よもぎ摘み・Ⅱ

だがどうだろう、こうした悲惨な百姓たちのあり様は全て災害だけが及ぼしたものだったのだろうか。

例えばここに天明3年(1783年)の津軽藩の記録があるが、津軽藩は前年から続く飢饉にも拘らず、40万俵の米を江戸と上方(大阪)に回米しているが、この年藩への上納は全て米で納入することを強制している。

このために津軽藩には米がまったく無くなり、慌てて幕府から1万両を借り受けて、他の領国から米の買い入れを計ったが、時すでに遅し、日本全国から米が無くなっていて、津軽藩は大金を懐にしながら、領民を餓死させていった、また一村全滅に追い込んでしまったのである。

また封建社会では、藩同士が互いに関係を深めることを厳重に禁止していたのは、一つには幕府に対する謀反を常に恐れたからであり、こうしたことから例えば、ある藩で飢饉が起こっても、隣の藩がこれを助けることは出来なかった。

「津留め」(つどめ)と言って、米を藩の外へ出すことを禁止していたからだが、隣国農民が飢えているからと言って、これを他藩が救済しようとすればその藩にもまた飢饉が及び、結果として飢饉が連鎖的に拡大することを防止する目的が、こうした措置の今一つの理由だった。

そして封建制度は何より農村の生産力が増大することを抑制してきたことが問題だった。
つまり農村が豊かになり、生産物が国内を自由に流れ、幕府が管理できない市場が拡大することを恐れた・・・と言うことだが、幕府にとっては、農村は食うや食わずのぎりぎりの線が望ましい農業政策だった。

そのため例え小さな飢饉でも、普段から苦しい農村は、一瞬にして悲惨な状態となっていったのである。

またここには飢饉の際に幕府や藩の役人が、飢えた農民たちに食料の施しをしている絵も残っているが、確かに農民は男も女も骨と皮ばかりの姿だが、なぜか役人たちの姿は皆偉丈夫で恰幅が良い。
ここから読み取れることは、飢饉は常に農村部や貧困層に起こっていたのであり、役人たちはほとんど死者を出してもいないことが伺えるのである。

最後には食べるものが無くなり殺し合いまでして、人の肉で自身の命を繋がなければならなった百姓に対して、自らは生産を行わない者たちがそれを支配し、災害を大きくしていた。
津軽藩のあり様はまさにその象徴とも言えるものだった。

そして当時の江戸、上方に残る資料でも都市部の者たちは常に良い体格をしてるが、農村部では皆やせ細っていたことが伝えられている。

このことから伺えることは、都市部の豊かさは農村、百姓の貧しき故に支えられていたと言うことだろう。

つまり封建社会は百姓から搾り取れるだけ搾り取ることで成立していた社会だったと言うことであり、災害は常に一番弱い者、そして貧しいものを狙ってくるように見えるが、これは明らかに人災であり、国も個人も豊かであればその災害は小さく、貧しければ災害は大きくなるのではないだろうか・・・。



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よもぎ摘み・Ⅰ

災害と言うものは、例えば大きな透明の球体、その真ん中に存在している者に対してその球体のあらゆる角度から、何が飛んでくるか分からない、そうしたものであるように見える。

そしてこうした災害と言えば、一番に考えられるのは気象や天変地異だが、それ以外にもこの6億年の間には、少なくとも2回、地球の自転が止まっているものと思われるし、半分生きていて半分死んでいるウィルスなどによって引き起こされる感染症、または植物や動物によって引き起こされる災害、例えば恐竜などは花によって滅んで行ったとする説もある。

だが少なくとも人類がこの地上に誕生して以来、文明と言うものを築き始めてから、災害における最も大きな要因は、災害の影に隠れた「人災」と言うものになってきているように思われるが・・・いかがだろうか。

享保17年(1732年)夏、瀬戸内海では毎日暑い天気が続いていたが、そうしたある日、村はずれに時ならぬ雲の姿を見た百姓のせがれは、急ぎこれを野良仕事に出かけている父親に知らせようと走ったが、やがてその雲は百姓のせがれに追いつき、しかもそれはまるで意思を持っているかのように低く降りてきたかと思うと、瞬く間に地面に群がっていったのである。

百姓のせがれが雲だと思ったものは何千万、いや何億かも知れない大量のイナゴの群れだった。
そしてそのイナゴの群れは人々の見ているまさにその眼前で、地上から生えているあらゆるものを食いつくし、丸裸にし、食べるものがなくなると場所を移動しては、全ての農作物を食い尽くして行ったのである。

これにより近畿地方から西は、九州一円に至るまで稲が完全に食い荒らされてしまった。
そのため日本全体で240万人が飢えに苦しみ、餓死者はおおよそ16000人と言う被害を出した。
これが享保の大飢饉である。

憶えておくと良い、古来より世界各地で起こる食糧危機の中には、このようにイナゴの被害によるものがたまに存在し、アフリカ大陸や中南米でも、こうしたイナゴの大量発生によってもたらされた飢饉が存在しているのである。

この突然のイナゴの大量発生はその原因がいつも不明であり、ある日突然起こってくる。

そしてこうして起こった飢饉が実際人々にどのような影響を及ぼすかと言えば、ここに天明の飢饉の様子が資料として残っているが、天明3年(1783)に起こった飢饉では生産力の低い東北がその災禍を被り、例えば仙台藩ではたった1年間で15万人もの人が餓死し、その後起こった疫病によりまた15万人以上が死んだ。

さらに南部藩では餓死者41200人、病死者24000人、村を捨てて出て行った者3200人、馬も20600頭が失われたが、これによって増えた空き家は何と11108戸におよび、天明3年の南部藩の人口が35万人であることから換算すると、1年で全人口の20%が死んでしまったことになる。

