「2つの需要」

農産物に措いてはいったん生産が始まると、その供給量は固定され、その年の生産量は決定されたものとなるが、例えばキャベツを生産したとして、このキャベツを1個500円で販売することを目的とした場合、生産農家は1500万個のキャベツを市場に供給するものとして、キャベツ1個の値段が500円になるものとする。

ところが実際生産してみると、その年は豊作で2250万個のキャベツが収穫された場合、価格の下落は増えた50%分の生産を支えきれず、キャベツ1個が250円に下落するのでは無く、実際は1個100円にまで下落するのであって、その結果80億円の予定だった生産農家の総収入は24億円に留まり、この為に農産物に関しては豊作で有るほど収入は減少する。

このような現象はどうして起こるかと言えば、キャベツの価格が低下したからといって、いきなり需要が増えないからであり、キャベツが安くなったからといって、では今までの倍の量のキャベツが食べられるかと言えば、それができないからである。

価格がa%下落したとき、需要がb%増加したとすると、その比率b/aは、価格が1%下落したら需要が何%増加するかを表し、これを需要の「価格弾力性」と呼ぶ。

キャベツの価格は500円から100円、つまりは80%も価格が下落したが、これはその価格まで落ちなければ、50%も増加したキャベツの総量が消費者需要の飽和状態を緩和できなかったと言うことだ。

この年のキャベツの価格弾力性を計算してみると、0、625となり、「1」より小さくなってしまう。

ここで言う価格弾力性「1」と言う数字は、価格が1%下がれば需要が1%増加することを差していて、この場合であれば農家の収入は減少しないが、価格弾力性が「1」を下回ると、加速的にその消費財の価格は下落していくのであり、こうして価格が下落しても需要が伸びにくい物の需要を「非弾力的需要」(inelastic)と言う。

その一方例えば新発売のパソコンなどは、その当初から需要の価格弾力性が「1」を超えている。
このことから家電製品や自動車などは価格が下がってくれば、需要は当初の予想以上に上昇し、販売収益も増加する事になるが、こうした消費財の需要を「弾力的需要」(elastic)と呼ぶ。

従って、需要と言っても大まかには2種類が存在していて、その一つは始めから需要の上限があるもの、そしてもう一つは価格が下がっていけば、それに応じて需要が拡大していくものとが、この社会には存在している事が分かる。

それゆえ、もし国家が経済対策を講じるとしたら、こうした2種類の需要に対して同じ1つの経済対策では、どちらか一方の需要は、更に厳しい状態に追い込まれると言う実情がある。

また現実的な事を言えば、農産物に対する経済対策は外から、つまり海外から入ってくる価格の安い農産物に対して、「保護主義」以外に対策は無く、この場合「弾力的需要」、いわゆる工業生産でその国家の繁栄を築こうとするなら、「非弾力的需要」「農業」は切り捨てる方法がまず1つ、農業を保護して工業生産収益の減少には目を瞑る方策が1つ、そして両方を上手く誤魔化しながら、その都度国際社会に理解を求めていく方策の3つがあるが、いずれも大変厳しい道が待っていることになる。

そして「弾力的需要」では市場価格を重要視して行かないと、それはどこかの時点で破壊曲線が訪れる事になる。
すなわちパソコンを1000万台作って、これを10万円で売ろうとしたが余り売れなかった。

では8万円に値下げしたらどうかと言うことになり、これで全て完売したと言うケース、これは市場価格の健全性を持った販売と言うことになる。

しかしこの近年日本政府が行ってきた補助金制度だと、これは他の消費財需要に対して市場価格の健全性が無く、結果として未来の需要を現在に措いて使ってしまう傾向を持つ。

エコカー減税、家電エコポイント制度などの政府補助事業が終了した時点で、日本の自動車業界は大不況、家電メーカーも韓国のサムスン電気と比較しても、大きく体力を失ってしまった現実が現れるのは当然の結果と言える。

その上で更にこうした補助事業の実質効用を鑑みるなら、政府補助金制度はデフレーションを加速させてしまった、若しくは未来に措けるデフレーションを深化させてしまった側面も持っている。

消費者はエコカー減税があるので自動車を買った、エコポイントが付くからエアコンを買ったのであり、ここに企業が対前年比と同じ売り上げか、少なくとも対前年比の売り上げ低下率を、10%以内に抑えたいとするなら、政府補助金分か、それに近い価格の値引きをしない限り、政府補助金が支出されていた時期の売り上げを確保できなくなるのであり、ここに「弾力的需要」はその弾力性ゆえに、更にデフレーションの深化と言う事態に直面するのである。

日本の企業がこれまで利益を出してきた背景は、基本的な企業努力としてリストラを行い、あらゆる無駄を排し、まるで雑巾を絞るような努力で、少ないながらも利益を確保して来たのであって、売り上げが伸びたからではなかったのだが、そこに政府の補助金制度が始まり、ちょっとしたバブルになったことから、雇用状況は悪いまま固定されてしまった。

だが政府の補助金制度が終了した時点で、企業は補助金制度が施行されていた時期の雇用を維持できなくなり、こうした厳しい雇用の状態は、一時的には固定された状態をして安定と看做されたが、その実、愛知県の失業率を見れば、政府の補助金制度が企業の体力を更に奪っただけと言う事実は拭い去ることができない。

