「まだ戦争ではない・Ⅵ」

しかしルーズベルトはこのことを小村には知らせなかった。

8月28日、明日29日がロシアとの交渉最終日となる前日、日本政府から決定的な電報が届き、そこには「軍事上、経済上の事情を鑑み、賠償金、領土割譲の2問題放棄するのやむを得ざるに至るも講和を成立せしむることに議決せり」、つまり全面譲歩しても講和を成立させてくれ・・・となっていたのだった。

どこの世界に戦勝国が敗戦国に全面譲歩する事などあろう、これは小村にとって日本がロシアに負けたことを意味していて、結果として日本の全面譲歩で決着がはかられるなら、そこに横たわるものは国際的にも日本が敗戦したと言うことにしかならないのである。

8月28日の夜、小村の寝室からは遅くまで小村のすすり泣く声が聞こえていた。
そして出来れば永遠にこの日になって欲しくなかった8月29日、日露講和交渉最終日、会議開始2時間前、小村が屈辱的なロシアに対する全面譲歩案の文書を用意していたときのことだった。

日本政府から至急電報が届く。
明治38年(1905年)8月26日付け、桂太郎内閣総理大臣からのその電報は日本の運命を変える。
「ロシア皇帝はアメリカ公使の説得により、樺太の南半分を日本に割譲する意向を示した」

実はルーズベルトが既に知っていながら隠していたこの情報は、ロシアのサンクトペテルブルグで、別のルートから情報を得たイギリス公使によって、日本のイギリス公使に伝えられ、そこから日本政府にもたらせたものだった。

つまりイギリスはロシアのインド進出を警戒し、日本との軍事協力関係を強化するために、日本にこの情報を流したのだった。
まさに日英同盟がギリギリのところで生きてきたのだった。

「よし、交渉文書の差し替えだ」
小村は珍しく大きな声で、皆に指示を出す。
そして最終交渉が始まった。

「日本は人道的見地と文明社会安寧のために、樺太南部を日本領とすることを条件に、ロシア帝国に対する賠償金支払い要求を撤回するものとする」

これを聞いていたロシア全権ウィッテ、彼は一瞬光が差したように驚くと、すがすがしくも鋭い眼光で小村を見つめ、日本全権案に対してこう回答する。

「賠償金支払いが撤回された今回の日本全権の提案に対し、我がロシア帝国は日本への南樺太割譲を受諾する」
即ちウィッテは日本案を受け入れ、ここに講和交渉は成立したのだった。

9月5日、こうして日露講和条約は調印され、この瞬間から小村の言葉を借りるなら日本は大国ロシアを戦争で撃破した戦勝国として世界に認められたのである。

それにしても不思議なのはルーズベルトだ、彼はなぜ8月26日にロシアとの交渉に成功しながら、それを日本全権の小村に知らせ無かったのだろう。

もしかしたら一度日露交渉は決裂させて、そこでアメリカ主導で交渉を再開し、ルーズベルトが交渉を成功させたことにしたかったのだろうか、だとしたらアメリカの了見の狭さは伝統的なものと言うことが出来るが、今だにこの件に関してはその真相は謎である。

さてこうして日露講和条約を成功させた小村だが、その頃日本はどうなっていたかと言うと、この交渉に関する報道は一切なされていなかった。

ロシアのああした高慢な態度であり、そうしたことを知った日本の民衆が何をするか分ったものではない、ここは何も知らせずと思っていたのだが、日本にも各国の大使館は存在し、どこからとも無く情報は漏れてしまう。

条約が締結された当日、日本時間ではおそらく8月6日になると思うが、東京には戒厳令がしかれる。

賠償金も取れず、領土も樺太半分しか得られないことを知った民衆は、戦争の影響から生活に困窮しており、こうした不満が戦勝国で有りながら、なぜそんな講和条約を結ばなければならないのかと言う理不尽さに重なり、暴動が発生し、内務大臣官邸、講和条約に肯定的だった国民新聞社や交番などが、民衆によって火をつけられたり、破壊されて行った。

これが後世名高い「日比谷焼き討ち事件」である。

連戦連勝、そして「バルチック艦隊まで撃破したにも拘らず、その弱腰は何だ」、「小村は非国民だ」「小村は斬首刑だ」
民衆の怒りは小村寿太郎の留守宅にまで及び、窓は投げられた石によって割られ、その塀の周りには焚き木が積まれ、それに火がつけられた。

「小村、出て来い」「小村、このバカヤロー」
民衆の怒号の中、彼の妻や子供は身を潜めて震えているしかなかった。

また一説には、小村寿太郎の妻がこの暴動を機に、精神的に不安定になったとされているが、実はこれより以前から彼女の精神は不安定で、その原因は小村の女関係にあったと言われている。

そして帰国した小村寿太郎、彼を約束どおり迎えたのは伊藤博文であり、その脇には桂太郎内閣総理大臣と海軍大臣山本権兵衛の姿もあった。

彼らはまるで小村を守るかのように、前と後ろに小村を挟んで歩いていたと言われている。

それから3年後の明治41年(1908年)、全く偶然だったが、イギリスからの帰路の途中で立ち寄ったロシアの首都サンクトペテルブルグで、小村はあのロシア全権だったウィッテと再会する。

「ポーツマスではお互い全力で会見いたしました、今から思えばあの頃が夢のようです」

小村は握手をしながらウィッテとの再開を喜んだが、ウィッテもまた「あの当時は私を外交上の勝利者とする意見も有りましたが、今になって思えば、真の勝利者はあなたこそふさわしい、私はあなたが恐かった」

そう言って微笑んだ。

小村が亡くなったのはこの3年後、あのポーツマス講和会議から6年後の、明治44年(1911年)のことだった  享年57歳。









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「まだ戦争ではない・Ⅴ」

何と翌日のアメリカ新聞各紙には、日本が提示したロシアに対する要求の全文が掲載されていて、しかもその論調には日本の条件が厳しすぎると言わんばかりの説が掲げられていたのである。

ウィッテは簡単に約束を破った訳だが、これに対して小村は金子堅太郎に連絡を取り、日露戦争の始まりから新聞に書いてもらうように依頼し、金子はこうして1年前から準備していた人脈を使って、再度日本はやむを得ずして戦争をし、また要求もその損害を考えるなら妥当なものであるとの主張を新聞各紙に掲載させ、これによって一時はロシア側に傾いていた世論は、また少しずつ日本へと傾いてくる。

小村が日露戦争開戦と同時に打っておいた工作がここで生きてきたのである。

8月15日、いよいよ交渉は本格的な場面を迎えてくる。

ロシアは日本が日清戦争で得た権益の復活については意外に早くから認めるが、こと樺太割譲と賠償金の支払いは絶対拒否を貫き、そもそも日露戦争では日本が2、3の戦闘で勝っただけで、ロシアは負けていない。

また日本がロシアの首都サンクトペテルブルグまで陥落させたのならまだしも、これ以上の譲歩を求めるなら、ロシアはこの講和会議を決裂させて戦争を継続するとまで言い出していた。
日本は完全に足元を見られていたのだが、ここでウィッテに帰国されてしまったら万事窮すだった。

