第二章「子供の価値観の低下」

そしてここからは日本に措ける少子化の背景だが、20世紀後半に起こったジェンダー差別の廃止、つまり一般社会に措ける男女の機会均等について、確かに日本社会でも特に教育や就業の面では男女の障壁は無くなりつつあると言って良いが、しかし外でこうして男女差別の無い社会に存在しながら、一方で既婚女性が家へ帰れば、依然として不平等性の支配から免れず、家事育児から老人介護まで押し付けられ、到底子供を産んで育てる余裕など無かったのである。

P.McDonald(マクドナルド)はこの家庭の内、外でのジェンダー間平等の非対称性が、日本や韓国の超低出生率の背景だと提言している。

また結婚市場に措ける候補者供給不足について、西欧社会と違って日本に措ける同棲婚、婚外出産も依然その数は少なく、結果として日本に措ける出生率の問題は、現在該当する男女が結婚しているか否かがその決定要因となるが、近年の傾向として、結婚したいと望む男女の意欲はそれ程低下しているわけではないが、現実には結婚を先延ばしにする傾向が強いこと、それに見合い結婚が激減している現状があり、これらの要因が巡り巡って出生率の低下を招いている。

お見合いと言う制度は確かにジェンダーの開放からすると、極めて家制度の影響の強いもので、対立する要件ではあったが、その一方でそれを仲介する人間が互いに結婚候補の身分や素性、または経済力やその背景、人間性に対してある程度の信用保証をし、それを担保する面も持っていた。

即ち結婚するとしても、「外れ」が少なかったのだが、これが経済的発展時期には大方の男性が経済力には問題が無く、そもそも見合いに頼らずとも自由恋愛でも「外れ」が少なくなっていった事から、見合い結婚は衰退した。

しかし現状の経済状況の中では、例えば結構な年齢でも親に経済的依存をする「パラサイト」、「ニート」が存在し、また男性について言えば十分な所得が無く、独立して一家を構えることも出来なければ、それはそのまま結婚市場に措ける結婚予備存在とはなり得ない、つまり初めから結婚市場に措ける価値が無い存在となっているのであり、現在僅かながら見直されてきた「見合い」の制度だが、つまりは見合いにおけるメリットである信用保証と担保が無ければ、これも意味を成さない。

格好だけの、しかも誰も「外れ」に対して責任を取らない見合い制度の復活が、今ひとつ効果が上がらないのはその為である。

更に運良く結婚したとして、合理的選択論として親が子供を持つ時、そのメリットとデメリットをあらかじめ計算しない者は少ないと思われるが、実際に私たちが未来に対する予備知識をどれだけ持ち合わせているかと言うと、それは感覚的なものでしかなく、即ち少し先の未来に対する期待感でしかない。

それゆえ少し先の未来が不透明、かつ不安定な状況では結婚、出産と言う巨大事業は一時控える傾向が出るが、この点では経済も同じ仕組みと言え、危険な時に更なるリスクを背負わない様にしようと思うのは、ごくごく普通の考え方であり自然なものだ。

だから国家が少子化社会を問題視する場合、若者の将来に対する経済的基盤の不安定化を排除する方策、つまりは経済対策がもっとも有効な少子化対策と言えるのである。

そして最後、Gary S Becker(ベッカー)はこうも言っている。

親が子供をもうけるに当たっての合理的選択は子供から得る効用、利得と子供にかかる金銭的もしくは心理的費用との間のバランスによってそれが行動として実現化する。

即ち、所得が上昇すれば子供に十分な健康と高い教育を与え、質を高めることによって、子供の数はむしろ減少する傾向に有ると言っているのだ。

また子供を持つことで女性が貴重な時間を奪われ、自分自身の所得や人生の生きがいを逸失すると言う、「機会に対する費用」を概念するとき、女性にとって自身の自由に対する価値と、子供を産むこととは相反する命題となってきていることを指摘している。

これはどう言うことかと言うと、簡単に言えば金で子供は買えない、金をばら撒いたところで少子化は止まらないと言っているのであり、女性のみならず社会的価値観の中で、子供を聖域としない傾向が現れ始めていると言うことだ。

そしてこれは、昨今の児童虐待や子供の保護責任放棄事件と決して無関係ではないこともまた、付け加えておかねばならないのではないかと思う・・・。







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第一章「第二の人口転換」

国連統計によれば、2006年の段階で世界人口は65億4000万人、2000年度の統計から比べると4億5400万人増となっているが、この人口増加の95%は途上国で占められている。

現在の人口分布は、先進国地域が12億1400万人、途上国地域では53億2600万人で、途上国地域の人口が世界全人口の81%となっており、これが50年後にどう推移するかと言えば、世界人口は90億7600万人、その内途上国地域での人口が78億4000万に上ると予想された。

しかし現実にはその後2006年から現在までの人口増加推移を見てみると、それ程の上昇が無く、むしろ先進国地域だけではなく途上国地域でも人口が増えていない。

世界65カ国、人口にして28億人の地域、全世界の43%の地域で人口の減少が始まっていて、その一方で2005年には、世界人口に占める65歳以上の高齢者人口が4億7600万人だったものが、50年後には16億人にまで増加するのではないかと言う予測が為され、これによって50年後の世界人口動態も、90億人から81億人にまでしか増加しないだろうと言う、下方修正が為された。

また世界的な傾向で起こってきている「人口疲労」、これは平均寿命の下降を指すが、世界的にこれ以上平均寿命の伸長が望めない状況が発生してきている。

これはいわゆる人類としての限界点が「現在」にあることを指していて、これ以後は少しずつ人類の平均寿命が下がってくることを意味しているが、同時にこうした傾向を大局的に見れば、世界経済が少しずつ波を持ちながらも衰退し始めていることを示し、また事実上、紛争地域や戦争地域の拡大が存在していることを現している。

更に各国の「合計特殊出生率」、つまり1人の女性がその生涯を通して平均何人の子供を産むかの比率を見てみると、この比較では東アジア儒教文化圏での出生率はまことに深刻なものとなっている。

国連の統計と同じ2005年では、韓国1・08、台湾1・12、シンガポール1・24、香港0・97と、何れもこの時点での日本の合計特殊出生率1・25すら下回っている。

そして人口が減っていくか増えていくかのボーダーラインを数値化したもの、これを「人口置き換え水準」と言うが、これはつまり1人の男と1人の女が結婚した場合、子供が2人できれば人口の増減はゼロになるが、この子供数の全国平均が2人を下回ると人口が減少していくことを言い、実際には日本に措ける男女の出生比率は僅かに男が多く、そのため正確な数字ではないが、現実には1組の夫婦で2・08人の子供がいないと人口は減少していく。

