川の流れに無間地獄を見る

ヨハネ黙示録第20章、第10節にはこう書かれている。
そして彼らを惑わしていた悪魔は、火と硫黄との湖に投げ込まれた。
そこには野獣と偽りの預言者の両方が既にいるところであった。
そして彼らは昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭うのである。

これはその記述に対して何も考えなければ素晴しいことかも知れない、何せ今までいた悪魔がこれで未来永劫地上に現れることなく、人々は善良に暮らせる訳だからだが、1つ疑問がある。
これは聖書全般を通して思うことだが、このヨハネの黙示録でも悪魔は滅ばされていない点は、どうしてなのだろうか。

「永久に責め苦に遭う・・・」とすれば結局責め苦に遭っていたとしても、その存在自体は滅びていないことになり、しかもここには「永久」とまで書かれている。
神はこの黙示録の片方で制裁を加えるとしても、悪魔の、その存在は永遠であることを保障しているようなものであり、こうした疑問はそもそも創世記をはじめとして、随所に現れてくる。

エデンの園で蛇に姿を変えたサタンに、エバがそそのかされることは分かるとしても、神ともあろうものがこんなことを見逃すこと自体そこに不自然さが漂う。
こうした疑問に対して多くの聖職者は、「神の御心は人間になど理解し得ないものだ」、と言い、これで話は終わってしまう。

またよしんば何か説明して貰えたとしても、それは新たな疑問の出発点にしかならず、例えばノアの大洪水の以前、地上は乱れに乱れるが、これもそもそもは神が創った聖霊たちが地上の人間の女と交わって、無茶苦茶なことになったことが原因であり、こうした意味ではもともと不完全な人間に対し、それを乱す元凶を作っているのは神ではないのかと思えるほどである。

試練だというかも知れない、が、始めから無理な者に試練を与えて、それで「だめでした」滅ぼしましょうでは、そもそも試練の意味がない。
試練というのはいずれ遥か高みにまでやってくるか、少しでも進歩することを前提にした話であり、およそ聖書を読む限り神は人間にそこまでのことを期待していない。

だとしたら人間の存在価値、存在理由は何なのだろうか。

また聖書ではもともと地獄と言う概念が存在せず、人間が死んだ場合はその存在を保管する場所として、「ハデス」「シェオル」があるが、この意味するところはまさしく「保管場所」の意味を出ず、こうした考え方から見えるものは、「魂」と言うものが全体的な概念を持っていて、個々にとっての魂はあまり意味を成さないことが伺える。

つまりキリスト教の「魂」は大きな煎餅を割って、それを少しずつ分けて個人個人に入れたと言うような考え方である。

だがそうしたことが前提になっていながら、ヨハネの黙示録では悪魔達が放り込まれるところの記述として「火の中」とあり、これは地獄「インフェルノ」以外のものを想像できず、偽りの預言者とは過去に死んだ人間の預言者であることを考えると、聖書では重きを置くなとしている個々の「魂」か、それとも肉体がそこには伺われるのであり、このことから悪魔及び悪を成したものは責め苦には遭うが、その存在は魂にせよ肉体にせよ永遠に存在することになってしまう。

そして方や人間はどうか、人間は死ぬと「ハデス」「シェオル」のような保管庫に預けられ、そこではただ在るだけ、いわば一滴の水が大きな器に戻ったようなものかもしれないが、そうしたものでしかなく、意思もなければ、そもそも個体の区別もない状態になり、その後「審判の日」が来たらそれまでの行状を記した巻物が開かれ、それによって裁かれることになっている。

しかもその結果天に召されるのは極わずかな者であり、その他こ、れもほんの少数の人間だが地上で1000年の命が契約され、それ以外は消滅することになっている。

ついでにそれだけならまだしも、この「審判の日」にはそれまで人間の保管庫となっていた「ハデス」までもが火の中に投げ込まれる。
つまり死の上にさらに死が待っていて、どうやら火の中に放り込まれた者はそこで永遠に責め苦に遭うものの、その存在は保証されるのではないか、そしてそうしたことが細かく記載されているのが「命の巻物」と言う書だが、ここに記載のないものはすべて火の中に放り込まれることから、実際火の中に放り込まれるものは極端に少ないか、ほとんど全部であるかのどちらかになる。

つまり聖書を読む限り、人間の運命は消滅か無間地獄かのどちらかと言う理不尽なものであり、これは悪魔があれほどの悪を成して一般の多くの人間と同じか、むしろ存在が保証されるだけ、優遇されていると言う感じを受けることを考えると、人間は扱いとしては悪魔以下と言うことだろうか。

だが面白いものだ、なぜかこうして聖書を考えていて思い出すのは、仏教の地獄の概念だ。

およそ名の有る坊主はみな「無常」「無」を説きながら、その片方で地獄があり、そこでは永遠に責め苦を味わう、また人間の行状はどこかで記録されていて、それを閻魔大王が裁き、鬼や餓鬼などの人間にとっての悪は、地獄では役人や監視役こそしているが、彼ら自体が責め苦に遭うことはないのである。

所詮永遠の命とは、たとえそれが快楽であれ、地獄であれ、消滅よりは悪いことなのかも知れない。

キリスト教と仏教はあらゆる点で似ているところが多い、そしてこうしたキリスト教の概念と言うものはメソポタミア、それ以前から近い概念のものがあり、その根底は「川の氾濫」にあった。
つまり川は毎年氾濫を起こし多くの蓄えや人命を奪っていったが、その片方で豊穣もまた約束していった。
「神」と「悪魔」は同じものだったのであり、こうした考え方は日本の神道でも同じ概念がある。

散々悪事を働いた「スサノウの命」、彼をしても神々は徹底的に痛めつけることはあっても、それを滅ぼすと言うことはなかった。
この背景にあるものは「永劫回帰」、そのときは災いとなっても、それが廻って次に来た時には、人々に恵みをもたらすかも知れない、と言う考え方である。

今日は天気も良く、仕事を少しだけサボって近くの川原の土手まで散歩した。
あの馬鹿1人だと心もとないと思ったのか、近所の猫が後ろをついてきて、私と隣あわせで座り、そして私達はただ川の流れを見ていたが、その水の流れになぜかとりとめのない宗教のことを思ってしまった。

ふん、どこまで行ってもつまらぬ男だな・・・。
猫はもしかしたらそう思っていたかも知れない・・・。




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革命と人権

1979年2月1日、フランスに亡命していたルーホッラー・ホメイニがイランに帰国、この瞬間イランは事実上「革命」が成立した。

パーレビ国王が後任としてバフティヤールを首相に任命し、自身は国外へ退去したが、そのバフティヤールも2月11日にはホメイニに政権を移譲し、ここにホメイニは革命指導者としてイスラムの教えに基づく国家建設を始めるのだが、そもそもパーレビ国王、パーレビ王朝はアメリカを始めとする、西欧文化的国家の建設こそが近代化と言う考えのもと、イスラム文化を厳しく弾圧する政策を行ったが、秘密警察を設けて監視するなど、その手法は決して近代民主主義の理念とは言えないものだった。

また不正や賄賂が横行、貧富の差は拡大し、こうした現状に不満を持つイラン国民は、暴動を期に一挙にパーレビ王朝打倒へと傾き、こうした動きをパーレビは抑えれなくなったが、当時アメリカを始め西欧諸国は冷戦構造に見られる、ソビエト連邦(現ロシア)対アメリカと言う国際的緊張状態の中、ソビエトの南端を接するイランを軍事的重要拠点として位置づけ、パーレビ王朝を支援し続けていた。

そして当時の世界情勢は西欧文化至上主義とも言うべきもので、アメリカやヨーロッパの文化こそがもっとも近代的で、理想的なものと言う考え方であったが、こうした傾向に正面からNOを突きつけたのが、このイラン革命であった。

ホメイニは革命成立後、西欧至上主義を廃し、イスラム至上主義を掲げ、西欧文化はことごとく否定していったが、こうした背景からイランとアメリカはそれまでの協力関係から、対立関係へとその関係が変化していき、特にイギリスなどは、革命前のパーレビ政権時に契約していた軍事兵器の納入が、ホメイニ政権によって拒否されたこともあり、経済的打撃も大きかったのである。

