つくね芋の雲

安政2年(1855年)10月2日(旧暦)の夕方、駒込白山下の質屋では、そろそろ日が暮れてきたこともあって、昼間は開けてある2階の部屋の雨戸を閉めようと、この店の丁稚が2階へ上がって行ったが、これがまた行ったきりでなかなか降りてこない。

「おいおい、一体何百枚の雨戸を閉めに行ってるんだ」店の番頭は茹でた卵と同じで、まったくかえってこない丁稚にぶつぶつ文句を言っていたが、やおら降りてきた丁稚はなにやら難しい顔をして、どことなく元気がなかった。

それを見た番頭、丁稚に何かあったのかと聞くと、丁稚は思いつめたようにこう言う。「今夜きっと地震が来る、しかもこの地震は大きい」

何を言うかと思えばまた縁起でもないことを・・・、番頭は一瞬ドキッとしたものの、「つまらないことを言っているんじゃないよ」と丁稚を叱り飛ばし、また元に戻ったが、どうにも気になって仕方ない、なにせこの前年、安政1年には安政東海地震(M8・4)と安政南海地震(M8・4)がたった1日違いできている。

そうでなくとも黒船が浦賀に現れてから右往左往のご時世、何があってあっても不思議はなかったが、地震、雷、火事、親父、泣く子と地頭には勝てまいだ。
何となく不安になった番頭は、暫くして店先に顔を出したこの店の主に、それとなくこの丁稚とのやり取りを話してしまう。

「おいおい、大地震とは穏やかじゃないね」、どうせ聞き流すだろうと思っていた店の主の意外な反応、それだけならまだしも番頭の話を聞いた主は、その丁稚をここへ呼ぶよう番頭に言いつける。

そして番頭に連れられて来た丁稚、番頭もそうだが、てっきり主からつまらないことを言ってサボるではない・・・、などと叱られることを覚悟していたが、これまた意外な事に主は丁稚をそこへ座らせると、なぜ今夜地震が来ると思うのか話してくれないか、と言うのである。

そして丁稚の話はこうである。
弘化4年(1847年)3月24日、この丁稚の出身は信州だったが、彼の父親はちょうど善光寺ご開帳のこの日、お参りから帰る途中、やはり既に夕方になっていたが、西の方の空に白雲が霞のようにたなびき、その反対の東の空にはまるで「つくね芋」のような雲が出ているのを目にする。

その日の夜9時頃だろうか、突然恐ろしいうなり声のような音がしたかと思うと、信州全体が縦に揺さぶられるような大地震に見舞われた。
善光寺地震(M7・4)である。

まだ幼かった丁稚は父親からこの話を幾度となく聞かされ育った。
そして幸か不幸か安政2年10月2日、何と同じ雲を雨戸を閉めに行って見てしまった丁稚は、「ああ、これで間違いなく大地震が来る」と思ったと言う訳である。

果たしてその結果は・・・、歴史が示す通り安政2年のこの日の夜、多分10時ごろかと思うが安政江戸地震(M6.9)が発生するのである。

これは「武者金吉」と言う学者が「日本地震資料」なる書籍を編纂したものの中に出てくる話だが、一般的に地震の前触れが空に現れるときは東の空が多く、気象的変化があるときは西の空に前触れが現れるようであり、そして今もって謎なのが、この話に出てくる「つくね芋」の雲だ。

あらゆる研究者がいながら、実際に「つくね芋」の雲を見たものは1人もいない。
そもそも、「つくね芋」とはどう言う形を言うのだろうか。

おそらく推測するに丸か楕円に近い不定形の形、それに縁が不気味に光っている感じだろうか、せっかくこうして資料として残してくれても、実物を見たことがなければ、たとえそれが現れていても全く気づかずに終わってしまう。
まことに残念な話である。

そして少し話はずれるが、同じ激震が走ると言うことでは株式相場、経済的破綻もまるで突然訪れるように思うかもしれないが、実は地震と同じように、大きな変動があるときは、必ずと言って良いほど前触れがある。

中東ドバイのバブル破綻は2年前から囁かれていたことであり、こうした破綻が決定的になっていたのは2009年2月、ドバイが200億ドルの政府債を発行し、それをライバル国であるアブダビ首長国の中にある銀行に、100億ドル引き受けてもらうとした時点であった。

本来なら決して頭を下げたくない相手に、頭を下げて政府債を引き受けて貰う、こうしたことからドバイバブルの崩壊は始まっていたのであり、近々の現象でも日本円の異常な高騰は、既に危険となった中東ドバイ投資、それに関わる石油産出国のアブダビ、これを先に読んだ資金の流れが、石油や金までも売って、暫く日本の円へと逃げ込もうとしていたのであり、こうしたことからもしドバイ破綻が本格化すると、日本の円は高値で維持され、その結果輸出産業は再度大きな打撃を受けることになる。

またどうも日本国内を見ていると、「観光」を主産業として目指す地域が増えているが、こうした地域では海外からの旅行者が激減していくことを見据えての計画が必要になるだろう。
加えて2009年9月以降停滞している政府の対応だが、こうした影響が本格的に重なってくるのは、やはり2010年1月から2月、この時期からまた一段と厳しい経済的下落が始まっていくように思う。

そして地震と経済は似たところがあって、ともに被害が及ぼす実質傾向が似ている、また経済的混乱や政情不安の時に大きな地震が起こりやすい・・・、これは迷信かも知れないが、それでも実際に重なっていることが多く、経済的落ち込みが激しいときは、こうした災害にも警戒が必要になるのではないだろうか・・・。





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大戦の終結

2009年10月31日ベルリン、ここに3人の男、いや正確にはそれぞれ重厚でありながらも温厚な表情の老人と呼べる年代の男達が集まった。
彼らは同じ時代を駆け抜けたある種の盟友として、またともに激動の中を生きてきた人間として、懐かしい再会を喜び、互いに抱き合った。

