地震のつかい

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1996 3 11 old passion

日本海では2009年末から2010年、今年にかけて珍しい深海魚の捕獲が相次いでいるが、北陸の石川県と富山県だけで、この半年で16匹の「リュウグウノツカイ」が既に捕獲され、山口県から新潟県に及ぶ日本海全体では、この半年だけで既に24匹もの、通常は近海で見ることなどあり得ない深海魚が捕獲または発見させている。
だがこの深海魚、実は捕獲され始めたのはこの半年に限ったことではなく、その兆候は2007年末には既に始まっていた。

能登半島や新潟県沿岸では2007年、大きな地震に見舞われているが、このあと2007年末には能登半島で4匹、新潟県沿岸でも3匹の深海魚が発見されていて、そのうち数匹は生きたまま捕獲されている状況がある。

またこうした傾向は2008年に一旦下降気味になったが、それでもこの年に捕獲されたリュウグウノツカイは日本海側全体で17匹を数え、2009年4月には山口県で「ゴマフホウズキイカ」と言う珍しい深海イカまでが、青海島近くの水深3メートルの海中で発見されていたのである。

また山口県の日本海側ではこの前後から、水深が浅い近海で珍しい深海魚の目撃例が相次いでいて、その数は2009年の1年間で、確認が取れたものだけでも19件にも及び、こうした現象は2010年になっても沈静化していない。

そしてこうした深海魚があがってくる場合はとかく地震が来るのではないか・・・、と言う話になるが、確かに従来であればこのような深海魚は漁師ですらもそういつも見れない珍しいものだが、地震との関係で言えば、少ない事例の統計からすると、深海魚が発見されてから半年、または3ヶ月後に地震が発生していると言うことになるが、この言い伝えの根拠は無く、こうした言い伝えが本当だとすると、既に日本海側ではもう大地震が起こっていることになるが、それが起きていない。

このことから考えられることは、一つの可能性として大陸側の国々、及び旧ソビエトのどこかの国が大量のごみや危険物、または薬品を海に投棄している可能性が一つ、そしてもう一つは海流、しかも海底流の水温の変化や流れの変化が考えられ、最後に考えられる可能性として地殻の変動がある。

日本は大陸から押され、日本海溝で地殻が沈んでいるが、こうした際にエネルギーが蓄積されて、プレートの先端ではゆりもどし現象が起こって、そのストレスを解消する。
これがプレート地震だが、関東に周期的に起こる関東地震は、既に60年から90年周期であることを考えると、まだ起こっていないのは不思議であり、同じように100年から150年周期の東海地震も、まだ起こっていないのは少し不気味なものがある。

こうした地震のストレスが開放されない間は、日本海側の地殻も何らかのストレスを受けるため、太平洋側で大きな地震が発生しない場合は、日本海側で大きな地殻変動が起こる可能性は否定できない。
この場合は常にどこかでストレスの加わっている日本海の底では深海魚がその生態バランスを崩して浮上してしまうこともあるのかも知れないが、一番現実的なことを言えば、北朝鮮の核廃棄物やその他の危険物の不法投棄、これは韓国も疑われるが、そうしたものの可能性を考えるべきである。

またこのように不思議な現象と言うことでは、富山県の一部、そして石川県で頻繁に起こっている「空気振動」現象である。
これはドーンと雷のような音がして、振動が来るのだが、地面は揺れていないと言う現象で、ひどいものになるとガラス窓が割れるような大きな振動があるとされているが、同時刻に雷雲の発生は無く晴天、そして飛行機などの離発着、自衛隊飛行機の飛行記録もないと言うもので、こうしたことから隕石の突入音なども考えられたが、地元天文台の記録によれば、そうした事実も残っていない、文字通り謎の振動が2007年から今年まで続いている。

この空気振動だが、富山県、石川県、福井県で、毎年10回前後起こっているが、その原因は気象庁でも分からないとしている。
ただ、能登半島地震、中越沖地震では、こうした地震が起こる1週間前から天気が良いのに、なぜか規則的に雷のような音がしたとの記録があり、これと同じ記録は1923年の関東大地震でも同じ記録が残されている。
おかしな話だが、古来より大きな地震が起こるとされている現象が頻繁に現れながら、その実大きな地震は起こっていない.。

このことは何を意味しているのだろうか。
日本海側の地域では、通年は余り獲れない深海性の魚であるタラの大漁が続いている地域や、これもまた深海性の大型のイカなどが捕獲されている地域もあるが、この傾向についてはここ半年程の傾向であり、更に虹についても例えば直線虹の目撃例が石川県で報告されている。

これなどは100年に1度見られるか見られないほどの珍しい現象であり、また逆虹も目撃されているが、これは通常の虹であれば、円の外側が空に向かっているものが普通だが、円の方が地面に向いている虹であり、こちらも全く無いとは言えないが、そんなに多くは見られないもので、珍しい現象と言えるが、深海魚の現象と含めて、地震との関係はいまだ解明されていない。

ただ言えることは、おそらく漁師でも生きている間に数回しか見られないような深海魚が、集中して死ぬことを承知で海面に上がってきていること、そしてこの現象はここ数年連続して起こっていること、またこれ以外にも不可思議な現象が、日本海側では起こっていることは確かで、こうしたことから考えられることは、地震を初めとして、何かよろしくないものの到来が近い、そんな気がするのだが、なるほどでは太平洋側は大丈夫だ・・・、などと思わないほうが良い、なぜならもし地震なら、日本海側でストレスを解消するか、太平洋側でエネルギーがストレスを解消するかの確率は、50%と50%だからである。
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潜在的危機感