そして国際社会はこうしたイラン革命に対し、理想的な西欧文化を否定し宗教政策などを布いて、必ずホメイニは失敗すると思っていたが、実際にはそのまったく逆の方向へとイランは動いていくのである。

それまで利権で拡大していた貧富の差は、宗教的公平性から平等なものになり、また西欧が何より関心を持っていた女性のファッションだが、ホメイニは「ヒジャブ」と言う、現在もイスラム国家の女性が着用しているあの衣装の着用を義務付け、違反する者は厳しく罰していったが、本来伝統的なこうした衣装を否定され、無理やり露出度の高いファッションを強要されていたパーレビ政権下の女性たちは、伝統の復活をあながち否定するばかりではなかったのである。

またホメイニはイスラム教支配体制に女性の組織もつくり、こうした女性たちの活躍によって、イランの女子児童たちの就学率も向上していくのだが、パーレビ政権時70%だった女子児童の小学校就学率は、ホメイニ政権では97%になり、高校の就学割合も女子生徒と男子生徒の割合は、ほぼ均等になっていった。

こうした傾向の背景には、革命前は男女共学だった学校に対する親の警戒心があったためであり、イスラムでは厳しく男女が区別されていなければ、それはやはり不謹慎であるとの考えが根強かったことが伺われ、ホメイニ政権に変わって学校も男女に分けられたことから、親の安心感もあってこうした傾向が出てきたと考えられている。

また実は大学の進学率を言えば、イランでは女性の方が多く、現在では例えば医学関係の大学生の70%が女性と言う、先進国も真っ青な女性進出を実現しているのであり、こうしたことから、こと医療現場での女性の進出率は西欧文化圏の比ではない。

更に男女が分けられる社会と言うのは、男性社会と同じだけの女性社会があると言うことで、雇用に関してもまことに男女が均等な社会を形成していて、日本的イメージではイスラム社会の女性の概念は貧しくて、理不尽などと思うかもしれないが、とんでもない話である。

痴漢被害防止のため電車ですら男女が区別され、雇用も女性が不利な日本社会などイラン社会すれば20年は遅れていると言われても仕方ない状態である。

そしてこうしたイランの実情と対比を示すのが、西欧のありようであり、その1つがフランスのシラク政権が推し進めた「宗教シンボル着用禁止法」であり、これは簡単に言えばイスラム圏の女性が被っているあのスカーフだが、この着用も禁じる法案で、2004年9月から施行されたが、政教分離の原則に従い、公立学校の校内や公式行事で、宗教上の帰属を明快に示す標章や服装を禁じるとしたものだが、これによってフランス国内のイスラム教女学生のスカーフ着用を巡って10年越しの紛争が再燃、イスラム教に対する迫害だとして猛烈な反発が起こる。

ラファラン首相はこうした反発に対して公教育の場での非宗教原則を主張し、宗教差別ではないとしたが、この法律は海外へも波紋を広め、世界中のイスラム国家の反発を招いた。

国際テロ組織アルカイダの指導者の1人、アイマン・ザワヒリは同法を「イスラム世界を攻撃する十字軍の行動」と非難し、イラクでは2004年8月28日に、フランス人記者2名が武装集団に拉致されたときも、この武装集団の要求は「48時間以内に同法を撤廃せよ」となっていた。

当初イラク戦争に反対的だったフランス、そうした意味ではイスラム諸国も好意的な見方をしていたにも拘らず、このシラクのスカーフ禁止法で一挙に中東のイスラム諸国共通の敵、と言う皮肉な結果となったのである。

こうした背景の中、2004年10月にはフランス東部のミュールーズの公立中学校で、スカーフを着用し続けていた2人の女学生が退学処分をを受けたのを皮切りに、各地で40人を超える女子生徒が退学処分となった。

また今年に入ってだが、これはアメリカで、人前では肌を露出することができないイスラム教の女性も水泳ができるようにと、全身を覆う水着を開発した女性が、それを着用してプールに入ろうとしたとき、プールの管理者たちは「衛生上に問題がある」として、この女性のプール入水を拒否した。

およそ弾圧と言うもの、国民を抑制する傾向は教育現場がその先端になる。

片方で自由平等を掲げる西欧のこうした在り様を考えるとき、宗教的統制と見られたイラン革命がもたらしたものは、宗教を通しての福祉の充実であり、平等と世界最高水準の男女雇用機会の均等性であり、こうした現実を見る限り宗教的統制が人権を蹂躙する、または女性の地位をないがしろにすると言ったことは、少なくともイラン革命に措いては、当てはまらなかったと言えるのではないだろうか・・・。




お母さん・・・(2)

わざわざ自宅から50キロメートルも離れた産婦人科医院へかかったのは、それなりの理由があった。
近くの産婦人科だと誰が見ているとも限らない、そうしたことを恐れてのことだったが、帰宅途中、母親と隣り合わせに座った弥生さんは、こうした昼間の時間帯で、そう混んでもいない電車の中、奇妙な光景を目にする。

おそらく5歳ぐらいだろうか、男の子が弥生さんの前方5列目ぐらいの座席から、ジーっと弥生さんを見ているのである。
そして次の瞬間、その男の子は電車の開いていない窓から、まるで透けるようにして体を出したかと思うと、なんと走っている電車の外へ、スーッと飛び出してしまったのである。

弥生さんは一瞬我が目を疑ったが、隣の母親も同じ方向を見ていたので、母親に今何か見なかったかと訪ねたが、母親は何も見ていないと答えた。

「やはり少し疲れているのかしら・・・」弥生さんはそのときはそう思い、これ以上考えなかったが、思えばそんなことは現実にはありえないことだった。

そして帰宅した弥生さん、何となく暗い雰囲気が続いたことから、部屋に戻ってもそうした沈んだ感じが収まらず、カーテンを開いて窓を開けたが、ここでまた彼女は不思議な場面を目撃する。

なんと電車で見かけたあの男の子が、弥生さんのいる2階から少し離れたところに見える道路に立っていて、こちらを見ているのだが、その背後には黒塗りの車が迫っていて、しかも男の子がいるのにスピードを落とさない.
「あーっ、轢かれる」思わず目を閉じてしまった弥生さん、しかし次の瞬間目を開けると男の子の姿はなく、ただ道路を黒塗りの車が走っていくだけだった。

また翌日には、まだそれほどお腹も目立つほどはなかった弥生さんは、気晴らしも兼ねて大学の講義を受けに出かけていたが、そこでも講義が終わって家へ帰ろうとした彼女が、何気なく大学の建物の上のほうに目をやると、だれかがそこに立っていて、なんとその人影はいきなりそこから飛び降りてしまったのだ。

「あーっ、またあの男の子だ・・・」
弥生さんは直感でそう思い、その人影が落ちていった場所まで駆け寄るが、そこには人の痕跡はおろか、ごみ1つ落ちてはいなかったのである。

こうして弥生さんはそれから同じ男の子を1日に2、3回は目撃するようになり、そのどの場面でも男の子は飛び降りたり、川へ落ちていったり、車に轢かれたりしたが、不思議と悲惨な光景であるにも拘らず痕跡は残らず、どうやら男の子が自分にしか見えないことも分かってきていて、ここへきて弥生さんには「あること」に気づき始めていた。

それは老医師に返事をしなければならない日の2日前のことだったが、やはり講義にでかけて行った帰りのことだった。

歩いている自分を後ろから誰かが走って追いかけてきた。
そしてその小さな人影は弥生さんを追い越し、10メートルほど先にある川にかかる橋の欄干に立ったかと思うと、こちらを振り返り、声に出さない言葉を発し、おもむろに橋から下の川へ落ちていったのである。

それは間違いなく、これまで何度となく弥生さんの前に現れたあの男の子だった。
そしてこのとき男の子の口元がはっきり読み取ることができた弥生さん、それからある決心をしたのだった。

「そうですか・・・、それは良かった、大変かもしれないが頑張って下さい」
私もできる限りのことはします」
産婦人科の老医師は弥生さんに優しく語りかけると、今度は出産についての話を始めた・・・。

