする考え方は北方系に多く、太陽神を最高神としない考え方はベトナムのように、おそらく南方文化であり、こうした意味で天照大神と案山子神と言う2つの太陽神が重なるのはまずい。

そこで日本神話では出雲神話でさりげなく、大国主命を導く「一足」と言う特徴を重視した案山子神として登場させ、また世界中のことは何でも知っているとしたことから、「知恵」を象徴するものとしたのではないだろうか。
そして同じ太陽神であることから、天照大神とそうひどい落差もつけられない、そこで大国主命を導く役割として、その体裁を下げない配慮もあったのではないかと思う。

こうした傾向は仏教でも同じような配慮が伺えるが、アバロキティスバラ「観自在菩薩」は仏陀の指導者であり、どこかで仏教に対するバラモン教の立場がそこに見て取ることができ、このような背景から古代日本の異文化に対する考え方は、非常に大切な根幹を押さえながら、自国文化にそうした異文化の特性を配慮して組み入れていたことが分かり、太古の時代からすでに大陸を意識した姿、つまり中国、朝鮮半島との親密な交流が伺い知れるのである。

ちなみに太陽神を一つ目一足とする考え方は、ベトナムなどの東南アジア以外にも世界中に見られ、例えば古代バビロニアでは太陽神は一足とされていたし、エジプトでも太陽神ラーは一眼とされている。
またインドの叙事詩「マハバラータ」にも太陽は一足であるとする記述が残されている。

太陽には1本の足・・・、古代の人々のイマジネーションには真に驚嘆させられる。



資本主義と共産主義

サランラップを使い切った後の紙の芯、向かって右側の穴から景色を見ると何が見えるだろうか。
そしてこの芯の向かって左側から景色を見ると、こちらも何が見えるだろうか。

サランラップの細長い紙の芯を通して見る景色は同じものしか見えない、またそもそも細長い芯のどちらが右でどちらが左か、これにしてもペンか何かで片方に標しでも付けて置かない限り、どちらが左でどちらが右かすら判断がつかない。

そしてこれが経済だとすると、こうした標しの片方を資本主義、もう一方を共産主義と言い、どちらも基本的には同じものであり、入り口が違うだけだ。

原始時代に5人の人がいたとしよう、この5人がそれぞれ自由に自分の力で土地を開墾し作物を作り、そうしたものの中から余分に収穫できたものを持ち寄って、5人共同の倉(くら)を作った。
これが資本主義、自由主義経済だ。

そして同じ5人が、最初に個人がどれだけの食物を必要とするかを言い合って、それを合計した上で、倉を持つ分も足して共同で作業し、収穫したものを均等に配分する。
これを共産主義、社会主義経済と言うが、いずれにせよ生活するための、経済に対する考え方の差に過ぎない。

そしてこの経済に対する考え方はどちらも完全なものではなく、言い方を変えれば円形の、どの部分を針が指していても何も変わらないが、その部分をどう呼んでいるかと言った程度の話でしかない。

資本主義は結局その前提が常に「拡大」にあって、これが収縮したときは「破綻」と呼び、基本的には消費が無限に発生してくることが隠れた命題となっているため、無限連鎖的条件がその根底には内包されていて、こうした考え方では競争こそが全てあり、勝つことが全て、負けた者、弱者は勝者のお目こぼしででも暮らしていなさい、または、負けた者はそもそも生きる資格がないと言うことにもなりかねない。

そして「拡大」がその基本であることから、常に何らかの新しい市場を求め続けていて、それが領土であり植民地なら「戦争」、石油でも「戦争」、食料では先物取引などの未来をあてにした商品による「賭博投資」、また拡大の方法が「夢」とか言うわけの分からないものになったときは、この間のアメリカのサブプライムローンのようなことになるのである。

またこれが共産主義ではどうなるかと言えば、計画経済は最初に上限の生産が決められているため、これを複数年続ければ必ず初年度以降は生産が下がってくる。
そして共産体制では、常に社会の最低限が基準となってくることから、このような経済システムは基本的には「収縮経済」でもあり、やがて人間まで均一に考えられた計画は、破綻をきたしてくる。

