「言語の崩壊と肉体の復活」

視覚は確かに絶対的な情報であることに違いない。
人類が二足歩行を始めて以来、いやそれ以前から生物が持つ情報収集能力と、それを解析するシステムは、「視覚」をその情報と言うものの頂点に位置させて発展してきたことは疑う余地の無いものだ。

しかしこうした「視覚系」の進化の過程に措いて、他の4つの感覚、つまりは聴覚、臭覚、味覚、触覚などの感覚が「視覚」の舞台裏や大道具的な役割を果たしてきたことを忘れてはならない。
視覚情報と他の4つの感覚情報は、情報処理システムである「大脳連合野」を通して互いに情報を交換させながら、その情報に肉付けを行い、情報の統合作用を行っている。

従って例えば「視覚」で確認したポスターの料理には、その料理の匂いがイメージされ、食べた時の感触の記憶が添付され、知り得る限りの「味」の情報が加えられ、更には湯気を立てて鉄板に乗る、肉の焼ける「ジュー」と言う音までが視覚と相互作用し、情報にリアリティーを与え、「お腹がすいた、これが食べたい」と言う感覚を起こさせる。

それゆえ人間が生きる上で、その極初期段階に措いて視覚のみが一人歩きした場合、視覚は他の4つの感覚の援助なしに情報を処理しなければならず、これは事実上視覚以外の「他界」を見ないことになる、「感覚的狭窄」(かんかくてき・きょうさく)に繋がっていく。

このことから幼い頃から視覚情報のみ重点が置かれた環境と、母親や父親と子供とのスキンシップの機会が失われやすい現代社会の「情報」と言うものは、常に表面的なものに陥っていく危険性が大きく、これが料理ならば凡その人間は感覚を経験で身に付けていくが、男や女と言ったものを視覚だけの表面的な情報で捉えることの危険性を鑑みるなら、現代社会で発生している事件の異様さを省みれば明白なことである。

例えば触覚に関して、生物の脳が発達する極初期の段階で、この触覚が意外に重要な役割を果たしていることが実験から知られている。
マウスの口ひげは、彼等が外界の情報を感知する上で重要な役割を持っているが、このマウスの口ひげを、脳が未発達な時に切ってしまうとどうなるか・・・。

マウスは口ひげで外界を知るために、この口ひげを脳が発達しない間に切られてしまうと、「記憶の記録」そのものが存在しなくなり、その結果成長しても口ひげでは外界を全く感知できなくなるのである。

すなわち外界からの刺激、視覚以外の情報を感知する感覚が、生物の適当な成長時期に存在しないとどうなるか、そこでは「記憶の記録」が欠損し、従って正常な脳形成が行われず、障害を持ってしまうのである。

実は現代社会の盲点はここに有り、視覚情報に限らずあらゆる感覚は「ネジの原理」を持っていて、何度かネジを緩めたり締めたりしている間にネジ径が広がって行き、やがてそのネジは正確にネジ径に入らなくなり、次の少し大きめのネジで締めなければならなくなる、こうした原理と同じ傾向を持っていて、視覚は特にこの傾向が強い。

あらゆる煌びやかな配色に、完全な「美」が視覚を刺激しても、それはまたすぐ次の「美」や「快楽」を求める導火線にしかならず、これには際限が無い。
しかも視覚にこうして強い刺激が与えられる状況が続くと、視覚が持つ欲望は加速度をつけてその欲求を満たそうとし、ついには現実の肉体や、事実がこれに追いつかなくなってしまうのである。

そしてここでは例えば夫婦でありながら、既に互いに性交渉への関心を失ったカップルが発生し、しかし刺激を求める欲求は膨張していくことから、妻以外の女性、夫以外の男性を相手に「快楽」のみを求める性交渉へと発展していく、若しくは完全に視覚のみ、つまりは映像の中の異性でしか、そこに異性を感じない状況が発生する。

現在私達を取り巻く環境を今一度考えてみるなら、例えば20年前には論争となった、週刊誌や写真集の女性の「ヘア」問題にしても、今ではそれぐらいのことでは誰も何にも思わないばかりか、女性器が完全に露出したDVDなどが、平気で販売されている時代であり、ここに臭覚や触覚など全く感じない、いわゆるリアリティが欠如した形骸に装飾や妄想を着せた、しかも形骸を払拭しようと悪戯に増殖された「人形的肉体」がはびこって行くことになった。

20世紀の近代社会は、欲望や生きることの生々しい現実、人間の身体的な部分を少しずつ切り捨てながら、片方でリアリティーを欠いた精神的な美しさ、現実感の無い人間性に価値観を求めた文明を築き上げてきた。

このことは人間から、人間が生物であることの現実を希釈し、そして本来精神と肉体を繋ぐための言葉を肉体から切り離し、意味の無いものとしてしまった。
人間の皮膚がその内と外を繋ぐ感覚器官であるなら、言語はまた精神と肉体を繋ぐ「メディア」であり、それは「感覚」と言うものである。

従ってそこには極めて現実的な肉体の存在が必要とされる。
ゆえにそれまでの古い価値観の言語体系が崩壊するときには、必ずそこに肉体の復活が起こるのであり、肉体が復活しようする時代は、言語の体系が完全に崩壊してしまうときである。

20世紀末、日本はバブル経済の崩壊によって価値観や言語体系を失い、そこで肉体の復活が起こったかのように見えたが、それは更なる現実と言語の乖離であり、肉体と精神の乖離の第一段階に過ぎなかった。

言語が五感と共に感覚を持っている社会は、人間は肉体の方向へとは向かわない。

しかし五感が失われた形骸の言葉が社会を支配するなら、現実の世界と離反してしまうなら、そこから生まれてくるものは肉体の復活であり、またこうして感覚と共立しない言語で有るがゆえに、そこに現れる肉体も同じように、臭覚や触覚と言った現実の生々しさを欠落させているのである。

目が見えない人は文字を習得できないかと言えばそうではない。
触覚でも努力すれば言語を習得できる。
言語がただの形式、絵文字、または発音でしか学習されないとしたらそれは何だ、母親の胸の柔らかさをただの「柔らかさ」として何が分かり得るのか。

言語を使うときは、そこに景色が眼前に広がり、人々が話す音が聞こえ、花の匂いを感じてこそ人間の言語となる。

子供を持つ者は、その幼き子供に言語を教えるとき、同時に触覚や、聴覚、臭覚、味覚を伴って教えると良い、つまりは現実を伴って教えると良いと言うことだ。
「視覚」だけに頼って育った子供は現実が薄くなり、そして欲望の回転だけが速くなった大人となってしまう可能性があり、そこから生まれてくるものは「フェティシズム」と言うものだ。

そして「フェティシズム」には果てしない破壊性が内包されている・・・。



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「船がダンスを踊る」

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2003  3  31   old passion

1956年12月19日、実に8万トンを超える豪華客船「クィーン・メリー」号は一路ロンドンへ向かって静かな航行を続けていたが、ちょうどイギリスの南端コーンウォール半島の沖合いを通過した頃だろうか、貴賓室で新聞記者と話をしていた「ハーバード・モリスン」イギリス労働党議員は、座っていた安楽椅子が心なしか下に沈んだような感覚を覚えたが、その直後彼の体は椅子もろとも、1mも深く落下したような感覚に襲われた。

