「勝つと言うこと」

AD(紀元後)200年、今から1800年ほど前の中国では「魏」(ぎ)蜀(しょく)「呉」(ご)と言う3つの国が互いに智謀策略を尽くし、覇を競っていた時代があり、この時代の三国の興亡を記したものが「三国志」であり、日本人にも大変人気が高いが、我々が知る「三国志」は正確には「三国志演義」と言われるもので、これは小説や戯曲の意味を持っていて、すなわち我々の知る「三国志」は正史では無い。

このうち蜀の国の丞相(じょうしょう)、つまりこの時代各国の支配者は「皇帝」を名乗っていたから、丞相とはその皇帝から政治の一切を委任されている者を言い、今で言えば天皇に対する内閣総理大臣と言うべき立場の者を指すが、「諸葛孔明」(しょかつ・こうめい)と言う人物がいた。

彼は若くして1000年に1度現れるか否かと謳われる程の大天才、智謀に長けた人物で、蜀国の皇帝「劉備玄徳」(りゅうび・げんとく)を助け、何一つ無いところから蜀と言う国を建国し、中原の地に覇から平和をもたらそうと戦い抜いた人物である。

諸葛孔明はこの三国の中でも最強だった「魏」を攻めるべく、「呉」と一時不戦協定を結び、そしてかねてより叛乱を繰り返していた南方民族を平定してから、後顧の憂いなきようにして「魏」を攻めようとしていたが、そんな中その叛乱軍の首領「猛獲」(もうかく)が捕えられ、孔明の所に連行されてきた。

太縄で縛られた「猛獲」、もはや絶体絶命の窮地だった。
しかし諸葛孔明はこの有り様を見て、即座に猛獲の縄を解くように指示すると、意外にも猛獲の手を取り、そして自軍の備えや装備をあちこち見せたかと思うと、「猛獲殿、如何かな、わが方の陣立ては・・・」と、猛獲に訊ねる。

「ふん、こんなもの簡単に破ってやれるさ」
穏やかに語る孔明に猛獲はそう吐き捨てる。
「そうですか・・・」
孔明は羽扇で自身を緩やかに扇ぎながら微笑むと、次の瞬間近くにいた兵士を呼び止めるとこう言う。
「猛獲殿を門の外までお送りしてくれ」
「はっ、かしこまりました」

兵士の先導で歩き出す猛獲、少し怪訝そうにしながらも門の外で用意されていた馬に乗ると、疾風の如くに蜀の陣地を立ち去った。

そしてそれから暫くして再度叛乱軍を攻めた孔明はまた「猛獲」を捕え、即座に解放し、また攻めては解放すると言った具合で、これが7回繰り返されたが、8度目も捕えられた「猛獲」は、やはり帰ってよろしいと言う孔明の前に両手をついた。
「参りました。丞相閣下のご威光は天の御心にも比すべきもの、私どもは二度と再び丞相閣下に叛くことは致しません」

こうして南方民族の叛乱を平定した諸葛孔明は駐留軍も残さずに帰還し、その地の自治を尊重した結果、猛獲等叛乱軍は蜀に臣従することとなり、「呉」との協定も整っていた孔明は、「魏」との合戦に向かうのである。

敵に勝つと言うことは実は大変難しいものであり、我々のような凡人であれば、通常言葉や暴力で相手が意見を言えないようにやり込めることをして勝ったと認識してしまいがちだが、これは大きな誤りであり、相手はただ意見がいえない状況にあると言うだけで、負けてもいなければ、万一こちらが他の要因で不利な状況陥ったなら、即座に恨みを込めて反撃される大変危険なことと言えるのである。

それゆえ勝利すると言う場合は、反論する者を一人残らず皆殺しにするしか方法は無いのだが、この理論で行けば殺された者の関係者はどこかでは恨みを抱き、結局それを殺していけばまた恨みが広がり、殺戮と恨みの連鎖の中で人間が1人もいなくなるまで殺し続ける覚悟が無いと、殺戮による勝利と言うものは有り得ないし、相手は言葉や単なる暴力で抱く以上の恨みを持つだろうことは明白、自身の状況が悪くなれば、今度は自分が血祭りに上がることも覚悟しておかなければならない。

しかし「勝つ」と言うことの目的を考えるなら、ここに「承認」と言うものの存在を考える必要がある。

つまりは「これをしてください」と頼んだが、相手はそれに対して「嫌だ」と言ってきた場合、ここで言う勝利とは相手が「分かりました」と言うようにすれば良いだけの事であり、従って目的の絞られたものほど勝利の方法は簡単になり、この反対で目的の漠然としたものは勝利することが難しくなる。

またこうした場合、単に「分かりました」と言わせるだけなら暴力で脅すのが一番手っ取り早いが、これは暫定的なものでしかなく、尚且つ恨みから後のリスクが高くなってしまう。
その反対に諸葛孔明のように、相手が自ら進んで「承認」するように仕向ける場合は、暴力で脅す方法に比べれば遥かに手間も金もかかることになるが、ここには後に倍増するようなリスクが無い。

どちらを選択するかはその状況や相手にもよるが、勝つと言うことが相手の「承認」に有る以上、その完全な勝利とは諸葛孔明の採った、相手の「心を征する」以外に道は無く、しかもこうした方法であったとしても殺戮と恨みの連鎖同様、目的に対する方法であり、どちらもその理念は存在し得るとしても、これを人間が完全に実行するのは大変な困難が付きまとうものである。

同じことは多数決でも言え、多数決も基本的には意見のぶつかり合いで、そのうちの1つを賛同者の数によって決めようと言う一つのルール、いわゆる限定された秩序の中の戦争とも言えるものだが、問題の重要性に応じて過半数、または3分の2の賛同者があれば、その組織全体の意思決定となるこの制度は、集団の意思決定が全員一致に至らなかった場合、少数者もまた多数者の意思を全体の意思として「同意」、若しくは「承認」することが絶対的に必要になる。

多数決によって一つの意思が決定されたとしても、その結果少数意見だった者達がその集団から離脱したり、また追放、排除されたなら、その決定に関しては確かに全会一致と言う事になっても、これでは多数意見の専制でしかない。

どんなに少数の意見であっても、それぞれの意見は等しく同等の意義を持っていることを原則として、少数意見者にできる限り発言の機会を与え、少数意見が結果として否定されたとしても意思決定の内部にはその論点や観点が反映されることによって、多数決は初めて意義のあるものとなり、万一多数意見が実際には誤りであってあったとしても、協力して迅速な対応が可能になっていくのである。

それゆえ多数決と言うものは、一般的には多数者の原理に捉えられがちだが、多数決の原理とは結局、少数意見者から如何なる方法で「承認」を得るかと言う、少数意見尊重の原理なのである。
この点を間違って認識していると、その多数決は集団の分裂を生み、また暴力となり、新たなる抗争の火種になっていくものなのである。