男達の名はそれぞれに、ミハイル・ゴルバチョフ、ジョージ・H.W・ブッシュ、ヘルムート・コールと言った。

第二次世界大戦末期、ヨーロッパ戦線がドイツの降伏で終結を迎えた直後、ドイツはそれまでも世界的対立となっていた、共産主義と自由主義と言う2つのイデオロギーや国家政策の違いによる対立の煽りから、東は共産主義の代表格であるソビエト連邦(現在のロシア)によって、そして西はアメリカやイギリスを始めとする自由主義国家郡によってそれぞれに分断され、その後こうした2つの勢力の対立の激化により、ドイツの首都ベルリンの西には東西を分断する強固な壁が設けられ、これが軍事境界線となった。

以後東はソビエトを始めとする共産主義、正確には社会主義だが、彼らと同じ政治体制が引かれ、西では西欧の自由主義体制が繁栄していったが、ドイツ国民はこの壁のおかげで同じ民族でありながら、互いに敵対する運命を背負って行ったのである。

そして時代は1980年代へと移り、この時期になると、対立する一方の共産主義国家郡の代表格であるソビエト連邦の経済が急激に悪化したことから、1985年にソビエト連邦の書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、それまでの社会主義経済体制を棄て、自由主義、民主化政策、いわゆるペレストロイカを推進し、これによりそれまで続いていたイデオロギーによる対立、東西冷戦はそれまでの対立から融和にに転ずるが、こうしたソビエトの動きに、それまで同じ路線を歩んできた周辺諸国でも一斉に民主化運動が起こり、ゴルバチョフが思っていた緩やかに穏やかな民主化は、一挙に加速度が付き、もはやコントロールができなくなって行ったのである。

そしてこのような流れの中に、ベルリンの壁の崩壊がある。
民主化の波は勿論、東西に分断され経済的な行き詰まり状態にあった東ドイツ国民の中でも盛り上がり、当時の東ドイツ代表ホーネッカー政権はもはや風前のともし火状態でしかなかった。

そんな中、偶然か故意かは不明だが、東ドイツ政府スポークスマンが、それまで国境警備兵によって厳しく封鎖されていた、ベルリンの壁を超えての往来許可を宣言したのである。

この宣言は本当は誤報だった。
しかしこれに歓喜した東ドイツ国民は1989年11月9日夜、大挙してベルリンの壁に押し寄せ、その数は数万人にも及び、国境警備兵はこうした民衆を制御できず、ついにベルリンの壁のゲートの支配権は民衆に移ったのである。

東ドイツの人たちは壁を越えて西ドイツに入った。
そしてこうした情勢は衛星放送を通じて全世界に配信され、壁の西側には東ドイツから入ってくる人々を迎えるため、多くの西ドイツ民衆が集まり、壁を越えてくる人々と誰彼の区別なく抱き合って喜んだ。

また壁の上にはたくさんの人が手を取り合って「自由」を口ずさみ、それはやがて大きな歓声となっていった。

こうして東西冷戦の象徴、ベルリンの壁は崩壊、1989年12月30日にはゴルバチョフとアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ、つまりオバマ大統領の前の大統領であるブッシュ氏の父親がマルタで会談し、ここに東西冷戦が終結したことを宣言したのである。

私は当時まだほんの小僧だったが、この会談の宣言を聞いて大泣きしたことを憶えている。

そしてこれは1990年10月3日近辺のことだったように記憶しているが、シュツットガルトの友人宅に滞在していた私は、皆と何気なくテレビを見ていたら、そこに懐かしい日本の海部俊樹首相の姿を発見した。

多分東西ドイツの統一記念式典に参加していたのだろうが、これがまた弁舌爽やかな割りには全く内容の無い演説で、周囲が皆日本語が分からないことを、この時ほど有りがたく思ったことはなかったが、その内容はひたすらおめでたいだけのものだった。

だが本当は違う、日本はドイツとともに世界大戦を闘った盟友であり、その一方の友は戦後祖国を分断され、そして民族的な苦痛をなめたのであり、こうした国がその統一を果たしたとき日本が言う言葉は、「済まなかった」ではないか・・・。
戦争責任をこうした形で取らされ、その片方で何の民族的分断もなくぬくぬくと暮らしてこれた。

言わば日本の分まで戦後、どこかでドイツはその責任を取らされ続けたのであり、日本はこうしたことに感謝し、何も助けられなかったことを詫びるべきだったのでは無かったのだろうか。

2009年10月31日、ベルリンに集まった3人の男達は、そうベルリンの壁が壊され、東西のドイツが統一されたときのそれぞれソビエト連邦、アメリカ、そしてドイツの国家元首たちであり、彼らはベルリンの壁が壊されて20年経ったことを記念し、ベルリンに集まったのである。

ヘルムート・コールは「あの時世界の誰もが信じられなかった東西ドイツ統一を成し遂げたことを、わが民族の誇りに思う」と述べ、ジョージH・W・ブッシュは「これでヨーロッパは2度の大戦の傷跡を消し去った」と述べた。
そしてミハイル・ゴルバチョフは「真の英雄はドイツ国民であります」と述べたのである。

この記事は日本でも新聞各紙が取り上げはしたものの、その扱いは小さかったので、私はこうして記事にしたが、かつての盟友が祖国統一を記念していると言う記事は、もう少し大きな扱いでも良かったように思う。

最後に、過去の大戦いにおいて互いに戦友として戦ったドイツ、及びドイツ国民に対し、ベルリンの壁が崩壊して20年の節目に際し、一日本人として謹んで感謝と尊敬の思いを表すとともに、心よりこれを祝福し、両国の繁栄を希望するものです。





オペラは使い捨て・・・

ドレミと言う音階、この音階を決定する標準音、つまり元になる音だが、これはフランス音名「ラ」、ドイツ音名A「アー」の周波数となっているが、こうした標準音はいわゆるバロック期以前は非常に曖昧なものであり、地方によってその基準はバラバラの状態だった。

例えばフランスでは390ヘルツ、ドイツでは410~415ヘルツとなっていて、現在の音階よりはかなり低い音階で楽曲が演奏されていたようだ。

だがこうしたことでは地方によって同じ楽曲でも、もし半音階低く演奏されてしまうと全く違った曲調になったり、移動して演奏が行われるようになると支障が現れてきたことから、1939年標準音の基準音が定められた。

