穢れを祓う

むかし若い頃、知り合いの神主の所へ遊びにいっていたら、ちょうどそこへ新車を買ったと言う若者が、交通安全祈願をして欲しいと言って、現れたことがあり、いとも気安くこれを引き受けた知り合いの神主は、そそくさと用意を始めたが、当時5000円先払いで金を受け取った彼は、何故か大量の塩を用意し、この塩を車の上から横から丁寧に撒いてお祓いを始めた。

「かしこみ、かしこみもうす・・・」、そして彼は御幣を振ってお祓いを済ますと、車の持ち主である若者と、その彼女らしい赤い柄の派手なワンピースの女に、玉串を捧げるように勧めた。

やがて全ての儀式が終わった彼らは、その国産高級車に乗って、神主に一礼すると、ゆっくりと元来た神社の坂道を下りて行ったが、神主は何故かニヤニヤと気持ちの悪い笑いを浮かべ、そうした彼の表情になにやら良からぬものを感じた私は、そのニヤけている理由を彼に問い詰めた。

曰く、こうだ・・・。
「どうもあいつらは面白くない、それで塩を大量に撒いて、早く錆びろ、早く錆びろ、と祈ってやった」・・・、彼はそう言うとまたこうも続ける。

大体若い奴が、俺より良い車に乗るなんて、しかもあれはクラ○ンの新車じゃないか、あんなものきっと金持ちの親に買ってもらったに違いないし、それに女連れじゃ俺に喧嘩を売ってるようなもんだしな・・・だ。

なるほど独身、彼女いない暦5年、しかも氏子が少なく兼業神主の彼としては、一番許し難いパターンの客だったわけだが、ちなみに彼が丁寧にお祓いするパターンとしては、やはり独身、しかも苦労して買った中古車、こうした場合は心を込めてお祓いをするらしい・・・。

実は私はこうしたことが有ってと言うわけではないが、余り神社のお祓いと言うものを信じていない・・・、が、しかし良く考えてみると、今年も何一つ人の役に立てることができなかったような気がして、何となく心苦しいので、せめて僅かばかりの罪滅ぼし、「大祓い」の真似事でもやって、この記事を訪れてくれた人たちの安寧を願おうかと思う。

古来日本では、罪と言うものは本人に内在するものと言うより、「穢れ」と言うものがそれを起こさせると考えられ、しかもこの穢れはまた新たな罪をを呼び、国家に降りかかる様々な災害は、こうした穢れから来る神の怒りであると信じられてきた。
そして彼らはこうした穢れから身を遠ざけ、罪を犯さないようにと暮らしていたが、それでも、もしかしたら自分が知らない間に穢れを、罪を犯しているかも知れない、そう思いはじめ、穢れを清める神の存在を求めた。

平安時代にまとめられた「延喜式」と言う書物の中には、そうした穢れを祓うときに読まれた祝詞が記されているが、この頃の朝廷は年に2回、国じゅうの穢れを祓う、「大祓い」の儀式を行って穢れを祓おうとしていたようだ。

そしてその考え方はこうだ・・・。
全ての罪や穢れは、川の神から海の神に送られ、そこで海原を吹く風の神に吹き飛ばされる。
そして海の果ての「根の国」「底の国」の神がそれらを全て消してしまい、人間の国の穢れは清められる・・・。

日本神話には「速佐須良比時」(はやさすらひめ)と言う、日本神話以外の神が登場しているが、この神が「根の国」と日本神話の世界を自由に行き来していて、、その名が示すようにさすらいの女神と言うことになろうか、つまりさまよい歩いている神なのだが、彼女は人々の犯した多くの罪と穢れを持って、あてども無いさすらいの旅をしているのだ。

一つ一つの罪や穢れには、それを清める場所があり、それを総称して「根の国」と呼ぶのかも知れない、が、しかしそれはきっと人間の知恵では、はかり知ることができないものなのだろう、だから日本神話では「根の国」は名前だけしか出てきておらず、こうした国のことは一切書かれていない。
もしかしたら、人間が口にすることすらはばかられる世界なのかも知れない。

人は生きていく上で、何の穢れも無く存在し得ることが叶わない、いわばものを食べることを天上の神の仕事とするなら、では排泄はどうなるか、これを無視して人は生きられない。
従って「根の国」の神は、こうした人間達が生きていく上で、避けられない穢れの部分を清める役割を負っているのではないだろうか。

我々は神社へ行けば水で手を清め、滝に打たれて、あるいは冷水で禊(みそぎ)をするが、それで穢れは消えるのではない、穢れは水と共に川から海へと流れ、そして「根の国」に流れていく、いわんやこれは自然の摂理としても、地面にしみ込んだ水もまた、やがて地下水となって海に流れていくのと同じで、そして穢れたものは清められ、またもとの美しい水となるのである。
だから「速佐須良比時」のさすらいとはつまり、水の循環を指しているのかも知れない。

そして水はこうして穢れと、美しく純粋なものとを循環している、言うなら「根の国」とそれに関わる神の存在は「自然」そのものであり、森羅万象の理、そのものなのではないか、だからこそ、日本神話はその記述に関して、これを侵してはならない・・・としているのではないだろうか。

「罪という罪はあらじと、速川の瀬に坐す瀬織つひめという神、大海の原に持ち出でなん。かし持ち出で往なば、荒塩の八百道の、八百道の塩の八百会に坐す速開つひめという神、持ちかか呑みてむ。かく気吹き放ちては、根の国、底の国に坐すさすらひめという神、持ちさすらいて失ひてむ」

さて、これが「延喜式」に載る「大祓い」の祝詞だが、ちなみに最後に来てこうしたことを言うのは恐縮だが、私はこれまでにおみくじで3回も「凶」を引いている。
だからこの祝詞で不安な人はちゃんとした神社でお参りした方がいいだろう。
そしてその際はくれぐれも服装態度には気を付けないと、神主や巫女さんと言っても人間である、冒頭の話のようにならないよう気をつけて頂きたい・・・・。

では方々、健康に気をつけて、良い新年をお迎えありますよう・・・。
1年間ありがとうございました。
スポンサーサイト



晴れた日の街角・Ⅱ

家へ帰りついた私は、今度は仕事場に車が止まっているのを見つけ、ケーキを家内に渡すと、すぐさま仕事場へと駆け込んだが、そこには遠方の取引先の者が来ていて、いつもなら社長がくるのだが、今回は何故か社長の息子、と言っても私よりかなり若いが、彼が来ていたので、早々コーヒーを出して話を聞いていると、どうやら社長は今年叙勲を受けたことから、歳も取ったし、引退してこれからは社長の息子である彼が、経営責任者になるとの話のようだった。

