2009/10/31
川の流れに無間地獄を見る
ヨハネ黙示録第20章、第10節にはこう書かれている。そして彼らを惑わしていた悪魔は、火と硫黄との湖に投げ込まれた。
そこには野獣と偽りの預言者の両方が既にいるところであった。
そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。
これはその記述に対して何も考えなければ素晴しいことかも知れない、何せ今までいた悪魔がこれで未来永劫地上に現れることなく、人々は善良に暮らせる訳だからだが、1つ疑問がある。
これは聖書全般を通して思うことだが、このヨハネの黙示録でも悪魔は滅ばされていない点は、どうしてなのだろうか。
「永久に責め苦に遭う・・・」とすれば結局責め苦に遭っていたとしても、その存在自体は滅びていないことになり、しかもここには「永久」とまで書かれている。
神はこの黙示録の片方で制裁を加えるとしても、悪魔の、その存在は永遠であることを保障しているようなものであり、こうした疑問はそもそも創世記をはじめとして、随所に現れてくる。
エデンの園で蛇に姿を変えたサタンに、エバがそそのかされることは分かるとしても、神ともあろうものがこんなことを見逃すこと自体そこに不自然さが漂う。
こうした疑問に対して多くの聖職者は、「神の御心は人間になど理解し得ないものだ」、と言い、これで話は終わってしまう。
またよしんば何か説明して貰えたとしても、それは新たな疑問の出発点にしかならず、例えばノアの大洪水の以前、地上は乱れに乱れるが、これもそもそもは神が創った聖霊たちが地上の人間の女と交わって、無茶苦茶なことになったことが原因であり、こうした意味ではもともと不完全な人間に対し、それを乱す元凶を作っているのは神ではないのかと思えるほどである。
試練だというかも知れない、が、始めから無理な者に試練を与えて、それで「だめでした」滅ぼしましょうでは、そもそも試練の意味がない。
試練というのはいずれ遥か高みにまでやってくるか、少しでも進歩することを前提にした話であり、およそ聖書を読む限り神は人間にそこまでのことを期待していない。
だとしたら人間の存在価値、存在理由は何なのだろうか。
また聖書ではもともと地獄と言う概念が存在せず、人間が死んだ場合はその存在を保管する場所として、「ハデス」「シェオル」があるが、この意味するところはまさしく「保管場所」の意味を出ず、こうした考え方から見えるものは、「魂」と言うものが全体的な概念を持っていて、個々にとっての魂はあまり意味を成さないことが伺える。
つまりキリスト教の「魂」は大きな煎餅を割って、それを少しずつ分けて個人個人に入れたと言うような考え方である。
だがそうしたことが前提になっていながら、ヨハネの黙示録では悪魔達が放り込まれるところの記述として「火の中」とあり、これは地獄「インフェルノ」以外のものを想像できず、偽りの預言者とは過去に死んだ人間の預言者であることを考えると、聖書では重きを置くなとしている個々の「魂」か、それとも肉体がそこには伺われるのであり、このことから悪魔及び悪を成したものは責め苦には遭うが、その存在は魂にせよ肉体にせよ永遠に存在することになってしまう。
そして方や人間はどうか、人間は死ぬと「ハデス」「シェオル」のような保管庫に預けられ、そこではただ在るだけ、いわば一滴の水が大きな器に戻ったようなものかもしれないが、そうしたものでしかなく、意思もなければ、そもそも個体の区別もない状態になり、その後「審判の日」が来たらそれまでの行状を記した巻物が開かれ、それによって裁かれることになっている。
しかもその結果天に召されるのは極わずかな者であり、その他こ、れもほんの少数の人間だが地上で1000年の命が契約され、それ以外は消滅することになっている。
ついでにそれだけならまだしも、この「審判の日」にはそれまで人間の保管庫となっていた「ハデス」までもが火の中に投げ込まれる。
つまり死の上にさらに死が待っていて、どうやら火の中に放り込まれた者はそこで永遠に責め苦に遭うものの、その存在は保証されるのではないか、そしてそうしたことが細かく記載されているのが「命の巻物」と言う書だが、ここに記載のないものはすべて火の中に放り込まれることから、実際火の中に放り込まれるものは極端に少ないか、ほとんど全部であるかのどちらかになる。
つまり聖書を読む限り、人間の運命は消滅か無間地獄かのどちらかと言う理不尽なものであり、これは悪魔があれほどの悪を成して一般の多くの人間と同じか、むしろ存在が保証されるだけ、優遇されていると言う感じを受けることを考えると、人間は扱いとしては悪魔以下と言うことだろうか。
だが面白いものだ、なぜかこうして聖書を考えていて思い出すのは、仏教の地獄の概念だ。
およそ名の有る坊主はみな「無常」「無」を説きながら、その片方で地獄があり、そこでは永遠に責め苦を味わう、また人間の行状はどこかで記録されていて、それを閻魔大王が裁き、鬼や餓鬼などの人間にとっての悪は、地獄では役人や監視役こそしているが、彼ら自体が責め苦に遭うことはないのである。
所詮永遠の命とは、たとえそれが快楽であれ、地獄であれ、消滅よりは悪いことなのかも知れない。
キリスト教と仏教はあらゆる点で似ているところが多い、そしてこうしたキリスト教の概念と言うものはメソポタミア、それ以前から近い概念のものがあり、その根底は「川の氾濫」にあった。
つまり川は毎年氾濫を起こし多くの蓄えや人命を奪っていったが、その片方で豊穣もまた約束していった。
「神」と「悪魔」は同じものだったのであり、こうした考え方は日本の神道でも同じ概念がある。
散々悪事を働いた「スサノウの命」、彼をしても神々は徹底的に痛めつけることはあっても、それを滅ぼすと言うことはなかった。
この背景にあるものは「永劫回帰」、そのときは災いとなっても、それが廻って次に来た時には、人々に恵みをもたらすかも知れない、と言う考え方である。
今日は天気も良く、仕事を少しだけサボって近くの川原の土手まで散歩した。
あの馬鹿1人だと心もとないと思ったのか、近所の猫が後ろをついてきて、私と隣あわせで座り、そして私達はただ川の流れを見ていたが、その水の流れになぜかとりとめのない宗教のことを思ってしまった。
ふん、どこまで行ってもつまらぬ男だな・・・。
猫はもしかしたらそう思っていたかも知れない・・・。