死亡率の水準によっても変動するこの数値では、平均寿命が上がってきている先進諸国では2・1前後、途上国地域では2・3くらいになっている。

即ち「人口の置き換え水準は」この数値の一定ラインを下回ると、先進国でも途上国でも人口減少が始まるであろうと言う数値であり、これで言えば、日本の「人口置き換え水準」の値は2005年度で2・07となっていて、日本の人口のボーダラインである2・08を既に下回っている。

日本の人口は確実に減少に転じているのだが、その一方で例えば2009年はどうか、実は合計特殊出生率では2005年に1・25だったものが、現在は1・37に上昇しているが、これはこの時期に出産した母親の親世代の人口動態が影響していて、この時代の人口動態が他の年代の人口動態数より異常に高かったことに起因しているためであり、決して出生率が安定して上昇していく傾向を示してはいない。

また理論的になぜ少子化が進行していくかに付いては、Dirk van de Kaa (ヴァン・デ・カー)と Ron Lestaeghe(レスタギ)の説を用いるなら、ここに「第2の人口転換」と言う考え方が発生してくる。

つまりここでは相対手に子供の価値観の低下が起こってきている事実である。

世界は近代化と共に「多く産むが、少ししか育たない時代」を脱却し「少ししか産まずに、確実に育てる時代」へと移り変わってきたが、こうした経緯から出生率が人口置き換え水準を下回り、半永久的に停滞し続ける現象へと発展していく過程が発生した。

カーとレスタギはここであらゆる価値観の中で、崩壊して行った価値観が与える子供価値観について考えを提唱したが、即ち第1の人口転換では、多く産んで数で対抗する考え方から、少なく生んで大事に育てる人口転換が存在し、これは工業の発展による物質的豊かさに支えられたものだった。

それゆえこの時点までは子供は「神様」だったのだが、これが物質的豊かさが飽和状態を迎えた20世紀終盤、「心の豊かさ」に変質してきたところから子供の価値観に対する低下を招いたのである。

つまりこの時代、世界は工業的発展形態から、脱工業的発展形態へと変貌を遂げたのだが、簡単に言えばそれまで物を作り、それを売って利益を得ていた仕組みが、金が金を産んだり、サービスが金になったりと言う形態が一般化してきたと言うことであり、ここでは従来の価値観が総崩れになっていった。

日本でもそれまでの「家」制度が終焉を向かえ、金さへあれば何でも実現できる社会とへと変遷し、そこから成人男女の自己実現が価値観を持つようになった。

晩婚、非婚、同棲、婚外出産、離婚と言う、従来なら正常な家族形成とは看做されない生活形態に対して寛容な社会が生まれ、またそれが価値観としても認められる社会となって行った。

この課程で相対的に個人の自由に対して子供と言う考え方が、軽くなって行ったのは事実であり、西欧社会は過去にこうした事実を歴史的に体験してきたが、これが工業や経済の発展と共に、今後は発展途上地域にも蔓延していくことはもはや避けられず、そのことが人口減少に拍車をかけるだろうことは、誰の目にも明白となってきている。

                                           第二章「子供の価値観の低下」へ続く








旅の終わりに・・・

珍しいこともあるものだな・・・、そう思いながらも、心のどこか小さなところでは何某かのよからぬ胸騒ぎを覚えながら、私は母親の話に頷いた。

世話になっている寺の住職が私に会いたいと言うので、待っていると電話があったとのことだったが、早速寺へ電話して訪問時間を決めた私は、急いで汗だらけのシャツを脱ぎ、洗濯したシャツに袖を通し、いつも外出する時にはいているダークグレーのズボンに着替えた。

家から寺までは車で5分と言うところだろうか、むかしの人は山道を歩いて行ったのだが、それでも1時間も歩けば辿りつくほどのところに寺はあり、長く無沙汰していた私は、少しだけ緊張しながらも「ごめんください」と玄関で声を上げた。

程なく奥から住職自身が顔を出し、私に上がるように言うと先にたって歩き始めたが、住職ももう80歳近くになり、その足はやはり片方引きずる様にして、また近くの柱に時々つかまりながら、かろうじて先を行くと言うべきか、私は住職のその歩く速度を追い越さないように時々足を止めながら後に続いた。

この季節でも囲炉裏に火を絶やさない住職の風情はなかなかのものであり、住職の居間は戸が開け放たれて、涼しい風が流れていたが、古来より密議は戸を開け放って行うのが正しい。

暑い夏に戸を閉め切っているのでは、いかにもよからぬ相談をしていますと周囲に告げているようなものであり、敵から見えると言うことは、こちらからも向こうが見えると言うことでもあるが、それより日本人の礼儀、美意識としても、開け放たれた人の部屋を覗くことは気が引けるものであり、そこに遠慮と言うものが存在し、逆に近寄り難くなるものなのである。

住職は先に部屋へ入ると、上座に座り、その横の座を私に勧めたが、こうした配慮もまたさすがだった。
普通来客には上座を勧めるものだが、住職と言う立場、そして親子以上に年齢の離れた私がそんな席に座れるものではない。
そこで次に格式のある「横座」を勧めたのだが、私はそれも辞退して一番出入り口に近い席に正座すると、幾久しくご無沙汰してしまったことを詫び、髪が畳にすれるまで頭を下げた。

「そんな、堅い挨拶はいいんや」
住職は私を見て少し顔の表情を和らげると、玉露を急須で回し始める。
そして住職が口を開こうとした瞬間、私は住職がなぜ今日ここへ私を呼んだか、また何を話そうとしたのかが分ってしまった。

「実はな、うちの婿がな・・・」
「住職、分りました、みなまで言わんでください」
私は住職が喋りにくそうに口を開くのを止めるしかなかった。

「やはり、だめでしたか・・・」
「ああ、そうなんや・・・」

虫の声が聞こえる、鳥のさえずりも聞こえる、そうしてどれ程2人の間に沈黙が続いただろう。
住職は萩茶碗に玉露を注ぐと、銀の木の葉型の茶托に乗せ、それを私の前に差し出した。
私は軽く会釈をし、そして玉露を喉に流し込んだが、それでも喉の渇きはそんなもので止まるものではなかった。

この寺は代々女系家族で、現在の住職も婿入りして住職になったのだが、やはり子供は女の子しかなく、もう10年以上前にはなろうか、住職の下の娘に婿を取ったのだが、その婿はこうした田舎のいい加減なありようを嫌って、2人の娘をもうけながらも蒸発してしまった。

そしてこの婿殿と仲の良かった私のところへは、1度だけ行方不明になってから電話があり、それを私が住職に報告しに来たことがあった。
しかし、だめだったようだ・・・。

婿殿はどうやら家出してから以降、四国、中国地方を転々としたようだが、ついに命尽きてしまったようだ・・・。
住職の所へ身元確認の要請があったのは、つい最近のことだったらしい。

「ばかもんが・・・」
「なんで、一言相談してくれんかったんだ」

私は涙がこぼれないように天井を仰いだ。
蒸発して半年後、突然私に電話してきて、「もう絶対寺には帰らん」、そう言っていたので、私は困ったことがあったらいつでも言ってくれと言ったはずだ。
それを黙ってこの世からおらんようになるなんぞ、私は何をしておったのか、それ程役に立たん男だと思っておったのか、絶対許さんぞ・・・。