それによると気温20度の状態で場所はロンドン、そこで440ヘルツの音を基準音とすることが決められ、以後はこの440ヘルツを基準音として音階が構成されるようになる。

しかし近年、古典と呼ばれる楽曲の演奏には、やはりその当時の音階でなければ作曲者の意図が伝わらないのでは無いかと言う考え方から、その時代の楽曲が作られた地域の音階を用いて演奏すると言う、演奏形態も増えてきている。

この場合、例えば古い時期のフランスの音階だと、基準音より半音低い標準音が用いられ、その演奏は基準音の音階とは全く違ったイメージになる。
そしてこうした世界的な標準音が決められて以降、ではこのような標準音が守られているのかと言うと、これが実は違う。

標準音が決められた以降も世界の基準周波数は年々上がり続けており、近年のレコーディングスタジオでは、ピアノのA音を441~442ヘルツに調律し、それに合わせて他の楽器の音階も決めていくのが普通になっている。
また最近では445ヘルツを基準にしているオーケストラもあるようだ。

周波数が高くなればそれだけ音は繊細で鋭角的になる。
つまり聞く側にはクリアな印象があるが、その代わり穏やかさを失うと言う欠点もある。

音楽も、忙しくストレスの多い現代社会には、その時代が求める音階へと自然に移行しているのであり、これから先も多分こうした標準音の基準値は上がり続けるのでは無いだろうか。

また音楽の話のついでにもう1つ。
16世紀にイタリアで生まれたオペラだが、始めは貴族社会の最もポピュラーな娯楽として生まれたオペラも、その後台頭してきた市民階級の登場によりさらに広い需要が発生してくると、現代のアニメのように次々と書かれては上演し、それはそれで素晴しいことなのだが、いわば使い捨て状態となって行った。

再演されることもなく、日々大量に書かれるオペラの楽譜は出版されることは稀で、劇場に売り渡される自筆譜や写譜も殆どが上演の後は棄てられるか、紛失するケースが多かったようであり、こうしたことから今日我々が知るオペラの数よりも、実際は桁外れの数のオペラが存在していたと見られていて、実数は不明ではあるが、推定では有るが、最大72000作以上のオペラが上演されたのでは無いかと考えられるのである。

つまりオペラは書かれては棄てられを繰り返し、その殆どが失われていったと言うことだが、こうした状況は19世紀以降、出版の定着とともにある程度解消されていくが、例えば19世紀だけでも10000作以上書かれたイタリア・オペラ、このうち現代社会で曲りなりにも上演できているオペラは100以下しかない。

我々は結局のところ、オペラを見ているようで、実はそれはのぞき穴からやっと見える程度のものを、チラッと見ているに過ぎないのである。

では今夜はこれまで・・・、と思ったが、ついでだからこう言う話も書いておこうかな・・・・。

赤ちゃんが生まれて最初に発する声、産声(うぶごえ)だが、この声は440ヘルツの「ラ」の音だとも言われている。




バイオエシックス・2

さて、どうだろうか、人間はどこからどこまでを自分として、何を「他」とすれば良いだろうか、子供が欲しければ例え悪魔に金を渡してもそれは欲しい。
瀕死の重体になり病院で治療を受けている者は、主治医に何か疑問があっても尋ねることができるだろうか。

また経済的に苦しく、そうした中で入院生活を続ける患者が、家族のことを思い死を選択する場合、それは本人の意思と言えるだろうか。

はたまた臓器移植では中国がその臓器の多くを死刑囚から摘出しているが、そうした臓器移植の需要のために死刑囚が増えないとは言えないのではないか、また貧しい地域で売られていく子供はその後どうなって行くのだろう。

男達のおもちゃにされることだけでも許し難いが、また必要な臓器を取られて殺される、そうしたことが一切無いと人類は言えるのだろうか。
金のために見知らぬ者の子供を産む、そしてその子供はお金でやり取りされ、それでも自分に子供ができたと本当に喜べるのか、その子は幸せなのか。

少数民族だから、肌が黒いから、貧しいからといって彼らに危険な薬を臨床試験し、それで改良を加えて、安全性が確認されたら白人や金持ちが使う、こうした社会が何を持って正義や平等を主張できるのか。
黒人女性にチンパンジーの精子を受精卵に組み込んで戻し、それで研究者は何を研究したと言うつもりだろうか。

実はここで挙げられた、これでもごく一部の事例だが、こうしたことを契機に人類が考え始めたことがあり、それが「生命の主権者」、バイオエシックスの考え方である。
ビオス(命、生き物)と言う言葉と、エシイコス(習俗、倫理)と言うギリシャ語にその名は由来しているが、合成語で日本語になおすと「生命倫理」とでも呼べるだろうか。

すなわち女性であるから、子供であるから、貧しいから、マイノリティーであるからと言う理由、また片方は治療を受ける側であり、片方はそれを治療する側と言う立場による差によって、個人が不当な扱いを受けることの無いよう、そして「生きる権利」も「死ぬ権利」も当事者、つまり本人であるとする考え方のことであり、この考え方の範囲は広く、人権、宗教、性差、生死観、法律、医学、倫理、国家、民族などあらゆることから生命の権利と、その平等を考えて行こうとするものである。

この概念の範囲はとても広い、従って一回の記事では説明しきれるものでは無いことから、このテーマは今後何回かに渡って、詳しく分野ごとに記事にして行こうと思うが、今夜は簡単な基本理念だけ、そしてバイオエシックスと言う名前だけでも憶えておいて頂ければ幸いである。

バイオエシックスの基本理念は5つある。
まず「自己決定」、つまりどんな場合でも自分の命の主権は本人にあると言うこと、そして2つ目は「その行いが善意であること」、3つ目は「公正であること」、4つ目には「平等であること」、5つ目は「人間らしさ」についてである。

公正と平等は同じように思うかもしれないが、前者はシステムを指し、後者は概念を指していると思っていただければ良いだろう。

ちなみに政権をとるまでは、あれほど民主党内で議論が高まった臓器移植法案だが、政権奪取後はそのような話も出てこなくなり、ひたすら経費削減であり、こうした経済情勢や国力の低下で最も恐ろしいのが病院経営の不安定化であり、それに伴うバイオエシックスに対する考え方の衰退である。