そして少数意見の者は、少数であるがゆえに自身たちの意見にこそ正当性を見ることもまた、慎まなければならない・・・。









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「日本の総自給率」Ⅱ

更に呉服屋の場合は着物の販売が本業だった訳であり、見合いの斡旋と言うサービスが本業の売り上げを超えていない。

ところがサービス業を更に超えたサービス業ともなれば、こうした呉服屋の本業が停止し、見合いの斡旋と言うサービスで売り上げを上げようとするものであり、こうしたサービス業の本質は「本業を持たない職業」または「本業が確定しない職業」とも言え、これを農業などの産業を第一次産業と呼称し、家電製品生産などの産業を第二次産業と言うとしたらサービス業などは第三次産業と言う呼び方をしたが、呉服屋などの販売は第三次産業であることを考えるなら、現代社会の結婚斡旋業的サービス業は第四次産業と呼ぶべきものかも知れない。

そしてこうした産業は何も時代を追って発展してきた訳でなく、あらゆる機会にあらゆる形態でどの時代にも存在したが、商いと言うものの本質は「詐欺」であり、こうした度合いはその産業次数が上昇するほどに純度を増してくるものである、すなわち原価より遥かに高い消費を我々はしている事になる。

また現在日本のGDP(国内総生産)に占めるサービス業の売り上げ割合は実に70%を超えていて、これはどう言うことかと言うと、日本経済の70%が物を作って売っているのではなく、口先や笑顔と言った「気分」若しくは「時間」を金していると言うことであり、その生産はどこで行われているかと言えば、殆どが第三国となっていて、それがあっちこっち動くことによってその度に加算される手数料で、日本経済が成り立っていると考えた方が良い。

少し乱暴な言い方をすれば、原材料調達費を加算するなら、日本と言う国に存在する「あらゆる物」の7割は何らかの形で海外に依存しており、全ての物について日本で生産しているものは3割と言うことなのかも知れない、いやこれでもその割合は高く見積もっているかも知れない。

呉服屋で言えば、その呉服の全てが海外で作られたものになって、しかも尚且つ販売は不振なことから、見合いの斡旋による手数料収入が本業になってしまったと言うところだろうか。

価格と言うものは需要と供給のバランスによって決定するが、それに近年は社会的容認度と言うものが加わってきているように思える。

原価千円で作られたものがいくらで売られるかは、勿論作った当事者の意向が最大限尊重されるが、それに需要、更には「値ごろ感」と言う社会的コンセンサスが必要になってきていて、こうした社会的コンセンサスが価格に影響を及ぼす経済状態は「飽和経済」と言うものであり、既にその社会に措いて個人が最低限必要とされるものは、全て満たされていることを示している。

経済の理論など本来そんなに複雑なものではなく、現実的、原理主義的なものだ。

しかし等価交換、つまり物々交換から始まって、そこに交換時期の時間差が発生した時点から時間の需要が現れ、それが等価交換ではなく紙幣や貨幣による代物交換になったときから、時間の需要に対する販売が始まり、やがて時間は利益と看做されることになったが、これは本来架空の生産を想定したものであり、そこに本質としての価値は無く、それゆえ現在の国際社会の経済と言うものは常に架空を追い求めているのであり、これが時々本質的決済が必要になれば「破綻」を迎えるのである。

またこうしたことが更に進んで「気分」が利益になる時代となった今日、例えば挨拶、または笑顔、その他素早い対応と言った、本来は人として、商いとしても当然であり、無償であるべきものが価値や利益となる社会は、その社会が満たされていると言う事と共に、いかに人間的な道徳心を失っているかと言うことでもある。

昭和の呉服屋はきわどいが、「呉服屋」と言う第三次産業をやっていた。

だからここで言うところのサービスとは呉服の提供であって、結婚の斡旋は呉服屋の本業とはなり得ないが、やがてこれが材料仕入れの無い結婚斡旋業となったときは、既に物品と貨幣の交換がなされておらず、従ってここからは「人心を扱う商売」、本来は金に換算してならない「人の出会い」を商う事になる訳で、現代日本社会はこうして本来は金に換算してはならないものを扱って、経済の7割が回転しているのかも知れない。

大阪の商人は良く「商売は自分を買ってもらうことだ」と言うが、このことと自分の魂を売り渡すことは、似ているように見えて決して同義ではない・・・。









「日本の総自給率」Ⅰ

「そう言えばあんたのところの息子もいくつになった」
「ああ、家のも今年で30や・・・」
「ほおー、そうかい、もうそんなになるのか」
「どこかに良い嫁でもおらんかと思うとるんやがのー」

「ほおー、よっしゃ、そんなら俺にまかせとかんかい、ぴったりのやつを探してくるからな」
「ほーか、あんな者の嫁やから贅沢は言わん、女なら何でもいいんや、よろしゅう頼むで・・・」

それから1ヶ月ほどして、前回訪ねた知り合いの家へとまたやってきた呉服屋の主は、開口一番何を言い出すかと思えば、この家の主婦に豪華な表装をした見合い写真を渡し、「息子の嫁にどうか・・・」と言う訳である。

仕事柄女に出会うチャンスも無く、これまで浮いた話の一つもない息子のことを考えれば、喉から手が出るほどの思いの主婦は早速これに飛びつき、そして息子も基本的には女と言うものが分かっておらず、間口は無限に広がっていることから、親の言うとおり見合い写真の女に会うことになる。

大体がこうした場合、写真より実物の方が若干見劣りがするものなのだが、それでも初めて女と対面で話をする男は、既に完全に舞い上がり前後の見境が付かず、大方一瞬にして相手の女に惚れてしまう事になり、こうなれば後は女の意向次第で結婚と言うことになるが、ここからがまた間に入った呉服屋の仕事であり、夜討ち朝駆けで女を説得し、そしてめでたく結婚の運びとなる訳である。

そしてここから先は結婚する当事者やその家の者はあずかり知らぬ事になるが、これ以後呉服屋の元にはさまざまな方面から電話1本で「金」が舞い込んでくる事になる。

まず懇意にしている進物店へ連絡すれば、そこから結納品ご購入の謝礼として売り上げの1割、それから家具屋に電話してここからも売り上げの1割、その他旅行会社や自動車屋、生命保険会社に仕出屋、酒屋までもが売り上げの一部を持ってくる事になるが、何よりも大きいのは本業の着物だろう。

今回のご両家結婚のお運びは全てこの呉服屋のおかげであるから、ご両家ともどこかではこの呉服屋ご紹介の店を断ることができず、尚且つ着物は間違いなくこの呉服屋から購入しなければならないのであり、どうせ結婚して数年もすれば合わせが届かなくなるであろうにも関わらず、高額な着物と帯、それにうまく行けば白無垢までご購入いただけるかも知れない、大変世喜ばしい事態が訪れるのである。

またこうした結婚式と言う共通の市場を持つもの同士は、互いに本業そのものが広く一般家庭の情報を知ることが容易な立場同士の職業であり、こうした中から相互の情報をやり取りすることで、いくらかの手数料収入と本業での利益が上がる形式となっていたのであり、恐らく昭和と言う時代まではこうしたことが機能していたのではないかと考えられるが、これは現代でも同じ形式が有り得る。

