陸奥宗光・Ⅲ

1888年(明治21年)こうして陸奥はアメリカ公使として外交人生のスタートを切り、とりあえず条約改正の既成事実を作るため、まだ条約のなかったメキシコと交渉を重ね、ここに初めてメキシコとの間に日本初の平等な条約の締結にこぎつける。

しかし1890年(明治23年)47歳になっていた陸奥は、山県有朋内閣で農商務大臣に任命される。
せっかく条約改正に向けて動き始めた陸奥だが、これはどうしたことだったのだろう。

その答えは簡単だった。

同じ年の11月には第1回の帝国議会が開かれたが、政府提出の予算案について議論は白熱、帝国議会内は乱闘騒ぎにまでなっていったのであり、この時野党自由党を仕切っていたのが星亨(ほし・とおる)、陸奥と星は親交があり、すなわち陸奥はこうした国会対策の為に日本に戻されたのだった。

陸奥は熱心に自由党の星を説得、やがて星は陸奥と連携していくことで合意し、条約改正案にも協力することを約束するのである。
こうした手腕を見込まれた陸奥は第2次伊藤博文内閣で外務大臣に起用され、いよいよ日本は本格的に不平等条約改正に本腰を入れられる体制となった。

そして陸奥は条約改正のキーポイントはイギリスであることを主張し、不平等条約の改正はまずイギリスから始めようと考えるが、当時の国際社会はどちらかと日和見的なところがあり、大方の国はイギリスの態度を見てから何かを決める風潮があった事から、この陸奥の作戦はまことに時勢をわきまえたものだった。

だが交渉を始めた矢先、明治25年(1892年)11月、またしてもイギリスがらみの事件が起こる。
日本の軍艦千島(ちしま)が、瀬戸内海でイギリス籍の汽船と衝突して沈没し、乗員70人ほどが全て殉職したのである。

日本政府はこれに対してイギリス船に過失があったことを主張したが、イギリスの領事法廷で開かれた裁判により、この日本の訴えは却下、イギリス船の責任はなく無罪となったのである。

この判決により日本の世論はまたしても沸騰し、政府に対抗的な野党は外国人は何だ、決められた居住地にしか住めないはずなのに、居住地の外に出ては事件を起こしている。

ただでさえ不平等な上に決められたことも守らないのか、条約を励行しろ・・・、と訴え始め、こうした外国人に対する条約励行運動は国内的な支持を得ていく。

これに対してイギリスを刺激しないようにと考える陸奥らは、外国人に自由を与えてこそ平等な条約を得られると主張するが、その声はかき消され、日本はこの問題を巡って大きな混乱になっていく。

1893年(明治26年)10月12日、こうした日本国内の情勢に疑問を持ったイギリス代理公使は、陸奥外務大臣に面会を求めてこう言う。
「日本は本当に条約改正を進める気があるのかね・・・」

そして日本国内の外国人に対する条約励行の声は益々高まって行った。
陸奥の計画は万事窮すとなって行く。

だがここでイギリスが少し強気になって新たな要求をしてきたとき、この瞬間、陸奥の眼前に光が差してきた。
イギリスはここぞとばかりに強気に出たばかりに穴を掘ってしまったのである。

当時イギリスはシベリア鉄道を建設し、極東進出著しいロシアに大きな警戒感を持っていたが、そのロシアをけん制するために、陸奥らが提唱していた条約改正の猶予期間として設定された5年間を超えても、イギリスが函館港を貿易港として使用することを認めよ・・・と言う条件を付けてきたのである。

陸奥はイギリスと交渉するに当たり、不平等条約撤廃に5年間の猶予期間を設けることを条件にイギリスと交渉を続けてきたが、その間に瀬戸内海の軍艦衝突事件が起こり、交渉が暗礁に乗り上げていたのだが、これでイギリスの心底は見えた。

陸奥はロンドンの青木公使に打電する。
「条約改正後も函館港を貿易港とするは苦しからず」
この陸奥の判断は正しかった。

イギリスはこうした陸奥の機転の利いた態度に即刻反応し、こうして日本とイギリスは不平等条約の改正条約締結にこぎつけ、このイギリスの態度を見ていた諸外国は、次々日本の条約改正交渉に応じて行ったのである。

1894年(明治27年)7月16日、ロンドンで交わされた「日英通商航海条約」、これはまだ完全に平等なものとは言えなかったが、それでも少なくとも日本で起こった事件は日本が裁く権利を持つこと、それに最恵国待遇の相互化、これだけは達成されたのであり、日本が欧米列強と対等な立場となる最初の一歩は、ここから踏み出されたのである。

また同じ1894年(明治27年)8月1日、日清戦争が始まったが、陸奥は開戦から終戦まで外務大臣として奮闘し、1895年(明治28年)3月には戦争終結の講和会議でも活躍し、講和条約を成立させたが、こうした激務は陸奥の体を蝕み、やがて結核を患い高熱を出すようになる。

そして1897年(明治30年)8月24日、陸奥宗光は坂本龍馬と同じ所へと旅立った。  享年54歳だった。

日露戦争でロシアとポーツマスで交渉した小村寿太郎、彼を引き上げて行ったのはこの陸奥宗光だったが、初めて小村が陸奥の部屋へ呼ばれたとき、真っ先に聞かれたのが「今何時だ」と言う話だった。

しかし父親の借金のおかげで金の無い小村は時計を持っていない。
そこで黙っていると、陸奥は「何だ小村、時計も持っていないのか」と言い、自分の懐中時計を小村に差し出した。

後年小村はこの時計のことを思い出し、こう語っていた。
「あの時計は高く売れた、良いものだったんだろうな・・・」

小村は陸奥から貰った時計をその日の内に質屋へ入れて金に替えていたのだった。




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陸奥宗光・Ⅱ

その後、激情に駆られた陸奥は龍馬暗殺の黒幕を紀州藩士、三浦休太郎と決め付け、海援隊の同志15名と共に三浦を襲撃する事件、いわゆる「天満屋事件」を引き起こすが、明けて慶応4年(1868年)、彼は新政府からその貿易実務の経験を評価され、外国事務局御用係りに登用される。

更に兵庫県知事、神奈川県令などを歴任した陸奥だが、薩長支配に憤慨し官職を辞めた後は、1875年大阪会議で政府と民権派の妥協で発足した元老院議官に就任、その間1872年に亡くなった蓮子婦人の後添えとなった金田亮子は当時17歳、30歳の陸奥は、鹿鳴館の華とうたわれたこの元芸妓の娘を生涯大切にしていた。

