民主主義・Ⅱ

フランス革命でもその後起こったことは、市民に名を借りた恐怖政治であり、これはその敵視するものが反革命か魔女の差こそあれ、本質的には中世の暗黒時代と何等変わるものではない。

一般大衆はこうしたことから、個人の事情の集積が国家を動かすことのまずさに気づいていないまでも、どこかで肌に感じるものを持っていたに違いない。
また長く伝統として持っていた、不平等の象徴である立憲君主、その中にも自身の安心感があることをどこかで感じていたのだろう。

民主主義はその制度ゆえに、いつでも衆愚政治に落ちる可能性を内在していて、世界最初のそれは、世界で最初に民主主義が謳われたアテネで起こり、チャーチルはこうも言っている。
「民主主義は最低の政治だ、ただし人類がこれまで試みたあらゆる政治のやり方を除けばだが・・・」

さすがチャーチル、面白いことを言うが、民主主義は最低だが、それでもこれが他のやり方よりはマシだと言っているのである。

民衆の要求とは常に個人を中心とした範囲から始まるものであり、ここから始まったものはいかに端末で正義や世界平和、公正を唱えようとも、それは個人の都合から大きく乖離して出てくるものではない。

またこうした個人の正義や公正は、何処まで行っても個人の好悪の感情の外へ出ることはなく、こうした感情に従えば、お友達親戚縁者を回りに囲んだ仲良し政治になり、またこれを極端に避ければ、身内や友人であるが故に優秀な人材を避けねばならぬことになる。

そして民主主義の原則であるこうした国民の感情を、代理人が重視しすぎるとどうなるかと言えば、理想は素晴らしいが具体的判断ができない政治家を生むのであり、その結果人格や人柄は素晴らしいが、国の政治は停滞させる政治家を発生させるのであり、こうした意味では日本の政治は既に衆愚政治と呼べる段階に入っている。

ただこうして民主主義を求めながら、その現実段階で半直接民主主義を採用して行った国際社会だが、この体制はどうしても民主主義とは相容れない要素として、民衆と代理人、つまり政治家との対立が起こることであり、民衆が代理人となったその瞬間から、民衆と同じ考え方に立てない状況が生まれ、ここに民衆対政治家と言う図式が常に発生して、ここでは神官から立憲君主、そして政治家と言う具合に、権力を行使できるものが変化してきただけの構造も見えてくる。

それ故、今の国際社会は民主主義を擁護する立場から、万一政治家や政府と民衆が対立した場合は、原則としてその権威者である国民の立場を支持する風潮となっているが、現実はどうかと言えば、これは厳しい。

民主主義は結局のところ大国の恣意的判断によってそれが決定され、その結果がイラク戦争であり、アフガニスタン介入である。
これは民主主義の擁護でもなければ、その安定でも何でもない、ただの侵略であり、帝国主義と言うもの、また衆愚政治が他国に被害を及ぼした顕著な例と言える。

であるからして、ここでもう一度日本のような君主を容認した形で残した国家の在り様を見てみると、民衆と政治家、その第三者としての象徴的な君主のありようは、なにやら法典か「種」のような部分があることが分かってくる。

現在もし政治家と民衆が激しく対立した場合、またはこれによって国内が混乱の極みになったとき、更には激しい災害で日本が壊滅的打撃を受けた場合はどうか。

民衆は誰を頼りにするだろうか。

おそらく何の力もなければ、権威もない天皇家をまた頼りにするのではないか、そしてそこから力や希望を得て、また民衆は国家の再建を進めるのではないか、そう思うのである。

こうしたことを考えたとき、民主主義と言うもの、それがいかにも現代社会では現実性のあるもののように語られようとも、そこに実現可能なものは矛盾でしかなく、反対にどうにも言葉で説明のつかない君主制が、国家存亡の危機には力を発揮するように思えてならない。

また欧米の判断では民主主義ではないイスラム諸国、確かに未だにその権威は神にあって、権力者はその権威に認められた者とされているが、例えば村の単位ではどうか、ここで家々のそれぞれから代表者が集まって物事を決める仕組みは、多少の制約はあっても一番民主主義に近い形と言え、その集積に国家があるとしたら、欧米の民主主義よりは遥かに民主主義に近い仕組みであり、この場合欧米諸国や日本との違いは権威者が「神」であるか民衆であるかの差でしかなく、双方ともその権威には形がない。

民主主義の対極にあるもの、それは君主制と思われた、だが事実はそうではないかも知れない。
もしかしたら民主主義が崩壊し、瓦礫の山となった時、それを再び作るための種は君主制にあるかも知れない。

いかに法で定めようと、国連で規定しようと、民衆がそれを頼るなら、そこには立憲と言う権力はなくても、形のない権威は存在し、永遠に辿り付く事のない民主主義を求める、その動機になっていくのではないだろうか。

世界各国でその権力は制限されらながらも、民衆によって残された君主制、彼ら国民がそうした判断をした背景には、説明の付けられない歴史上の感覚が作用していたに違いない、そうしたことを思うのである。

また民主主義と対立する独裁政治、この2つの有り様は本来同じものだ。

「紫」と言う色は「青」と「赤」の2つの色で出来ているが、青が民主主義なら、赤が独裁政治、そして人類は「紫」と言う色になったものから、それぞれ青と赤を取り出せない・・・。







スポンサーサイト



民主主義・Ⅰ

正義だから勝つ、または正義だからそれは正しい、などと思うかもしれないが、実はそうとは限るものではない。

正義と、何かに勝つと言うことは別のもであり、従って正義が勝つと決まっている訳ではない、ましてや正義などと名がつくものは必ず何らかの対象、即ちここでは不正や「悪」と言ったものが前提となっているが、この世に完全な正義と完全な悪は存在しない。

同じように民主主義と言う言葉も、民主主義、つまり民衆の意思が政治や国家に反映された状態、またはそうしたことを標榜することを言い、そこに人々は正しい帰結をも望むかも知れないが、民主主義だからと言って幸せになるわけでもなければ、正しい訳ではない。

民主主義は一つの思想、方法であり、それと国家の運営やその繁栄、民衆の生活の向上や福祉の向上などは別の問題である。
だが一般に民衆は民主主義であれば、それで国家が正しく動けば、繁栄があると思ってしまう傾向にあり、このことが不幸の始まりとなる場合があることを考えなければならない。