すなわち市場に対する企業の有り方は、常に利益に向かうと言うことであり、例えば昭和と言う時代まで結婚市場では値切ることすら縁起が悪いと避けられるほどの優良特別市場だった訳であり、ここで見合いを勧めて結婚を斡旋することは本業に対するサービスとなっていたのである。

だから呉服屋は散々結婚に関して利益を上げていたため、ここではその他に見合いを持ってきてくれた呉服屋に対して、男性側の家族が謝礼を差し出しても、「そんなものは要らないから・・」と誠意まで示すことができた訳だ。

しかし時代が平成に移り変わり、バブルが崩壊した頃から、実はこうした呉服屋で言うところの本業の業績が悪化したきて、また社会も核家族化になって行った事から、家族情報も本業の売り上げに繋がるサービスへと繋がらない情報、つまり「死んだ情報」が多くなって行った。

そして市場に対する利益の優良性は、限りなく落ち込む労働者家庭や若者市場から、周囲が落ち込んだおかげで相対的上昇となった高齢者家庭へと移行していったのである。

その為、高齢者家庭に高額な商品が売り込まれ、その名簿がいろんんな会社へと回され、1人の高齢者が複数の業者から詐欺的な被害に遭うと言う事態は、ある種昭和の呉服屋のシステムと全く同じだったのであり、昭和と言う時代はこうした形態でも伸びていく経済がこれをが吸収できたが、現代の下降して行く経済ではこうした形態を吸収できず、すなわち詐欺となるのである。

                          「日本の総自給率」Ⅱ二続く

「日本はどこにいるのか」・Ⅱ

60年以上も他国と戦争をせず、国民の暮らしは欧米以上に充実し、世界中行こうと思えばどこでも行ける。
食料は満ち溢れ、人々は車を所有し、道端に死体が転がっていると言うこともなければ、文字を書けないと言う人もいない。

世知辛くなったとは言え、それでも人に道を聞けば教えてくれる。
蛇口を開けばいつでも飲むことが可能な水が手に入り、どんな場所であっても公共のトイレは無料、政府を批判してもそれで身柄を拘束されることもなければ、酒も飲める。

現段階に措いて、一体こうした国家が世界にいくつあるだろうか、おそらく一つも存在していないだろう。
かのアメリカであっても日本の失業率の2倍、それに不安定な経済状況から都市部の治安は慢性的に悪化し、夜は歩けない地域が増加しているだけではなく、そもそもアメリカは未だに徴兵制度が存在している国家だ。

またヨーロッパもその経済は破綻し、それは今後拡大する恐れがあり、イタリアでは殆どの労働者がその労働意欲を無くし、フランスやドイツでも現在はストライキが毎日のように発生している。

経済大国のように君臨しているかのように見える中国でも、その現状は政治的未成熟さが、まるで溺れかけた者の如くの有り様でしかない。

すなわち戦争で混乱した国家を建て直すには「独裁」が最も効果的なのだが、ここで本来一時的なものであるべき「独裁官」の毛沢東(もうたくとう)が、絶対君主を目指したところから中国の悲劇が始まり、その後この絶対君主の交代制と言う曖昧な形から、合議制絶対君主と言う大変中途半端な政治体制になってしまった。

それゆえ中国は、今後必ず過去日本が太平洋戦争前後に通ってきた事実に近い、歴史的必然性を持った政治的混乱を迎える。

現在日本を席巻している「円高」に付いても、これは日本の実態経済を反映したものではなく、経済的主要国家であるアメリカ、ヨーロッパの資金が避難場所を求めて日本の「円」に避難しているに過ぎず、こうした各国の自国通貨安と言う状況はそう長く続けられるものでもなければ、また中国も自国通貨保護の目的から日本の国債を買っているが、このような欧米や中国の政策など、所詮大河に石を投げ入れ、流れをせき止めようとしている程に虚しいものでしかなく、その行く先は既に決まっている。

ゆえに日本及び日本企業は、何とか頑張ってこの円高でも事業を継続する力を身につけたなら、その先に待っているものは世界シェアに対する圧倒的な力となり、またこうした時期にこそ技術を獲得しておけば、それはやがて世界の如何なる政治的な圧力をも超える、日本の力となっていくはずである。

私が「滅亡」「破滅」と言った言葉を好むのは、生物や物質の究極の形がそれであるからでだけではなく、「滅亡」や「破滅」は何かの終わりであると同時に何かの始まりでも有るからであり、こうした意味では日本及び日本人は人類として、あるいは文明として最も世界に先んじた国となり、繁栄し、そして世界に先んじて道を示していく国家となったとも言えるのではないか・・・。

それゆえ日本はもう自身が手本とするものは何もなく、これから先は日本が手本となっていく、それはまことに厳しいものかも知れないが、いつの時代でも先を行く者は孤独であり、尚且つ「希望」は「絶望」の極みに最も光り輝くものではないか、そのように思う。

さあ、みんな少しは元気をだして、また歩き始めようではないか・・・。





「日本はどこにいるのか」・Ⅰ

人間は自分のことが一番良く分かっていないものだ。

鏡に映った自身の姿を見たとしても、その姿の何が良くて、何が悪いのかは分からず、それは悪い意味に置いても、良い意味に置いても評価ができないものであり、そもそうした意味では正しいと言う概念そのものの存在が既に危うい。

まして自身の有り様が困難な状況にあれば、自分が自分に下す評価は暗いものになり、その暗い視線で周囲や社会を鑑みることは、その周囲や社会に対する正当な評価とはならず、もし自身の感情がそうした暗い評価から端を発したものなら、自分が見ている価値観は自分が作り出した暗い幻影かも知れない。

段位のある勝負事で一番実力があるのは、三段から五段だと言われ、これは柔道、剣道、将棋の世界もそうかも知れないが、これ以上の段位と言うものは少しずつ名誉段位の意味合いが強くなるものらしい。

そしてこうしたことから、では三段、五段と言った地位の人に話を聞けば自信満々なのかと言えば、その勝負に対して一番怯え、恐れているのもまたこうした段位の者たちである。

それは何故か、勝負の世界でも仕事でも一番実力のある者とは、その世界のあらゆることに通じているからこそ、練習に練習を積んでも僅か紙一重のところでそれに追いつかない恐ろしさ、また偶然と言う魔物の存在を知っているからに他ならならない。

ゆえにその勝負事に対して恐れを知る者ほど謙虚な者となるが、しかしこれは一方で自分が最高位の実力を持つことを、自分自身が認識できないと言う側面を持つ。

本当に実力のある者とは、強くて謙虚であるがゆえに、自分の大きな実力には気が付かず、たった1人で自分自身と闘っているものだ。

そして僅か唯1人の人間でもこうした有り様である。

これが国家ともなれば、その国家の正確な評価は一体何をしてそれを量ることができようか。

日本は今かつて経験したことのないような「無気力」の中にあり、高齢化社会、少子化、経済の停滞、政府の無策ぶりに、緊迫するアジア中東情勢の中でアメリカ、中国と言う大国の狭間にあって、成す術もなくただ翻弄される木の葉のように見える。