そうだ弥生さんは堕胎することなく、大学も辞めることになったが、子供を産むことにしたのだった。
初めて電車の中であの男の子を目撃したときから、それはある意味分かっていた。
これはお腹の子供だ・・・。
そして私に言っているのだ、「殺さないで・・・」と、それはあの橋の欄干のときに確かめられていた。

あの時男の子は「おかあさん・・・」と言っていたのである。

そして出産を決めたときから、あの男の子は弥生さんの前には姿を現さなくなっていた。
弥生さんは両親の反対を押し切って出産、その後は実家にも居辛くなり、子供が3歳になると家を出て親子で暮らし始めたが、事務の仕事も見つけ、苦しいながらも自立した生活の中で頑張っていった。

弥生さんはある日、この日は休日で会社も休みだったが、息子さんの健一君(4歳、仮名)に昼食を食べさせると、お腹が一杯になったことからふと眠気に襲われ、うたた寝をした。
それはまだ大学へ通っている頃の夢だったが、その夢の中で彼女は、むかし自分の目の前で男の子が川へ飛び込んでしまうあの夢を見ていた。

「待って、落ちちゃだめだ、落ちないで・・・」彼女は夢の中でそう叫んでいたが、その瞬間はっと目が覚めた。
そして目を開けた弥生さん、だがそこには何と今夢の中にいた男の子が、自分を心配そうに覗き込んでいるではないか・・・。

そう育児ですっかり忘れていたが、あの出産を迷っていた時に自分の目の前に現れた男の子は、4歳になったときの自分の子供だったのだ。
弥生さんは思わず健一君を強く抱きしめると、「ごめんね、ごめんね・・・」と泣いていた。

この話はある超常現象を研究をしていた、無名の人物が1984年に取材した話によるものだが、どうやらこの話を使った小説や脚本を書いた者が他にいるようで、その信憑性は低いかも知れない。
が、私は何となく信じている、と言うよりは信じたいと思っている。

世の中には多くの人に祝福されて産まれてくる子どももいれば、こうしてただ母親だけの信念によって、誰にも祝福されずに生まれてくる子供もいるが、長じてどちらが幸福になるかは決まってはいない。
どちらが社会や人のためになる生き方をするかは、その祝福の大小で決まっている訳ではない。

それにしても弥生さんが出産前に見ていた男の子が、4歳の頃の健一君だったとしたら、何が過去で何が未来で、何が現在なのだろうか・・・。




お母さん・・・(1)

今夜は昔短編小説やテレビドラマにもなったことがあるから,知っている人もいるかも知れないが、こうした話のもとになったと思われる、ある母と子の話、実際にあった話だが、これを紹介しておこうか・・・。

1978年6月21日、大村弥生さん(21歳・仮名)は友人たちと入ったレストランで、定食を注文するが、やがて出来上がって運ばれてきたフライの定食に箸を付けようとしたところ、なぜかご飯のその湯気の臭いが鼻について仕方ない、それも米ぬかの臭いがひどく、思わず吐きそうになったので、友人たちにこう尋ねる。

「ねぇ、このご飯臭いがしない・・・」
それに対してすでに定職のご飯を食べ初めていた友人は「え・・、そんな臭いなんかしないわよ」と笑って答えた。
仕方ない、気のせいかな・・・、弥生さんはそう思って今度はご飯以外のフライに箸を伸ばすが、どうもその日はおかしかった。
今度はそのフライの油の臭いがして、どうしても口に入れることができなかったのだ。

結局せっかく注文した定食の吸い物と漬物、それに野菜サラダだけ食べた弥生さんは、それから友人と別れて家へ帰ったが、こうしてなぜか食べ物のにおいが鼻について、ご飯が食べられない状態が2日ほど続いただろうか、弥生さんの母親の香津美さん(48歳・仮名)は、そうした娘のありように、弥生さんに意外なことを尋ねた。

「弥生、あなた妊娠しているんじゃない」
香津美さんは半ば冗談のようにそう言ったが、これに意外な反応を示したのは弥生さんだった。

「そんなこと、あるわけないじゃない」と答えたものの、明らかに狼狽した弥生さんに疑いを持った香津美さんは、その夜夫の俊夫さん(47歳・仮名)に相談、翌日には娘を引きずるようにして少し離れた町の産婦人科医院へ連れて行った。

「おめでとうございます。妊娠3ヶ月ですよ」
診察を終えた眼鏡の老医師の言葉に、弥生さんは一瞬で血の気が引いたようになり、母親の香津美さんも看護士からこのことを聞いた瞬間、険しい顔つきになっていた。

有名私立大学3年、あと1年頑張れば卒業と言うこの時期に妊娠とは・・・
その夜弥生さんは両親から厳しく問い詰められた。
相手は、そしてどう言った男なのか、家柄はなど事細かに聞き出した弥生さんの両親は、取り合えず翌日その同じ大学へ通う男性を呼び出そうとするが、その男性の返事はそっけないものだった。

確かに自分は弥生さんとは付き合っていた、しかし弥生さんには他にも男がいて、子どもはそっちの男との子どもではないのかと言うのである。
電話口では両親から代わった、弥生さんが泣きながら男に訴えていた。
「卒業して就職が決まったら結婚してくれるって言ったじゃない・・・」

「何をバカなことを言ってるんだ、大学卒業できなかったら就職もできないんだぞ、第一俺がそんな約束などした憶えはない」
弥生さんは男のその言葉に目の前が真っ白になり、受話器を持ったままその場に座り込んでしまった。

弥生さんにとってその男、(結城芳春・21歳・仮名)は始めての男だった。
両親とも教師をつめる家庭で、兄も大学を終わって数年前から教師をしている、また自分も教師を目指している割と厳しい家にあって、これまで勉強ばかり、男性経験のなかった弥生さんにとって、あちこちに女がいる結城の言葉は優しく、そして嬉しかった。

だから信じたのに・・・、親の目を盗んで僅か数回だが弥生さんは結城と関係を持ち、その僅かな過ちがこうして妊娠と言う重い結果をもたらしたのだった。

結城は本当に無責任な男だった、しまいには電話をしても電話線が抜かれているのか電話にも出ない、また弥生さんの両親がアパートを訪ねても、出てくることもなく、その内、結城の両親だと名乗る夫婦が弥生さんの家を訪ねてくるが、息子に妙な言いがかりを付けてどう言うつもりだ、自分の家では医師や弁護士なども親戚に多くいる由緒正しい家だから、これ以上文句を言うなら考えがある,、とまでいきまく始末だった。

それでも一応は付き合っていたことは確かなようだからと、手渡された20万円の現金を眺めながら、弥生さんは涙が止まらなかった。

それから大学に行っても弥生さんの姿を見ると、結城は逃げるようにしていなくなり、弥生さんの両親も娘はおろか、やっと教員になった息子のことや、自分たちの立場もあって、その将来を考えると、泣く泣くこれ以上騒ぐことができなくなっていったのである。

7月4日、弥生さんは母親に連れられてこの間の産婦人科医院を訪れていた。
あんな男の子ども、産まれたからと言ってろくなことにはならない、しっかり大学を卒業して、それからもまた相手は見つかるから、今のうちに子どもは堕胎してすべて忘れてしまいなさい、が今回の顛末に対する両親の意見だった。

しかも妊娠3ヶ月のうちならまだ母体にかかる負担は少なくて済む。
こうした母親の言葉に促された弥生さんは、この間と同じ老医師に堕胎の意思を伝えた。

「何となく、そんな気がしていましたが、やはりそうしますか・・・」
「はい・・・」弥生さんは下を向いたまま元気なく答えた。
「分かりました」老医師はめがねの奥から優しい目で弥生さんを見ると、こう返事をしたがその後、こんな話を続ける。

「大村さん、では一週間後に処置を行いましょう、大丈夫ですから・・・」と言うのである。
当然今日にも堕胎手術をされるものと思っていた弥生さん、これには少し拍子抜けしたものの、この老医師や看護士に見送られて母親と2人、帰宅の途についた。

