新生児の医療現場

1970年代、この頃までは他の先進国から見ると日本の妊産婦死亡率は比較的高い状態だった、つまり出産に失敗する女性や、産後の経過が思わしくなく、そこで命を落とす女性の割合が高かったのだが、現在こうした妊産婦の死亡率は世界最低レベルにまで達し、これと同時に乳幼児の死亡率も世界最低レベルにある。

またこうした出産を支える産婦人科医師の人数だが、こちらも少子高齢化社会に伴い、減少し続ける子供の出生率に比べると、医師の減少幅は少なく、一見産婦人科医療の内容は何の問題も無いように見える。

しかしこれは2006年、日本産科婦人科学会の実態調査だが、全国で出産できる病院数は1237、有床診療所数は1783箇所で、その合計は3056、産科医師数も7873人となっており、おかしなことに厚生労働省の統計では10594人とされる産科医師数は、実際にはその統計の4分の3ほどしか存在しておらず、また出産可能とされる病院や診療所数でも、厚生労働省の統計数値が日本産科婦人科学会の調査よりも、遥かに多いことになっているのである。

この背景には過酷な勤務や訴訟沙汰の多い産科が敬遠され、産科医師が婦人科や不妊治療を専門にする医師へと転身していったことが考えられ、病院や診療所もかつてない日本の不景気の嵐にその経営が困難となり、閉鎖や廃止が相次いでいること、また産科医師の産科からの転身により、それまでの体制を維持できなくなるケースが増え、産婦人科そのものを廃止せざるを得なくなった施設が増加、その実態は統計調査のスピードを上回る速度で、出産可能な施設が減少して来ていることを示している。

また日本の全出生人数に占める低出生体重児率、つまり出生時に体重2500g未満で生まれてくる子供の数だが、これは2004年の統計で全体の9・4%、およそ1割の子供が低体重で生まれてきている。

1980年ではこれが5・2%だったこと、更に年々この割合が増えてきて今に至っている実情を鑑みるに、一つには医療の進歩による未熟児救命率の向上、死産の減少などが挙げられるが、もう一方で考えられる原因は、出産する女性の事情である。

不妊治療、排卵誘発剤などの使用による双子以上の多産児出産の増加、女性の社会進出や結婚に対する価値観低下から来る晩婚化と、それに伴う高齢出産の増加、男性の喫煙率が年々減少しているにも拘わらず、女性の喫煙率は逆に少し増加か横ばい状態にあり、しかも喫煙率は若い女性に多くなっていると言う現状、妊娠中のダイエットなど、こうした事情が低出生体重児が生まれて来る確率を押し上げている背景も考えられている。

そして生きるために必要とされる十分な機能を備えないまま生まれてきた赤ちゃん、これを一般的には未熟児(premature infant)と言うが、医療技術の進歩、そしてNICU(neo-natal intensive care unit)、新生児集中治療管理ユニットや、総合周産期母子医療センターの拡充などにより、こうした未熟児を救命できる機会も増え、その結果未熟児の死亡率は格段に低下し、かつ後遺症などが残る確率も減って来ているが、厚生労働省の人口動態統計によると、1980年に出生した超低出生体重児、つまり出生時1000g以下の体重で生まれた子供だが、全体で1490人、このうち、生後1週間以内に死亡した子供は59%だった。

これが2004年には、出生時1000g以下の体重だった子供が3341人に増加、しかし死亡率は11%に減少し、このうち何と500g以下の体重しかない赤ちゃんが238人いたのだが、これでも生後1週間での死亡率は35%と言う水準になってきているのである。

これは素晴しいことであり、日本の医療はいかに誕生した生命に対して真剣かを物語っているが、一方ではこうしたケースが増えてくる実情は、これまでの産科医師に対して更なる知識と、技術を求めることにもなり、その医療現場は繊細なものとならざるを得なかった。

右へ行くか左へ行くかの医療現場が出現してくる中で、どこからどこまでが救える命か、何を基準に・・・と言うことが現れてくる。

そうした命のやり取りが行われる実情、ここで医師や病院と出産する女性やその夫、更にはそうした夫婦の親族とのコミニュケーションがはかられなければ、繊細な医療現場ほど疑いもまた招き易い、総じて言えば、医療技術の進歩やNICUなどの発達は現場の医師や看護士にこれまで以上の負担を強いる結果となり、その先にあるものは医療ミスによる訴訟の増加なのである。