「あんたには本当に世話になってしもうた」
住職は2杯目の玉露茶葉を急須に入れながら、私に頭を下げた。
「お気持ちはお察しします」
「ああ、ええんや、ずっと中途半端なことで考えるよりは、これでほっとしたところもある」
住職は明け放たれた障子から外の景色を眺めながら、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。

いろんなことがまるで昨日のことのように頭を駆け巡った。
好きだった陶芸教室を開くんだと嬉しそうな顔で電気窯を据えつけ、そして私と一番最初に焼いたのは縄文式土器の複製だった。見事な出来栄えで、2人して夜遅くまで焼き物や絵画のことを語り合ったものだった。

だが彼は心が綺麗すぎた。
田舎など何をするにしても正論など通らない。
宗教を語りながら結婚もし、肉や魚を食らい、それで檀家から金を搾り取ることなど、彼にしては自己嫌悪以外の何者でもなかったに違いない。

私はそんな彼が好きだった。

成長するに従って、どことなく彼に似てくる娘達は、私が寺に行くと「おじちゃん、おじちゃん」と言って近づいてくる。
一体どの面を下げて彼女達に顔を会わせる事が出来ようか・・・。
私は帰るとき、彼の娘達と出くわさないことを祈った。
なぜなら、もし彼女達の顔を見たら、涙をこらえる自信がない・・・。

だが、おかしな話だが、私はどこかで彼が死んだのではないか、そうしたことを心の片隅で考えていた。
私は音楽が好きなので、FM放送を聴きながら仕事をしているが、そうした音楽に混じって時々私を呼ぶ声が聞こえる時がある。

それは女性の時もあれば、男性の声の時もあるのだが、階下の玄関で「こんにちは」とか、「○○さーん」とか呼んでる声がして、私は返事をして降りていくのだが、一緒に仕事をしているスタッフの女性が、そんな私を不思議そうに見ていて、そして私が階下へ降りて行くと、そこには誰もいないのである。

実は今年の5月ごろ、異様に夜が恐くて、またいろんな声が聞こえた時期があり、そんな時ふと、この寺の婿殿のことが頭をよぎっていた。
だから何とも言えない感覚ではあるが、母親の寺から電話があったと言う話を聞いた瞬間、もしかしたらそうではないか、そんな胸騒ぎがしていた・・・。

寺から帰宅した頃はもうすっかり日が暮れて、いきなり通り雨がぱらぱら音を立ててアスファルトを濡らしていた。
今夜は彼が好きだった、そして私も好きな「エルビス・コステロ」の「she]を聴いて頂こうか・・・。

そしてこの記事は昨年6月8日に記載した「失踪と言う旅立ち」の「完結」になってしまったことを、そのことを、記しておこうか・・・。

第二章「消えた男」

こうした事情からしまいには皆がウェイドを恐れ、誰も彼と同じ部屋にはいられなくなり、ついに彼はいつも独房へ入れられることになったのだが、それからそう何日もしない内に、今度は看守さへもウェイドの独房には近づかなくなる。

夜中静まりかえったこの監獄の奥の独房からは、毎夜やはり何人かの男女がひそひそ話をする声が聞こえ、それで看守が独房の中を覗くと、そこにはただ1人ウェイドが膝を抱えてずっと床を眺めているのだった。

やがてウェイドの独房には食事を運んだら後は誰も近づかない様になって行ったが、それでも毎日食事が無くなることで看守達はウェイドが生きていることは確認できたし、覗き窓から様子を伺うと、ウェイドは相変わらず虚ろな瞳で床を見つめているのだった。

そしてそんなことが16年続いただろうか、ある日独房に差し入れられた食事に手がつけられていないことに気付いた一人の看守が、不審に思い覗き窓から中を覗くと、何とそこにウェイドの姿が無い。

「これはどうしたことだ」、看守は慌てて仲間の看守を呼び、そして独房の扉を開け中に入ったが、そこにウェイドの姿はどこにも無く、もしかしたらこれは脱獄かと思われたが、あたりを見回してもどこにも脱走した形跡も見られなかった。

鉄格子も切られていなければ、地面を掘った様子も無く、独房は完全なまま静まりかえっていた。
ウェイドは独房から忽然と消えてしまったのである。

ところでまた話はもとに戻るが、若い女性2名が殺されたウェイドの家だが、事件が起こってから9ヵ月後、ウェイドの母親とその再婚相手によってこの家は壊され処分されることになったが、家の暖炉を取り壊している最中、その下のコンクリートの中から若い男の白骨死体が発見された。

そして母親はここで妙な事を言い出す。

どうも背格好からウェイドでは無いかと言い出すのだが、この時点でウェイドはもう収監されていて、またウェイドには更に殺人容疑がかけられたが、この時も彼の完全黙秘によって、事件は被疑者不明のまま未解決事件となってしまう。

更にフォートスミスの刑務所だが、ウェイド脱走の疑いはあるものの、その形跡も無ければ、それ以後ウェイドの姿を見かけたと言う話も無かったことから、ウェイド蒸発の翌年には彼を獄中で病死したものとして処理した。

何とも言いようの無い事件だが、もしかしたら現代の科学捜査でDNA鑑定などが可能なら、もう少し判明する事実もあるのだろうが、今となってはすべては闇の中か・・・。

ウェイドは女性を殺した時、そもそも本人が生きていていたのだろうか、また収監されたウェイドは一体誰だったのだろうか。
そして暖炉下から出てきた白骨死体がウェイドなら、彼は誰に殺されたのだろうか・・・・。

アメリカにはこれに似た話が後2つ残っているが、何れも囚人が獄中から忽然と姿を消し、またその1つには獄中の壁を見続けて過ごす男の話もあり、この場合などは獄中にありながら、男は外の様子をすべて知っていたとも言われている。

またこうした事件の被疑者の殆どが精神的には解離性同一障害、つまり多重人格だったことが言われているが、もしかしたら多重人格には精神的疾患と精神的現象の両方が存在しているものなのかも知れない・・・。








第一章「うつむく男」

1968年10月29日、アーカンソー州フォートスミスにある刑務所に一人の男が収監された。

男の名はジョアン・M・ウェイド、31歳の白人だったが、その罪状は2名の女性に対する婦女暴行及び殺人で、無期懲役の刑が確定していた。

通常こうした犯行に及んだ犯人には死刑が一般的だったが、このウェイドと言う男、実は言葉を喋ることが出来ず、またその素性も余りはっきりしないことから、強い精神病が疑われ、その結果無期懲役に減刑されたのだった。