そしてこうした時期から問題になってきたのは、安政年間以降次々と結ばれた諸外国との条約であった。

俗に言われる不平等条約、その内容の大まかなものは領事裁判権を相手国が持つ、すなわち治外法権を諸外国に与えていたことであり、関税協定では関税自主権を日本が持てないことになっていて、更には最恵国待遇を一方的に日本が与え、相手国からは同じ待遇を受けられない状態となっていた。

このことから明治の始めに起こった、東京芝公園でのイギリス人による少女暴行事件などは、それを契機に厳しい反英感情が起こったが、この少女暴行事件に関して日本は犯人のイギリス人を裁く権利がなく、いかに民衆が憤りを感じても、政府には何の術もなかった。

それゆえ、こうした外国人がらみの事件があちこちで発生していくことは、結果として発足して間もない明治政府に対する不満となって、渦巻くことになって行ったのである。

明治10年(1877年)、西南戦争が九州で勃発、これによって国内の混乱は益々激しいものとなって行くが、同年2月、明治政府に反対する土佐派の大江卓(おおえ・たく)林有造(はやし・ゆうぞう)等が、坂本龍馬の下で働いていたことから陸奥を訪ね、その際薩長独占政府を転覆させる計画を持ちかける。

かねてより同じことを思い、強い憤りを感じていた陸奥はこれに二つ返事で参加する。

しかしこの計画は明治政府に筒抜けとなっていて、陸奥らはあえなく逮捕、1878年(明治11年)陸奥は禁錮5年の刑を受け、山形刑務所に収監されるが、この山形刑務所が火事になり、陸奥はこの時焼死したのではないかと言う噂が流れるが、生きていることが確かめられた後は、かつて親交のあった伊藤博文が陸奥に同情し、環境の良い宮崎刑務所へ陸奥の身柄を移送させる。

陸奥は一時本当に落胆した状態になるが、やがてどうだろうか坂本のことを思い出したのではないだろうか、「よしこれだけ時間があるんだ勉強してやるか」、そう言い出すと妻亮子に手紙を書き、本を差し入れてもらうようになった。

陸奥が刑務所へ取り寄せた本はおよそ200冊、陸奥はこれらの本を貪るように読みふけり、イギリスの思想家ベンサムの「道徳と立法の原理序説」の翻訳まで完成させる。

1883年(明治16年)陸奥は特赦で5年ほどの刑務所生活から開放されるが、こうした陸奥に対して伊藤博文はヨーロッパへの留学を奨め、陸奥は翌年1884年(明治17年)単身ヨーロッパへ向かう。

ロンドンに着いた陸奥はケンブリッジでイギリスの立憲君主政治、議会、内閣制度を徹底的に学び、民主政治についての造詣を深めて行った。

また陸奥は妻亮子のことを本当に愛していたらしく、2年近くのヨーロッパ留学中、妻亮子に宛てて書かれた手紙は40通以上にものぼり、その内容は常に亮子を思っていると記したものばかりだった。

同じ頃、日本では外務卿の井上馨(いのうえ。かおる)が鹿鳴館で連日連夜諸外国の代表を招いた舞踏会を開き、これによって個人的関係を作った上で、不平等条約を是正するべく力を尽くしていたが、こうした井上の努力はわずかだが効を奏し、治外法権については、外国人の事件でも日本の裁判所が判決を下せるとしたところまでは何とかできたものの、この修正案には外国人被告を裁く場合は、判事の半数以上を外国人にすることが求められていて、実効性は極めて疑問な修正案だった。

そんな中起こったのが1886年(明治19年)のイギリス汽船ノルマントン号事件である。

和歌山県沖で大しけに遭い沈没したノルマントン号に乗船していた日本人二十数名は、船長のドレークの指示により遭難した直後救出されず、イギリス人のみ救命ボートに乗って助かったと言うもので、このあからさまな差別によってイギリス人は全員助かり、日本人は全員見殺しになったのだが、この事件では裁判は開かれたものの、判事の半分以上が外国人だったため、船長のドレークは無罪となってしまった。

だがまずかったのは、この場合タイミングと言うものだろうか、治外法権撤廃を完全に諸外国に認めさせることは無理だと考えた井上馨は、とりあえず駒を進めようとして、不完全な修正案でもこれを受け入れたのであって、従ってこれは国民に秘密裏に結んだ修正条約だった。

ところがこのノルマントン号事件の裁判によって、その井上の目論見は完全に世の大衆の知るところとなり、これによって政府は内側は国民から、そして外からは諸外国から責められる形となり、井上馨外務卿は辞任、困り果てた伊藤博文は陸奥宗光を外務省に入れて、底の厚みを持たせようと考えた。

                            「陸奥宗光・Ⅲ」へ続く







陸奥宗光・Ⅰ

政治はアートなり、サイエンスに非ず。

巧みに政治を行い、巧みに人心を収めるのは、実学を持ち、広く世の中のことを習熟している人ができるのである。
決して机上の空論をもてあそぶ人間ではない。

これは日本の外交の基礎を築いた陸奥宗光(むつ・むねみつ)の言葉である。

陸奥は弘化元年(1844年)紀州勘定方奉行、伊達宗広(だてむねひろ)の第六子としてこの世に生を受けたが、この父は勘定方奉行として、紀州藩の財政再建に尽力した人物だった。

しかし伊達宗広は運悪く、この時期発生した紀州藩の権力闘争に巻き込まれ失脚、宗光らは極貧生活に追い込まれるが、僅か8歳の宗光はこの時父をこうした目に合わせ、家族を困窮の極みにまで追い込んだものを激しく怨んだと言われている。

1858年(安政5年)、15歳になった宗光は単身江戸に向かっていたが、その背景はやはり1853年(嘉永6年)、浦賀に来航したアメリカ艦隊の事件があっただろう。

吉田松陰しかり、坂本竜馬しかり、高杉晋作しかり、皆この国家の重大事に際して、このままでは居れぬ、そう思ったに違いなく、それは居ても立ってもいられない衝動となって彼らを動かし、この国に夜明けをもたらす力となって行った。

宗光はこの時まだ10歳だったが、それでもどこかでこの日本が新しい時代を迎えつつあることを感じ、やがて5年の後には故郷和歌山を後にしていたのである。

江戸に着いた宗光は儒学者安井息軒(やすい・そつけん)の元に弟子入りし、住み込みで息軒から学問を学ぶのだが、この時ふとしたはずみから吉原へ行った宗光は、そこでひいきの女が出来、それからと言うものは足しげく吉原通いが続く。

だがこんなことがいつまでも師匠にばれぬはずもなく、やがて吉原通いを知った安井息軒は「学卒の身でありながら、吉原通いとは何事か」と激怒し、宗光は塾を破門されることとなってしまった。