彼はこう語った、これまで父親である社長は高度経済成長時代からバブルへと、常に右肩上がりの時代にしか生きておらず、これから先の右肩下がりになる社会では優しすぎる、すなわち悪者になることを恐れていては従業員を養うことはできないと思う・・・。

5年前に会った時にはまだ若くて、それほどとは思わなかったが、彼は随分成長していた。
社長は立派な後継者を育てていた。

零細企業といっても彼の会社は従業員が10人はいる会社であり、そうした会社が成り立って行くには、社長のように「良い人」だけではこれから先は厳しい。
「自分が悪者になっても会社は守る」と言う、彼のような若者でなければおそらく会社は守れまい・・・。

用件を済ませた彼は車に乗り込み、それを私が見送ったが、彼はそうした私に何度もお辞儀しながら、去って行った。
「悪者になるのは、良い人よりも数倍難しいんだぞ・・・、頑張れ」
私は彼が去った後もずっと外に立って天を見上げていた。
すっかり日が暮れた空にはあちこちに星が瞬いて、まるで私に囁きかけているようだった。

永遠とは何か、生きるとは何か、それは言葉に表すことができないが、時々こうしたものかも知れないと思うことがある。
そしてそれは悲しみも、恨みも、怒りも、そして喜びも渾然一体となってわが身を貫く瞬間がある。

生きていることは素晴しい、何と甘美なものなのか・・・。
生があり死があり、そしてまた生がある。

この自然の営みの何と偉大なことか・・・。
秋に枯れた草は春が来れば必ずまた一面花となって咲き乱れ、若者はまたいつしか老いていくがその傍らには幼子の姿があり、やがて幼子はまた若者へと成長する。
そうした果てしない流れの今この瞬間に私は立ち会っている。

悲しみや恨みの上に築かれるものは、いつも悲しみや恨みとは限らない。
人はそうした心を持ってなお、初めて優しさや美しさを見ることも、あるのかも知れない・・・。



晴れた日の街角・Ⅰ

クリスマスイブの午前中、この日は冬にしては珍しい穏やかな晴天だったが、家内からどこかでケーキを買って来るよう頼まれた私は、いつも行っている洋菓子店へと足を運んだ。

子供も小さい頃は丸いケーキでロウソクを灯すと喜んだが、受験前の中学生や高校生ともなれば、丸いケーキは切るのが面倒だ・・・と言うような話になり、ここ最近はいつもショートケーキの詰め合わせが、家のクリスマスの定番となっっていたが、こうした殺風景さは我が血筋のなせる業か・・・。

しかしそれにしてもこの街の荒廃ぶりは目を見張るものがあり、商店街といっても殆ど人通りがなく閑散としたもので、歩いている人の姿も殆どが高齢者、穏やかな日差しは、まるで縁側で日向ぼっこをしている老婆のような光景、そんな様子が街全体を覆っているかのように思えた。

いつも洋菓子を買っているその店は、そうした荒廃した商店街の外れにあったが、私の両親と余り年齢の変らない夫婦が、それぞれ主人はケーキをつくり、婦人が店頭でそれを販売すると言った具合で、慎ましく店を切り盛りしていて、狭い店の中にはこれも予約されたものか、何十個かのケーキの箱が積まれていたが、この時間に来店している者は私しかいなかった。

イチゴのショートケーキを5個、チョコケーキを5個、モンブランを5個と言う具合に、私は都合20個のケーキと、従業員スタッフ用のケーキ2個をお願いしたが、その間、ケーキを箱に入れて包装しながら、婦人はまた目頭に涙を溜めていた・・・。

「ありがとうね・・・、また助けてくださいね」
何度も何度も婦人はそう言いながら箱を包み、私は沈黙していた・・・・。

この店の、この夫婦の一人息子は私の高校時代の同級生で、私は何度かこの菓子店に遊びに来たことがあったが、高校卒業と同時にそれほどの付き合いはなくなり、暫く疎遠ではあった。
しかし今から10年ほど前だろうか、この息子は一番下の子供が生まれた直後、自殺してしまった。

理由は分からないが、とてもナイーブな性格だったことから、多分精神的に不安定になってしまったのだろうと言う話が同級生達の間では囁かれていたが、その真相は分からない。

ただ幼い子供3人を残し、そのうえに菓子店の後継者も失ったこの夫婦は、一時彼の妻と共に絶望の縁を彷徨ったことは間違いなく、彼等をまた再起させたものは他でもない、残された子供で有ったに違いなかった。
だから彼と同級生だった私が店へ行くと、彼等夫婦は息子のことを思い出し、また自身も高齢となってくる不安から、こうしていつも泣くのである。

「景気も悪いし、私らもいつまでこうして働けるかわからんけど、まだ一番下の子供は小学生やから、頑張るしかない」、婦人はいつもこう言い、そして「また助けてくださいね」と涙ぐむのである。

地方の、いや田舎と言うものは日本の縮図のようなところがあり、例えば好景気、不景気と言ったものは本当に極端な事態を引き起こす。
1980年代までは景気が良い時期と、不景気が3年から4年間隔にやってきて、その時不景気の波に呑まれた者の決着は悲惨だった。

夜逃げか自殺であり、私が知る限りでも1980年代前半までは、近くの公園の松ノ木には、年に3人ほどの人が首を吊っている状態だった。
だから田舎に住んでいると言うことは、こうしたはっきりとした決着がいつも身近にあって、その中でそれを乗り越えていかないと、次は自分がそうなることが明確になっていたように思う。

昨日まで笑っていた者が、次の日にはいなくなる、商売や人としての有り様を教えてくれた人がある日首を吊って、泣いて泣いて、泣いても帰って来ない、その傍らには喪服姿の奥さんが小さな子供を抱いて泣き崩れる姿があり、こうした光景は人から一切の言葉を摘み取る。

生きていることは辛い・・・。
そしてそうした辛さは年末のこの時期に形を現すことが多かった。

だからこうして暖かく晴れた日は、何故か悲しくもあり、そしてどこかで憎い、どうせなら荒れて荒れて、目も開かないほどに荒れまくってくれたほうが、生き残った者には贖罪になるような、そんな思いにさせられるものなのである。

「私が買えるくらいのものは、たかが知れていますが、頑張ってください」、私は婦人にそう言うと、先に大きな箱を受け取り、婦人がスタッフ用のケーキにもクリスマスの飾りを挿して、また小さな箱に入れてくれるのを待ったが、その時奥から「こんにちわ」と言う声が聞こえ、女子高生らしき女の子が出てきた。