またここには別に、黒羽藩(くろばねはん・栃木県)の鈴木武助と言う武士が書いた「農喩」と言う書物の一部写しがあるが、これにはこう書かれている。

「関東はまだ大飢饉にはなっていない、しかし奥州では飢え死にしたものの数は多い。食べ物と言う食べ物は一切が無くなり、牛や馬は勿論のこと、犬、猫、狸まで食いつくし、もはや何も残っていない。そうしたなかで毎日人が死んでいく。ひどいところでは30家族も住んでた村や、4、50戸もあった里の全住人が死に絶え、それもいつ誰が死んだかさえも分からない状況で、死体はそのまま放置され鳥や獣の餌になっていた。また一村一里全てが何も無くなってしまったところすらある・・・」

そしてこれは伝えられている話だが、奥州路である人が橋を通っていたところ、その橋の下には沢山の餓死者が放置されていたが、、そこから死体のモモの肉を切り取って籠の中に入れていく者があり、彼らにそれを一体どうするのか聞いたところ、この人肉に雑草などの草を混ぜて、犬の肉として売るのだと答えたと言う。

羊頭を掲げて狗肉を売るなど可愛らしいものだ、狗肉を掲げて人肉を売っていたわけである。

東北の百姓は悲惨だった、牛や馬、犬、猫なども食いつくし、そして雑草や藁まで食べて、それすらも無くなって行き、ついにはもはや正常な心であろうはずも無く、死人の肉まで食べ始めたが、それとて腐っていくことからそうそうありつけなくなると、子供の首を切り火であぶり、その割れた頭蓋骨からのぞく脳みそまで箸でつついていた・・・と記録されている。

またこの当時広く農村では行われていた「間引き」だが、具体的には堕胎と産児圧殺のことを指し、また或いは捨て子もこの範囲に入ってくる。

すなわち私たちが昔、悪いことをして叱られたとき、「お前のような者は橋の下から拾ってきたんだ」と言われた語源は、まさに事実にその端を発しているのであって、堕胎が間に合わない子供は濡れた紙を顔に張られて死んでいくか、それとも橋の下に捨てられて、それを犬や獣が食らい、そうした犬や獣を人が食らう・・・、と言う形が存在したわけである。

堕胎は当時「もどす」とか「かえす」と言う言葉が使われ、半ば公然とした言葉ともなっていて、武士や町人の間でも行われていたが、都市部ではこうした堕胎専門の医師が存在し、これらの医師を「中条流」と呼んだりもした。

同じように「間引き」もそれ自体では言葉として抵抗があったのか、例えば生まれた男の子を殺す場合は「川遊びにやった」と言い、女の子を殺す場合は「よもぎ摘みにやった」と言うのであり、そう言えばお腹が大きかった母親や、その親族に子供のことを尋ねると、こうした言葉が返ってくることで、生まれたのが男の子か女の子かが分かったのだが、いずれにしても殺されてしまったこともまた分かるようになっていたのである。

                                  「よもぎ摘み」・Ⅱに続く








地下足袋・Ⅱ

そしてこの翌年、大正13年(1924年)、正二郎が好評だったアサヒ地下足袋の生産を倍増する計画を立てていたときのことだった。
何と、筑後川畔にあった工場、その大半を火事で焼失してしまう。

普通ならこれで意気消沈してしまいそうなものだ・・・、が、そこはやはり正二郎だ。
どうもこの男の根底には破壊は創造のチャンスと言うか、危機こそが我が活躍の場とでも言うかそうしたところがあり、それは根拠の無い精神論ではない、文字通り創造と言うものに近い考えで、消失した廃墟の上に新しいものを構築していくのだった。

正二郎は廃墟の上に今度は鉄筋コンクリートの高層建築を建設していく。
1年目は3階建て、2年目は4回建て、そして5階建て、6階建ての建物を建設し、そのおかげもあってか、工場の面積は消失時の実に18倍、しかも今度は機械を導入して、大量生産を流れ作業で行えるシステムに作り変えていたのである。

このためそれまで1足作るのに1人が50分近くかかっていた作業時間は、およそ32分に1足まで生産が上がり、おりから迎える需要の拡大に伴ってその事業は飛躍的に発展して行った。

その後、正二郎は1912年、初めて九州で自動車を使って足袋の宣伝をしていたことからも分かるように、来るべき自動車社会、その時代が遠からず来ることを見込み、昭和6年にはブリジストンタイヤ株式会社を設立するが、このときの発想もまた、おそらく地下足袋のそれと、何等変わらないものであったに違い無いだろう。

石橋正二郎、彼は面白いところがある。
すなわち「資本」に対する考え方だが、彼の中には常に資本の効率化と言うものが重要視され、しかもこの資本の効率化の目的が通常の商人であれば、自身の利益、または自身が関係する者の利益と言うことになろうが、石橋正二郎の資本はもっと広い概念があったように思われる。

それは自己と他があれば、他も配慮された、いわゆる資本の社会性への考え方である。
企業と言うものは利益を出してなんぼ、それが存続してなんぼのものであることからすれば、石橋正二郎のそれはこうした部分を創造と、社会的必要度で量っているところがある。

つまり企業は利益を出すことが至上ではなく、社会の役に立って行くこと、そしてそのために開発を続け、そうした社会との関係の中で存続していく道を考えよう、そして資本の最も理想的なあり方は、その投入先として「創造」にあるのではないか、そう言うことを我々に示しているように思えるのである。

さて、民主党政権時の鳩山元総理大臣の母親安子さんは、この石橋正二郎の娘であり、鳩山元総理にとっては石橋正二郎は「おじいさま」である。

危機の度に、そこに新しい世界を構築するように、この日本の危機を救って欲しかったが、どうも鳩山元総理はずっと迷走中の様相で、ついでに現政権の自民党も迷走中のような気がするが、資本の社会性と言う概念は重要な事なので、ぜひどこかでご記憶頂ければと思う。





地下足袋・Ⅰ

「正二郎や、済まんがお前が私の家業を継いで、この店をやって行ってくれんか・・・」

明治39年、当初進学を夢見ていた正二郎は、長男が出征してしまったことから、病気の父の、この言葉に従い家業の仕立物屋を引き継いだ。
石橋正二郎、17歳のことだったが、ブリジストンタイヤの歴史はここから始まった。