こう着状態が続き、小村にも辛い日々となっていくが、こうなったら仕方ない、小村は金子に頼んでルーズベルトに仲介を頼むことにした。

2日後、この要請に応じたルーズベルトはロシア政府とウィッテに交渉の再開を説得する電報を打電、それから3日後、ウィッテは非公式の会見を日本側に持ちかけてくるが、ここでロシア側が持ちかけてきた譲歩案は樺太半分の割譲だった。

難しい判断ではある、しかし交渉と言うのは一つがクリアされたら、さらにそのワンランク上も粘ってみるのが鉄則、しかも樺太半分では到底日本の民衆は納得しない、小村はここで樺太半分の割譲を認める代わりに、残りの樺太半分について金銭の支払いを求めた。

日本はこれから日露戦争に勝利したといっても、ロシアから賠償金を取らねば、国家予算の9倍と言う対外債務を背負っていかねばならなくなる。

そのことを考えれば、増税に喘ぐ民衆の気持ちとして、何らかの賠償金をロシアから取らねば納得できない事は分っている。
たとえ少なくても賠償金を・・・、小村はそう思っていた。

この日本の回答に対してウィッテは、小村を睨みつける。

そして「分りました、本国へ報告します」とだけ答え、その通りにニコライ2世に打電するが、これに激怒したのはニコライ2世で、日本如きが何を言うか、ロシアはその領土の1インチも、金の一握りであろうと日本にくれてやる事は無い、我がロシアは敗北などしておらん・・・となってしまい、ウィッテには交渉を決裂させろと打電してきた。

だがこの状態に窮したのは小村よりもむしろウィッテだった。

ロシアの政情不安は思いのほか大きくなりつつある、そのうえ日本はともかくアメリカの面子を潰し、それによって世論も敵に回したのではロシアの不利は目に見えている、「何とかしなければ・・・・」

8月23日、こうした状態で日露講和会議再開、ここでロシアが出してきた条件は樺太全土を割譲する代わりに、賠償金の支払いは日本が譲歩する案が提示される。

これに対して小村は、ロシアが少しずつ折れてきている感触から、さらにもう一押ししようと、この席で賠償金の要求撤回は有り得ない、日本が求めているのは樺太半分の割譲と賠償金の支払いであり、これ以外の回答は認められない・・・、とやってしまう。

この言葉を聞いたウィッテは心の中で「やった、小村はひっかった」と思ったことだろう。

この日も交渉を決裂させたウィッテは会議場を出ると、周囲へ交渉の経過を聞こうと集まった記者たちに対して、日本全権の小村は賠償金の要求にこだわり、平和のための交渉を決裂させようとしている、日本は金を得るために戦争をしたのではないか・・・、と言う談話を発表し、翌日の新聞には「日本は金のために交渉を決裂させ、戦争を継続しようとしている」の見出しが躍っていた。

これでせっかく日本に集まりかけていたアメリカ世論は、またしても日本に対して逆風になり、こうしたことに懸念したルーズベルトも小村に対して、賠償金の要求は撤回した方が良いのではないかと言う、譲歩を提案してくるのだった。

もはやこれまでだった。

敗北か・・・・、日本へのアメリカの協力を分断させ、さらに国際的な批難は日本が浴びた上で、交渉は決裂か・・・、小村は天を仰いだ。

8月26日、こうして日本非難が増す中で講和交渉は再開、ここで小村は仕方なく賠償金の請求を諦め、樺太割譲だけでもと言う思いで交渉に臨んだが、小村がそうしたように、やはり相手が引けばその分突っ込んでみるのが交渉の原則は、今度はウィッテの手の中にあり、ウィッテはアメリカ世論を味方につけた勢いで「我がロシアは日本への領土割譲、賠償金の支払い、その一切について応じられらない」、つまりはニコライ2世の言葉どおりの交渉に持ち込んだのである。

この日交渉を終えた小村は日本政府にこう打電している。
「談判は断絶するほか、もはや取るべき途之なし」

だがこの前日8月25日、アメリカ大統領ルーズベルトは、実はロシア皇帝の元へアメリカの駐ロシア公使を送り込んでいて、非公式な交渉をしていた。

その内容は日本が賠償金の要求を放棄する代わりに、ロシアが樺太の南半分を日本に割譲すると言うものだったが、ロシア皇帝は、30年前にロシアの領土になった辺境の地であるが故に、その南部を日本に割譲することは不可能ではない・・・として、事実上樺太半分の割譲を認めていたのだった。

                        「まだ戦争ではない・Ⅵ」へ続く







「まだ戦争ではない・Ⅳ」

バルチック艦隊を撃破した日本、しかしその内情はまるで敗北であり、この機を逃せば永遠に勝利は無くなる、もはや講和しか他に道は無く、しかもこうした場面を任せられるとすればたった1人しかいない。

小村寿太郎、彼以外にこの講和条約をまとめられる者など存在しようも無かった。

小村は早速アメリカにいる金子堅太郎に連絡を取り、合衆国大統領に日本とロシアに講和勧告を出してくれるよう依頼し、これによって合衆国大統領ルーズベルトは、明治38年(1905年)6月10日、日本とロシア双方に講和勧告を出す。

この講和勧告は日本が依頼したものだが、表面上はアメリカの調停であり、ではロシアはどう言う態度に出るかと思えば、小村の予測したとおり、ロシアもこの講和勧告を受け入れる。

大帝国ロシアも相次ぐ日本との戦闘での敗北から、国民感情が帝政に対する不満となって現れていたこと、また日本から極秘に送り込まれ、ロシアの共産主義活動を支援していた明石元二郎大佐(あかし・げんじろう)の活躍もあり、ロシア国内の政情は不安定になっていた。

このことからニコライ2世は戦争に負けても外交交渉で勝利する道を選択したが、その背景には、日本がこれ以上戦争継続が困難なことを見通していたからである。

またこのアメリカの講和勧告は、もともと日本が勝っている状態の時に、アメリカから出される事になっていたのだが、こうした準備は全て金子堅太郎が根回しして置いたものであり、日本が勝っている状態で講和に持ち込めば、ロシアのアジア進出を抑えることが出来ること、そして何より大きいのは大国の戦争調停をアメリカがすることの意義である。

いやが上にもヨーロッパ列強に対して、アメリカがその影響力を強めることが出来るわけだ。

日本はこの戦争の講和勧告が出された翌月、混乱に乗じて樺太へ侵攻し、そして樺太を占拠してしまうが、これは後の交渉で割譲を求めるためのものであり、万一この講和条約で何にも得られないとしても、せめて樺太の割譲ぐらいの見返りが無ければ、国民を納得させる事は出来まい、そう判断した日本政府の苦肉の策だったが、こうしたことが小村全権が横浜港から出立した、1905年7月8日の前日から始まっていることを考えると、日本政府が如何にロシアに対して賠償を求めることが困難だと思っていたかがうかがい知れる。

小村はこうして7月8日、大日本帝国全権大使としてアメリカに旅立った。

その船の出向に際し、横浜港には「小村先生、頑張れ」「先生、バンザイ」と叫ぶ民衆が溢れ、大混雑となったが、この民衆の大歓声は小村が帰ってくるときには、おそらく罵声に変わっているだろう事は、見送りに来た伊藤博文が一番承知していたのかも知れない。

「小村君、他の者はともかく、帰国したときは自分が一番先に君を出迎えるぞ」と告げる伊藤に「伊藤先生・・・、ありがとうございます」、そう言って小村は帽子を取っている。