「何だ、この感覚は・・・、まさか沈没」
「いや、そんなことは有るまい、この不沈豪華客船が、まさかそんな簡単な事で・・・」

モリスン氏は椅子から立ち上がることもでき無い状況の中、とっさにそんな事を考えていたが、次の瞬間今度はさっきの反対で、下から突き上げられるような感じがしたかと思うと、いきなり空中に放り出されるような衝撃を感じた。

そしてそれが終わると今度はまた深い奈落のそこへ沈んでいくような・・・。
「地震だ!」誰かが大声で叫ぶ。
だがこんなことは信じられない事だが、それからこの豪華客船は船体を大きく傾斜させ、その後はぶるぶると不気味に震え始めたのである。

テーブルからはグラスが下に落ちて割れ、またあちこちで皿やガラス、調度品が下に落ちて壊れる音が聞こえる。
「キャー、助けて」
船内はたちまち物が砕け散る音と、人々の悲鳴で大パニックとなって行った。

そしてその後この客船は、どう言う訳かまるで軽快なリズムを刻むように揺れ始め、それはまるで豪華客船がダンスをしているような感じになった事から、船内のあちこちで急激な船酔い状態の者が続出し、そこらじゅうで紳士や婦人達が嘔吐している、まことに見るに耐えない状態となった。

「おい!、救命ボートはどこだ」
「助けて、キャー・・」
豪華客船の乗客たちは先を争って甲板に向かって走り出し、それに対して船員が「大丈夫です、安心してください」と声を限りに叫んでいても誰も言うことを聞かない。

みんな制止する船員を殴ってでも、力ずくで救命艇を降ろそうとし、また我先に救命艇に乗り込もうと怒号が飛び交い、甲板は騒然となった。

どれくらいの時間が経過しただろうか、やがて少し冷静になった乗客たちは、眼前に広がる穏やかな海と、そして辺りには氷山らしき物陰も無く、また船から煙も出ていない状況に気づき始め、いつしか豪華客船の異常な揺れも収まっていたことから、今度は「今のは何だったんだ」と言う感じになって行った。

それから船員達があちこち点検を始めたが、船体にはどこにも異常はなく、機関も正常、やがて「ビショップス、ロック」の灯台が見え始めた頃には「この船には故障はありません。予定通りロンドンに入港します」と言う船内放送が流れ、これでホッとした乗客たちは、やっと落ち着きを取り戻したのだった。

ロンドンに入港した「クィーン・メリー」号、この豪華客船はそれから船体をくまなく点検されたが、どこにも異常は無く、何の損傷も無かった。
また当時豪華客船の操舵室には5名の船員がいて、彼等は何れも大きな波や氷山などを確認していない。
「ただ穏やかな海だった」と証言している。

さて話は変わって、場所は石川県能登町小木港(いしかわけん・のとちょう・おぎこう)、ここではこの4、5年海が穏やかな状態の「なぎ」と呼ばれる日に、何故か船が上下50cmから60cm、水平方向には2m程も揺さぶられる現象が多発している。

小木港は日本屈指のイカ釣り船団の港だが、ここに入ってくる150トンから200トン級のイカ釣り船でも大きく揺さぶられ、漁師でも立っているのがやっとの状態になる。

風も無く、波も無い穏やかな日、突然激しく揺さぶられた船の係留ロープはちぎれ、荷揚げ用に港へコンベヤーを渡している状態なら、このベルトコンベヤーを破損するケースも現れており、同港では少なくとも2007年前後から19件の報告が石川県漁業協同組合小木支所に寄せられているが、何れも潮位の上昇も波も無い状態で発生するこの現象は、漁業関係者の間では「こみ」と呼ばれ、「こみ」とは潮の異常な海域を指している。

そしてこのような場合は「内部波」と言って、海底で起こる異常な潮の流れによって発生した表面上に変化を表さない波が、影響していると言われているが、波に振動が無くそこで浮いているものに対してのみ振動が伝わる言う観点から、こうした波の発生原因も、またなぜ振動が起こるのかも今だ物理学的説明がつけられていない。

小木港では1981年から新港整備事業が始まっており、この事業に関連して2003年には、それまで繋がっていなかった港の防波堤が全部繋がり、こうした時期から異常振動が始まったのではないかとする意見も有るが、2003年では7年前からこうした現象が現れているはずで、ここ4、5年と言うことで有れば、誤差の範囲かも知れないが、タイムラグが有るように考えられる。

むしろ2007年前後と言うことであれば、「能登半島地震」によって起こった海底の異常と言う考え方の方が、可能性として高いようにも思われ、また事実石川県と富山県の一部では、2007年ごろから謎の「空気振動」現象が頻発している事実がある。

この空気振動は地面が揺れるのではなく、空気の振動によって家屋などが揺れる現象で、ジェット機の加速振動、隕石の大気圏突入時の振動、雷の振動の可能性を排除した状態で起こる「ドーン」と言った衝撃音を伴う、最大震度4程度の振動のことで、こうしたことを鑑みるなら、空気を伝わる振動も存在することを、これらの現象は示しているように思うが、気象庁、及び大学の理学部などは原因不明としながら、「空気振動」と地殻変動の可能性を否定している。

船がまるでダンスをするように踊りだす・・・。

さてその原因は見えない海の波か、それとも大きな空気振動か、いずれにしても目に見えないだけに人間には不思議に思えるこの現象、54年前も「謎の事件」だったが、現在でもやはり「謎の事件」のままである。





「グリーン車に乗る」

横綱と言えば、大相撲力士の中で最高位に君臨している者を指すが、この地位は本来地位ではなく、大関の中で最強の者に対して使うことを許される「尊称」だった。

江戸時代に編纂された伝書にはこう書かれている。
城や屋敷を建てるおり地鎮祭に大関二人を招き、お払いの地踏みの儀式を免許することを「横綱乃伝」を許すると言った・・・。

つまりは横綱の称号は、このような「地鎮祭」などの儀式を、興行の土俵に持って来たことが始まりのようであり、大相撲は神道の儀式からそれが発祥し、またこの儀式が規範となっている。

1789年(寛政元年)11月、大関「谷風」と「小野川」に横綱伝授の儀式披露があり、両大関はしめ縄を腰にまとって土俵入りをしたが、これが当代新しいもの好みだった江戸庶民には大受けし、この江戸興行は大成功を収めた。

このことから「谷風」「小野川」以降も「横綱」の伝授儀式は、大相撲興行に取り入れられていくことになるが、それでも依然「横綱」は地位ではなく、横綱として土俵入りできると言う「名誉称号」の範囲を出ることは無かった。

「横綱」と言う文字が始めて大相撲の番付に登場したのは1890年(明治23年)のことであり、このとき「横綱」の下には「西の海」と言う力士の名前が記されていた。

現在のように「横綱」が最高位の力士と明文化されたのは1908年(明治41年)の事であり、相撲協会によって定められたが、当時の相撲協会は大きなもので言えば関東の団体と関西の団体が存在し、これが統合されて「大日本相撲協会」が発足したのは1927年、当時協会の会長は陸軍大将が務めた。

そして「大日本相撲協会」が「財団法人日本相撲協会」と改称されたのは1958年のことであり、これが現在の「日本相撲協会」のことになるが、太平洋戦争敗戦以降の相撲協会トップは歴代、元力士が務めるようになった。