こうした観点から垣間見えるものは、もともと女性が多い産科や小児科では、女性医師が結婚して子どもを出産、その後育児と仕事が両立できずに医療機関を辞めていく、と言う事情の他に、最善を尽くしながらも訴訟に巻き込まれると言った事態、こうしたことを避けたいとする医師達の思いもまた存在するのである。

日本の大学、医学部卒業者で産科、小児科の医師を志望するものは年々減少の一途を辿っているが、こうした傾向と医療水準の進歩との狭間に立っている医師は、ますます産科、小児科から離脱していく可能性が高く、その結果がもたらすものは、残存する産科、小児科医達にかかるこれまで以上の負担、更なる激務であり、その先に見えてくるものは、過密勤務から発生するであろう医療ミスや医療の質の低下であり、こうした実情と医師の不足はある種スパイラル的に落ちていく様相が感じられる。

医療や教育の水準と言うものは、その国の本質をその通りに反映している部分があり、こうしたものの水準が下がってくる場合は、それが見た目どんなに素晴しいものでも、既に中から崩壊しかかっているものだ。

そして現状としてこれから先、少なくとも出産の現場では医療水準の低下や、その医療の質の低下が眼前の危機として迫っている。

その国の力とは、何もミサイルの数で決まっているのではない、安心して子供を産める状態、それが当たり前の国家こそが、核兵器にも勝る力を持つ国なのである。







博物館の軍刀・後編

そして昭和20年7月、良くぞここまでと言うのが正直なところだろう、他の戦地では日本兵の万歳突撃が伝えられる中、安達の18軍はしぶとく持久戦を耐え抜いていて、ここに来てジェネラル・アダチとは一体どう言う人物なのかと言う、半ば尊敬の眼差しがオーストラリア軍の中から芽生え始めていたが、そうは言っても戦場である。

8月8日、ついに連合軍は日本軍第18軍司令部付近にまで侵入してきた。
もはや、これまでである、安達は9月はじめには全滅するものと判断し、各部隊指揮官に最後の突撃に対する覚悟を通達していた。

昭和20年8月15日、終戦。
これを一番喜んだのは誰であろう、それは安達では無かっただろうか、もはや第18軍の運命は玉砕しかなかった、まだ少年としか言いようがない幼顔の兵士達を見るにつけ、彼らに「死んでくれ」としか言えない自身のこの有り様、まるでその身を引き裂かれる思いだった。

これから先はどうなるかは分からない、だがしかし、生きてさえ、生きてさえいれば必ずどうにかなる、生きてさえいてくれれば・・・・。

安達二十三中将は昭和20年9月13日、ウェワクのオーストラリア第6師団司令部に出頭、そこで軍刀を差し出し、降伏文書に署名した。
それから第18軍はムシュ島に収容され、昭和21年1月にはその大部分が日本に復員したが、安達を始め140人ほどの部下達は戦犯容疑でラバウルに送られ、そこの収容所で一般囚人と同じ扱いで労働を課せられた。

脱腸の持病は悪化の一途を辿り、手術を進言されたが安達はこれを拒否、激しい痛みに耐えながら水桶を担ぎ、30度を超える灼熱の太陽にあぶられながら畑の整備などの労役に耐えていた。
そして安達は結局戦争犯罪人裁判で、終身刑を言い渡されるが、この容疑は完全に濡れ衣も良いところだった。

シンガポールで降伏した後、自発的に日本軍に参加した「インド義勇軍」を日本軍の強制と見做し、捕虜虐待とされたからだが、このときに安達に判決を言い渡した裁判官が、安達に同情の弁を述べているが、安達はこれに対して「同情はけっこうだ」とだけ答えている。

それから後、安達は同じように収容されている部下達を慰め、彼らをまとめながら、ただひたすら戦争犯罪人裁判が終了するのを待っていたが、自身の減刑の嘆願を申し出るでもなくその日を待ち続け、9月8日、ラバウル法廷が閉鎖される宣言を通告され、同時に戦犯容疑で拘留されていた最後の部下8人の釈放が決まると、弁護団に丁寧に礼を言い、身の回りを整理したあと、9月10日午前2時ごろだと言われているが、自決した。