バイオエシックス・1

1934年~1972年にかけて、アラバマ州タスキギーでのことだが、黒人男性約600人の梅毒患者について、その病状変化を調査研究するために、40年に渡って患者に積極的治療、処置を一切行わず、ペニシリンなどの抗生物質の使用も行わなかった。

しかし患者には「無料」の治療が約束され、食事を提供し、死後の葬儀費用も当局が負担したが、患者の死後はどうなったかと言うと、データ作成のために無断で解剖が行われていた。

これはアメリカ連邦政府公衆衛生局(PHS)が関与し、この地域全体の病院で秘密裏に行われていた梅毒研究であり、しかも本人には無料の治療と言いながら、その実治療は行われず病状経過の研究がなされていた。
またこうした被験者は黒人に限られていたことなど、1972年にマスコミよってこの事実があばかれたとき、アメリカ世論は大変な問題意識に包まれたが、「治療」や「無料」に名を借りたアメリカ当局の悪質な人体実験はこれだけに留まらない。

ソルトレーク市郊外で行われていたのは、細菌戦争に備えてのバクテリアの大気中放出実験であり、こうしてどれだけの市民が影響を受けるか、およそ9年間にわたり170回も実験していたのはアメリカ陸軍である。
またカリフォルニア州ではブドウ園の農薬について、その安全性を実験する為に、発がん性物質が含まれた薬品であるにも拘わらず、本人達に告げず学生ボランティアを被験者として参加させていた。

さらにこれはひどい話だが、ピッツバーグの病院では、最初から実験データを集めることが目的で、3歳の幼児に肝臓、脾臓、大腸などの5つにも及ぶ臓器移植が行われ、この幼児は3週間後に死亡している。

このようにアメリカでは掲載した事例以外にも多くの人体実験が行われてきたが、こうした実験の被験者の大部分が、アメリカ人とは言ってもアフリカ系やスペイン系、それに囚人や高齢者、女性、幼児と言う、いわば社会的弱者やマイノリティーであったことから「人権」としての問題も発生し始めるが、その一方で起こってくるのは「生と死」の問題であり、例えば治療中の患者の主権の問題だった。

カレン・アン・クインランさんは回復の見込みがなく、眠ったままの植物人間状態だったが、人工呼吸器に繋がれた娘の姿に、彼女の両親は機械に頼らず自然に死を迎えさせることを望み、合衆国とニュージャージー州に「死ぬ権利」を求め、裁判所に提訴した。

これに対して1976年、裁判所はこの主張を認め、カレンさんの人工呼吸器は外されたが、何と彼女は人工呼吸器が外されてから10年間自発呼吸を続け、生存したのである。

だがこのカレンさんの場合には人工呼吸器は外されたが、「自然死」を望むと言う観点から水分や栄養分の補給は続けられたが、その後起こってくるナンシー・クルーザンさんの事例では、全ての生命維持装置を外すと言う、こうした概念からさらに突きつめられた「死ぬ権利」にまで話が及んで行ったのである。

やはりカレンさんと同じように植物状態となったナンシー・クルーザンさん、彼女の状況を見かねた両親は、裁判所に娘の「死ぬ権利」を主張し提訴したが、これはその影響の重大さから合衆国連邦最高裁にまで争議が及び、結局連邦最高裁は1990年6月25日、この件に関しては「本人の意思が不明確」なことを理由としてナンシーさんの両親の訴えを退けた。

しかしここで連邦最高裁はある画期的な判決をしている、すなわち「死ぬ権利」を認めたのである。
連邦最高裁は本人の意思があらかじめ明確となっていて、これを実証できれば「死ぬ権利はある」としたのである。

ナンシー・クルーザンさんにはその後、新たな証言が見つかり、これに基づいて本人の意思を踏まえた上で、両親の主張を受け入れたミズーリ州ジャスバーグ検認裁判所がその「死ぬ権利」を認め、彼女の水分、栄養補給チューブは外された。
1990年12月26日、ナンシーさんは死亡した。

そしてオランダの「安楽死法案」である。
もともとオランダでは、以前から医師会で作成した基準を満たしていれば、司法判断で安楽死が容認されていたのだが、オランダ議会下院、上院でも通過した「改定埋葬法」がこの「司法判断の容認」に法的根拠を持たせる結果と成り、従ってあくまでも本人の意思が大前提になることでは「死ぬ権利」を踏襲しているように見えるが、ナンシーさんの場合は生命維持装置を外すと言う積極性を持たない「死ぬ権利」だが、1994年のオランダの「埋葬法」改定は、医師の投薬によって、死に至らしめることを認めている点で、これは区別されるべき大問題となった。

また「生」措いて、1992年の段階でアメリカにある代理母仲介業者は30であったが、2008年にはこの数が、闇業者も含めて4000から6000あるのではないかと言われていて、この問題が表面化したのは1988年、メリー・ベス・ホワイトヘッドさんの事件からである。

彼女は依頼人である精子提供者の男性から、金銭の報酬を受けて男の子を出産、その後彼女はこの男の子を手放すことを拒み、依頼人男性との間で裁判となったが、1988年2月3日、ニュージャージー州最高裁は、メリーさんの親権は認めたものの養育権を否定し、結果としてこの生まれた男の子は代理母依頼人の男性に引き取られたが、金銭で子供をやり取りするありようは厳しく糾弾され、代理母出産は不道徳で違法であるとの司法判断がなされた。

そしてアメリカのみならず、各国で根強く議論されている妊娠中絶に対する考え方だが、1973年合衆国連邦最高裁は、人工妊娠中絶を女性のプライバシー権として容認したが、1989年にはこの権利に中絶時期の制限を設けた判決が同じ連邦最高裁から出され、これを廻って妊娠中絶禁止運動が盛んになっていった。

ただ暴行を受け、それにより妊娠した場合、また各国で異なる法令上の未成年者の規定内の妊娠、経済的問題によるものと、その事情が複雑多岐に及ぶ妊娠中絶には、一定の基準が未だに設けられないのが現状である。

                                バイオエシックス2へ続く




報道のディテール

1972年、週刊写真誌「LIFE」が休刊に追い込まれたが、この「LIFE」の休刊は写真の世界にある種の転換期を予見させるものとして、さまざまな波紋を社会に投げかけた。