また民主主義とは国家と言う共同体の在り様を最終的に決定する「権威」が、個人の集積である国民にあるとすることから、これは特段国際社会に対して、その独立性を表しているのではなく、あくまでもその当事国内部に措ける「政府」並びに「権力」の正当性を表す方法の1つに過ぎない。

従ってこの場合、例えば独裁国家であっても、その独裁政権が民衆に対して最終意思決定権を開放した状態であれば、これは民主主義であり、反対に民主主義を主張しながら、民衆の意見を無視した状態の政治や権威であれば、これは民主主義に非ず、集団的独裁政権であり、このことは言葉や文章で幾ら民主主義を対外的に主張しようとも意味を成さず、そもそも自国が民主主義であることは対外的に示すものではなく、自国民に示されるべきものである。

民主主義の根幹である主権在民、この思想は中世までのヨーロッパであれば、乱暴な言い方をすれば国家の主権は「神」にあり、これに携わる者と、この権威を利用する者にあって、例えば国王などが存在し権力を振るうとき、その権力を支える「権威」は「神」だったものが、フランス革命やアメリカ独立戦争を得て後、社会契約思想の背景が台頭するようになる。

即ちこうした革命前後から、それまで権力を支える根拠である「権威」が「神」にあったものが、国民の手に移ったのである。

フランス革命以降、いや正確にはその前後になるが、唱えられ始めた主権在民、国民主権論、しかしここで言う主権在民という概念は、必ずしも社会に実在する個人の集積としての国家を概念していない。

ここで言う「国民」とは個人の権利を主張したものであって、個人の自由、独立、その思想の多様性を認める事を本旨としている。

だからこの革命で市民が概念する国家像は非常に抽象的で、国民が主権を主張、または行使できる存在にはなっておらず、ここで主権を行使できるものは、国民の信認を受けた「代理人」が正規の統治権者、またはそれを行使できる存在として考えられた。

そしてこの思想は現代に措いても変わっていない。

現在の国際社会で民主主義を唱える国家のありようは、その殆どが「半直接民主制」であり、民主主義的な政治形態を考える上で、直接民主政治であれば、国民が直接立法を行い、この場合は議会すらも必要としないが、よほど小さな社会でない限り、こうした方法では成り立たない。

従って選挙を行い、それで選ばれたものが議会を通して国民の権利を行使する形となっている。

しかし、基本的に民主主義は間に入る権力を否定することから始まったものであり、こうした観点から見れば、半直接民主制は民主主義とは相反する考え方でもあるが、これは一種の妥協点とも言え、基本となるものは押さえ、その次は代理人に任せようと言うことである。

それ故国民にはイニシアチブ(国民発案)の権利とレファレンダム(国民表決)の権利が与えられ、前者は一定の国民が発議した法案については議会審議が規定されることを指し、後者は議会が決定した立法について国民の判断を仰ぎ、国民判断の方が最終決定となることを指しているが、この2つの権利を持つのが現代の考え方である。

国際社会を見ても現在各国の憲法が採用している民主制の多くはこの半直接民主制であり、アメリカ合衆国、スイス連邦などは言うに及ばず、第二次世界大戦以降に制定もしくは改正された多くの憲法は、1947年イタリア憲法、1958年フランス憲法などを初めとして、大部分がこのイニシアチブとレファレンダムを採用している。

だがこうした観点から日本国憲法を見ると、日本国民が民主主義を実感できる権利の行使は、98条の憲法改正について必要な表決を認めるとする、これだけの権利でしかない。

国政レベルでは国民発案(イニシアチブ)が認められていないことから、日本の民主主義は半直接民主制の初歩段階のものと言え、現代社会が民主主義の道を求める中では、民主主義的要素の薄い民主主義である。

また現代社会がこうして民主主義を希求する一方で、例えば日本やイギリスなどを見てみると、ここには依然として天皇や女王などが存在し、こうした国はヨーロッパを始めとしていまだに多数存在しているが、これはどう判断すべきか・・・。

立憲君主制は基本的に立法の権限が、国王など特定の個人に集約される制度だが、これを打倒して民衆の手にその権利を取り戻そうとするのが民主主義なら、立憲君主制は民主主義とは対極にある。

しかしこうして現代に至ってまでもこうした君主制が残ってきた背景、それを考えるとき、おぼろげながら見えるものは、民衆や大衆の自身に対する恐れではないだろうか。

完全に民主主義を目指すなら、君主は存在できない、しかしこうして国民がその君主を自身に返ってきた権限をして容認、または肯定する形で存続させてきた経緯には、少なからず民主主義の危険性がその先に見えていたからではないかと考えられる。

                            「民主主義・Ⅱ」に続く








コミュニケーションと言語・Ⅱ

更にこれは特殊な例だが、王室や貴族、またはナイトの称号を持つものに対する挨拶は、何か特段差別があるのではなく、その伝統に対して、またその国の国民が大切にしている文化に対して敬意を表す為に必要だと私は思うが、この場合の挨拶は男性なら片膝をついて、右手を上から下へ左右斜めに下ろして頭を下げる。

同じように女性なら左足を後ろに下げ、少しかがんだ様にして、スカートの両端をつまんで僅かに開くか、両腕を45度くらいまで開いてお辞儀をするかになるが、この簡略形は左足を後ろに下げて少し屈んでみせる形がそうであり、男性の場合の簡略形ではやはり左足を引いて、手を上から下に、そして右から左に斜めに下ろして行く事でもそれを表すことができ、ちなみにこれは日本の皇室に措いても通用する。

この際、もし相手が右手を差し出した場合は、それを両手でおし頂く様にするか、軽くキスをするかになるが、通常はキスをするのが正しい。

しかし日本の皇室、皇族の場合は両手でおし頂く形の方が良いかと思うが、それで相手が自分を引き上げるように手を取った場合は、一緒に立ち上がり、特段そうしたことが無ければ、そのまま身を引いて行くのが良いだろう。

また簡略形の挨拶をしていて、相手が手を出した場合、これは古くは臣下の礼を取ることを求めたものであることから、この場合は正規の挨拶をして、手にキスをして返すことが望まれていると理解した方が良い。

コミュニケーションに措いて、違う民族、国家で全く同じ語彙を持つ行動と言うものは無く、同じ挨拶でも日本のお辞儀と、欧米の握手ではその表す所は近くても、もともとの発生基盤が違うことから、本来同列のものではない。