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1994 3 31 old passion

良い物と言うのは売れる。

だからそれは多く作って世の中に出せば、人も喜び、自分も利益を得ることが出来るが、この良い物と言う基準は常に変化していくものであり、例えばそれまでは必要だったが、既に手に入れてしまった場合、複数が必要でなければ、それは要らない物、つまり始めの段階よりは良いものとしての度合いが減少して行くのであり、こうした場合に1つでも良かった物を、2つ必要な環境を作って行こうとする、またそうした市場を作って、そこで物を売って行こうと考えたのがケインズ理論だが、この理論は基本的に利益の先食い、つまり2年後に売れるはずの物を今売ってしまう形となる。

またもともと無かった市場を作って行こうとするこの考え方は、経済の進捗とともにあらゆる面から複数化し、一つの決まった土地の上に何百階もの市場が形成された形となり、そこから発生してきたものがあらゆる必要性の薄い物の氾濫であり、物余り現象、つまりデフレーションを加速させる。

そしていまや国際社会は、連鎖的に先の利益を今使わないと、現在が維持できない、そうした状況になっている。
我々は未来をどんどん食いつぶしながら、今を生きているのである。

アメリカの格付け会社「ムーディーズ・インベスター・サービス」の日本国債担当者トーマス・バーン氏は2月25日、東京で記者会見し、その席で民主党鳩山政権の財政面での政策運営に付いて次ように述べた。
「日本の財政赤字がこの先も続き、そしてその水準が高いままで推移した場合、日本国債の格付けにはマイナス要因となるだろう」

このように指摘して、鳩山政権に対し経済対策の必要性を改めて求めたが、同時にバーン氏は日本国債の信認維持については、説得力ある財政再建策を示す必要性があるとした。

これはどう言う意味かと言うと、消費税の引き上げなど、何らかの増税はもはや避けられないが、しかし増税だけでは国内の消費が冷え込み、さらに経済成長を阻害する恐れがある事から、子供手当てなどの一般家庭支援の上に、企業向けにも収益向上がはかられるような総合的政策パッケージが必要だと言うことであり、これがバーン氏の言わんとするところである。

ちなみにアメリカのもう一つの格付け会社「スタンダード・アンド・プアーズ」は、日本国債の格付けを、2010年1月26日の段階で「安定的」から「ネガティブ」(若干弱い)に引き下げているが、これは日本政府の大幅な赤字国債増発を受けたものであることは間違いなく、そうした意味では「ムーディーズ・インベスター・サービス」の格付けで、現在も「Aa2」と言う、先進国の中ではイタリアと並んで、上から3番目の低い評価しか受けていない日本の国債は、更にその評価を下げる可能性も出てきたのである。

一般に国債と言うと、私は買っていないから関係ない、そのように思うかもしれないが、国債は勿論政府系金融機関や、銀行もこれを引き受けるが、同時に市場へも出されていく。

そしてこうした国債はその国家が安定していれば、その安定度で比較的安い金利でもみんなが買うことになるが、もしかして危ないとなれば皆が買わなくなり、その結果危険と言うものをカバーするために、金利を多くつけて売ることになっていくのである。

つまりお金を借りるために信用の無い分、より高い利子でしかお金を借りれなくなる仕組みは一般と同じ原理であり、この場合信用がなくなると、誰もお金を貸してくれなくなる、すなわちどこの国も日本国債を買わなくなり、その結果日本は必要な資金を集められず、経済が停止してしまう。

簡単に言えば破綻してしまうのだが、毎年毎年借金の上に更に借金を重ねていると、日本国債はそのうち信用を失い、借金を払うために金を借りようとしても、そこには更には大きな金利がかかると言う、まるで「火の車」状態になるのであり、既に日本はそうなってきている・・・、とアメリカの格付け会社は言っているのだ。

そしてこうした場面で、大幅な人員削減をやって、しかも増税でもしようものなら、そこには先輩がいるから良く見ておくといいが、ポルトガル、ギリシャなどはまさにこうした状態に陥って、国内は混乱の極みになり、そうした影響はEU全体にまで及んできている。

ちなみに2009年度の各国のGDP(国内総生産)に対する赤字比率を見てみようか、ギリシャなどは当初7・7%だと言っていてそれが実は借金比率が12%を超えていたことが判明、一挙に信用を失って破綻になってきたが、EUではそもそもこうした赤字比率は、3%に抑えることが条件となっていたにも拘らず、これがかろうじて何とかなりそうな国はドイツの3・6%だけで、他はフランスでも8%、イギリスに至っては12%、またEU以外ではアメリカは10%、日本も8・7%と、世界各国が軒並み赤字予算なのである。

こうした中でも特に日本は、この数字だけ見ればなんだ大したことは無いではないか、と思ったら大きな間違いで、日本の累積赤字は2009年度末で871兆円、つまり国家予算の10年分が既に借金された上、また借金して作った国家予算の半分は借金の金利と借金返済に回されるが、その元本は減るどころか、毎年増える一方であり、例えば1993年、ビル・クリントン合衆国大統領が細川内閣に対して、増税無き財政再建を望むとした時点の日本の財務状況は破綻寸前と言われたが、現在のそれはそうしたレベルすら遥かに超えた危機的状況にもかかわらず、こうした今の日本のぬるま湯のような加減は何だろう。