彼の両親は彼が14歳の時に離婚、彼は母方の両親、つまりウェイドにとっては祖父母の家に預けられるが、この祖父母も彼が22歳の時に事故死し、彼はそれ以降一人暮らしとなり、フォートスミス郊外の家具工場で働き始めるが、彼の仕事ぶりは結構優秀だったようだ。

しかし彼は簡単な挨拶以外誰とも口を利かず、また友人もいなければ当然恋人もいない状態だった。

それゆえ近所の人も彼の姿こそはたまに見かけることはあっても、殆ど話をしたことが無く、どちらかと言うと不気味な男としての印象しかもたれておらず、女性殺人事件で警察当局がウェイドの家を捜索した時も、「やはりな・・・」と言う言葉しか近隣住民の感想は聞かれなかった。

またその事件の異様さはウェイドの家を捜索した警官達にとっても始めての事で、どう理解して良いのか分からない状態でもあり、更にウェイドはどんなに厳しい取調べにも一切口を開かず、大きな瞳で相手を無表情に見つめたままだった。

ウェイドの家の二階には殺された2名の女性、何れも当時24歳、19歳の若い女性だが、彼女たちの死体が発見されたが、彼女達は首と腰、それに足をロープで縛られ、それが天井から寝ているような姿勢で吊り下げられた状態、見ようによっては部屋の空間に横たわっている様にも見える状態で見つかったのである。

そして死因は2人とも一酸化炭素中毒、即ち車の排気ガスを車に引き込んで、その中に女性を監禁し、殺したのではないかと言う検死報告が為され、また2人ともその体内から、恐らくウェイドのものだろうと思われる精液が検出された。

これでウェイドが女性たちを暴行し、そして殺したのだろうと言うことになったのだが、それにしても疑問は残った。

なぜなら彼女達は殺される4日くらい前から、頻繁にウェイドの家を訪問していて、それも2人揃っていつもウェイドの家を尋ねているのであり、また殺されたのも、2人の女性ともほぼ同時刻ではないかと推察されたからである。

だがこの女性2名は決して知り合いでもなければ、互いに住んでいるところも離れていて接点が全くなく、しかも家族から捜索願が出されて、2日後には警察がウェイドの家を捜索しているほど、ウェイドと彼女達の行動には警戒心がないのである。

これについて、警察はついにウェイドからは供述を得られなかったのだが、弁護士がウェイドにYESかNOで応えさせる形でその供述を得たものがあり、その信憑性には大きな疑問が残るものの、ウェイドの話を聞いて見るとこうだ・・・。

「彼女達は死にたがっていた、だから苦しまずに死ねるように殺してやった」
「俺は彼女達を助けてやったんだ」
そして彼女達に対する暴行について・・・。
「2人とも死ぬ前にそれを望んだんだ、だから2人は順番を待って、自分にそれを求めたんだ」

更に弁護士の記述は続く、「どうして彼女達と知り合ったのか」
「それは、夢の中で出会ったんだ、そして俺は彼女達に自分の居場所を教えた・・・」
どうやら弁護士はここでウェイドから話を聞くことを止めているようだが、無理もない。

こんな話、子供でももっと上手い言い訳を考えるだろう、それゆえ結果としてこの弁護士が取った供述は裁判でも取り上げられることはなかった。

さてそして収監されてからのウェイドだが、彼はいつも独房で下を向いたまま過ごしていた。
通常こうした監獄と言うものは数人が同じ部屋に拘置されるのが普通だが、何故かここでもウェイドには特殊な事情が発生していた。

大体ウェイドと同部屋になった者は数日を待たずして夜中に騒ぎはじめる。
それも「助けてくれ、助けてくれ」と夜中じゅう騒いで半狂乱になるのだが、これはどんな屈強そうな男でも同じだった。

ウェイドの近くからは数人の男女が話す声が聞こえ、しかもそれが同時に何人も喋っているのであり、それでウェイドに「黙れ」と言って殴りかかると、その声たちは「そこだ、もっとやれ」と囃し立て、血みどろになったウェイドの顔は、まるで別人の様に変化していったのである。

                           第二章「消えた男」に続く





翳りゆくもの

「尾張の大うつけ」こと織田信長が一番最初に行った事は流通の改革だった。

それまで高い税が課せられていた「市」での商いに付いて、その税金は大幅に緩和され、これによって近郷近在から商品の流通が促進された結果、従来まで下降気味だった「市」の税収は、値下げしたにも拘らず大いに増大し、また商品や技術、人がそこへ集まり、織田領は大いに栄えることになっていった。

また小田原の北条早雲(ほうじょう・そううん)、彼もこの時代にしては近郷近在から比べると安い年貢を設定し、自身の暮らしぶりは質素倹約に努めた結果、やはり小田原は一つの理想郷とまで謳われることになり、人や技術者、そして商品などの流通が促進され、名君の名を欲しいままにする。

良い為政者とは経済に強い者であり、その経済をして軍備を整え力をつけるが、いかに高い理想を掲げようとも、経済に弱い為政者の治世はそこに発展性がなく、また未来に希望を抱けない社会となっていき、やがてその社会は力を失う。

また力のない為政者ほど、苦しい時に税を吊り上げ、そこで解決をはかろうとするが、このことがもたらす結果は必ずと言って良いほど悲惨なものであり、即ち良い為政者ほど苦しい時は税を軽減する方策を持つものである。

更に古来より関所を厳しくすれば流通は制限され、また商品や人の流れも悪くなることから、一般に良い為政者の取る政策と言うものは、関所やあらゆる規制を軽減していく方向のものとも言え、この点からすれば、徳川家康が引いた封建制度の有り様は常に現状維持に重点が置かれ、そこに変化を嫌った風潮が形成されていたことから、極めて生産性の低い、いわば社会主義政策だったとも言えるのである。

そしてこの徳川政権と同じ傾向にあるのが現在の日本であり、自由主義、資本主義を謳いながら、その実あらゆる細部にまで政府、行政の法や規制が入り込んだ社会は、実質の社会主義であり、ここで求められる理想は現状維持でしかなく、あらゆる発展性はその規制の中で費えて行く傾向を持っているが、これは一体どう言うことかと言うと、自身が高みに上がっている状態であり、例えば水があるなら、その水は高いところから低いところへ流れ落ちてしまっていく社会である。

これに対して良い為政者の政策と言うものは、自身が低いところにあって、そこへ高いところから水が流れて、溜まってくるような仕組みを持っているものだ。

また基本的には戦後経済の発展の為に考えられたあらゆる仕組みは、従来であれば経済や流通の大きな手助けとなってきた面があるが、これらに至っても老朽化したものとなってきている現在、そのむかしの「発展の擁護」から、今は「妨害」になってしまっていることを認識しなければならないだろう。

そしてそうした旧来の仕組みで、現在の日本で一番その経済や商工業の発展を阻害してるものが、「商工会議所」と言う組織である。

この組織は事実上1990年頃からその機能が無力化していたが、現在に至っては商工業の発展をもっとも妨害している団体であり、市町村単位の行政からの天下り団体としての面を持ち、この意味から、今後もっとも廃止しなければならない団体となって行くだろう。