そしてこうした宗光を拾ったのが水本成実であり、宗光は水本のところで学びながらそこで水本とも親交のあった坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文などと面識を得ていき、やがて宗光20歳の時、1863年には勝海舟の海軍塾、神戸海軍操練所で学ぶようになる。

しかし本来体育会系ではなく、どちらかと言うと文理系の宗光は、ここで軍人としての体力的操作鍛錬には余り参加せず、いつもサボって本ばかり読んでいたため、周囲の血気盛んな武士達からは極めて受けが良くなく、宗光もそうした体力だけで、頭は空っぽの他の塾生達を見下した態度があったようで、海軍塾では孤立した存在になっていた。

みんなから相手にされなくなって行った宗光、だがこの男をたった1人理解してくれたのは、神戸操練所塾頭、坂本龍馬だった。
「おんしとわしだけじゃきにの、大小二本をささずに飯が食えるのは」

「これからは力だけではどうにもならん時代がきっと来る、そのときはお前のように頭を使う奴がどうしても必要になる」

坂本は操練所では浮いた存在になっていた宗光に、こう言って目をかけていたのである。
またこうした坂本の心に宗光はいたく感じ入り、坂本龍馬は自由人、まるで天をかける奔馬だとこれを褒め称えている。

そんな折、順調そうに見えた坂本と宗光だが、操練所が開設されて1年ほど経ったとき、海軍操練所は攘夷論者を集めて、幕府に逆らおうとしているのではないかと言う噂が流れ出し、これにより勝海舟の開いた海軍操練所は廃止にまで追い込まれてしまう。

こうしたいきさつから行き場を失った坂本は、1865年(慶応元年)日本初の商社「亀山社中」を長崎で立ち上げ、そこにはしっかりと坂本を支える陸奥の姿があった。

やがて1867年(慶応3年)にはこの坂本の動きに土佐藩が連動し、その肝いりで「海援隊」が発足、陸奥は沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう)と共に勘定方、つまり経営の会計部門で手腕を発揮してくるようになって行った。

そして1867年(慶応3年)11月15日夜8時過ぎ、京都近江屋、才谷梅太郎(さいたに・うめたろう)の偽名を使ってこの宿に滞在していた坂本を、十津川村郷士を名乗る、おそらく3名だろうと思われる人物達が訪ねてくる。

このとき応対に出た者の話では、訪ねてきた一行が「才谷先生はおいでますか」と尋ねたことから、坂本も、一緒にいた中岡慎太郎も、疑う余地もなくこれらの者たちを通しているが、これより少し前、同じ土佐の同志である岡本健三郎とその書生の峰吉(みねきち)が部屋を出て行っていることから、訪ねて来た者達は4人では勝てないかも知れないが、2人なら勝てる自信があったと言うことで、しかもこうした経緯から十分監視していて、人数が少なくなるチャンスを狙っていたに違いなく、そうすれば刺客は3名、彼らは落ち着き払って坂本のいる部屋へと向かって行った。

坂本は最初の一振りで頭を斬られ殆ど即死、中岡も十数か所を斬られ虫の息、こうして天を翔る坂本龍馬は33歳の生涯を閉じるが、11月15日は坂本龍馬の誕生日でもあった。
この時寝ていた陸奥は龍馬襲撃さる、の報を聞き急いで近江屋へと駆けつけるが、そこには血の海に横たわる坂本龍馬の姿こそあれ、既に息はしていなかった。

陸奥はその場で号泣する。

赤い夕日に向かった坂本龍馬、その後ろ姿を陸奥は眺めていた。
「人はいつかは死ぬんじゃきに、ちと早くなっただけぜよ、気にするな」
「後は頼むきにの・・・、陸奥、たっしゃでの」

こうして維新最大の功労者はいとも容易く世を去って行ったのである。

坂本を狙っていたのは誰か、その問いに答えるなら、この時坂本を狙っていない者など日本にはいなかったと言っても良いだろう。

また大政奉還を成し遂げた徳川慶喜に心酔していた坂本は、新政府議会議長に徳川慶喜を据えることを考えていたこともあって、これでは幕府がまたこの日本を仕切って行くのと何も変わらない・・・、そう憤る薩摩、長州に措いては、敵は坂本龍馬と言う考え方が広がっていた。

ことに薩摩は徳川の首を取らねば、いつまた不満分子が徳川を担ぐか分かったものではない、徳川滅亡しか方法はなかったのであり、この点に置いては大政奉還が成し遂げられれば、それで良いとする坂本とは決定的な違いがあった。

事実薩摩は大政奉還が成し遂げられた後も、岩倉具視を使い徳川討伐の密勅を出させている事から、坂本龍馬暗殺に関してはまず第1位に疑いをかけられるのは止むなしと言える。

                            「陸奥宗光・Ⅱ」に続く





限界集落

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国家と言う概念は国民がいて、政府が存在し、領土があること、これは国連の規定でも決まっている。
だから国が滅びるか、縮小していくときは、他国の侵略や政府の転覆がこの要因と考えがちだが、国民がいなくなることを考える者は余りいない。

しかし静かな割には最も恐いのが、実は国民がいなくなることではないだろうか。

何かが崩壊していく時、それは真ん中からは始まらず、常に端末の薄い部分から進行し、気が付いたときはどうにもならなくなっているものだ。

また一つ二つは仕方ないと思っていると、数年後にはそれが数千の単位となっていくことの恐ろしさを、今の日本政府は余り実感していないだろうが、もう既に始まっているのが、人口の減少から起こる行政区そのものの消滅である。

この概念を初めて提唱したのは1991年、長野大学教授の大野晃(おおの・あきら)氏だが、そもそも過疎と言う表現は少し田舎の実情を表すには上品過ぎる。
どことなく少し寂しいかなと言う感じでしかないが、これは行政側が名づけたもので、すなわち実態をコントロールした表現である。

これを実態に即した表現にするとしたら何か、そこで現れてきたのが大野教授の「限界自治体」と言う言葉だった。

当初この表現は余りにも過激で、認められないとした自治体も多く、現在に至ってもこの表現を使わない自治体もあるが、いずれ消滅する恐れのある自治体を表現するとしたら、これほど的確な言葉はなく、また田舎の実情はまさにこの通りである。

すなわち過疎が進んだ島や山間地では既に小学生の児童が全くいなくなり、地域の行事を維持できず、また道路や神社仏閣の管理も出来なくなっていくが、その上に地域住民の過半数が65歳以上の高齢者になってしまうと、その行政区の自治が継続できない状態が起こってくる。