すなわちそこに垣間見えるものは「LIFE」などの写真誌が中心となって果たしてきた、報道写真のメディアとしての役割、その衰退である。
ちょうどテレビ時代の到来、その全盛に向かう時期と重なった報道写真の世界は、どうあってもその即時性の観点から、テレビ報道に対抗できないと言う、悲観的な雰囲気になって行ったのである。

またこうした時代、徐々に動いている映像が日常化し、その中でフォトジャーナリズムは停滞、もしくは衰退の一途となって行ったのだが、そんな傾向にも拘わらず孤軍奮戦していたのは新聞写真であった。
一日も欠かさず世界中の事件や出来事を同時に紙面に展開し、世界情勢の推移を克明に大衆へ知らしめた。
この功績は実に大きなものがあった、だがこうした新聞写真もやはりその即時性と言う問題に直面し、やがてその優位性をテレビ報道に奪われることになる。

そのもっとも顕著な例が1990年8月2日、イラク軍のクウェート侵攻に始まる、湾岸戦争の勃発を伝える報道である。
1991年1月17日から始まった、アメリカ主導の多国籍軍の攻撃状況は、リアルタイムで世界に配信され、私たちはバクダッドの夜空に舞う弾薬の閃光を、そのおびただしい数を、また映像によりまるで自身が建物を攻撃しているかのように見える「ピンポイント攻撃」を、茶の間で菓子を食べながら、コーヒーを飲みながら見ていた。

そして私などはこうした状況に、なぜか罪悪感を感じざるを得なかった。
この瞬間にも攻撃により死んでいく者があろうに、こうしてまるでゲームをしているように、容易くそれを見ている事の罪の意識だった。

人工衛星は常に等しく世界中に映像を送ってきてくれる。
F1レースだろうが、ワールドカップ、オリンピックも、そして戦争や災害などもまるで眼前に起こっているかのごとく、リアルタイムで見せてくれるが、確かにこうした映像の世界に写真は及ばないものがある。
だが、どうだろうか、我々は毎日余りにも苦労をしないで重要な情報を見すぎてはいないだろうか。

悲惨な事故や災害、戦争や飢餓、それに芸能界のゴシップ、凶悪な事件の報道が連日眼前を通り過ぎていく中で、一つ一つの重大な事件が軽薄なものとして処理されていないだろうか。
その起きた事実をこうしたスピードの情報は、どれくらい本質に迫ったディテールで、我々の脳裏に焼きつかせておけるだろうか。

そう考えたときに、私は写真と言うメディアが持つディテールの正確さと言うものに、少なからず憧れをいだいている。
過去の出来事の「決定的瞬間」や感動、一瞬に凝縮された人の表情や、その心と言ったものまで、また栄光と挫折、笑う、泣く、悲しむ、そして怒り、尊敬し軽蔑する、祈り、絶望する・・・、一枚の写真ほどにこうした瞬間をダイレクトに物語り、我々の心を深く揺さぶるものが他にあろうか・・・。

1990年ごろ、話題になった1人の写真家にブラジルの出身者で、セバスチャン・サルガド(1944年~)と言う人物がいたが、今は多分フランスに在住しているかも知れない・・・、彼は世界中のあらゆる問題を克明に記録し、多くの人たちに深い感動と現実の問題点を強く印象付ける写真を世に出した。
その画像はシャープで美しいプリントで仕上げられ、白黒写真の究極と思われるほどのトーンに整えられ、見る者に快感と安心感を与え、また感動させた。

思うに情報の正確さ、画像の力とは何か、それは現実の持つディテールを正確に凝視することにあり、これは写真が持つ最も大きな特性、力である。
つまり静止したシャープな写真画像は、他のどんな映像メディアでも不可能な細部と全体を我々に見せてくれるのであり、報道写真の衰退は即時性と、印刷によるマスメディアを媒介にすると言うシステムに依存して、こうした写真の特性を忘れたために招いた現象であったことを、決して動画の台頭だけがその原因ではなかったことを、サルガドの写真は証明していたのである。

さまざまな情報が錯綜し、その中で大切なディテールは無視され、まるで無表情に流れ続ける現代社会、その情報は質より量、正確さよりも速さ、心よりも衝撃になってはいないだろうか。
ランダムに流れる映像に、我々はその本質を追う間もなく情報に押しつぶされ、最も見なければならないことを見過ごしてはいないのだろうか・・・。
サルガドが写したルワンダの子供の写真、そこには言葉にすることのできない感情までもが、そして見た者が言葉にできない感情ですら写し込まれていた。

情報が氾濫する現代社会であればこそ、情報は決して速度だけではないことを、その1枚の写真に賭ける熱き思いを、今一度世界の報道メディアは大衆の前に示してもらいたいものだと思う・・。

核の憂鬱・2

さらにこれは北朝鮮だが、2006年6月に発表したアメリカの研究機関(ISIS)の報告によると、プルトニウム5~7kgで核兵器1発を製造できるとして、北朝鮮は2006年の段階でも、6~11発の核兵器を製造できるプルトニウムを保有しており、これらは5MW実験用原子炉がある「寧辺」で生成されたものだが、2005年ロスアラモス研究所のヘッカー元所長が「寧辺」を訪れた際、北朝鮮関係者から「この原子炉はフル稼働しています」との説明を受けている。

この規模の原子炉では1年間で、核兵器1発分の5~7kgのプルトニウムの生成が可能となるが、さらにこの「寧辺」には建設再開可能な50MW規模、つまり5MW規模の10倍の原子炉施設があり、この他にも「泰川」には200MW規模の原子炉が建設途中だったはずである。

こうしたことを考えると、もし仮に北朝鮮が全ての核施設を稼動していた場合は、年間に最大50発の核兵器が製造できることになり、事実2009年現在、一時中止していたものの、北朝鮮の核兵器保有数は、15発から20発程度になっている可能性はとても高い。