またその無能ぶりは目を見張るものがあり、この傾向は全国的なものである。

例えば融資を受けるにしても、本来なら商工会議所で融資斡旋を受ければ、円滑な融資が受けられるはずだったが、その実情は国民金融公庫へ直接申し込んだほうが常に融資の実行が早かった。

つまり商工会議所を通したおかげで、融資の実行が遅れる実態が存在したのであり、これが国からの補助金などを受ける場合は、更に凄いことになっていく。
「審査に時間がかかります」と言う返事が帰ってくるが、そのことを国の機関に問い合わせれば、審査などは全く存在せず、唯報告書の書き方を商工会議所が知らないだけだったと言う事まである。

また脆弱な経済しか持たない地方の商工会議所は、特定の政治家に傾いた行政の干渉を受け、こうした地方の商工会議所は大部分が行政の負担金で予算を組んでいることから、この行政の干渉を跳ね返すことが出来ず、前出の融資でも大変恣意的なものが多く発生している。

ひどい場合には、例えば商工会議所が実施する地元商工業者に対するアンケートで、行政に対する不満や、議会に対する不満が噴出した場合、それを議会が「議会の冒涜だ」と脅して、商工業者達の正直な意見に対し、アンケート結果を撤回するよう圧力を加えたりと言うことまである。

詳細な地域は申し上げられないが、行政に対立的な商工会議所会頭が存在した場合は、行政が補助金を削ったり、遅配したりして圧力を加え、結局本来会員の選挙で選ばれるはずの会頭が、首をすげ替えされる事態も存在しているのであり、現在日本国内にある商工会議所の実質的事務責任者である「専務理事」には大部分が行政、つまり市町村の職員が就任し、また、その指導員の上層部も、殆ど全員が市町村の職員OBが天下りしているのである。

そしてこれらの天下り職員達にはもともと現状維持の能力しかなく、権威主義で若い職員達を縛り、結果として商工業者たちの要請には殆ど応えられていないばかりか、実務に関してはその無知なるがゆえに、業務を妨害していると言えるのであり、本来が現状維持しか念頭にない行政の考える経済発展手段とはまことに儚いものが多く、それを推進するのが商工会議所の仕事となっている場合が多い。

それゆえ、一般商工業者は行政と商工会議所に逆らえず、仕方なく行政の事業に参加させられている現状があり、実のところ大変な迷惑を被っている場合すら存在する。
またこうした商工会議所の役員や理事と言ったものも、地方へ行くと創業者の2世、3世が多く、彼らに具体的な経済に対する考え方があるかと言えば、そこには何もないのである。

さて如何なものだろうか、現状で言うなら商工会議所と言う組織については、もはや手遅れの団体であり、経済的な必要度から言えば弊害が多く、また地方公務員の天下り先にしかなっていない実情を鑑みるに、7分3分で「廃止」した方が、地方経済活性化に繋がるようにも思うのだが、どうだろうか。

如何なる存在もそれが永遠のものはなく、あまたの生き物も物も、それが必要とされる時も有れば、やがてそれが邪魔になってくるときもある。

破壊は創造より常に易しい・・・と言われるが、人の世、社会と言うものは、常に破壊は創造より難しいかも知れない・・・。




ベルゼブブの憔悴

生物の在り様、その性質を漠然としたもので捉えるとしたら、そこに見えるものは水の性質と言うことが出来るかも知れない。

例えば川が氾濫する時、更に土石流などが発生する時は、川の水は通常より少なくなり、それがやがて限界点を超えると一挙に川を大氾濫させ、下流域のあらゆるものを押し流してしまう。

また津波も同じで、津波が発生する少し前は一旦海水が大きく引いてしまい、いつもなら海の底であるはずの所までも海水が無くなってしまうが、海水の引きが最大限に達すると、今度は一挙に元の水位の何倍、何十倍の高さに達した海水が押し寄せてくるのである。

一般に生物が特に理由も無く減少した場合、次に考えられることは滅亡か、大繁殖かのどちらかであり、この場合個体として生存能力の低いものは滅亡の可能性があり、もともと生存能力に長けたものが起こすのは大繁殖である。

また生物にはその種族保存のためのシステムとして、一定の法則を持った繁殖能力が備わっているが、このシステムは「少ない数を大切にする」概念と、「数で対抗する」概念が存在し、基本的にはその体の面積の小さいもの、成体としての寿命の短いものほど「数で対抗する」概念を持ち、寿命の長いもの、大きな生物ほど「少ない数を大切にする」概念となっている。

そしてこれも一般的にではあるが、生物の生存している事をしてのみ優劣を語るなら、「少ない数を大切にする」概念は、「数で対抗する」概念より常に劣る。

また劣勢な環境で「数で対抗する」概念の生物が存在する場合、その幼生、または幼虫は基本的にその成体、成虫よりも高い生存能力を有し、この意味では生物的に強大な力を持つのが「ハエ」である。

ハエの幼虫は、例えばハエの成虫が殺虫剤などで死ぬことがあったとしても、同じ殺虫剤では死なない。

これは同じ幼虫が成虫になっていくことを考えるなら、「数で対抗する」概念と、幼虫と成虫ではダメージ根拠が分散さていることを示していて、あらゆる可能性の中でもっとも生存能力の高い選択がなされていると考えるべきで、この卵ともなると、更に高い生存能力がある。

この特性は似たような仕組みでは「蛾」も同じような仕組みを持っているが、しかしその一回に成虫のメスが産卵する卵の数や、その後の生存環境を比較するなら、ハエと蛾ではその生存能力の高さに措いて、ハエの方が比較にならないほど大きな力を持っている。

だからハエはかなり劣悪な環境の中でも生存が可能で、それは「少ない数を大切にする」概念の生物が死滅していく環境程、彼らにとっては良い環境が提供されていると言うことになるかも知れない。

だがこの近年、地球には少し従来の概念では説明のつかないことが多く起こっているようだ。
今年に入って、これは6月10日から7月9日までの観測記録だが、日本海側中心に4つの観測地点で、「ハエ」の発生が極端に少なくなっていることが報告されている。

まだ全体としての傾向が統計として集計できている訳ではないが、富山県の一部、石川県、島根県、山口県の何れも今のところ一部地域だが「どうもハエの姿が少ない」、そうした報告がなされている。

基本的に地球に存在する「ハエ」の個体数の総量を知ることは困難だが、例年と同じ環境状態にあって、そこで見かけ上の個体数が減少することは、実際には相当の個体数減少となっているはずである。

何れの報告も「例年だと窓を開けているとうるさいほどにハエが入ってくるのに、今年はハエが入ってこない、また入って来たとしても数が大変少ない」と言うものだが、これは地域的なものか、それとも全体的なものなのかの判断が出来ない。