ちなみにブリジストンの名称だが、創業者の石橋、つまり「石」と「橋」、これを英語に訳して名づけたことにその由来がある。

家業を継いだ正二郎、まず一番最初にやったことは、翌年明治40年のことだが、仕立物屋と言う大変間口の広い商売のあり方を改め、「足袋専業」とし、その際当時丁稚(でっち)は無給と言う徒弟制度を廃止し、これを賃金制度に改めたのである。

シャツや下着、それに足袋などを注文に応じて作る形態が仕立物屋だが、正二郎はこうした商売の形態は非効率的だとして、これを当時一番需要の多かった「足袋」(たび)に特化することで、需要に見合った生産を効率的に行える体勢を整えたのである。

18歳の小僧が考えるにしては大したものだった、が、石橋の凄さはその次、修行中は飯は食わせるが、金は払わないことが通例になっていた徒弟制度の廃止である。
当時無給で使っているだけでも飯を食わせたり、風呂賃を出していたのでは割りに合わなかった丁稚に給料を支払うなど、考えられないことだった。

「石橋んとこの正二郎はきっと店を潰すぞ」、そうした声が久留米の街中で囁かれた。
しかし正二郎の本当の才能はここにある。それは「人の心」が投資に資することを見抜いている点だ。
それまで金を払わなかった者に金を払うことが、採算性を否定することにはならないと読んでいたのである。

表面的収益性の自己否定、並みの商人では絶対できない、いや、やれないこうしたことを若き正二郎は断行して行った。

その結果どうなったかと言うと、それまで頑張っても金を貰えなかった丁稚たちは、もともと口減らしで実家から丁稚に出されていることもあって、正直頑張ろうよりも「何とか早く修行期間を終えて」に主眼があったが、給料が貰えるとなれば一生懸命働くようになって行った。

そして正二郎の事業が次々その時代をリードし、巨大産業として発展していくその根本には、こうした表面的収益性の自己否定の精神が宿っている。

また正二郎はもともと商人と言うよりは開発者の素養が大きかったのかも知れない、彼のやり方は売り上げの1割を適正な利益とし、それが確保されれば価格を下げ、良い品をより安くの方針を貫く。

こうしたところから見える正二郎の横顔には儲かればどこまででも、と言った金のための在り様ではなく、こんな言葉は気恥ずかしいが、「世のため、人のため」と言った、今の社会では神話になってしまった精神などが垣間見えるのである。

そして時代は大正に入って、25歳になった正二郎は、それまで文数、つまり足の大きさによって価格が違っていた足袋の価格に「均一価格制度」を採用していくが、ここに至って正二郎は「屋」と言う店舗から、規格品を揃える「工業」として家業を発展させて行ったのであり、この思想は日本の産業革命とも呼べるものであり、この成功により当時の金額で100万円と言う大金を利益計上していく。

また「志まや足袋本舗」と言う名称も「日本足袋株式会社」に変更、おりから始まった第一次世界大戦の特需により、大正7年には何と会社の足袋販売高は300万足と言う途方も無いものになって行った。

しかし第一次世界大戦が終わった日本経済は急激に冷え込み、おりから起こってくるパニックによって経済は混乱し、そのため正二郎の会社も取引先の多くが破綻、売掛金倒れのため、創業以来初めて15万円の欠損金をだし、それだけならまだしも100万足の在庫が行き場を失ったのである。

石橋正二郎31歳、ここが正念場である。
1000人を超える従業員、そして100万足の在庫、ここで並みの、例えば現代の経団連会長ぐらいが考えることなら、人員整理に経費節減、それに価格を下げての商品の販売ぐらいだろうか・・・、だが正二郎のそれは一味違ったものだった。

彼の目は一般大衆の足元に向けられていた。
すなわちこの時代、まだ一般大衆の勤労者の履物は江戸の昔から変わらぬ草鞋(わらじ)であり、その生産の多くは農村での夜なべ仕事・・・、と言う形でしか生産されていなかった。

また草鞋は耐久性が低く、これを履いて働いているとすれば、1日で1足は使い果たしてしまうが、買うとなると1足4銭から5銭はして、その上に足袋を履くとなると、1日少なくとも6銭から10銭は飛んでいく勘定になる。
この頃の日本の日雇い賃金が一日80銭から1円、そうした勘定からすれば例えば日給1万円なら、最低600円は履物で費やされ、それが毎日の状況である。

どうだろうかデフレの今の時代に換算してみれば、そんなことはあり得ない状況だったのである。
正二郎はこの庶民の大変な事情を緩和し、そして自身の会社が発展する道を考えた。
そして出された結果が「地下足袋」だった。

当時「地下足袋」(じかたび)に近いものは阪神や岡山で明治34年ごろから作られてはいたが、とても高価な上にゴム底を糸で縫いつける方式だったことから、ゴムが磨耗すると糸が切れ底が外れ、その上に縫ってあることから耐水性は極めて低く、余り実用的ではなかった。

そこで正二郎が考えた地下足袋は、ゴム底を縫いつけない、いわゆるゴム糊で靴底を接着すると言う方法だったが、この開発は1919年ごろから始まり、1923年1月1日に販売が開始されたことからも分かるように、実に4年の歳月を要して完成されたものだった。

この年、正二郎の「アサヒ地下足袋」は人々から好評を博し、150万足も売れたのである。                                    

                                    「地下足袋」・Ⅱに続く




静寂の悲鳴

夜の闇には独特の艶かしさがあるものだ、そう水より流動性の低い湿度が、体の外側すべてを覆い尽くしているような、それは危険で力のある存在が自身を取り囲み、その狂気に引き入れようとするような、また二度と再び這い上がることのできない奈落へ誘われているような、そんな感じがして怖い・・・。

こうした冬の季節、突然停電することは珍しいことではない。
何せこの積雪でこの気温だ、昼間降った水気の多い雪は、夜になって気温が下がるとその重量を増し、ついに巨大な杉の木が耐え切れずその枝を折る。

