「消失する炎」・Ⅱ

ただ癌治療に措いて、特にステージが進行している方については、近代医学、薬学療法は間違いなくそこに「完治」が目指されていないことから、症状の緩和、延命と言う療法であり、ここではいずれかの時点の「死」が想定されることを鑑みるなら、投薬療法と、例えば温熱療法を組み合わせるなど、近代医学、薬学と民間療法の併用が一番効果が有るように思える。

癌克服の道は、こうしたさまざまな治療法から自分に最も適した療法、その組み合わせを探す道なのかも知れない。
癌は難しい病気だ、なぜならそれは自分自身の体が起こしている症状だからだが、人類は癌のことも分かっていなければ、自分自身の体のことも良く分かってはいない。

発症した癌を切除したとき、その切除面は再生細胞が活性化し、そして癌を追い出してしまうことがある。
だがその一方で免疫力が低下していれば、それはまた癌転移にも繋がる。

また進行癌の全身症状として発熱、食欲の低下、更にはその皮下脂肪の全てが失われるほどの体重減少、血小板の減少による大量出血、白血球減少による重篤な感染が起こる症状を「悪液質」と言うが、この「悪液質」は白血球の一種であるマクロファージから分泌される「カケクチン」と言う成分が原因となっている。

だがこうした「カケクチン」を含む一群の因子はTリンパ細胞のアポトーシス(細胞死)に関係するものと考えられ、人体の中の不必要なもの、あるいは有害な細胞郡を排除するメカニズムを持っている。

それゆえ「カケクチン」は癌末期の症状要因でありながら、癌細胞に対する破壊作用も持っている。
カケクチンの別名を「腫瘍壊死因子」「TNF」(tumor necrosis factor)と呼ぶのはそのためである。

癌に対する人体の防御反応の1つとして、癌発症者ではマクロファージがTNF(カケクチン)を大量に生成し、これが癌細胞の破壊には有効に働かず、「悪液質」となってしまうことを考えるなら、これを有効に働かせることができれば癌細胞を破壊することができる。

その観点から開発されたのが「TNF-α」だが、癌に有効な物質の殆どは、本来生体全てのバランスの上に成立しているものであり、従ってどんなに癌に対して有効なもので有っても、それだけを突出して使用すれば、副作用となる可能性の方が高くなる。

ゆえにこうした医学、化学の分野はその生体が持つ本来の機能に対して、補助的役割となるのが望ましい。

癌は「可能性」と「死」を同時に包括している。
また人体が持つ癌抑止成分は、本来癌抑止だけの為に人体内に作用してはいない。

このことから考えるなら、癌は外科的治療にしても、免疫、薬学療法にしても、どれか一つの方式に頼っていては、苦しい副作用の割には治療が捗らない現実が訪れる。

人体があらゆる作用の総合で営まれていることを鑑みるなら、近代医学、民間療法、そして大切なのは「生きる、生きようとする意思」の3つの要素が、その個人に最も適合する形で組み合わされた時に効力を発揮するのではないか、そのようなことを思うのである。

またこれは冒頭にも出てきたことだが、癌細胞プログラムは、もしかしたら生物が単細胞生物から多細胞生物に移行する過程で、何某かの役割を果たした可能性があること、そしてこのような生物の変質はこれから先の未来にも有り得ることであり、その点からすれば癌細胞もまた、生物が生存していく上で大きな可能性となるべきものなのかも知れないと言うことだ。

それゆえ我々の社会は決して癌に対して無関心でいて良いものではなく、また自分が発症していないからと言って、人事のように考えて良いものでもない。

現在癌を発症し、苦しんでいる患者や家族は、自分の身代わりで犠牲になっているかも知れない、生物と言う大きな流れの中で、自己犠牲によってその流れを繋いでくれているかも知れないのだ。

この社会が健常者だけを想定して作られているのではまずい。
今日も明日も、10年先までも夢見ることができる健常者は、その幸福を自身の力だと思ってはならない。

生物学的確率で言うなら、自身のその健康は、多くの病に苦しむ者達のおかげで成り立っているとも考えられるのであり、さらに言うなら、「明日癌を発症しないと言い切れる者」など、この世にたった一人として存在しないのである。





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「消失する炎」・Ⅰ

山火事の鎮火について、例えば長い間乾燥した期間が続き、燃えやすくなっている状態では火事は中々消えないが、こうした状態で時々突然火事が自然鎮火していくケースが存在する。

また「空気感染」と言う絶対的な感染経路を持つウィルスについても、ではこのウィルスが永遠に繁殖し続けるのかと言えば、こちらもある日突然感染が止まってしまうことがあり、尚かつ如何なるウィルス感染も全ての生体を絶滅させることはできない。