だから日本で握手を考えるなら、それは挨拶と言うよりも、積極的に関係を持ちたいと言う気持ちを表す別の手段であると考えた方が良い。

これは握手そのものが本来は目上の者、例えば上司や年齢が上の者から、下に対して最初にアクションが行われるものであることを考えるなら、その発生基盤はやはり王侯貴族から下々の者への配慮として始まったように見えるからだが、方や日本の挨拶は、どちらかと言えば、下から上に対して行われたのがその発生基盤だと思うからである。

従って握手は基本的に上の立場から下の立場の者に対して、先に手を出して求めるのが正しく、この逆で下の立場の者が上に対して握手を求める場合は、「握手して頂いてもよろしいですか」などの言葉が先に無いと、厳しい意味では非礼なことになってしまう可能性もあるように私は思う。

そしてこうした意味では日本人の握手は、何度もお辞儀したりと言うケースが多く、見た目には非常に従属的な感じを受けるかも知れないが、実は日本人は握手だけでは初期の挨拶として不足していることをその文化的背景に持っているため、こうなるのであり、私はこれはこれで良いように思う。

なぜなら国際社会はどの国でも英語を通して文化的浸食を受け、その中で英語文化を自国文化的に変えていく動きを持っている。

即ちローカルな文化だったものが、英語と言うグローバルなコンテンツの中で、世界的な理解を得る機会が発生してくるのであり、こうしたことから欧米文化の中に僅かな特色を残すローカルコンテンツは、場合によってはいつの瞬間でもグローバルに踊り出るチャンスを取得するからである。

英語文化はグローバルであるが故に、それは限りなく変質を許し、基本的なものを失って行くが、片方でそのグローバルに浸食されたローカルは、そのグローバルによる浸食故に、ローカルをグローバル化するチャンスを得る、つまり握手しながらお辞儀もするスタイルが、いつか世界基準になる可能性もあると言うことだ。

コミュニケーション、言語とはまことに面白いものだと思う・・・。





コミュニケーションと言語・Ⅰ

一般にコミュニケーションの観点からすれば、言語と語彙的肉体表現(ジェスチャーや表情、しぐさ)では語彙的肉体表現の方が容易になる。

特定の行動や表情に意味を持ったものを語彙的肉体表現と言うが、言語の場合は例えば英語を知らない日本人と、日本語を知らないイギリス人が接触した場合、両者は言葉による意思の疎通よりも、体で表すしぐさや表情での理解度が言語での意思疎通より高くなる。

従って語彙性を持った人間の行動とは「言語」の一部であり、言語の始まりはつまりこうした「行動」だと言うことができる。
だがこうした語彙を持った行動、しぐさなどは民族や国家によって比較的近いように見えて、実は遠い部分も持っている。

欧米では比較的ポピュラーな「握手」だが、もともと握手によるコミュニケーションの伝統が浅い日本人にとって、この握手はなかなか難解なものであり、一般に日本人の握手は弱めであり、それが相手に伝わるときは「消極的」「意思の迷い」などとして受け取られやすい。

欧米、例えば厳しいことを言うならイギリスでは大体「握手」には5つの段階があり、こうした微妙な握手の差によってお互いが意思を確認している。

firm handshake 「誠実かつ堅実な握手」、これが握手の最上級になるが、大きく手を開いて、自分の親指と相手の親指がくっつくまで深く、しかもしっかりと握り締める握手は、親愛の情や尊敬、畏敬と言った相手に対する気持ちと、それに答えるだけの自身のプライドを表わすことになる。

またbone crusher 「攻撃的挑戦的な握手」は、その名の通り、相手を威圧するように力を込めた握手であり、こうした場合の最も端的な例が、選挙などで意思の強そうな候補者が良くやる、あの握手である。

走りよってきて、勝手に人の手を取り、「俺の言うことを聞け」と言わんばかりの目でこちらを見つめて、強く手を握るあの握手を、欧米一般ではどう受け取るかと言えば、「屈辱」であり、私を征服しようとしているのか・・・、と思われることになっているのである。

Finger shake 「間接拒否握手」、これは手を開かずに指だけを差し出すもので、また相手が握手をしようと瞬間、僅かに手を引いて指しか握れないようにすることを指しているが、この握手の意味するものは「積極性の無い同意」ではなくむしろ「間接的微弱な積極性拒否」である。

極端に自分に自身が無いか、「この話には乗れませんよ」と言うことを指していて、更には「あなたのことも信用できないし、尊敬もできませんよ」と言っていることになるが、日本人は傾向としてこのパターンの握手になりやすく、気をつけないといけない。

Dead fish 「無関心握手」、これが多分握手としては最低になろうか、ただ棒のように手をだらんと下げて差し出すもので、それでもと思った相手がこの握手に応じた場合は、例えば気分としては「金」を盗まれた、また自分の気持ちが盗まれたような気分になるのであり、これだったら特別な思いが無ければ握手を拒否した方がまだ良い。

王侯貴族と庶民、地主と小作農の関係ならまだしも、この握手には相手に対する侮蔑や、低い地位を指摘しているような部分が有り、公平性を欠く行為にしかならない。

そしてpoliticisn's handshake 「過剰性握手」、いわゆる処の選挙に措ける候補者の握手にも近いが、それより少しは互いに親愛の情があって、右手で握手をしたら左手でそれを包み込み、その上左手で相手の手首から肩、更には首や頬までなでると言うこの握手、これは母親が子供にする場合、また恋人同士であれば、最も親愛な感情を表すことになるが、例えば余り親しくない女性や、それほどの関係ではない場合には、相手を支配している、または支配しようとしていると取られてしまう。

おそらくどうだろう、「友」と言う関係であれば、既にこの感じは誤解を与えることになるように思う。

                    「コミュニケーションと言語・Ⅱ」に続く




「百日稼ぎ」

イメージ 1


やはり肴は焼き魚か、野沢菜漬け、イカの塩辛も旨いが、蒲鉾を焼いても旨し、意外なところでは饅頭も実は捨てがたい。

私のようにビールが苦手な者にとっては酒と言えば日本酒、それも一般的には特級や一級よりは少し辛めの、二級酒の熱燗がたまらないところだが、後ろは柱を背にもたれかかり、右隣には和服の美女などがはべり、人を追わない程度で勺をしてくれ、眼前には薄衣の白拍子が舞う・・・・、などと言う事でもあれば、それで死んでも良いかも知れない・・・。

さて妄想はともかく、今夜は少し酒の話でも・・・。
古い時代、日本で酒と言えばそれは「濁酒」(にごりさけ)を指していたが、清酒、つまり今と同じような透明な酒が現れたいきさつには伝説が残っている。