加えてこれからこのまま人口動態が推移した場合、日本は40年後に子供と65歳以上の言わば、労働人口以外の人口が全人口の85%を超える状況になり、これは現在でも50%ほどになっていることを考えると、あと10年後には年金制度は間違いなく崩壊するか、その支給額を減額し、年金負担額を増額しなければならなくなる。

これを安易に税金でまかなおうとすればどうなるか、当然ただでさえ減ってくる税収では負担しきれなくなり、増税に次ぐ増税、そして景気は後退の、ブラックスパイラルに陥っていくことだろう。

IMF(国際通貨基金)でも国際的金融機関でも、現在長期的に見てまず間違いなく破綻するだろう国家を挙げるとしたら、潜在的危機感は日本が一番大きいと言う意見が多い。

ムーディーズの記者会見は、こうした日本に対する不安感が、全く停滞している鳩山政権よって、より加速されてきたことを意味している。




十字架が燃えている・Ⅱ

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2010 2 21 old passion

そして1955年6月、18歳になっていたジュリーはまた母親と一緒に、今度は日曜礼拝のため教会へ出かけたときのことだった。

皆が敬虔な祈りを捧げているその最中、突然席を立ったジュリーは半狂乱になって叫んだ。
「十字架が、十字架が燃えている・・・、真っ赤になって燃えている」

正面にある十字架を仰いで叫ぶジュリー、その顔は既にまともな者の顔ではなく、またしても異様に光を帯びた目は、慌ててこれを制止しようと駆け寄った牧師の顔すらも目に入っていないようだった。

礼拝に訪れていた人たちは、この騒ぎにびっくりして祈りを中止し、そして教会は騒然となった。
みなおそるおそるくだんの十字架を見上げた、しかし赤い炎も赤い光も見えはしない。

「ジュリーはとうとう狂ってしまった」
「いや、悪魔にとりつかれたんだ」
そんな声が飛び交っていたが、ジュリーは十字架に向かって、かっと目を見開いたまま動かない。

「このインマヌエル教会は来週の金曜日、そうよ来週の金曜日に焼けてしまうのよ」
牧師の制止にも拘らずなおも叫び続けるジュリー、これに対してついに牧師はジュリーを連れて教会から出て行くよう母親に命じるしかなかった。

小さな町のことである、この事件は瞬く間に町中に広がり、床屋や酒場でもジュリーの話でもちきりになった、そのうちこうしたジュリーの常軌を逸した予言が的中するのではないか・・・そんな話まで出てきて、面白半分に的中するかどうか賭けを始める者まででてきた。

ところがそのまさに次の週の金曜日、午後9時20分のことだったが、インマヌエル教会は突然火を噴き始める。
夕方から吹き始めた風は燃え盛る火に更に勢いを与え、瞬く間に教会は劫火につつまれ、その勢いは教会だけに留まらず、隣接する民家にまで燃え移る大火となったのである。

そしてこの火事では出火原因がどうしても分からなかった。
それ故もしかしたら火事を予言したジュリーが火をつけたのではないか・・・、そうした噂が町に広がったが、これはまず仕方の無いことだろう。

警察でも真っ先にジュリーを疑い、容疑者として彼女を取り調べた。
しかしジュリーは教会であのように叫んだあと、その場でやはり気を失い、またしても目が醒めぬまま、火事が起こった翌日の朝まで病院に入院していたのである。

これでジュリーの疑いは晴れた、が、どちらにしても魔女だの悪魔だのの噂の絶えないこの町に、ジュリーと母親が暮らす場所は無かったようだ。
その事件があってから、彼女達はアメリカへ移り住んだことが分かっているが、その後の行方はようとして知ることが出来なかった・・・。

原因も無いのに結果が先に見えることなど本当にあるのだろうか、またもしそうだとしたらジュリーが見た未来は、例え宇宙の法則を歪めてまでも、結果としなければならないものだったのだろうか。
フランスの危機を救ったジャンヌ・ダルク、彼女が徹底した信念を持つに至った理由は、聖母マリアの姿を見て、その声を聞いたからだと言われている。

またバビロニアの王ペルシャザールは、1000人にも及ぶ人を集めた豪華な宴席上で、空間から手だけが突き出てきて、不思議な文字を書き始めた光景を見てしまう。
そして賢者ダニエルにこのことを尋ね、王国の滅亡が近いことを知った。

目に見えるものの何が実で何が虚か、我々はそんなことすら分からない世界に在るのかも知れない・・・・。




十字架が燃えている・Ⅰ

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1991 7 30 old passion

不確定性原理は自然界に起こる事象は全て、不透明であることを証明した。
刻々と過ぎ去る時間軸の中で次々原因が積み重なり、或いは原因そのものが消失して、「先のことは分からない」としたが、このことはアインシュタインの相対性理論でも同じことが語られた。

すなわち時間は未来に旅することはできても、過去へは戻れないとしたのだが、その自然界に措いて、なぜか原因より先に結果が現れることがしばしば存在する。
今夜は久しぶりに、少し不思議な話をしようか・・・。

1950年10月、カナダのプリンスルーパートと言う町で、母親と一緒に買い物に来ていた少女、ジュリー・アーレン(13歳)は、そのマーケットで突然意識を失って倒れてしまった。