そして不思議なことはこの直後から始まっていくのである。

「お母さん・・・」・2に続く。










国際連合

「次からお前が家族分の小麦を受け取りに来い、いいな」そういって男は少女の胸と尻を粗末な服の上から撫で回したが、それに驚いたような顔をした少女に対してさらに男はこう言う、「いいかこのことは誰にも言うんじゃないぞ、もし誰かに話したらお前には小麦をやらないからな・・・」

それからと言うもの、食料支援を受け取りに行くのは必ずこの少女の仕事になり、少女は男から毎回体を触られるなどし、そのうち男は少女に対して暴行を働くようになったが、こうした事実を少女はおろか、その家族ですら知りながら誰にも言えなかった。

その背景には唯でさえ食糧難のアフリカで、小麦の援助は家族の人数に応じて支給されることになってはいたものの、このようなことでもなければ、少しでも余計に小麦を貰えなかったからであり、この男は小麦を支給する立場にあって、それを利用しこの少女と同じような手口で、他にも数十名の少女に暴行を働いていたのである。

その結果どうなったかと言うと、この男の所へ食料の支給を受けに来るのは、全員14歳から18歳までの少女と言う事態となり、彼女たちは列を成して支給日には並んでいて、他の職員たちもこうした事実に気づき始めていたが、なぜか誰も内部告発するものがいなかったのである。
1980年代アフリカ、地名や個人名は出せないが、この事件は実際にあった話である。

この当時アフリカの食糧援助事業に携わっていた国連職員の中には、もちろん大部分は使命感に燃えて救済事業に汗を流していた者が多かったが、一部では食料の支給に絡んで多くの少女に暴行を働いた職員がいて、このことは当時少しだけ問題にはなったが、その後やはり「援助」と言う大儀名文の影に、こうした話は影を潜めてしまった。

さらに多額の援助資金は不安定なアフリカの政治体制の中、政権と癒着した国連職員によって資金還流され、職員の懐に入れられていたと言う事実も少なからず横行していたが、こうしたことが許された背景には、それほど混乱したアフリカの姿があったからだ。

また以前に聞いた話だが、日本が国連の常任理事国入りを目指していた頃、実際に外務省関係者がアフリカの代表からこんな話をされたことがある。

「常任理事国なんて簡単ですよ、現在国連の加盟国は192の国ですが、その殆どが貧しい国です。
そしてこの貧しい国も1票を持っています。
日本はバンバン金を使ってそうした貧しい国から一票を買えば良い、すぐに常任理事国になれますよ」、と言うことだ。

この話、実際に常任理事国となると、拒否権を持つ国の問題もあることから、そのまま受け取ることはできないが、これまでの非常任理事国の選挙でも、多額の工作資金を使ってきた日本に対する言葉としたら、少々足元を見られた話ではある。

だがこの国際連合、もともとは太平洋戦争時の日本、イタリア、ドイツと言った枢軸国に対する国家連合から移行したもので、例えば韓国などでは「国際連合」と同じ意味を用いているが、中国や台湾などでは国家連合のままの意味であり、国際連合は部分的とは言え、戦時の国家連合の要素もそのまま移行してきている部分がある。

その最たるものが「敵国条項」と言うものだが、これは第二次世界大戦当時、日本、イタリア、ドイツなどと言った枢軸国、これにルーマニア、ハンガリー、フィンランド、ブルガリアを加えた7カ国に対して、国際連合発足当時の加盟51カ国が、加盟国に敵対する存在として定義したものであり、この条項にはその後、具体的な国家の名前が記載されないことになってから、逆にうがった見方もできてしまうのは事実である。
国連に加盟すると同時に条項から除外されることになるため、実質効力はないものの、日本やドイツは戦争を彷彿とさせる、このような条項の削除を求めてきているが、未だにこの条項の削除は実現していない。

そして日本が求めている常任理事国入りの件だが、実はこの日本の希望は非常に難しい、と言うより絶対に実現しない。
その理由はまず日本国憲法第9条の規定であり、これによりいかなる軍事行動も行わないとした日本では、集団的自衛権が日本国内において容認されるようなことでもなければ、まず他国で軍事行動ができない。

またイタリアはともかく、現在の常任理事国内部ではドイツ、日本に対しては潜在的な脅威があり、これはヨーロッパのほかの諸国やアメリカなどでは絶対に表に出ないものの、日本とドイツには「核兵器を持たせない」と言う不文律が働いていることからも伺える話だが、それ以前に近隣諸国の利害関係からも、例えば日本に対しては韓国、ドイツに対してはイタリアがそれぞれに反対していった。

またこうした常任理事国入りにいては、それぞれに経済的な力を付けたブラジルやインドなども、同じ方向へと動いてくることになり、日本やドイツはこれらの国々と協調して常任理事国入りを目指したが、この動きが起こってきたのはイラク戦争が始まった頃、国連がアメリカの意思だけで動いていく傾向に対する批判から、国連改革が謳われ始めてきた時期だったが、アメリカはこうした批判をかわすとともに、日本、ドイツ、インド、ブラジルの結束を乱すために日本のみの常連理事国入りを表明する。

何ともしたたかな方法だが、これによって日本はイラク戦争に反対できなくなっていったのである。

また同じ動きとしてドイツにはフランスが常任理事国入りを支持したが、イタリアはこれに猛反発、ブラジルにはアルゼンチンが、インドにはパキスタンがと言う具合に、常任理事国入りを目指す国のライバル国家によっても、激しい4カ国の常任理事国入り反対運度が起こるのである。

そしてこうした常任理事国問題は世界的な経済危機とあいまって、遅れている国連改革の中に埋没し、今では国連内部でも、常任理事国内部でも話し合われることはなくなったのではないだろうか。

国連の決議は一般議案が加盟国がそれぞれに持つ、1国1票によって過半数の多数決で決議されるが、重要決議はその3分の2の賛成が必要となり、しかもその決議には法的権限がなく、加盟国への勧告と常任理事会への勧告と言うことまでに留まり、結果として法的根拠を持つ決議権は常任理事会、常任理事国しか持っていないのである。

こうした実情の中で、所詮はアメリカの注文伺いでしかない日本が、常任理事国になったところで、アメリカが2票持つだけだと言う中国、ロシアの思惑を払拭するだけの事実が、いまだ日本には見当たらない。

そして日本は、2000年には実に国連の予算の20%を負担していたのだが、もともと国連には特定の国家が経済的な支配を強めないように、1国家が国連総予算に対して拠出できる「負担率」に上限を設けてあり、この最高位にあるのがアメリカの22% で、当時の日本の拠出額は異常だったことから、日本はこうした拠出額でありながら、常任理事国入りができないのはおかしいと言う苦言を国連に呈するが、常任理事国入りも、拠出金の負担率軽減も国連は認めなかった。

その後日本の経済的な悪化から、現在は国連予算の16・62%を日本が拠出しているが、第1位のアメリカはともかく、日本が2位でこの割合である。
ちなみにイギリス6・64%、フランス6・3%、中国に至ってはあの大国が2・66%、経済大国のロシアでも、負担率は1・10%と言う国連の負担率評価なのである。

更に凄いのはこうした国連拠出金の滞納である。

通常国連の予算決算は12月に行われ、分担金の拠出は翌年の1月に請求されるが、そこから30日以内の納付が義務付けられている。
しかしこれに対してアメリカの滞納率は請求の30% が、中国が請求の65%を、そして韓国が85%もの拠出金を滞納していて、国連事務総長がパン・ギブンな訳である。

ちなみに国連予算負担割合の下限は0・001%であり、こうした国の1票も日本の1票も何も変わらない・・・。
これが国連の良いところであり、少しだけ面白くないところでもあろうか・・・。




我が円を踏むな・・・

直角三角形の直角をはさむ2辺のそれぞれの辺の長さを2乗したものの和は、その対角にある辺の長さを2乗したものと等しい.
これは有名なピタゴラスの定理だが、今夜は少し数学の話をしてみようか・・・。

ピタゴラスの定理は、その名前からピタゴラスが見つけた数学の理論だと思うかもしれないが、実はこの定理はかなり古くから経験上の法則として人々が知っていた知恵であり、古代エジプトでは3・4・5の割合の辺を持つ三角形を描くと、その3と4の辺が結ばれる角度が常に90度にしかならないことが分かっていて、これは例えば何かの高さを測るときに既に使われていたようである。