果物ナイフで腹を割き、自分で自分の首を押さえ圧迫して死んで行った。

オーストラリア・キャンベラ、ここにオーストラリアの戦争博物館があり、太平洋戦争時の日本軍の遺品も展示されていたが、その中にジェネラル・ハタゾウ・アダチ、と書かれたプレートが掲げられた日本軍指揮官の軍刀が一振り、展示されている。

安達二十三中将その人のものだが、戦後ここを訪れた多くのオーストラリア軍関係者の中には、このジェネラル・ハタゾウの軍刀の前に来ると姿勢を正し、敬礼する者がいたと言われている。

最も偉大な指揮官とはどう言うものだろうか、そこにあるのは「責任」と言うものでは無いか、すなわち部下が人間であることを思い、彼らを何とかして生かして帰してやりたい、そしてまた作戦も遂行しなければならない、こうした苦悩の中、自身を顧みることなく、その狭間で最大限に力を尽くし、そしてまた自身の命令により命を落として行った者たちのことを最後まで忘れず、これに対して自らの命をもってあがなった安達二十三。

私はこの男の中にあらゆる国家、人種を超えて、いや人間として、指揮官と言う枠を超えた「人としての責任の有り様」を見るのである。




博物館の軍刀・前編

「小官は皇国興廃の関頭に立ち、将兵に対し、人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求し候、黙々として之を遂行し、花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時、当時小生の心中、堅く誓いひし処は、必らず之等若き将兵と運命を共にし、たとへ凱陣の場合と雖(いえど)もかわらじとのことに有之候」

これは第8方面軍司令官、林均大将に「安達二十三」(あだち・はたぞう)中将が宛てた遺書の一部だが、ここで安達中将は「わが身は戦場に散って行った多くの若者と共に有りたい」、つまりこうして戦場に有って、あたら若い命を自身の命令によって散らせて行った、その時から既に自分の身の処し方は決まっていた、それは「死」しかない・・・と言っているのである。

この遺書の文面の彼方に、天を仰いで苦悩し、作戦を遂行させ、そして死んで行った多くの若者のことを思う、安達の涙顔が鮮やかに重なって見えはしないだろうか。
今夜は安達二十三と言う人の話である・・・。

安達二十三中将が生まれたのは、明治23年6月17日、名前の二十三(はたぞう)は彼の生まれた年に由来していたが、陸軍士官学校第22期生、陸軍大學校卒業後は参謀本部鉄道課勤務が長かった安達は、支那事変が起こると、歩兵連隊長、師団長、、そして北支方面軍参謀長と中国を歴戦していく。

安達は一言で言うと「厳格な武士」と言う感じだったが、大体軍人と言えども地位が上がって師団長、中将ともなればその敬礼も適当さが見えてくるものだったが、安達の敬礼はさながら、いつも初年兵のようにキチッとしたものだったと言われている。

またその風貌は眉が少し下がり、目もこれにあわせたように少し下がった温厚な顔だが、肥満気味のその体躯はなかなかの重圧感があり、見た目は少し厳しそうかな・・・と言う感じだったが、無口で決してお上手などは言えない彼が大変な部下想いであることは、彼の下で働いて来た者全てが語る安達の人物評である。

副当番の少年兵が汽車のコークス暖房の不完全燃焼で死亡した事故の時も、すぐさま司令部の暖房を中止し、寒さを我慢していた安達、決して無理な作戦は承認せず、どうしてもやらねばならないときは、まず自身が第一線に立っていた。

こうした安達の姿勢は「この人の下であれば決して見殺しになることはない、絶対見捨てない人だ」と言う大きな信頼に繋がっていた。
そしてこのような観点から見える安達の指揮官として要諦は、「人間」と言う言葉に尽きるだろう。

すなわち「人として実行可能な命令を出す」「部下が直面する苦難は指揮官もまた共有する」、この2点にあり、安達が東ニューギニアに赴任して以来、戦後に至ってもオーストラリア陸軍に大きな人気を誇っていたゆえんは、安達の軍人もまた「人」であると言う、基本理念があったからに他ならない。