鴻池(こうのいけ)の使用人だった男が、腹いせに濁酒に灰を投げ込んだことから、偶然それで清酒が出来上がったと言うものだ。

だが現実には室町時代には既に清酒が存在していて、慶長4年(1599年)摂津(大阪府)伊丹の鴻池屋が、清酒を人に担がせて陸路から江戸に送り、これがもとになって、関東にまで白米で作った清酒が普及したと言うのが事実のようだ。

いずれにせよ、関東、江戸で清酒が普及した背景には、何らかの形で鴻池と言う家が関っていることは確かなようで、それまで江戸で酒と言えば玄米酒か濁酒だったものが、こうしたことから瞬く間に広がって、以後酒と言えば清酒のことを指すようになって行ったが、その歴史はこのように江戸時代初期のことだったのである。

また1695年(元禄8年)に刊行された「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)と言う書物には、酒に関してこのような記述が残されている。

「大和南部(奈良県)の造酒は日の本一なり、そして摂津の伊丹、鴻池、池田、富田がこれに次ぐものなり」となっていて、ここでは奈良の酒と伊丹の酒の評価が高かったことが伺えるが、当時酒の消費で言えば、その最大の消費地域は江戸であり、ここで一番消費を伸ばして行ったのは、伊丹の酒と池田の酒だった。

享保9年(1724年)の記録を見てみると、江戸に酒を送り込んでいた著名な造酒家は33人いたことになっているが、そのうち伊丹が15人、池田が11人と、この2つの地域で殆ど独占しているかのような有り様で、このどれもが「千石づくり」と呼ばれる、大造酒家だった。

中でもここから見えてくるように、伊丹の酒の発展はめざましく、天明4年(1784年)の記録では、その酒造高は8万5000樽を超えていて、これが更に文化元年(1804年)には27万7200樽にまで及び、国内最大の酒生産地となるのである。

伊丹には100軒近くの酒屋が存在し、こうした酒屋が酒を生産するために要する米は年間10万石、この10万石の米を動かす米屋、年間20万本が必要とされる樽を作る樽屋、たきぎを調達する問屋、竹の帯を生産する竹屋、酒を運ぶ運搬問屋や出入り商人、職人など、この地域にはおびただしい人々が行き来し、酒生産の拡大に伴い伊丹は酒を中心とした一大工業都市へと発展していくが、その有様はまさしく「酒の都」のようだったと記録には残されている。

だが、こうして伊丹が日本一の酒の都と呼ばれていた頃、密かにこの地位を狙っていたのが、有名な「灘の酒」である。

灘とは今津、灘、西宮の何れも現在の神戸市に存在する3つの郷を指していて、通常灘三郷と呼ばれていたが、文化、文政時代には、既に江戸に入る酒の50%から70%が灘の酒に切り替わっていた。

記録によれば、天明の頃既に、灘には200軒を超える酒屋が存在していて、その中には「千石づくり」の酒屋も現れ始めていたのである。

そしてこの灘三郷の中でも、魚崎村の「山路屋十兵衛」の名は有名で、享保9年(1724年)の記録でも、全国の有名酒屋33人の中に数えられた「千石づくり」の酒屋だった。

宝暦、明和時代には江戸、南新川に出店を持ち、800石積載の廻船を3そうも所有し、寛政5年(1793年)の山路屋十兵衛の酒造原料、つまり白米の米高は1695石、大体清酒60石造るのに要する白米が100石だから、確かに山路屋十兵衛は「千石づくり」の大酒屋だったのである。

灘の酒は天保3年(1832年)には、その総生産高が25万8100石に達し、こちらも伊丹同様の大発展を遂げるが、その背景にあったものとして「宮水」の発見が大きいだろう。

天保年間に発見されたこの水は、灘の酒の名声を高め、「灘の生一本」と言う今に通じる高い評価の源となったが、摂津播磨の米、吉野杉の香り、丹波杜氏、六甲の吹き降ろし、そして西宮の井水が一体となって醸し出した灘の酒は、まさに「神の水」と言うべきものだったのである。

またこうした酒造りのありようについては、井原西鶴もそれを記録しているが、これによると「伊丹、池田の売酒、水よりあらため(水を選び)、米の吟味、麹を惜しまず、さしさわりある女は蔵に入れず、男も替え草履はきて出入りすれば、軒を並べての今の繁昌」としていて、当時の酒屋の酒造りにかける意気込みを今に伝えている。

そして酒造りには欠かせない杜氏、これは酒蔵で働く「蔵人」の長を指し、醸造の最高責任者であり、彼によって酒の良し悪しが決まったものだが、灘地方の杜氏は主に丹波の農民であり、これを丹波杜氏と呼んだ。

冬の間は仕事が無い山間地の丹波杜氏は、酒造りの時期が来ると、多くの出稼ぎ農民達を引き連れ、灘三郷にやって来る。

このことから酒造りは「百日稼ぎ」と呼ばれ、丹波に残った女子供はおよそ3ヶ月程の期間、夫や男達のいない家を守って暮らしていたことから、こうして丹波に残った女達のことを「丹波の百日後家」などと言ったものだった。

この当時の酒蔵は一つの単位として「千石づくり」が標準だった、だから酒蔵で働く人はおよそ40人前後、醸造に携わるものは、直接醸造を行う者と米ふみをする「うす屋」があり、この他に米を運ぶ人夫、まき割り人夫、連絡係のような雑用係などがいて、杜氏の賃金は請負だったが、それ以外の一般労働者は日払い賃金で働いているのが普通だった。

さて、こうしてみれば米を作るのも農民なら、酒を作っていたのもまた農民、そしてそれが江戸と言う都会で消費されていた訳である。

一農民の端くれとしては、何故か今夜は機嫌が悪くない思いがする・・・・。
だが酒はこれから一滴もこぼさず呑もうと、心に誓った夜と言うことになろうか・・・・。











日本人の価値観・Ⅱ

だがしかし、一方で全く大衆には別世界の工芸や伝統の世界の価値基準を判断することは、個々の単位では難しいと皆が思うことから、このような不完全な制度でもそれを頼るしかない現状もまた存在し、こうした人間国宝や芸術院会員は、例えば大学の教授や講師を兼任している者も多くなっている。