あらゆる生物の種は、例えその全てが特定のウィルスに感染したとしたしても、そこから症状を発しないケースを最低7%は持っていて、これは地震発生直前に措ける鳥の移動でも、その地域から完全に鳥がいなくなることがない事例と相似している。

こうした自然の在り様は何を物語っているのだろうか。

人類はその明確な答えを持たないが、こうした在り様から見えてくるものは、一方で死滅をもたらす要因は、また可能性であると言う事なのかも知れない。

癌発生の要因として、特殊なウィルス性癌以外では、その細胞に措ける遺伝子上の障害が、癌発生の要因となる事が分っている。

だがここで重要な点は障害を受けた組織の再構築や組織細胞の再増殖の過程であり、人体の組織や細胞は受精卵から始まって個体形成に至り、生殖活動を行い、そして「死」を迎えるまで、あらかじめ定められたプログラム(過程)に従い増殖、活動、そして死滅していく。

しかしこうしたプログラムから外れ、異常な増殖が長期に渡って継続されると、そこから癌細胞が発生するが、基本的に人類はもとより殆どの生物には始めから癌細胞の要因となるプログラムが存在していて、通常はこうしたプログラムが抑制されている、または死滅させられていると考えられ、その点から言えば、癌プログラムは過去の時代に措いて、生物的に必要性の有ったものか、またこれから先に必要となるものなのかも知れない可能性を持っている。

またこうした癌発生要因には、生物プログラムのような「内的要因」と、例えば環境などの「外的要因」が考えられているが、現在公表されている「外的要因」、喫煙と肺癌の関係、飲酒と肝臓癌などの関係については疫学調査による統計の結果であり、従って環境や食事、嗜好品、ましてや地球環境が癌に及ぼす影響に付いては、因果関係が確定しているものではない。

ゆえに疫学調査統計によって癌発生の要因とされているものも、本来は全く無関係なものが統計上の偶然によって、要因とされている場合も有り得る事になるが、癌と言う症状が自分自身を形成する人体細胞が変化して発症することを考えるなら、私見ではあるが、私は癌発生要因として「外的発生要因」よりも「内的発生要因」が重要ではないかと考える。

癌は人類だけの症状ではなく、全哺乳類、魚類、両生類、植物からハエに至るまで発症する病気であり、人類と同じような食習慣、嗜好品、薬物を摂取する習慣のない生物にも均等に現れることを鑑みても、癌はその一つの要因として、ウィルス感染者に措ける7%の非発症者のケースと、対比的同義に有るように思えるからである。

そして癌治療に関して、この2ヶ月近くあらゆる研究機関、自然療法の関係者から資料を集めたが、結果として決定的な治療方法を探すことはおろか、その予想すら立てられない現実に直面した。

外科的治療、科学療法、免疫療法、ホルモン療法、抗体医学、放射線治療、ホウ素中性子補足、投薬療法、温熱療法、笑いによる免疫療法、気による免疫療法、自然薬草の投薬療法、まじない、宇宙の高次元光照射療法と言うものまで意見を求めたが、どれも決定的な治療には至らない。

ごく初期の癌に付いては外科的治療の効果が一番大きいが、その後転移するか否かは発症組織や個人によって差が生じ、統計的な数値が整合せず、それもステージが進行した場合、近代医学療法ではどこまでが延命効果となったか不透明なまま、終末医療へと移行されるケースが多い。

従って近代医学上はステージが進行した癌に付いては、「近い間に死亡する」ことが想定された医療となるが、これに比して民間療法では正規の統計ではないが100人の内、5人前後が近代医学で予想された残存寿命を超えて生存したとする報告、更には完治したと言う者までが存在するが、これも余りにもその統計数値が少なすぎることから、「偶然」の域を出ておらず、もしかしたら癌発症でもウィルス感染時の非発症者と同じように、ステージが進行してもその内何パーセントかの人は、自然に癌を克服することになっているのかも知れない。

                           「消失する炎」・Ⅱに続く






「権威の散逸」・Ⅱ

中国はこれから先も食料調達を進めないと国民を食べさせることができない。

つまりは食料を買い集めて国民に分配しなければ、権威である「政治」に対する不満が増大し、これまでも権威の最終手段である「暴力」で抑圧してきた民衆を抑圧し切れない状態が発生してくる。

このことから中国政府は食料買い付けをやめることができないが、その一方でこうした中国の食料買い付けや、資源買い付けは世界的な原材料費の高騰を招き、このことが中国の食料、資源買い付けを困難な状態に追い込む側面がある。