そしてそれは下を通っている電線などいとも簡単に切断し、その結果この村は一切が暗闇に閉ざされ、あたりの静寂さとあいまって、まるで死んだようになって行くが、やがて無粋にもそうした闇の中に懐中電灯の直線的な光があちこちから現れ、村はまるで空襲を受けている町のように緊張感に包まれていく。

私は冬に限らず、部屋の隅に一本の蝋燭と半分に割れた小さい皿を置いてあるが、早速それを探し出しライターで火を付けると、一滴二滴その解けた蝋燭を皿に垂らしてそこに蝋燭を据え、急場の燭(しょく)を作る。
ああ、光とは何とあり難いものだろう。
さっきまでの不安や、少しの狂気は蝋燭の光が届く範囲に措いて一切が払拭され、まるで暖かな場をそこに切り開いてくれたような思いにさせてくれる。

ゆらゆら揺れる蝋燭の光は暗闇との相性がなかなか良い、これで電気が来ていれば音楽でもかけてコーヒーの一つも飲みたくなる気分だが、惜しむらくはこの状況ではすべての家電製品は使えない。
やがて長女が階下から声をかけてきたが、私は大丈夫だし、他の家族にも慌てないように伝えると、「分かった」とだけ答えて去って行った。
田舎に住んでいれば停電ぐらいは良くあることで、みな慣れているからこうしたものだ。

よしんばこれで数日電気が来なくても、私や家族が困るのはパソコンが使えないことぐらいだ。
ご飯を炊くのはプロパンガスだし、冷蔵庫もこの気温だ、動いていても止まっていても何も変わる事は無い、暖房も石油ストーブだが、いざとなれば囲炉裏だって使えない訳でもない。

だからこうして考えてみるとオール電化と言うシステムは田舎にはそぐわないシステムだな・・・、などと思う。
良く休日になれば電話がかかってきて、ああ言えばこう言うのしつこいオール電化勧誘があるが、彼らはこうした実態を知る由も無いのだろうな・・・。

静かだ本当に静かで、まるで蝋燭が燃える音が聞こえるようだが、そうした中に突然「カラッ」とか「カシーン」と言う音が混じったような音が、向かいの山から聞こえてくる。

静寂の中でまるでそれは竹を叩いた時のような音だが、これが木が裂ける音だ。
大きな枝が雪の重みで折れるときは、その木自身が裂けるときがあり、そうしたときにはまるで乾いた、意外な音がして木が裂けて行き、それは暫く時間を置いてあっちでもこっちでも鳴り響いてくる。

おそらく私よりも長く生きているだろうその木はこれで終わりになるが、その最後の音にしては余りにも湿度の無い、まるでこだわりの無い音で、そのことが逆に大きな悲しみとなり、無慈悲な天の在り様にしばし口を開けたまま立ちすくむ・・・。

いつのことだったか詳しい日時は忘れてしまったが、私はある日近くで開かれた木工作家の作品展を観に行ったことがあり、そこでは若い作家やその卵たちが、まことにお洒落な空間を演出し、ディスカッションまで行っていたが、私にはどうもこの作家たちから何かを作っていると言う印象が感じられなかった。

確かに言葉は巧みで、それらしい木の話や仕事の大変さも話していたが、何かが軽薄で、その作られた作品からはこちらに伝わるものが無かった。

そして彼らは木に対するいろんな話を始めたが、ちょうど私が座っていた少し前に、こうした空間には余りにも場違いな初老の男性が座っていて、彼は作家たちの話を聞きながら、その被っているヤンマーの帽子を時々取って、薄くなった頭を手で激しくかきむしっていたが、どうやらその感じからして、この男性は大きなストレスからそうしたことをしているように見受けられた。

そしてやがて作家たちの解説が終わり、今度は鑑賞者たちの作家への質問コーナーへと移り変わって行ったが、こうした時の質問と言うのも、いかにもお洒落で、仕事が大変ですか・・・のような質問が多かったが、やおらさっきの初老の男性が一度口を開いた瞬間、場内は言葉を失った。

「わしゃ、木で飯を食って50年や、それで木の物の作品展や言うから観に来たが、お前ら嘘つきや、そして作品も何もよーない、正直がっかりや・・・」
「お前ら、木を切ったことも無いだろう・・・」

男性は更に言葉を続けようとしたが、ここで慌てたのは作家たちだった。
いそいそと奥へ引っ込んでしまうと、司会役の若い女性作家の卵が、「これで質問時間を終わります」と言ってアッと言う間にその場をたたんでしまったのである。

そして瞬く間に周囲に人がいなくなり、その会場には私とその男性が取り残されたが、男性はやれやれと言う感じでまたヤンマーの帽子を被りなおし、そして立ち上がった。
そこで私は男性に近づき、「よう言うてくれました。私も同じことを思っていました」と言うと、男性は嬉しそうな顔になり、「そうか、あんたもそう思うてくれたか」と私の肩を何度もたたいたのだった・・・。

あの男性は今頃どうしているだろうか・・・、そして木で物を作っている人はこうしたことを知っているだろうか、温かい木のぬくもりと言う言葉は平易に使われるが、実は木はこんなにも悲しい音を立てて倒れていく、それを知っているからこそ、分かったようなもの言いは腹が立つ・・・。

私はこうして冬になって木が裂ける音がするたび、くだんの男性のことを思い出す。
そして作業服姿でヤンマーの帽子を被って作品展を観にきた男性の失望感が、今はあのころよりもっと明確に、分かるようになってきたように思う。

さてどうやら停電も終わったようだ、室内にはまた明るい蛍光灯の明かりが戻ってきた。
蝋燭の火は消して、また明日も頑張ろうか・・・。

統帥権・Ⅱ

またこうしたことを考えると、日本の統帥権もその実態は韓国に近いものがあるのではないか、すなわち日米同盟により背後に存在するアメリカ軍と、日本の自衛隊ではその思想、スケールで同等の性質のものではないことが明白であり、日本の国防の実権は事実上アメリカ軍にあるとも言えるのではないか、さらに核兵器による抑止力、いわゆる「核の傘」なる存在が出現してくる場合は、そもそも日本が当時国でありながら発言できない部分も発生してきかねない。