民主党の仙谷官房長官は某テレビ番組の討論で、税収を上回る国債を発行して国家予算を組むような、こんな滅茶苦茶な国家予算をあと何回組めると思っているのか、と言う司会者の問いに対して、「あと2回だ」と明言したが、これだと来年の今頃は、日本国民は路頭に迷っていることになるのだろうか・・・。

2011年、少しは希望の見える年であって欲しいと願う・・・。




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「こだわりは女を背負って・・・」

むかし、二人の修行僧が旅をしていた。

彼等は一人は仏門の先輩、つまりは兄弟子で、もう一人はその後輩の弟弟子(おとうとでし)だったが、ある村に近付いたとき、先日来の長雨のせいだろうか、道に大きな水溜りができていて、衣の裾をたくし上げなければ渡れない状態になっていたので、仕方なく二人は衣をたくし上げ、帯に挟んで水溜りを渡ろうとしていたが、そこへ年の頃なら18、19歳くらいか、若い女がやってきて、水溜りの前で難儀をしているようだった。

「仏門にある者は女に手を触れてはならない」、おとうと弟子は水溜りを前に渡れず、難儀している女を無視すると、先に水溜りを渡り始める。
そして当然兄弟子も自分の後に続くものと思っていた。
だがここでおとうと弟子は信じられない光景を目にしてしまう。
「娘さん、この水溜りは難儀なことだ、良ければ私が背負って渡ってあげようか」

何と兄弟子はそう言って娘に声をかけると、頷く娘を背負って、さっさと水溜りを渡ってしまったのだった。
「有難うございます。おかげで助かりました」
「なんの、これしき、お気を付けて旅をお続けあれ」
丁寧に礼を言う娘に笑って答えた兄弟子は、その足でさっさと先を急ぐ・・・。

これに対して面白くないのはおとうと弟子だった。
そも仏門にある者が女に手を触れることすら禁じられているにも拘らず、それを背負うとは何事か、邪な行い、いやこれをして姦淫とも言うべきものだ・・・。
おとうと弟子は鬼のような形相になり、面白くなさそうに先を行く兄弟子の後に続いた。

水溜りを渡るその以前までは、あれやこれやと話をしながら歩いていたおとうと弟子、しかしやがて、全く声も出さずに不機嫌そうについてくるおとうと弟子に気づいた兄弟子は立ち止まり、「どうした具合でも悪いのか」と尋ねた。

「兄弟子は仏法の戒律を犯し、女と語り、そして女に手を触れるどころか、それを背負うた。そも煩悩の中でも最も戒められるべき姦淫の罪を犯し、そして知らん顔をしている。どうしてこのようなことが許されようか・・・」

おとうと弟子の口からは、これまで溜まっていた不満が関を切ったように飛び出してくる。
一通りおとうと弟子の話を聞いていた兄弟子、しかしおとうと弟子の話が終わると、大声で笑いはじめる。

「おまえあの水溜りからずっと女を背負うていたのか、それは随分重く疲れたことだろう」
「私が背負うた者は難儀に遭っている人だったのだが、お前には女に見えたのだな・・・」
兄弟子は更に大きな声で笑い続ける・・・。

この話は私が書いた以前の記事でも出てきたことがあるかもしれない。
また仏教の説話としても有名なものだが、水溜りを前に難儀している女を、女と捉えれば、その者を助けることはできない。

だがそれを女と意識せず、難儀に遭っている人だと思えば助けることができる。
してみれば姦淫の罪とはその対象が女であるか否にあるのではなく、自身の内にあることをこの話は説いている。

また同時に女に捉われ、それをずっと背負ったまま、鬼の形相で歩かなければならなかったおとうと弟子、彼が捉われたものは女だけではない。
「仏法」と言うものにまで捉われ、本来であれば、仏法を修める者ならなおの事、難儀している者に手を差し伸べねばならないところを無視した。

「仏法」に捉われる余り、「仏法」を忘れてしまったのであり、結局水溜りを渡って以降、彼はずっと背中に女を背負い、水溜りの近くを彷徨っていた事と同じなのである。

そして我々一般庶民はこのおとうと弟子を笑えるかと言えば、さに非ず。
更に愚かな事をしている場合がある。
実はこの話に出てくるおとうと弟子の有り様を言葉にするなら、「こだわり」と言うのであり、仏法のみならず、古来より人の有り様として忌むべき姿とされているものだ。

然るに現代社会はどうか、「こだわりの職人」、「こだわりの一品」などまるで「こだわり」を良いことのように用いているが、「こだわり」は本来人の有り様として褒められた状態ではないどころか、およそ物作りに有っても、人の姿勢に有っても、これは具合の悪い状態を指していて、そのような者が作った品など始めから評価の対象の外にあり、また人であるならそのような者は、周囲に悪い影響を及ぼすことしかできない事を指している。

「こだわり」は漢字で書くなら「拘る」と書くが、「拘」と言う字の意味は、基本的には「何かに捉まる」、「留め置かれる」「身の自由を奪われる」の意味を持っている。
それゆえ「こだわる」と言う事は、何かに捉まった状態を指していて、狭い中を彷徨っている有り様を示している。

