2010/03/31
陸奥宗光・Ⅲ
1888年(明治21年)こうして陸奥はアメリカ公使として外交人生のスタートを切り、とりあえず条約改正の既成事実を作るため、まだ条約のなかったメキシコと交渉を重ね、ここに初めてメキシコとの間に日本初の平等な条約の締結にこぎつける。しかし1890年(明治23年)47歳になっていた陸奥は、山県有朋内閣で農商務大臣に任命される。
せっかく条約改正に向けて動き始めた陸奥だが、これはどうしたことだったのだろう。
その答えは簡単だった。
同じ年の11月には第1回の帝国議会が開かれたが、政府提出の予算案について議論は白熱、帝国議会内は乱闘騒ぎにまでなっていったのであり、この時野党自由党を仕切っていたのが星亨(ほし・とおる)、陸奥と星は親交があり、すなわち陸奥はこうした国会対策の為に日本に戻されたのだった。
陸奥は熱心に自由党の星を説得、やがて星は陸奥と連携していくことで合意し、条約改正案にも協力することを約束するのである。
こうした手腕を見込まれた陸奥は第2次伊藤博文内閣で外務大臣に起用され、いよいよ日本は本格的に不平等条約改正に本腰を入れられる体制となった。
そして陸奥は条約改正のキーポイントはイギリスであることを主張し、不平等条約の改正はまずイギリスから始めようと考えるが、当時の国際社会はどちらかと日和見的なところがあり、大方の国はイギリスの態度を見てから何かを決める風潮があった事から、この陸奥の作戦はまことに時勢をわきまえたものだった。
だが交渉を始めた矢先、明治25年(1892年)11月、またしてもイギリスがらみの事件が起こる。
日本の軍艦千島(ちしま)が、瀬戸内海でイギリス籍の汽船と衝突して沈没し、乗員70人ほどが全て殉職したのである。
日本政府はこれに対してイギリス船に過失があったことを主張したが、イギリスの領事法廷で開かれた裁判により、この日本の訴えは却下、イギリス船の責任はなく無罪となったのである。
この判決により日本の世論はまたしても沸騰し、政府に対抗的な野党は外国人は何だ、決められた居住地にしか住めないはずなのに、居住地の外に出ては事件を起こしている。
ただでさえ不平等な上に決められたことも守らないのか、条約を励行しろ・・・、と訴え始め、こうした外国人に対する条約励行運動は国内的な支持を得ていく。
これに対してイギリスを刺激しないようにと考える陸奥らは、外国人に自由を与えてこそ平等な条約を得られると主張するが、その声はかき消され、日本はこの問題を巡って大きな混乱になっていく。
1893年(明治26年)10月12日、こうした日本国内の情勢に疑問を持ったイギリス代理公使は、陸奥外務大臣に面会を求めてこう言う。
「日本は本当に条約改正を進める気があるのかね・・・」
そして日本国内の外国人に対する条約励行の声は益々高まって行った。
陸奥の計画は万事窮すとなって行く。
だがここでイギリスが少し強気になって新たな要求をしてきたとき、この瞬間、陸奥の眼前に光が差してきた。
イギリスはここぞとばかりに強気に出たばかりに穴を掘ってしまったのである。
当時イギリスはシベリア鉄道を建設し、極東進出著しいロシアに大きな警戒感を持っていたが、そのロシアをけん制するために、陸奥らが提唱していた条約改正の猶予期間として設定された5年間を超えても、イギリスが函館港を貿易港として使用することを認めよ・・・と言う条件を付けてきたのである。
陸奥はイギリスと交渉するに当たり、不平等条約撤廃に5年間の猶予期間を設けることを条件にイギリスと交渉を続けてきたが、その間に瀬戸内海の軍艦衝突事件が起こり、交渉が暗礁に乗り上げていたのだが、これでイギリスの心底は見えた。
陸奥はロンドンの青木公使に打電する。
「条約改正後も函館港を貿易港とするは苦しからず」
この陸奥の判断は正しかった。
イギリスはこうした陸奥の機転の利いた態度に即刻反応し、こうして日本とイギリスは不平等条約の改正条約締結にこぎつけ、このイギリスの態度を見ていた諸外国は、次々日本の条約改正交渉に応じて行ったのである。
1894年(明治27年)7月16日、ロンドンで交わされた「日英通商航海条約」、これはまだ完全に平等なものとは言えなかったが、それでも少なくとも日本で起こった事件は日本が裁く権利を持つこと、それに最恵国待遇の相互化、これだけは達成されたのであり、日本が欧米列強と対等な立場となる最初の一歩は、ここから踏み出されたのである。
また同じ1894年(明治27年)8月1日、日清戦争が始まったが、陸奥は開戦から終戦まで外務大臣として奮闘し、1895年(明治28年)3月には戦争終結の講和会議でも活躍し、講和条約を成立させたが、こうした激務は陸奥の体を蝕み、やがて結核を患い高熱を出すようになる。
そして1897年(明治30年)8月24日、陸奥宗光は坂本龍馬と同じ所へと旅立った。 享年54歳だった。
日露戦争でロシアとポーツマスで交渉した小村寿太郎、彼を引き上げて行ったのはこの陸奥宗光だったが、初めて小村が陸奥の部屋へ呼ばれたとき、真っ先に聞かれたのが「今何時だ」と言う話だった。
しかし父親の借金のおかげで金の無い小村は時計を持っていない。
そこで黙っていると、陸奥は「何だ小村、時計も持っていないのか」と言い、自分の懐中時計を小村に差し出した。
後年小村はこの時計のことを思い出し、こう語っていた。
「あの時計は高く売れた、良いものだったんだろうな・・・」
小村は陸奥から貰った時計をその日の内に質屋へ入れて金に替えていたのだった。