統帥権、自国軍隊を動かすことのできる権限、これは言い返せば主権国家がその主権国家たる最大の要件とも言える権利である。

だがしかし、少なくともこの東アジアでは、実態として韓国と日本の統帥権は権限をその主権国家が持っていながら、事実上の運用はアメリカが行うと言うような、太平洋戦争以前の仕組みと似たシステムが働いていて、しかもその運用者は主権国家以外の国家が担っていると言う、まことに異例な状態とも言えるのではないだろうか。

このように統帥権はその国家の根幹にかかわる問題なのだが、その実こうした権限や主権国家と言う概念は、その当事国が主張すれば何か形として確定するようなものではない、むしろ統帥権や主権国家の概念は綺麗な白い紙ではなく、世界情勢の中で遠目には白に見えるが、近くで見るとグレーの紙のようなもので、しかもそのグレーは各国によって濃度が違う、そんなもののように思え、また国家そのものも何か確定的なように思うかもしれないが、その実態は世界情勢と言う様々な要素の中でしか成立し得ない不確定な状態、つまり相互に認め合っていることで成立しているに過ぎないもののようにも見えてしまう。

1980年代まで続いたアメリカとソビエトの対立、いわゆる東西冷戦構造だが、このときは世界各国の統帥権は大まかに2つに集積され、この2つの統帥権がいがみ合っている状態で、こうした状態、統帥権が集まって管理されている状態は比較的統帥権の乱動が少なかった。
しかしその後ソビエトが崩壊し、アメリカ一国ではこうした統帥権の管理やそれに対する干渉能力に限界が現れ、各国の統帥権は緩い縛りから開放された形となった。

その結果どうなったかと言うと、各地に民族運動や内戦が続発し、大きな対立から開放されたと喜んだのも束の間、世界は瞬く間にあちこちで煙を上げる状態となった。
すなわち統帥権が大きくかたまった状態から、細かくなって行った瞬間、その統帥権はさらに細分化され、同じ国内でも割れて行ったのであり、またそうした統帥権のかけらは同じ国の同じ民族にすら向かって行った。
こうしたことから思うことは、統帥権と言うものは細かくなればなるほど不安定になり、そしてより細かい統帥権は、既に国家や平和と言った、例えみせかけでも持っていたその根拠となるものをも失い、より個人的な感情に近づいて行くような・・・、そんな気がするのである。

さて、話は変って家の統帥権だが、ただいま台所でホットミルクを飲んでいるかも知れない・・・。

統帥権・Ⅰ

およそ武力と言うことであれば、それは個人が拳を振り上げることからでも始まるが、これが2人以上になってくると、「作戦」と言うものが必要になってくる。

すなわち個人ならどう戦うかを考えるのも自分の裁量なら、実際に殴ったりするのも自分であるから、全てを自分で判断することになるが、これが2人以上だと憎い対立相手が必ずしも同じ憎さであるとは限らない、そこには共通の感情があったとしても、憎いと言う感情には濃度の違いが出る。

そこでどこまで、どう戦うかと言うことを意思統一し、決めて行動しないと共通の目標を達成するにしても、2人以上が共同した効果が出ず、互いの感情の濃度についても相互認識されていないと、どこまで戦って良いのかも分からなくなる。
例えば少し痛めつけてやろうと思っていただけなのに、怪我を負わせてしまう、または殺してしまうと言うことであれば、それは片方が望むことであっても、もう片方はそこまで望まないと言う事態を引き起こしてしまうのである。

ここに個人の場合であれば、感情だけの武力は成立するが、これが複数になったときは殴ると言う実戦行動と、「作戦」と言う全体を見渡した「考え」が必要になってくる。
つまりどう戦って、その目標は何か、そしてどこまで戦うかと言うことを考える、実際に殴ると言う行為の他の全体を見渡した視野と、対費用効果を計算する冷徹な「智」の部分が必要になってくるのであり、こうした「智」の部分が「統帥権」(とうすいけん)の始まりと言える。

そしてこれが「金」で雇われている場合、また権力によって戦闘目的で集めらているものを一般的には「軍隊」と呼び、この場合は相手に対して特に憎しみもなければ、何の感情もなくとも殺戮が指示されるが、こうした行為、つまり憎しみもない者を殺していくことの根拠、またはこれに正当性を与えるものもまた統帥権の役割である。
すなわちそこには「作戦」と言う個人では避けがたい全体性と、そこから発せられる「命令」と言うものに措ける絶対性によって、個人が本来持つ「罪の意識」が正義や平和と言ったものにすりかえられるのである。

だから結果として軍隊に措ける一兵卒に戦争の責任を問うことはできない。
互いに殺戮を繰り返す戦争と言う行為に措いて、その責任を問われるのは実際に命令されて殺戮を行う兵隊ではなく、その全体を見渡して殺戮を指示した、いわゆる戦争で実戦と作戦と言う部分があるなら、その作戦に拘わった者にこそ、責任が問われるのであり、こうした責任と軍隊を動かす権利のことを「統帥権」と言うのである。

そしてこうした統帥権は、一般的には軍そのものや政治と区別した形で考えられるのは、例えば軍幹部の個人的事情、または為政者の事情によって、国家国民の平和と安全を守る軍隊が動かされてしまうことを危惧するためだが、では実際のところはと言うと、例えば第二次世界大戦ではどうだったか、アメリカでもやはり統帥権は独立した形ではあったが、基本的に大統領の権限はこれを覆うものであったし、ソビエトのスターリンは独裁によって、またヒトラーも同じく独裁によってこの統帥権は時の指導者のなすがままになっていた。

また日本でも本来、大日本帝国憲法では統帥権が天皇にあるとしながらも、実際には輔弼者がそれを運用し、天皇はこれに逆らわないことが不文律となっていた。
そのため輔弼者である日本軍参謀本部がこの統帥権を運用していたが、これは軍人が内閣総理大臣になっている場合では統帥権のあり方としては正しかったが、東条英機内閣で、東条はこの大権を自身が運用できるようにしてしまい、ここに東条もまたヒトラーのように独裁色を明確にしていったのである。