また「横綱」と言うものに関して、ここにその発祥時に措いて深く携わった存在として熊本の「吉田司家」(よしだつかさ・け)が有り、同家の言い伝えによれば11世紀末、当時の後鳥羽天皇から「相撲行司官」として「追風」の称号を与えられたことにより、「吉田司家」は以後相撲に関するあらゆる意味での権威者となったとされている。

それゆえ「吉田司家」は江戸時代には徳川将軍の上覧相撲に携わり、「谷風」(第4代横綱)や「小野川」(第5代横綱)に横綱の免許を与えたのも「吉田司家」であり、これ以降同家は横綱誕生には必ず関わっていくことになるが、同じように「吉田司家」は行司の最高位「立行司」(たてぎょうじ)の免許伝授も行っていて、こうした意味から同家に措いては江戸時代から「相撲の家元」と言う位置付けがあった。

「吉田司家」はもともと故実や伝統、行儀作法、しきたりなどを代々司る志賀家の流れを後継した家だが、こうして江戸時代から明治、大正、昭和と相撲界の権威者として君臨した「吉田司家」、しかし太平洋戦争終結後、同家は内紛を起こし、多額の借金によって破産状態となったことから、1950年ごろから同家と相撲協会の関係は悪化し、1951年ついに相撲協会は「吉田司家」と断絶した。

第41代横綱「千代の山」からは、横綱の授与式には立ち会うが「吉田司家」は横綱の決定権を失い、ここに横綱の決定権、及び「立行司」の決定権も全てが「日本相撲協会」へ移譲されたのである。

ただこうした歴史的背景から、依然伝統的な権威者としての「吉田司家」には、その後も横綱昇進報告と言う形での挨拶は続けられていたが、これも1986年、第60代横綱「双羽黒」からは廃止され、それまで挨拶に伺えば故実(古い言い伝えや教訓となる言葉)を手向けられ、激励を受けていた、そうした最後の慣習まで消滅して行った。

また前述の「吉田司家」の話でも出てきたが、こうした大相撲の組織は力士達の他、例えば「行司」(ぎょうじ)の世界でも力士達と同じような縦の統制が有り、「行司」の最高位は「木村庄之助」であり、この名称が力士で言うところの「横綱」に相当し、第2位が「式守伊之助」の称号で、こちらはさしずめ力士で言うなら大関となろうか・・・。

「木村庄之助」や「式守伊之助」は共に「立行司」(たてぎょうじ)と言い、行司の中では最高位の格式を有し、腰に短刀を差すことが許されているが、これは相撲の軍配を差し違えた場合などには切腹する、つまりは命がけで勝敗を判断していることを示すためのものだ。

もともと行司の家系には「岩井」「木瀬」なども存在したが、木村、式守以外の家は全て断絶してしまい、従って現在行司と言えば木村、式守以外を名乗るものは存在しない。

そして木村家と式守家の違いはその軍配の持ち方にあり、木村家は軍配に対して握りこぶしが上になるように持ち、式守家は軍配に対して指が上になるように持つ、と言う違いが有るが、しかし両家は全く別のものかと言えば、この両家は別々に生活を営んでいる訳ではなく、例えば「式守伊之助」が出世して「木村庄之助」を襲名するなど、土俵の呼び名以外はそれほど明確な区別があるわけではなく、相撲場所によっては「立行司」が存在しない場合もある。

1993年九州場所で65歳だった第28代「木村庄之助」が定年退職したおり、「木村庄之助」も「式守伊之助」も、共にこれを襲名する立場にまで達していた者がおらず、1994年夏場所で三役格だった「式守錦太夫」が第28代「式守伊之助」に昇格するまで二場所の間、実は大相撲には「立行司」が不在だったことがある。

更に「呼び出し」の世界、ここでも行司と同じように「立呼び出し」が最高位になり、「三役格」「幕内格」「幕下格」と行った格付けがあり、「立呼び出し」「副呼び出し」がそれぞれ1名ずつ、「三役格」が3人、「幕内」「十両格」がそれぞれ5人ずつとなっているが、行司は全て番付に載るものの、「呼び出し」は十両格より下の格付けの者は記載されない。

「行司」や「呼び出し」の世界と言うと、軍配を持ったり、呼び出しをしたりだけが仕事かと思うかも知れないが、その実土俵以外の仕事も多く、「行司」は事務的な仕事、「呼び出し」は土俵作りなどの肉体労働もしなければならず、ちなみに大相撲巡業の移動などでグリーン車が使えるのは、「呼び出し」の「三役格」以上と言う事になっている。

また大相撲の基本となるべき「番付」だが、これは実は「行司」が書いていて、用紙は和紙で縦が57・5cm、幅が43・8cmで、5段に分かれているが、上段にいくほど地位は高く、下段になるに従ってその地位は低くなり、幕下以下では俗に「虫眼鏡」と言って、虫眼鏡で見なければ分からないほど小さな字で書かれている。

「番付」の文字書体は独特であり、こうした書体のことを「根岸流」と言い、通常は「幕内格」クラスの「行司」が主導してこれを書いているが、近年私の知るところでは1990年中ごろに活躍した「木村容堂」などが印象に残っているが、現在は2007年から「番付」を担当している幕内格行司、「木村恵之助」の手によって番付表が書かれていると聞いている・・・。



「国防の現実」・Ⅱ

1960年の日米安全保障条約改定時、当時の内閣総理大臣「岸信介」と、「ハーター」アメリカ国務長官との間で交わされた公文書には、陸軍1個師団以上のアメリカ兵の配備変更、中長距離ミサイルの持ち込み、日本から行われる戦闘作戦行動の場合は、日本とアメリカの事前協議が行われる事をアメリカは了解したとなっているが、これまでに同事案でアメリカから事前協議があったことは一度もなく、従ってアメリカ軍の装備、兵員数、作戦展開などは一切日本が把握できない状態となっている。

その上で、アメリカ軍内部には機密漏洩の恐れから、日本への事前通知が制限されていて、この場合は日本が有事の際ほど、日本にアメリカ軍の作戦要綱などは通知されない仕組みになっている。

特に民主党政権になってから、この政府に対する危機管理能力の有無にはアメリカが強い警戒感を示していて、万一作戦が日本側に漏れた場合、早速それが国民にまで報告され、マスコミがミサイル迎撃システムの配備地域まで公開してしまうようでは、作戦に支障が出るからである。

従って今回、2010年11月23日に起こった北朝鮮による韓国領に対する攻撃事件にしても、事前に佐世保ではアメリカ軍が動いていて、実際に警戒をしていたが、自衛隊は何もできなかった。

その原因は2つある。

一つは日本の防衛省にある「情報本部」の規模の小ささであり、1997年から戦略情報本部が防衛省の前身である防衛庁に設置されたが、その人数は1600人、内、実際に情報収集活動をしている者は1300人だが、この情報収集活動が全国6ヶ所で電波を観測しているに過ぎず、また別の80人は情報収集衛星の画像解析に要員として派遣されているが、未だにその活動はアメリカの商業衛星「イノコス」などの画像解析に留まっている。

つまりは情報の部分でもアメリカの統制下にある情報しか、日本は手にすることができない状況なのであり、これに2つ目の原因である伝統的な日本政府の危機管理能力の欠如が重なっている。