冒頭の仏教の逸話で言うなら、修行僧のおとうと弟子は女を背負って苦労したが、これを自慢げに「私はこだわりの○○です」と言う者は、女によって水溜りに引きずり込まれている状態に気づかないかの如くの、愚かさを持っている。

その道に精通した者、またはそれを目指す者であるなら、少なくとも自分を形容する言葉くらいは自分で調べておくのが、その道を目指す者の謙虚な有り様であり、こうしたことも知らずに、自身を「こだわりの○○」と称する、若しくは人がそれを形容することを止めない者は、その時点で本来なら全ての信用を失うべきものである。

ゆえに「こだわり」を使うなら、自身を謙遜し、小さな声で恥ずかしげに使うならまだしも、「こだわりの○○」と呼ばれて喜んでいるなら、それは馬鹿にされていることを誇らしげに自慢している行為だと言うことを知るべきである。

人は全く「こだわり」を持たずには生きられないが、これは自慢すべきことでもなければ人に誇れることでもない。

間違いなく「恥ずべき事」なのであり、「こだわりの一品です」と言われて料理が出されたなら、「巨人の星」の「星一徹」のように料理をひっくり返し、「たわけ!」と一喝するのが正しい日本語の理解と言えるだろう・・・。







「罪の誕生と変遷」

人類文明が発生したごく初期の段階、またそこに宗教的権威を持った統治が為される初期の段階に措ける裁判では、裁判と罰則が同時である傾向にあった。

すなわちここでの罪の概念とは「自分と神」または「自分と自然信仰」との関係で罪が概念され、この場合は罪が確定した段階か、それで無ければ自分で罪を意識した段階から罰則が発生することになる。

罪と罰の関係に措ける最も理想的な形とは、自分が罪を意識できる状態である事を指していて、つまりは自身のうちに法を持ち、それに従って普段の生活を営むことが基本となる。
それゆえこうした「個人の内の法」とは、その個人が絶対的な権威を信じることができる、若しくはそれに順ずるものでなければ成立せず、古代に措ける法の権威とは「神」である必要があった。

ゆえに、古代に措ける罪と罰の有り様とは「神判」であり、この概念は「裁判」とは異なるものである。

そして日本に措けるこうした「神判」の記録としては、仁徳天皇(にんとく天皇・257年ー399年?)の子である「允恭天皇」(いんぎょう天皇・376年ー453年?)が行った「盟神探湯」(くがたち)が記録に残っている。

「允恭天皇」には大変心が優しく、謙虚であったとする人物評が有り、上に2人いた皇子の「履中」(りちゅう)、「反正天皇」(はんぜい天皇)が、次々崩御したことから大王となったが、こうした経緯からその統治に対する正当性を、神に問う意味が有ったのだろう、豪族達の氏姓(うじかばね・素性の意味)を正すとして「盟神探湯」を行っている。

「盟神探湯」とは古代日本の「神判」の一つであり、別名「誓湯」(うけいゆ)とも呼ばれるが、熱湯を釜の中に入れ、その中に手を入れさせ、火傷になるか否かでその人物の行いや、言葉の正邪を判断するものだ。

この考え方の原点は「火」に有るが、「火」にはもともと嘘つきを見分ける霊力があるとされていた為で、こうした傾向は、性質としては後世に措いて全く正反対になってしまったが、キリスト教の「インフェルノ」、仏教の「地獄」などと源を違えていなかった可能性がある。

また「盟神探湯」と言う漢字は後世の「当て字」であり、「くがたち」の「く」とは「火」を現していて、基本的には「輝く」の「かが」、「かくつち」(火の霊)の「かく」と共通する言葉で、これを「たち」、つまり「たつ」とすることから、「断定」、「断罪」を表している。

分かり易く言えば、「火の霊によって罪が断罪される」事を指しているのであり、ここでは人間界で言うところの裁判、罪の確定、そして罰と更生が包括された形になっている。

日本に措ける「盟神探湯」は恐らく「稲の道」を辿って入って来たものだろう。
インド、照葉樹林地帯のチベット、中国雲南、江南(揚子江流域地帯)と言うルートを辿ったものに違いない。
そしてこうした「盟神探湯」の思想は、江南の地から東南アジアへも伝播して行ったのではないかと思われる。

インドでは19世紀の近代に措いても「火」を用いた「神判」が存在していたし、フランス植民地時代の「カンボジア」でも、こちらはフランスの記録だが、やはりカンボジア王国で行われていた「火祀裁判」の記録が残されている。

またこれに関して興味深いのは、6世紀ごろに編纂された中国の史書「梁書」(りょうじょ)の記述であり、ここには現在のカンボジア地域が「扶南」(ふなん)と呼ばれていた時代の記録が残っていて、「梁書」中には次のような記述がある。

「扶南では罪を犯した疑いのある者に対して次のような神判を行っている。彼等は3日間身を清めた後、赤くなるまで熱せられた斧を持って7歩、歩かされる。若しくは熱湯の中に投げ込まれた金の環や卵を手探りで拾わされ、罪があればその手は焼けただれるが、罪が無ければ何事も起こらない」