そして「こんにちは」と言葉を返した私は・・・・、今度は私が泣きそうになった。
女の子の面影にはしっかりと、在りし日の友の顔が生きていたのである・・・。
あれから10年、もうこんなに大きくなっていたのだな、良かったな、みんな頑張ったんだなと思うと、思わず目頭が熱くなった・・・。

彼の娘は元気に店を通ると、外へ出て行き、やがて全てのケーキが包装され、私は代金を支払って店を出たが、婦人はわざわざ玄関まで送りに出てくれて、それに何度もお辞儀しながら、私は車に乗り込んだ。

                              「晴れた日の街角」・Ⅰ




濁り水

「近江屋・・・、その方も悪よのう」
「ひゃっひゃっひやっ・・・、何を仰いますやら、お代官さまこそ、相当なものでございますよ」
「ところで近江屋、例のものは分かっておろうの・・・」
「へへぇー、それはもうこちらの方に」

そう言って近江屋は重そうな木箱を代官に渡し、その中は黄金に輝く小判がざくざく、それからまた近江屋が手をぽんぽんと叩くと、隣の部屋の襖が開き、そこからは綺麗どころが次から次・・・.
ご存知時代劇に良くある悪代官のシーンだが、実は私はこうした役を一回で良いからやって見たいと思っているのだが、なかなかチャンスに恵まれなくて残念に思っている。

さて、今夜は悪名高き賄賂老中、田沼意次(たぬま・おきつぐ)の話にしようか・・・。

「田や沼や、よごれた御世を改めて、清くぞすめる白河の水」
民衆が余りにひどい世の乱れを嘆き、老中田沼意次の政治に失望して歌ったと言われている詩だが、後ろの歌はこの後老中になった松平定信に、大きな期待を寄せたものとなっている。

しかしこの歌には更に続きがあって、それはこうなっている。
「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
何とも身勝手な話だが、松平定信の政策は武士偏重で、民衆が軽んじられた政策だったことから、こんなくらいなら田沼の方がまだましだったと言っているのである。

田沼意次がその政治的手腕を振るった期間は、1767年から1786年までのおおよそ20年、この長きに渡って徳川幕府を仕切ったのだが、既に8代将軍徳川吉宗の時に新田開発や農業改革は終わり、しかもそれほどの成果も上がっていなかったことから、幕府の財政は火の車、これを何とかしようと奮闘したのが田沼意次である。

田沼がまず最初に行ったのは商業を使って財政を立て直そうとするものだったが、こうした中でも田沼は「重商主義」と言う考えに基づく政策を取っていく。
実はこの考え方には根幹がないのだが、例えば今でも貿易黒字などと言う言葉が示すものは、本当は意味がないのと同じことで、言うならば、商店が駄菓子を売ったら、商店はその駄菓子分が利益で、それを買った客は駄菓子分を損する・・・、とした考え方を基本とするものだ。

田沼は商業資本を使って幕府財政を潤そうと、まず株仲間制度を積極的に承認し、そこから運用金(税金)を取ることを図り、外国との貿易拡大を行い、そこから金、銀の確保を画策、貨幣制度の見直しにも着手していたが、その際新しく鋳造された貨幣は品質が悪く余り流通しなかった。

また取り分け田沼の政策で評判が悪かったのは、利根川水系の印旛沼干拓や、蝦夷地の開発だったが、これは前者が毎年氾濫して甚大な被害を与えていた利根川の治水が目的であったし、後者はロシア貿易を見据えたものだったのだが、「意味のないことに金を使って・・・」と言う反発は、民衆のみならず、幕府内部にも多かった。

そしてここからが田沼の本領発揮と言うところだが、「田沼さまは袖の下を振るのも日本一」は言わずと知れた公然の秘密で、幕府や役人に言っても取り上げてくれないことでも、金さえ持って行けば田沼さまがきっと何とかしてくれると言う、大変オーソドックスだが判り易い形態で治世を行っていた。

そのため民衆や幕府、諸大名でさへ田沼には貢物、「現金」を一番喜んだとされているが、そうしたものを持参するのは当たり前になっていたようであり、田沼の屋敷には皆が順番となって待っていたと記録が残っている。

そしてこうなれば、一般的には豪邸に住み、金ピカ衣装で毎夜綺麗どころの所に出入りし、カンラカラカラ・・・、と言うのが普通だろう。
だが、どうやらこうした意味では、私達は田沼意次と言う人物を、大きく誤解している部分があるのではないだろうか。

実はこうした賄賂漬けの政策を行いながら、田沼の暮らしは至って質素そのものだったようである。

浅間山の噴火によって火山灰を被り、大幅な気候変動に見舞われ発生した「天明の大飢饉」(1783年~1787年)、これは実に4年にも及ぶもので、東北地方をはじめ、全国各地で40万人とも言う餓死者を出し、加えて重商主義は大商人を生むことにはなったが、その反面農村部にも商業高利貸資本が流入し、農村部は壊滅状態となり、そんな中で人々の不満は田沼意次やその子、田沼意知等に向けられ、1784年には田沼意知が、殿中で旗本の佐野政言によって切り殺されるが、その理由は個人的な恨みであったとされている。

そしてその2年後1786年、どうにも解決の見えない「天明の大飢饉」、その飢饉下での政策はどれも裏目にしかなならず、ついに田沼意次は老中を罷免されるが、その際松平定信によって没収された田沼の家には、本当に粗末なものしか置かれていなかったことが資料に記されている。

田沼が一生懸命受け取っていた賄賂、それはどこへ行ったのかと言うと、全て幕府の苦しい財政のために使われていたのだった。
まるで汚職の権化、田沼意次は自身の評判が悪くなることを承知で賄賂政治を行い、その金は公金として使っていた訳である。

ただ、こうした事実は一般大衆の知るところではなく、またたとえ大名や幕府幹部でも知るものが少なく、そのため表面上は汚職の権化とされるのは致し方のないことだった。

田沼意次が罷免された後、次の老中となった松平定信、民衆から期待が大きかった彼は田沼政治を完全否定し、商業主義から伝統的な武家政策を敢行し、その改革を「寛政の改革」と言うが、この改革は散々な失敗に終わる。

失脚後、減俸処分を受け、陸奥に配転となった田沼意次の生活は悲惨なものだったが、彼はそこでも飢饉に苦しむ人々のために、炊き出し用の米を寺に寄進しているのである。

やり方はめちゃくちゃだが、私はこうした男が決して嫌いではない・・・。





雪の降る日に・・・

風の無い時に降る雪は、下から見上げると空に対比して少しグレーに近い色に見え、それらはまるで小さき者が笑いながら、ゆっくりと落ちてくるようにも見える。
そして本当に大雪になる時は荒れた夜より、こうした静かな夜の方が危ないものなのである。