菅総理が韓国に対する北朝鮮の攻撃事実を「報道で知りました」と言う言葉は、日本の国防の実情を如実に物語っていると言えるだろう。

これは2006年の内閣府による調査だが、「日本が戦争に巻き込まれる危険性があると思いますか」と言う世論調査をした結果、回答者の45%が「その危険性ありと回答し、「危険がないとは言えない」とする回答も32・6%あった。

実に全回答者の78%が日本には戦争の危機があると答えたのであり、「戦争の心配はない」と答えた人は16・5%、「分からない」とした人は5・9%だった。

ちなみにこの調査は、2006年7月に頻発した北朝鮮のミサイル連続発射事件以前の調査結果であり、同じように2003年1月、つまりはイラク戦争勃発以前の同じ調査でも、戦争の危険があると答えた人は43・2%、その可能性がないとは言えないと答えた人は38・8%で、その合計は80%、戦争の恐れはないとした人は11・1%しかいなかった。

またベトナム戦争時の1969年には、日本が戦争に巻き込まれる危険性ありと回答した人が25・1%、その可能性は否定できないとした人は26・9%で、その恐れはないとした人が23・1%、1981年、強硬なレーガン政権が発足した時期だが、この時の調査でも「戦争の危険がある」とした人が28%、「その可能性は否定できない」とする人が32・2%、「危険はない」とする人が21・3%になっている。

そしてソビエトが崩壊し、東西冷戦が終結する直前の1988年の同じ調査、ここでは戦争の危険がありと答えた人は21・5%、その可能性は否定できないが32・1%、戦争の恐れはないとする人は31・3%だった。

つまり日本人が戦争に巻き込まれるのではないかと言う危機感は、ソビエトとアメリカが一発触発状態だった東西冷戦時代より、現代に近くなるほど増加しているのであり、

その要因の第一は「北朝鮮」の軍事力の膨張と、その不安定化、そして中国に対する相対的なアメリカの影響力の低下が上げられるだろうが、最後に決定的な原因は日本政府の危機管理能力の欠如、いや現在に至っては政権担当責任者の「不在」状態と言うべきか、このことが日本国民の不安を現実以上にかき立てているのではないだろうか。

日本の政府、国会議員は既に日本と言う国家の統治能力を失って久しく、これはまさに幕府崩壊の江戸末期の様相ではないか、どこかで民衆の「ええじゃないか」と言う声が聞こえてくる気がする・・・。

眼前に広がる事実は、既に北朝鮮が日本を攻撃する確率を否定できなくなって来ている事を、示しているように見える・・・。



「国防の現実」・Ⅰ

 

 
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old passion's library         資料画像   撮影年月日不明

 

国防(national defense)と言う概念は、その国家の国民の生命、財産、領土、主権を外部の脅威から擁護することを主な目的としているが、第二次世界大戦以降の国際社会は、こうした防衛と言う一種受動的、若しくは「静的」な有り様から、能動的かつ「動的」な防衛概念へと移り変わってきている。

つまりもともと「攻撃」を意味する(offense)の概念を払拭する為に用いられた防衛(defense)の概念は、既に防衛の為の「攻撃」や「作戦」と言う概念に移り変わっているのだが、こうした考え方を国家安全保障(national security)と言い、ここから現状で安定している国際情勢の動きを、更に継続させようとする考え方が国際安全保障(international security)と言う概念であり、現在はこれから更に「人間の安全保障」(human security)、つまりは個々の人間の尊厳を重視する考え方まで提唱され始めている。

しかし日本の防衛省、アメリカの国防省を見ても分かるとおり、一つの行政機構と言う視点から、国家のどの分野を所轄するかを明確にするならば、その任は依然として「国防」の概念こそが基本とならざるを得ない。

こうしたことから日本の「防衛」と言うもの、その実質をを鑑みるなら、防衛省のうち、長官、副長官、政務官2名、及び「防衛施設庁労務部職員」、つまりは一般職事務官だが、これらを除く他の全ては「自衛隊の隊員」と言う事になり、この自衛隊員が日本の国防の任に当たっていることになる。

その内訳は「陸上自衛隊」が定員15万6122人で、実際の隊員数は14万8302人、定員充足率95%、「海上自衛隊」が定員4万5806人に対して実際の隊員数が4万4528人、定員充足率は97・2%、「航空自衛隊」は定員4万7332人に対して隊員実数が4万5913人、定員充足率97%となっている。

またこの他に「統合幕僚監部」の定員が2322人に対して、実際の定員数は2069人、定員充足率は89・1%となっているが、これらを合計すると自衛隊全体の定員数は25万1582人となり、その実際の隊員数は24万812人、定員充足率は95・7%となっていて、この自衛隊員は全て国家公務員の身分が保障がされ、彼等に支給される報酬は全国家公務員報酬の40%に相当する。(いずれも2007年現在)

そして日本に展開するアメリカ軍だが、こちらは少し古くて申し訳ないが、2005年度の段階で陸軍1790人、海軍4802人、海兵隊1万5533人、空軍1万4240人の、合計3万6365人が日本に駐留していて、海兵隊第3海兵遠征軍はアメリカに4軍存在する「海兵遠征軍」の内、唯一有事即応態勢にあり、沖縄の第3海兵師団、第1海兵航空団(基地は山口県岩国と沖縄普天間、司令部は沖縄)、及び第3海兵役務支援組織から編成されているが、これ等の兵員数はアメリカ軍の日本への申告であり、正確なアメリカ軍の人数は、その作戦移動等によって安定していないことから、日本政府は把握できない。

在日米軍の司令官は第5空軍司令官が兼務し、その司令部は東京都、横田基地にあり、この他に広義の日本防衛にはアメリカ第7艦隊も関与しているが、その兵員数はおよそ2万人、主要戦闘艦艇50隻、海兵隊機を含む艦隊搭載戦闘機200機以上を備える世界最強と言われる艦隊が、このアメリカ第7艦隊である。

実に地球の半分をカバーすると言われるこの第7艦隊、その根拠地はグアム以外は全て日本を定係港、つまりは母港としている。

旗艦「ブルーリッジ」と空母「キティホーク」の機動部隊11隻が横須賀を母港とし、これは2009年キティホークが現役を引退し、ジョージワシントンが後継艦となっても継続され、強襲揚陸艦「エセックス」等6隻は佐世保を母港とし、また沖縄ホワイトビーチなども第7艦隊の寄港地となっている。

更に佐世保の揚陸艦部隊にはトマホーク搭載のイージス艦や、遠征攻撃郡「ESG」なども編成され、こうした背景を考えると世界最強のアメリカ軍は確かに日米同盟に基き、日本防衛の役割も果たしてるが、その実日本防衛に関する直接的な貢献度に関して、アメリカ軍の7%が日本に対する防衛の貢献度であり、残りの93%は日本がアメリカ軍に基地提供で、貢献していると言うべきものであるかも知れない。

だがこうした実情でも、アメリカ軍の防衛能力はイコール日本の防衛の全てと言うべきもので、実際に日本が戦争に巻き込まれた場合は、日本防衛の全指揮権は恐らく在日米軍司令官、若しくは第7艦隊司令官がその任に相当することになるだろう。