場合によっては美術大学の教授でありながら、人間国宝、芸術院会員と言う例まであるくらいで、こうした人間国宝や芸術院会員のやることは、もともとその地域で伝統に根ざした工芸ではないことから、各々の技術を絶対的なものとして、本来地域に存在してきた本当の伝統工芸を否定する傾向が発生し、そこに恣意的な芸術世界が顔を出す。

このことからもともと伝統工芸発展の為に制定された制度は、逆に伝統工芸を破壊して行く方向に動き、そこにあるのは大学の授業のようなアマチュアリズムでしかなくなってきている。

また景気が悪くなった伝統工芸の産地は、藁にもすがる思いで、こうした権威に近づこうとするが、その動きは一般作家にも同じように波及し、そこに現れるものは伝統工芸ではなく、アマチュアリズム、それも非常に具合の悪い精神性を持った「傲慢」と言うものを生んでいる。

日本の伝統産業が衰退する理由は単に景気が悪いだけでなく、こうした背景を持っていて、これを改善するには人間国宝や芸術院会員制度の廃止、もしくは最低でも大学などの教育機関との分離であるが、大学の教授をしていて、それで何かの人間国宝、国を代表する技術者と言うのも、初めから矛盾があることを考えない文部科学省の見識がそもそもどうかしている、この辺は早めに改善した方が良いと私は思う。

またこのように不安定な土台でしかない、そうしたものを価値基準とする日本人の美的基準は、更なる基準下落をもたらすことを認識する必要があり、これは具体的には何を意味しているかと言えば、大学やその教授、評論家や総合研究所と言ったもの、または自称知識人によって、文化が壊されて行くことであり、その文化を支える「心」が壊されて行くことである。

例えば今日本海側では「朱鷺」(とき)が飛んできたと言う話が毎日のように新聞を騒がせているが、この鳥は50年前には絶滅した鳥であり、それは環境の変化と言う自然な流れのものだった。

なおかつ、こうした鳥はサギと同じで、田植え直後の田んぼに入って、その苗を踏んで枯らしてしまうことから、農家では嫌われていた鳥である。
しかしどうだ、人工孵化させ強制的に野生に放たれたトキは、毎日人に監視され、足には追尾発信装置が付けられ、全く人間の管理のもとにまた現れてきた。

そしていい年をした、昔なら老人と言われる年代の者が、トキを守るためにイタチやテンは皆殺しにする勢いで、トキさまとあがめ奉り、自作の歌を作ってCDまで出す有様であり、それをまたマスメディアが取り上げ、自称農家のオヤジまで田んぼに飛んでこないかと騒ぐありように、この世の終わりを見る気がする。

一体このトキ1羽に幾らの金がかかっていると思うだろうか、自然の状態で絶滅したものを無理やり復活させ、飛ばすその費用はおそらく1羽数億円の単位だろう。
その片方で自殺者は3万人を超え、都市部では孤独死が激増し、若者は職がなくて困っている。

町並みは確かに綺麗になったが、やはりそれはどこかで見た町並みと全く代わらぬ景色で、カラー舗装された道路には人は歩いていない。
私は昔、アフリカで砂漠の中で朽ち果てて行く教会、その廃墟となった建物をを見たことがあるが、今にして思えばあの廃墟の方がこうした町並みより遥かに美しさがあった。

日本人は価値反転性の競合、いわゆる劣悪なもの、少数なものに対する評価はここ40年ほどの間に身につけた。
しかし本当に良いものの基準は伝統的に持ち合わせていないばかりか、皆でそれを放棄してきた経緯がある。

そしてそのことが何をもたらしたかと言えば、400年以前を越える芸術の発生を阻止し、少しずつ芸術を小粒にしきてしまった事実であり、言葉や人のありようにくるまれた「まやかしの芸術」の台頭であった。

その結果、日本人が得たものは「他」との違いを愚かな事と見る封建的思想であり、そこに潜むものは「自信のなさ」、より多くの者が支持することをしてしか自分の置き場を持てない、その思想のなさである。

誰かに笑われないための選択、流行に後れないための「個性」、そうした主体性のなさが、僅かに一般庶民より知識があると自己申告する者たちを増長させ、そこに有ろうはずも無い権威を発生せしめた。

そしてそれに支配されることで安心している日本人の姿があり、これが今の日本の停滞に繋がっているように私には見える。

せめて好きな花や、自分の食べる物ぐらいは自分で決めないと、味覚音痴の食通が評価する食事に舌鼓を打ち、人の畑で花開いた自己顕示欲と言う仇花を、これまたコーディネーターが選んでくれた花筒に飾って、私ってセンス抜群・・・、などと思うことになるのではないか・・・。







日本人の価値観・Ⅰ

初めて織田信長の下にひれ伏した松永久秀(まつなが・ひさひで)は、その臣下の礼を示すため、信長に当時日本最高の名物とうたわれた「九十九髪茄子」を献上するが、これは信長が松永弾正に是非とも献上せよと要求していたものでもあった。

この茶器は当時国の1つや2つ、これと交換しても構わんと言う守護大名がいるほどの名品で、茶の世界にも通じた松永弾正が所有していたが、信長は松永から献上されたこの名物を手に取ると、暫く眺めていたが、「これがかの名物か・・・」と言っただけで、脇に置いてしまった。

「ふん、所詮は物の価値など分からぬ田舎者めが・・・」松永はひれ伏しながら、信長を上目使いに眺めると、嘲笑にも見て取れる笑みを浮かべる。

そしてこの松永久秀の価値観が通常の日本の価値観とも言えるが、それは「虚構」である。

信長がなぜこのような古い価値観のものを見たかったかと言うと、国の1つや2つ交換しても欲しがる名品とは一体どんなものだったのかが見たかったに違いないが、それを実際手に取ってみたとき、正直「何だこんなアホらしいものだったのか・・・」ぐらいにしか思えなかったことだろう。

信長の価値観で行けば、その茶器をもったらとんでもない力が沸いてきて誰にも負けなくなる、もしくは中に凄い薬でも入っていて、それを撒けば皆が言うことを聞くか、そうでなければこの世のものとは思えない光でも放っていないと納得できなかったのではないか、そんな気がするが、実際信長はこの名物の蓋を取って中の匂いをかいで見ている。

だが、何の変哲もないただの器だった。

これに対して茶の道でもその人有りとうたわれた松永弾正にしてみれば、信長がその名物を手に取った瞬間、両手でおし頂いて感激してこそ、「おー、尾張のたわけと噂も高い信長もそうでもないか・・・」と思えたに違いないが、信長のつまらなさそうな表情を見ると、「あー、こいつは何も分かっておらん」と思ったのである。