私が幼い頃、それでも6、7歳にはなっていただろうか、毎年我が家では、貧しかったが12月は28日から両親が炭焼き窯の火を落とし、翌年の10日前後まで休んでいて、年末には掃除をしたり餅をついたり、また町まで買い物にでかけたりしていたが、今のように自家用車があるわけではなく、バスと蒸気機関車を乗り継いでの買出しで、背中に大きな荷物をしょった父母が家に帰りつくたび、何かお土産が無いかと私達兄弟は慌てて出迎えたものだった。

そして餅もつき終え、神棚と仏壇に正月のお供えも終えた頃、12月31日は夕方からヒネ鶏とゴボウからダシを取り、それにコンニャクと蒲鉾、ネギを添えた醤油仕立てのかけ汁で、蕎麦やうどんを食べるのが毎年の我が家の恒例となっていたが、そうめったに食べることのできない蕎麦、うどんが好きなだけ食べられる、こうした大晦日の夕方と言うのは、子供にとっては本当に嬉しいものだった。

だがどうだろうか、こうした時代、記憶にあるのは3年ほどなのだが、毎年大晦日の夕方、いや正確には午後5時か6時ごろ、皆で蕎麦やうどんを食べている、ちょうどその時刻に家を訪ねてくる者がいた。
外はただ音も無く降り続ける雪の中、建て付けが悪く、何度か勢いをつけないと開かない家の玄関の前に立つ者、それは「乞食」の親子だった。

おそらく母と娘なのだろう、母親の年齢は私の母と同じくらいだっただろうか、そしてその娘はたぶん私より1歳か2歳ぐらい下だったと思うがそんな年頃で、外の景色を背景にその姿はまるで消え入りそうなほどか細く小さく見えた。

母親はまず玄関へ入ったなり、例えそこへ出てきたのが私のような子供でも構わず土下座し、そして「困っております、お恵みを・・・」と言うのである。

当時おそらく乞食と言う概念のない私には、この親子にどう接したら良いのかが分からず、それで必ず両親や祖母を呼ぶのだが、祖母や母達はこの母親には米や餅、そして娘の方には100円札を渡し、母親はそれを白い大きな袋に入れ、娘もまたお金をその袋に入れると、「ありがとうございます」と言って、今度は玄関を出てから外で土下座をするのである。

そしてその時は小さな娘もまた、積もった雪の中に手をついて、お辞儀をするのだが、2人が少し家から離れた頃に玄関の戸を閉める私は、外にモミジのような小さな手の跡と、母親の少し大きな手の跡が並んでついているのを見て、何かを思ったのだが、その感情は文章では表すことができない。

おそらくこの親子は、本当は私が記憶にある以前数年まえから、こうして大晦日になると、この村を回っていたのだろうが、勿論この村の者ではなかったし、私が9歳か10歳ぐらいになると来なくなったのだが、それでも少なくとも3年はこの同じ親子がわが家を訪ね、そして私はこの親子から何か大切なことを教えてもらったことは確かだった。

母親は多分、片足が不自由、と言うより歩く時に体が大きく上下していたこと、杖をついていたことを考えると、もしかしたらどちらか片方の足は義足だったのかも知れなかった。

またその着ているものも、綿の擦り切れたところが破けたもので、その上から当時皆が冬になると着ていた、黒いフードつきのマント、ちょうど銀河鉄道999に出てくる「メーテル」が着ているような、あんな上着をはおり、それもところどころが変色している、そう言う出でたちだった。

また娘の方も黄色かベージュか分からない、色の変色したセーターの上から同じように小さなマントをはおっていたが、小さな顔に、どこか諦めたような、ひどく大人びた目をしていて、決して同い年くらいの私とは目を合わそうとはしなかった。

一度私はこの親子が外で土下座をしようとするのを見て、それを制止しようとしたことがあった、だがその時一緒にいた祖母はそうした私を止めた。

あの時、なぜ祖母は私を止めたのかは分からない。
そして勿論祖母があの親子の土下座を見て優越感に浸りたかったとも思えないが、なぜか祖母は止めに入ろうとした私の袖を引っ張って、厳しい目で私を睨みつけたことを今も明確に憶えている。

思うに、子供の私が止めに入れば、暴言を吐れるよりも、この親子には惨めな思いをさせたかも知れない、また人の運命に、まだ自分ですら養って貰っている身分の者が何をか言わん、だったかも知れない、人の運命はその人でなければ切り開くことはできない。
所詮人はそれに僅かなものを恵むことはできても、それ以上助けられる、はたまた同情をかけることは「傲慢」だと言いたかったのかも知れない。

もしかしたらそれは、後年、こんな年齢にならなければ分からないことだったのかも知れない。

私はこの娘のことが可愛そうだった。
同じ年頃の子供なのに、片方は暖かい囲炉裏を囲んで蕎麦を食べる、その一方で凍えるような寒さの中、フードに雪を溜めて歩く者がいる。
このことが心臓が張り裂けそうなほど悲しかったに違いない。

祖母がみんなの所に戻って行ったのを見はからった私は、自分の宝物を入れていある、みかん箱のところまで足音を忍ばせてたどり着くと、そこから大切にしている雄キジの尾羽を取り出した。

このキジの尾羽はたまたま雪道を歩いていて、空からキジが降ってきたことがあった時のもので、おそらく猟師が撃ったものだったのだろう、それが偶然にも目の前に落ちてきて、慌ててランドセルの中に隠して持ち帰ったものだったが、肉は家族と一緒に食べ、綺麗な尾羽は私の宝物になっていた。

私はそれを持ち出すと、こっそり長靴を履いて外に出て、くだんの親子をその景色の中に探した。

しんしんと降る雪に遠くの景色もみえないほどだったが、暗くなった雪道、その少し先に雪でかすみながらも、街灯の灯りに浮かび上がる大小の黒マントの影を見つけた私は、走ってその後を追った。
息を切らして、「あの・・・」と呼びかける私に振り返った親子、そして私は「これ・・・」とだけしか言えずに、女の子にキジの尾羽を手渡すと下を向いたまま、逃げるようにして、もと来た道を走って家へ戻った。

今から思うに、いくら自分の宝物だったとは言え、キジの尾羽よりは何か他の金か食べ物にしておけば良かったと反省しないでもないが、キジの尾羽を手渡した瞬間、あの女の子が少しだけそれまでと違う表情をしたように思ったが、それがどんな表情だったのかは忘れてしまった。
またもしかしたら、表情が変わったと思っていることすら、後年に自分で作り上げた幻想ではないと言い切れるものではない・・・。