この状況からアメリカを含む関係6カ国協議で、こうした北朝鮮の核兵器開発を止めさせようとする試みがなされたが、困窮する北朝鮮はアメリカとの交渉のために核兵器を使い、こうした事態にアメリカは国内の経済危機や、アフガニスタン問題の対応で手が出せない、また頼りの中国が北朝鮮のこのようなありようを一概に否定しないのは、アジアに措ける日本、そしてアメリカへのけん制材料として大きな効果があるからで、こうした考え方はロシアも同じ傾向にある。

つまり6カ国協議では永遠に解決は見られないのであり、この間に北朝鮮の核開発は進むことになる、そしてやがて困窮した北朝鮮は、またぞろアメリカとの直接交渉を狙って、韓国や日本をいたぶることになって行くのである。

オバマ大統領は今回の訪日で、北朝鮮による日本人拉致被害者問題の解決を声高に宣言したが、これはもしかしたら現状で手が出せないアメリカが、北朝鮮がどうあっても譲歩しないだろう日本人拉致被害者問題を、核兵器開発問題と絡めることにより、交渉が長引いているのは日本のこうした条件のせいだとして、もし失敗しても自国の責任を回避しようとしているか、あらかじめ6ヶ国協議が長引くことに対する、対外的対応策である可能性がある。

よくよく考えてみればオバマ大統領の弁舌は素晴しいが、その実効性はどうだろう、アメリカ軍基地のグァム移転問題でも、本来相互負担のはずの予算を、アメリカは今年10分の1に圧縮してしまっていて、これでは急ぐなら日本が予算を出せ・・・の状態である。

また実際6カ国協議が長引いて一番困るのも日本である。

そして核兵器廃絶宣言は見事だが、イスラエル対イラン、インド対パキスタン、北朝鮮対アメリカと、全て解決の付かない核兵器対立状態の中にはアメリカの関与があるのであり、2004年2月にパキスタンの「核開発の父」と呼ばれたアブドル・カディル・カーン博士が明らかにした「核兵器の闇市場」、つまり核兵器開発に関わる物資、技術の秘密ネットワークの存在では、1980年代末からリビア、イラン、北朝鮮にパキスタンが核技術を供与してきたこと、そしてパキスタン自身もそうした闇市場から核技術を得たこと、さらにはこうした闇市場にはアメリカ、欧州、アジア、アフリカの30カ国以上の企業が関連していることを告白したのである。

つまり核兵器拡散の方向には、表と裏の2重構造があると言うことだ。

アメリカがもし真剣に核兵器廃絶を考えるなら、全て紛争の平和解決からしか、その糸口は見出せないことを日本は認識しておく必要があり、「同じ下げる頭なら深く下げればその効果は大きい」と言う日本の格言を実行しただけのような、オバマ大統領の本質はきわめて「軽い」のではないだろうか。

良い悪いはともかく、自由の国、そしてその自由を守るのは金と力だと信じる国の大統領の言葉は、その弁舌の美しさだけに留まれないことを、日本国民はかみ締めておく必要があるだろう。






核の憂鬱・1

2006年現在の資料で申し訳ないが、アメリカ10100、ロシア16000、イギリス200、フランスは350、中国は200・・・・、これは何だと思うだろうか、
楽しい話だが、これは現在国連連常任理事国となっている国々が保有する核兵器の数である。

まあしかし、これでも1945年に始めて核兵器が開発されて以来、その後アメリカとソビエト(現在のロシア)が、イデオロギーを廻って対立した東西冷戦時代のピークに地球全体で保有していた核兵器、70000発から見れば随分少なくなったが、おおよそ今でも27000発の核兵器は確実に存在していて、これは70000発で地球上の全人類を、25回は皆殺しにできる数だとされていたことを考えると、判っているだけで、10回くらいは地上の全人口を抹殺してしまえる核兵器が存在していると言うことになろうか・・・。

こうしたどう考えても過剰な殺戮が可能な状態を「オーバーキル」とも言うが、ベルリンの壁が崩壊してから今日、東西冷戦の終結からアメリカ、ロシア両国の努力もあって少なくとも70000発の核兵器は半分以下になったとは言うものの、未だこうした状態であり、このうち実戦を想定して配備されている核兵器の数はアメリカ5700、ロシア5800と言われている。

またこうした表に出ている数字、つまり国連の常任理事国が保有している核兵器以外にも、非公式だがイスラエルには60~80.インドが50~60、パキスタンでは40~50、北朝鮮で大体15前後の核兵器が存在していると見られているが、実のところ、先のオバマ・アメリカ合衆国大統領の宣言した核兵器廃絶宣言では、確かに先進国、つまりアメリカとロシアでは核兵器の数は減少に向かうだろうが、それ以外の第3国では逆に増えてくるか、さらに拡散していく方向にあり、オバマ大統領の発言は実に爽やかだが、こうした実情を是正する根拠を持っていない。

イランの核兵器開発疑惑、これは2002年8月に発覚したものだが、当初ウラン濃縮実験停止をイギリス、フランス、ドイツがイランと交渉し、IAEA(国際原子力機関)も警告決議を採択したが、結局問題は解決せず、2006年1月にはイランはウラン濃縮を再開、これに対して5国連安全保障理事国とドイツは経済援助を条件に、ウラン濃縮を停止するよう提案したが、イランはこれを受け入れず、現在まで対立は続いているが、この背景は明確にイスラエルである。

イスラエルの半分以上の核ミサイルがイランへ向けられている現状を踏まえると、イランは当然これに対抗することを考えるしかない、そこで問題はイスラエルが例えば核兵器削減にでも応じればともかく、これはアメリカでもおいそれと口にはできまいし、例え口にしたところで、それでイスラエルが言うことを聞くことは考えられない事から、事実上イスラエルから核兵器がなくならない限りイランも核開発の手を緩めることができないのであり、こうした中東問題ではアメリカはおろか、世界全体でももはや発言力のある国はなくなっている。

またアメリカはインドとの間に「原子力協定」を結んでいるが、インドは核不拡散条約に批准することなく核実験を実施し、これを保有していることから、こうした「原子力協定」をアメリカが締結している状態は、核不拡散条約に特別枠を設けたような意味があり、事実アメリカは一定の条件を付けて、インドに対して民生用の原子力協力を行っており、このような状態は国際社会に措ける核兵器削減上の、公平性に対する疑念となっているが、特にイラン核兵器開発問題の対応との整合性は、この原子力協定によって大きく失われているのではないだろうか。