そして価値観、ここでは絶対的価値観と言うものを考えたとき、信長と松永ではどちらの価値観が正しいか、この場合信長の価値観が正しい。

物質の正当な価値観は、その利用価値にあり、また誰の評価も気にせず、事前の説明がなくても、それが感動を放つものこそが純粋な価値であり、松永のように古来からの伝統や、多くの人の言葉で膨らんだ価値観は、例えば広い世界へ出て行ったときには、瞬時にしてゴミになってしまう価値観だ。

日本と言う国はその歴史的背景として、律令国家、貴族政治、封建社会と言う道を歩んできたため、価値観が物質そのものよりも、「人」にあった期間が長い。
つまりここで言う価値観は、より上位の者が発言した価値観をして価値が定められてきた経緯がある。

それ故為政者には卓越した審美眼もまた要求されてきたが、これを決定的に崩したのは「千利休」であり、ここから物質の価値基準の判定は「文化人」と言う、言葉や知識を操る者の手に移って行ったのである。

勿論こうした傾向は古くから存在したものだが、少なくとも鎌倉期まではかろうじて集合の輪の中に重なっていた為政者と文化人のそれが、分離を始めて行ったのであり、このことのまずさに気が付いたのは、自身にはない知識や見識を持つ千利休を重用した豊臣秀吉だった。

だからそれまでは例えばいかに有用な知識人とは言え、それが為政者のコントロールの中に存在しなければならなかったものが、千利休によって文政の分離が始まって行ったと言うことができる。

こうした経緯から日本人の一般的な価値基準は常に「積極的価値観」ではなく、常に「受動的価値観」であり、これをして言うなら現在でも日本人の価値観は「他」の価値観を自身の価値観の基準にしているのであり、また極端な言い方をすれば、自身の基準を持つことを避けているとさえ言うことができるだろう。

カーテン一つ選ぶのも、インテリアコーディネーターの意見を聞き、テーブルを飾るにしても、それを指導するコーディネーターが存在する社会は、緩い思想的全体主義のようなもので、これは自身の選択する権利を、自身で放棄しているのと同じである。

また例えば人間国宝、これを実際に工芸の部門に絞って見てみると、日本最高の技を有している人がその地位にあるのではなく、基本的には戦前に存在した「帝国芸術院展」が割れて発生した「日本伝統工芸展」と言う会のトップと言う意味であり、この会の派閥領袖でしかない。

それ故「人間国宝」の制度が発足した初期の頃は、優秀な職人はみな、こうした指定を受けると仕事ができなくなるので断り、仕方なく引き受けた者が人間国宝になっていた経緯が存在する。

さらに同じ意味では芸術院会員も、必ずしも最も才能がある者がその地位にあるのではない。
「日展」と言う国内美術展の、こちらも会のトップであり、やはり派閥の領袖がその地位にある。

従って人間国宝も、芸術院会員もその才能は芸術的才能と言うよりは、むしろ政治的、派閥管理能力の才能と言うことができるが、こうした者たちがトップにあって、牽引する日本の芸術界の実情は悲惨である。

一歩海外へ出てしまえば、その価値は全く評価されないばかりか、価値反転性の競合から生まれる、より小さなもの劣悪なものの代名詞であるアニメキャラクターの、フィギアが数千万の価値を付けられても、日本の人間国宝の作品は1円の価値も付かないのであり、これは何を意味しているのかと言えば、国際社会に措いては、もともと権威や、言葉による芸術が通用しないことを意味していて、グローバル化によって情報速度が高まった日本国内でも、こうした傾向が高まりつつあると言うことだ。

      「日本人の価値観・Ⅱ」に続く











「聖者・Ⅱ」

ところが、ここで信じられないことが起こる。
痩せて歩くこともやっとの男が1人、並ばされている列から前に進み出ると、こう言うのである。
「妻子のいるその人の代わりに、私が死にたいです」

この言葉に一瞬にして整列させられている人の列からざわめきが起こった。
「コルベ神父だ」「神父さまだ」、皆そう言って囁きあった。

「貴様は誰だ」流石にいつもは冷酷な収容所長がここで言葉を発するが、たいてい看守任せで言葉など口にすることは殆どない所長は、こうしたことから少し動揺していたのかも知れない・・・。
「私はカトリック司祭です」コルベ神父は静かに答えた。

暫く沈黙が続く、何せ普段から反抗的な態度の囚人には、その場でこめかみに銃口を向け、引き金を引く人である。
何が起こっても不思議はなかったが、何故かこの時、所長は黙ってこの貧相なカトリック司祭を見ているだけだった。

どれくらい時間が経っただろう、多分ものすごく短い時間には違いないが、それが永遠のように感じられる時間が過ぎたかと思えたそのとき、「よし、お前が行くがいい」所長はそう言うと、その場を立ち去っていったのである。

こうしてコルベ神父たち10人は、地獄の餓死室へと連行されて行ったが、餓死室での人のありようは、大体皆同じような行動になると言われていて、数日間は絶望のあまり狂ったように叫んだり怒号を発したりで地獄絵図のようになるが、その声が日を追うごとに小さくなって、1人、また1人と餓死していくものだと言われている。

だが、この時餓死室に送られた10人の場合は、こうしたこととは全く異なったことになったようで、怒号や叫びの代わりに祈りの声と賛美歌が聞こえていた。
そしてそうした祈りの声や賛美歌もやがて小さくなり、その内聞こえなくなって行ったが、その中で1人、また1人と死んで行った。

当時死体運搬作業の役目をしていたボルゴヴィオクと言う人物の証言によると、毎朝死体を片付けるため餓死室に入ると、コルベ神父は餓死室の真ん中にひざまずき、また立ったまま熱心に祈っていたと言う。

やがて10人が餓死室に入って14日目、この時中の様子を見に入った看守達が確認したときは、4人しか生存者がいなかったが、その内意識があったのはコルベ神父ただ1人だけだった。

しかしそのコルベ神父も、もはやひざまずく力もなく、餓死室の隅で土下座した格好から起き上がれない状態で、それでも祈っていたと言われている。

通常餓死室では15日をめどに、もし生きている者がいればフェノール液を注射して全員絶命させることになっていたが、コルベ神父は看守達が持っている注射器を見ると、ただ黙って頷いた・・・。