日本がロシアに求める戦後賠償のポイントはまず樺太の割譲、それに15億円の賠償金の支払い、そして基本的なことだが朝鮮半島における政治経済全ての優越権、また遼東半島の租借、満州からのロシアの撤退だが、このうち15億円の賠償と樺太割譲を除けば、それは日清戦争で既に名目上得られたものであり、元に戻ったと言うべき筋合いのもので、これだけでは日本国民はおそらく納得できないだろうが、既に日本の国力を知っているロシアは、もしかしたら日本の要求の全てを拒否する可能性があり、その確率は高かった。

だがしかしこの交渉はどんな譲歩をしてもまとめないと、日本は間違いなく滅亡するしかなかった。

そしてそれは桂太郎以下、伊藤博文、山本権兵衛、山縣有朋や井上馨にしても承知していた。

だが、国民に強いてきたこれまでの犠牲を鑑みるに、もし日清戦争で名目上得られていた条件だけで交渉が妥結した場合、国民に示すべき日露戦争の結果が存在しない事になり、その不満は交渉に当たる小村一人が背負う事になる。

遠く民衆から離れたところで小村を見送っていた桂太郎は胸に手をあて、「頼むぞ小村君、君の手に日本の全てがかかっている、頼むぞ・・・」そう呟いていた。

1905年8月9日、日本とロシアの全権委員はアメリカ、ポーツマスで講和交渉に入った。

小村の孤独で熱い闘いはこうして始まったが、実は小村は7月25日、先に陸路でニューヨークに入り、そこで金子堅太郎と合流し、アポイント無しでルーズベルトの別荘を訪ね、先に日本側の条件をルーズベルトに提示している。

樺太割譲、15億円の賠償・・・、それらの条件を見たルーズベルトは、「おおむね妥当でしょう」とだけ答えているが、この時初めてルーズベルトに会った小村は、その印象を「古タヌキ」と述べていて、これは後に身をもって小村が実感する事にもなる。

一方ロシア全権大使は「セルゲイ・ウィッテ」がその任に当たっていたが、彼はまずアメリカへ到着すると、アメリカのユダヤ人街へと足を運び、そこで穏やかに子供たちと親睦を深め、このことはアメリカの有力紙が大きく取り上げたが、ロシアはこの時代その国内に措いてはユダヤ人を迫害していたため、アメリカに住むユダヤ人は、おしなべてロシアに批判的だった。

このことから、まずこうした批判をかわそうとしたのであるが、これが結構効を奏し、ウィッテは良い人だ、ロシアは良い国かも知れない、そんな印象を大衆に与えるには一定の効果があった。

8月9日、講和会議1日目、ウィッテは大男で体格も良く、これに対して小村は身長が低くまた体も貧相だったが、そのときの小村をウィッテはこう記している。

「小村は堂々としたところが有り、またその眼はどこを見ているのか分らないところが有る、向こう(日本)もその存亡をかけてきてるのだ、絶対油断は出来ない」

そしてこの日、小村はウィッテがユダヤ人街を使ってアメリカの世論を味方につけようとした、あのやり方を見ていて、ウィッテにけん制をかける。

それはこの講和会議を秘密会議としたいと言う提案だったが、この会議の模様は各地から集まった記者たちによって取材されていることから、あるいは何か捏造されたものが報道される事があるかも知れない、それを防ぐために会議は秘密にしませんかと言うものだったが、世論を使うのが上手そうなウィッテの手を封じよう、それが小村の目的だった。

しかし小村はこれをウィッテが黙って認めるとは思っておらず、当然拒否するだろうと考えていたが、以外にもウィッテは快く承知し、こうした経緯から小村は会議初日と言うこともあって、とり合えず日本の講和条件である、12か条の要求が記された書面をウィッテに渡してこの日は散会する。

余りにあっけないウィッテの態度、小村は内心いやな予感がしたが、その予感は翌日的中する。

                        「まだ戦争ではない・Ⅴ」に続く








「まだ戦争ではない・Ⅲ」

明治36年(1903年)6月23日、この日宮中では刻々と迫ってくるロシアの脅威に対する問題で、御前会議が開かれたが、この席で総理大臣桂太郎と外務大臣小村寿太郎は、ロシアの満州撤退が実行されない限り、日本はロシアとの開戦に及ぶも止む無しと主張する。

だが海軍大臣山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)はこれに強く反対、その背景は今だ完備できていない海軍の装備の問題からだった。
結局この御前会議ではこうした山本の強い反対意見からロシアとの開戦は控え、交渉による問題解決に全力を尽くす事が決められた。

だがこの山本の意見、その本質は「まだ反対です」と言うものであり、山本権兵衛はこれ以後世界中から艦船を買い集め、その中にはイギリスから紹介してもらった、アルゼンチンの艦船「リヴァタヴィア」と「モレノ」が含まれていた。

またイタリアの「アンサルド」にも買い付け要請を行っていたが、同じ事はロシアもやっていて、アルゼンチンは日本を支持しロシアの要請を断ったが、アンサルド社は態度を保留、その代金の支払いが早い方に売却との方針だったようだ。

だからここでは少し話はずれるが、1982年に勃発したフォークランド紛争で、日本政府は真っ先にイギリス支持を表明したが、実際これは過去に恩義のあるイギリスとアルゼンチンとの紛争だったことから、少なくとも日露戦争でロシアに艦船を売却しない方針を採ったアルゼンチンの態度は、基本的には日本支持だった訳であり、こうしたことを考えるなら、早急にイギリス支持ではなく、「両国の平和的解決を希望する」が日本外交の正しいあり方だったように思うが、これも過去のことであり、是非も無しか・・・。

ともかくこうして山本は政府のあらゆる資金を使い、また或いは流用し、艦船を集め、どうにか海軍の装備をそろえると、連合艦隊司令官に「東郷平八郎」(とうごう・へいはちろう)を指名し、これで本当に最低限では有ったが軍備を整え、ロシアとの開戦に向けての準備を完了させる。

だがこの東郷平八郎の連合艦隊司令官の人事に関しては、一部で順序として常備艦隊司令の「日高壮之丞」(ひだか・そうのじょう)が適任ではないのかとの意見もあり、これに関して明治天皇が直々に山本を呼び出してその理由を聞いているが、山本は幼馴染でもある日高よりも、東郷の冷静さを評価したことを奏上し、これに天皇も同意した。

明治37年(1904年)2月4日、この日の午後に開かれた御前会議、この冒頭で山本権兵衛は「戦機は既に熟せるものありと謂うべきなり」と発言、これに基づいて対ロシア開戦は閣議採決された。

会議は終始重苦しい雰囲気に包まれ、明治天皇はこの御前会議で、こう憂いのお言葉を述べている。
「今回の戦は朕の意思にあらず、然れども事既に茲に至るのを如何ともすべからざるなり」
「大日本帝国はロシア帝国に対して宣戦を布告する」
かくて明治37年(1904年)2月10日、日露戦争が勃発したのである。

そしてこの2月4日、御前会議で日露戦争開戦の裁可が下った翌日、小村寿太郎は同じアメリカのハーバード大学を卒業した、前司法大臣「金子堅太郎」を外務省に呼んでいるが、その席で小村は金子にこう話している。