生きると言うことは、本当はとてつもなく恐ろしいことでもある・・・。

こうして静かに雪が降る師走・・・、あの親子は、女の子はどうしているだろうか。
大人になって結婚でもして、子供と一緒に今度は暖かい部屋で蕎麦でも食べていてくれたら嬉しいのだが、いや彼女だからこそ、そうであって欲しいと思うのだが・・・。

外は静かだ。
天からはまるで小さないたずら者が沢山、底が抜けたように舞い降りてきている。
窓を開けると、まるでそうしたいたずら者達が部屋を覗くようにして下へ落ちていく、そしてその彼方には白い道が果てしなく続いているように見える。

ふと遠くのかすむ街灯の下に目をやるが、そこには勿論大小の黒いマントを着た2つの人影などはあろうはずもなく、ただ雪がそうした私を笑いながら降り続ける・・。





クレムリン物語り

メンデレーエフの元素周期表、この表の中の元素が全て国内に存在している国がある。

かつては社会主義に基づく軍事力で周辺諸国に圧力を加え、そして今は石油埋蔵量世界第2位、天然ガスでは世界第1位と言う、豊かなエネルギーによって周辺地域に圧力を加え続ける国ロシア、しかしどうもこの国はその民族性か、大振りなところがあり、原油価格の高騰で労せずして入ってくるオイルマネーに溺れ、経済対策が全く無策となっている。

そのためモスクワでは大停電が発生し、EU諸国や周辺の独立国家共同体(CIS)では、エネルギー安定供給国としてのロシアに疑惑の視線を向けているが、代替エネルギーの開発や、ロシアを通過しないルートでのエネルギー確保を模索している周辺諸国を尻目に、ロシアの態度は相変わらず横柄なままである。

また2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件以降、暫く続いたアメリカとの蜜月時代も、2003年3月から始まったアメリカ・イギリスによるイラクへの武力攻撃と共に、一挙に対立関係へと転じていったが、当時ロシアは国連安全保障会議の決議を得ないで行われる軍事行為に対し、激しくブッシュ政権に抗議した。

そして経済の活況から起こるロシア国民のプーチン大統領人気、これに気を良くしたのかどうかは不明だが、その後プーチン政権はどんどん権威主義的傾向を強め、ホドルコフスキー・ユコス社長の逮捕事件、ベスラン人質事件後の中央集権化、ウクライナ大統領選挙への遠慮の無い干渉など、ステップを踏んで統制、弾圧政策へとひた走っていく。

さらに「自由と民主主義の拡大」をうたった2期目のブッシュ大統領は、こうしたソビエト時代へ逆行するかのような、ロシア・プーチン政権を激しく非難するようになったが、2006年5月10日、アメリカ副大統領、ディック・チェイニーが行ったロシア非難はその典型的なものだった。

しかし他方ブッシュ政権は反テロ闘争、エネルギー供給問題、イラン、北朝鮮問題ではどうしてもロシアの協力が必要であったことから、こうしたロシア非難もどこと無く業務的な印象が拭い去れず、結果としてロシア・プーチン政権の権威主義的傾向はそのまま増長し、大統領をメドベージェフに譲ってもなお、プーチンは院政を引いたかのように影響力を保持し続けているのである。

またこれは余り日本で知られていないかも知れないが、プーチン政権は欧米諸国やイスラエルがテロ組織だとみなしている、「ハマス」の最高幹部をモスクワに招待している。

2006年1月、パレスチナ最大のイスラム原理主義組織である「ハマス」が、パレスチナ評議会選挙で過半数の議席を獲得、第1党となったが、ハマスはイスラエルの生存権を認めず、パレスチナ、イスラエルの2国家共存を前提とした中東和平案すら反対しているにも拘らず、プーチン政権は2006年3月3日~5日にかけて、ハマスの政治部門責任者であるマシャアルをモスクワに招待し、会談を行っている。

こうしたプーチン政権に対して、当時の国際社会は、厳しい目を向けたことは事実だが、ハマスは民主的な選挙の結果を経て選ばれた組織であること、ハマスを孤立させるよりは彼らと対話することが重要だ、としてこうした国際的な不信をかわしたプーチン政権、2006年4月16日にはロシアのセルゲイ・ラブロフ外相がハマス主導のパレスチナ自治政府議長に対して、1000万ドルの緊急財政支援を行う意向を発表するのである。

こうした経緯から、ロシアはアメリカやヨーロッパのように、イスラム原理主義イコール「悪」と言う概念ではないことが分かるが、その根底に沈むものは中東でのロシアの重要性を高めたいとするもくろみと、できれば中東でパレスチナ問題が長引けば、相対的にロシアの石油に対する、世界需要の高まりが期待できることにあるようにも考えられる。

そしてロシアの憂鬱だが、実はロシアが今直面している一番大きな問題が人口問題、それもロシアの人口は激減してきているのである。
2007年ロシアの人口は1億4280万人で世界第7位だったが、これが2009年には1億4190万人、世界第9位に落ち込んでいる。

年間ベースで最大70万人の人口減少があり、このペースで推移するなら50年後のロシアの人口は1億1100万人、ちなみに日本の50年後の予測人口は1億2740万人となっていることから、こうした予測人口では、日本の方がロシアの人口を上回ることになるが、そもそも日本の予測人口が1億2740万人と言う根拠は極めて疑問な点があり、各国が自国の都合で出したデータは当てにならないものだとするなら、そうした傾向を割り引いて考えると、ロシアの人口減少は数字以上に深刻なものがあるように思われる。

ちなみにロシアでは、2006年から移民政策を強化し、移民の受け入れに努めていると共に、母親となる女性には第1子に毎月1500ルーブル、第2子には同じく3000ルーブルを現金で支給する政策が取られているが、そうした政策の効果は今のところはっきりとは現われていない。

さてロシアだが、最後にロシアの電話事情の話をしておこうか・・・。
ロシア・ノーボスチ通信社の発表によると、ロシアの携帯電話契約件数が国民1人に1台の割合、すなわち1億4280万件を超えたのは、2006年のことだったと言う。

正確には2006年7月に契約件数が1億4307万件になり、これで携帯電話の浸透率は103%になったが、このときのロシアの携帯電話契約件数の伸びは、1カ月で280万件と言う勢いだったのである。

1980年代、旧ソビエト時代には欧米で普通だった電話の「内線」と言う概念が無く、地方の上級官職の机の上には沢山の電話が並び、また電話番号も必要な人間以外教える必要は無いと言うのが当たり前、当然あるべき電話帳もなかった時代からすると、何ともその感慨は深い・・・。