この状態を「限界自治体」と言い、これより更に小さい行政区、つまり「村」などにこれを適応した場合は「限界集落」と言う表現になり、限界集落が進行すると超限界集落、そして消滅集落と言う道を辿る。

実際限界集落となればどう言ったことが起こるかと言えば、その集落全員が60歳以上で80歳代の人がそのうち半分、そして道路の草刈や、どぶ掃除などの共益事業が出来ず、祭りの神輿も出せなくなり、個人の財産である田畑も全てが耕作されず、山林の管理も全く滞り、荒れ放題になっていく。

やがて年齢の高い者から一人また一人と亡くなっていき、ついには村の人口が半分になっていくが、この状態を超限界集落と言い、しかも最終的には村の人口がゼロになっていくのであり、こうした状態が消滅集落である。

またかつては村として組織していたものが、その自治を維持出来なくなった段階で更に上の行政区、例えば町や市に吸収された形となっても消滅集落となる。

2005年の段階で日本にある限界自治体、つまり村より更に上の行政区分だが、群馬県南牧村、高知県大豊町、福島県金山町、昭和村などがこの状態であり、2006年5月には石川県輪島市門前町の大釜地区が限界集落となったが、こちらはニューヨークタイムスが「日本の高齢化社会の犠牲者」と銘打って取り上げている。

この地区の限界集落の特長は、かつてあった17世帯の家が、5世帯8人まで減少し、住人の全てが60歳以上、それで開発もいろいろ考えたが、結局断念して、村の財産、これは個人の分を含めて、全て産業廃棄物処理業者に売り渡してしまうと言うものだった。

維持できないので集落そのものを金に替えて終わりにしよう、この発想は観光地輪島市としては苦慮しそうだが、住人が売ってしまうと言う時には、何も言えない状態となっていて、現在も解決がついていないようである。

だがこうしてみて見ると、まだ金になるのは良い方で、殆どの限界集落では維持できなくなり放置されるか、財産としての価値を全て失うかのどちらかにしかならず、ひどい場合には、村そのものが廃屋に囲まれたゴースト集落になってしまう恐れすらあるのだ。

更にこれは国土交通省が2008年にまとめた、こうした限界集落に関する最終報告だが、それによると14歳以下の子供が全くいなくて、住人の半数以上が65歳以上の集落が7873箇所、集落としての機能の維持が既に困難になっている地域、つまりもう祭りが行えない、道路管理が出来なくなりつつある集落と言うことだが、これが2917地区に及んでいて、ここ10年以内に消滅の可能性が高い集落が422箇所、いずれ消滅、すなわち20年以内で消滅することを指している地域が2219箇所存在している。

そしてこの数字は年月を重ねるごとに増えてくる傾向にあり、例えば集落でなくても、町や市の単位でも既に小学生が全くいないところも増えているのであり、こうした意味では地方行政がこれから抱える問題として、限界自治体問題が重要な案件となってくる可能性が高い。

限界自治体の特徴は、住民からの税収がなくなることであり、これをカバーするために田畑や山林の固定資産税を上げると、その地域では更に年金生活者が暮らせなくなり、人口流出が加速される。

またこうした安易な課税方法は結局どう言った顛末を迎えるかと言えば、例えば人口50万人規模の都市市街地固定資産税より、人口3万人前後の田舎町の固定資産税の方が高くなる場合が出ることで、実勢価格と市などが高く設定した固定資産算定額に大きな開きの出る地方、田舎の市街地は土地取引が益々低下していく傾向にあり、このような現象から限界集落は島や、山間地だけではなく、中心市街地でも起こってくるのである。

だから限界自治体ともなれば、同時に起こってくるのは財政破綻であり、日本全国的に財務状態が苦しい自治体が標榜するのは大方が「観光」と言う現実から、苦しい自治体ほど風評を恐れて過疎化、限界自治体化の進行を隠そうとするのであり、それはとりもなおさず破綻寸前の財務状況をも、隠蔽して行こうとする体質を発生させている。

それゆえ、こうした地方においては限界自治体と財政破綻が同時にやってきて、壊滅する自治体の発生も危惧される訳であり、既に大部分の地方自治体がその状況にあるか、もしくは一歩手前にあると思ったほうが良いのかも知れない・・・。




黄色い猫と黒い猫・Ⅲ

鄧小平が進めた改革は、それまでの国際的な対立から融和に方針が転換され、国際平和、国際協調が世界に向けて発信されていたことから、天安門で自由を求める学生達を弾圧することに躊躇した江沢民体制は、学生達に人気が有った趙紫陽をこの説得に向かわせるが、ここで泪を流し学生達を説得する趙紫陽をテレビで見ていた鄧小平は、「あの馬鹿が、中国を崩壊させるつもりか」とつぶやくと、すぐさま軍関係者に指令を出し、これを徹底的に鎮圧しろと命じ、その際死者が出ても構わないと告げる。

そして江沢民たちのもとを訪れると、「何をやっている」と激怒し、苦しい乱世の経験のない江沢民たちに、政治とはどう言うものかを眼前に示して見せるのである。

この鄧小平の態度は国際的には非難を浴びる。
しかしもともと混乱する国家をまとめる時には独裁政治が最も効果があり、それから緩やかに民主化へと向かうのが、一番理想的な混乱社会の収拾方法である。

具合が悪ければあとで何とかすれば良い、今必要なことを今やらねば中国は4つか7つに割れていく。
10億か、それとも1万人か、もし1万人が死んでも10億が助かればそれが政治だ・・・、流石に2つの世界大戦を潜り抜け、資本主義とも共産主義とも闘い続けて来た人物だと思う。

この鄧小平の厳しさのおかげで中国は分裂せずに、ソビエトの二の舞にならずに済んだのであり、その後改革が順調に進んだ中国はいまや世界第2位の経済大国であり、その礎を築いたのは間違いなく鄧小平、その人である。

鄧小平は1997年2月19日この世を去った。
享年92歳、何度も失脚し、命の危険にまで晒され、それでもその絶望の中から這い上がってきた彼は、決して中国の国家主席になろうとはしなかった。

また死後は使えるものがあったら全て使って、残りは献体にでも使えと言って死んで行ったが、流石に恐れ多く、角膜は使ったものの、体は荼毘に付され、その遺骨は中国の領海にまかれた。

またこれも本人の遺言らしいが、自分が死んだからと言って特に何もするな、平常どおりの1日にしてくれとの事だったので、毛沢東が死んだときのような派手な式典も何も無く、鄧小平が死んだその次の日も、そのまた次の日も、中国は昨日と同じように1日が始まっていたのである。