これに驚いた母親や周囲の買い物客たちは、慌てて彼女を近くの病院へ担ぎ込んだが、医師が診断した結果、これは一種の「てんかん」で、その発作だろうと言うことになり、ひとまず強心剤を注射し彼女の意識が回復するのを待った。

だがしかしジュリーはそれから2日経ってもまだを目を醒まさない、母親の話では確かにジュリーは神経質な女の子だが、こうしたことは初めてで、一体何が原因なのか分からない・・・、そう医師に語り、医師も身体機能は全て正常なのに、なぜジュリーが目を醒まさないのか分からなかった。

そしてジュリーが意識を失ってもう既に3日目に差し掛かった夜、時刻は10時45分頃のことだったが、見回りに来た看護婦のルシンダが、何気なくジュリーの所に目をやると、何と彼女は目を開けているではないか、しかもどうしたことだろう、ジュリーの目は青い色の光を帯びていて、目の焦点は遥か遠くに結ばれているようだった。

ルシンダは慌てて宿直の医師を呼びに走り、今度は他の看護婦も集まり、みんなでジュリーの様子を見守っていたが、どれくらいそうしていただろうか、「おそらく10分くらいだと思う」とルシンダは証言しているが、何度ジュリーの名前を呼んでも、彼女は目を開けたまま答えようとしなかったし、そもそもこうして皆が集まっていることすら分かっていない様子だったが、暫くして突然ジュリーの唇が微かに動き始めたかと思うと、訳の分からないことを誰に話すとも無く語り始めた。

そのときジュリーが話したことは、医師が書きとめているが、その内容はこうだ・・・。
「大きな建物が見える、左端の2階の窓が3分の1ばかり開いていて、寝台がある」
「ブランデーと水とコップがある、破れた新聞のそばにはりんごとナイフが・・・、白い長い服を着た人、女の人だ・・・、寝台にいる、白い服をつかんでいる男の手が2本・・・、あっ、二人とも死んでる」

ここまで語ったジュリーの目は、さっきまでの青い光が消え、そして彼女の瞳はここで初めて、上から覗き込む医師の顔に焦点が合った様子だった。

「私はどうして・・・」

ジュリーはこうして3日ぶりに目を醒ましたが、さっきまで喋っていたことは何も記憶していないようで、その後彼女はお腹がすいたと言って、トーストやポテトサラダを平らげ、翌日にはすっかり元気になって退院したが、その直後、医師のところに警察と、同じ町にあるエグリントン・ホテルから相次いで電話がかかってきた。

「どうやら自殺者のようです」
「検死をお願いします」
警察もホテルも同じ用件だったのだが、どうもエグリントン・ホテルで男女の自殺者が出たらしかった。

とっさにピンと来た医師は、昨夜、ジュリーの話を書き留めたノートのことを思い出したが、ホテルに急行してみると、その2人の男女は既に絶命していて、死体の硬直状況から見ると、昨夜の10時から11時ごろがその死亡推定時刻かと思われた。

また寝台のサイドテーブルにはブランデーと水が、そしてコップも2個置かれていて、それにりんごとこれをむく為のナイフ、破れた新聞までもが床に落ちていた。

昨夜ジュリーが話したことで、出てこなかったものは床に転がっている睡眠薬の空瓶だけ、後は全くジュリーが話したとおりの自殺現場がそこに存在したのだった。

                               「十字架が燃えている・2」に続く



天神さま・2

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1989 5 3 old passion

天満大自在天神菅原道真、通称菅公(かんこう)または菅丞相(かんじょうしょう)はこうして死後50年と経たないうちに神として祀られることになったが、天神とはもともと「天神地祇」(てんじんちぎ)と言って、地祇(ちぎ)つまり地の神をさす言葉であり、むかしは雷や稲妻は天神の仕業と考えられていて、現在でも気象の神として天神を祀っているところもあるくらいだ。

例えば雷を祀っている地域が山陰地方や九州の南に存在しているし、そうした地域の天神さまは農民が天候が順調であることを願い、農作の進行の無事を祈っている、また菅公より以前の京都北野天神には、遣唐使が出発を前にしてその航海の安全を祈願し、奉幣したとされている。

ではなぜ菅公は天神になったのか、その理由はこうだ・・・。

右大臣だった菅原道真は、何も悪いことをしていないのに、彼の出世を妬んだ藤原時平たちが大宰府へ流して、そこで死んでしまった、菅公の死後その怨霊が、宮中を襲う雷となって、生き残る貴族たちを、ことに藤原一門に天誅を加えたのではないか、彼こそが天神ではなかったのか・・・と言う話が宮中のみならず、民衆にまで囁かれるようになって行った。

そこで北野天神に菅公をあわせ祀ったが、そのうち菅公が天神そのものになってしまったのである。

つまり雷で貴族が死んで行った事が、菅公をして天神だったのではないかと言う話に繋がって行った訳である。

だから当初暫くは菅公は雷神の如く恐ろしい顔つきで描かれていたが、後世、菅公は実は大変な学者、学問の大家だったことが知れてくるに従って、そんな恐ろしい顔ではいけないと言うことになり、現在のような柔和な姿になり、そしてもともと気象の神であった天神も、菅公の影響から学問の神として人々に親しまれるようになったのである。