こうした破綻の解消策はここでも資本主義と同じように、他国を侵略、植民地化して国の経済の不足分に充当させると言った考え方に辿り着いていく。

さらに共産主義の前提は「人を善」とする建前にあり、こうした考え方の中では同じ人間ではあっても、片方でやる気があって頑張った人も、その一方で怠惰でそれほど働かなかった人も、同じ配分となってしまうため、人間の意欲を低下させ、怠惰な者を取り締まろうとすることから、国民を統制、強制させるための組織の労力が大きくのしかかってくる。

基本的に経済的「鎖国」状態でもあることから新しい技術が普及しにくく、そのために生産方式がどうしても前近代的なものとなり、国際競争力は同じ生活水準なら資本主義社会よりは低くなる。

そしてここでアメリカと中国を考えてみようか。
アメリカ、オバマ政権は国民皆保険制度導入で国を2分する議論に戸惑っているようだが、これは良く考えてみればアメリカの伝統的な争いでもある。

資本主義、自由主義のアメリカでは、弱者や敗者は「ひざを屈した状態」が求められ、それを求めることは勝者の権利とする思想があり、本質的に個人主体、自由をその信条とするところから政府の干渉を嫌い、また大きな政府を望まない風潮が国民の半分ほどの意見であり、こうしたことは過去州ごとの自治権を重視した南部と、中央集権的思想の北部の争いにまで発展し、その結果リンカーン率いる北部が勝利した南北戦争時代には、始まっていた思想的対立である。

そしてオバマ大統領がやろうとしている国民皆保険制度は、成功したものがより多くの富や恩恵と言った考え方からすれば、政府が個人の努力によって得られた成功者の恩恵に干渉して、コントロールするのかと言う考えに行き着いてしまうし、実際にオバマ大統領のこの考え方は、資本主義の問題点を共産主義的制度で補おうとするものでもあり、これは考え方としては間違っていないが、これによってどこかでアメリカは国際的競争力を喪失することもまた事実だろう。

こうしたことを簡単に言うと、アメリカでは資本主義と共産、社会主義的考え方の対立が起こっているのであり、現在のアメリカの行く先によっては、今後アメリカの国際競争力が低くなっていくかもしれない、分岐点に差し掛かっていると言えるだろう。

そして中国、この国は共産主義をそのイデオロギーとして掲げてはいるが、現段階でもっとも資本主義的な国家となっている。
すなわち競争に次ぐ競争で、低い賃金と豊富な物資、その割には通貨は鎖国状態で国際市場を席巻し、国内の市場も計画統制経済ではなく、完全に自由主義経済であり、また中国国民の上昇志向はまったく「古き良きアメリカ」と同じである。

勝者、成功こそがすべてあり、敗者は死んでもやむなし。
儲けられるだけ儲ける国民思想になっているばかりか、その急激な発展に伴い発生したナショナリズムとあいまって、資本主義がその一つの結実とする帝国主義となってきている。

実におかしなものだが、資本主義のアメリカが共産主義的要素を取り入れようとし、逆に共産主義の中国が資本主義の権化となってきている。

つまり経済とは所詮「人の暮らし」、社会をどう考えるか、どう見るかだけのことだったのではないか、常に資本主義から共産主義が円周上を回転し、互いにその先に理想を見ているようなものだったのではないか、などと私は思ってしまうのである。

その上で今の日本、今後の民主党の政策を見れば、これはやはり国民の生活に政府が干渉し過ぎてきているように思う。

困ったら政府では基本的に計画経済に近くなり、このことは個人や企業が最大限努力する道を塞いでいくことになりはしないか、しいてはこうしたそれと気づかないような甘えは、国際的な競争力を喪失させることになりかねず、その結果数年後に極めて深刻な、どうにも解決先の見えない経済不況を引き起こす恐れがあるのではないだろうか。

困ったら金を支給する方法は、どちらかと言えば共産主義、社会主義的要素が強く、これでは国民が知らない間に何か大切なものを失うような気がする。
給付金よりは消費税の減税の方が、経済的効果も、税制の公平性の観点からもよりベストなのではないだろうか・・・・。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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