またこのような買い付けによる世界市場に措ける原材料費の高騰は、中国経済に深刻なインフレをもたらし、中国は経済の失速を迎える可能性が高く、この場合、現在の中国政府がその統治能力を維持できるかどうかは不透明な状態が訪れるだろう。

加えてバブル経済と言うものは、10年の期間を超えることが無く破綻するものであり、即ちこのままで行けば中国は5年以内に相当大きな混乱を迎えることになる。

そしてこれからが今夜の本題だが、「権威」は他国との戦争では失われないと言うことを鑑みるなら、もし中国政府が国内の民衆の不満を抑えきれないとき、その場合は他国に対してその矛先を向けることで、民衆の不満をそらそうとする場面が出てくるだろう。

太平洋戦争以前の日本が、やはり日露戦争後常に無理な軍備拡張をし、為に国民生活が窮乏しその不満が渦巻いたとき、国民の不満をそらそうとして欧米列強憎しの環境を作り、ついにはそうした国民感情のコントロールを失って、「太平洋戦争」に突入した図式と同じ傾向が現在の中国にも存在する。

つまり中国が何らかの破綻を迎えたとき、中国政府はその問題を日本憎しにすりかえようとするだろうリスクの高さを、日本が負っている。

先の尖閣諸島のような問題を故意に起こし、そこから中国国民の不満を自国の「愛国心」にすりかえようと考えるに違いない。
また中国が自国の手を汚さずとも、北朝鮮を使っても同じ効果の70%を得ることができるだろう。

その上で今後5年以内に間違いなく中国は何某かの混乱を迎えるとしたら、日本は打っておかなければならない策が沢山ある。

また中国より先にロシアのプーチン政権が抱える問題は、より早く日本に影響を及ぼしている。

ソビエトを崩壊させ、ロシアに自由をもたらした「ゴルバチョフ」氏をして、プーチン政権の独裁批判が発言される現状は、ロシアには既に相当大きなプーチン政権に対する不満が溜まっているとも言え、その矛先をロシア国内のナショナリズムにすりかえようとしているのが、ロシアの北方領土に対する強硬な在り様となっている。

だがプーチン政権は大変危険な状態にある。
現在でもロシア国内には熱狂的なプーチン支持者が多いが、その理由は彼が前回政権を担当した時期の、ロシア経済の好調さと言う幻想が有るからだ。

石油資本で経済が潤った時期に大統領だったプーチン、ロシア国民はそうしたプーチンに希望を持っているが、では今回もう一度プーチンが大統領になったとして、もしロシア経済がさらに落ち込むことになれば、かれは権威を維持しようとして、軍隊と言う「強制」をロシア国民に対して用いる事になるだろう。

さらに中国と同じように、国民の不満をそらすためにナショナリズムを煽り、その矛先はやはり日本となる可能性が極めて高い。
北方領土を巡る強行な姿勢や領海侵犯、果ては間接的に北朝鮮の核開発を使うことも充分考えられる。

そしてその時日本はどうなっているだろうか・・・。

恐らく石油は高騰し、小麦などの原材料費の価格も大変な値上がりを見せ、その一方でエネルギーや食料品以外は物余り現象となる、スーパーインフレとデフレーションが二重に国民生活を直撃する社会、国民は増税に喘ぎ、年金も支給されたりされなかったり・・・、などと言う社会になっているかも知れない・・・。





「権威の散逸」・Ⅰ

自分以外の者の反対を強引に封殺し、自分の意思に従わせる能力、若しくは従わせることのできる力を「権力」と言うが、この権力はその力の強弱によって影響力を持つに非ず、そこには被権力者が、その権力が正しいものと認識できるに足る「形の無いもの」が必要となり、その「形の無いもの」とは実に広範かつ漠然としたものである。

政治権力に対する服従は、道徳的に正しいと思える概念、正統性(正当性)を必要とし、この正統性こそ「権威」となり、支配は権利、服従は義務となる。

それゆえドイツの社会学者「マックス・ウェーバー」は正統性の形を「伝統的正統性」「カリスマ的正統性」「合法的正統性」の3つに分類したが、「伝統的正統性」とは王制や、君主制政治を指し、「カリスマ的正統性」とは混乱し、変動する社会に求められる権威のことを言い、「合法的正統性」とは「法」をして一つの権威と認めさせた上で、その法が保障する形の権威による支配、つまりは現代社会の権威の形である。