そして菅公が学問の神としてのイメージを定着させていったのは、室町時代からの事だと思われるが、京都の禅寺東福寺の開祖聖一国師(しょういつこくし)が、宋から帰国して大宰府にいたとき、菅公が安楽寺にある墓から抜け出してきて、禅を教えて欲しいと言った。

そこで聖一国師は自分の先生は宋にいるから、そこへ行って教えて貰いなさいと答えると、その晩のうちに菅公は宋に飛んで杭州臨安の禅寺にいた無準師範(ぶじゅんしはん)と言う高僧を訪問したとされている話が残っていて、これが当時の京都文化の中心となっていた5つの寺(五山・ござんとも言う)の僧侶たちに広く信じられた事から、ここに来て天神さまは「禅」とも深く関係していくことになったのである。

だから当時「渡唐天神像」(ととうてんじんぞう)と言う、唐代風の菅公肖像画があちこちで描かれ、これによっても天神さまは全国に普及していくことになったが、この頃の禅僧は漢詩漢文至上主義だったことから、日本でその道の大家とも言える菅公が禅に帰依したとなると、禅僧たちにとっては随分な宣伝効果と、格調を手に入れることになっただろう。

このことからこうした話は禅僧たちに信じられた・・・と言うより、そうであって欲しかったと言うのが、正しいのかも知れない。

また菅原道真公と言えば、子供とのえにしも深いとされているが、その背景には既に11歳の時から才覚を表していた菅公にあやかろうとする子供や親たちの願いがあった。

昭和の中程まで、地方では天神講(てんじんこう)と言う講があったが、これなどは江戸時代の寺子屋から始まったもので、小学生が友達どうしで、毎年2月か3月の25日に集まり講を開き、当番の家では大勢の子どもが天神さまの掛け軸をかざって飲んだり食べたりする、まことに楽しい講が開かれていたものだった・・・。



天神さま・Ⅰ

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1989 5 3 old passion

2月25日、この日は大宰府で菅原道真公が亡くなった日だ。
菅原道真公と言えば学業成就の神様として有名だが、2月下旬ともなれば全国で天神様の祭りがあり、ちょうどこれから重なる受験シーズンとあいまって、まさに神にすがる思いで神社を参拝する受験生も多かろう。

何も助けてやることは出来ないが、せめて菅原道真公のいわれなどかいつまんでお話して、これを以って私の応援の気持ちとしようか・・・。

菅原道真が生きていた時代、国家試験はたいそう難しいもので、その試験は200年間にたった65人しか合格した者がいないすざまじいものだったが、この難しい試験に菅原道真は合格している。
間違いのない秀才、いや天才である。

菅原道真は890年代、宇多天皇を支え、右大臣にまで出世したが、この宇多天皇がたいそう道真をひいきにし、自身が天皇の位を醍醐天皇に譲るときも、その政治を補佐するようはからっているが、これに反発したのは左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)である。

自身をも脅かす出世、たかが漢才(かんざえ・文人のこと)の分際で・・・、と思う気持ちがあったのだろう。

昌泰(しょうたい)4年、(901年)正月7日、この日時平と道真はともに従2位を授けられたが、道真に並ばれた時平としてはたいそう憤慨し、これに皇族でありながら道真に官位で追い越された源光(みなもとのひかる)とその一族は、既に17歳になっていた醍醐天皇も宇多上皇に反発していることを知り、ついに正月25日、道真の追い落としを謀る。

これにより菅原道真は「太宰権帥」(だざいごんのそち)に降格され、大宰府に左遷されるるが、道真はこれにたいそう落胆し、悲嘆にくれながらこの2年後、58歳の生涯を終えるのである。

だがもともと菅原道真と言う人はそれほど権力欲があったわけではなく、どちらかと言えばその権力は宇多天皇によって与えられていったものであり、後宮に娘を送り込むなどは、当時その立場であれば、誰もがそうするしきたりのようなものだった。

しかし藤原氏にとっては既に脅威になっていたこと、そしてもう一つは道真の秀才ゆえの優柔不断さである。

道真が藤原氏の思いを知らなかった訳ではなく、彼に対して三善清行(みよしのきよゆき)なども「気をつけなさい」と進言もしているのだが、当時朝廷の高官に任命されるときは、一応辞退するのが慣例となっていて、こうした事から道真も3度辞退したい旨の上奏文を出しているが、そこから見えるものは、余りにも形式的な文であり、このことから、藤原氏のことは気にしながらも、現状の立場も捨てがたかった道真の思いが感じられるのである。

そして道真の死後、こうなるとどうだろうか、何も悪くない道真は藤原時平によって大宰府に流され、そして悲嘆にくれて2年後に死んだ。

怨んでいるに違いない、祟るに違いないとなって行き、干ばつがあっても大雨があっても、それは全て道真公の祟りではないか・・・などとまことしやかに囁かれるようになるのである。
また藤原時平以下、早死にしたり、雷に打たれて死ぬ者などが続出したことから、ここに菅原道真の神性は確定的なものとなっていった。

それゆえ菅原道真の霊を鎮護する際は、その祟りを最も恐れた藤原氏の働きによって、これが成されていくが、北野天神に道真の霊をあわせ祀り、やがて大宰府にもその天神が勧請(かんじょう)され、その数十年後には太政大臣の称号がおくられ、天皇までもがここに参拝していくことになったのである。