1941年8月14日、マキシミリアン・コルベ神父はこうして、自身が祈り続けた聖母マリアの腕の中に帰って行ったのである。
この時神父が死んだことを聞いた収容所の人たちは、皆がおくめんもなく激しく泣き崩れ、その死を嘆いたと言われている。

1971年10月17日、こうしたマキシミリアン・コルベ神父の信仰の深さを称えたヴァチカンは彼を「列福」し、1982年10月10日にはパウロ2世によって、彼は聖ピエトロ大聖堂に措いて列聖された、つまり聖人とされたのである。

ちなみにこの1982年10月10日の式典にはガイオニチェクと言う人物がヴァチカンの式典に参加しているが、彼は一体誰だと思うだろうか・・・、そうあのアウシュヴィッツ収容所でコルベ神父に助けられた彼だった。

彼もまたあれから厳しい収容所暮らしに耐え、戦争を生き抜いていたのだった。

私は神を信じることができないかも知れない、でもこのマキシミリアン・コルベと言う人は信じることができる。




「聖者・Ⅰ」

私は無神論者で、宗教心など全くないが、それは裏を返せば、人が信じているものは全て信じてやりたいと思うからかも知れない・・・・。

1941年5月24日、ポーランドの「ニエポカラヌフ」修道院、この日、修道院ではドイツ軍兵士によって靴で蹴飛ばされて、そのドアが開けられたが、彼らは特段捜査令状や逮捕礼状を示すことなく、この修道院へ入り込むと、ホールで院長のマキシミリアン・コルベを出せと、あたり構わず怒鳴りつけた。

この騒ぎを階上にいて聞きつけたマキシミリアン・コルベ、彼は黙って静かに階段を下りて来ると、騒然とする周囲の者達を左手で静止するようにして床に座り込み、両手を結んで祈りを捧げた。

だがそんなコルベ神父の姿はドイツ兵にはまどろっこしく見えたのだろう、ドイツ軍兵士の隊長は「早くしろ!」と怒鳴ると、コルベ神父の顔を横から蹴り、神父はその反動で床にうつぶせに倒れ、口が切れたのか神父の口からは赤いと思しきものが、僅かに流れているのが見えた。

神父はこうしてドイツ軍に連行されると、その身柄はすぐさま車でワルシャワの「パヴィアク」収容所へと送られた。

1939年9月1日、電撃的作戦でポーランドに侵攻したドイツは、ソビエトとの不可侵条約によって、ポーランド侵攻が可能になったにも拘らず、1940年末にはソビエトにも侵攻を計画し始めた。

この時既に全ヨーロッパ相手に戦争を拡大させていたが、そうした背景から占領したポーランドでは、国内で影響力のある人物を排除して反乱分子を潰して置こうとする措置が取られ、当時発刊する月刊誌「無原罪の聖母の騎士」が100万部、「少年騎士」誌が18万部、新聞13万部を発刊していたマキシミリアン・コルベ神父もまた、ポーランドにおける影響力の大きさから、ナチスドイツに目を付けられ、こうして逮捕されることとなったのである。

そして1941年5月28日、ワルシャワの抑留所で監禁されていたコルベ神父は、この日、かの悪名高き「アウシュヴィッツ収容所」へと送られて行った。

アウシュヴィッツの惨状は後世歴史の示す通りだが、この収容所では500万人以上が虐殺を受け、生きたまま眼球の色素研究の為に目をくりぬかれた女性や、麻酔のないまま解剖を受ける者、ガス室で最も効率良く殺されていくもの、人々は阿鼻叫喚の中で死んで行った。

特にこの収容所で厳しかったのは重労働と寒さで、そんな中でもコルベ神父達を管理していたドイツ軍兵士は、コルベ神父のその決して人を怨んだり弱音を吐かない態度が気に食わなかったらしく、ことの他コルベ神父を目の仇にしていた。

神父はもうだいぶ前から結核を患っていて、時々吐血するほどそれは悪化していたのだが、それにも拘らずこの兵士は神父に大きな材木を担がせ、行き倒れると上から執拗に蹴りつけ、動けなくなるまでムチで叩きのめし、そのぐったりした体は雨の日に車輪が掘ったわだちの中に投げ込まれ、放置されると言う有様だった。

だがこうした扱いを受けながらも、コルベ神父は拷問で瀕死の状態の人がいれば、その者のもとを訪れ、彼の為に祈り、また時には執拗に拷問を繰り返すドイツ軍兵士の為に、天に許しを乞うこともあった。

「神父様・・・」もう言葉はこれだけしか言えず、やせ衰え、目を開けていることすらやっとの状態で横たわる人の脇にしゃがんだ神父は、「大丈夫、あなたの生きているときに犯した罪は全て許されます、聖母マリアの下に・・・」そう言って手を結び深く頭を下げるのだった。

また神父は唯でさえ量の少ない自分の食事を、自分より弱っている者がいると、その人に譲っていたとも言われ、食事を譲られた人は、普通なら取り合いになるほどの食事をどうして私に譲ってくれるのか、そう尋ねたが、そのときの神父の答えは「あなたが私よりおなかがすいているからです」だったと言われている。

そしてコルベ神父がアウシュヴィッツへ来てから2ヵ月後の7月、コルベ神父の収容されていた第14号舎から、一人の脱走者が出てしまった。

このアウシュヴィッツ収容所では、例えば脱走者が出ると、他の者への見せしめのため、同じ収容舎から10人の餓死刑者が選ばれ、彼らが処刑されることになっていたが、この時同じ14号舎にいた者たちは愕然とすると共に、脱走した者を激しく呪い、嘆いた。

しかしコルベ神父はそうした彼らをなだめると、脱走した者にも祝福があらんことを祈ったのである。

「お前、次はお前だ、その次・・・」こうしてすぐにも10人の見せしめ者達が選ばれ始めたが、ここまで来ると収容所の看守達にまで、ある程度の心的影響力を持っていたコルベ神父は、この10人の中には選ばれなかった。

しかし選ばれた10人の中で1人泣き叫ぶ男がいた。
「俺には妻も子供もいるんだ、何とかしてもう1度会いたい」その男は声を震わせて泣いていた。

だが収容所の看守の反応は冷たい、そんな光景、そんな叫びなど毎日聞いている彼らにとって、この男の声などいかほどのことでもなかった。
「早く立て、裸足になって刑場へ行くんだ」
看守は男の腕をつかんで引き立てようとした。