この記録は5世紀末か6世紀初頭の様子を記していることから、奇しくも日本の允恭天皇と同じ時代、近代に措いてカンボジア王国と称される同じ地域で、日本と同じ形式を持つ「神判」が行われていた事を示すものであり、こうしたことから5世紀から6世紀、少なくともインド、日本、東南アジア地域では、同じ概念の「神判」をして裁きを行う統治形式が存在していたことが分かるのであり、あるいはこうした傾向が当時のアジア社会の流行だった可能性も否定できない。

「火」による裁きの記述はこの他「日本神話」中にも出てくるが、「瓊々杵尊」(ににぎのみこと)は「木花開耶之姫」(このはなさくやのひめ)がたった一晩で妊娠したことを不可思議に思い、もしかしたら自分の子供ではなく、国神の子供では無いかとの疑惑を持った。

そしてこうした「瓊々杵尊」の疑惑に対し、「木花開耶之姫」はこう言う。

「産屋を囲みて、そこに火を放ちください。もし生まれて来る子供が尊の子供で無いなら、子供は焼かれるでありましょう」
しかし周囲を火で囲まれた産屋で3人の子供は無事生まれ、これをして「瓊々杵尊」は「木花開耶之姫」に対する疑いを解いたのである。

中々面白い話だが、そもそも神ともあろう者が自分の子供すら分からず、それを火の精霊、火の神をして正邪をはからせる辺りに、実はこうした「火の神」「火の精霊」の存在が、「瓊々杵尊」のような神より歴史が深いことを示しているようにも見て取れる。

そしてこのことは「火祀」よる「神判」が、意外に古くからアジア共通の概念として、長く用いられていた可能性を示すもので、この概念の根本は「裁き」と「罪」、「罰」、「更生」がセットだったことである。

だがこうした「罪の概念」として、個人と神との関係が持つ総合的な部分は次第に移り変わり、そこに人為的なものが入らない、つまりは権威としての正当性は、やがて「神」の手から「神」の代理となった者の手に移り変わってしまい、裁き、罪、罰、更生はそれぞれが分離していくようになって行ったに違いない。

すなわちここに「神判」は「罰」としての意味を持って来たのであり、それは取りも直さず、初期の集団、集落が組織として定着し、そこから本来は神の領域であった「罪」が、人間同士によって規定されるようになる、いわゆる人間が「罪」を作る社会が発生してきたのであり、もともと裁きと罪、罰、更生は同じ概念の中にあったのだが、そこから罪が分離されたことにより、罰が分離され、やがては裁きが必要になって行ったと推察されるのである。

この傾向は世界的には、恐らくメソポタミア文明や古代バビロニアの初期には始まっていただろうし、エジプトではもっと早い段階から分離が始まっていたかも知れない。

そして日本でも「允恭天皇」の時代に措ける「盟神探湯」などは、まず間違いなく「神判」ではなく、「罰」の概念が存在していたと思われるのである。
「神」の名の下に人が人を裁くなら、それは結果として「神」を否定し、神の領域に人間が足を踏み入れる事になる。

人類が持つ「平和」や「正義」、そして「裁判」と言うものが、いつどの時代であっても、「究極的根拠」を持たない理由は、意外にこんなところに端を発しているのかも知れない・・・。







「地球環境と言う幻想」

「閉じた世界に措けるエネルギーの総量は変わらない」
これは「エネルギー保存の法則」または「熱力学第一法則」とも呼ばれるが、この原理は質量と言う概念にも等価性を有し、質量の場合は「質量保存の法則」と呼ばれる。

エネルギーは多様な形を持っていて、例えばヤカンで湯を沸かした場合、水を熱して沸騰した湯に変化させるための火力は空気中の酸素を消費し、そして熱を発生させ水を沸騰させるが、この時最初はガスや電気としての形を持っていたエネルギーが熱に変わって、水が湯に変化するのであり、ここで水を湯に変化させるために使われた元のエネルギーと、湯を沸かすために熱に変えられたエネルギー、水の温度上昇に変化したエネルギー、消費され酸素が二酸化炭素に変化したエネルギーなどを全て集め、その比較をするなら、エネルギーの総量は湯を沸かす以前の状態と、湯が沸いた状態でも地球上に措いては等価である。

つまり特定の閉ざされた空間、地球などがこれに該当するが、ここで存在するエネルギーの総量は常に一定であり、変化しない。
しかしエネルギーは他のエネルギーに変換されることを繰り返すと、閉じた空間の中で拡散、分散を起こし、その意味ではエネルギーは消費される、科学的に言えば、他のエネルギーに変換されるたびに人類が使かえるエネルギーとしては劣化していく。

人間は基本的には炭素ユニットであり、これ自体がエネルギーの塊でもあり、同時に周囲に放出されるエネルギーの源でもある。
従って人類が繁栄すると言うこと、人口が増えると言うことは、同時に他のエネルギーがより多く、人類と言う形のエネルギーに変換されていると言う事になる。

そしてこうしたエネルギーの質が、人類と言う形態をどれくらいの総量で保持すべきかと言う事は、その炭素ユニットエネルギーが決定権を持たない。

全ては地球、宇宙と言う環境こそがその決定権を有しているのであり、こうしたことから言えることは、現存する炭素ユニットエネルギー、すなわち人間は、実際に存在している数をして常に適正な人類の総人口と言えるが、この炭素ユニットは、一つの個体が常に他のエネルギーを取り込んでエネルギー個体を保持するため、そこにエネルギー変換を増大させる現象を起こしていく。