安達が中国から第18軍司令官としてラバウルに赴任したのは昭和17年11月、だがその3ヵ月後、昭和18年2月にはガダルカナル島がアメリカ軍によって陥落させられ、ソロモン諸島と東ニューギニアはアメリカ、オーストラリア連合軍によって脅威に晒され、これに対して日本軍は10万の兵士を増員するが、各師団は分断され陸の孤島状態で、全く兵力を発揮することができず、そのうえ昭和18年6月30日にはナッソウ湾にアメリカ軍が上陸、これにより増員された第51師団は、壊滅の危機を迎えることになったのである。

司令官安達は第51師団長、中野中将に対し、こうした危機に際して決して玉砕を急ぐな・・・、と打電しているが、こうした安達の温かい打電に感激した中野中将は、かえって決死の覚悟を決め徹底抗戦するも、昭和18年9月4日、5日には今度はオーストラリア軍がさらに進軍し、ここに第51師団の命運は尽きる。

中野中将はいよいよ軍人らしい最後、例え叶わずとも闘って死のう・・・、玉砕を決断した。

しかしここで安達からまた打電が入る。
「撤退せよ」、日本軍ではめったに無い命令だが、安達は1人でも多く生きて帰れ・・・と言うのである。

かくて有名なサラワケット越え、標高4000メートルの山を越えての撤退が始まるのだが、この撤退は過酷を極め、衰えて死ぬもの、凍死、生きる気力を失って手榴弾で自決する者、がけから転落する者など、死者は1000人とも、2000人とも言われる壮絶なものとなった。

安達はサラワケット山の麓のキャリ部落まで指令部を進め、毎日山から命からがら、よろけながら現れる日本兵を、自身が泣きながら出迎えていた。
そしてこれから後もアメリカ、オーストラリア軍の進撃は続き、安達の第18軍は昭和19年4月24日、ウェワク付近で孤立、前はアメリカ軍に、後ろはオーストラリア軍に阻まれ袋のネズミになってしまう。

万事窮す・・・だった。
第18軍は海軍部隊も含めてその兵員数を昨年の半分、54000人にまで減らしていたが、このままでは10月には食料が無くなり、全員餓死するしか道が無くなった。

安達はここで一番手薄となっていた西部のアイタベ攻略を決意、しかしアメリカ軍が守備するこの地域の攻略は難航し、昭和19年7月10日から行われたこの攻略は、昭和19年8月4日には10000人の戦死者を出して中止に追い込まれた。

そして普通ならここで考えることはどうだろう、当時の日本軍なら潔く・・・が普通だったろうし、それしか道は無いと判断したに違いない。
だが安達はここで持久戦に備えて、部隊の自給自足をはかっていくのである。

椰子の実から澱粉を採り、それを食料にしていく、また農園の開拓計画など、生活に関する基本計画は全て安達が立案し、その駐留地に村を作って行ったのである。

安達はまた原住民に対しても、自らが杖をつきながら酋長に面会して、膝をついて協力を求めていったが、こうした安達の無私で真面目な姿勢は原住民達にも感動を与え、やがて原住民達は進んで自分達の食料を、日本軍に提供してくれるようになって行ったのである。

あれほど肥満だった安達の体重はこのとき48キロにまで減り、持病だった脱腸が悪化、歯は殆ど抜け落ちていたが、安達はそうした自分を顧みることも無く、密林を超えて河を渡り、どんな遠いところにある小部隊であろうと訪ね、彼らを激励していた。

そしてこうした安達の働きで、第18軍は次第に住居小屋も増やし、栽培するイモ畑も拡がり、自給自足は軌道に乗り始めていたが、この間第18軍では1人の自殺者も出していない。

だが昭和19年12月、こうして息を潜めていた第18軍に再びアメリカ、オーストラリア連合軍の攻撃が始まる。

安達の第18軍はこれに対して果敢な抗戦をしていく、がしかし、ここで兵士もまた人間としたとき、自身や参謀が考えた作戦は、それは人間がなしえるものだろうかと言う疑問をいだき始めた安達の作戦は鋭さを欠き、そうしたことが逆に兵力の温存に繋がって、結果として第18軍の被害は意外に少なかった。     

                                博物館の軍刀・後編に続く





プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