しかしこれは本当の意味で日本の正当な評価だろうか、我々は実は自身を取り巻く環境の暗さから、その日本と言う国家に対して正当な評価ができていないのではないか、そんなことを思わずにはいられない。

日本と言う国家は明治の開国以来、欧米の文化、そしてその「力」に追いつこうと大変な努力をしてきたが、一度は届きかけたそうした夢は、太平洋戦争の敗北によってついえたかに見えた。

そしてアメリカの庇護の下、アメリカをイギリスをフランスを、いつもその目標としてきたが、その実あらゆる状況、これはよくも悪くもだが、そうしたものを「経験」と言う観点から考えるなら、少なくともバブル経済が崩壊した時点から、日本はどこかで世界の頂点となったのではないだろうか。

現代社会の価値観は「経済」や「軍事力」、またはどれだけ他国に対して支配的な影響を持つかで、その国家の国際的な地位が決まってくるかのように思えるかも知れないが、経済は留まることを知らず、常に動き安定しないものであり、これを止めて考える者は流れている川の水を写真に留めてそれを判断しているようなものであり、また軍事的な力、他国を支配的影響下に置くことができる状態も、100年と言う単位では不可能な事になる。

我々はもしかしたらこうした虚ろい易いものをして、国家と言うものを量ってきたのではないか、そしてこうした意味では30年前はアメリカで起こることは10年後に日本で起こるとされてきたが、バブル経済と言うものを考え、その崩壊から今日の日本を考えるなら、いつしか経済に措いては、常に日本が良くも悪くもその国際的な指標となるものを経験し続けているのではないだろうか。

日本は1990年初頭にバブル経済の崩壊を経験したが、アメリカが同じ経験をしたのは2年前、ヨーロッパでも同じようなものだが、こうした際に取られた政策は各国がそれに独自性を意識していたとしても、それは既に日本が過去、バブル経済崩壊に対して講じたあらゆる政策の中に含まれるものでしかなかった。

また民族が豊かになって平均寿命が延び、それに伴う高齢化社会の出現と言う点でも、これは裏を返せばそれだけ成熟した社会を形成できたと言うことであり、生物的、民族的、また文明社会と言うものを鑑みるなら、日本はアメリカやイギリス、フランスに追いつきたいと頑張ってきて、知らぬ間に本当は追い越してしまっていたのではないだろうか。


                     「日本は今どこにいるのか」・Ⅱに続く





中華考Ⅱ「人民」

共産主義と言う考え方は現状に即して生産や経済計画が組み立てられる。

それゆえ基本的には人口が増えることに対応するほど毎年の生産は増加しないが、これは原理的に一生懸命働いても、適当に働いても給料が同じなら、適当に働いた方が利益になる事を考えれば自明の理である。

すなわち共産主義の宿命は、基本的に時間経過とともにその生産は減少することにあり、その結果国家が貧しくなると生物の本能としても生存確率の確保傾向が高まり、このことから共産主義の行く末は生産の減少と、人口の増加と言う相反する命題に直面する。

この逆の現象で資本主義が膨らんだ上に、国家が経済的に豊かになると、こちらでは生物の生存確率の安定性から逆に人口が減少へ向かい、その割には生産は拡大を続ける原理で動こうとする矛盾が発生するが、共産主義は人口抑制、そして後者の資本主義では生産の抑制と言う、全く正反対の政策が急務課題となっていくのである。

1979年、国内の人口増加に計画生産経済が追いつかなくなった中華人民共和国政府は、ここに人口抑制策として「一人っ子政策」なる人口抑制策を打ち出したが、この政策は人口の94%を占める漢族に適用され、一組の夫婦がその生涯にもうけることができる子供の数を1人と定め、これに違反したものは年収の2倍から3倍と言う高額な罰金を課し、名前の公表や租税措置、社会保障などにも格差をもうけるなどした、大変厳しいものだった。

中国政府は現在ではこの政策を見直してしているが、過去、経済的に豊かになった者たちの間では高額な罰金を払っても第二子をもうける家庭も増え、これに対応して政府が課す罰金は毎年増加し、今では年収の10倍と言うケースも発生しているが、一方でこうした罰金収入は国家予算の中でもそれなりのウェートを占めるようになり、実情は子供をもうけるために民衆が国家に支払う、「子供取得税」としての様相も現れ始めていた。

またこの「一人っ子政策」は少数民族や例えば香港などでは適用されず、その為漢族は減少したが、逆に少数民族は人口を増やすことになり、1998年頃までの中国では比較的厳格にこの政策が守られた結果、秘密にして子供をもうける傾向も発生し、こうした子供は学校教育や福祉も受けられず、戸籍の無い闇の子供、「黒孩子」(へいはいず)と呼ばれ、こうした子供たちが実際には3億、4億くらい存在していたのではないかと言われている。

ゆえに中国の実際の人口は中国政府もつかめておらず、またこうした一人っ子政策は、「家制度」が一般的だった中国の一般家庭に措いては、跡継ぎとしての男子の出生を望み、女子の出生を避けたことから、母親が妊娠してその子供が女の子だと分かるとこれを堕胎し、男子だけを出生させる傾向となって行き、これが今日中国国内の女子人口の少なさに繋がり、尚且つ結婚適齢期の男性は結婚できないと言う実情の原因ともなっている。

その為現在中国では女性と女の子の誘拐や人身売買が後を絶たず、ひどい場合には医師や看護士までが絡んだ、婦女子の誘拐事件までも発生しているのであり、こうした一人っ子政策によって発生した弊害は何も中国国内だけに留まらず、現在日本に対して起こっている中国の若者の暴動も、実はその原因のいくばくかがこの一人っ子政策にあると言っても良い。

各家庭にその将来をになう子供が1人しかいないと言う状態は、精神的にも物質的にも子供1人に対して他の家族の意識一切が集中すると言うことであり、尚且つこうした家庭が周囲の社会にも広がっている訳である。

当然の如くその子供には親や祖父母の愛情が全て注がれ、その為こうした子供たちの在り様は、男の子なら「小皇帝」、女の子であれば「小公主」と呼ばれる程甘やかされて育てられる傾向があった。

だから極端なことを言えば、家事のできない青年や女性が出現してきたのであり、彼等は全く我慢すると言うことも無く、妥協や譲歩すら知らないのであり、この傾向に結婚できない男性の増加傾向が加わり、その反動で男尊女卑から一挙に女王さま並みに地位が向上してきた漢族女性は、男子以上に我侭な傾向が現れてきたのである。