                                    「天神さま・2」に続く





核実験

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1998 3 10 old passion

科学の発展に最も寄与するのは「戦争」だと言われる。
そしてその科学を最大限利用し、人類はより効率の良い殺傷方法を考えてきたが、現代文明はこうした「戦争」がもたらす、科学の発展によって支えられてきたのもまた、事の理である。

そして現在人類が所有する最も効率の良い殺傷兵器は「核爆弾」であり、この核爆弾によって現実に被害を被ったのは日本、広島と長崎であり、彼らは全く一瞬にしてその全てを失い、その地域は広く廃墟と化してしまった。

だがこうして核爆弾の歴史を鑑みるに、核は使われた側のみ被害者が存在している訳ではない。
同じ人間を大量殺戮していくことは許しがたいが、それより尚信じて疑わない、また個人では贖うに及べない自国民に対して、意図的に核や放射能を被爆させ、その影響を調べようとしたその国家、政府のあり様は人としての暗さを超えて、ある種全ての道徳、人類全体のモラルに対する姑息な挑戦ともいえるのではなかろうか。

アメリカととソビエト連邦が激しく水面下で激突した東西冷戦時代、その初期段階にして最も対立が激しかった1950年代、核戦争演習目的で核実験に駆りだれたアメリカ軍兵士、及びこれと同じ事をしていたソビエトの演習参加兵士、またその実験場や軍事施設周辺の住民たちの、実験による放射能被爆実態は、現在に至ってもアメリカ、ロシアとも正確に公表していない。

1993年12月、アメリカエネルギー省は、核兵器開発の初期段階である1940年代から1950年代にかけて、核兵器開発の一環として、放射性物質の遺伝における影響を調べるため、妊婦にプルトニウムの体内注入や、放射性の鉄を含む薬の投与などを行っていたと、政府による「核の人体実験」の存在事実を正式に認めた。
しかもその被験者数は何と600人、彼女らは凡そ800件に及ぶ放射能実験を受けていたのであり、中には複数回の実験を受けた女性も存在していたが、その彼女らが出産した際、いかなる影響が子供に発生していたのかの報告は成されていない。

また1948年から1952年にかけて、ユタ州などでは旧ソビエトの核実験を探知する技術開発の為に、意図的に放射能を空中散布していたが、こうしたことは勿論軍事秘密で、住民たちには知らせるはずもなく、そのおぼろげな実態すら分かって来るのは20年、30年後のことなのである。

そしてこちらはソビエト連邦(ほぼ現在のロシア)、既にソビエトは崩壊していたため、ロシア政府によって1993年に発見された旧ソビエト軍の記録映画には、1954年9月にウラル山脈で原子爆弾を空中爆発させ、45000人の兵士と6200人の民間人を意図的に被爆させて、その人体的影響を調査したことが映像として残っていた。
こちらも名目は軍事演習だが、ではその後の調査記録はと言うと、それは消失してしまっている。

また1940年から1950年にかけて、20回以上も大気圏内核実験が行われた太平洋ビキニ環礁では、1990年代に措いてもまだ島民の帰島が許されていなかったし、フランスの核実験場であるフランス領ポリネシアや、中国の実験場である新疆ウイグル自治区、こうした地域での核被害の実情は、今日に至ってまで不明な部分が殆どである。

加えて現在核兵器を保有している国は、国連の常任理事各国とインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮、そしてもう暫くすればイランも核兵器を所有するかも知れないが、これだけ拡散して来てしまっている。
更に近年の科学技術の発展は、核弾頭として飛ばすことは出来なくても、ただ核爆発を起こすだけなら、材料さえ揃えば少し詳しい大学生や、場合によっては高校生でも作れるかも知れない時代となっている。

現在世界における核被害者の数は、核実験や原子力発電所事故、その他の実験の影響などで、推測だが2000万人を超えていると思われているが、これでも1990年代の推測よりは1000万人少ないのは、被害者の逐年死亡があっての減少である。

今後予想されるアフガン、イラン、そして中東情勢の悪化は、科学の進歩によって、1950年代とは比べ物にならないほど手軽になってしまった核兵器と、どの程度連動して行くか、これによっても人類の運命は大きく変わっていくかも知れない。

また表に出ない核被爆者が攻撃を被る国ではなく、攻撃する側の国にも存在してしまうことを考えると、一時期アメリカやソビエトは本当に「神」の立場だったことをうかがい知ることが出来るが、その中枢にいた政府要人、国家代表はこうした重圧に良く耐えられたものである。

現代のアメリカやロシアの国家代表はここまでの重圧はないだろうが、これはどう言う意味かと言えば、統帥権の記事でも話したが、力の分散であり、こうして力が細かくちぎれて行くと、その先には個人的な感情を含んだ混乱が増えてくる。

そしてこうした現状に加え、手軽になった核兵器が浸透して行った場合、大国の国家代表の重圧は軽くなるが、その分一般民衆は計り知れない脅威に、怯えていくことになるのである。

アメリカ、オバマ大統領の核兵器廃絶宣言の根底には、アメリカのこうしたちぎれていく力の再編成、つまり分散していく核の力をもう一度、その手中に治めるための執拗な執着が垣間見えるが、こうして力の分散を防ぐことで、ちぎれた状態の力、即ちイスラム過激派にキャスティングボードを握らせないようにしようと言う意図があるに違いない。