キラー言語・Ⅱ

だがやはり言語とは面白いものだ、こうしてフランスなどがキラー言語から守ろうとしている自国言語、しかしキラー言語と言う広域コミュニケーション言語は、こうした世界各地のコミュニケーションを円滑化し、そこから世界各国に「理解」と「相互認識」をもたらす役割も持っている。

また少数言語、ローカル言語だが、こちらもキラー言語によって駆逐されるのだが、それから後がかなり愉快なことになっていて、ローカル言語からキラー言語に移行する「言語移行」(Iinguistic shift)の時期には、キラー言語の中にローカル言語独自の文化的特徴を持ち込み、結果としてキラー言語と言う広域言語を、独自に変形させたものを創造させるが、この仕組みは風邪ウィルスにとても似ている。

例えばオーストラリア先住民族、アポリジニが言語を英語にシフトして行った過程には、「オーストラリア・アポリジニ・イングリッシュ」(Ausutraliann Aboriginai English))と言うアポリジニ独特の英語が創造されたのであり、そこには先住民族のエストが宿り、まるで彼ら先住民族の文化が再生されたかのような、はたまた小さき存在が大きなコンテンツに変換され、大海原に乗り出したような煌きがあったのである。

そしてキラー言語による侵食は、何もオーストラリアの先住民族だけではなく、この日本も英語の侵食によって大きな影響を受けているのだが、ここでもやはり日本語と英語の和製英語が創造され、その言語は正確に日本文化を継承しているとは言えないまでも、したたかに英語の中に独自の文化を織り交ぜたものとなっているのである。

だから言語を守ると言う意味に措いて、一つは純粋なものを残さなければならないとしたら、それは画像データか文書記録でしか実現しないかも知れない。
かたくなに文化を守るとして、そこにコミュニケーションを欠いたものが発生するなら、それに固執することは、言語が言葉の蓄積であると考えれば、言葉本来の持つ意義をも失わせることなるのではないだろうか。

21世紀の終わりには6000を超える言語のうち、その90%が消滅する恐れがある。

だが同時に人類はキラー言語と言う広域コミュニケーション言語の中に、失われた5500余りの言語を融合させ、それまで余りにもローカルであるが故、その存在ですら認識できなかった文化をグローバル化させる道を見出すのではないだろうか・・・。








キラー言語・Ⅰ

おかしなものだが、言葉と言うのはその言葉に発しないところに本心があるものだ。

すなわち自身において既に決定しているもの、また相手がいる場合も相互に理解がなされているものは言葉にする必要がない、つまり言葉とは未熟な状態に対する補足、これから関係を作ろうとするなら、その為の道具としての側面があり、これは基本的には不完全なものだと言う事だ。

しかし人間は今のところ「心」を直接相手に伝える手段を持たないばかりか、その自身の「心」ですら瞬間のものでしかなく、言葉は常にこうした瞬間を未来に記憶させるレコードのようなものであり、厳密には今日の言葉は明日に同じ意味を持つと限られるものではない。

また古来より言葉は「霊魂」(ことたま)と言われ、それは魂を表すものだとされているが、この場合の言葉とは「ああ」とか「おお」と言う言語にならない叫びや、感嘆詞、また全く意味のない言葉を指すものと考えた方が良い、すなわちいくばくかでも第三者が理解可能な言葉になった時点で、それは「霊魂」ではなく、何某かの「他に対する自己」でしかないのである。

2008年現在、この地球にはおよそ把握できる範囲で6116くらいの言語が存在していると見られているが、100年後、22世紀初頭にはこうした言語がいくつ残れるかとなると、おそらく半分の3000ぐらいだろうと考えられている。

そしてこうした3000の言語の中でも、安定してそれ以降も残っていける言語はその5分の1、つまり600ぐらいではないかと見られている。

急激な速度で進む地球的規模の都市化と高速情報伝達社会、この2つ要素はそれを使う頻度が極端に少ない「方言」、または「村落言語」と言うローカル言語を一挙に駆逐し、使う頻度や使用人口が多い「標準語」や「広域言語」が、ローカル言語にとって替わっていくが、冒頭で述べたとおり、言語はレコード、すなわち「記録する」と言う役割を持っている。

ローカルな言語は長い歴史とそこに住んできた人間の言葉による蓄積、これは結果として「言葉で表せないもの」を生み、それを文化と呼ぶも良いだろう、慣習や伝統と言う言い方でも構わないが、そうしたものを形成してきている。

つまり、言葉とは「言葉にならないもの」、言い換えれば言葉の結晶のようなものを生むと言うことで、例え1つのローカルな言語であっても、それが失われることは、人類の経験による貴重な痕跡や、生活の営みについてのかけがえのない知恵の蓄積を失うと言うことであり、その損失は計り知れないものだと言うことである。

そしてこれをグローバルな観点から見ると、地球にはこうしたローカル言語を駆逐していく作用のある「広域言語」が存在し、その筆頭が「英語」であり、他にもスワヒリ語、北京語などの「広域コミュニケーション言語」(Ianguage of communication)があるが、これらを総称して「キラー言語」とも言う。
この概念は簡単なことだが、その言語を使う人口が多く、またその言語を使う地域がより広域に渡っている言語は、小さくまたはローカルな言語の使用頻度を更に少なくし、その範囲も狭めていくと言うものだ。

これは言うなれば「道具」の問題かも知れないが、最も分かり安い例ではパソコンソフトのWindowsではないだろうか、パソコン黎明期にはアップルや他のソフトも存在したが、互換性の問題から現在では殆どWindowsが世界を席巻しているように、互換性やコミュニケーションの利便性から、少数言語はどんどんその役割を終え、広域コミュニケーション言語に、その座を譲り渡していく傾向にある。

そしてこのような傾向は何も地方の方言や、先住民族の言語だけに留まらず、例えばスイスの「ロマンシュ語」、ユダヤの「イディッシュ」などさまざまな紆余曲折を経てきたものも含まれ、こうした言語の保持について最も効果があるのは、特定の言語の使用を義務付けると言った、法的介入である。

スペイン・カタルーニャ自治州では、これまでスペイン語とカタルーニャ語を同等に扱ってきたが、2006年から、カタルーニャ語を行政や教育で優先する措置が取られるようになった。
国語がスペイン語で、この州の住民の半分がスペイン語を母国語にしているにも関わらずのこうした措置には、多分に疑問を感じる部分もあるが、そこまでしてでもカタルーニャ語を保持しようと言うことなのだろう。

またフランスではこうした措置が更に厳しいものとなっている。
例えばフランス国内にある外国企業、フランスではこのような企業に対しても、社内文書にはフランス語を使用することを法律で義務付けているが、この法律によって外国企業の社内効率はきわめて悪いものになり、結果としてフランスは外国企業に対する規制を行っているのではないか、またそもそもこうした規制は国際法に違反しているのではないか、などさまざまな疑問も引き起こしている。