現在の胡錦涛(こきんとう))国家主席は戦争を経験していない国家主席である。

だが彼の行動を見てみると良い、日本へ来れば卓球の福原愛選手と卓球をして楽しみ、そして自国へ帰ればウィグル地区での徹底した弾圧だ、この男を甘く見たら大きな怪我をするだろう。

そして中国と言う超大国に立つ者とはこうしたものであり、良い人が国のトップに立ったとき中国は、7つ以上に分裂するに違いない。

またこれは余談になるが、新聞各紙が余り大きく取り上げないので、ここで取り上げようと思うが、実は今、アフリカ諸国などの大使館が日本から撤退し、随時中国に大使館を開き、結果として中国大使館で日本外交の実務を兼務してる国が増えてきていて、こうしたケースの反対、つまり日本の大使館で中国外交の実務を兼務しているケースは全くない状態が起こっている。

少なくとも10カ国が日本に大使館を置かず、中国大使館で対日本外交を兼務していることが分かっているが、そのうち8カ国はアフリカであり、コンゴ共和国、ギニア、トーゴ、ギニアビサウ、シエラレネオ、ニジェール、ブルジン、セーシェルが1990年から2000年にかけて、逐次日本大使館を閉鎖し、中国大使館で対日本外交を兼務している。

またキプロスとマルタは地中海の国だが、いずれも日本に大使館を置かず、これも中国大使館で日本外交をカバーしている。

日本と中国の国際的な影響力の差が少しずつ目に見える形となってきているが、資源確保を目的に世界進出が目覚しい中国、アフリカでも今や日本の影響力は低下し、反対に中国の影響力が高まりつつあり、これは中東でも同じことが言えることを、日本は自覚しておくことが必要だろう・・・。




黄色い猫と黒い猫・Ⅱ

1977年、こうして華国鋒(かこくほう)を推して復帰を果たした鄧小平は、ここでまず文化大革命が終了したことを宣言し、国内の建て直しを計り、翌年1978年には日本を訪れ、その発展ぶりに目を見張ることになるが、こうした日本の姿から「社会主義の近代化建設」構想が生まれていった。

すなわち鄧小平の目には、明らかに近代化に遅れた中国の現実がはっきりと見え、これに追いつくのは開放政策、それも日本やアメリカなどの資本主義国家の技術を取り入れなければならないと思ったのである。

だがこうした鄧小平の前に立ち塞がるのは相も変らぬ共産主義と言うイデオロギー、その教条的な思想である。

復帰する折はこれを推して復帰したが、華国鋒はこうした鄧小平の路線に、やはり毛沢東と同じように「反共」を見てしまうのであり、毛沢東路線を堅持しようとする華国鋒と鄧小平はこうして対立する。

しかし鄧小平らの改革解放路線は、それなりの成果も治め始めていたことから、民主化運動に火をつけ、こうした民主化運動の力を借りて、国民から圧倒的な支持を集めるまでになって行き、結局華国鋒は鄧小平に追い落とされる。

1982年、鄧小平同志の推挙によって胡耀邦(こようほう)が中国共産党主席、そして趙紫陽(ちょうしよう)が国務院総理(首相)と言ういずれも鄧小平の部下だった者がそのトップに立ち、鄧小平自身は党軍事委員会主席のみ、あとは一般党員となったが、事実上ここから鄧小平体制がスタートした。

中国の開放改革路線を断行した鄧小平、だが彼は1980年、東欧ポーランドで起こった民主化運動「連帯」の動きを見るや、いきなり反体制派を厳しく弾圧していく。

これは何故か、どうも結果論的にものを考えると、鄧小平が第二天安門事件で見せたあの強硬な姿勢は、それより少し前に起こったソビエトの崩壊による、混乱から学んだものとは言えないのではないか、実は鄧小平が国家体制と言うものが拘って来たとき、言語道断の行動に出る背景には、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通して身に沁みたものがあったからではないだろうか。

すなわちイデオロギーで国が瓦解して行ったのは何もソビエトだけではなく、太平洋戦争の以前にもあった事だった、しかもそれは中国であって、鄧小平にはイデオロギーは非合理的なものにしか見えていなかったが、それでも体制が崩れると、良い悪いではなく、国家が無くなってしまうことが分かっていたのではないだろうか。

彼の言葉で有名なのは「白い猫だろうが、黒い猫だろうが、ねずみを取る猫は良い猫だ」だが、これは昔から中国にあった諺でもあり、茶色の猫が好きだった鄧小平は、実はこういっていた。

「黄色い猫だろうが黒い猫だろうが、ねずみを取る猫は良い猫だ」
ここから見えるものは徹底的なプラグマティズムであり、何としても中国を壊さずに欧米や日本に追いつかせようと言う強い意志である。

「富強中国」、鄧小平はこの目標を掲げ、改革を行って行った。

経済優先主義、比較優位主義、これは先に発展させていく地域を作り、それを手本に残りの地域の経済的発展を図るものであり、ここでは格差は容認され、社会主義体制外改革先行策では、国有企業の改革は後回しにして、農業改革、外資系企業の導入などを先行させて推進して行った。

また積極的な市場経済の導入も進めて行き、ここではもはや中国に措ける毛沢東の革命主義、イデオロギー主義は完全に否定されたものとなって行く。

そしてこうした背景から生まれてきた開放的な希望、自由化への期待が結局1989年の第二天安門事件へと繋がって行った。
つまり第二天安門事件は、鄧小平の改革では当然発生して来るべくして、発生した事件だった訳である。

だが胡耀邦国家主席から既に江沢民(こうたくみん)体制に移りつつあった当時の中国首脳部はここで迷ってしまう。
開放改革路線は当時の中国の方針であり、こうしたことから自由化を求める学生達を、どう対処してよいか判断できなくなってしまうのである。

「黄色い猫と黒い猫・Ⅲ」に続く。





黄色い猫と黒い猫・Ⅰ

1978年、日本を訪問した鄧小平は昭和天皇に謁見する。

そしてその際昭和天皇は鄧小平に対して「あなたの国に迷惑をかけてしまいました。申し訳なかった」と謝罪の言葉をかけたが、この言葉を聞いた鄧小平は姿勢を正し、直立不動となって暫く立ちつくした。

思えば1922年初めて共産党に入党した鄧小平にとって、それからの戦いは資本主義との闘いであり、またその共産党の中ではさらに共産主義に対して、経済を重視する反共産主義的な存在として戦い続けなければならなかったが、その意味で日中戦争、太平洋戦争が持つ意味はまことに感慨深いものがあったに違いない。