「ロシアとの国力の差を考えれば、この戦争は長くは続けられません。ロシア側にある程度の被害を与えられれば講和に持ち込めるでしょう。そしてロシア側が講和を受け入れるとしたら、納得できる国はアメリカ、ルーズベルト大統領しか存在しません」

「金子さん、あなたはルーズベルト大統領とは同期だ、今からあなたのそのアメリカでの人脈で、ルーズベルト大統領との関係を強化し、そして日本は戦争を回避するあらゆる努力を払った、それにも拘らずロシア帝国が全てを反故にしたため、日本は止む無く戦争をせざるを得なくなったことを、アメリカ政府とアメリカの世論に訴えて欲しいのですが、お願いできませんか」

小村はいつもそうだが少しうつむき加減で、しかも切々と金子に語りかける。

これに対して金子は「私にそんな大役が務まるでしょうか」と不安そうな顔するが、「ルーズベルト大統領と友人であるあなたにお願いするしかないのです」と小村が身を乗り出し、暫く沈黙となった。
だがやがて金子は顔を上げると「分りました、この金子、最善を尽くします」と返事をするのである。

小村寿太郎、実に興味深い男だ。
開戦と同時に講和に向けた工作をはじめ、アメリカ世論を使おうと言う訳である。
また小村は実際に講和についてこのような話をしている。
即ち戦争における勝利とは、どの時点のどの戦局をとって、誰が誰に何を認めさせるかによってその勝敗が決まる。

明治37年(1904年)3月21日、陸軍第1軍が朝鮮半島に上陸、朝鮮半島に展開するロシア軍に対して攻撃が開始された。

また乃木希典(のぎ・まれすけ)指揮する第3軍は、旅順攻撃でロシア軍と激戦になり、ここに有名な二百三高地の戦では、殆ど泥沼の状態から児玉源太郎らの作戦調整によって、かろうじて勝利を得ることになる。

また明治38年(1905年)5月27日には、ロシア最大の艦隊であるバルチック艦隊と、日本の連合艦隊が対馬沖で海戦に突入、連合艦隊は当時世界最強だったバルチック艦隊の19隻もの艦隊を撃破し、バルチック艦隊は降伏、このバルチック艦隊を破った日本海海戦の勝利によって、日露戦争は日本勝利と世界から認識されるのである。

だが日本はこれが限界だった。

国家歳費では日本が2億5000万円に対して、ロシア20億円、常備兵力日本20万人に対してロシア120万人、これだけとっても日本は自国の10倍の国力を持つ国と戦っていたのであり、日本がこの時点までに要した戦争費用は18億円、実に国家予算の9倍近くを外国から借金し、またこの戦争で失われた兵力は10万人を超えていた。

ロシア軍の死者数が5万人を切る状態であること、またもし戦争継続を考えた場合、日本はこれ以上戦争が継続されるなら敗北は間違いないところだったのであり、しかもこうした状況は一切国民に知らされず、増税に次ぐ増税で、いわば日本は民衆と言う内側に対して、またロシアと言う外に対しても、もはや限界だったのである。

                        「まだ戦争ではない・Ⅳ」に続く








「まだ戦争ではない・Ⅱ」

日露戦争ではロシアとの関係を巡って、日本政府内部でも対立があったが、伊藤博文や井上馨などはロシア帝国との関係を強化し、それで平和的な友好関係でロシアの勢力拡大を阻止しようと言う思惑があり、彼らの根底には少し前のロシア帝国の威容に対する認識があって、ロシアには戦争で勝てないとの思いがあった。

それに対して桂太郎、山縣有朋、小村寿太郎は、若干その当時の正確なロシアに対する認識、また日本国内の発展に対する認識が有った。

特にロシア公使としてロシアを深く探っていた小村には、共産主義が芽生え、地方経済が疲弊し始めているロシアは、伊藤等が考えているほど手も足も出ないものではないことを認識していて、上手く行けば、これはどう言う意味かといえば、ロシアに措いて共産主義運動が激化すれば、日本は何もせずして勝つことが出来るかも知れない、そのような思いがあったのではなかっただろうか。

だからこそ「まだ戦争ではない」と言う言葉があり、彼の頭の中では戦争とロシアの共産主義運動がセットになっていたのではないかと思える。

三国干渉以降の日本は、その軍事的劣勢からロシアに対して、できるだけ友好的な立場で接していくが、こうしたことからロシアの態度はどんどんエスカレートして行き、ついには他の欧米列強も、清国におけるロシア勢力拡大に脅威を感じるようになっていった。

そんなおりドイツを通じて持たされたのが日本とドイツ、イギリスによる三国同盟の提案だったが、この背景は極東におけるロシア勢力の拡大を、日本を使って阻止しようと言うイギリスの思惑が有り、当時南アフリカで金やダイヤモンドの利権を巡ってブール戦争を起こしていたイギリスは、自国では極東アジアの利権を守る事が難しかったため、日本と同盟を結んでそれによってロシア封じ込めを狙ったのである。

日本にとっては、特にロシアとの対立は避けられないと思っている小村にはまたとない朗報だった。
だが相変わらずロシアの力を恐れる伊藤博文は、これによってロシアを刺激するのはまずいとの判断から、この同盟には反対し、政府内部でも意見は二分して対立して行った。

しかしこうした政府内部の状態を知りながら、明治33年(1900年)桂太郎内閣で外務大臣となっていた小村はこの同盟を勝手に進め、後少しで日英同盟は批准されるところまで持ち込む、がしかし、これに対し伊藤は単独でロシアに外遊し、そこでロシア皇帝ニコライ2世に謁見、友好関係の強化によってロシアの脅威をしのごうと考え、駐イギリス公使「林董」(はやし・ただす)に日英同盟交渉の停止を求め、これがイギリスの知るところとなって、日英同盟は交渉中止を余儀なくされる。

この事態に小村は山縣有朋、井上馨などの元老と会談し、天皇に対して強い影響力のある彼らを説得する事で、日英同盟締結に向けた政府の意見統一をはかっていった。

小村はロシアとの対立を避けたい明治天皇のご意思と言うものを知っていた。
だからこそ伊藤博文の行動があるのであり、これを何とか一本化するには、やはり明治天皇を説得してもらうしかない。
そこで元老達をまず説得して、間接的に天皇の御裁定を頂く形をとったのである。

分るだろうかこの小村の凄さが、外務大臣が内閣の意思統一をはかっているのである。
小村の中にはきっと清国の惨状がしっかりと目に焼きついていたに違いない。

力が無くて譲歩を重ねていると、その結果がどうなるか、それを清国でいやと言うほど見てきた小村にとっては、あからさまに軍事的脅威を前面に出すロシアに対して、友好関係だけでは日本が守れない事は自明の理だったに違いない。

明治35年(1902年)、こうして紆余曲折は有ったものの、日英同盟は成立する。
日本が欧米列強と初めて締結した対等同盟、全6条、附則交換公文書1篇の中には、現代の集団的自衛を超える参戦義務が明記されていた。

つまりはこうだ、例えば日本が戦争している相手の国に対してこれを援助、支援する国があれば、イギリスはその国に対して日本側から参戦しなければならないのであり、これと同じ義務をイギリスに対して日本も負う、軍事協定なのだ。