またバビロニア、ここでも5・12・13の割合で描かれた三角形は、5と12の辺が結ばれる部分の角度が、やはり90度にしかならないことが分かっていた。
そしてこうした三角形の法則から、5を2乗したものと12を2乗したものを足すと、13の2乗になることも知っていて、しかもそれは既にこの時点でもポピュラーな生活上の知恵だった。

ピタゴラスは勉強のため長い間エジプトへ留学し、またバビロニアへも行っていたとされることから、エジプトやバビロニアでこのことを知り、それを三角形の法則として証明していったのかも知れない。

そして面白いもので天才と言うのは地球上均等に現れるようで、これより時代は下るが、日本でもこのピタゴラスの定理の証明に成功したものがいて、その名は建部賢弘(たけべ・かたひろ・1664年~1737年)と言った。
彼は正方形上に2つの三角形を描き、その辺の1つから更に正方形を描く方法で、この定理を証明しているが、この証明の仕方はピタゴラスの証明とは別の証明方法であり、中国でも梅文鼎(ばいぶんてい・1633年~1721年)が、やはり建部賢弘と同じ方法で、ピタゴラスの定理の証明に成功している。

更にターレスと言う数学者が唱えた法則、三角形の内角の和は180度と言う理論だが、ターレスがどのようにこれを証明したかは分かっておらず、これを後年ピタゴラスが開いたピタゴラス学派では、平行な2本の線と、これに交わる1本の斜めの直線の関係から証明し、こうした証明とピタゴラスの定理の応用で、この世でもっとも安定し、美しいと言われる「黄金分割比」を求め出したのであり、その比率は0・618対0・382となっている。

だがこうした比率は本来何も計算しなくても、全人類が共通して持つ人間の比率とも言うべきものであり、いかなる時代、いかなる民族であっても、やはり同じような比率をもっとも安定して好むことから、ピタゴラス学派の黄金分割比はむしろ自然、人間摂理の数値化と証明という側面を持っていたのではないだろうか。

例えば日本の和紙のサイズ、1対√2の現在のA版洋紙サイズ、または日本にある和室テーブルでも3尺に5尺(90cmX150cm)と言うサイズは、これに近いものと言えるのではないか。

また数学の歴史上初めて円周率を小数点以下2桁まで求めたのは、円を6角形の倍数多角形として考えて行ったアルキメデスだが、彼の求めたその最初の数値は3・1408<円周率<3・1428だった。
つまり確定数値ではなく幅がある答えなのだが、3・14まではここで求められており、これは偉大な発見と言える。

ただ、もともと円周率の1桁目ははるか昔から分かっていて、その数値は凡そ3であることは、例えば4000年、6000年前から、こちらも人間の経験則から分かっていたものと思われるが、ソロモンの寺院建築記録の中には大きな洗濯桶の記録があり、そこでは「直径が10エレンなら、その周囲は30エレンである」と記録されている。

またユダヤ法典でも、「周りが手の幅3つある物の差し渡しは手の幅1つである」となっていて、中国の古い記録でも「内径8尺、周2丈4尺」、つまりここにある1丈と言う単位は10尺であることから、8尺を3倍する24尺としているのである。

そしてこれはやはりエジプトなのだが、実はエジプトでは、はるか昔から円の面積を求める数式がすで存在し、これによってエジプトではアルキメデスよりはるか以前に、円周率が小数点以下まで求められていた。

アーメスのパピルスにはこうある。
「円の面積を求めるには、直径からその9分の1を引いて、2乗すればよい・・・」
そしてこれを計算すると、3・1604となっているのである。

エジプト人は経験から円周率を計算し続ければ、それが無限に連続する数字になることを知っていたようであり、惜しむらくはこの小数点以下の6だが、この計算式による円周率の精度は極めて高いと言わざるを得ない。

さて、今夜は少し難しい話になったかも知れないが、最後にアルキメデスの逸話を少し書いて終わりにしようか・・・。

当時ローマと対立していたシラクサ、アルキメデスはこのシラクサの軍事顧問として活躍し、投石器を開発、また太陽光線を反射させ、それを一点に集めてローマの艦隊を焼き払ったとも言われているが、こうしたアルキメデスの知恵も、何分多勢に無勢ではいかんともしがたく、ついにシラクサはローマ軍によって囲まれてしまった。

当時アルキメデスは幾何学を研究するとき板に砂をまいて、そこに図形を描いていたが、同じ状況であれば床にたまった埃の上でも同じように図形を描いていた。

ローマの兵士がアルキメデスの家へ押し入ったとき、アルキメデスは部屋の床にたまった埃で円を描いていたと言われている。

そしてそんなことを知らないローマの兵士は、アルキメデスの円をドタドタ踏んで入ってきたが、それに対してアルキメデスはこう叫ぶ・・・。
「我が、円を踏むな」
だが言葉が分からなかったローマ軍兵士は、アルキメデスを切り殺してしまうのである。

円周率は現在でもその小数点以下が計算され続けている。
そしてそこに並ぶ数字だが、1から9までの、どの数字が一番多く出てくるかを見てみると、面白いことに、ほぼどの数字も均等に出てくる傾向にある・・・。




その顔はどうした・・・

まだ幼いころだったが、私たち子供にとっては秋と言う季節は大変重要な季節だった。

何よりも嬉しかったのは、出稼ぎで加賀へ稲刈りに言っている母親や祖母が帰ってくることで、私たちが幼い頃、この地域の女性はみんな8月の終わりから加賀(石川県)へ稲刈りの出稼ぎに行き、それで一家の家計の足しにしていたのだが、そのおかげで10月前後まで家には女たちがいない時期があった。

また父親や祖父が炭焼きをしていた私の家では、窯に火が入ると父親も祖父も家に帰って来れず、こうした時期、まだ4、5歳だった弟と私だけで夜を過ごす日も多かった。

多分私とてその当時は7歳か8歳にしかなっていなかっただろうが、それでも米をといでご飯を炊き、惣菜は作れなかったから、父親が置いていった「福神漬け」でご飯を食べていると、弟が「母ちゃん・・・」と言って泣き出し、困った記憶がかすかに残っている。

女たちは10月になると帰ってくるのだが、その日は本当に嬉しかったものだ・・・。
普段は食べれないようなお菓子や梨、それにお土産のおもちゃなどを担いだ母親や祖母が家に帰ってくると、まるで明るい陽が差したような思いがしたもので、私は風呂に薪をくべて、これを待っていたものだった。

そしてこうして女たちが帰ってくると、今度は自分の家の稲刈りが始まるのだが、お土産やお菓子を貰った手前、手伝わないわけにはいかず、毎晩遅くまでこき使われながら、それでも大きな月に照らされて、刈り取った稲をハザと言う平面櫓(やぐら)に掛ける作業をしていると、子どもながらにも働くこと、誰かの役に立つことの充足感を感じたものだった。

だが子供とって秋の重要性はこれだけではない、その一つが栗だったが、シバ栗は当時1升(約1・75リットル)が300円くらいで売れていたことから、これが大きかった。

一斗(1升の10倍)も拾えば3000円にもなり、これは当時のあんぱんで換算すると、200個のあんぱんが買える金額だったことから、私たち子供は時間さえあれば山へ栗拾いに行っていたものだったが、シバ栗は現在市場に出ているあの大きな栗とは違って小さく、なかなか1升拾うのは難儀なことではあったが、こうした子どもが拾う栗の収入でも、一秋に1万円とか言う事があったものだ。

そして山に入って一番気になるのが「あけび」だったが、私たち子供の中では、誰が一番大きくて美しい「あけび」を取ったかと言うことは非常に大きな意味があって、一番大きくて見事な「あけび」を取った者はある種、尊敬の対象でもあったような気がする。

ある日、近所の私よりは1つ年下の男の子と2人で山に入った私は、偶然にも結構高い木の枝にぶら下がる大きな「あけび」を見つけ、しかもそれが20個ほど鈴成りになっていたことから、これを取れば今年の「あけび」1番は自分のものだなと思ったのだが、惜しいかなそのすぐ近くに「黄色スズメバチ」が巣を作っていて、それも結構な大きさがあった。