                           「国防の現実」・Ⅱに続く





「とてもパニックな約束」・Ⅱ

1994年4月、モロッコのマラケシュで締結された第8回「GATT」の会議では「GATT」を機構として昇格させる、つまり「WTO」はこここで誕生した訳だが、この中では「WTO」の設立と共に、それまで世界各国でなかなか関税の調節が取れなかった、農業分野と繊維分野についても新たに関税の値下げが提案された。

だがこうした農業分野と言う、各国にとっては安全保障上にも重大な影響を持つ案件は、簡単に協定が成立することは不可能であり、ここでは先に目覚しい発展を見せる電気通信、金融、運輸などの各国統一政策を規定した、「サービス貿易に関する一般協定」「GATS」(General Agreement on Trade in Services )の方が先に効力を発揮することになるが、ここで求められたものは「最恵国待遇」の義務とそれに関わる「透明性」である。

なかなか趣き深いことではあるが、その発足の当初は「無条件MFN」を国際社会に求めた思想の成れの果てが、そこに同じ「最恵国待遇」を義務とし、また透明性と言う余りにも漠然とした実現不可能な条件を付帯して、その流れである「WTO」の基礎的な下部組織である「GATS」にこれが受け継がれたのであり、ここで世界貿易は自由を求めるためにより深い不自由を招く、今日の世界的な民主主義の思想傾向と同じ矛盾を抱えていった。

またこうした経緯から「WTO」に昇格しても一向に埒の明かない農業交渉は、基本的に世界的な自由貿易を目指そうとする国際経済の前に立ち塞がり、このような現実を前に各国は、その交渉国数規模を少しずつ落としながら、より狭い範囲での交渉妥結を目指す、「GATT」の初期段階と同じ方向へと向かって行き、日本で言えば世界的規模が「WTO」で有るなら、それよりワンランク下の交渉が「APEC」(アジア太平洋経済協力会議)であり、ここでは世界人口の41・4%、GDP(国内総生産)の合計は57・8%、世界貿易の47%に相当する国々が参加しているが、この会議は「非公式フォーラム」であって何の拘束力も持っていない。

いわゆる自由参加の「お茶会」でしかないが、こうした会議の性格は国際的に経済が停滞すると各国が自国のみを守ろうとする、保護主義的な傾向になることを抑止し、ブロック経済対立とならないようにと言う意図が有るが、その背景には第二次世界大戦では、経済的に追い込まれた国家が世界的な保護主義とブロック経済によって更に追い込まれ、それが引き金になって戦争が勃発したことを潜在的に警戒する欧米の意図があるためである。

それゆえ「APEC」で決議されることは毎回決まっているのであり、それは「自由貿易」の推進と、「世界経済の発展」の2つだ。

そしてこうしたいくつもの事情が違う、しかも経済大国を含んだ集まりでは、そうした大国の目をかすめて、いかにして自国が発展すれば良いかと考える諸国からすれば、全く効力のない集まりでもあることから、シンガポール、チリ、ニュージーランド、ブルネイの4カ国で設立した経済協力機構がTPP、「環太平洋連携協定」である。

従って「TPP」は「WTO」の中の「APEC」、「APEC」の中の「TPP」と言う位置づけになるが、「TPP]の凄さはその内容にある。

「連携国による関税の完全撤廃」を主眼するこの協定は欧州連合「EU」にも匹敵するものだが、こうした場合事実上この4カ国にあっては国家は存在しても、経済的な国境がなくなることを意味していて、勿論これによって工業などの輸出は促進されるが、逆に農産物などは国内の農業が他の協定国の安い農産物によって駆逐される恐れも発生してくる、言わば経済発展を第一に考えた「覚悟」が必要な政策協定でもある。

またその国家規模や、経済規模に措いても突出した国家がないことにより、協定内の公平性を保った発展が望まれるが、この動きにはペルー、マレーシア、オーストラリア、ベトナムなどが新たに参加を希望していて、この辺まではおおよそ妥当な感じがするが、これにアメリカが参加し、日本が参加するとなると少し話は違ってくる。

これは明確な「TPP」協定の有名無実化である。

冒頭でも述べたようにこうした「最恵国待遇」と言うものはその規模が少数の国家同士の方が協定しやすく、またそれによって経済大国に対抗できるメリットが生じるのであり、そこに大国が参加し、また加盟国が増加すると、そもそも始めに目指した目的が達せられないばかりか、そこではまた何も決まらない状態が発生してくる。

戦略とは経済大国に向けられた言葉であり、提携とは経済規模の小さな国家同士のこと以外に有り得ず、そこへ経済大国が加盟した時点でこうした協定は意味を失う。
その上で日本が現状で同国内の農業政策を引っ張りながら「TPP」に参加するなら、間違いなくほかの諸国の足を引っ張るだろうし、日本国内の農業は壊滅するだろう。

更にアメリカの意図は経済がブロック化してくることに対する防衛策として、「TPP」の参加を考えているのであり、この根底にはこうした小さなブロック経済地域が増加すると、そうしたブロックごとの対立が発生し、そこで国際紛争が発生してくることの危機感があるからだ。

中国と言う大国の台頭で国際情勢は予断を許さないものとなって来ている上に、これ以上の紛争の勃発はアメリカと言えども手が出せない状態ともなりかねない、そんな恐れからアメリカは自国の参加により「TPP」を有名無実化しようと言う方向が何となく垣間見えるし、また人気急落のオバマ大統領にとっては、少しばかりの点数稼ぎの側面も有るのかも知れない。

「WTO」ドーハ・ラウンド以降アメリカとヨーロッパ、それに日本は農業問題で対立、更には後進国と先進国間では鉱工業生産品に関する対立と、何れも関税に関しての対立が続いている現状、そして戦後一貫して続けられた農業政策によって、世界で最も脆弱となった農業を抱え、輸出産業で国内経済の生計を立てている日本は、ここに来て自国の輸出では自由貿易が不可欠な反面、米に関しては保護主義しか道のない状態、つまりはその発足から「WTO」が抱えている問題を、そっくりそのまま抱え込んだ状態に陥っているのである。

アジアの仲間外れになりたくない、農業問題の解決が付かず、その初期段階から「TPP」への参加が危ぶまれていた日本は、ぐずぐずした奴は置いて行くぞと言うアメリカの態度に恐れをなし、手の平を返したように「菅直人内閣」に措いて「TPP」参加を表明したが、この内閣には何のビジョンもなく、遠からぬ将来、日本の「TPP」参加は事実上の見送りを余儀なくされるだろう。

残念だが国際社会も、アジア諸国もこうした面では同じ見かたをしているように私は思う。

友人同士の約束を町内会の全員に適応することは無理だ・・・。
しかし世界は何故か政治でも経済でも、そして法でも軍事力でも、やはり同じ考え方を持ってきた。

それゆえ現代国際社会は理想と現実の狭間で喘ぐこととなっている。
何故このことに気が付かないのか、私はそのことが不思議でならない・・・。



「とてもパニックな約束」・Ⅰ

最近突然聞いたこともないような言葉が一夜にしてクローズアップされ、一体何のことかさっぱり分からない事が多くなってきたが、今夜は「TPP 」と言うものに付いて少し考えてみようか・・・。