中国大使館へ戻った彼はいささか興奮気味だったようで、側近に「今日はとんでもない経験をした」と語っていた。

鄧小平はもともと裕福な家の出自だったが、彼のその後を決定付けたのは、やはり第一次世界大戦中のフランス留学ではないだろうか。

彼はここで資本主義と言うものを見ていることから、後の彼が中国共産党の中でも「反共」として、何度も失脚の憂き目に遭う原点はここにあったように思われる。

鄧小平が中華人民共和国の立国者である毛沢東と出合ったのは、1931年のことだが、無能な上官のおかげで敗走していた鄧小平は、毛沢東と合流し、ここで毛沢東に認められるが、当時中国共産党の若手はソビエトから共産主義を学ぶ、いわゆるソビエト留学組が支配的だったため、田舎くさいゲリラ活動に終始する毛沢東は指導者だから仕方ないものの、それに忠実に従う鄧小平は、こうしたソビエト留学組によって追い落としを謀られてしまう。

最もこの対立は鄧小平自身もフランスから追われてソビエトに入っているから、鄧小平もソビエト組だったと言えばそうだが、どちらかと言えばセンスの良い都会組と、田舎くさい考えの対立だったかも知れない。

こうして野に下った鄧小平、しかし共産党ナンバー2の周恩来(しゅうおんらい)が彼を救い、この間国民党との戦いで戦果を収めた鄧小平は、次第に毛沢東の側近としてその地位を固めていくが、どうもイデオロギー重視の毛沢東とはその後距離が出てきてしまう。

毛沢東が主席を退き、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席体制になると、鄧小平は毛沢東がイデオロギーで混乱させた社会の復興を劉少奇とともに目指すが、そこで鄧小平が用いた方策は、一定の規模の民主化であり、これはそれなりに成果を上げていたが、ここでストップをかけるのが引退していた毛沢東だった。

「鄧小平等の政策は革命の否定だ」、この言葉はその後文化大革命により、劉少奇、鄧小平は革命の敵だと言うところまで発展していくが、こうしたいきさつから劉少奇は非業の最期を迎える。

しかし鄧小平については全ての職籍は剥奪され、追放されたにも拘らず、何故か毛沢東が「あれはまだ使える」として命までは求めなかったのである。

私は毛沢東のような叙情的な政治家は好きではないが、この辺が毛沢東の凄いところだと思う。

なぜなら鄧小平がもしここで死んでいれば、おそらく今の中国は一つの国家としては存在していなかったように思うし、またここまで経済的発展を遂げることも出来なかったと思うからだ。

もしかしたら身長150センチの小さな体から、どこかで世界最大の国を治めるに足る、何かが見え隠れしていたのだろうか。

鄧小平は1968年から5年間、追放の上、倒れても砂糖水しかもらえない状況で、強制労働をさせられるが、1973年、ここでまたしても周恩来に救われ、彼が病気でなかなか動けなかったことから、鄧小平がそれを補佐していく形が出来上がったが、こうしてまた地位が上がっていく鄧小平は、この時期にニューヨークを訪れる機会があり、その際ニューヨークの発展ぶりを目の当たりにし、「これからは製鉄工業に力を入れなければだめだ」と痛感したと言われている。

そして鄧小平の前途は洋々たるもののように見えた、がしかしここで最大の擁護者だった周恩来が1976年1月8日死去、もともと周恩来を邪魔に思っていた江青ら4人組は、天安門で周恩来の追悼デモを仕切っていた鄧小平らを、反革命動乱の首謀者として逮捕、またもや鄧小平は追放の憂き目に遭うが、この事件を天安門事件と言い、後に開放を求めて学生達が起こした天安門事件と区別するために、この事件は「第一天安門事件」と称されるようになった。

しかし同じ1976年9月、今度は毛沢東と言う赤い巨星が没してしまう。

ここからほころび始めた江青ら4人組のもくろみは、翌年1977年に復帰した鄧小平らによって、銃口の露となって散っていった。

ちなみに私はこのときまだほんの子供だったが、軍事法廷で拳を振り上げ、「あれは革命ではない」と叫ぶ江青のその拳の先に、初めて政治とか革命とかと言うものを感じたものである。

「黄色い猫と黒い猫・Ⅱ」に続く。




良い人

人は儚きもの、そして孤独である。
まるで浮雲の如くあても無ければ、何の頼りも無い。
だから人はどこかに無限の深遠へと続く寂しさ、侘しさ、そうしたものを抱えて生きており、この人間にとって世の評価はまるで珠玉、黄金の輝きにも似たものが有る。

そしてその反対に自身の評価が成されぬとき、またはまるでこれを世の人が無視した時の悲しみは、その者を絶望へと追いやることになるが、これに案ずることは要らぬ。

世の評価を得るために生きているのか、そしてそのために自身の人生をどこかで見た影に真似て演技を続けるつもりか、見せかけや自己顕示欲を満たすのがその本旨か、それが自身そのものの姿か・・・。
今の世は自分を高く売ることが正しいと思われているかも知れぬが、その為に人に見せる笑顔など我鬼の顔にも及びはしない。
また自分を高くとは何か、その者はただの品物か何かか、そうではあるまい。

自分と言うもの、もしくは自身の人格を物に例えることなど、言葉に例えることなど、どうして出来ようか。
わが身ははるかに両親それぞれの一滴の雫によって世に現れたもの、それ故初めからそれはどこかで借り物に過ぎず、今生が終われば、例えこれが自身の体だと思っていたものすら、朽ち果てて土に返る。

わが身、わが身といとおしんだ体ですらこの有様である。
それ故人は何かを惜しんではならぬ。
体もそうだが、自分自身も尚のこと惜しんではならぬ。

人が人を理解することは出来ない。
いやそもそも自分が自分自身を分かることなどありようも無いことだが、これを分かった、理解したと言う者は、一番理解していない者であり、心無き者だ。

そして人のこうした言葉、評価は自身にとって最も危うきものですらある。
我に心地よき言葉はこれを正しきものと考え、我に痛き言葉はこれを非とするなら、その者にとって言葉とは何の意味を持つだろうか、むしろ痛き言葉にこそ、我の真の評価が潜んでいるのであり、これに耳を傾けることの重きは、はるか昔から知りながら、それでも人はそうしたことを他人には当てはめても、自身は特別と考えている。

良い人、才能のある人、優れた人、そう言われて嬉しいのが人であるが、しかし、それに何の意味があろうか。
だからどうした・・・、それによって自身の何が立派なのか、何かが変わるのか、全く何も変わりはしない。
むしろ砂糖に漬けられて融けていくわが身しかなく、本来何かを成さねばならぬ者なら、そうして人に褒められるために時間を費やし、笑顔など作っている場合か、一刻も早く成さねばならぬことを成すのが道である。