そしてこうしたインドと対立関係にあるのがパキスタンだが、現在のアフガニスタン紛争解決の為には、隣国パキスタンの協力は不可欠であり、タリバンなどのイスラム過激派撲滅を優先しなければならないアメリカにとって、今は核兵器云々でパキスタンに何かを言える状態ではない。

核の憂鬱・2に続く




まず、飯は食え・・・「後編」

犯罪の動機のいくばくかは「状況」にあると言うことを前編では書いたが、逃げる、結果として逃げてしまえたと言う状況が現れてしまった市橋容疑者には、既に選択の余地はなく、ここにいたっては捕まれば当然重罪で、場合によっては死刑すらあり得る。

逃げよう、逃げ続けようと思ったに違いないが、もともと頭の回転が早い市橋がまずやったことはメガネと帽子の着用、それに眉毛を書くことだったのではないだろうか。
こうしたことはさほど金をかけずにできる割には効果の高いイメージ変更になる。

そして意外と経歴は問われない建設会社の派遣会社に潜り込んだが、こうした会社では規模の小さいものだと、市橋のような従業員を管理する立場の社員でさえ、20年ほど前には前科があるものや、ヤクザ家業の者が勤めていたことから、市橋のような身分を明かせない者が潜伏して働くには持って来いの環境だったことだろう。

ただ、今回潜伏していた派遣会社はそうではなく善良な経営をしていたようであり、一概には言えないが、そうした場合もあると言うことである。

市橋はこうした会社で真面目に働くが、その目的はやはり資金である。
これからのことを考えたら資金は絶対必要になる、またそうして得た資金で英語も喋れる市橋だ、海外へ逃亡することもできないことではないかも知れないと思っただろう。

しかし、良く考えてみれば、例えそうしたところでどうなる、どこか東南アジアで潜伏して、その先に何がある・・・、市橋は今度はそうした狭間に悩んだはずである。
そして思うことは「随分遠くに来てしまった、こんなはずではなかった」と言う思いではなかったか。

誰にも気を許すことはできず、親しくなれば親しくなるほど、その人間から疑われる。

シャワーを浴びるとき、風呂に入るときですらメガネは外せない、食事中も帽子をとらずに食事をしていれば、例えば私のような人間は必ず注意するだろう、そしてそうしたことが分かっていながらも、悪態をついて帽子を取ることを避けなければならなかった市橋の情けなさ・・・、市橋はたまに人と喋っていて泣いたことがあったと言うが、その事実が物語っていることは、遠い日の思い出であり、二度と再び戻れなくなってしまった自身のありよう、「何でこんなことに・・・」と思う、言いようのない後悔の気持ちではなかったか。

評論家や元刑事と称する専門家、心理学者たちはこうした市橋の行動を計画的と言うが、市橋のどこが計画的に見えるのだろうか、整形にしても、逃げることしか考えられない者としては当然考えることであり、そのために持てる能力の全てを使うことが、それだけで計画的と言えるだろうか。

一連の市橋の足取りが分かったとき、それが人間であり、犯罪を犯して逃げている者であれば当たり前のことしかしていないことがなぜ分からないのだろう。

市橋はおそらく最後は疲れ果てていたはずであり、そうした中でもう捕まっても良い、後は運を天に任せようと思ったような気がする。
だから船着場のベンチで寝てしまった、つまり市橋にとって、これが最後の賭けだったわけだが、そこで捕まった。

市橋はこの瞬間、「全て終わった」と思っただろう、それは逃避行だけではなく、自身の人生と言うもの、それから毎晩のように夢に現れるあの日のこと、遺体を運ぶわが身のどうしようもない心境が幾度となく繰り返された長い2年間も、全てが終わったと思ったはずである。

私は市橋容疑者が逮捕され連行されるときの彼の顔を見ていて、何かしら複雑なものを感じた。

それは映画「砂の器」で凶行を犯して子供と逃げる父親に、巡査がかけたこの言葉「こんなことをしていてどうなる」と言う言葉と、やはり映画「天城越え」で少年の代わりに殺人犯の汚名を着て捕まり、藁笠で顔を隠されながら、手を縛られて連行される女の姿、そこに石が投げつけられる場面である。

市橋が捕まってから以降食事を取らないことが伝えられたとき、私は思った、市橋は死んでいるんだと・・・、体こそは生きているが既に心は死んでいて、その中には今までのこと、そして自分が犯してしまった罪に対する思いがあること、そうしたことの中で「もはや自分には食事をとる資格がない・・・」と思っている市橋の姿だ。

これを後に裁判を有利に進める為に黙秘し、突っ張って食事も拒んでいるだけだ・・・と言った心理学者や評論家は、恥を知るが良い、およそ人の心も判らぬ者が、人前で何をか語らんである。

市橋の犯した罪は殺人と言う重罪であり、しかも自身の思いが達せられないと言う身勝手な理由から、若く希望ある女性の命を奪った。
100あるものなら100責められるべき凶行である。

だが、市橋には例えば同じマンションに住む女性に暴行し、それを殺して細切れにしてトイレに流した男、また男を騙し金を巻き上げ、捕まっても三度の食事はたらふく食いながら、「騙される男が悪い」と開き直る女詐欺師とは違うものがある。

本来「状況」と言う塀で止まるはずの、その塀を自身で壊し、無差別に人を殺した秋葉原殺人事件の犯人とは何か違うものがある。
なぜか説明が付かないが、市橋容疑者にはその伝え聞く逃走経路の断片と行動、そして逮捕時の表情からどこかで、「人としての光明」が微かに見える気がするのである。

市橋、私は僅かばかり先に君より生まれたから、僅かばかりに見える事もある。
その私は君に中に、何か分からないが、微かな光を見ている。
だからまだ終わってはいない、これから先はどうなるかは分からないが、君はまだ終わってはいない。
とり合えず生きろ、そしてその為にはまず飯は食え・・・。