そして民主化に揺れる中国の実情が有るが、国民が貧しい時代には武力で押さえ込むことが容易だったにも関わらず、鄧小平が推進した中国経済の自由化は民衆の意識も高め、そんな中で民主化に対する潜在的な願望はいたるところで噴出し始め、それが今日では経済の自由化によって広がった中国の格差問題へと繋がってきている。

それゆえ現在の中国の暴動は基本的には民主化要求ではなく、民族運動、思想言論の自由に関する要求、格差社会や共産党の腐敗に対する不満がその原因なのだが、しかし人民解放軍を後ろに持つ政府には逆らえない。

そこで若者は如何なる形であれ、暴動が起こせれば良いと言う傾向があり、これが日本に対する反日暴動となっているのだが、この背景にはやはり中国にも存在する西欧崇拝主義があり、このことから欧米にはどこかで面と向かって逆らえないが、ではどこがと言う事になれば、太平洋戦争後一貫して非難し続けてきた資本主義の象徴日本、そして日本憎しで国民を鼓舞し続けてきた中国政府の教育がここにきて生きてきた訳であり、中国政府も不満の対象が日本に向かうことを利用しながら今日に至ったのは、少なくとも暴動が政府に向かってこない都合の良さが有ったからである。

ゆえにこれから先も中国政府は各地で暴動が起きるたびに、その方向性を日本に持っていこうとするだろうし、必要となれば暴動を日本に対する圧力に使うだろうが、一方でインターネットで繋がった国際社会は実情や現実も中国国民にもたらし、そこで起こってくるものは「人権」と言うものに対する意識だろう。

「自由」と言うものを知り、それに対する我慢が分岐点に差し掛かったところで、中国人民は何れ共産党一党支配体制に立ち向かう日がやってくるに違いない。

暴動と言うものはその目的が集約されたもの、例えば「自由」や「平和」などと言ったものであれば力を発揮するが、「嫁がいない」、「何だか分からないけど腹が立つ」、「何であいつらだけが豊かで、俺たちは貧しいんだ」とか言うことが本質で集まっている暴動は、やがてその矛先を自国国家、政府に向けるものであり、既にその分岐点が視野に入ってきているように私は思える。

ちなみに中華人民共和国は国際連合常任理事国であるが、同時に中華人民共和国中央人民政府は、国際連合から「侵略者」としても定義されていることを最後に記しておこうか・・・。






中華考Ⅰ「武力は誰の為に・・・」

一国の政府(government)がその国民をどう見るか、どう認識するかはその国家によってさまざまだが、一様に民衆を統括する立場の国家代表部にとって、民衆とは「愚かなもの」であり「厄介なもの」との認識が多くなる。

だがその中でも中華人民共和国の国民に対する認識は郡を抜いたものとなっていて、すなわち民衆とは「暴力」であるとされている。
人口の約94%を占める漢族他、大まかなものでも58の民族で国家を形成する中国では、民衆とは常に秩序を乱し、また社会を混乱させる火種でしかなく、ここでは政府の在り様としてこの暴力をどう管理していくかが重要な問題となっていくのである。

それゆえ暴力に対する最も効果的な対処方法は更に大きな暴力であり、この意味では中国の人民解放軍の存在意義は国際社会が現在持っている概念とは明確な区別がある。

中国政府にとっての民衆が「暴力」である以上、これを統治する存在が「共産党」政府にあるなら、人民解放軍は常に共産党の軍隊であって、民衆の軍隊ではない。

一般的に「軍隊」の権威、正当性はその国民の防衛にあるとされる事で権威が担保されるが、この意味に置いて国家が混乱の極みにあり、政府、民衆相互が対立したとき、軍隊は中立的な立場から、政府、民衆のどちらかに正当性を見つけ、その判断をするのが正しいあり方と言える。

しかし現在国際社会で主流を占める「シビリアン・コントロール」(civilian control)と言う概念は、「文官」や広義では「民衆」が軍隊を管理するあり方を理想としているため、例え国民から信任を得て成立している政府であっても、これを使って国内の民衆を強制的に支配することは容認されないが、一方で常に民衆が正義であるとは限らず、こうしたことから国家が混乱した場合、軍隊の権威は基本的に、「国益」と言う政治的なものへと移行していかざるを得ない。

この意味に措いて軍隊と言うもの、その指揮官は、では国民から信任を得ているかと言えばその信任は得られておらず、結局軍隊と言う存在は時の政府の判断に従わざるを得ないし、もし形骸でも立憲君主が存在しているなら、最後の権威として、この立憲君主の判断を仰ぐこととなっていくのである。

だからここでは軍隊に対して「シビリアン・コントロール」(文民統制)の概念がある国家ほど、それは政府や国家代表部の軍隊になりやすい。

ところが中国人民解放軍には始めからこのシビリアン・コントロールの概念がなく、表面上人民のための軍隊とはなっているものの、あくまでも共産党の軍隊であって、しかも万一国内政府に措いて、つまり中国共産党内部で抗争が有った場合、人民解放軍最高指揮官は独立してこれを判断できるのであり、こうしたことを考えるなら軍隊の正当性、権威がうつろいやすい欧米の概念と比較しても合理的な部分がある。

このことは中国の文化大革命終結時に起こった「第一天安門事件」と、その後ソビエト崩壊に伴う世界的な民主化風潮に影響された中国の民主化要求に象徴される、「第二天安門事件」を比較しても理解できると思うが、1976年4月5日、周恩来(しゅうおんらい)が死去したときに、鄧小平(とうしょうへい)等が天安門広場で行なった追悼式典を規制しようとした「4人組」等指導部に、人民解放軍は従わなかった。

だがこれに対して1989年4月15日、やはり国民や学生等から人気が有った「胡耀邦」(こようほう)が死去した際、同氏の追悼集会に端を発した学生たちの民主化要求運動の拡大を阻止しようとした「鄧小平」には人民解放軍が従い、多くの民衆を戦車で蹴散らす衝撃的な光景が繰り広げられたのである。

また人民解放軍は本来「自給自足」の精神を持っていて、その食料、装備は人民解放軍が自前で調達する姿勢から始まっている事もさることながら、1980年ごろには中国経済が悪化し、この中で時の共産党中央委員会は人民解放軍の予算を大幅に削減し、その代わりに人民解放軍独自の経済活動を認めたことから、以後20年に渡って人民解放軍は商業活動や経済活動にも独自参入して行った経緯を持ち、この形態は1998年、やはり共産党中央委員会で人民解放軍の商業活動が禁止される決定が成されるまで続いたのである。

そして現代の人民解放軍は、アメリカが行ったイラク戦争での結果を踏まえ、「力こそ正義なり」の方針にあり、これは中国政府の姿勢でもある。

つまりは東西冷戦終結後、世界はその価値観や経済的な指針を全てアメリカに求めてきたが、そのアメリカが経済的に落ち込んできた今日、中国こそが「世界」となる、文字通り中華思想を目指してきているのであり、この中で人民解放軍もその装備を近代化し、例えば地上戦の戦力で言えば、恐らくアメリカやロシアよりも充実しているだろうし、また南シナ海での制海権も現在は恐らく中国が握っていると言っても過言ではない。