だが残念だがこのアメリカの思いは、既に手遅れになりつつある・・・。
もはや国連常任理事国だけが「神」であることを、世界は容認できなくなってきているのである。

日本の医療はどこへ行く

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2010 2 17 old passion

OECDの調査によると、病床100床における日本の医師数は13・7人である。

だがこうした例で言えば、ドイツは37・6人、アメリカは66・8人、フランス、イギリスでも50人前後であることを考えれば、日本のこの数字は圧倒的に低いと言わざるを得ないが、看護士の数でもやはり同じような傾向にある。

だが、これが例えば人口1000人に対する医師数になると、日本2・0人、ドイツが3・4人、アメリカが2・3人と、確かに低いことは低いが、さほど劣っているとは言えない数字になってくる。

こうした傾向の示すものは何か、それは「総数は満たしているが、個々の医療の中身が薄い」と言うことではなかろうか。

これはある意味「国民全員に等しく、最低限の医療を保障しよう」と言う日本の保険医療制度がその成果として、こうした傾向を現出させていると言えなくもないが、これは片方であくまでも最低限の医療の保障であり、病院へ行くための通院時間で1時間、それから病院について待っている時間が3時間、診察は3分と言う患者の実情を考えるに、いかにも日本の医療の浅さを感じさせる実情である。

医療制度でその仕組みを考えるとしたら、その採算性ばかりに目を奪われていると、いつかどこかで国民は大きな代償を支払うことになるかも知れない。
近年、採算性のない病院の閉鎖が相次いでいるが、安心で確かな医学、医療とは何か・・・、そうした本質的な議論の無い資本主義的医療のあり様は、決して国民の幸福に寄与することが出来ないように私は思う。

またこれは2006年の調査だが、日本集中治療医学会が行った内部調査で、かなり衝撃的な数字が明らかになっている。

大規模病院に措ける集中治療室(ICU)の責任者などを務め、学会認定医の研修に携わる指導的な立場の医師、75人を対象に行われた調査では、「過去に延命治療を控えた経験があるか」と言う問いに対して、60人から回答があり、何とその内90%に相当する54人の医師が「延命措置を控えた、または行わなかったことがある」と答えたのである。

そしてこの調査の衝撃性はその内容だ。
延命措置を控えた理由は何かの設問に、その理由として、家族の希望があって延命措置を控えたケースが全体の45%、後の55%は医療上の判断で延命措置を行わなかったと言うことなのだ。

つまりここで問題なのは、本人の意思はもとより、家族の意思より多くのケースが、医療側そのものの判断で行われている点にある。
延命措置を控えた場合の最終的判断を下したのは「担当医グループ」が45%、医師から相談を受けた「病棟医長または所属長」が判断したもの28%、また少数ながら医師の単独判断と言うものもあった。

患者中心の医療が叫ばれる今日、リビング・ウィル(生前の意思)が普及していない日本では、終末医療の実情は今もってなお、医は仁術と言う性善説に支えられた医師の「バターナリズム」(温情主義)がその体勢を占めているが、そうしたものの根底にあるものは、生命倫理やQOL(生命の質)の表面的な議論が横行している今の日本の医療にあって、患者の「死ぬ権利」に対する医師の過剰反応とも思われるのである。

病院の起源の一つは、中世に措ける教会付属の巡礼者のための休息所、そこで修道女たちによって巡礼者たちの疲れや、病を癒すケアが成されていた事が始まりとされているが、現代日本の医療制度を鑑みるに、どちらかと言えば、そうした起源とは相反する思想のもとで、形式上の「当事者」が患者に与えられているに過ぎない、そんな感じがするのだが・・・。






平安寿司

平安の時代、右大臣、藤原帥輔(ふじわら・もろすけ)と言う人物を記述した「九条殿遺誡」(きゅうじょうどの・ゆいかい)によれば、この時代の食事は朝夕の1日2食だったことが伺える。

しかもその2食、朝と言っても「午の刻」(うまのこく)だから、殆ど正午のことであり、今で言うなら遅く起きた日曜日、朝昼兼用の食事となってしまった風情であり、これに比して夕飯は「申の刻」(さるのこく)だから、何とこの朝飯と夕飯の間隔はたった4時間程しかない。

そしてこの藤原帥輔、天皇に娘を嫁がせている、いわば天皇に次ぐ権力者なのだが、まことにケチくさいことを言っていて、「たくさん食べてはならない」「時間が来ないのに食べてはならない」と、その量や早弁までも細かく注意しているのである。

この時代は優雅に見えるかもしれないが、実はこうして藤原帥輔を見るまでもなく、万事一切がしきたり、儀式至上主義とも言うべき社会で、朝廷での仕事も政治よりは儀式の方に重点が置かれ、その際は一挙手一投足、箸の上げ下ろしに至るまで作法がやかましかった。

また貴族の家には大抵「庖丁」(ほうちょう)と呼ばれる専属料理人がいて、この庖丁が料理したものは魚の他、肉ではキジやカモなどがあったが、牛や馬は人目のあるところでは食べなかった・・・、と言うことは隠れては食べられていたと言うことになろうか。

現代は食事の支度をする場所を「台所」と呼んでいるが、この時代「ダイ」と言う発音は食事のことを指していて、一般的には食事のことを「御台」(みだい)と呼んでいたようだ。

ご飯には大まかに4つの区分があった。
つまり平安時代には食事の時に食べるご飯は4種類あったと言う事で、その一つが「こわいい」と言い、コメをむしきで蒸したものだが、これに小豆をを入れれば「赤飯」となる。