しかし法による権威は、その法を運用する者が人間である以上、常に大衆が認め得る公平性や整合性を保持することが難しく、為に常に不安定な権威とも言え、それは国際連合などの組織を見ても明白なように、国家連合と言うある種全ての国家の指標ともなるべき組織ですら、軍事的影響力の大きな国には屈服し、弱小国には大国の利害関係でしか調整、即ち政治的な解決がはかられない現実を見れば、「法」は常に「力」によって無力化する現実をともなっている。

ゆえに権力がその最終的な拠り所とするのが「強制」と言う「暴力」となるが、結果として「強制」とは「権威」の最後の形となり、尚且つ最も原始的な「権威」が「暴力」とも言えるのである。

従って中東などで起こっている国家的混乱、暴動は既存の権威が失われ、さらにそれは大きなガラス板が割れて細かい破片となった状態、言わば「権威」が一人一人の個人の手に帰り、最も小さく原始的なものになった状態と言う事ができる。

そしてこうした「権威」の散逸はなぜ起こるか、国家が他国の侵略を受けこれに抵抗する場合は、目的を同じにする大衆や組織は同じ価値観を共有できる。

即ち自国の国権の復活だが、この場合は共通目標が「権威」となり得ることから、「権威」は散逸しない。

他国との戦争に措いては「権威」の散逸は起こらないのであり、権威の散逸の多くは「第一次欲求」に関して、その国の多数のものがこれを満たされない状態をして最も発生しやすい状況が生まれる。

「第一次欲求」、即ち「食欲」が満たされない状態は、生物の基本機能維持が困難になることから、ここでは全ての社会性は失われることになる。

分り易い例で言うなら「フランス革命」がそうだが、1783年アイスランドの「ラキの亀裂噴火」によって北半球を覆った噴煙や火山灰は、ヨーロッパ一円に大変な飢饉をもたらし、そこから起こった食糧危機がフランス革命の引き金になったとされる説は有名だが、その国家に措ける「権威」の散逸の第一要因は「食料不足」に端を発することが多くなっている。

その上で中東各国に飛び火した暴動、市民運動を鑑みるなら、昨年末から中東で暗い影を落としていた「食料価格の高騰」があり、今年1月には「食糧危機」と言う言葉すら囁かれはじめていた状態は、ついに国家の「権威」を叩き壊すに至るほど、市民生活に深刻な影響を及ぼしていたのである。

また市民生活が貧しくなると、ここで現れてくるのは必ず「平等」と言う考え方であり、この「平等」は突起である特別階級を破壊しようと言う動きとなって、既存権威で有る政府権力を打倒する動きとなっていく。

だがこうして考えてみると、では食糧危機が何故こうも急激に起こってきたのかと言うことだが、その原因は中国にある。
バブル経済によって蓄えられた資本は急激に世界資源の買い付けを促進させ、また中国の国民全員が一定の生活を維持するとしたら、必ず中国国内の生産では追いつかない。

このことから中国はそれまでの石油資源に加え、ここ数年は食料までも買い集めてきたからである。

その為ただでさえ天候不順で食糧生産が計画通り進まない国際社会に措いて、急激な「食料不足意識」が発生し、ここでは加速をつけて各国が食料調達に動きはじめてきた。
さらにこうした動きはその後どう波及していくかと言えば、世界がその市場を当てにしている中国の不安定化に繋がって行く。

                           「権威の散逸」・Ⅱに続く




「自律分散システム」

鳥や魚などの生物が群れとしての行動を取る時、ここには群れを先導する自律的な一部のグループと、近くを移動する同じ個体生物の動きに追随する、他律的な行動を示すグループの2種が形成されるが、ここで注目すべきことは、この2種の行動を示す個体生物の行動は、必ずしも固定されたものとはなっていないと言う点にある。

つまり群れの先導役となるグループと、他律的にそれに追随するグループは、あらかじめ役割分担などがされておらず、また任意と言う訳でも無い。
ここで先導的グループになるか、他律的追随グループになるかの分岐点は、強いて言うなら「状況」や「環境」と言う事になる。

言うならばその時自律的行動を取らねばならない位置にいる者が、先導役となるのであり、そのとき自律的判断が求められていない位置にいる者は、自動的に他律的な行動となっていくのである。

従ってこうした群れ行動をする生物に措ける「個」は、先導的動作を取る機能と、近くの同じ個体の動きを見て他律的に動作する機能が、同時に両方プログラムされていると言え、「社会」と「個」との関係を考えるなら、それが同時になっていると言う点での美しさがある。