更に中国が公表している2009年度の国防予算は、日本円に換算して6兆9000億円だが、これは公表額であり実際はこの2倍、少なくとも13兆円以上の予算が投入されている可能性は高く、中国国内でも多種な技術力向上が著しい今日、軍事装備の自国生産割合も大幅に向上していることを鑑みれば、例えば同じ軍事装備を作っても、日本で作る場合の15分の1の予算で同じものを作る事が可能であるとするなら、中国の実質国防予算は公表されている予算の、10倍の効力を持っている可能性すら否定できない。

だがその一方で中国人民解放軍には全く問題がないかと言えば、これがそうでもない。

これまでは何とか生活ができれば・・・、と言う国民意識で人民解放軍へ入る人材も多かったが、国内の著しい経済成長に伴い、共産党員ほどの権力的利益もなく賃金も低い軍人は、若い世代の就業先としての魅力を失ってきていて、従って近年は軍人になろうとする希望者が極端に減少し始めているのであり、こうしたことに配慮して人民解放軍では、映画チケットやバス運賃などを無料にするなどの優遇措置を行っているが、全くと言って良いほど効果は見られていない。

それに人民解放軍は一枚岩かと言えばこれもそうではなく、実は人民解放軍内部でも守旧派と革新派が存在し、これは旧来からの共産党支配堅持派、つまりはイデオロギーをその巻頭に掲げる勢力と、それに対して経済に主眼を置く勢力の対立と言う形で現れている。

この背景には人民解放軍の独立性と言うものに対する考え方が旧来から2つ存在していたと言うことであり、これは冒頭の軍隊の権威のあり方を巡る考え方の相違、そしてもともと人民解放軍は独自で経済活動を行ってきた経緯があることから、この部分でも共産主義の考え方と資本主義の考え方の、双方が内部に潜在していることを示している。

またこれは中国中央軍事委員会の調査資料によるものだが、2003年から2005年の間に軍事装備の近代化に伴い、廃棄予定になり施設に保管されていた人民解放軍の軍装備のうち、T-48、T50戦車1811両、野戦用ベッド210000床、テントなどの装備品230000セット、小銃約300000丁、燃料用の軽油7061バレル、それにこんなものを思うがミグ15戦闘機に至っても362機が何と盗難に遭っていて、このほか医薬品や包帯なども膨大な量がやはり盗難に遭って紛失している。

さすが中国人民解放軍、その規模も世界最大なら、盗まれたものもやはり桁違いの迫力と言うものだ・・・。
そしてこれだけのものが盗難に遭っていながら、誰1人として処分を受けている者がいない。
やはり大国は一味違ったスケールと言うべきか・・・。



                            中華考Ⅱ「人民」に続く



「それでも地球は回っている」

夜空にまるで果てしなく続く抒情詩でも描かれたかのように煌く星座、この星座の起源は古代バビロニアにその端を発していると言われているが、5000年前、チグリス・ユーフラテス川流域に生きた古代都市の人々もまた、星に何を願ったのだろうか・・・。

明るい星どうしを線で結び、自分たちが使う道具や動物などの姿に星を当てはめ星座とするこの有り様は、その初期段階に措いて農耕や遊牧、魚漁、航海など、生活上の必要性から発生したものと言われているが、時の流れ、季節の移り変わりを知る上で、これ以上正確な「暦」はなく、それは現代社会に至っても何ら変わることはない。

そしてこうした星座は、やがてギリシャに伝わり、ギリシャ神話と結びつくことにより飛躍的な発展を見せ、このことがギリシャに措ける天文学の発展に大きな影響を与えたのであり、これらの研究成果はプトレマイオス(2世紀)が編纂させた「アルマゲスト」に集大成され、ここには48の星座が記載されている。

以後千数百年、このプトレマイオスの星座は確固たる地位を保ち続けるのだが、やがて大航海時代を迎える頃になると、それまではその必要がなかったことから、空白となっていた南天の星についても星座の必要性が発生してくる。

その為いろんな者たちによって、新しい星座が数多く考え出されたが、こうした経緯はまた、一方で誰のどの星座を採用するかを巡って大混乱を発生させる事ともなって行った。

現在我々が使っている星座は「国際天文学連合」(IAU)が1922年に設置した専門家委員会によって、8年の歳月を要し検討した結果取り決められたもので、全天88星座と星座境界線がこれによって確定したのである。
1930年のことだった。

また16世紀、コペルニクスが提唱し、ヨハネス・ケプラーとガリレオ・ガリレイが支持した「地動説」だが、実際に始めて地動説が提唱されたのはギリシャ時代まで遡る必要がある。

ピタゴラス学派(紀元前570年ー紀元前497年)のフィロラオス(紀元前5世紀中頃)は地球が「中心火」の周囲を運動していることを唱え、ヒケタス(紀元前4世紀)やエクファントス(紀元前4世紀)はフィロラオスの「中心火」を「太陽」と概念し、ここに太陽中心説が提唱され、地動説の芽が顔を出した。

そしてこうした理論を元に実証的な理論を展開したのは、ピタゴラス学派ではなかったが、アリスタルコス(紀元前310年ー紀元前230年)であり、彼は太陽と月、地球の大きさと距離の測定を行い、その結果地球は太陽の周りを自転しながら公転していることを提唱したのだが、いかんせんこれらの説は、偉大な科学者アリストテレス(紀元前384年ー紀元前322年)によって提唱された「地球中心説」、いわゆる「天動説」によって埋没させられてしまったのである。

それから次に「地動説」が日の目を見るのは、ギリシャ時代から1800年近く経過した中世ヨーロッパであり、レオナルド・ダ・ヴィンチが天動説に疑問を持ち、アリスタルコスの説に影響を受けていたコペルニクス(1473年ー1543年)が、これに観測的な実証と幾何学的な理論を展開し「地動説」を説いた。

更に当初、このコペルニクスの「地動説」を反証しようと火星観測を始めたティコ・ブラーヘ(1546年ー1601年)の20年にも及ぶ記録は、いみじくも彼の意思に反し、ケプラーの法則やニュートンの万有引力の法則へとつながり、これによって「地動説」は理論的に確立されることとなったのだった。

「それでも地球は回っている・・・」は実に1800年の長きに渡って叫ばれてきた地球の本当の姿だった訳である。

またこれはもしかしたら余談になるかも知れないが、こうした星や月、惑星を観測するための望遠鏡に付いてだが、望遠鏡が発明されたのは1608年、オランダの眼鏡商リッペルハイによって、偶然がきっかけとなって作られたものだった。