朝に目覚める保証は無く、わが人生と思うものも、それは実のところあらゆる事象、あらゆる他の寄せ集めに過ぎず、全く幻の如く夢のようなものに過ぎず、しかも一瞬たりともどこかに留まることがない。
ならば、一体どこのどれをして、何をして自分であると見定めることが出来ようか。

そしてこうしたものでしかない自分を後生大事に、褒められて過ごすなど全く儚いものであり、苦しかったら苦しい顔をし、悲しかったら悲しい顔をするが良い、そこに人としての、今この瞬間と言う真実があり、本当の謙虚さが宿っている。
人の生きている証は今この瞬間でしかなく、そうした瞬間の連続として過去や未来を見たように思うかもし知れないが、では過去をもう1度繰り返せるか、まだ見ぬ未来に何を思っても、明日目が醒めねばそれで終わりである。

笑顔は考えたり習慣で行うものではない。
本当に嬉しいときにするものであり、これは本来セミナーで研修して身に付けるなどと言う筋合いのものではなく、こうして自身の価値を高めようとする者は、既にその時点で自身を商品にまで貶めた者となる。

人が生きていれば先にあるものは悪いことが9割、そして良いことなど1割もなく、それ故良きことがあれば嬉しいのであって、人の笑顔にも価値があるのではないだろうか・・・。
だからこそ、人の世に笑顔の絶えない時代などあろうはずも無く、もしそれがあるなら、その時代は人を信じるに足るもの、その根拠が既に虚しきものとなっているに違いない。

人の言うよき人、優れた人はその者を縛る。
人の言うよき人、優れた人とは何を以ってそう言うのか、それはおそらく他と言うものにとって、自身が都合の良いことでしかない、言わばここで自身は人の望む自身の姿をやっているに過ぎない。

されば、苦しい、悲しい、嬉しい、楽しい、腹が立つ、こうした心にこそ、人としての事実があり、その瞬間にこそ本当の自分がある。

海外借用地

イソフラボンという構造体は大豆などに多く含まれているが、この化学構造は人の女性ホルモンに似ている事から、摂取すると人体内で女性ホルモンと同じような働きをする。

そのため閉経後の女性がエストロゲン不足によって起こすとされている、骨粗しょう症の予防には効果があるが、一方で外部から不自然にホルモンと似た成分を摂取することは、本来人が持つホルモンのバランスを崩す恐れがある。

近年、このイソフラボンを用いた栄養補助食品は数多く販売されているが、食品安全委員会はその摂取量に一定の目安を設定し、大豆の1日の摂取量の上限は、イソフラボンのアグリコンとして70mg~75mg、またその成分が人によって試験され、効果があることが明確になっている特定保健用食品からの摂取量は、1日当たり30mgとしている。

その上で妊娠中の女性や小児、乳幼児は日常の食事以外に、大豆イソフラボンの摂取は控えるようにとしている。

またダイエットのサプリメントとして近年台頭しているコエンザイムQ10、これは体の中でどう言った化学反応を起こしているかと言うと、人体では酵素が触媒として働いているが、酵素単独では反応が進行しない場合があり、このとき必要なのが補酵素と呼ばれる存在であり、コエンザイムQ10もこうした補酵素の一種である。

人細胞内のミトコンドリアに存在する代謝系に、エネルギー発生系があるのだが、食事から摂取された栄養成分は最終的にこの代謝系でATP(アデノシン三リン酸)と言う高エネルギー物質に変換され、体内随所のエネルギー源となるが、コエンザイムQ10はこのATPの生産に関与する酵素の補酵素としての働きを持つことから、これが不足すると細胞内のエネルギー生産率は悪くなる。

従ってコエンザイムQ10はもともと、多大なエネルギーを必要とする心筋、つまり心臓病の症状を改善する薬として使われていたものなのだが、その効果が医学的に実証できなくなったため、医薬品としての規制を解かれた結果、市場を求めてダイエット業界へ移って来たと言う経緯を持っている。

コエンザイムQ10が不足すると、人体内でエネルギー生産が順調に行われず、基礎代謝が低下していく。
基礎代謝が低下すると言うことは、消費エネルギーが減少することであり、つまり栄養分がエネルギーに変換されず、体内に蓄積されるために体重の増加が発生してくると言う原理である。

それ故、コエンザイムQ10の摂取はダイエットに効果があるとされる。

だがそもそも通常の生活を送っていれば、そこまで派手に人間の代謝機能が衰えることは無いのであり、コエンザイムQ10を摂取したからと言って、その摂取分に比例して効果が現れると思ったら大きな間違いである。

ダイエットサプリメントとして名高いコエンザイムQ10だが、実は高額な費用を出してサプリメントを買わなくても、一般の食品の中に広く含有されているものであり、サプリメントとして摂取してダイエット効果があるかどうかは甚だ疑問であるばかりではなく、毒性こそ無いものの、食事以外からその成分だけを大量摂取して、安全性が保たれるものか、その懸念の方が大きいものなのだ。

さて、今夜は食品の話をしたついでにもう一つ、日本人の口をまかなうためには、現在どれくらいの農地が必要になっていると思うだろうか。
日本は海外から膨大な量の食糧を輸入していて、2005年の食料自給率は熱量換算で40%、2006年でもこの比率は変化していない。

従ってこうしたことから日本人に海外から供給される食料は、その全熱量の60%にも及び、日本が輸入農産物の生産に要している海外の農地面積は、1500万ヘクタールにも及んでいる。

簡単に言えば、日本はこれだけの農地を海外のあちこちで借りていると言うことであり、この面積を国内の農地と比較すると、日本に存在する食料生産農地は凡そ510万ヘクタール、つまり日本は実に国内全農地の3倍、日本国の国土面積の38%の土地を海外で使わせて頂いて、生活している訳だ。

その上、日本の農地は年々減少し続けており、現在輸入している農産物の量を考えても、これを自給することはまず不可能と言ってもいいだろう。

また問題は食料自給率の低さだけでは済まず、根本的には日本の農業者人口の減少であり、その高齢化である。

基本的に日本の農業者人口動態は、60歳以上若しくは高齢者がその全農地の70%近くを生産しているのであり、その生産性は極めて低く、また若手の育成などは補助金暮らしを渡り歩く若者と、そうした人材しかいない中で、自給率をペーパー上で高めようと考える行政などによって、虚構となっている。

そしてこれは集落営農の実績だが、例えば法人化して大規模会社組織農業にした、地域農業の先駆者と言われる農業法人、この殆ど全てが地域の顔と称され、国から表彰を受けながらも、その実情は膨大な借金を抱えながら、補助金で何とか繋いでいるのが実情なのである。