だが一方でこうした機能は高等な生物になるに従って、自律的グループと他律的グループの固定化傾向が出てくる。

例えばサルではボスザルの存在によって自律的グループは固定化され、その他のサルたちは、勿論完全に自律的な面を失う訳では無いが、それでも自立的な行動はその濃度が薄くなり、自律的行動は主にその社会に対してではなく、「個」の問題に対してのみ機能する一種の後退的側面が出てくる。

そしてこれが人類ともなれば、為政者とその執行者の自律的グループと、それに対して他律的な民衆のグループとに完全に分離された社会になって行く。

即ち「支配」と「支配される側」が現れてくるのであり、この点で鳥や魚の群れの在り様を考えるなら、人類は「個」と「社会」が同時となっている鳥や魚の社会より、どこかで劣化した雰囲気、また「個」がその機能や責任を放棄しているかの如く、「怠惰」がもたらす後退現象のようなものが見えてくるのである。

しかし人類は「社会」と「個」を考えるなら、こうした劣化した雰囲気を持ちながら、その体の機能はと言えば、ここでは鳥や魚と同じような機能を持っている。

「自律分散システム」と言う機能がそれだが、人間の生体を情報システムとして鑑みるなら、そこには感覚神経系と運動神経系の2つに大別される流れがある。

人体に措ける情報の流れは、目や耳などの末端感覚受容機構から大脳や小脳などの中枢へ送られる感覚情報の流れと、中枢から手や足などの末端運動器官へ送られる運動指令情報の流れがあるが、ではこうした機能が全て脳などの中枢機能で処理されているかと言えば、それは違う。

人体を流れる情報は、その大半が途中各所で局所的な処理や判断を受け、より抽象的な度数を強められたり、またその場で下位の運動系に対して運動制御指令が出されたりしている。

即ち「個」と「社会」が同時の、鳥の群れなどと同じ制御方式を持っているのである。
一つの情報に対して幾つもの機構がそれを処理しに向かい、そしてもっとも適切な処理が為される。

実に人体と言う複雑かつ精密な生体機能の情報処理は、中央集権的な制御方式ではなく、それぞれの機能が自律し、尚かつ分散して制御に当たっているからこそ維持されているのである。

人間の神経回路の動作速度は、電子制御回路の動作に比べると10の4乗以上も遅い。

だが人体が臨機応変に複雑な動作が可能なのは、こうした自律分散システムによって、信じられないほどの並列情報処理が行われているからに他ならない。

またこのように見ていくと、「自律分散システム」は実に森羅万象あらゆる事象に対する基本的なシステムの側面を持っているようにも考えられるが、その生体がより高度になるに付け、この基本から外れていく、つまりは「社会」と「個」が分離する社会傾向が現れてくるようである。

だがこうした「個」と「社会」が分離傾向を持つ社会構成は、何度繰り返されても必ず崩壊する運命にあり、それはなぜかと言うと、常にこうした森羅万象の基本となるべき方向に相反しているからのようにも思える。

人体の情報処理方式や鳥の群れなどでは、「個」がいつでも「全体社会」となり得る状態があり、「個」がその資質を有しているが、人間社会の「個」は「社会」と必ずしも一致せず、場合によっては相反していることすらある。

「個」と言う存在の誰もが自律と他律を包括しているのではなく、明確に自律する「個」と他律する「個」が区分され、しかもそれが中枢機能で全て情報処理が為された場合、恐らくこれが人間の生体機能の場合なら維持が困難な事になるだろうし、鳥の群れだったら、どこかで全体が死滅する事態が避けられないに違いない。

にも拘らず、人間の社会はいつの時代も中央集権的な政治形態を目指し、またコンピュータソフトの世界でも、同じように自然の摂理に反してシステムの中央集権化が進められ、日本などではエネルギーに付いても「オール電化」と言う、エネルギーの一元化が進められているが、これらは自律分散システムと言う自然の摂理を真っ向から否定する在り様と言え、必ずいつかは予期できない事態に対処不能となる日が訪れるに違いない。

更に現在の国際情勢を鑑みるなら、明確にこれまでの政治の在り様、いわゆる自律と他律が区分された政治状況が、また崩壊しかかってきていると言えるのだが、こうした機会に今度こそ人類は自律分散システムを少しでも取り入れた政治や思想を構築できるだろうか。

もしそれが叶わない場合は、いつか新しい秩序ができても、それは既に成立した瞬間から崩壊へと向かう、今まで幾度となく繰り返された人類の歴史と、全く違わぬ道を辿る事になるかも知れない。





「陰  徳」

治於神者 衆人不知其功 争於明者 衆人知之   「墨子」

(神に治むる者は 衆人その功を知らず 明に争う者は 衆人これを知る)