このように統帥権と言うものは大変な、言い換えれば国家そのもののような大権でありながら、それが机上の考え方からその端を発していることもあって、いつの時代、どの国でも不安定なものであり、曖昧かつ常に強弱が周囲の国家的環境によって変質し易いものでもあったのである。

では現在アメリカではどこに統帥権があるのかと言うと、それは合衆国大統領の手の内にある。
そしてロシアでは一応の手順はあるとしても、事実上ロシア皇帝並みの権力を持つプーチンの手にこの統帥権が有ると見て良いだろう、また中国では国家主席の胡錦濤(こきんとう)が、そして北朝鮮ではかの金正日国防委員会委員長がやはりこの統帥権を掌握しているが、日本に措ける自衛隊の統帥権は、現在鳩山内閣総理大臣の手中にあることになる。

だがお隣の韓国だが、韓国の統帥権は実は昨年2009年まで、アメリカ軍大将がその権限を持っていた。
韓国の国防思想には平時と戦時の考え方があり、平時の統帥権は1994年12月にアメリカから韓国に返還されたが、戦時に措ける統帥権は、韓国軍だけでは万一北朝鮮と戦闘体制になった場合、到底守りきれるものではないことから、韓国軍そのものが米韓連合軍体制の中にあり、従って連合軍司令官のアメリカ軍大将にこの統帥権が委ねられていたのである。

しかし年々増強される韓国軍、そして2002年に発生した在韓米軍装甲車による、女子中学生轢死事件に端を発する在韓米軍地位協定改正の機運は、こうした韓国軍の格上げ問題をも提起する結果となって行った。
そしてこうした韓国に配慮する形で、アメリカの当時の国防長官ラムズフェルドは、2009年までに戦時統帥権の韓国返還を口にし、それを2006年9月、当時のアメリカ大統領ブッシュが、追認したのである。

ただどうだろうか、現在でも韓国に展開するアメリカ軍の代わりを全て韓国軍だけでカバーできるかと言えば、それは無理と言うものだろう、従って名目上は返還された韓国の統帥権だが、その実態は依然アメリカの手中にあると言えるのではないだろうか・・・。

                                   「統帥権」Ⅱに続く

一本のあぜ道

田んぼのあぜ道は細く、それは1人が歩けば他の者は通れない。

だからそこには古よりの不文律がある。
すなわち子どもよりは大人が、そして田んぼの所有者が、また後から入った者より先に歩いている者に常に優先権がある。
が、しかし田舎では一様に皆が人に先を譲るが、こうした不文律を知らない者ほど人に道を譲ることを知らない。

また農道と名のつくもの、それは農家同士が自分達の土地を削って、協約で道をつけているため、本来こうした道路はそこで農業をしている人しか使えない、つまり農道と言うものは農家の共同道路であって、基本的には農家以外は許可なくそこを通過することはできないし、また車を止めることもできないが、ここでもこうした仕組みを知らない者ほど、自身の権利を主張する。

すなわち、「ここは天下の大道、余が通過しておるのだ、道を開けよ」の態度の者が多くなるのだが、そこは初めから天下の大道ではないのだ。
おかしなもので、知っている者と言うのはそういたずらに権利を主張しないものだが、知らない者ほど小さなことでも権利を主張する。
そして世の中と言うのはあらゆる場面で、1本の道を廻って争いや葛藤が起こり易いものだ・・・。

中国明代末期に書かれた「菜根譚」(さいこんたん)と言う随想集にはこうしたことについて面白いことが書かれている。

すなわち1本の細き道があって、そこを向こうからこちらへ歩いて来ようとする者あれば、常に人に道を譲れ・・・、とするものだ。

菜根譚は本国中国ではそれほどに重きを置かれず、かえって日本の「禅」思想の中で盛んに読まれた処世訓だが、それだけに読み取るものは深いものがある。

勿論人に道を譲ると言うことは謙譲の美徳からしても大切なことであり、そこに人を思いやる気持ち、また相手の立場に立って物事を考えると言うことの大切が存在するが、しかし菜根譚のそれはこうした表面上の「徳」のみならず、もっとしたたかな思いがそこに沈殿している。
ここで人に道を譲るは我の為なり・・・、が見え隠れしている。

ビジネスで最も大切なことは何だろうか、いやビジネスでこれだけは外せないものとは何だろうか、それは「利益」と言うものではないだろうか。
人が幸せを現実にする手法は様々だが、そもビジネスでそれを築こうと思ったものは、まず利益を出して、そこから周囲にもそれを分配し、その利益で社会正義を実現するのが道と言うものだろう。
こうした者が徳を持って云々であれば、それはビジネスから遠くはなれ、結果として思う自身のありようは現実にはなるまい。

そしてこうしたビジネスの必須条件である「利益」には2種類あって、その一つは儲けることであり、もう一つは「損をしない」と言うことになろうか、菜根譚はこうした「損をしない」と言うものについてその在り様を説いている。
利益と言うものに措いて、そもそもこの「損をしない」と言うことはとても難しい。

儲けると言うことの根底には、日々の努力が必要になるが、ではこの日々の努力のなかで最も大切なことはなんだろうか。
営業で成績を上げるために毎晩接待もその一つだろうし、ゴルフに付き合わなければならないのも一つだろう。
だがそれ以前にも必要なことがある。
毎朝、出会う人みんなに挨拶をしているだろうか、また、たまたま会議で意見が合わなかったからと言って、その人とは疎遠になっていないだろうか。

人間の正義などは所詮個人の好悪の感情から外れるものではない、だから少なくとも毎朝みんなに挨拶をしておく、また例え意見の対立があってもそうした者も親しい者も同じように接する、同じ頭を下げるならより深く頭を下げる、狭い道路で向こうから車がきたら、どう思おうとも構わないが、とり合えず人に道を譲る・・・、これらのことは接待のように金がかからない企業や個人の営業努力と言うものであり、これこそが「損をしない」と言うことに他ならない。