小村はロシアの力に対して、イギリスと言う他国の力だが、やはり力でこれを守ろうと考えたのであり、これがロシアに対する抑止力となり得るものと考えていた。
だがこうした小村の思惑は、以外にも逆にロシア帝国の内憂によって、さらにロシアの態度を硬化させていく事になる。

ロシア帝国の経済の疲弊、そして地方の疲弊は益々加速してきていて、それに伴って共産主義の芽があちこちで起こり始める。

これを極東支配によって盛り返そうとするロシア帝国は、同じように疲弊したイギリスなど力が無い事を見越し、清国との約束など全く無視したうえ、撤退する約束だった満州には逆に軍事拠点を拡大し、明治36年(1903年)4月には清国との条約を一方的に破棄し、ここに日本との対立は決定的なものとなる。

日本は戦勝した清国での権益を失い、そのうえ朝鮮半島までロシアに奪われ、次は日本だと言うところまで追い込まれたのである。
小村はおそらくこの時点で「戦争」を覚悟したはずである。
だがこの時小村が頭の中で描いている戦争は、太平洋戦争とは別次元のものである。

「もはやロシアを交渉の場に引き出すのは開戦しかないのか・・・」
つまり小村は「戦争」を交渉の一部と考えていて、ここにはロシアは許せんなどの感情論がない。
この点が太平洋戦争との決定的な相違点と言えるだろう。

                        「まだ戦争ではない・Ⅲ」に続く





「まだ戦争ではない・Ⅰ」

「ローゼン公使、本日を以って大日本帝国はロシア帝国との国交を断絶いたします」

明治37年(1904年)2月6日、ロシア帝国公使ローゼンを外務省に呼び出した外務大臣「小村寿太郎」(こむら・じゅたろう)は、手を後ろでに組んで大きな窓を背に立つと、静かに、しかもしっかりとした口調でこうしてロシア帝国との国交断絶を言い渡す。

「閣下、こ、これは戦争を意味しているのですか」
狼狽したローゼンは思わず外交文書を握り締めると、驚いたように小村を見上げたが、それに対して小村は妙な事を言う。

「いや、まだ戦争ではない。まだ・・・」

ロシア帝国公使ローゼンは、日本といずれ戦争になる事は分っていたが、それがこの日だとは思っていなかったし、日本政府の対応を見れば、戦争の準備をしながらもまだ迷いがあり、もう暫く時間はあるものと思っていたが、アジアの弱小国家がまさか大帝国ロシアに立ち向かうなど、その現実が信じられなかった。

つまりローゼンはロシアのことより、日本のこの暴挙ぶりに驚愕していたと言うのが正しいだろう。

またこの時小村寿太郎がローゼンの「戦争か」との問いに、「いや、まだ戦争ではない」と答えていることの真意だが、実はこの2月6日早朝には、大日本帝国連合艦隊が長崎の佐世保港を出航していて、もはや日露戦争は事実上始まっていたのだが、それにも拘らず「いや、まだ戦争ではない」と言う小村の言葉は、全くもって謎としか言いようが無く、このことの真意は未だに分ってはいない。

だが、もしかしたら小村はこの時点でも戦争をせずに、ロシア帝国に勝つ方法をその胸に内に秘めていたのかも知れない・・・。

そして1904年2月8日、朝鮮半島の仁川沖で(にんせん)で大日本帝国連合艦隊による、ロシア第一太平洋艦隊に対する奇襲攻撃で事実上始まった日露戦争、この2日後1904年2月10日には、日本はロシアに対して宣戦を布告、ここに日本の存亡をかけた長い19ヶ月が始まったのだった。

だがこの戦争、その前段階から辿ってみると、そこにはちょうど日清戦争と同じような構図が存在し、内閣総理大臣「伊藤博文」と外務大臣「陸奥宗光」(むつ・むねみつ)が日清戦争を主導して行った流れが存在したように、日露戦争では内閣総理大臣「桂太郎」それに明治の元勲「山縣有朋」(やまがた・ありとも)、そして外務大臣「小村寿太郎」がこれを主導して行った流れが存在する。

中でも日露戦争に措ける小村寿太郎の関与は深く、明治28年(1895年)4月、アメリカの調停で成立した日清戦争の終結に伴う、日本と清国との講和条約を巡って、この講和条約が成立して6日後に日本に伝えられたロシア、フランス、ドイツによる同講和条約に対する干渉、いわゆる「三国干渉」勃発の事態に、この前年から清国代理公使の任にあった小村は、どこかの時点でロシアとの対立は避けられないことを直感したはずである。

日本は清との戦争で勝利を収め、清から多額の賠償金と遼東半島や台湾などの割譲を得るが、その6日後にはロシア、フランス、ドイツによって、この講和条件は重過ぎるとの意見が出されしてしまう。

なぜこうしたことが起こるか、その背景はヨーロッパ列強対日本やアメリカなどの新興国との対立であり、この時代まだアメリカはヨーロッパに対して、それほど意見できる身分ではなかったことから、こうしてアメリカ主導の調停には文句が出やすい環境にあったこと、そしてもう一つは大帝国ロシアの思惑である。

ロシアはバルカン半島への勢力拡大を目指していたが、いわゆるドイツ帝国ビスマルクが提唱したベルリン会議により、ここに一致してヨーロッパはロシアのバルカン半島進出を拒む姿勢を明確にした「ベルリン条約」を成立させ、これによって事実上ロシアはバルカン半島進出を断念、その代わりに極東の清、そして朝鮮半島への勢力拡大を目指してきたのである。

そして日清戦争で勝利を収めた日本だが、講和条約に干渉されても、この時点ではロシアには逆らえない、また本来ロシアの勢力拡大を望まないイギリス、アメリカ、そしてイタリアまでもが、清国での自国勢力が日本によって損なわれたくないとの思いから、この三国干渉には中立の態度を崩さず、その間にロシア太平洋艦隊が山東半島沖で軍事演習を始めるが、こうしたロシアの態度は明確な軍事的圧力だった。

つまりここでは何が起こったかと言うと、言い方は悪くなるが、日本が獲った獲物を、列強諸国で山分けしようと言う形が起こったのであり、その急先鋒がロシアだった訳だ。

だが残念なことに当時日本はこうした欧米列強を追い散らす軍事的根拠を持たず、結果として「三国干渉」には逆らえず、1895年5月4日、日本政府は「三国勧告」を受け入れる事になるのであり、この決断のおり明治天皇が「耐え難きを耐え、しのび難きをしのび・・・」とのお言葉を発せられたのである。

こうして日本を追い払った欧米列強は、次々清国の領土を強制的に租借(そしゃく・借りる事)と言う形で割譲していき、日本に替わって遼東半島を手に入れたロシアはシベリア鉄道の延長を始めるなど、益々露骨に極東での南下政策を進めて行き、こうしたロシアの有りように、日本国内では次は日本がロシアの標的になっているのではないか、そうした懸念もまた深まって行った。

また事実ロシアにもそうした意図は存在していて、そこでは急速に発展していく日本に対する認識の甘さがあり、一方で清国公使、ロシア公使と歴任して行った小村には、その兆候は僅かではあっても、確実にロシア帝国が傾いてきていることが肌で感じられたことだろう。