それでためしに私も窓を開けて見たのだが、確かにハエが入ってこない。
これは一体どうしたことだろう、人間としてはうるさいハエがいなくなることは良いことだが、そうした問題と何もしなくてハエがいなくなることは別の問題だ。

気に食わない存在だからいなくなれば良い、生物と言うものを考える時、こうした考え方は決して褒められたものではなく、例え敵対していても、その一方が理由もなく消滅していく時は、こちらにもまた消滅の憂き目が存在し、その意味では敵対する生物であっても「同士」であることに変わりはない。

ハエの生存能力は人間より遥かに高い。

生存に関する総合評価でも、およそ人間が生存できる環境の、4倍以上の適合能力を持つハエの繁殖を抑制出来るものは「気温」であり、それも幼虫であれば凍結しないことを条件に氷点下6度まででも生存でき、高温に関しては47度近くまで生存が可能な上に、移動ができることから避難も可能な大変優秀な生物なのである。

またこうしたハエがそのエネルギー源を失う、つまり分解すべきたんぱく質がなくなると言う場合には、地上の生物は既に存在していないことになるだろうが、現実には人類も動物界も絶滅などしていない。

だとしたらハエの減少は何を意味しているのだろうか。

人間より生存範囲の広い生物の減少、もともと大量の個体数を擁する生物は、何らかの原因でその個体数が減少すると、あらゆる機会で生存能力が限界まで高まり、その結果、次の機会には大量発生する可能性があり、またハエのように生存能力の高い生物が減少していくとするなら、そこには他の生物に取って壊滅的な危機が訪れている可能性が高くなる。

古来よりハエは人間に嫌われながら、しかし人間はその生存能力を高く評価してきた生物である。

聖書にも出てくる「ベルゼブブ」、これは「ハエの王」だが、その悪の力に措いてはサタンをも凌ぐとされる悪魔界のプリンスであり、彼の出自を辿るならオリエントで「バアル・ゼブル」、つまり「気高き主」の名を持つ豊穣の神だった。

ユダヤ教によって蔑まれた「バアル・ゼブル」、しかしそうして蔑まれたとしても、神に対抗する第2の実力者とせざるを得ないその考え方の中には、ハエに対する嫌悪と同時に大いなる恐れもどこかで感じさせるものなのである。

まだ部分的な偶然か、単に気候的な要因で発生が遅れているのかは分らない。
がしかし、もし日本全体でハエが減ってきているなら、これは喜んでいられるほど簡単な話ではない。

何の理由もなくサタンをも凌ぐと言われるものが滅んで行った時は、神もまた何の理由もなく滅んで行く可能性があると言うことなのだ・・・。

ちなみにあなたの住んでいるところでは、ハエは減っていないだろうか・・・・。











「星が山へ帰る」

さてこの日差しは梅雨の僅かな隙間か、それとも確かな夏の訪れか、いかようにも見える青空の下を、かなりの年配と見受けられる婦人が巾着袋と一緒に花束を持って坂道を行く姿があり、そうした婦人の後姿に幾ばくかの申し訳ない気持ちを感じながら、私の車は坂道を駆け上がる。

金沢、卯辰山(うたつやま)丘陵、そのうっそうとした緑の中ほどに「専光寺」(せんこうじ)の墓地が広がっているが、この斜め向かいには金沢が誇る工芸の府「卯辰山工房」があり、また少し上には自然公園が広がっている。

そして金沢のお盆は「新盆」であることから、私は毎年この時期になると、この卯辰山の頂上まで続く坂道を訪れる。

「今年も来たか・・・」、その道は、車どうしがかろうじて通り交わすことが出来る程しか幅のない狭い道で、しかも曲がりくねった上に急な坂道なのだが、毎年こうして新盆の時期にここを訪れると、まるで私が生きていたことを喜んでくれるかのように、穏やかにそして静かに迎えてくれる。

専光寺の墓地は卯辰山の中ほどを少し過ぎたところに存在してるが、そこまで辿り着くと、この新盆の時期は多くの人たちが墓参りに訪れ、大変な賑わいになっているが、その賑わいも無節操なものではなく、何がしかの秩序や、穏やかな気持ちに満たされたもののようで、多くの人の会話すらそこに静寂を感じさせるものだ。

ここを訪れるようになってもう何年になろうか、少なくとも20年近くは経っていそうだが、むかしは子供や妻も一緒で、蒸し暑さから子供が泣き出し、本当に困ったものだった。
だがその子供も一人は家を出て一人暮らしを初め、下の娘も高校生となった今、もはや親と一緒に墓参りなどに同行するはずもなく、また妻はこの暑さで体調を崩し、結局今年は自分一人だけの墓参りになってしまったが、おかしなものだ、これはこれでどこかに充足感がある。

この墓地には妻の両親が眠っているのだが、父親を亡くし、母と2人暮らしだった妻は私と知り合い、ある日突然私の家に鞄2つの荷物だけで押しかけてきた。
恐らく父親の影響なのだろう、その激しさに私は戸惑ったが、それでも彼女のその気持ちが嬉しくて、私たちは一緒に暮らし始めた。

そして金がなくて結婚式も挙げられないうちに長男が生まれたが、それと同時に妻の母親は体調を崩し、そこから自信を失い自殺を繰り返すようになってしまった。
毎月2回から3回、金沢の警察や病院から電話がかかってきて、その度に私と妻は金沢まで車を走らせたものだった。

そして妻の母は胃癌である事が分り、これでは一人暮らしはさせられないと思った私たち夫婦は、妻の母と同居することにし、私の実家を出てアパートを借り、そこで暮らし始めたが、妻の母はそれから1年、病院への入退院を繰り返した末亡くなった。

「もう話せるのはこれが最後です」と告げる医師の言葉に、私は妻の母の手を取り「済みませんでした」と詫びたものだった。
私がいなければ、自分さへいなければ妻は母を捨てて男のもとへ走る事はなかっただろうに、そしたらもしかしたら妻の母も病気にならずに済んだかも知れなかった。
私が妻の母を殺したのかも知れない、そう思っていた。

だが妻の母は私を見てかすかな笑みを浮かべ、そして少しだけ頷いて死んで行った・・・。

生きると言うことは残酷なものであり、また醜く、恥ずかしいものだ。
人はそうした中にあっても生きていかねばならず、いかように大きな思いであろうと、それは「死」を以って全てが水泡に帰する。
明日はこうしよう、10年後にはこうなろう、それを信じて疑わない人の思いなど虚しいものだ。
明日目が醒めなければそれで全てが終わる。

ゆえに私はいつもこの瞬間が全てだ、この瞬間を何とかしない者には、そもそも未来など有りようが無い、そう思って生きてきた。

「若かったな・・・」、そう思う。
妻が心臓の不調を訴え始めたのは、妻の母が亡くなって11年後のことだった。
2度の手術を受けたが、それでも完治することも無く、現在に至っても月に10日は寝込んでしまい、それがいつ来るかはわからない。