ゆえに炭素ユニットエネルギーの増大は、「熱力学第一法則」からしても、必ず限界点を持っていて、そのときはエネルギーの質が拡散され、炭素ユニットが抽出困難なエネルギー形態の増加と言う結果を生み、炭素ユニットエネルギー塊の総量は、減少期を迎えることになる。

このことから人類に関して言うならば、そろそろ地球のエネルギーが人類に変換され、それが保持される限界点が訪れている。

これから以後人類は、20年ほどは増加傾向にあるが、これは劣勢環境に措ける生物学的システムよって、本能的な増殖を起こすからであり、この意味に措いては本来人類が基本とするべきエネルギー変換以下のエネルギー変換環境での人間の増加、つまりは乾燥地帯や、生活環境の厳しい地域での人口増加の可能性は有るが、その他の地域では全てに措いて人口は減少していく可能性の方が高い。

これは勿論生物学的な仕組みとしてもそうなのだが、エネルギー変換の点に措いても整合性を持っている。

豊かな暮らしはより多くのエネルギー変換、エネルギー劣化をもたらし、本来は2人で変換すべきエネルギーが1人で変換される、場合によっては1人で本来の10倍のエネルギーが変換されるからであり、この意味では変換されるべきエネルギーの総量に限界点が有る限り、どこかでは新しい炭素ユニットの誕生が阻害されることは正しい。

そして人類はどうやら漠然とだが、こうした自然の摂理に対して危機感を持つようになったが、そこで出てくるものは「地球環境」と言う言葉である。
しかし近年叫ばれる「エコ」と言う言葉は「地球」を概念しているようで、実は人類の事しか考えられておらず、しかもその観点は大変狭義なものでしかない。

電気自動車やハイブリッド車はエコな感じがするが、しかしこれを新たに生産するためのコストは、やはりどこかでエネルギーなのであり、CO2なのである。
また電気はエコかと言えば、これも火力発電では大量のエネルギーが変換され、原子力発電に至っては、これを制御するために膨大なエネルギーが変換されている。

では風力発電はと言えば、これも同じように建設のためにエネルギーが変換され、そしてその設置場所のエネルギーを変換させ、さらには維持に対しても多くのエネルギー変換が為され、結果として「熱力学第一法則」から言えば、それは人間の目にはエコに見えながら、実質は何も変わっていないのである。

同じことはソーラー発電でも同じことが言え、ソーラーシステムは突然空間から発生するのではなく、どこかのメーカーが作っているのであり、その製作時に出るCO2の総量と、他の例えばお金を出して買った電気のために変換されたCO2の総量は、それほど大きな変化がなく、また料金的にもソーラーシステムの耐用年数が20年なら、それを維持するコストと電気料金を払い続けるコストは大差がない。

更にこれはエコキュートも同様で、初期に支払う金額と、耐用年数を考えるなら、決してお徳でもなければ環境に優しいわけでも何でもないのであり、もっと小さな事で言えば、電気の消費を抑えてキャンドルナイトで過ごす運動も、その蝋燭はやはりどこかで作られたものであって、そこではCO2は排出されているし、蝋燭を買いに行くために自動車を使った場合は、当然逆効果となる。

残念なことだが、現在世界で騒がれている「地球環境に優しい」や「エコ」の概念はこの程度でしかない。

そこにあるものは、自分の目の届く範囲ではゴミがなくなったと同じレベルなのであり、結局は資本主義の拡大に引きずられた幻想でしかなく、そこには地球のことなどは全く考えられず、個人がその気分に浸っているだけの現象が起こってきている。

自分の部屋からゴミを出してしまえば、そのゴミは消えてしまうのではない。
それはどこかへ持って行かれて、そこに積み上げられるのであり、CO2も同じことだ。
そしてそのゴミは元は何かと言えば、食料だったり家電製品と言う人類が変換し易いエネルギーだったものだ。

しかし人間が消費してエネルギー変換させゴミと言う、人間が次にエネルギーに変換しにくいエネルギーに変換させてしまい、結果として人間は、こうした人間が変換しにくいエネルギーの増大によって追い込まれる事になるが、それでも地球全体のエネルギーの総量は何も変わらず、地球は人類など生存しようが滅びようが全く関係がない。

人類はこのことをもう少し謙虚に考えて、言葉や行動を慎む必要があるかも知れない。
我々は存在しているのではなく、存在が許されているに過ぎない・・・。







「表情の修正」・Ⅱ

さて話を元に戻すと、プンプン怒ってエレベーターを出て行った女はその後、他の乗客からどう思われるかと言えば、皆気分は悪くなりながらも、共通の「怒り」の感情を感じるのであり、ここで言える事は、こうした場面で怒りを感じることが、他の乗客たちも共通して持っている「理解可能な感情」だと言うこと、女が怒るのは認知された行動になると言うことで、皆気分は悪くなるが、心の中では40%ほどが女に理解を示す。

「そうだ、そうだ」と思っていることが多くなるのであり、この場合怒りの対象は存在しない、怒りだけが独立した感情となるが、このケースでも「怒り」と言う、薄い共有化されたコミュニケーションが形成される。