そしてどうもみながこの「あけび」を狙っていたようだが、スズメバチの巣が恐ろしくて「あけび」が取れなかったことを察知した私は、その日は諦めたが、どうしても諦めることができず、翌日、昨日の男の子と2人で竹ざおを持ってこの「あけび」収奪作戦を敢行した。

まず条件は一番大きな「あけび」はわたしのもの、2番目に大きなものは近所の男の子のもの、2人で1位、2位を独占すると言うことで、竹ざおで蜂の巣を落として逃げて、暫らくして蜂がいなくなったら、「あけび」を取りに木に登ろうと言う作戦だった。

昨日の場所にたどり着いた私たちは、蜂に気づかれないようにそーっと近づき、そして一気に蜂の巣を長い竹ざおでつついた。
が、蜂の巣はなかなか大きくて落ちない、あせった私たちは更に激しく蜂の巣を叩いたが、これに怒ったのはスズメバチ達だった。

物凄い勢いで何百匹と言うスズメバチが、アッと言う間に私と近所の子の体にたかり、あちこちを刺し始め、私たちは頭と言わず顔と言わず、背中と言わず、殆ど全身を刺され、それを手で振り払いながら必死で逃げたが、家に帰り着いてもまだ数匹の蜂が服の上にしがみついていて、おそらく1人あたり40箇所以上は刺されてしまったのではなかっただろうか。

ここまで徹底的に刺されると、どこが痛いのかさえも分からなくなるものだ。
頭や顔はあちこち腫れてぼこぼこになり、心臓が脈うつたびに全身を激痛が走り、あれはひどかったものだ・・・。
が、その日の夕方晩御飯を食べていると、こうした私の姿を見た母親が言ったものだ、「その顔はどうした」。

それに対してまさか「あけび」欲しさに、スズメバチの巣を叩いたとも言えなかった私は「ちょっと蜂に刺された」と答えたが、それを黙って聞いていた母親は「ふーん」とだけ言って、そのまま我が家の食卓では食事が続けられたのだった。

おかしなもので私は今でもそうだが、この頃から蜂をそう大したものだとは考えておらず、このときも1週間ほどは腫れたが、その後は自然に治ってしまった。

そして体中のボコボコが治ったころ、私は相変わらずあの「あけび」のことが諦められず、くだんの山へ行ってみたのだが、何と巣を壊された蜂は付近にはおらず、見事な「あけび」が少し色は悪くなったがそのままになっていた。

これはしめしめと思った私は心踊る気分で木にのぼり、腰に差しておいた鎌であけびのつるを切り、一気に20個ほどの「あけび」を地面に切り落とした。
そして喜び勇んでそれらの「あけび」の中を開いた私は、ショックでめまいがしたものだった。

何とあけびの中身は鳥か虫、或いは蜂なのかも知れないが、そうしたものによって殆どすべて、食い荒らされていたのである。
何だこんなものの為に、あんな痛い思いまでしたのか、私はガックリきてしまい、夕焼けのきれいな山道を一人トボトボと帰宅した・・・。

今でもこうして夕焼けのきれいな日には思い出す・・・。
ああした秋、蜂に刺されたこと、そして「あけび」の中身が食い荒らされていてガックリしたこと・・・。

しかしそうしたものであっても、遠い記憶を辿れば、きっと私の口元は緩んでいるに違いない・・・。



遠い道を行く

アフガニスタンでは大統領選挙がかなり手間取っているようだが、どうもカルザイ大統領の再選は決選投票に持ち越される可能性が高く、こうした事情から混迷を深めるアフガン情勢は、その先になかなか光が見えて来ない・・・、と言うよりその闇は深まったのではないだろうか。

ハミド・カルザイのやり方は「言うことを聞く者には金、そうでないものは攻撃」と言う図式だったが、結果としてそれならと思い我慢した者たちに、そうした我慢の代償である約束すら実行できなかった。
こうした事情の中で貧しい地域には物資を配り、アヘン生産農家には金を出していったタリバン勢力は、深く民衆の中に浸透していったが、このような傾向はパレスチナ情勢と酷似するものがある。

また今回の大統領選挙でも、カルザイは権力と金を使い、各地域の有力者たちに公然と金を配る、また援助を約束、そのためにあちこちで不正が露見し、現状ではいかに投票結果でカルザイが50%以上の指示を受けたと発表しても、アフガニスタン国民の誰もそれを納得はできないだろう。

そしてタリバン勢力は確実にアフガニスタンで勢力を拡大しつつあり、国連軍やアメリカの軍事展開では、すでにアフガニスタンに秩序をもたらすことは不可能になってきている。

これはフランスが、これ以上フランス軍の増派をしないことを表明しただけでなく、イタリア軍においては、自国軍への攻撃を避けるために、タリバンに金を渡していたことが発覚したことを見ても明白だが、カルザイ政権を支持してきたアメリカが、すでにアフガニスタンに措ける身内からの信頼をも失っていることを意味している。

加えてこれ以上カルザイが好き勝手していけば、アメリカは唯一の合法性であるカルザイですら支持しにくくなり、そこにタリバンに対するイスラム勢力の支援体制が強化されれば、結果としてアフガニスタンの混乱は底なし沼になり、アメリカの無条件撤退と言う事態が訪れることはまず間違いがないだろう、しかもその撤退の時期は2年以内になる可能性が高い。

そしてこうした事態になった場合、まず一番に考えられるのは、イスラエルのイラン空爆と言うことになるのではないだろうか。
もともとアフガニスタンの混乱は、タリバン対アメリカのように見えながら、実はイスラム対アメリカ、イスラム対イスラエルの代理と言う側面、いやおそらくこちらが本旨だろうが、そうしたものだった。

ここでアメリカがアフガニスタンからの撤退と言う事態が起こると、相対的に中央アジアから中東までのイスラム過激派が野放しの状態になり、こうした傾向の中心にイランがある。

イランの長距離爆弾はイスラエルに向けられていることは誰もが知る事実であり、これに加え周囲を同じイスラム勢力で守られたイランは、核爆弾の開発がしやすくなる情勢が生まれ、これを恐れるイスラエルは、核配備が完成するまでにイランの施設を空爆する可能性が高いのである。

そしてこれはそのまま行けば第5次中東戦争に発展する.。
これは避けたい、何とか万一イランが空爆されても多少の非難で終わらせ、中東戦争に発展させないようにしておかねばならない。

このような考えから、イランの核開発を世界平和を乱すものとし、イランは悪い国だ・・・と言うイメージを作っておく、国連と言う世界組織を通して万一イランが空爆されても、それはイラン自身の責任だとするための努力が、ブッシュ前アメリカ大統領によって行われていたのであり、「悪の枢軸」と言う表現はそうした背景を持っていた。

アメリカにとってはイラク戦争がもっと早く解決できていれば、次はイランだと言う思いもあったかも知れない・・・。
がしかしイラクで思わぬ手間がかかったことから、当初のシナリオは「イランを潰す」だったものの、途中から変更になった可能性があり、こうした背景からアフガニスタンからの撤退がなくても、イスラエルのイラン空爆は有り得たわけで、それはひとえにイランの核開発の進捗状況にかかっていたが、ここに来てこのイラン空爆のタイミングが、アメリカのアフガニスタン撤退と言う時期的に予想可能なタイミングになってきたのではないだろうか。

今日アメリカ大統領オバマは、この段階でもアフガニスタンからの撤退は考えていないかもしれないが、世界情勢としてみれば、アメリカのアフガニスタン無条件撤退は、いずれかの時期、避けられないものとなるだろう。
そしてそのとき、前アメリカ大統領ブッシュが用心のために手を打っておいた国連によるイランの「悪の枢軸」プロパガンダが効力を発揮してくるものと思われる。
すなわちイスラエルのイラン空爆に対する国連による容認、もしくは無干渉と言う処置だ。

しかしどうだろう、自分がピストルを持っていて、それは保管しながら気に入らない考えの相手にピストルを持つなと言うことが、本当に正義だろうか。
また自分は10丁のピストルを持っていたが、これを半分に減らしましたは一体何の変化なのだろう。