菜根譚の言う、人に道を譲ると言うその謙虚さの意味するところは、実に自身の可能性を広げる努力にほかならない。
今気に食わない行政の若い職員も20年後には幹部になっているかも知れない、また自分の娘婿の親が過去に喧嘩した相手だったら困るだろう。

だから少なくとも、敵の数は少なくしておきなさいよ・・・と言うことなのだ。
しかも菜根譚はこれを「徳」と言う思想で言っているだけではない、むしろ自分の利益にためにやるべし・・・、と言っているのであり、その利益の先に更なる深い「徳」を説いているのである。

鑑みて今、自身の在り様はどうだろうか、そんなことを言ったってみんながそうだからと、「俺様に逆らうつもりかバカ者めが」になっていないだろうか、「私が通るのよ、下々の者は道を開けなさい」になっていないだろうか。
利益と言うものは傲慢な者のところには長く留まらない、暫く調子が良くてもすぐにそれはひっくり返されるが、普段から謙虚な者はもしかしたら多くの援助が広がっているかも知れない。

あぜ道は細い、そしてその細い道を両端からそれぞれ向こうに行きたい者がいるとき、これは時に対立と言うものであるかも知れないが、このときは良く考えるが良い、それを譲って自分が損をするか得をするか、いたずらに時間がかかって、しかもお互い嫌な思いをするなら、そこはそれこそ己が利益の為と思って道を譲るが良い、それは恥ずかしいことでもなければ負けたのでもない、大変な大儲けをしたのである。

社会の景気が悪くなると、いろんな意味で人々の心は乱れる。
金にゆとりがあれば笑って済ませていたことでも、余裕がなければそれを許せなくなるかも知れないが、結果としてそうした有り様ではさらに自身が貧しさに追い込まれていく。
苦しい時、利益が出ない今の時代であればこそ、謙虚であることが最も利益に近い道と言うものではないだろうか・・・。

あなたはオリジナル?・Ⅱ

どのくらいの時間が経過しただろうか、パウルスはまんじりともせずに自身と恋人の姿を追っていたが、やがて2人はボートを岸につけると、今度は近くにある簡易レストランへと入っていったが、そこでも恋人達は実に仲がよく、外から窓越しに見えるエヴァの幸せそうな顔は、今のパウルスに更に深い追い討ちをかけるものとなっていた。

「俺の前ではあんなに嬉しそうな顔などしたことも無いが、自分の偽者の前ではあんなに幸せそうだ、一体俺は何だったのだろうか」
パウルスは腹が減ってくるのも忘れて、彼らのことを眺め続けた。
だが、パウルスは漠然とだが、これから先彼らがどう言う行動になるかを知っていた。

なぜなら、この日のデートはエヴァの両親が朝から夕方まで留守になることから2人で決めたものであって、こうして湖から帰った2人は、それからエヴァの家に行き、その先はどうなるか、それはパウルス自身が一番良く知っていることだった。

そしてパウルスが思ったとおり、エヴァともう1人のパウルスは食事を終えると、今度はエヴァの家に向かい、やがてドアの向こうに消えていった。
この先はもう分かっている、だが今自分が慌てふためいてエヴァの家に入って行けばどうなるか、パウルスは一糸まとわぬ2人の前で何と言えば良いのか、いやどうして良いのか分からなかった。

暫くエヴァの家の近くに佇んだパウルス、やがて彼は気が付くと、力なく踵を返し、自分の家へと帰り道を歩いていた。
そしてもう自分の家が見える距離まで歩いてきたとき、パウルスの少し前を歩く人の姿が目に入ったが、それは何と自分が今着ている薄手のジャケットであり、その後姿はまぎれもなく彼自身だったのである。

「くそー、どこまでもバカにしやがって」パウルスは今度はエヴァもいないことから、走ってそのもう1人の自分を追いかけた。
しかしパウルスがもう少しでその自分に追いつこうかと言うとき、もう一人のパウルスは振り向きもせず、スルリと家のドアを開けて中に入って行ってしまった。

そしてその後を鬼のような形相で追いかけて、家に入ったパウルス、だがしかしそこには母親が不思議そうにこちらを眺めている姿があるだけだった。

「お帰り、今日はエヴァと会うんじゃなかったの」
「母さん、今誰かここへ入って来なかった」
パウルスは家のあちこちを探し始めたが、どこにも誰もおらず、そして母親も誰の姿も見ていないと言う。
「一体、あいつは何なんだ・・・」
パウルスはついに頭を抱えたが、そんな息子の不可解な行動を母親は黙って見つめるしか手がなかった。

そしてパウルスの日記はこの少し前、自分自身が家に入って行ったことまでを記録して、次は永遠に綴られなかった。
この4日後、パウルスはくだんの湖で水死体となって発見され、この日記から、精神的に不安定なってしまって自殺したのだろうと言うことになってしまったのである。

だがこの事件にはおかしなことがある。
それはこの最後の場面の母親の供述だが、彼女が家に帰ってきた息子を見たのは、午後3時20分、そしてその頃エヴァもまた同じパウルスと共に自宅で過ごしていたのであり、エヴァの証言では少なくとも午後5時過ぎまでは、パウルスと一緒にいたことは明白なのだ。

また母親は事実上、血相を変えて帰ってきて部屋へ入って行った息子の姿が、生きている息子の最後の姿になっているが、結局パウルスはそれから部屋を出た形跡もなく、行方不明となってしまった。
ではエヴァと一緒にいたパウルスは誰か、そしてもっと考えれば、そもそもこの日の日記を書いたパウルスはどっちのパウルスだったのだろうか・・・・。

通常人間が無意識に持っている自己の容積や形状の情報は、実際物質的に存在している自分の場所と重なっている、だから人は歩いていても人とぶつからないのだが、ではこの自己位置認識作用が異常をきたした場合はどうなるか、その場合は実際に存在する自己の位置と違った場所に脳は自己を認識する、つまり自己は視覚的情報としての自己を別の空間に見てしまうことになるかも知れない。

