2010/06/29
「まだ戦争ではない・Ⅵ」
しかしルーズベルトはこのことを小村には知らせなかった。8月28日、明日29日がロシアとの交渉最終日となる前日、日本政府から決定的な電報が届き、そこには「軍事上、経済上の事情を鑑み、賠償金、領土割譲の2問題放棄するのやむを得ざるに至るも講和を成立せしむることに議決せり」、つまり全面譲歩しても講和を成立させてくれ・・・となっていたのだった。
どこの世界に戦勝国が敗戦国に全面譲歩する事などあろう、これは小村にとって日本がロシアに負けたことを意味していて、結果として日本の全面譲歩で決着がはかられるなら、そこに横たわるものは国際的にも日本が敗戦したと言うことにしかならないのである。
8月28日の夜、小村の寝室からは遅くまで小村のすすり泣く声が聞こえていた。
そして出来れば永遠にこの日になって欲しくなかった8月29日、日露講和交渉最終日、会議開始2時間前、小村が屈辱的なロシアに対する全面譲歩案の文書を用意していたときのことだった。
日本政府から至急電報が届く。
明治38年(1905年)8月26日付け、桂太郎内閣総理大臣からのその電報は日本の運命を変える。
「ロシア皇帝はアメリカ公使の説得により、樺太の南半分を日本に割譲する意向を示した」
実はルーズベルトが既に知っていながら隠していたこの情報は、ロシアのサンクトペテルブルグで、別のルートから情報を得たイギリス公使によって、日本のイギリス公使に伝えられ、そこから日本政府にもたらせたものだった。
つまりイギリスはロシアのインド進出を警戒し、日本との軍事協力関係を強化するために、日本にこの情報を流したのだった。
まさに日英同盟がギリギリのところで生きてきたのだった。
「よし、交渉文書の差し替えだ」
小村は珍しく大きな声で、皆に指示を出す。
そして最終交渉が始まった。
「日本は人道的見地と文明社会安寧のために、樺太南部を日本領とすることを条件に、ロシア帝国に対する賠償金支払い要求を撤回するものとする」
これを聞いていたロシア全権ウィッテ、彼は一瞬光が差したように驚くと、すがすがしくも鋭い眼光で小村を見つめ、日本全権案に対してこう回答する。
「賠償金支払いが撤回された今回の日本全権の提案に対し、我がロシア帝国は日本への南樺太割譲を受諾する」
即ちウィッテは日本案を受け入れ、ここに講和交渉は成立したのだった。
9月5日、こうして日露講和条約は調印され、この瞬間から小村の言葉を借りるなら日本は大国ロシアを戦争で撃破した戦勝国として世界に認められたのである。
それにしても不思議なのはルーズベルトだ、彼はなぜ8月26日にロシアとの交渉に成功しながら、それを日本全権の小村に知らせ無かったのだろう。
もしかしたら一度日露交渉は決裂させて、そこでアメリカ主導で交渉を再開し、ルーズベルトが交渉を成功させたことにしたかったのだろうか、だとしたらアメリカの了見の狭さは伝統的なものと言うことが出来るが、今だにこの件に関してはその真相は謎である。
さてこうして日露講和条約を成功させた小村だが、その頃日本はどうなっていたかと言うと、この交渉に関する報道は一切なされていなかった。
ロシアのああした高慢な態度であり、そうしたことを知った日本の民衆が何をするか分ったものではない、ここは何も知らせずと思っていたのだが、日本にも各国の大使館は存在し、どこからとも無く情報は漏れてしまう。
条約が締結された当日、日本時間ではおそらく8月6日になると思うが、東京には戒厳令がしかれる。
賠償金も取れず、領土も樺太半分しか得られないことを知った民衆は、戦争の影響から生活に困窮しており、こうした不満が戦勝国で有りながら、なぜそんな講和条約を結ばなければならないのかと言う理不尽さに重なり、暴動が発生し、内務大臣官邸、講和条約に肯定的だった国民新聞社や交番などが、民衆によって火をつけられたり、破壊されて行った。
これが後世名高い「日比谷焼き討ち事件」である。
連戦連勝、そして「バルチック艦隊まで撃破したにも拘らず、その弱腰は何だ」、「小村は非国民だ」「小村は斬首刑だ」
民衆の怒りは小村寿太郎の留守宅にまで及び、窓は投げられた石によって割られ、その塀の周りには焚き木が積まれ、それに火がつけられた。
「小村、出て来い」「小村、このバカヤロー」
民衆の怒号の中、彼の妻や子供は身を潜めて震えているしかなかった。
また一説には、小村寿太郎の妻がこの暴動を機に、精神的に不安定になったとされているが、実はこれより以前から彼女の精神は不安定で、その原因は小村の女関係にあったと言われている。
そして帰国した小村寿太郎、彼を約束どおり迎えたのは伊藤博文であり、その脇には桂太郎内閣総理大臣と海軍大臣山本権兵衛の姿もあった。
彼らはまるで小村を守るかのように、前と後ろに小村を挟んで歩いていたと言われている。
それから3年後の明治41年(1908年)、全く偶然だったが、イギリスからの帰路の途中で立ち寄ったロシアの首都サンクトペテルブルグで、小村はあのロシア全権だったウィッテと再会する。
「ポーツマスではお互い全力で会見いたしました、今から思えばあの頃が夢のようです」
小村は握手をしながらウィッテとの再開を喜んだが、ウィッテもまた「あの当時は私を外交上の勝利者とする意見も有りましたが、今になって思えば、真の勝利者はあなたこそふさわしい、私はあなたが恐かった」
そう言って微笑んだ。
小村が亡くなったのはこの3年後、あのポーツマス講和会議から6年後の、明治44年(1911年)のことだった 享年57歳。