TPPの正式名称は長くて分かりにくく、しかもこれが日本語に約すると更に訳が分からない。

「Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement 」、日本語に直すと「環太平洋戦略的経済連携協定」、これを省略して一般的にTPPと表記するが、日本語の文字列を見ても分かるように、その文脈の中に「戦略的」と「連携」と言う2つの相反する言葉が並ぶことから、この会議の本質は「喧嘩しながら仲良くしましょう」若しくは、「仲良く喧嘩しましょう」と言う、まるで禅問答のような趣旨に基づいていることが分かる。

最も最近こうした日本語は多く、日本政府と中国政府が盛んに口にする「戦略的互恵関係」なども、考えてみれば何の意味か良く分からない言葉であり、こうした言葉から私などが連想するものは「極度に保護主義化したブロック経済バトル」かも知れなず、どこかでこうした言語に対する嫌悪感も感じずにはいられない。

そしてTPPだが、これは「とてもパニックな(約束)・promise・プロミス」と憶えておくと一番分かり易いのではないかと思う。

TPPは最近になって良く耳にする言葉だが、この理念となるものの歴史は意外に深く、そして広く、長年に渡って国際社会が大義名分としながらも、未だに本来持つ相反性の整合性が付かず、実現できない課題を包括している問題の一つとも言える。

言わば大変混乱した約束、目標と言うことができるが、この概念の始まりはMFN(most favored nation clause)「最恵国待遇」と言う制度にあり、元々は17世紀ヨーロッパの通商政策に関わる制度がそのモデルとなっている。

これはつまり通商上の交渉によって当事国間で決まった関税や投資などの条件の内、有利な待遇となるものに関しては、第三国に対しても与えようと言うものだが、MFNにはもともと2つの種類が存在し、「無条件MFN」と「条件付MFN」があり、「条件付MFN」に付いては、例えば2国間交渉で有利な条件を得るために譲歩した部分が存在した場合は、その譲歩した部分と同等の譲歩を条件に、加盟国全体にその有利な条件が付与されるとしたものだ。

だが実際には条件付MFNは各国の事情の違いから、同等の譲歩と言うものの客観性そのものが難しく、従ってこうした広い概念は、事実上は2国間交渉の積み上げとして同盟内部が目標とすべきものでは有っても、規則どおり実現することは困難だった。

1860年に締結されたイギリスとフランスの通商条約に措けるMFNは、その後全ての通商条約のモデルとなったが、こうしたMFN「最恵国待遇」の概念は本質的に現在の国際法や国際連合、また欧州共同体「EU」の概念の中に色濃く残されており、従って現在国際社会が持つ理想と現実の乖離は、このようなところから始まってきているものと言う事ができる。

それゆえ例を上げるなら、EUは現在でも条件付MFNであり、あらゆる数値目標を実現した国家のみが加盟を許されるとした反面、経済など永続的に安定したものではないものを条件とした時から、加盟時に条件がクリアされていても、その後経済危機から基準を下回った国家が存在しても加盟が許され、片方はそうした経済危機状態からすればかなり優秀な国家であっても加盟が認められないなどの矛盾を生み、さらにはEU全体が同じ経済政策を取った場合、その政策は事実上共同体内部でも衝突が起こる。

また大変広範囲な共同体はその意思決定に措いても大変な時間を要し、更には各国間での調整が困難となって物事はなかなか決まらず、結果として経済的な不振国は同じ同盟内部の、優良な経済状態である国家の足を引っ張ることになっていく不公平性を生み出してしまう。

ゆえにこうした「最恵国待遇」などの概念は、本来狭い地域の少数国家間では有益な制度ではあっても、これがグローバル化し広範囲化したときは意味を失うのであり、また何か決まったとしても、それは意味のないものでしかないことは、始めから分かり切っていることなのである。

「仲良くしましょう」と言う目標はあっても、人間が誰とでも良好な関係を築けないことをしても、またもっと分かり易く言うなら、例えば友人同士で「俺とお前の仲だ、これからは2人の間で一切の隠し事はせずにいような」と言う約束をしたとして、その約束を町内会全体に拡大したら、そこで何の意味を成すか、またそれが実現可能なことかどうかを考えれば明白な結果が見えるだろう。

実はTPPはこうした議論をしているのであり、これは「とてもパニックなプロミス」なのである。

そして「WTO」「世界貿易機関」の前身である「GATT」(関税と貿易に関する一般協定)設立の基本理念は「無条件MFN」、つまりは2国間交渉の当事国に与えられた最恵国待遇を、無条件で第三国にも与えることを採択し、こうした基本理念から世界貿易の発展をはかろうとしたが、この最恵国待遇や「GATT」の本質は「関税」に関する通商交渉と言う意味合いが強かった。

またこうした「GATT」の高邁な理想は、その発足直後から2国間で協定した関税の条件が、全く何の苦労もなく「GATT」に加盟する他の第三国にも適応される、つまりは友人同士で決めた約束が、町内会の全てに適応されると言うような矛盾を発生させ、この解決策として「GATT」は言わば「ただ乗り」状態の国が増えないように、各国の協議を細分化し、できるだけ小規模単位での合意を目指し、これにより適応範囲が広がり「ただ乗り」する国が増えることを抑えようした。

しかしこうした方式では各ブロック間の整合性、調整が付かず、グローバル化は逆に遠のく結果となり、第6回のケネディ・ラウンドからは、世界各国が一同に会して協議し、統一した目標を立て、それに向かって協議して行こうとする方向へと方針が変更されたが、そのためには「GATT」の権威を高める必要性が生じてくる。

もともと世界的には第二次世界大戦終結時、「IMF」(世界銀行)と「ITO」(世界貿易機関)の二つの機関を設置する構想があったが、1948年当時設立された「GATT」は、「ITO」の準備段階のものでしかなく、従って「GATT]は協定でしかなかった。

このことから世界貿易機関「ITO」の設立も検討されたが、これはアメリカ議会の反対に遭って実現しなかった経緯があり、そこでこうした協議の世界的な統一感を得るためには、どうしても「ITO」と同等な権威を持つ機関の設置が必要となって行ったのであり、そこで設立されたのが「WTO」( World Trade Organization)新しい「世界貿易機関」である。


                      「とてもパニックな約束」・Ⅱに続く




「白いカーディガン」・Ⅱ

初めて核家族と言う概念を世に知らしめたのは1949年、アメリカの文化人類学者G・P・マードックだが、ここで使われた「核」とは物質の最小単位である「原子核」を意味していて、これ以上分割することができない、最小単位としての家族を「核家族」と呼んだのであり、これは夫婦とその子供、または片親とその子供と言った関係までを指している。

従って日本に措ける三世代家族とは核家族の結合家族と考えられていて、親の核家族と長男の核家族が、長男を接点にして結合したものと言うことができるが、日本は太平洋戦争後核家族化が進み、そこでこうした核家族の問題点が多く発生し、また社会やマスコミもこの問題を取り上げたことから、どうしても戦前の家族は核家族が少なく、理想的な家族関係が有ったのではないか、それに比べて戦後は核家族が異様に増加したのではないかと考えがちだが、この認識は改めたほうが良い。