初めはこうした状態に私は未来を悲観したが、でも今はもう慣れた。
相変わらず眼前に繰り広げられる事実に感情すら持つ余裕も無く、そこに向かっていかねばならない事は変わらないが、どこかで漠然としたものではあるが、感謝できるようになった。

「すみません、今年はあれ(妻)の体調が悪く2人一緒には来れませんでした」
墓石に水を流し、花束を手向け、そして蝋燭を灯して線香を焚いた私は、呟きながら妻の両親が眠る墓前に手を合わせた。

程なくこの丘陵から眼下を眺めると、そこには数え切れないほどの大小の墓が並び広がって、そこにはみな花が手向けられ、多くの人々がそこを行きかっていた。
あー・・・、何と人の営みの愚かで偉大なものよ。

明日をも知れぬ我が身でありながら、死後のことまで案じ、また死した後永遠に会うことすら叶わない者に感謝し、それがこうして形を成している。
これほど愚かしくも嬉しく、有り難い「形」が他にあろうか・・・。

これから後、何十年、こうしてこの坂道は私を迎えてくれるだろうか、20年か、30年か、40年は無理だろう、もしかしたら来年はもう来れなくなっているかも知れない。
でもそれでも良い、私はきっと感謝する、そうだ、そうに違いない。

そもそも出発したのが午後だったこともあり、金沢から家へ帰り着いたのが夕方になってしまった私は、少し遅くなったが、妻と子供に食事を作り、そして自分も素麺を食べたが、昼間の蒸し暑さからか一向に体温が下がらず、仕方ないので缶コーヒーを持って外に出た。

家の縁石に腰をおろし、缶の蓋を開けると中のコーヒーを少しだけ飲んで脇に置き、そして空を眺めた。
少し雲はあったが、綺麗な星が沢山見えて、それらはまるで手を伸ばせば届くのではないか、そう思える程だった。
山陰から少しだけ顔を出してきた星は、私が一番好きな星だった。
小さいがその光はとても鋭く、私が小さい頃から自分の星だと決めていた星だ。

だがこの星は天頂付近まで行かない間に、朝を待たずして山へ帰っていく星でもある。
そしてこんなことが私が生まれる遥か以前から存在していて、恐らく私がいなくなっても存在し続けるのだろう。
生きていると言うことは嬉しいことだな、素晴らしいな・・・、そう思う。

どうやら昼間の晴天は梅雨の合間ではなく、夏の訪れだったようだ・・・。

第二章・「切り株ウサギ」

IMF(国際通貨基金)が、日本の消費税を15%に引き上げてはどうかと言う提言をしているが、これに拍手喝采を送っているのが日本の財務省である。

だがIMFには日本も多額の資金を拠出し、少なくともヨーロッパより優秀な経済を維持している日本の現状を鑑みるに、また先の参議院選挙では消費税問題が一つの政治的争点となったことを振り返るに、この行為は明確な内政干渉であり、本来政府はこうした提言に対して、抗議しなければならない立場のはずである。

にも関らず財務官僚と同調して、IMFが消費税15%を発言してくれた事を歓迎し、これで消費税を10%にすることが容易になったと思っていたら大間違いである。

日本はIMF発言によって、諸外国から実体経済より悪い評価を受けかねない「損害」を被ったのであり、このことは主権国家として到底容認してはならないことなのであり、少なくとも各省庁の責任分担の詳細がもう少し明確なっていれば、経済産業省、外務省から政府に対してIMF抗議の進言が為されなければならないことだ。

だがこうした事態にも拘らず、政府も官僚機構も、ぬるま湯に浸かったように同調している様は、まさしく官僚政治そのもであり、結局政府が始めた官僚政治からの脱却の施策は、不用意な対立を起し、その反動から更なる官僚機構の充実が図られただけである。

またこうした経緯からマスコミを考えると、もはや末期の様相とも言える状態であり、日本のマスコミでIMFに対して抗議をしたものが一社だって存在しただろうか。
唯事実を見ているだけなら猿にだって出来るが、そこから情報を分析し、その事実のもたらす意味を世に知らしめるのがマスコミの仕事のはずである。

ここでももしかしたら「大部屋執務」の弊害が出ているのではないか・・・。

更に消費税増税に関して、まるで国民がそれを無条件で容認しているかの如くの報道は、マスコミが政府、国家権力、官僚の犬になったと称されても文句は言えまい。
いや人間に対して忠実な犬に対しても失礼だったか、率先して権力のプロパガンダの露払いを買って出ているマスコミ、したり顔の評論家には、もはや天下国家を論ずる資格はない。

これは新聞紙面の構成の仕方だが、もともと新聞の記事は、長い文章がそれぞれの小さなブロックを積み上げる様にして書かれている。

だから新聞紙面はどちらかと言うと足し算ではなく、引き算で紙面文章が構成され、初めの文章から2、3行の小さなブロック文章を削って調節され、接続詞もできるだけ使わない様になっているくらいなので、意味の同じ単語の重複などは絶対ご法度の世界でも有るが、この延長線上には「タイトル」の問題もある。

即ち限られた紙面に記事を押し込まなければならないことから、タイトルについても文書の簡素化傾向は当然の如く適応される。

だが一方で余りに簡素化を進めると、そこでは本来の意味が失われる傾向が発生し、従来だとこのことのチェックはまことに厳しいものだったが、現在の新聞紙面、マスコミの文書簡素化の傾向は、その事実よりもタイトルの「インパクト」だけに重点が置かれる様になってしまっている。

そこで発生してくるのがこの消費税増税報道の有り様であり、「国民が消費税を増税することを容認している」と言う報道には、絶対条件が付いていたにも拘らず、この条件を削除したものが報道されて行った。

つまり日本の国民は財政再建が必要なことは皆が承知している。
しかもこの財政再建には消費税の増税は避けられないことも理解しているだろう。

だがこの消費税増税は、政府や公務員、それに付帯する関係団体の歳出削減や、議員定数の削減、公務員の人員削減かその報酬の削減と言った、行政改革が前提条件になっていたはずである。

にも拘らず報道は、この大切な前提条件を削除して報道して行ったし、また評論家も同じ様に前提条件の話はしない傾向にあった。
これが故意か単なる過失か分らない。

しかし現実として「消費税増税論」はマスコミ報道によって一人歩きして行き、その結果が民主党菅直人総理の増税論騒動だった訳である。

つまりマスコミによって、あたかも無条件で消費税増税が国民のコンセンサスを得られているかのような報道が為されたため、これは良い、今のうちに消費税増税を掲げておけば、次回衆議院選挙では楽になると判断した菅直人総理の読みがあったのだが、この辺が中途半端に賢い菅直人総理の愚かさだった。