そして更にフランスだが、フランスではこうしてフランス語を、英語と言う広域コミュニケーション言語から守ろうとしているわけだが、一方で例えばフランスの女性はマダム(Madam)とマドモアゼル(Mademoiselle)のどちらかを記載しなければ、行政文書や契約書が成立せず、鉄道切符の購入にでもこれは同じことが要求されるが、こうした言語と密接になった制度でも、時代に合わなければ、逆に廃止の運動が起こってきている訳で、特にフランスの女性にとって、この問題は深刻なものがあると言えるだろう。     

                                 キラー言語・Ⅱに続く




世紀の大発明

「おい、お前も来ていたのか」
「よー、ロデリック、久しぶりだな、何だお前のとこにも案内が入っていたのか」
「ああ、俺が実際受け取ったわけではないんだが、ポストに投げ込まれていたらしいんだ」
「そうか、うちもやっぱり同じだが、それにしても世紀の大発明って一体なんだろうな」

1916年4月16日、この季節にしては少し暖かすぎる陽気ではあったが、ニューヨークの外れ、ファーミンデールの町の一角では時ならぬ人だかりができ、周囲の人たちも巻き込んで大変な騒ぎになっていたが、その集まっている多くの者は、どうやら新聞記者らしかった。

この数日前、ニューヨークにある殆どの新聞社に投げ込まれていた案内書、そこには「今世紀最大の発明をしたので、是非ごらんあれ」と書かれており、その集合場所が、このファーミンデールの「エンリクト研究所」と言うことになっていたからだが、いかんせんそこにはペンキの剥げたボロ屋が建っていて、その戸口には自分で描いたのだろうか、下手な字の看板が斜めになってかかっている、そんな状況だった。

記者たちは今か今かと、この建物から人が出てくるのを待っていたが、そうした賑やかな気配を感じたのだろうか、やがてゆっくりとその研究所のドアが開き、そこに一人の老人が現れた。

「エンリクトさん、あなたがエンリクトさんですね」、記者たちはその70歳ぐらいだろうか、ドジョウ髭が襟まで伸びた貧相な老人の周囲にドッと詰め掛けたが、その老人はこうした記者たちの問いには一切答えず、手を挙げて皆のどよめきをを制すると、しゃがれた声でこう話し始めた。

「お集まりの皆さん、わしはついに成功した、水をガソリンに変える方法を発見したじゃ、これでの、3・8リットル(約1ガロン)の燃料が僅か1円しか、かからんのじゃよ」
老人はかすかに微笑むと、皆の顔を見回すように眺め、誇らしそうな表情である。

これにはさすがに普段から事件や事故、いろんなものを見聞きしてきた記者たちも唖然だった。
みんな事の次第が理解できずポカーンとなってしまった。

老人はそんな記者たちをしり目に、ドジョウ髭を誇らしげに撫でながら話を続ける・・・。
「では、実験してお目にかけようかの・・・」と言うと、一同を引き連れて裏の空き地まで歩いていったが、そこには中古の自動車が置いてあり、何とこの自動車を水で走らせて見せると言う訳である。

いくらなんでもここまでくれば、先ほどはポカーンとした記者達も、冷静になってきていて、いささかの胡散臭さと怪しさを感じ、ではこの車に仕掛けがないか徹底低に調べることになった。
記者たちは寄って集って車を綿密に調べ始めたが、確かに普通のエンジンとは多少構造が違うものの、少なくとも何かのトリックが仕掛けてあるようには思えなかった。
普通の車だった。

また「ガソリンタンクにガソリンがいれてあるんじゃないか」、と言う誰かの声に、こちらも1人の記者が長い棒をタンクに差し込んでかき回してみたが、棒の先にはガソリンに浸った形跡は見られなかった。
確かにガソリンタンクは空で、二重底でもなければ、別のところからもガソリンを引き込む細工は見当たらなかった。

つまりこの車からはどこからもガソリンは発見できなかったのである。

「気が済んだかの・・・、では皆さん、水を汲んできて頂けるかの、そしてそれをタンクに入れてくだされ」
老人は相変わらず勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、記者たちにそう言った。
早速水が運ばれてきて、記者たちはかわるがわる、それを指ですくって舐めてみたが、確かにただの水に間違いなかった。

老人はさも嬉しくてたまらないと言う表情だったが、やおら内ポケットから怪しげな緑色の瓶を取り出すとこう言う。
「さて、この何の変哲もない水じゃが、ここにわしの発明したガソリン種薬を混ぜる、するとこの水がたちまち代用ガソリンになってしまうんじゃ」

エンリクト老人はそれだけ言うと、その緑色の瓶の栓を抜き、そこからやはり緑色をした液体を2、3滴水の中にたらした。
そしてそれを良くかき混ぜると、水は僅かに緑色を帯びたものになったが、今度はそれをガソリンタンクに注ぎ込む。

「さあさあ、皆さん車に乗ってくだされ」

エンリクト老人はガソリンタンクに水が入ると、記者たちを車に乗せて自分も車に乗り込み、ここでも仕掛けがあるかもしれないと思った1人の記者が、エンリクト老人に代わって車のエンジンをかけたのだが、エンジンはまるで当たり前のようにかかり、まことに滑らか、そして車はスムースに走り出し、あきれて見守る人達を尻目に、ファーミンデールのあちこちを一周してみせたのだった。

このニュースはすぐに記者たちによって記事にされ、ニュースとなって伝わった。
一躍時の人となったエンリクト老人、自動車王ヘンリー・フォードもすぐさま彼のもとを訪ねた。
だが一体どうしたいきさつがあったのかは不明だが、その後フォードとこのエンリクト老人は、互いに相手の中傷合戦を行い、その挙句に裁判沙汰になったのだが、結局エンリクト老人がペテン師の宣告を受け、刑務所に収監される。

その後エンリクト老人は迫害と窮乏に晒され、発明に関してはその一切を明かさず、死んでしまったのである。
享年77歳であった。

もしこの発明が本当だったら、少なくとも人類は100年は早くエネルギー問題を解決していただろうし、中東問題も今ほどこじれることもなかった、はたまた地球温暖化問題も、もしかしたらそれが問題にすらならなかったかも知れない。