だからいずれ日本とロシアはぶつかるが、そこではどうしたぶつかり方にした方が日本のためには良いのだろうか、そんな事を小村は考えていたに違いない。

                        「まだ戦争ではない・Ⅱ」に続く






至福のチャーハン

眠れぬ夜、たまに自分がこれまでに書いてきた記事を読み返しながら思うに、どうも「料理」の記事が余りにも少ないので、今夜は少し料理の話など書いてみようかと思うが、いかんせん自分が何とかまともに作れるものと言えば、「チャーハン」ぐらいしかなく、仕方ないので今夜は昭和の香りが漂う、なつかしのチャーハンの話などさせて頂く事にしようか・・・。

妻が体が弱いこともあって、私は比較的料理を作る機会が多いのだが、その中でも緊急時にさっと作って間に合う「チャーハン」は、まことに重宝する料理と言える。

だがしかし、これほど家庭で作ってうまく行かない料理も珍しく、大体がご飯がペちゃペちゃになって、チャーハンと言うよりは「練りご飯の油漬け」、若しくは「油まぶしご飯」にしかならないのであって、これはチャーハンの素を使ってもうまく行かない。

そこで私はむかし、ある料理の専門家にどうして家で作るチャーハンはうまく行かないかと尋ねた事があったが、彼女曰く、家庭で専門店と同じようなチャーハンを作るのは無理だと言われ、その理由は火力が少ないこと、またご飯を空気で撹拌(混ぜる事)する事が出来ない、つまりはあのご飯を空中に放り投げて油となじませる技が出来ないと、どうしても上手く出来ないと言う話だった。

是非も無しである。

だが諦めの悪い私はそれから暫くして、今度はたまにしか行かなかったが、知り合いの中華料理店のオヤジに同じ事を聞いたことが有り、この時この店のオヤジは、「あんたはどうせたまにしか来ないから、教えても教えなくても、そう売り上げが変わらんだろうから、教えてやる」と言うことで専門家のチャーハンの作り方を教えてくれ、それによると、やはりポイントは「ご飯」だった。

家で作る時はどうしてもこれから炒めるのだからと言うことで、温かいご飯を使ってしまうが、これがそもそもの間違いで、ご飯は冷たいものか一番良いのは冷たいご飯を有る程度ほぐしておいて、それを蓋をしないで冷蔵庫に入れておき、炒める寸前にもう一度バラバラになるようにほぐして使うと、あの綺麗な黄金の輝きになるとのことだった。

また中華らしい味付け、風味と言うことではタマネギを刻んで入れるよりはネギの香ばしさが良いだろうし、油もサラダ油ではなく、豚バラ肉の脂身を使うと、より中華らしさが出るのだとも教えてくれた。

ではオールドパッション秘伝と言うより、自称中華の天才と言うオヤジ直伝のチャーハン作りの始まり、始まり・・・、(何故かとても恥ずかしい・・・)

卵4個、豚バラ肉300g、焼き豚100g、ネギ2本、ザーサイ1袋(味付けがしてないもの)、グリンピース缶詰1個、干しシイタケ4個、それに冷やしたご飯が3合、これが凡そ4人前の材料であり、おそらく1000円かからずに揃ってしまうだろうから、もしかしたら人件費を入れなければ、1人前200円以下で本格派のチャーハンが食べられるかも知れない。

まずフライパンを十分熱する事、これはとても大事な事らしく、少し過ぎるかなと思うほどフライパンを熱し、その間に豚バラ肉の白身の部分、これが脂身なのだが、この部分を削り取って集め、みじん切りにしておく。

またこれより前には干しシイタケを水を付けて戻しておくが、これなども戻っていたら一緒にみじん切りにし、ザーサイもネギも、豚バラ肉の赤身の部分も、みじん切りにしておいて、まず豚バラ肉の白身を刻んだものをフライパンに入れ、これを十分にいきわたらせるようにする。

この時豚バラ肉の脂身の量だが、大体大さじ一杯と言うところで、これがラードやサラダ油の役割をすることになり、約30秒ほどしたらここへネギを刻んだものを一つまみ入れ、そこへ豚肉の赤みを刻んだものを入れて炒めるが、この豚肉を入れる前後で、ネギを一つまみずづ2回入れるのは、豚油の匂い消しの効用があるからだと言う。

またザーサイなども全部入れて炒めるが、この間、火力は常に強火で焦げそうになったらフライパンを持ち上げて調整し、豚肉に火が通る頃、凡そ30秒くらいか、そのくらい炒めたら今度はザーサイなどを入れて炒め、それが終わったら、ここへ1人前ドンブリ一杯ほどの、冷やしてほぐして置いたご飯を入れ、かき混ぜながら2分ほど炒める。

そしてそれが終わったら今度は、ご飯をフライパンの片側に寄せて卵をその反対側に落とすと、これをご飯に良く混ぜながら炒め、最後に塩、小さじ半分を入れてコショウをぱらぱら振り、そこに「味の素」か、それで無ければチャーハンの素を小さじ4分の1ほどを入れてかき混ぜ、約1分ほど炒めると出来上がりである。

更にここからはオプションだが、昭和の雰囲気を楽しむには、最後に入れる科学調味料を「味の素」にして、出来上がったらドンブリの底に焼き豚をマッチ棒の半分くらいに刻んだものと、グリンピースを置いて、そこへチャーハンを入れて金属ヘラで押し込んでいく。

2度ほどドンブリにチャーハンを押し込んだら、その上に皿を乗せて、今度はそれをひっくり返しドンブリを取ると、皿の上に綺麗な丸い形のチャーハンが出来上がり、そこに小さな国旗など飾ると、子供にも楽しい一品の仕上がりだ。

こうして出来上がったチャーハン、してその味は、確かに食堂で出てくるチャーハンのあのサラサラしたご飯の感じと、そして何よりもプロの味がするのである。
さすが自称中華の天才だけのことはある。

中華のコツは炒めすぎないこと、そしてチャーハンの場合、油はサラダ油を使わないこと、豚の脂身はネギで匂いを消せば、ご飯とのマッチングが最高に良いものなのだと言うことである。
また卵は最後の方で入れないと、その風味が壊れてしまうものでもあるらしい。

ちなみに私は来客があって夜7時ギリギリまで時間がかかったときは、こうして作ったチャーハンに味噌汁とサラダを付けて妻の枕元に運び、子供たちにもそれを食べさせたが、忙しくて自分の分を作ることが出来なかった。

そして妻が急に苦しがることや、子供が小さいときは夜中に熱を出す時があった事から、夜は皆が寝付く、12時か1時くらいまでは猫を見張り番にして仕事をしていたが、それが終わって妻や子供が残したチャーハンを集めて、冷たいチャーハンで酒を少しだけ飲むのが好きだった。

猫にも少しだけ分けて、自分も割り箸でチャーハンをつまみに日本酒だったら1合、ウィスキーなら1杯を、ゆっくり飲んでいると、一日が終わった事を実感したものだったし、この方法だと食事と酒を飲むのが一挙に終わる事から、とても合理的だった。

そして「あー、今日もなんとかなった」と言う安堵感があったものだった。

今では子供も大きくなり、長男は他府県で暮らすようになったし、妻の体調が崩れても、長女も手伝ってくれるようになったことから、むかしほどではなくなったが、それでも今でもチャーハンを作って残ると、夜、それを少しずつ箸でつまみ、それで酒を飲むのが好きだ。