実は前提条件が削除されていたことが分ったのは、今回の参議院選挙で敗北を喫してからのことになったのである。

そして今回のIMFの暴言であり、ここでは、もしかしたら自分たちが痛まずに財政再建をするには消費税の増税しかない、そう考えた官僚達が、それとなく影で暗躍していたのではないかと言う憶測まで働いてくるのである。

良く憶えておくと良い、官僚の核心は「職務と権限の配分」であり、決して日本国の為ではない。

それゆえこうした組織に反省や改心を求めるのではなく、「職務と権限の配分」が全てなら、これを逆手に取って上手く使っていくのが政府の手腕と言うものであり、こうした意味から言えば、同じような組織になりかかっているマスコミを使いこなすのが、国民、大衆の手腕の見せ所と言うことかも知れない。

何れにしてもIMF風情から内政干渉をされて黙っているようでは、諸外国にとって今の日本は、切り株に自分でぶつかって、農夫の眼前で死んでしまうウサギにも等しい様相に見えることだろう・・・。



第一章・「大部屋執務」

日本国憲法は国家公務員の規定について、「全ての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めている。

つまりは戦前の様に天皇の官吏ではなく、国民の公僕としているのだが、英語表記版日本国憲法ではどう訳されているかと言うと、「public-official」となっていて、「civil-servant」シビル・サーバント、即ち「市民僕」とはなっていない。

簡単に言うと日本国憲法は、日本国内向けには国家公務員を「公僕」としているのだが、外国にはパブリック・オフィシャル、「公共の立会人」としているのであり、これは実情を鑑みるに、英語表記日本国憲法の表現の方が正確だと言える。

簡単に言えば、日本に措ける国家公務員は、市民大衆に仕えていると言う観念で始まっているものではなく、基本的に任命権を持つ各府省庁大臣に仕えていると言うのが正しい。

従って市民の為に働いているのではなく、どちらかと言うと、市民を裁くとまで行かなくても、それに秩序を与える手助けをしていると言う概念に近いものなのであり、こうした考え方は国家公務員各自のありようとしても、実情となっている。

それゆえ国家公務員の職務に対する責任感とは、現状維持が全てであり、そこに市民のための正義と言う概念は初めから存在しておらず、それがある者は国家公務員の職務を、おそらく長く継続することはできない。

また公務員の職務とは行政組織を構成する職員が分担する仕事を指していて、これを公務と言うが、権限とはこの公務を遂行するために与えられている職権を言い、この職権に基づく行動を職務権限と言う。

そしてこの職務権限は行政組織の上層部に行くほど大きくなるが、それに比して職務権限の内容は抽象的、漠然としたものになっていく。

例えばこれは局長の職務、また権限だが、「当該局の事務全般を統括、管理する」になっているし、これが事務次官になると「大臣を補佐し省務を整理し、当該各部局等の事務を監督する」となっていて、実情としてこうした局長や事務次官の仕事は何かと言うと、つまりは何もしていないのである。

日本に措ける行政組織の核心は、職務(所掌事務)と権限(責任)の配分が全てであり、組織全体の仕事を個々の職員が分担できるまで分割し、その職務遂行に必要な権限と責任を明確にして、個々に割り当てて仕事をする仕組みであれば、これは欧米の行政組織のように、職場の有り様は個室職務形式なるだろう。

しかし日本の行政組織は「大部屋執務」と言って、ここでは個々の職位による権限や職務内容に詳細な範囲が定められていない。

即ちこの方式では、仕事が「係」や「課」と言った組織の基準単位の集団的責任として処理されることになる。

だから例えば「課」なら、課長以下、末端職員まで同室に存在し、全員で一致協力して概括列挙された所属組織の分掌事務を遂行しているのだが、日本の中央省庁でも次官、局長、審議官、官房長などは個室が与えられてはいるものの、この場合の個室はその地位を象徴するものであって、即ちこうした個室での実務は存在してないのである。

そしてこうした「大部屋執務」の利点だが、まず一箇所で仕事をすることから、全員が協力して仕事が出来ること、仕事ぶりや各自の能力を縦横に評価できる事などが上げられるが、その反面、集団に属して仕事を行うため、所属部署の一員として他の職員との協力的な人間関係の形成や、その維持が重点的になり、本来の職業遂行能力は評価されない落とし穴が存在し、またその所属部署の仕事が、一体何人で遂行すれば最適なのかの組織適正人数が曖昧になり、即ちより余裕のある仕事環境を求めるなら、それは必要以上の職員数の確保となることから、著しく効率を損なった職員数の組織となり易い弊害も発生する。

それゆえ、こうした「大部屋執務」と言う形態は非常に非効率なものなのだが、これは一つに政府組織のあり方とも関係していて、アメリカの様に「小さな政府」の場合はより責任を明確にしないと、そもそも職務遂行が困難になることから、責任を明確にしていかざるを得ないが、日本の様に「大きな政府」のケースでは、初めから責任の所在が複合化し、煩雑になっているために責任の分割が困難になっている。

また日本に措ける公務の概念として、冒頭にも述べたように、そこには西洋に見られるような民主主義を基盤とした、「市民の為」と言う意識は存在せず、どこかで上が下の者を管理すると言うニュアンスが拭い去れないが、これは1400年に渡る「官僚機構の歴史的弊害」と言うべきものだろう。

その上で、さて昨今ひと頃より騒がれることもなくなった「官僚政治からの脱却」だが、これがなぜ困難なのかはご理解頂けただろうか。

日本に措ける行政機構の核心とは、職務と権限の配分が全てである・・・。
つまり官僚機構とはその「人事権」が全てなのであって、官僚にとって実務に優先すべきものが「人事権」と言うことになる。

だから官僚政治からの脱却を目指して、まず各省庁の人事権を官僚から剥奪すると、確かに官僚政治は理論上消滅するが、それは即ち官僚機構、官僚と言う有り方そのものもまた完全否定していくことになり、ここでは政治が、国民が、と言う議論にはならず、官僚対改革勢力と言う図式しか成立して来ない。

任期の短い、何も実務が分らない各省庁大臣が官僚から人事権を奪うと、全ての業務が停滞し、結局官僚政治の改革が骨抜きに為らざるを得なくなるのは、このためである。

また歴史的な背景を持つ、官僚の絶対的価値観である「職務と権限の配分」に対する考え方を、いきなり短時間で改革しようとするのは、「海に石を投げるにも等しく」、今日、日本の現状を鑑みるに、こうした官僚達の意識改革を試みるには万事に措いて手遅れである。

それゆえ官僚政治の脱却を現実として考えるなら、ここでは人事権については妥協することをして、少なくとも「大部屋執務」を廃止し、責任を各職員が明確に把握できる環境を作ることが、より効果的なのではないだろうか。

即ち執務形態を「大部屋」から「個室フロアー」形式に改めることでも、官僚機構の改革は可能なのではないか、またその方が事実上、大きな官僚政治からの脱却に繋がると考えられるのだが、どうだろうか。


                         第二章「切り株ウサギ」へ続く




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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