この記事はまったく私の主観で書いた、だから世の批判にさらされる必要があるだろう。大衆の批判を乞う・・・。





まず、飯は食え・・・「前編」

人が思ったことと、それを実行するまでの間には大きな隔たりがあるが、実はその隔たりは遠いようでとても近い。

怒りに身を任せ「おのれ、ただではおかんぞ」と言う思いは、通常「社会的立場」や、自身の中にある「道徳観」、またはそのときの環境、利害勘定によって「自制」されるが、もし人が見ていなければ、そして相手が自分より弱そうで、逃げれば絶対見つからない環境だったら、それで「自制」が働く人間は意外なほど少ない。

こうした言い方をすれば分かりにくいかも知れないが、それではこれはどうだろう、道に落ちている1万円札、周囲に人がいなかったらそれを警察へ届けるのは、おそらく小学生が一番多くなるのではないだろうか。
また基本的に犯罪とは一瞬の点であり、そこにいたるまでの経緯には流れがあり、その経緯の途中までは、全ての人間が行って見たことがあるはずである。

誰かにひどい悪口を言われた、そのとき思うのは「あんなもの殺してやる」か、もっと消極的なものでも「死ねばいい」であり、これを「ありがたい」と思うものは本質的な心に病があるか、自らの心すらも自己暗示にかけることができる天才偽善者だ。

だがこうした悪しき思いを現実に移すとなったらどうだろう、例えば言葉だけであり、外は寒いから出るるのが面倒でも、こうした思いは自制され、もっと深い恨みでも、その後の自分のことや家族のことを考えたら、余りにもバカらしい現実が横たわり、結果こうした悪しき思いは制御される。
また自身が持つプライドや「道徳心」と言うものにも引っかかって、これは自制されていく。

ところがこれが目の前に措いて自身と相手しかおらず、しかも思いを寄せていた女性、もしくは男性との間で展開されていたらどうだろうか・・・、実は人間の悪しき思いはだれにもその心の内にあり、それを現実に移させない一つの防波堤は「その状況」にある場合も少なくないのである。

今夜はそうした遠くて近い、悪しき思いと現実の狭間を踏み越えてしまった男、市橋達也容疑者について少し検証してみたいと思う。

市橋容疑者は外国人女性に関心が高かったと言われているが、この傾向は比較的裕福な家の出身者や、学習能力、容姿に少しばかり自身がある日本人男性に多い傾向であり、これはその自意識から、漠然と横たわっている西欧崇拝主義的目標を満たす要件として、そうした傾向を示しているようにも見えるが、一般的には日本人女性と西欧の男性の組み合わせは容易なのだが、この逆はなかなか難しい面がある。

欧米人女性にとって、よほどの能力や才能が感じられない限り、日本人男性を結婚相手にすることには、少なくとも自国男性と比較すると抵抗感があるのである。

だが実際に日本を訪れた欧米人女性は、日本人の非常に紳士的な態度や、温厚な行動に、少なからず欧米社会より安心感を持ち、殊に日本人男性に対してはその警戒心に甘い部分が発生してくるが、現実の日本社会は情報伝達速度の国際化とともに、その病具合として欧米と然したる差が存在していないばかりか、犯罪の検挙率を見れば、日本とアメリカでは見るべき差異はなく、これはその質に措いても同じである。

おそらくどう言う経緯かは分からないが、イギリス人女性講師は市橋容疑者のマンションを訪れた、あるいはしつこく付きまとう市橋に、決別を言い渡す為であったかも知れないが、その場で自分の思いが伝わらなかった市橋は、そればかりか自身の思いがおそらく嫌悪の対称にしかなっていなかったことを知り、それを払拭しようとさらに女性講師を引きとめようとしたのではないか、あるいは予てよりそのことを知っていたために、市橋自身も今日こそは決着をつけようとして、殺す用意と理解してもらう用意の、2つを用意していたのではないだろうか。

そして結果、本来渡ってはいけなかった悪しき思いと、実行の隔たりを市橋は渡ってしまった。
市橋は全てのことが終わってしまったあと、茫然自失となっただろう。
初めて思いと実行の隔たりを渡ってしまったことをまるで「夢」ではないか、そうあってくれと思ったに違いない。

そしてこれまでの自身のプライド、家族や自分のこれからの未来などはこのときまだ考える余地もなかったに違いない。

殺すと言うことは、どこかでさっきその瞬間までは「夢」の中の出来事だったが、現実に動かなくなって呼吸もしていない女性講師の姿を見たとき、市橋はただ「何とかしなければ・・・」と思ったはずである。
それは現実の中に起こってきた「夢」の部分を何とかしなければ、つまり自身にとっての非現実が現実の中に混同してきた、これを何とかしなければと思ったのではないだろうか。

そしてここで推測されるのは、この殺人事件があらかじめ用意されていたものではなかったことだろう。

市橋のその後の対応や、逃げた経緯を考えると、これは実に覚悟のない、行き当たりばったりの様子で、あらかじめ殺意のあった犯行にしては死体の遺棄状況、逃げた時のあり様からしても、現実と非現実の中をさまよってた市橋の心情が余りにも顕著に露呈され過ぎている。

女性被害者は検視の結果、窒息死と断定されていることから、おそらくは市橋がイギリス人女性講師を引きとめようとして、その行動を制止させ、もう少し自分のことを理解させようと思ったが、それが首を絞める行動になったのではないか、そしてそれから後、彼は非現実の中を彷徨った。

浴槽を外しそこに死体を入れ、砂を入れて見えなくする行為に、またベランダと言う、部屋とは取りあえず隔離された場所への移動と言う行為に、彼の動揺ぶりと非現実から何とか現実を取り戻そうともがく姿が見える気がする。

やがて以外に早く警察の捜査の手が回ってきたことに気づいた市橋は、逃げる用意をするが、そのとき警察の職務質問を受ける。
市橋にとっての不運はこのとき捕まらなかったことだ。

市橋は本当はどこかで真面目で優しいところがあり、そして人間としての弱さがあった、だからこそこうした犯行の後、反射的に逃げてしまい、また逃げおおせてしまった。
ここに市橋のこれから2年に及ぶ逃避行、つまり彼の深い苦悩が始まったように思う。

                                       後編へ続く



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この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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