昔、中国の「魯」(ろ)と言う国に「公輸般」(こうしゅはん)と言う天才的な技術者があり、彼はその通り名を「公輸子」と言ったが、「公輸子」はまた大変な発明家としても広く知られていて、ある時彼は「楚」の国を訪れたことがあった。

だが当時「楚」の国は「越」(えつ)の国と戦争をしていて、長江が主戦場となる船戦ではいつも楚の国が苦戦していたため、楚王から「何か良い新兵器を作って貰えないだろうか」と依頼された公輸子は、早速「鉤拒」(こうきょ)と言う道具を開発し、これによって船の進退は以前よりはるかに迅速になったが、また公輸子はほんのお遊びで竹と木を使って鳥を作り、それを飛ばしたが、その鳥は何と3日も地上に落ちてくることは無かった。

この公輸子の在り様から、すっかり公輸子を信頼するに至った楚王、今度は戦に備えて大掛かりな「城攻め」の方法は無いものかと相談する。

そこで公輸子が開発したのが「雲梯」(うんてい)と言う、今で言うところのハシゴ車のようなものだった。

この少し以前、紀元前500年頃までは戦争にもルールがあって、敵と言えどその城壁を越えて攻めることは許されなかったのだが、戦国時代のことであり、こうして楚と越が戦っている頃には、すっかりそうした古式ゆかしい戦場信義も無くなっていた。

それゆえ開発された、このような城壁を乗り越えて敵の城を攻めることが可能な、「運梯」の出来栄えに気を良くした楚王は、この「雲梯」を使って、次は小国「宋」を攻めると周辺に豪語し始める。

この話はたちまち「魯」の国にも広がり、噂を聞きつけた「墨翟」(ぼくてき)、つまり墨子は大慌てで楚の国へと駆けつけるが、これには理由がある。

墨子の信条は「この世から戦をなくする」ことであり、ゆえに軍備の弱小な国の為に城の防衛をもっぱらの才覚とし、ついにはこれまで担当した城の防衛では、一度たりとも落城を許さない城防衛の天才だったからであり、これに対して「公輸子」の作った「雲梯」などが使われるようになれば、一挙にこれまでの城防衛の概念が崩壊させられかねない・・・。

楚に到着早々、公輸子に面会を求めた墨子、しかし公輸子はこれを拒否し、仕方なく墨子は楚王に面会を求め、貧しい「宋」など攻めてみたところで、何も益の無いことを主張した。
しかしもはや「雲梯」に心を奪われてしまった楚王は、既に「宋」などどうでも良く、ただ「雲梯」と新兵器を使って見たくてしょうがない。

さても難儀なことよ・・・。
暫く考え込んだ墨子、やがて妙案を思いついたが、それは現在で言うならば戦場ゲームだった。
いわゆる戦場シュミレーションをやろうと言い出すのである。

自分の帯をといた墨子はそれで城の城壁を作り、木切れを楼閣代わりにその真ん中に置く、これに対して公輸子も小さな木片を持って城攻め開始である。
仮にも一国の王の面前で、大の大人が城攻めゲームとは随分可愛らしい話だが、今の時代と比して、随分健全な時代で有るとも言えようか・・・。

公輸子は持てる知力を尽くして城攻撃を始め、あらゆる攻撃を打ってくる。

しかしこうした攻撃に対し、墨子が理論上全て撃退して行くに付け、公輸子はついに持っていた木片を放り投げ、「私の負けだ」と敗北を認めるが、よほど悔しかったのか「最後の一手がある」と言い出す。

「最後の一手・・・」、墨子はここでハッとする。
なるほど公輸子は確かに戦場ゲームでは負けたが、この場で墨子を殺せば実戦では既に墨子がいない訳だから勝利できる。
「そう言うことか・・・」

墨子は公輸子が自分に対して殺意を抱いていることを知り、楚王にこう告げる。
「公輸先生はもしかしたら、この場にて私を殺害することをして、宋との実戦では勝利することをお考えやも知れません」

「されど、既に私の配下は、私の作った雲梯防御道具を持って、宋の城壁の上で待機しています」
「ですから私を殺しても宋の城は陥落しないばかりか、もし実戦で雲梯を使ってそれで負けてしまえば、これまでその正体が知らしめられないがゆえに、他国に対して与えていた脅威も霧散してしまうことになります」
「どうぞ、今一度宋を攻めることはお考え直しください」