そして天才と○○は紙一重とは良く言ったものだ、私はエンリクト老人の発明が本当だったとする方に10ドル賭けようかな・・・・。







もう1つの破綻

1984年、創業者の山田光成に替わり、日本信販株式会社社長に就任した山田洋二は、社長就任直後に面白い話をしている。

「35歳の会社員、妻と子供2人は、それだけで十分に信用できる」
これは何のことだと思うだろうか、実はこれは無担保ローンの話だ。

この時代確かにカードローンも普及し始めていたが、それでもローン、つまり借金は結構大変なことだった。
50万円でもいざ借りるとなると、いや連帯保証人だの、それがなければ担保だなどと煩く、「金を借りる」と言う行為がいかに重大なことか、身を以て認識せざるを得ない手続きが待っていたものだった。

このときに山田洋二は思ったものだった。
すなわちこうした煩わしく、厳しいローンの手続きがもっと手軽になれば、それで商品は売れるのではないか、そしてもともと創業者である父の山田光成は割賦販売を手がけていたことから、これを前身としていた日本信販は、割賦形式のローンを販売していくに当たり、このような煩雑な手続きを廃止した無担保割賦販売に進出していくのであるが、その時何を担保にするかの議論で、2代目の山田洋二は「会社員、妻に、子供2人は、それだけで担保の価値がある」としたのである。

その後日本信販は50万円まで無担保無保証人の割賦ローンを展開するが、当初こうした取り組みには懐疑的な見方があり、「山田は今にきっと貸した金の回収が付かずに苦労するぞ」と囁かれたものだった。
しかしこうした世間の陰口を吹っ飛ばしたのは「会社員、妻と2人の子供」だったのである。

山田洋二の読みどおり、例えば35歳会社員で、妻と子供2人の家庭は、殆ど見事に遅滞を出さずローンを完済していき、それが終わるとまたローンを組んで商品を購入して行ったのである。
これ以後カードローンは爆発的に普及していくことになる。

またこれから3年後の1987年、バブルが最盛期を迎えようとしていたときだが、ある中堅企業の入社式で、社長が新入社員にこんな挨拶をしている。

「諸君、諸君は今日からこの会社の正式な社員となる訳だが、これはどう言うことかと言うと、例えば諸君がこの会社の社員証を持って持ってサラ金に行けば、その場で30万円は絶対貸してくれる、これがこの会社の社員になったと言う意味だ」
乱暴な表現では在るが、どこかでは本質を付いた挨拶のようにも思える。

そして22年後の2009年、どうだろうか、今でも中小企業の社員証で即刻30万円を貸すサラ金はあるだろうか、また現在「会社員、妻と子供2人」は担保としての価値はあるものだろうか。

これは随分厳しい現実が待っているのではないか、すなわち会社員はいつ解雇されるか分からない、妻は簡単に離婚していき、任意の連帯責任者とはなりにくい、ましてその上、子供がいるとなれば生活は苦しいに違いない、「金は絶対貸せない」になるのではないだろうか。

またこれは2009年度上半期、全国で競売にかけられた一戸建て住宅やマンションだが、前年同期に比べ46%以上も増加、その数は30180件にも登っている。(不動産競売流通協会調べ)
会社の倒産や解雇、給料やボーナスのカットなどにより、住宅ローンを組んだ人がその返済ができなくなり、せっかく購入した自宅が金融機関によって、競売を申したてられるケースが急増しているのである。

2008年度の上半期では一戸建てが14000件、マンションが7000件、店舗や事務所が9000件と言う具合に、全ての物件を含めて30000件だった競売物件が、2009年ではマンションと一戸建てだけで既に昨年度を超えているのであり、こうした実情に鑑みると、ここ数年、全体で年間50000件から60000件で推移してきた競売物件、これでも相当悪い数字なのだが、2009年にはこれが、住宅だけで60000件を超えるローン破綻となるのは確実な情勢である。

そしてこれはまだ序章に過ぎない、通常債務者(借りている人)が債権者(貸している人)に約束の支払いができなくなった場合、競売に至るまでには約1年を要するが、金融危機から始まった今回のこうした影響、これは昨年の今頃から始まったのであり、このことを考えると、これから更に競売物件は増える、いやこれから本格化すると見るべきなのである。

またこうした金融機関による競売の他に、ローンが払えなくなってしまった借り主が、任意で自宅を売却してこれを返済に充てる「任意整理」と言う清算の仕方も考えられ、これらを含めると2010年は最大100000の家庭が家を失い、更に残った借金も返し続けなければならない、そう言う非常事態が現れる可能性があるのである。

そしてこうしたことを考えての亀井金融担当大臣のモラトリアムだが、この借金返済猶予法案では、実質これを中小企業や、住宅ローンを組んだ人が銀行に申し込めば、明らかに信用不安が発生し、これにより更なる資金調達が困難になるケースが出現するであろうし、新たな返済計計画も求められるだろう、所詮借金の返済が少しばかり延長されるだけで、根本的な解決には繋がらず、殆どの中小企業や個人の住宅ローン返済者はこの猶予法案を活用できない。
それでも銀行には政府から実績目標が課せられると、おそらく銀行は安全な、つまり返済に支障のない人や企業に返済猶予を使って欲しいと頼み、それで実績を上げるだろう。

つまりこの法案は困っている人には使えなくて、困っていない人に銀行が頼んで使って頂く、そんな法案でしかないことを認識しておかなければならず、この法案によって更に銀行、金融機関は貸し出し基準を厳しくしていく恐れがあり、その先にあるものは新規住宅着工件数の激減、すなわち激しい住宅建設不況と土地価格下落、資産価値の下落である。

さてどうだろうか、こうしたことを考えて見ると、今の日本社会で、例えば山田洋二の言う「形のない担保」があるとしたら、それはこうなるのではないか・・・。

「信用できるのは公務員か大企業社員、年金受給者しかいない」

そうだ、今の日本社会で従来のローン制度、または住宅ローンの適応基準を満たすものは公務員か、よほどの大企業の社員以外は適応外になってきているのであり、これは従来続いてきたローンのあり方が「崩壊」し始めてきていることを示している。

すなわち日本が海外と違った雇用形態をなしてきたその要素である、1つは「年功序列賃金昇格制度」、また1つは「終身雇用形態」、そして「常に上昇する経済」、これらの日本独特のあり方や「運」と言ったものがグローバリゼーション、自由主義経済と言う国際社会の波で洗われて崩壊したとき、事実上一緒に崩壊していたものがあり、それがこうした日本独特の雇用形態を基盤としていた、従来のローンのあり方だったのである。

日本政府と日本人に降りかかってくる難題は今始まったばかりだ。
そしてその中の一つにはこうしたローンの制度的整理があり、新しい貸借基準の構築と言う、おそらく現行政府では実現不可能な問題も含まれている。

人間の世にいついかなる場合も通用する完全な経済論やシステムは存在しない。
それはいつも動いていて、とても不安定なものなのである。







プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