最後に、こうして自給率は低く、農地は減少し高齢化が進む日本の食糧事情だが、質、量ともに常に飽和状態にあることもまた、我々は忘れてはならないことのように思う・・・・。




貴様ら、ばかもんが・・・

戦争が始まった直後、比較的安定していた経済はしかし、昭和13年頃(1938年)からはまことに厳しいものになって行った。

全てが軍需物資に取られ、民需物資は厳しく抑制されたが、その一例が綿製品で、綿の代わりに支給された代用綿の「スフ」は、その支給量の少なさもさることながら、品質は粗悪を代弁するかの如くで、当時「スフ」と言う言葉はまがいもの、または不良品の代名詞となっていた。

また砂糖、マッチ、タバコは昭和14年(1939年)秋からは一般国民の手に入りにくくなり、更に昭和15年には米などの食料不足が深刻化し、同年秋の日本本土産米は対前年比121万トン減となり、占領地である朝鮮や台湾米も、現地の軍需消費の伸びから、日本本土へ回せるものは無かった。

政府はこの対応として昭和14年産米から強制的に政府が買い取る仕組み、いわゆる供出制度を開始し、農家に米を残させない方針を打ち出し、精米すると1割から2割、量が目減りすることまで考え白米の消費を禁止、玄米消費を推進させ、麦類や芋などの消費を奨励したが、こうした政策は食糧不足の解決には何の役にも立たなかった。

ますます生活物資が乏しくなる上に、スーパーインフレで物価は高騰し続け、ついに政府は苦肉の策として昭和14年9月18日、一般物価、地代、家賃、それに賃金までも固定する価格停止令を出すが、この頃既にこうした政府の無茶苦茶な市場から、物資の市場は全てヤミ市場に移行していたため、この政府の法令はただ賃金だけをストップさせることにしかならなかった。

しかも物資そのものが不足していたことから、たとえヤミ市場でも特別なルートを持つものでなければ、物資の入手は困難だった。

こうして日本経済が困窮の極みになっていったことから、軍人も資本家も政治家も皆、この期に及んでもこうした国の困窮を招いた責任が、自身たちの戦争政策にあったことを省みることもなく、では別のところで資源を確保してこれを解決しようと考えたのであり、これが戦争の拡大を招いたいわば「南進論」が台頭してくる理由である。

だがこの南進政策、つまり東南アジアやインドまでも日本の手中に治め、そこから物資を調達しようとする政策によって、ついに日本はアメリカの逆鱗に触れ、それまではアメリカからの輸出は、日本が希望するだけ行われていたものを、アメリカをして、対日本輸出の許可制導入に踏み切らせてしまう。

ここでアメリカからの物資が入りにくくなることを恐れた日本軍は、陸海軍揃ってますます南進政策を急ぐことになり、ついにアメリカとの対立は決定的となって、太平洋戦争へと突入していくのである。

日本の国民生活は、こうしたことから太平洋戦争開戦前には既に崖っぷちになっていたが、これが開戦とともに更にその困窮の度合いを深め、太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)4月には食料が配給制となり、米は大人1人1日分2合3勺(およそ330グラム)を基準とし、年齢が高くなるほどこの量は減らされたが、その翌年の昭和17年(開戦後)には、この米2合3勺は米ではなく、麦やイモを加えてカロリー計算で同等のものと言う配給に変わって行った。

そして魚や野菜もこうした意味では勿論配給制で、数人の家族にイワシが1本、それも1ヶ月に1度あるかないか・・・、と言う有様だった。

金属は軍需資材として、蚊をよける蚊帳のつり金具や橋の欄干まで取り上げられ、賃金は低く停滞したまま、税金は重く、物価は高い状況になり、国民の暮らしはまことに悲惨なものとなって行った。

商人、自営業者、職人、官公吏、会社員などはすべて転業もしくは廃業させられ、軍需工場で徴用され、これでも足りなくなると、昭和19年には中等以上の男女生徒を「学徒動員」して、みな軍需工場や土木工事で働かせ、働いていない未婚の女子などは全員「女子挺身隊」にとられていった。

また台湾、朝鮮、中国の人民も強制的に日本に連行され、土木工事や鉱山などで奴隷のように働かされたが、こうして集団的に連行された朝鮮人だけでも約70万人、現在の在日朝鮮人の祖父や父は、このとき強制的につれてこられた人たちだった。

更に学校教育は「学徒動員」で停止し、文科系大学生の兵役徴集延期措置も昭和18年9月で失効、延期措置適用を受けていた大学生はみな「繰上げ卒業」をして兵役に取られ、戦場へと散って行った。

政府はこの大学生達の出兵に対して「学徒出陣」と称して華々しく宣伝したが、この時代、まだ大学生も戦争の意味に疑いを持つものは殆どいなかった。

皆が「皇国の使命」と信じ、天皇の為に死ぬことは一切の正義に生きることと信じ、日本の勝利を確信しながら戦地に赴いて行ったのである。

そしてこうした学徒出陣に際して、多くの学生達が当時人気だった「宮元武蔵」の著者、吉川栄治の著書を持参して行ったことから、吉川栄治はそのありように大粒の泪をこぼし、また終戦後はそのショックから執筆が出来なくなってしまったのである。

更にこれは映画「戦艦大和」でも出てくるが、特攻隊に志願した多くの若者達は、明日は出撃と言うその前日には、上官にこれまで世話になったことを感謝して礼を言いに行き、搭乗する攻撃機を整備をしてくれた整備主任には、せっかく整備してくれた攻撃機を自身たちが破壊してしまうことを詫びてから、片道切符の戦闘機とともに青空に消えていった。

「貴様ら・・・、ばかもんが、そんなことでわざわざここへ来たのか」と言いながら、上官や主任達は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

それにこうした例は多かったのかはどうかは分からないが、婚約が決まっている者、またはそれぞれの思いがあった若い男女は、召集令状が届くと、取りあえず形だけでもと結婚式を挙げた者もいたが、中には自身の行く末を覚悟し、新妻に手を触れることをためらったまま、出征に及んだ者もいた。

別れ行くときに女を抱くのも愛なら、それを抱かずに出征するのも愛だった。

彼らは南の青い空に何を思ったことだろう、殺すのも地獄なら殺されるのも地獄、国家のため、そして家族のため、愛する者たちのため、自身の命を以ってそれが得られるなら、もしかしたら私も彼らと同じことを思うかも知れない。

だが、こうして現代を生きる私と、彼らの求めたものはおそらく全く別のものに違いない。

今、こうして青い空を、天を仰ぐに、この日本の姿が彼らをして命がけで守らせるに足るものだったのか、それを私は自身に問いかけている。





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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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