だから私にとって至福の料理は、残って冷めてしまったチャーハンなのである。





第二章・暗闇の濃度

1920年1月16日に施行されたアメリカ合衆国の「禁酒法」は、酒と女をセットで考えた敬虔なクリスチャンがそれを提唱して行ったものであり、バーで酒を飲み、そのバーが売春宿も兼ねていたケースが多く、こうした意味から売春を規制し、そうした事の温床となる「酒」もまた悪と看做す傾向が強まって行った結果現れてきたものなのである。

しかし実際にこの法律が運用されると、どうなって行ったかと言うと、酒はその製造の殆どが地下でマフィアの関係者が扱う事になり、また価格も非合法なので、とても高価なものになって行ったが、それまで表にあった酒に関する経済が、全てこうして地下の闇組織の経済となって行ったのであり、ではこれで酒の消費が減ったかと言うと、実はニューヨークでも5万軒近い違法酒場が存在し、体を売る事でしか生活できない女たちからは、禁酒法に対する反対運動まで起こってくる。

またこの禁酒法によって減少した税収は少なくとも5億ドル、そして禁酒法でアル・カポネなどのマフィアが得ていった利益は数百万ドルに達し、マフィアはこの資金を使って更に酒と女で稼いで行ったのであり、この時期に発生した事件や抗争は、その殆どが禁酒法がらみの犯罪だったとも言われているのである。

正しいこと、正義だけを見て社会を考える事が社会を救う事にはならない、むしろそこに光を当てると言う事では、それを規制して無くそうと言う発想よりは、その現実を直視することがより大切な事なのである。
法的に日本にいるはずの無い人が日本にいる、ではこれを入ってこないようにする法を作ると、それでも違法に入ってくる人は更なる闇に押し込まれる。

重大なことは何か、いるはずの無い人がいたら、それを無視するのではなく、法はそうした場合のことを考えておかなければ法とはなり得ないのである。

オランダの社会には売春をしている女性に対する健康診断の受診が、業者に義務付けられているし、アメリカでも16歳以下の女性の妊娠には、専門のカウンセリング機関を設置している。
つまりここでは13歳で妊娠した場合、どうすれば良いかを関係者から意見を聞いて、解決していく仕組みがとられているのである。

確か、やはり1980年代だったと思うが、NHKが日本の「小学生と中学生の異性との付き合い」と言うテーマで、生放送の電話相談を受け付ける番組を企画した事があったが、ここに寄せられた相談の大半が、女子生徒の異性間の性交渉についての相談と、中には小学生女子児童の妊娠の相談までもが数件含まれていて、こうした相談を受けた指導員が、全く対処不能になり、番組途中で相談受付を終了してしまったことがあったが、こうしたありようが日本の現状である。

法的に存在し得ないものは実態として存在しないと思うのは大きな間違いであり、ここで規制を厳しくした場合、本当に困っている者は、完全に地下にもぐるしかその方法を無くしていく。

そしてこうしたことを考えたとき、今私が最も危惧しているのは「貸金業法改正」である。
この改正法案は、健全な者のためには確かに役に立つだろう。
しかしもともと貸し金業者からお金を借りよう、クレジットで何とかしようと言う人が実際は貸金業者から金を借りているのであって、ここではむしろ銀行から融資を受けられる人は初めから少ないのである。

また現在のカード時代を反映して、クレジットカードの流通は膨大なものに及んでいるが、このうち10%近くのカード利用者が、既に破綻寸前になっていると言われている。

つまりカードを持つ人の10人に1人は、次からカードが使えなくなるばかりか、キャッシングが利用できなくなり、更には年収の30%を超えての融資が出来なくなることから、サラ金からも金を借りる事が出来なくなって行くのであり、主婦も改正法以後は夫の収入証明や、世帯主の許可が無ければ金が借りられない事になる為、ここでも苦しい中をやりくりしてきた者ほど、次の融資は受けられず、破綻していくことになる。

消費者保護のためのこの法案は、ある種の「禁酒法」であり、言わば光と闇で言えば、そのグレーゾーンで暮らしている者を、完全に闇に落とす法案であるように私は思う。
日本の企業の90%を占める中小企業の経営は本当に苦しい。

銀行から融資を受けられる企業など中小企業全体の20%にも及ばず、その殆どがノンバンクやサラ金などの融資を組み合わせながら使って、綱渡りの経営をしているのが現状だろう。
そこで経営的に健全な大企業や、一部優良な中小企業をモデルスケールにして、「これが正しい金融だ」とやった場合、その他の頑張れば何とかなるくらいまで来ている中小企業まで、闇の世界へ蹴落とす事になる。

こうした企業経営の健全化法案はどちらかと言えば、景気の良いときにやらねばならない法改正であり、消費税の増税と共に時期を間違えると、未来永劫闇の世界の広がる恐れのあるものであり、尚かつ、これまでサラ金業者がその経済的支配者の地位にあった金融までもが、こうした金融法案改正によって、日本の地下組織の経済となって行く事を危惧しなければならなくなるのである。

銀行もサラ金もカードもだめなら、「ヤミ金融」しかなくなるのであり、この機会をチャンスとする地下組織の闇金融が拡大し、ここにグレーゾーンで暮らしていた人は完全に闇に堕ちるか、それで無ければ破綻するしかなく、少なくとも日本の人口の10%以上は、そのボーダーラインに追い詰められているはずである。

健全な者と言うのはそうではない者の苦しみは分らない。
税金から安定した歳費を貰っている代議士、またやはり税金から他のどんな支出よりも先に給与が貰える公務員が考える法案は、実に健全なものである。

倒産寸前の企業やリストラされた家族の苦しみなどは全く理解する事も無く、困った人たちのための法案を作るが、その根底にあるものは、13歳の女の子は妊娠してはいけないものだから、絶対妊娠はしないものだと思っているのと同じ事であり、してその結果は最も助けなければならない者を闇に突き落とし、無残な最期をむかえさせ、そして「可愛そうに」などと呟くだけである。

人の営みは白か黒、それがはっきりしている者は少ない、多くの人は白と黒のその濃淡の中で暮らしているものである・・・。


第一章・人の隙間に生きた少女

1980年代の事だったと思うが、ある日系ブラジル人2世の夫婦が子供2人を連れて故郷ブラジルから日本へ渡り、そこで自動車部品工場の仕事を見つけ働き始めた。

しかし生活は苦しく、両親は夜遅くまで働いていたため、2人の子供11歳の長男と13歳の長女は、殆ど2人きりの生活となって行ったが、そうした中、この少女には当時19歳になったばかりの大学生のボーイフレンドが出来た。
彼女はこのボーイフレンドのことが好きだったらしく、頻繁にこの男子大学生のアパートに出入りしていた。

だが間もなく、この少女の両親は仕事が無くなったことから、他の府県の別の家電製品工場で働く事になったが、新しく勤務する事になった工場の寮は狭く、長女にはボーイフレンドがいることから、彼女を置いて両親は住所を変更し、この少女はこの日系ブラジル人夫婦の親戚が所有している、古い一軒家で一人暮らしになる。

当時少女は学校へも行かせて貰えず、1日中この家やその周辺で過ごしていたが、そんなおり、14歳になった少女は妊娠する。

そして少女はこのことを男子大学生に知らせるが、この少女には健康保険証も無ければ、ましてやそもそもビザさへ切れているような状態であることから、この男子大学生は「その内何とかする」と言いながら、結局何も出来ず、彼の両親にすらこのことを話していなかった。