そしてこれが日本人には一番多いが「加減法」(modulation )と言う感情表現コントロールがあり、エレベーターで言えば、女性が少しだけ首を傾げて、そして出て行く場合である。
本当は心の中で「えーっ、何で・・・」と思っているのだが、そうした感情を見られまいとして、少しだけ不思議、不満そうな表情をする。

表情コントロールは、ある種のコミュニケーション的「変装」とも言えるもので、一般社会と言う環境では自分の本心を晒す事が危険、若しくは不利な状況を生むことが、どこかでは無意識の内に社会全体に認知されていることから、特に意識しなくても、多くの人間は特定の場面では同じようなリアクションをするようになり、そのリアクションがあることで、相互の感覚的共有感が発生するが、人間の注意と言うものは大きなものは見逃し、微妙な誤差を拾い易い。

それゆえ「変装」でも全く周囲と同じような格好をするか、それで無ければ相当周囲とは浮いた格好をした方がバレにくい。
プンプン怒る女、「偽装法」はいわゆる派手な変装であり、「修正法」の女性は周囲に同化、理解を求めようとすることで、「格好の悪い状況」を変装させた。

また最後の女性のパターン、ここではエレベーターの他の乗客に対し、少しだけ本来の自分の感情から、何かを差し引いたような感情表現をすることで、「消極的」な雰囲気的共有を求めている。

格好の悪い状況を「消極性」によって緩和しようとしているのであり、「加減法」は常に一般的であることを価値感とする日本に有っては、無意識のうちに使われる最もポピュラーな感情コントロールと言える。

人間はコミュニケーションの多くを言語に頼っているように感じるかも知れないが、その実「言語」と言うものは最も信頼性の薄いものであり、そこに感情表現が加わって、言語に価値を生じさせている。

その中でも表情コントロールのような「無意識」の表現は一番信頼性があり、それゆえに初対面の多くの者に対し、一瞬で共有された感情を伝えることができるが、これは一方で「影響力が少ない」からでもある。

言語は感情表現でもあるが、「契約」でもある。

つまり「言語」は未来を持っているが、表情コントロールはその瞬間の表現であり、瞬間に完結したものとなるがゆえに、無意識の内に相互信用が発生するが、言語の持つ契約の部分では、常に未来は不確定であることから、このような瞬間的な相互信用、感情や意識の共有は生まれない。

おかしなものだ・・・。
人間は自分の意思を伝える為に言語を持つに至ったが、その実言語では人に確かなことが伝わらず、言葉ではない表情や動作、そして無意識のうちに現れる「変装」の方が一瞬にして理解されるとは・・・。

そのむかし「言葉」は「言霊」(ことだま)と呼ばれ、人間の魂を現すものだったと私は記憶しているが、もしかしたら現代の我々が使っている言語とは、「言葉」ではないのかも知れない・・・・。







「表情の修正」・Ⅰ

例えばエレベーターで、必死の思いでもうすぐ閉じようとしていたエレベータに追いつき、さて自分が乗った瞬間、総重量オーバーのブザーが鳴った場合、このときは例え体重45kgの女性で有っても、どこかでは深く傷つくことになるが、もっと気まずいのは周囲に対するリアクションである。

本当のところはエレベーターに乗っている人が何を考えているかと言えば、早くその最後の一人が出て行って、エレベーターが動くことを考えているのだが、こうした場面は状況が違えば誰にでも同じことが有り得る状況から、その最後の一人が行うリアクションまでセットになって、他の乗客は少し先の未来展開を予想している。

そしてその予想される未来展開の第一は、「笑い」であり、ここで最後の乗客、この場合は若い女性だったとしようか、彼女が苦笑いして「最近太ったのかな」と誰に言うでもなく言ってエレベーターを出れば、既に先に乗っていた客と女性の間には、ある種の共通した感覚上での相互理解が発生し、「運が悪かった」と皆が納得する事になるのである。

元々エレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったことに対して誰に罪が有るのでも無く、また最後の乗客にも非があるわけではないのだが、この若い女性がここでリアクションを間違えれば、本当は他人がそこまで思わないようなところにまで、自分で想像的に追い込んでしまい、傷を広げることになる。

人間はこうしたことが良く分かっているからこそ、そこに「体裁」と言うものが発生し、その「体裁」とは一見他人に対して為されているように見えながら、現実には自分のために為されている。

それゆえエレベーターで総重量制限のブザーが鳴ったとしても、黙って出て行っても笑って出て行っても、それは現実に何の変化ももたらさないが、日本人がここで苦笑いする民族的行動本能の根底には「自己保身」が生きているのであり、こうした笑いによる表情のコントロールを「修正法」(modification )と言い、同じ民族で同じ状況下に措いて、同じリアクションが為されることによって、そこに発生したある種の感情的起伏は緩和され、また言葉にはない薄いコミュニケーション、「安心感」が発生するのである。

そして予想される未来展開第二、「修正法」をリアクションした女性は大変素直で性格も優しく、他人に対する配慮も、自己顕示欲の度合いも程ほどに良い女性だが、これが少しプライドが高い女性になると、どうなるか。

「何よ、このエレベーター故障してるんじゃない」
顔を少し険しくしたスーツ姿の女は、プンプン怒りながらエレベーターを出て行くことになるが、これを「偽装法」(falsification )と言う。