                              「聖者・Ⅱ」に続く










知る権利と伝える権利

古参の新聞記者などが良く新人の記者に言うことで、「取材手帳は詰めて書け」と言うのがある。

これはどうしてかと言うと、裁判上の問題があった場合、メモを書いた日時によって等間隔、もしくは詰めて書いてあると、あとで書き加えれたと疑われない為であり、このことは何を意味するかと言えば、記者のメモは裁判の証拠となり得るものだからである。

同じことは例えばドメステックバイオレンス、しつこい付きまとい被害などにも多少条件は違うが適応されるものだ。

日時、何があったかなどを順列ごとに記載してあるメモは、その内の何%かの事実が確認されれば、裁判上の重要な資料として参考とされる。

また録音による記録はこうしたメモより更に高い証拠能力があるが、取材に関して本人の同意を求める必要があり、もし本人の同意なくして、その本人が不利となる証言を録音した場合、相手が「個人」ならその録音は不当なものになる可能性があるが、相手によって迷惑を被っている、もしくは犯罪の可能性がある場合はこの範囲ではない。

ただし公人、例えば市長や代議士、行政担当者、会社代表などの「個人」ではない存在については「国民の知る権利」が優先されることから、完全にプライバシーでなければ、取材し、記事にすることによって相手側から訴えられても、こちらの正当性を主張できる。

また公務員の守秘義務違反と、取材源の秘匿性ついて、これは裁判でも紆余曲折があったが、次のように司法判断がなされている。

1979年札幌高等裁判所での判決だが、報道の自由を守るために、報道関係者が取材した取材源を秘匿する権利は、ジャーナリストの基本的倫理であるとする、つまり取材源の秘匿は「職業上の秘密」に相当すると言う判断がなされたのであり、これは公務員の守秘義務が内から外への情報の動きを封じるのとは対照的に、積極的に求められた場合に拒否できる権利である。

だがもしこの2つの権利、公務員の守秘義務と取材記者の取材源秘匿権がぶつかった時にはどうなるか。

2005年10月、新潟地方裁判所はあるアメリカの健康食品会社への課税処分を巡ってなされた報道に関して、課税処分を受けたメーカーから訴えられたNHK記者の職業上の秘匿権を認め、この記者の証言拒否を妥当とした判決を出したが、同じ事件報道でやはり読売新聞記者が、同じように裁判で職業上の秘匿を基に情報源の証言拒否を闘ったが、こちらは2006年3月14日、東京地方裁判所の判決で、記者の証言拒否が認められなかった。

同じ事件で同じ案件で訴えられたこの裁判は、片方のNHKの主張は認められ、読売新聞が認められなかったと言う、異例の判断になったが、その背景に潜んでいたものは公務員の守秘義務である。

2006年3月14日の東京地裁の判決を見ると、読売新聞記者の情報は公務員がその守秘義務に違反して語ったものである可能性があり、こうしたことから、もともと法令に違反した形で得られた情報については、取材者の情報源に関る秘匿権利は制限を受けざるを得ず、記者の拒否権は一部に付いて認められない、つまり読売新聞記者の拒否権を認めない判決になったのである。

しかし先の2005年10月のNHK記者の判決について、こちらはメーカー側が更に抗告していたことから、2006年3月17日、東京高裁が判断を出したが、ここで東京高裁が出した判決は、2005年の新潟地裁の判決を支持し、メーカー側の訴えを再度棄却するものだった。

同じ案件での裁判にも拘らず、僅か3日違いで片方は認められ、片方は認められない、こうした司法上の矛盾に対して司法当局が行った事は、以後の徹底した「整合性」の確保しかない。

2006年4月24日、こちらは共同通信社記者の取材源証言拒否に対する東京高裁判決では、共同通信社記者の証言拒否を妥当する判決を下し、これによってこうした取材記者の情報源の秘匿権は、殆ど無条件に認められていく道が地方裁判所に対する上級裁判所の判断として示されていく。

2006年6月14日、こうした流れから東京高裁は2006年3月14日、東京地裁によって出された、読売新聞記者に対する証言拒否を認めない判決を全面撤回、一転して読売新聞記者の証言拒否は無条件で認められる判決を出して、この事態の収拾を計ると共に、一定の判例となる道を作ったのである。

さて気が付けば、また少し難しい話になってしまった。

では今夜は最後にフリーペーパーと報道の闇を少しだけ書いて終わりにしようか・・・。

フリーペーパーが各家庭に配られる仕組みは、新聞配達業者に一枚数円で新聞に折り込んでもらって、新聞と一緒に配布される仕組みが一般的だが、この場合編集制作費を除くと、印刷代金よりも折り込み代金と配布代金の方が高くなる場合がある。

また例えば新聞を超える記事が書かれているフリーペーパー、これが新聞と看做されると業者が配達を拒否する場合がある。

各新聞社の規定によって、他の新聞を配布することを制限しているからだが、実際は新聞配達業者は複数の新聞を扱っていて、既存のものは大丈夫だが、新規のもので他の新聞を脅かす記事が書かれているフリーペーパーは、拒否されると言うのが実情かも知れない。

そしてこうした新聞配達業者、または新聞も地方紙などは完全にそうだが、政治的支配が強く、有力代議士を批判するような記事が書かれたフリーペーパーだと、そもそも印刷から始まって拒否されることが多く、そうした時には新聞配達業者もまた、これは新聞と判断したので、規定により配達できないとの「お断り」の回答が寄せられるのであり、ましてやこれが行政ともなると、新聞記者対策室なる陰の部署が秘書課などに設置されていて、毎晩のように報道関係記者や有力新聞記者を誘って飲食の接待が繰り返されているのであり、こうした背景から記者は末端の行政の実情は記事にできないばかりか、殆どが行政の鞄持ち程度の記者でしかなくなっている。

更には某国営放送、この衛星放送番組部門には、コーディネーターなる中間組織が存在し、本来取材は無料で行われるはずなのに、高額な金銭を要求して、その見返りに取材報道するような仕組みが出来上がっている。

一軒あたり7万円出せば、この町並みをN○Kが取材しますので・・・と言った話は地方でよく聞かれる話であり、景気が悪く何とか都会へ田舎を発信したいと願う地方の人たちは、こうして高額な取材協力費なるものを払って、送迎付き、豪華食事付きで取材して頂いている場合があるが、こうしたコーディネーター、企画会社と国営放送との関係は今ひとつはっきりしないものがある。

日本は上から下まで腐って来ているのかも知れない・・・。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