実は日本の核家族化は戦前から始まっており、昭和16年(1941年)でも、日本の家族形態は核家族が53%を占めていて三世代家族は39%に過ぎなかった。

そしてこれが1993年の調査では核家族が59・4%、三世代家族は12・8%であり、確かに三世代家族は減少したものの、核家族はそれほど顕著に増加しているとは言いがたく、またこの核家族化は減少傾向になってきている。

すなわち親となる世代の高齢化に伴う介護の必要性から、日本の家族はこれから出生する子供はいなくても、高齢者と同居して介護をしなければならなくなる家庭が増加するためで、事実1980年代後半から核家族の割合は微弱ながら減少に向かっていて、これから更に経済が冷え込み、経済的困窮人口が増加することを鑑みるなら、核家族は厳しい現実の前に更に加速度をつけて、減少していく場面を迎える可能性も否定できない。

そして我々が核家族化による問題点としてきたものは、実はその少ない家族人数が引き起こしていたのではなく、家族と言う概念にあるその「精神性」の崩壊に原因があったとすべきかも知れない。

つまり単身赴任で事実上の別居となっている父親を家族と考える、このことを否定する者は少ないだろう。
しかし田舎で一人暮らしをする祖母を家族と看做すかと言う点では、恐らく夫と妻の意見は分かれるのではないだろうか。

またその子供にとっては年に1度しか会ったことのない祖母、それをそもそも家族の概念がはっきりしない子供が判断することは難しく、結局そこでは通学している学校などの関係と、万一板ばさみになったとしたらどのような選択をするか、さらには経済的理由でも、例えば夫の父親を家族とするか、つまり絶対的な責任を家族全員が夫の父親に対して感じるかと言えば、これは難しいに違いない。

家族の意見とは何かを考えたとき、確かに戦前であれば道徳的建前が相互監視される状態で社会が動いてきたことから、道徳上の一般概念を家族と言う単位で否定することはできなかったが、現代のように経済が重視される社会に有っては、家族の意見と言えば妻の意見が優先される、若しくはもし多数決の原理を用いるなら、妻と子供が反対すれば、父親はそこで自分の親であってもそれを家族と考える事を否定されることになるのである。

その上で近年増加してきている離婚、そして再婚だが、こうした関係では更に家族が不透明となって行き、例えば夫の前妻との子供と新しい妻の関係、妻の前夫との子供と夫の前妻との子供の関係、さらには妻に引き取られた子供と夫に引き取られた子供の関係など、そうしたことを考えるなら親子、兄弟姉妹と言っても血で繋がった者が家族であると言う概念は一般化できなくなりつつある。

血で繋がらないものが家族となり、血で繋がった者が他人となってしまうことも家族には有り得るのであり、ここで家族をもう一度深く考えるなら、家族は血で繋がっていることをして、また現実に暮らしを共にしているから家族と呼ぶのではない。

そこには自身がどうしても妥協できない精神性、つまりは思いによって、また互いが家族と認め合う「概念」によってしか、家族と言うものが成立しないものだと言うことである。

また極度に成熟した社会は、そこに個人の享楽的嗜好までも個性や自由と看做す風潮を発生せしめ、ここでは例えば30年前までは許されなかったものまでその許容範囲が広がり、公序良俗に鑑みて不道徳とされる男女の関係まで含めて、あらゆるモラルが破壊され一般化し、その中で家族と言う概念よりは経済、また個人の快楽に重点にが置かれた形骸的「家族」も増加している。

子供を連れて結婚し、そして結局夫婦生活に重点が置かれるなら、そこでは間違いなく子供はいつか邪魔になってしまう。

では子供は祖父母の元へと考えても、祖父母もまた自身らの生活を重視することから、特に年齢の若い祖父母ほど孫を家族とする概念が薄く、従って子供は行き場を失うが、子供にとっての唯一の頼りは「血の繋がり」でしかない。

どんなに辛い目に遭っても、そこしか帰る道のない子供のことを考えるなら、安易に肉体的快楽の為に婚姻関係を継続する、また子供に暴力を振るう男を許容するなどは、主観では有るが、私は容認できない。
そしてこうしたことは、ある種社会が共通に含み持つ道徳観でしか留めることはできない。

法は常に結果論でしかない。

いつも人を監視することはできず、従って自分の監視は自分が行うのが最も理想であり、この点で他の事はともかく、子供の命に関わることは最低限のルールを守る社会、または子供の命を最優先させる「家族」の概念が必要となる。

男と女、婚姻関係の乱れは家族の乱れとなり、そして社会のあらゆるモラルを少しずつ壊していく。

だからこそ男と女の関係の乱れは国家の危機に繋がるのであり、ここで冒頭の話に立ち返るなら、寒い冬に捨てていくわが子であっても、そこに自分が着ていたカーディガンを脱ぎ、それを着せて去って行った母親の思いと、後年成長し、そのカーディガンを大切に保管し、自身を捨てた母親に感謝する息子の有り様、私はこの親子の関係をして理想ではないにしても、何か大切な親子と言う最小単位の家族が持つべき真実を見る思いがするのである・・・。



「白いカーディガン」・Ⅰ

その17歳の少年の口から、一瞬天を仰いで後、少しだけ胸を張ったようにして語られた一言は、本当に何気ないレポーターの質問に答えたものだったが、多分このレポーターの質問自体が、本来シナリオにあったものではなかったように私には思えた。

今から30年ほど前だろうか、あるテレビ番組の中で一人の少年が発した一言、この言葉がその後おりに触れて皆に使われるようになったが、恐らく私の知る限りでは、この一言を一番最初に口にしたのは、当時17歳のこの少年だと記憶している。

同番組の名称は忘れたが、当時中堅のシンガーソングライターとしても活躍していた「やしき・たかじん」氏がレポート役を務めたその番組では、親がいなくて施設で育てられた子供達が成長していく姿を取材する内容だった。

そしてそこで取材に応じていたのが、当時17歳の少年だったが、彼の生い立ちは生まれた直後から厳しいものだった。
身も凍るような寒い冬の朝、教会の前で小さな毛布と白いカーディガンに包まれて、彼は発見された。

生後間もない彼は母親によって捨てられたのだったが、既に体温も下がって危険な状態だった彼は、すぐに病院に運ばれ何とか一命を取りとめ、法令に従って彼の名前はそこの市の市長が命名し、そして彼は施設で育てられることになった。

同じように親から捨てられ母親の名前すら分からない子供達と一緒に暮らしながら、彼はそこから学校に通い、そして義務教育が終わってからはアパートを借りて、働きながら定時制高校に通っていたが、そんな彼をこの番組は取材していた。

彼にとって唯一母親の証となるものは、残された白いカーディガン一枚、彼はそれをきちんとたたんで箪笥の中にしまっていた。

そんな少年の部屋を取材していたレポーターの「やしきたかじん」氏、色々話しているうちに彼はこんなことを少年に尋ねる。

「親をどう思う、憎んではいないか・・・」

これに対して少年はちょっと上を見上げるようにして一瞬黙ってしまったが、やがて少しだけ姿勢を正してこう答えた。

「僕は今働いているし、高校にも行っています。同じように施設で一緒だった仲間も沢山います。だから幸せです」
「そしてこんな幸せになれたのは産んでくれたお母さんがいたからです。お母さんが産んでくれなかったらこんなチャンスもなかった。だからありがたいと思っています」