これを聞いていた楚王、ようやく事の真意を悟ったのか、墨子に「宋」を攻めないことを約束するのである。

そして架空の戦場で勝利を収めた墨子、彼はまた急いで帰途に付くが、その途中「宋」に立ち寄ったおり、間合いも悪く激しい雨に遭う。

仕方なく雨宿りの為に僅かに軒先でも借りようと、「宋」の城門をくぐろうとした時の事だった。
「怪しい者だな、門の中には入ってはならん」
門番は容赦なく墨子を雨の中へと追い立てたのだった・・・。

誰が「宋」の国を救ったのか、そのことを宋の人間は誰一人として知らない。
それゆえ墨子は雨宿りさえさせてもらえなかった。
だが、誰も知らないはずの墨子のことを、2400年後に生きる私がしっかり知っていて、「なるほど」と思っているのである。

「陰徳」とはこうした在り様を言い、冒頭の文を訳するならこうなる。
「人に測り知れないように事を為す者は、人はその功績に気が付かない。だが人の目の届くところで騒ぐ者は、人には良く分かる」

人間が為す仕事や良い行いは、常に人目に触れるところだけで為されるものではなく、その多くは人知れず為され、それがどこかでは多くの者の役に立っている場合もある。
そしてそうした場合、一抹の寂しさも感じてしまうかも知れないが、嘆くには及ばない。

誰も知らない墨子の思いを2400年後の私までもが知っている、この在り様はなぜか、例え誰も知らなくても「天」がこれを知っている、これで充分では無いか・・・。

人の運命など偶然に次ぐ偶然で発展していくものであり、そうしたものの中にはやはり「天の采配」と言うべきものをどこかでは感じざるを得ない。

ゆえに「天が知る」事であれば、それはいつかどこかで「采配」してくれるものなのではないだろうか・・・。



「常温核融合」

一般的に「核融合」と言えば、高密度、高温高圧条件下に措いて原子核と原子核をぶつける、いわゆる「熱核融合」のことを指すが、この核反応からエネルギーを取り出そうとする必要性から「核融合炉」が生まれ、現代物理学の歴史と、第二次世界大戦に措ける軍事技術開発の急激な進歩によって研究が始まった。

従ってこの概念は「限定された太陽」とも言えるが、実は太陽をモデルとするなら、人類は未だに熱核融合技術をその手中に収めているとは言い難い。
つまり人類は太陽のように安定した熱核融合を維持することができていないのであり、制御方式もせいぜいがその実績は40年足らず、しかも偶然性に頼った制御方式でしかない。

これに対して1989年、アメリカ合衆国・ユタ大学がとんでもない実験結果を公表した。
それは「常温核融合」の存在であり、これは物理学の世界では考えられないことだが、例えば気温25度の室温でも起こる核融合反応」のことだ。

通常、核融合の条件は高温、高密度、高圧力と言う条件が揃わなければどうしても起こり得ない。

ユタ大学が行った実験の内容は非常にシンプルなものだった。
重水中にプラチナ製の陽極と、パラジウム製の陰極を入れて直流電流を通電すると言う、どこかの中学校で行われている「水の電気分解」実験のようなシンプルさである。

それゆえユタ大学がこの実験によって「過剰熱」、つまりは熱エネルギーの存在を確認したと言う実験結果は、通常の化学反応によるものではないのかと言う疑惑を持たれ、さらには物理学の常識を覆すこうした理論は、当時のアカデミズムやジャーナリズムからも徹底的に叩かれてしまう。

またまずいことに当時ユタ大学は経済的に苦しく、そこでこうした売名によって資金を集めようとしたのではないかと言う話まで、まことしやかに囁かれるようになってしまう。

しかしこうしたユタ大学の実験から以後、世界のあちこちの研究機関から、この実験の追試実験データが出始め、その中には「過剰熱」(熱エネルギー)が確認されたと言う実験結果がぽつぽつ現れ始めていた。

現在までに実験された「常温核融合」の実験内容は、基本的には「電解実験」に近いことには変わらないが、電源がパルス電源になっていたり、実験容器内の温度や圧力を上げる方式、さらには真空容器に重水素ガスを詰め、内部に置かれたパラジウム片に通電する方法などに進化しており、実は日本でも多くの大学がこの研究を進めていた。

だが、こうした在り様にも拘らず、その後もこの「常温核融合」に関しては否定的な意見と肯定論が拮抗し、基本的には物理学上の否定が、多くのジャーナリズムの否定と重なって、インチキだとする意見が大勢を占めるようになる。

無理もない、常温で、例えば室内でも核融合が起こるとしたら、「核融合炉」がなくても、室内でも小さな原子力発電所を作る事ができるからだ。
また現実には常温核融合の否定は、物理学界とジャーナリズムでは、それぞれが持つ否定概念に誤差がある。