勿論それは何がしかの進展ではあるが、少なくともイランやパレスチナに取っては、何も変わらないことなのではないだろうか。

また自国に当てはめて考えてみると良い、将来どこかの時点で自国が空爆を受ける恐れがあり、そのとき国が空爆されたのは自国の責任でそうなったとされるような、「悪の枢軸」と言う運動を国連で展開されて、嬉しいだろうか。

アメリカの戦略は自国こそが世界ナンバー1であり、こうした思想は例えばステルス戦闘機についても、そのステルス性能、スピードでは高い性能を持つF22は製造を中止し、これより劣るF35を日本に導入するよう働きかけ、結局世界最高峰の戦闘能力を持つ戦闘機は外へは出さず、わざと少し性能が落ちる戦闘機を日本に買えと言っているのだ。

同盟国ですらこの扱いである。
現在の合衆国大統領オバマは、おそらく歴代大統領の中ではもっとも覚悟のない大統領になるだろう。
そしてその結果がもたらすものは、イスラエルのイラン空爆である可能性が高い。

民主党政権が発足して「国家戦略局」も創設された日本、菅直人大臣はこうした世界的な状況分析をしているだろうか、そしてこうしたことを踏まえて日本がとるべき態度や、イランとの関係を考えているだろうか。
日本が国際社会で平和のために果たせることは、日本が考えるよりは大きいことを、その頭の中に入れておいて欲しいものである。



風を追い越して・・・

夏の日、しかも夕方になって、殆ど残っている者もいないこの学校へと続く坂道を、3分の1ほどの水が入ったバケツを両手に持ち、彼女は口から心臓が飛び出るのではないかと思われるほど激しい呼吸で、何度も走って駆け上がっていた。

当初私は、たまに遭遇するこうした彼女の練習を横目で見ていて「多分宿題を忘れたか、遅刻して先生から罰をうけているのかな・・・」ぐらいしか思っていなかったが、あれは高校2年生の夏だったか。
ふとしたことがきっかけで付き合うとまでは行かないが、仲良くなった彼女から、バケツダッシュは彼女が自身に課しているトレーニングだと言うことを聞かされて、少しずつ彼女に心魅かれて行ったことは事実だった。

私のクラスでは陸上部に所属していたのは、私と彼女しかいなかったが、彼女は短距離で自分は高飛びだったこと、また男女それぞれの部活だったことから、それほど親しいという訳ではなく、気の強い彼女は同じクラスとは言え、私にはどちらかと言えば苦手な存在だったが、たまたま陸上競技の大会が重なり、林間学校へ参加できなかった私たちは、陸上競技大会では予選落ちしてしまったものの、帰りの電車で一緒に帰ることになり、いろいろ話している内に加速度がついたようにして親しくなっていった。

そして翌日、林間学校へ行けなくなったので、それまで積み立てられていた費用を前もって返金されていた私たちは、本当はこのお金は両親に返さなければいけなかったものだったが、それを返さず、夏休みだったこともあり、2人で少し離れた街まで映画を観にいったが、いつも彼女と言えばトレーニングウェアか制服姿しか見たことがなかった私は、可愛らしい黄色のワンピース姿で駅に現れた彼女に、「見慣れないから何か別人のようだ・・・」などと言ってしまい、それに対して彼女もジーンズに薄いパープルのTシャツ姿の私に「あなたこそ、何かおかしい」と笑った。

映画は特に観たいものがあってと言うより、2人でもっと喋っていたかったと言うのが本当のところだったから、何でも良かったのだが、取り合えずと思って入った映画館で上映していたのは、血がドーと流れ、キャーと言う悲鳴が続く恐怖映画で、これを2人で黙って観ていたが、しまった何かもう少し気の利いたものにしておけばよかったと思ったものの、すでに遅かった。

しかし映画館を出て公園や街角を2人で歩き、いろんなことを話した私たちは、気心の知れた感じになり、帰りは相当遅くなってしまったので、私は彼女を家まで送って行ったが、その帰り際、こうした場面では手の一つも握ったり、キスの一つもと思いながらも、何もできずに「じゃ・・」などと言って爽やかに家へ帰った私は、後であれもこれもと後悔していた。

彼女はいつも言っていた、誰よりも早く走りたい、負けたくない・・・と、そしてそれは私も同じだった。   
誰よりも高く、もっと高く飛びたいと・・・いつも思っていた。

それから私たちはどちらかが遅くなると、その練習が終わるのをを待って一緒に帰るようになっていったが、こうした中で彼女は500メートルはあっただろうか、学校へ上がる坂道を毎日、水の入ったバケツを持って走ってからトレーニングを終わりにするため、いつも私がそれを待っていることが多かった。

私たちはあの時代を、あの風の中を走り抜けようとしていた。
もっと高く、もっと高く飛ぼうとしていた。
が、結局3年生になって最後の大会でも、私もそうだが、彼女もまた予選落ちになってしまった。

そして私と彼女はそれからもしばらくは付き合っていたが、高校卒業とともにお互い時間がなくて会えなくなり、そのまま今日に至っていた。

ところが最近、クラスメートだった別の女性から、くだんの彼女が重い病で入院しているので、他のクラスメート数人と一緒にお見舞いに行かないかと言う連絡を受けた私は、その日、皆と彼女が入院している病院へ向かった。

勿論このクラスメートが私のところへ連絡してきたのは、かつて私と彼女が付き合っていたことを知っていたからに他ならなかったが、彼女はあれから結婚したものの10年ほどして離婚、その後は母親と2人で生活していると言う話は聞いていたのだが、こうして実際に会うのはもう30年近く前のことになる。
やはり眼前をいろんな思いがよぎるのは仕方のないことだった。

彼女が入院している部屋には他にも4人の女性が入院していたが、彼女は一番ドアに近いところにあるベッドで寝ていて、私たちは静かにそこへ入ったが、彼女は昔から見ると随分やつれ、その髪にも白いものが目に付いた。
しかし顔の表情などは昔と何も変わらず、起きれなくて寝たままだが、皆がいろんな言葉をかけ、それに対して儚いほどに嬉しそうに答えていた。

私は彼女にいろんな言葉をかけようと心の中で準備していたのだが、いざ彼女を目の前にしたら、何もかも吹っ飛んでしまって、結局目を伏せたまま「早く良くなって・・・」などと言う月並みな言葉しか思い出せなくなってしまっていた。

やがてお見舞いを渡し、皆が病室を出て行こうとしたとき、一番最後になった私は彼女の言葉に足を止めた。
「○○、ありがとう」彼女は昔のまま、私を呼び捨てにし、その言葉に振り返った私は、また彼女の元へと戻ると、今度は「頑張って、元気になってくれ」と言い、恐る恐る彼女の頭に手を当ててみた。

本当は撫でようとしたのだが、それをすると何か大きな悲しみが襲ってきそうで、思わず手を止めたからだが、そうした私のことを分かってか、彼女はかすかに笑顔になると、「会えて嬉しかった」と言い、「俺も・・・」と答えた瞬間、30年前に戻ったような錯覚を覚えた。

だが相変わらず本当は違うのだが、またしても私は爽やかに「じゃ・・・」などと言って病室を後にした。
馬鹿だ、馬鹿だ、なぜ一言「好きだった」ぐらいが言えないのか、こうした年齢になったのだから、昔好きだったぐらい言うのは何でもないことなのに、それが言えない。
また例えそれを言ったからと言ってどうなる・・・、もう昔には戻れないのだ・・・。

家へ帰った私は、本当は昔は大嫌いだったZARD(ザード)の「時間の翼」をミニコンポに差し込み、窓を開けて青い空を眺めながら寝転んだ・・・、そしてhero(ヒーロー)が流れて、「あなただけが私のヒーローだから・・・」の歌詞が聞こえてきたら、なぜか涙が溢れ出てきた。

「あの自動販売機まで、せーので走ってみよう・・」

そうだ自分にも似たことがあった。
部活が終わり自動販売機でジュースを買おうとしたのだが、2人の有り金を集めてもファンタが1本しか買えなくて、半分ずつ飲むことになった。
そしてジャンケンして勝ったほうが先に飲むことになり、彼女がジャンケンに勝って先に飲んだが、半分どころか8割ほど飲んでしまったことがあった。