しかしこうした場合は、自分自身を見てしまうとしても、それは本人の脳の作用だから本人以外には見えないことになるが、パウルスの場合は母親が見たパウルスとエヴァが見たパウルスの2つが存在し、そのどちらかが非オリジナルだとしても、明確にどちらもパウルス以外の第三者が見ていることから、こうした仮説は成り立たないが、エヴァともう1人のパウルスの様子を眺めていたパウルスは、そもそもオリジナルだったのだろうか、自身をオリジナルと思っていたとしても、その自分が非オリジナルの可能性はなかったのだろうか。

そして一体パウルスに何があったのだろうか・・・。

こうした現象を一般的にはドッペルゲンガー現象と言うが、それによると、こうしてパウルスのように生きていて自分自身に出会うと、その本人は死ぬことになってなっているが、現実にはこうした現象に出会っても生きていた人も多く、場合によってはドッペルゲンガーのおかげで命を救われたと言う例まである。

またパウルスの事件があったこの地方、ハーメルンだが、そのむかしから不可思議な伝説も残っている、そう言う地域でもある。

さて、ところでこれを読んでくれているあなた、そうあなただが、オリジナル?、それとも・・・・。




あなたはオリジナル?・Ⅰ

1972年ドイツ、ハーメルンに住むパウルスと言う青年(21歳)は、この日先週に会ってから以後忙しくて会えなかった恋人のエヴァ(19歳)とデートの約束をしていたが、せっかくの休日にも拘わらず、朝から大したことも無い用事を頼む母親と口論になりデートの時間に遅れて、その待ち合わせ場所である洋服店の前に到着した。

「しまった、20分も遅れてしまったぞ」パウルスは走ってきたおかげで乱れる激しい呼吸を整えると、時計を見て周囲にエヴァの姿を探したが、人通りもまばらな休日のこの通りにはどこにも恋人の姿は見当たらなかった。

「おかしいな、怒って帰ったのかな」パウルスは少し不安になってきたが、それでももしかしたら彼女も遅れているかも知れない、そう思って暫くその店の横にある空き地に腰を下ろし、もしかしたらだが、彼女が現れないかと思って待つことにした。

青い空がまぶしい新緑の季節、そして今日は風も無く、自然公園の湖に行くには最高の天気だったが、その前にずっと彼女が欲しがっていたブラウスを一緒に探す約束だった。

そしてそのブラウスは、勿論パウルスが彼女の誕生日にプレゼントする予定のもので、そのために一生懸命働いているのだが、そうしたパウルスの気持ちはどこかエヴァには伝わらず、なかなか会えないことでエヴァは会うたびにそれに不満を漏らし、本当の所はパウルスとエヴァの中は最悪、パウルスにとってはこれが最後のチャンス、起死回生の逆転となる大切なイベントだったのだが、その大切な日に遅刻してしまうとは、全くついていない・・・。

そしてそれから10分ほど経過した頃だろうか、午前10時、いくらなんでも彼女が30分も遅れてくるようなことはあり得ない、そう思ったパウルスはエヴァの家まで行こうと思い腰を上げたが、その時である。
どこかで聞いた事のある声がその店の中から聞こえてきたかと思うと、ドアが開き、中から人が出てきたが、何故か嫌な予感がしたパウルスは、自然と姿を店の影に隠すようにしてこれをうかがっていた。

「そんなバカな・・・」、パウルスは思わず呟いたが無理は無い 、店のドアが開き、そこから出てきたのは何と恋人のエヴァで、それもこれまでに見たことの無いような笑顔、そしてもっと衝撃的な事実は、何とその隣でエヴァに優しく語りかけている男がいて、その男とは何とパウルス自身だったのである。

顔も同じなら着ている洋服も同じ、もう1人の自分が恋人と仲良くブラウスを選んで嬉しそうに店から出てきたのである。
パウルスは絶句した、だがおかしなもので、こうなると何故か自分が正しくても、世の中や恋人に対して整合性を保とうとするのか、「俺が本物だ」と言って出にくくなってしまうものらしい。

パウルスは上着を脱ぐと、今度は彼らに見つからないように、後をつけることにして、その様子を見ることにした。

それにしても何とも微妙な気分だった。

エヴァのあの嬉しそうな顔、そして隣の男が自分だから良いようなものの、何も知らない恋人とそれを伺う自分の立場の曖昧さ、その狭間でパウルスは何とも言えない惨めな気持ちにさせられたことは確かだったが、やがて2人は自然公園に着くと、そこから貸しボートに乗って湖に出ると、そのボートの上でキスを始め、しまいにはもう一人のパウルスが彼女の髪を撫で、抱き合ってしまった。

全く人目もはばからず、あのバカ野郎が・・・とは思ったが、どうせ周囲には同じようなカップルがボートにいて、やはり同じようなことになっているのだから、それはそれでと言うことになろうか。
しかしそれを木陰で見ているパウルスにとっては、こうした展開を喜んで良いのか悲しんで良いのかの部分があり、そしてここに至って自分は何者だろうか、などと考え初めていた。

人間は面白いもので、どの瞬間でも世界に措ける自分の位置と言うものを把握していて、それは例えば狭い隙間を通るときに、自分の容積や形状をある程度正確に自身が知っているからこそ、そうした狭い幅のところを通れるか通れないかの判断ができるのであって、尚且つ自然界の物質や生き物は全て自身の情報を開示していることになり、その情報は例え無機質のものでも常に外に対して開かれているとすべきなのである。

しかし人間は現実には目が後ろには無いから、本来自身の正確な容積や形状を知ることは困難なはずだが、人体の端末まで血液を送っている、体をコントロールしている脳はおそらく本人の自覚とは別に、その情報の集積として自身の正確な容積や形状を把握しているのではないだろうか。

そして自身の形状や容積を把握すると言うことは、この世界で自身の位置やその外側を全て知っていることになるが、こうしたことはその人自身が知っていなくても、脳がどこかでこれを認知していて、それで人間は歩けるし人ともぶつからない、そうしたものなのではないだろうか。

つまり自分とは、そこだけ「他」と言う存在が入り込めない、「他」に対する空き領域と言うこともまたできるのである。

            「あなたはオリジナル?」・Ⅱに続く








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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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