2010/01/30
よもぎ摘み・Ⅱ
だがどうだろう、こうした悲惨な百姓たちのあり様は全て災害だけが及ぼしたものだったのだろうか。例えばここに天明3年(1783年)の津軽藩の記録があるが、津軽藩は前年から続く飢饉にも拘らず、40万俵の米を江戸と上方(大阪)に回米しているが、この年藩への上納は全て米で納入することを強制している。
このために津軽藩には米がまったく無くなり、慌てて幕府から1万両を借り受けて、他の領国から米の買い入れを計ったが、時すでに遅し、日本全国から米が無くなっていて、津軽藩は大金を懐にしながら、領民を餓死させていった、また一村全滅に追い込んでしまったのである。
また封建社会では、藩同士が互いに関係を深めることを厳重に禁止していたのは、一つには幕府に対する謀反を常に恐れたからであり、こうしたことから例えば、ある藩で飢饉が起こっても、隣の藩がこれを助けることは出来なかった。
「津留め」(つどめ)と言って、米を藩の外へ出すことを禁止していたからだが、隣国農民が飢えているからと言って、これを他藩が救済しようとすればその藩にもまた飢饉が及び、結果として飢饉が連鎖的に拡大することを防止する目的が、こうした措置の今一つの理由だった。
そして封建制度は何より農村の生産力が増大することを抑制してきたことが問題だった。
つまり農村が豊かになり、生産物が国内を自由に流れ、幕府が管理できない市場が拡大することを恐れた・・・と言うことだが、幕府にとっては、農村は食うや食わずのぎりぎりの線が望ましい農業政策だった。
そのため例え小さな飢饉でも、普段から苦しい農村は、一瞬にして悲惨な状態となっていったのである。
またここには飢饉の際に幕府や藩の役人が、飢えた農民たちに食料の施しをしている絵も残っているが、確かに農民は男も女も骨と皮ばかりの姿だが、なぜか役人たちの姿は皆偉丈夫で恰幅が良い。
ここから読み取れることは、飢饉は常に農村部や貧困層に起こっていたのであり、役人たちはほとんど死者を出してもいないことが伺えるのである。
最後には食べるものが無くなり殺し合いまでして、人の肉で自身の命を繋がなければならなった百姓に対して、自らは生産を行わない者たちがそれを支配し、災害を大きくしていた。
津軽藩のあり様はまさにその象徴とも言えるものだった。
そして当時の江戸、上方に残る資料でも都市部の者たちは常に良い体格をしてるが、農村部では皆やせ細っていたことが伝えられている。
このことから伺えることは、都市部の豊かさは農村、百姓の貧しき故に支えられていたと言うことだろう。
つまり封建社会は百姓から搾り取れるだけ搾り取ることで成立していた社会だったと言うことであり、災害は常に一番弱い者、そして貧しいものを狙ってくるように見えるが、これは明らかに人災であり、国も個人も豊かであればその災害は小さく、貧しければ災害は大きくなるのではないだろうか・・・。