また初めて2人で映画を観にいったとき、本当は残った金で写真のリバーサルフィルムを買おうと、できるだけ金のかからないようにしていた、それも言わなかったけど許して欲しい・・・。
あの頃の自分は欲しいものだらけだった・・・。
しかし本当はすべて満たされていた。

それに気付くのにこんな時間がかかるなんて、そして今は思う、辛いことや悲しみ、それすらもこうしてどこかで人は満ちた足りたものとして感じるときがあることを・・・。
生きているとは何とすばらしいことなのか、何と美しいことなのだろう。
まるで水面に映る陽の光のような煌めき、それを眩しそうに眺めるような、このありようではないか・・・。

私たちはあの時も走っていたし、そして今も走っている。
いつか風を追い越して、高く、より高く飛ぼうとしている。

そうだ今度いつか彼女が良くなったら、ファンタを1本おごってやろう。
今度は半分ずつなんてケチなことは言わない。
1本丸ごと飲んで良い、そう言ってやろう・・・。








ほほえみ症候群

「河合くん、これは何だ、一体何回言えば分かるんだ」
○△商事販促部係長、「浦飯雄太」は今年入社した新人「河合エリカ」さんを呼びつけたが、どうもこのエリカさん、しっくり来ない。

やる気があるのか、ないのか・・・、たまにボーっとしているし、そうかと思えば必要以上に笑っていることもあるが、いつもニヤニヤしていると言うか、薄ら笑いのような笑いを浮かべていて、それで失敗ばかり。

「ちょっと・・、河合さん、これは何よ、もう入社して半年も経つんだから、せめて資料ぐらいは作れないと・・・」
ハイミスでこの道17年のベテラン「多田奈美子」もエリカさんを呼びつけ、資料のページが間違っていることを咎めるが、エリカさんはこのときも、ただひたすら謝り続け、そして無理したような薄い微笑みを浮かべていた。

「まったく、笑顔なら良いって言う問題じゃないわよ、馬鹿にしてるんじゃない」
多田奈美子は益々頭にきたようだったが、ヒールを返すと自分のデスクに戻っていった。
この光景、どこにでもあるような会社内部の風景だが、実は大変なことが潜んでいる可能性が高い。 河合エリカさんはもしかしたらある病気になっているかも知れないのだ。

今夜はうつ病の初期症状で、好景気の後、いきなり不景気なった社会で起こってくる社会現象、「ほほえみ症候群」について少し話しておこうか・・・。

1980年末まで続いた日本のバブル景気は、1991年2月ついに破綻、1992年、1993年と深刻な不景気になっていったが、どちらかといえば人口動態では若い女性が結婚適齢期の男性人口より少なく、この時期はいわば女の時代となっていた。

しかしこうした「女の時代」と言われながら、こと就職に関しては時代が「女の時代」に付いていっておらず、相変わらず男社会だった為、バブルが崩壊した1991年には大学卒業女子の就職状況は気象で言うと「雨」、それが1992年にはどしゃぶり、93年に至っては洪水になり、94年では氷河期と呼ばれるまで落ち込んでしまった。

このような女性の就職状況の中、男女雇用機会均等法の兼ね合いもあり、各企業は女性にも就職機会の門を開いているかに見えたが、その実情はすでに女性の社員は採用しないことが暗黙の規定となっていたり、最初から採用するつもりも無いのに本人を諦めさせるため、面接を行うなどの事態が発生していて、こうした面接ではわざと女性が嫌がることを聞く、つまりセクハラ面接などが横行していったのである。

そしてこうした時期の女性には更に不幸なことが起こり始めていた。
運良く何とか就職した女性たちを待っていたものは、景気ジェネレーションギャップだったのである。

これはどう言うことかと言うと、1991年までは日本は空前のバブル景気、自分が頑張りさえすれば欲しいものは全て手に入る時代、「行け行けどんどん」の時代だったわけだが、こうした社員が先輩として揃っている会社へ、言わば不景気で元気の無い、余り良い目にあったことが無い時代の女性新入社員が放り込まれたわけである。

この両者は互いが理解しあうことは困難で、社会がどんどん悪く、しかも収縮していく中で、会社と言う組織はたとえ業績が伸びなくても社員に「元気で頑張っている」状態を求め、そのため厳しい現実社会と、こうした頑張れば何とかなると言う、非常に精神論的な会社や先輩社員達との狭間で、言葉が信じられなくなり、自身の身の置き場、ひどい場合は自分がどう言う表情をして良いかすら分からなくなって、つまり精神的には初期の破綻をきたした女性が増えて行ったのである。

そしてこうした場合に決まって見られる表情が薄い笑い、微笑みで、これは相手に対して自分がどう言う表情をして良いのかが分からなくなった場合、苦し紛れにする人間の行動で、この状態が続いている時は自身の内部で価値基準や、判断ができない状況になっていると考えたほうが良い。

つまりこうだ、景気が悪い中、会社で必要な資料のコピーを取るのでも無駄が無いよう指示が出るが、では実際にちょうどの部数の資料を作った場合、もし足りなくなったらどうしようと思って、余分に5部ほど作ったとしようか・・・。
この場合「どうして君は会社が無駄を省けと言っているのに、それが分からんのかね」と言われ、ではちょうど必要な部数しか作らなかった場合はどうなるか・・・。
「会議の人数が変更になり「何で少しくらい余計に作っておかないかな・・・」と言うことになるが、こうしたことはすべて上司の気分でしかない。

この場合新入社員では、一体どうしたらいいか判断ができなくなり、次第にこうしたことが重なると、「何をしたらいいのか、自分のやることはすべて駄目なのでは・・・」と思うようになってしまう。
そこで先輩、上司に相談すれば、その先輩や上司はただひたすらに「頑張れ、そしたら先が見える」などと言ってくれる。

しかし現実にはどうなるかと言えば、そう言って頑張っていた上司がリストラされると言うような矛盾の前に、どうにも思考ができなくなって、ただ薄ら笑いを浮かべるだけになっていく。

こうした状態を「ほほえみ症候群」と言い、精神、神経学の観点から初期のうつ病として、通常の状態から区分を設け、治療の対象としたのだが、具体的にはどうなるかと言うと、いつもニコニコと薄く笑った状態になるが、何か仕事をしようとしても簡単なことが理由でそれができない、また通常だと何でもないことがはかどらず、それで叱るとさらに混乱して何もできなくなってしまう、そう言う症状になり、この場合「頑張って」などと言う言葉は本人を追い詰め、最終的には自殺と言った事態を招く場合がある。

そしてこの「ほほえみ症候群」、実はバブル期に青春時代だった教師と、中学生や小学生の間にも、同じような症状を生み出す場合がある。

バブル期に青春時代を迎えていた教師は、どこかで「頑張れば何とでもなれる」と言う部分があるが、では不景気のどん底にある社会では、家へ帰った時子供が見る親の現実は、到底頑張れば何とかなるものではなく、こうした事態に整合性が見出せなくなり、そこで教師から「頑張れ、頑張れ」と言われる児童、生徒はどうなるかと言えば、引きつったように薄い笑いしか返す表情が無くなるのである。

「ほほえみ症候群」は広義では「うつ病の初期症状」と言えるかもしれない。
しかし例え景気が悪くても、とりあえず元気で、健康的で頑張っていると言う「形」を求める日本の社会や企業と言う特性を考えたとき、これは世界的な区分として日本的疾患といえるのではないだろうか。

そして女性が下にも置かない扱いを受けた、ジュリアナ東京のお姉さま世代と、長い不景気の中で「この世はどちらかと言えば悪いことのほうが多いかも知れない」と思いながら育った世代では、同じ女性だと言う単位だけで考えていると、その内重大な疾患を抱えた女性が増えてくる可能性が否定できない。

最後に、実はこの「ほほえみ症候群」、バブル期の両親と、それが破綻してから産まれた子どもの間でも、同じようなことが考えられる事、現在「発達障害」と呼ばれている中でも、実はこの症状を曲解しているケースも有り得る事を記録しておこうか・・・・。

※ [本文中の固有名詞は全て「仮名」となっております]



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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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