これに対してコメをやわらかく炊いたもの、こちらは「ひめいい」と言い、これが現在私たちが主食としているご飯とほぼ同じものとなるが、「ひめいい」或いはこれを干した物を冷水につけ、柔らかくして食べる事を「水飯」(すいはん)と言い、干したご飯、つまり「干しいい」に湯をかけて食べることを「湯漬け」と言った、いずれもこの時代の物語には、たまに登場してくるオーソドックスなものである。

「こわいい」を握って固めた「屯食」(とんじき)、こちらは吉凶どちらの行事でもそうだが、行事の際に召使に食べさせた、いわゆる魔封じの要素があり、またこの「こわいい」は旅の携行食としても用いられたが、その際は干したものが用いられ、この場合も「干しいい」または「かれいい」と呼ばれた。

また餅もこの時代から既に存在していて、この場合はもち米と麦粉を混ぜ合わせたものが使われていたが、祝賀の儀式に使われたことは現代と何等変わるものではなかった。

正月の鏡餅、雑煮の餅、3月3日の草餅、5月5日の「ちまき」、10月亥の日(いのひ)の「亥の子餅」などが存在していたが、ちなみにこの時代には正月15日に七種粥(ななくさかゆ)の習慣が存在していたが、これも七種とは「七草」ではなく、七つの種類のことを指していて、餅の粥に「ササギ」、や「ゴマ」など七種類の穀類や「豆類」を入れたものを指していたのである。

そして「惣菜」だが、魚の身や野菜には「なます」と言って、今で言うところの和え物、この場合は塩の和え物だが、そうした食べ方と、「あつもの」、煮物、煎りもの、あげもの、蒸し物、茹でものなど、現在存在している調理法は全て存在していたし、新鮮なものは少なかったが、それでもたまに新鮮な魚介類が手に入ると、それは刺身に近い食べられ方までしていたのである。

ただ、この時代の調味料は厳しいものがあり、塩と味噌はあったのだが、甘味料は「アマズラ」(植物から取れる甘み)やハチミツしかなく、その味は如何なものだったかは推して知るべしのものが有ったことだろう。

また平安時代に人気の食べ物と言えば、意外かも知れないが、寿司がある。
だがこの寿司、今の寿司とは少し様子が違うものの、原理的には確かに寿司で、その作り方はこうだ。

まず魚を塩でまぶして一晩石の錘を置いて押さえておく、それから水分をぬぐって冷たくなった飯とともに桶に入れて、蓋をしてからその上にまた石の錘を置き、そのまま何日か置いておく。
するとどうなるかと言えば、若干酸味が出てくるが、これを食べても食あたりにはならない、つまり今で言うところの「なれ寿司」になって仕上がるのである。

ちなみに酢を使った寿司はかなり新しい時代の話になる。

更に今度は菓子だが、平安時代菓子と言えば「くだもの」のことを指していたが、他に「唐菓子」と言って、餅や米、麦、豆などを加工した菓子があって、例えばそれは「ぶと」と言う油で揚げた餅、今の煎餅かも知れない、そんなものや、小麦と米の粉を練って細長くねじった餅索(さくへい)と言うものなどがそうだが、さっきも言ったとおり甘味が極めて少ない事情から、現代我々が菓子と呼ぶものと、並べて考えることは出来ないような代物だった。

雅な平安貴族、しかし衣装はともかく、こと食事事情は極めて貧相なものだった。

物語から察するに例えば中納言でも、ある日の食事は、鮎の寿司に干した瓜、それを「ひめいい」に水をぶっ掛けた、今で言うならさしずめ猫飯のような形でかきこんで、これが食事になっているし、ある貴族が狩に出かけて、結構な家柄の邸宅で食事をご馳走になっているのだが、その食事も焼き米(米を炒ったもの)に惣菜は大根にアワビ、そして鳥の乾燥肉である。

鳥や魚と言えば今ではご馳走だが、この時代の魚とはフナやコイであり、鯛などは新鮮なものを手に入れるのは至難の業で、大体が干したものだったし、鮭なども塩ザケであり、魚と呼ばれるものは大方が干物だったったのである。

さて、そして最後に酒だが、酒を温めて飲む習慣はこの頃から始まっていて、熱燗のルーツは以外に古いものだったが、それにしても酒の肴と言うことであれば、繰り返しになるが、干した魚、または干した肉、それに「くだもの」が最もリッチな酒の肴だったようだ・・・。




距離

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2010,2,14 old・passion



生き物には距離がある。
互いにそれを踏み越えたとしたら、
もう引き返せない距離がある。

そしてこの距離を踏み越えた者を待っているのは、
闘いか愛だ・・・・。
だが闘いは不幸か・・・、愛は平和か・・・・、
それは違う。
闘いも愛も同じものだ。

だから互いの距離を踏み出す者は、
その先に命さへも賭ける覚悟がなければ、
自分も相手も深い傷を負うだろう。
恐ろしかったら引き返せ、
傷つきたくなかったら逃げろ。

ただ・・・、いつも引き返せるとは限らないかも知れない・・・。
せっかく生き物として生まれたのだから、
生きている間に一回、二回、
その命の亡きものと思うようなことが無ければ、
もしかしたら生きていることが、確かめられない・・・・、
生き物とはそうしたものかも知れない・・・。

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この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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