この言葉を聞いた「やしき・たかじん」氏、何度も黙って頷き、かけていた眼鏡を外して涙を拭うと、番組であることも忘れ、「お前、良い奴だな、何か困ったことがあったらここへ連絡してくれ、きっとだぞ」と言い、自分の名刺を差し出し、何度も「また連絡してくれ」と言いながら取材を終えたのだった。

それから後暫くして、結婚式で花嫁が自分の母親に対する感謝の気持ちを伝える言葉として、それまでは「ありがとう」だけだったものが、「産んでくれてありがとう」と言うような風潮が発生したが、私はこうした世の中の軽薄な風潮に、何某かの不快感を感じられずにはいられなかった。

くだんの少年が少し清々しい表情で語る母親への感謝の気持ちと、花嫁が涙ながらに言う「産んでくれてありがとう」ではその本質が違う・・・。

家族とは何か、そうしたことを考えるとき、私は今も産み落とされた直後に捨てられながら、それでも母親に感謝していると言った少年の言葉を思い出す。
会ったこともなく、名前すらも知らない女性、それでも彼にとっては間違いなく存在する「母親」であり、彼の心の中にはカーディガン一枚になっても、そこに「家族」が概念されるのである。

家族とは誰と誰を指していて、その特色とは何か、例えば太平洋戦争以前に概念されていた家族と、現代の日本人の「家族」では決定的な差が有り、また家族の有り様が多様化している近年の傾向を鑑みるなら、そこに限りない不透明、かつ曖昧となってしまった家族の有り様が見え、この国のどこかで根底を流れる、決定的な無意識の曖昧さと重なって見えてしまう。

                        「白いカーディガン」・Ⅱに続く



「走る、歩く」

「runner's high」、ランナーズ・ハイと言う現象がある。

自分が無理だと自覚しない程度の速度で、5分から15分ほど走り続けると、心拍数や換気量が安定し、何故か気分が爽快になって来ることがある。

この状態を「セカンドウインド」と言うが、ほぼ全てのマラソンランナーが、必ず1度は経験したことがあるだろうこの現象から、更に20分から40分ほど走り続けると、今度はもう幾らでも走れるのではないか、また今の自分の前に敵はいないと思えるほど気分が高揚し、それはやがて恍惚感へと繋がっていく。

この現象、状態を「ランナーズ・ハイ」と言い、このときのマラソンランナーの脳波はシータ波を示していて、これは人間がリラックスの頂点に達した状態、つまりは睡眠に入る寸前の状態の脳波と同じものである。

人類は二足歩行を始めたことにより、急速にその知能が発展し、そして進化したと言われているが、高度に進んだ科学文明は今度は逆に人間から歩く機会を失わせ、移動は飛行機や電車、または自動車、そして階段のの昇降までもがエレベーターやエスカレーターとなった今日、本来で有れば歩くことをすれば全てが解決するであろう心身の病気を予防する為、新たに健康のために歩く、または走る運動をしなければならなくなった。

日本人が1日に歩くその歩数は年々減少傾向にあり、1997年に措ける日本人男性の1日の平均歩数は8202歩、女性は7282歩だったが、これが5年後の2002年には男性が7676歩、女性が7084歩にまで減少し、また職業によっても、例えば男性サラリーマンの1日の平均歩行数は凡そ6000歩、そして専業主婦は3000歩だが、これは日本人が平均80年に渡って歩けたとするなら、男性サラリーマンは一生の間に12万km歩いたことになり、地球を3周した距離に等しく、また専業主婦も地球を1週半、歩いた事になる。

また人間の歩幅はそれぞれの人によって違うが、自分の身長から100cmを引いた歩幅を1歩として、1分間で歩ける歩数はおよそ100歩、この速度で大体1万歩を歩くなら、そこで消費されるエネルギーは300kcalとなり、これを単純に体重に換算するなら、1万歩を歩いた人とそうではない人の体重差は、1年間で5kgと言う事になる。

こうしたことから現在日本では、国民向けの健康対策として1日平均、男性は9200歩以上、女性についても8300歩以上、歩くことを推奨しているが、皆さんはどうだろうか、一日どれくらい歩いているだろうか・・・。

そして普通歩くと言う行為は到着すべき目的があったり、また景色を眺めて散策するなど、一般的にはこれをスポーツとは感じていない。

しかし近年この歩くと言う行為をスポーツとする考え方が現れ、こうしたスポーツの感覚で歩くことを「ウオーキング」と言うが、平均的な歩幅となる70cmから80cmより少し広めに、また早足で歩いた場合、その運動量は破格に増加していく。

「1分間に100歩」歩いたとして、平均歩幅を80cmにすれば、1分間に80mの距離を歩くことになり、この速度で歩くときの消費カロリーは[0・5×体重×距離]で算出できる。
体重60kgの人は、5km歩けば150kcalを消費することになり、平均歩幅80cmで歩くなら、時間に換算しておおよそ1時間歩けば、この運動量に達する事になる。

単純に健康を考えるなら、80mを1分間で歩くペースで、約40分のウオーキングを一週間に3回も行えば充分である。

歩くと言う行為と走ると言う行為は、基本的に全く違った運動だと考えるべきで、そうした意味ではウオーキングは歩く事と走る事の中間に位置する運動だが、これがゆっくりでも走ると言うことになると、運動消費カロリーは更に大きく消費され、こうしたことから始まったのが、自分に無理のないペースで走る事をスポーツと考えた「ジョギング」と言うものである。

「ジョギング」はアメリカの「ジョン・F・ケネディ」大統領が、健康維持と心臓病の予防のために推奨したことに端を発しているが、1960年以降、急速に世界的なブームとなった。

心臓病の引き金になる肥満はカロリー消費が最も有効な予防措置となる。

1週間に消費されるエネルギーが2000kcal以上の人が心臓病になる確率は3・5%、これに対して消費エネルギーが1週間に2000kcal以下の人の場合はその確率は5・8%にまで上昇する。

100kcalのエネルギー消費は、歩くなら30分かかるが、ジョギングなら10分であることを目安に、できれば1週間に2000kcalを消費できるだけの運動をすることが望ましい。

だがジョギングは基本的には歩くことよりは過激な運動となる事、また完全にスポーツの概念を持っていることから、健康管理に充分配慮する必要があり、例えばジョギング中の突然死の原因として、前夜の睡眠不足、または飲酒などが挙げられている事を鑑みるなら、少なくとも前夜睡眠が取れなかった場合や、飲酒した直後のジョギングは避けるべきである。

また食事をした後すぐのジョギングも嘔吐などを引き起こすことから、少なくとも食事後2時間はジョギングをしないほうが良い。

また走ると言う運動は、歩行運動の3倍の負担が膝にかかることから、平常時、階段昇降の際に膝が痛いと感じるときなどは、続けているジョギングを休めば改善してくる場合もあり、このようなジョギングが原因の膝痛を「ランナーズ・ニー」とも言う。

最後に、スポーツには無酸素性エネルギーを利用する無酸素運動と、有酸素性エネルギーを使う有酸素運動があるが、基本的には吸い込んだ酸素のみを爆発的に使って行う運動のことを無酸素運動、そして酸素を取り込みながら継続的に行う運動のことをを有酸素運動と言い、100m走は無酸素運動、そしてマラソンは有酸素運動と憶えて置くと良いかも知れない・・・。







プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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