本当はエレベータでブザーが鳴ったくらいでそこまで頭にくることはないのだが、やはりここでも「体裁」が付かないため、感じた以上の表情を作ることで、本来の感情を人に悟れまいとするのである。

第一の「修正法」は少し腹立たしい気持ちの上に、「笑い」を乗せることで自分の感情を保護したが、今度は少し腹立たしい感情に、より大きな「怒り」の感情を乗せることで、もともとの小さな腹ただしい気持ちをカバーしようと言うものだ。

同じことは例えば葬儀に措いてでも、本当はそれほど悲しい訳でもないのに、極端に悲しい顔をし、また時には自己暗示から涙を流す場合もこれと同じことが言え、こうした傾向が強まっていった場合、若しくは職業的に妥協を許されない状況のとき、人間は「無表情」になっていくものでもある。

前出の例で言えば、エレベーターのブザーを鳴らしたのが、極端に自己顕示欲の強い人間の場合は、「無かったこと」のようにして黙って行ってしまうのであり、同じようにこれがデパート女性店員の場合だと、軽く会釈をして、黙ってエレベーターから降りるのが正しくなる。

このように極端な自己顕示欲と、全く自己顕示欲の無い職業的リアクションには、ある種の共通的な傾向があり、こうしたことから考えられることは、極端に具合の悪い人間の行動と、洗練され、研究された人間の行動は、前者がその具合の悪さから来る不安感によって、後者はその職業的正直さによって、同じような行動になる場合があると言う事だ。

「表情の修正」・Ⅱに続く




「友へ・・・」


今日はブログ上の友人だった「るなさん」が、長い癌との闘いの末、2010年11月17日に亡くなられたとの報を頂きました。

それゆえ、彼女に神の祝福がありますように、そして今まで多くの人に勇気と希望を与え続けてくれた彼女に敬意を表して、彼女が大好きだった、また私も好きだった斉藤和義の曲の中から、「歩いて帰ろう」をかけて、追悼します。
     

                (尚新しい記事は都合により、明日に掲載させて頂きたいと思います)

Ⅱ・「夢で神が・・・・」

円はどれだけ大きさが違っても形は同じとなる。
これを「相似」(そうじ)形と言うが、円に措けるその周囲の長さと、直径の比率には常に一定の法則がある。

この一定の比率法則を「円周率」と言い、通常は「π」で表されるが、円に関してその面積や周囲の長さ、または直径を知ろうとした人類は、初期の頃、円周率を実際の計測から求めていた為、その数値には幅があった。

「3」や「3・16」と言った古代の円周率は計測数値による不確定さがあったのだが、歴史上初めて円周率を計算式から求めたのは「アルキメデス」であり、彼は円の内側に内接する正96角形の辺の長さの合計はπより小さく、同じ円の外側に接する正96角形の辺の長さの合計はπより大きくなることから、πの数値をほぼ3・14と計算した。

以来世界各国のあらゆる時代の数学者達はこの円周率が有理数なのか、つまりいつかは割り切れる数字なのかどうかを巡って、またより細密な近似値を求める方法を探って行ったが、日本では1722年、正1024角形から、収束していく数列の性質を用いた「加速計算法」を使って、小数点以下42桁までの円周率近似値を求めた者がいた。

「関孝和」「建部賢弘」の2人はそろばんで、小数点以下42桁までの正確な円周率をはじき出していたのである。

そして1882年、「フォン・リンデマン」は「π」が「超越数」であることを証明し、ここから円周率の計算は、人間の手の及ぶものではないことが分かったのであり、以後も現代に至るまで円周率は機械、コンピューターによって計算され続け、現代では1兆桁を遥かに超えるところまでその近似値は求められているが、ちなみにこうした円周率上の数列で、1から9の、どの数字が一番出て来るかと言えば、これが面白いことに均等な比率で出てくるのである。

更に例えば1円を年利100%で借りたとして、毎月複利なら1年後には返済額が(1+1/12)12 円となるが、これが半月複利なら(1+1/24)24 円となり、1日複利なら(1+1/365)365 円の返済額になって行く。

こうして複利の回数が増えていくとどうなるか、勿論返済額が膨大なものになる事は勿論だが、ここに元利の合計が一定の数値に近付いて行く現象が起こってくる。
これが「e」、すなわち「自然対数の底」と言われる数値であり、近似値は(2・718281・・・」となる。

数学者のジョン・ネイピア(1550-1617)は、こうした自然対数を全く無意識に使っていたと言われ、それゆえ「e」の数値は別名「ネイピア数」とも呼ばれるが、更に凄いのは、何の数学的教育も受けていないインドの天才数学者、「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」(1887-1920)であり、彼は「ネイピア数」「e」に関して驚愕すべき公式を多数残していた。

数学とは一般的にややこしい計算がでてきて、大変面倒だと思われるかも知れないが、実はその根底に潜むものはインスピレーション、または美的感覚と言うものかも知れない。

「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」は当時こうした素晴らしい数学理論が、どうして無学な彼から発生してきたのかに付いて、自身でこう語っている。

「夢で神が教えてくれた・・・」





Ⅰ・「語るべからざる数」

古代ギリシャの数学は線を点の集合と概念した。

この世界には2/3や5/7のように、「整数/整数」で表す事のできる数が存在するが、こうした数字のことを「有理数」(ゆうりすう)と呼ぶ。

古代ギリシャでは、「数」は整数、有理数を指していて、有理数はマイナスも含めると、その範囲では足し算、引き算、割り算、掛け算の4法則演算が可能となる完全な「数」だった。