この話を聞いたガリレオ・ガリレイ(1564年ー1642年)は何と望遠鏡を自作し、1609年、彼はこれで天体観測を行って多くの発見をして行ったのである。

だがガリレオのこの望遠鏡は接眼鏡に凹レンズを使用していたため、その視野は極めて狭いもので、1611年にはケプラー(1571年ー1630年)によって接眼鏡に凸レンズを使った改良型が作られ、これ以後「屈折型望遠鏡」はこの形式が続いていったが、屈折式望遠鏡の欠点である色収差を改良しようとしたニュートンは、1668年、対物レンズに代えて凹面鏡を使った「反射式望遠鏡を」を発明した。

そして初期の反射式望遠鏡は金属鏡が使われ、イギリスのハーシェルなどが大型の望遠鏡を製作したが、現在我々が使っているような反射望遠鏡の元となったものは、フーコー(1819年ー1869年)が作ったものであり、ガラス鏡にメッキを施し、鏡面テスト法もこの時開発されたものである。

ウィルソン山天文台の2・5m反射式、パロマ天文台の5m反射式望遠鏡、現代はこうした大型望遠鏡の時代を経て、地球の大気圏外では人工衛星に搭載された宇宙望遠鏡が高精度の観測を行い、地上ではその口径が8m、10mと言った超大型望遠鏡によって、この宇宙の謎に迫ろうと観測が続けられ、近年に至ってはX線や素粒子、または電波望遠鏡など、その姿無きものを観測することによって、宇宙の姿を捉えようと言うところまで技術は進展してきている。

だが、星を眺めてどこかで自分が素直な気持ちに戻れるような思いがするのは、5000年前、いやもっと以前からきっと変わることのない、人の事実なのだろう・・・。












「罪の入口と出口」

古代日本に措ける最大の罪とは「天津罪」(あまつつみ)と呼ばれるもので、その罪は8つの具体的な行為を指している。

「串刺」(くしさし)とは他人が開墾した田に串を刺し、そこが自分のものだと主張することであり、言うなれば人の田を横取りしようとする行為であり、「畔放」(あぜはなち)は畔を壊して田の水を流してしまうこと、溝埋(みぞうめ)は用水路を埋めて田に水が入らないようにする事、「樋放」(ひはなち)は田に水を引くための「樋」を壊す行為である。

また「頻蒔」(しきまき)とは他人の土地に種を蒔く行為であり、この他に「生剥」(いけはぎ)と言って、まだ使える馬を殺して皮を剥ぐことも大きな罪とされ、更には「逆剥」(さかはぎ)と言う罪では、死んでしまった馬の皮の剥ぎ方を誤りその皮を無駄にすることを指し、「尿戸」(くそへ)とは農耕神を祭る祭祀場を汚す行為を指していた。

このことから鑑みるに、日本の古代社会に措ける罪の概念とはすなわち、「農」に関わるものが殺人や暴行よりも重くなっていたことが分かるが、これは何を意味しているかと言えば、その当時の大衆社会に措いて、殺人や暴行が「農」を犯す者より少ないことを示していると言える。

つまり「法」と言うものは、それを犯すものが多くなれば法としての形を取り、尚且つそれでも対象となる行為が減少しないとき、「罰則」が定められるからだが、古代日本に措いては、いかに農耕が重要な位置にあったがこうした「法」によっても認識できる反面、このような「天津罪」を犯す者が如何に多かったかも、その背景からうかがい知ることができる。

だがしかしこれほどに重要な地位にあった農耕とその文化だが、貴族社会では全く農耕と無縁な生活が営まれ、例えば紫式部などは地方を旅したおり、「田んぼの中で農民が後ろへ下がるような仕草で、見た事も無い踊りを踊っていた」と記しているが、これは「田植え」だったに違いなく、このことから紫式部は「田植え」を知らなかったと言うことになる。

そしてこの「天津罪」の興味深いところは、この罪の結果が「個人」に帰結しないところであり、こうした罪が為されるとどうなるかと言えば、神が怒って災害が発生すると考えられていた点である。

日本神話では「素戔鳴尊」(すさのうのみこと)が高天原(たかまがはら)でこの天津罪を犯したために、天照大神(あまてらすおおみかみ)が怒り、「天岩戸」(あまのいわと)に閉じこもってしまう記述が出てくるが、この神話から見えるものは、「天津罪」を犯せば太陽が昇らなくなる、若しくは天候不順が起こるぞ、と警告する意味を持っていたに違いない。

それゆえもし私が「天津罪」を犯した場合、私はそれによって時の朝廷や、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって逮捕されることは無いが、そのかわり、その年に起こった地震や気象災害が全て私のせいだとされるのであり、これは牢屋へぶち込まれることが無い反面、ある種の無限責任を想起させるものであり、こうした点を考えるなら、古代日本の「罪」の概念はその原因と結果の2つに対処する方法があるとするなら、「原因」に対処したものだったと言うことができようか。

つまり犯罪を犯した者に対する罪の概念ではなく、犯罪を犯させない概念がそこに存在し、しかも罪に対する社会連帯、若しくは全体責任のような形が見られることである。
また罪の概念としてキリスト教文化、イスラム教文化は、基本的に人間の性悪概念から罪と言うものが定義されるが、古代日本で見られる罪の概念は人間と罪の分離である。

手が泥で汚れても洗えばまた綺麗になる。
人間もまたこれと同じであり、本来神々のおわします日本にはその決定的な悪は存在し得ず、人々の犯す罪は「穢れ」によってもたらされたものであり、その穢れを祓えば人間は善良なものであるとする考えが古代日本の罪の概念であり、これは薄く弱くなっていても、言葉にならずとも、現代日本社会で連綿として生き続けている「日本の概念」である。

「罪を憎んで人を憎まず」とは難しいものだ。

人を殺した者には応分の処罰を、また人殺しを許せばその人間がまた人を殺すだろうし、他の者も同じ事をするに違いない。
であるなら人を殺した者は殺されなければならない。

欧米の宗教は善と悪を区分けしてきた為に「悪」と言う概念を作り出してきたが、古代日本は人間に対して「悪」を作り出さなかった。
このことの持つ意味は限りなく大きい。

法や悪と言った概念は相対的なものであり、本来であれば人が人を裁くことはできない。
従って「悪」と言うものは「善」や「普通」であることに対する「異端」でしかなく、例えば殺人にしても、その殺された人間が一生に食するであろう他の生物からすれば、人間が死ねば死ぬほど自身たちの生存のチャンスが広がるのであり、彼らにとってはその事情など関係なく、人間が死ぬことは「善」となる。

私たちが「法」と呼んでいるものは人間にとって都合の良い「法」でしかなく、従って不完全なものでしかないが、近代に措いて世界を席巻した欧米の価値観は、法や慣習、文化についても人間の性悪概念を基調に、片方の「善」の概念を積み上げてきたが、その「善」は東西冷戦の終結とともに、悪の概念が消失したことにより、相対的に「善」の概念も軽くし、こうした中で「悪」の概念に傾いた価値観から、更に深い「悪」を求める社会を招いてしまった。