少女は両親が送ってくれる僅かな金で買える食料と、男子大学生が持ってくるお菓子などで食いつないでいたが、お腹が大きくなる頃には動くのもままならない状態となって行った。
またこうした状況の中、妊娠して性交渉が出来なくなった事から、男子大学生はそれから後この少女の所へも来なくなった。

それから数ヵ月後、付近住民がこの家から異臭がすると言うので、警官2名がこの家に立ち寄ったところ、居間と台所の間で死亡している少女が発見された。
あたりには畳を手でかきむしった形跡があり、彼女は相当な苦しみの中で死んで行った事が伺えたが、それよりも衝撃的だったことは、彼女の太ももの後ろ側にはへその緒が繋がったままの、男の赤ちゃんが一緒に死亡していたことである。

この少女は自分だけで出産しようとしたのだろうが、体力も無く、それで出産に失敗し、生まれた赤ちゃんもそれと同時に死亡したに違い無かった。
惨い事件と言うだけでは済まされないことだったが、当時私はこの事件を知ったとき、この少女の不安な気持ちを察するに、思わず目頭が熱くなったことを憶えている。

だが一般報道はこの事件の扱いを意外に小さく扱い、またこの男子大学生についても、その後どうなったかの報道はついに為されないままとなった。

この事件を鑑みるに、日本と言う国はどこかで限りない無責任な社会であり、つまり法的に存在していない、または適合していない者の運命には感知しない風潮がある。
この場合も国籍が違うから民生委員は知らん顔、そして責任能力の無い大学生は都合が悪くなったら放置、そして14歳で保険証が無ければ病院で出産する事も出来ず、両親もまた少女を放置していた。

考えて見ればこの少女は「人の隙間」で生きていた事になり、それに対して誰も手を差し伸べることが出来なかったのである。
人間として生まれてきて、これほどに辛く寂しいことが他に有ろうか・・・。

日本の法律はいつでもそうだが、健全な者、正規の暮らしをしている者を基準とした法律しか作らない。
それゆえ非合法な者はそれが存在すらしないことになるのであり、こうした事例はフィリピンから金で買われ、非合法に連れてこられた少女たちが辿った運命もまた同じだった。

自身が非合法であるために性的奴隷となっている状況を申告できなかった。
そして逃亡した結果、組織から追われ殺されていくしかなかった者が、どれだけ存在したことだろう。
にも拘らず日本と言う国は、そうした事は法律上有り得ないことから、いつも無視し、隠蔽とまでは行かなくても、故意に事態を大きくしない方向性を取ってきた経緯がある。

人間の暮らしにはその表面的社会生活と、影の部分が存在する。
言い方が難しければ、建前と本音といっても良いかも知れないが、そんな光りと影が存在し、では人は光の部分だけで暮らせるかと言えばそうは行かない。

人間は日常心の中で、それが行動に出なくても光と影を行き来しながら、かろうじて光に生きているのであり、普通の人でも時には影に落ちるときもあり、また親の都合、第三者の行動によっては、どうしても光の部分では暮らせない者も出てくる。
しかしこうした状況を特殊な例として法律で規制したとき、そこから発生してくるものは、影に落ちた者たちの更なる闇であり、日本の法律はこのことを考えていない。

人間社会には「善」の部分にも濃淡があるが、「悪」の部分にも濃淡があり、この内「悪」の部分を失くそうと規制すれば、その「悪」は濃淡を無くし、結果として深い闇しか残らなくなる。
せっかくもう少し頑張れば何とかなったものが、法律によってまた闇の底へ突き落とされるのである。

だから法律は法律で構わないが、それを運用するときは幅を持たせて運用しないと、グレーゾーンで暮らしている者が、法によって完全な「悪」となって行ってしまうのであり、「悪」を法で縛ったからと言って解決にはならないものなのだが、こうした背景から生まれてくるものは、「闇の力」と言うものである。

つまり善良な精神を持った善良な法は、非合法組織の力を大きくさせてしまう傾向を持つ事を憶えておくと良いだろう。

                          第2章「暗闇の濃度」へ続く

不如無知・Ⅱ

小人の謙虚と大人の謙虚にはおよそ対極的な差がある。

小人の謙虚には裏があり、二面性があるもので、例えば小さな町の商店主なら、店にいるときはまことに平身低頭なのだが、それが商工会の集まりともなれば、「俺こそは・・・」になってしまう者がいる、あの空虚な謙虚さである。

だが大人ともなればそうは行かない、およそ会う者全てに謙虚でなければ、それは大きな仕事をなし得ない。
ゆえに小人ほど傲慢になり、大人ほど謙虚なものなのである。

また貧しきものはそれを隠そうとする。
それゆえ本来は無意味かつ、身分不相応な「人並み」を他人に対して示そうとするが、そんなことをしている時間があったら、しっかりと働き、それを蓄えるのが本当の意味での貧しさの脱却となるのであって、これは心の貧しさ、知識の貧しさも同じである。
いわんや、心貧しきものほどそこに「徳」を見せようとし、知識のない者ほど知っていることを示そうとするものである。

餓鬼とはそうした名の鬼のことではない。
幾ら食べても、眼前に山のように食べ物があっても「まだ足りない」「まだ足りない」と思うその心の浅ましさを指したもので、言わばこれは状態を示しているのである。

だからこの意味に措いては人間世界の全ての場面で「餓鬼」は存在し、それは人から愛されたいも然り、金が欲しい地位が欲しいも然り、人から良く思われたいもまた然りだ。

高価な外国製のスーツに身を包み、黄金の時計をしている者の自信は極めて浅くて脆い。
なぜならこうしなければ信用がなかったり、自信がないのであれば、それは金を持っていると言う状況が、表面上通用する世界だけのものだからであり、決してその人物が敬服されているのではなく、「金」に対して人が服従しているに過ぎないからである。

同様に他人から評価を得ようとして頑張る者の、その評価を何に使うのかが「自己満足」や「自己顕示欲を満たす」である場合は、そこに存在するものは容赦のない「餓鬼の道」となる。

人から褒められたから、反対に批難されたからと言って、それで自分の何が変わるのかと言えば、何も変わらず、これが尊敬された、軽蔑されたからと言って何が変わるものでもない。
人の怒りや、不満と言うものは感情であり、所詮は相手が謝るか、自己主張が通るかで消失してしまうものだ。
だが言葉で人に勝ったとしても、そこから生まれるものは、もしかしたら相手の「恨み」かも知れず、「敵意」かも知れない。

散々時間を使って、自分はすっきりするかも知れないが、そこから生まれるものが、およそ自分の望むものとは逆のものでしかないなら、それは無駄以外のなんでもなく、未来に措ける禍根でしかないとしたら、自分の気がおさまらない事くらいは目を瞑ろう、また人のことを詮索して、そこから更に悩みが増えるなら、知らずにいた方が無駄に苦しまずに済む・・・、これが「不如無知」と言うものである。

そしてこれが決して人間的「徳」ではなく、利益の「得」の為としているところに、この言葉の深さがある。
私も呂蒙正ではないが、了見が狭いゆえ、知って無駄に苦しむのは辛いのではないかと思う・・・。


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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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