しかし直角三角形の直角を挟むそれぞれの辺が1の時、その相対する斜辺をXとすると、ここにX2 =12 +12=2の要件が満たさなければならなくなる。
この時Xは一般的に√2と表されるが、では√2は割り切れる数字かと言えば、永遠に割り切れない数字であり、こうした数字のことを「無理数」(むりすう)と言う。

さて困ったことになった・・・。
線を点の集合と概念していた古代ギリシャ数学は、ここで世に発表してしまえば自身たちの存在が危うくなるかも知れない数学の摂理を見てしまったのだ。

つまり「数」を有理数だけとした時、線を点の集合と概念するなら、その点が未来永劫割り切れない場合、点はその中に無限の線を描くことになり、ここに線は点の集合(有理数の集合)ではないことが露見してしまうことになったのである。

ゆえに古代ギリシャでは、こうした未来永劫割り切れない数字、「無理数」の発見は数学界最大の不祥事となってしまった。

そしてその結果、「無理数とは外へ出してはならない数」、「門外不出の数」となり、ピタゴラス学派ではこの「数」を隠し通すために、口外した者は命を持って償うべき「恐ろしい数」とされ、事実「無理数」を語った者は、ピタゴラス学派によって「溺死」に処せられたと言う伝説が残って行くことになるのである。

こうして「数」の中には有理数と無理数が存在することが分かったが、では実数とは有理数と無理数の4法則演算で出て来る数だけなのだろうか。

例えばX2=12+12=2にしてもそうだが、こうした数は全て整数係数方程式の「解」となっているのであり、例題に措けるXの「解」が√2と言う事になる。

このような「数」のことを「代数的数」(algebraic number)と言うが、一方で19世紀に入り、こうした「代数的数」以外の「数」の概念が現れてくる。
それが「超越数」と呼ばれるものであり、円周率「π」や自然対数の底「e」などと言った数がこれに相当する。

「集合」の分野では「ヴァン図式」(Venn diagram)の中に、有理数と無理数、代数的数と超越数が対等形式で表記されているが、実数中の大部分が無理数であり、その無理数の殆どが超越数となる。

それゆえいまだに「実数」とうものがしっかり定義できない素因は「超越数」の存在が有るからに他ならない。

「e+π」などが未だに見当が付かない、全く不明な点を考えるなら、「数」と自然、森羅万象の理はどこかで融合しているのかも知れず、この世の事象に有理数は厳密には存在せず、しかも「数」は今も揺らいでいるのかも知れない。










「女性の肺癌に付いて」・Ⅱ

さらにこの他に近年発達してきた「温熱療法」に関して、癌細胞と正常細胞の関係に措いて、その修復性は癌細胞の方が正常細胞より熱に対して弱い。

放射線や抗癌剤で癌細胞のDNAに傷をつけても、癌細胞はこれをかなりの速度で修復していくが、温度が42度以上になると癌細胞のDNAは急激に修復能力を失い、細胞が死滅しやすくなる。

温度が43度を超えると、癌細胞はその内部成分の殆どでタンパク変性を起こす。

こうしたことから、どのようにして耐性を得、新しいタンパク質で補っていくかと言う点を考えるなら、特定の温度環境下に措ける代謝能力の違いが、癌細胞と正常細胞をとの熱感受性の違いを発生させる事になる。

「温熱療法」の優れた点は、抗癌剤に措ける癌細胞の攻撃が限定された目標であるのに対して、攻撃する目標が多岐に及ぶことにあり、腫瘍を局所的に加温した場合は、癌細胞を死滅させる効果とともに、周辺正常細胞が適度の加温によって、免疫機能上の耐性を向上させる効果も認められている。

最後に、癌の情報サイトに付いて、がん治療に関してはあらゆる可能性を求め、インターネットでの情報を検索するケースも増えてきているが、インターネットの中には良質な情報を提供するサイトと、宗教まがいの偏った情報を提供しているサイト、または悪質業者が開いているサイトなどが渾然としていて、どれが正確な情報なのかが判断できない状態となっている。

それゆえここにインターネットで癌治療に関する問題を検索する場合、最も信頼の措ける機関を列挙しておいたが、この資料は2008年のものであり、もし記載されているサイトが閉鎖、若しくは変更されている場合は何卒お許し頂きたい。

アメリカ国立癌研究所「NCI」は、世界最大の癌情報データベースを持っているが、この日本語のホームページが神戸の「臨床研究情報センター」で運営されている。
[http://cancerinfo.tri-kobe.org ]

日本の癌研究情報機関は次の4団体・・。
「日本がん学会」 [http://www.jca.gr.jp ]

「日本対がん協会」 [http://www.jcancer.jp ]

「国立がんセンター」 [http://www.ncc.go.jp/jp ]

「癌研究所」 [http://www.jfcr.or.jp/laboratory/tci/index.php

そしてこちらは癌患者の立場でのサイト・・・。
「キャンサーネット・ジャパン」 [http://www.cancernet.jp ]

「ジャパン・ウェルネス」 [http://www.japanwellness.jp ]



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