つまり国際社会はこれまで、罪と言うものがあって、その入り口と出口があるとするなら、出口を塞ぐことに終始し、入り口を塞ぐことをしなかった。
そのために経済と言うものによって劣化し始めた社会は、絶対的「善」から相対的「善」へと価値観が変遷し、このことはより貧弱な悪、劣悪な悪をして自身の「善性」を確かめるような風潮へと変わっていき、その中で罪を個人へ集積させるようになって行ったのである。

そしてこのことは欧米文化が持つ法的概念でも、建前上は「罪を憎んで人を憎まず」だった概念、日本に措いては薄くではあるが、どこかで深く大衆の価値観に根ざしていた同じ概念を全く消し去り、今日に至っては僅かな言動でもすぐに個人が攻撃され、その小さな罪をして、個人に対する全ての人間性までもが剥奪されるかの有様となってきている。

だが罪の本質とは、本当にその個人が全ての責任を負うべきものであるかと言えば、例えば家族環境、また仕事の関係、夫婦関係もそうだが、そうした社会的な側面が全く関与しない犯罪と言うものは存在せず、その意味に措いては罪と穢れを分けて考えた古代日本の有り様は、ある種の本質のように私は思えるのだが、これでは甘いだろうか・・・。

「罪を憎んで人を憎まず」、今では古い価値観になってしまったが、現代の日本社会にあえて私はこの言葉を進言しておこうか・・・。




「生命の流れの祝福」

脳に措ける神経細胞の伸び方は「雷」に似ているが、雷は厳密には上から伸びる電気と、僅かに下から迎える電気があり、これが連結して落雷となる。
しかしこの雷のシステムには明確な因果律が認められず、どこへ落雷となるかは地面からも迎える電気がある以上、運命論的な側面を持ちながら不確定性の範囲を出ない。

同じように生物の神経細胞もどちらか片方が伸びて何かに繋がるのではなく、繋がろうとする先からも、それに対するアクションが存在する。

例えばイモリやカエルなどの両生類では網膜から中脳へ繋がる視神経細胞を切断して、つまり視覚能力を失わせても、その細胞の結合は早い間に始まり、本来の機能ととほぼ同じ機能を持つ視覚能力が再生される。

だがこの際、最初のオリジナルの細胞結合、すなわちイモリやカエルが誕生するときに見られる神経細胞の結合は、細胞同士がまっすぐ伸びて結合されるが、オリジナルが切断された後再生される場合は、神経細胞の伸び方が迷っている、若しくは何かを試行錯誤しながら、相手を探すように結合することが知られている。

そしてこれがニワトリの場合、ニワトリの視神経も切断されると、やはりイモリやカエルと同じように再生細胞が伸びていくが、神経細胞が一度本来結合すべき方向と違う方向に伸びだすと、その方向へとまっすぐ神経細胞が伸びてしまい、これを修正できず、結果として神経細胞の結合は正常に行われない。

これに対して、では他のパターンで「バッタ」を見てみると、バッタでは細胞が分化していく箇所と他の細胞との位置関係が初めから決定していて、全く迷いも無く機械的なほど正確に細胞が結合していく。

このことからバッタの細胞には、基本的な細胞の結合関係が既に書き込まれていることが分かるが、この場合細胞間の関係はその個体の経験値によるものが少ない、すなわち最初から決定的なものだと言う事になる。

また生物に措ける「脳」は、神経細胞を始めとする膨大な量の基礎的生体情報処理機構が更に集合された、生化学的情報処理機構と言うべきものであり、ここに特筆すべきは脳神経系の「可塑性」(かそせい)と言うものである。

神経細胞は自己組織を持ちながら、その構造を自己変化させる、いわゆる「創造」の部分を持っていて、この為一般的に高等な生物となるに従って「最初から決定されている部分」が少なくなっているのである。

これらは、例えば「赤核細胞」のシナプスなどには、新しい芽(スプラウト)が出る「発芽現象」が起こることや、小脳の運動学習機能では「プルキンエ細胞」に措けるシナプス伝達効率の変化が起こる事をしても、「創造」と言うものを連想するに足るものだが、このようなシナプス結合の構造、また電気的化学変化に措いては、シナプス結合部のカルシウムイオンや、たんぱく質濃度変化にその素因が求められるとされている。

そして生物学的には生体の神経細胞は、生後特定の期間に発達を続ける事が分かっているが、有名な実験で、例えば猫を縦縞だけしか見えない、横線の見えない部屋で生まれた直後から飼育すると、この猫は「横線が見えない猫になってしまうが、これは視覚中枢系にあるのではないかとされている、「横線」に対する認識細胞の発達が遅れるためである。

また人間に措いてもこうした事は同じことが言え、乳児がそのどちらかの目を怪我した場合、眼帯は片方だけではなくその両眼を覆う必要があるが、もし左眼を怪我したとしたとき左眼だけを覆うと、右目の視覚に関連する大脳左半球の視覚神経系が右半球、すなわち左眼の視覚神経系の機能を補填してしまい、左眼が見えない状態で脳が固定され、結果として左眼が見えなくなってしまうのである。

人間の視神経系は生後1年以内にその発達が充分完成され、また人間の言語神経系は生後10年くらいまでは成長するとされているが、こうした神経系の発達は緩やかな均一性を持っておらず、その成長には加速度と言うものが存在する。

つまり人間の視覚神経や言語神経は急速に発達する時期を持っていて、こうした時期を「臨界期」(critical period)と言うが、人間の神経系はこうした「臨界期」に措いて、その機能を外界に晒して経験させることが必要になる。

人間の神経系発達はつまり、持って生まれた基本的な構造と、自分以外の「外世界」に接して得られる経験的相互作用の両方に依存しなければ完成せず、持って生まれた基本構造と、外界に接して得られる経験作用は車の両輪のような関係にあり、このことから子供が「臨界期」に「外世界」に接しない状況に有れば、当然視覚神経系も言語神経系も、同じようにその充分な発達が得られないことになる。

生物の脳は一般的に高等とされる生物ほど、「固定されたものが少なくなる」と言う事はこうしたシステムの為に、すなわちその「可塑性」のゆえに必然とされるもののようだ。

このことは何を意味しているかと言えば、その根底には「生存」や「安定」、「幸福」と言う事実が「人間」が生まれる以前から生命の歴史の中をとうとうと流れている事を意味していないだろうか。

人間の構造は繊細かつ高度な機構を持っている。
しかしこうして高度な機構を持っていることが、その生存を保障する要因の全てでは無く、その時代の社会や環境に適応していかなければやはり生きていけない。

それゆえ生命の流れは、人間が生まれた時既に持っている機能に社会環境を適応させて、その脳を構成させる仕組みを人間に与えたのではないか・・・。
それが人間の「最初から決定されている部分が少ない」事の本質なのではないだろうか。

我々はもしかしたら自身が生まれる遥か以前から、生命の歴史によって最大限の祝福を受け、あらん限りの贈り物を両手に抱えて、生まれて来ているのかも知れない・・・。

これから生まれて来るあらゆる生命に私も祝福を送ろう・・・・・、

ようこそ地球へ・・・。








プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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