実はユタ大学がこうした実験結果を公表して以降、宇宙から地球に降り注いでいる「宇宙線分析」の分野で、この「宇宙線」に含まれるミューオンによって、水素原子の常温核融合が発生していることが観測されたのである。

ゆえに現在を語るなら、常温核融合を物理学は否定できないが、これを人間が作り出せるかどうかと言えば、それはできないだろうと言うのが物理学界の総意となっている。

この地球には実際には存在しても、それを科学や物理学が説明できない現象や事実は沢山ある、いや厳密には説明し切れない現象の方が多いに違いない。
常温核融合についても、自然界には存在できても、それを人類が作り出せないものとする、これが物理学の常温核融合の否定である。

これに対し、ではジャーナリズムの否定とは何かと言えば、一言で言うなら実効否定である。
もし常温核融合が存在したとして、更にはそれが実験でも作り出せたとしても、問題はそのエネルギーの小ささにある。

通常の原子核融合反応から得られるエネルギーは、太陽の0・0000某パーセントと言う膨大なエネルギーであり、これ比べれば常温核融合反応など、蚊が発している熱の0・000某パーセントにも及ばないものでしかない。

そんなものが何の意味が有ろうかと言う、これがジャーナリズムの常温核融合の否定となっている。

即ちジャーナリズムの否定は「経済効果的」な否定なのだが、残念なことに科学や物理学の世界でも、こうした「全ては金なり」の傾向から逃れることはできていない。

世界各国の研究機関は自然界には存在できても、人間がそれを作り出せないとしたら、それが何故作り出せないのかを研究しなければならないはずであり、そこから新たなる発見が生まれてくることも有るはずだ。

しかしこうした研究にはどの国の政府も金を出さず、そこでこうした研究は、研究者が自費で資金を捻出しているケースが多く、為に「常温核融合」が実験で得られるとする議論は、それが現在に至っても肯定も否定も確定していない。

常温核融合は確かに今は金にならないかも知れないが、その未来的な価値は計り知れないものがあり、こうした重大な研究に関して議論が提起されたにも拘らず、その後おざなりになっている事実は許し難いものがある。

理論から外れてしまうことは否定して終わることが科学だろうか。
分らないからそれを探るのが科学の原点ではなかったか、ゆえに不思議なことや、説明の付かないことが有れば、それに夢を膨らますのが研究者と言うものではないのか。

アカデミズムの中で権威と化し、それで自然界で起こっているさまざまな現実を否定する在り様の科学は何かがおかしい。

人間は実際に存在する現実の前に謙虚でなければ、その内何も見えなくなるのではないだろうか・・・。





「火葬場からのお呼び出し」・Ⅲ

話は少しずれるが、私は村の長老に何で火葬場には戸がないのか聞いたことがあって、長老曰く、この火葬場の下の道は山へ上がる人が必ず通ることから、戸が立っていれば中が見えない分、余計恐くなるからだと言われたが、他の各地区の火葬場もやはり戸が立っていなかったことを考えると、何かまじない的な意味もあったのかも知れない。

こうして朝までに死者は骨だけになり、縁者がそれを拾って葬儀は概ね終わるが、これから後も読経があったり、後片付けがあったりで、葬式があると村人は3日仕事にならない為、短い期間で多数の死者が出たときは神主にお祓いしてもらうこともあった。

怪談の時期は過ぎ去ったが、私は7歳頃、この火葬場で恐い目に会ったことがある。

私の両親はこの頃炭焼き(炭を作ること)の仕事をしていて、山で窯に火が入ると家に帰ってこられないため、夕飯や朝飯を家から山まで運ばなければならないことが時々あった。
その日も祖母が作った夕飯の弁当を持って山へ向った私は、両親の仕事を見ていて帰りが遅くなり、くだんの火葬場近くにさしかかった頃には既に周囲が薄暗くなっていた。

何度見慣れていても火葬場と言うのは感じの悪いもので、近くには溜池まであってそれらしい雰囲気を醸し出していた。
火葬場の少し手前にさしかかった時だった、突然「おーい」と言う声が聞こえ、私は歩みを止めた。

耳をすませてみる、するともう1度「おーい」と言う声が聞こえ、それは間違いなく火葬場から聞こえているのだった。
私はもうだめだと思い、全力疾走で山道を駆け下りたが、その背後からはまだ「おーい、おーい」と言う声が追ってきた。
ひたすら走って家へ帰り着いた私は、その晩「今に地獄の鬼が火葬場から迎えに来る。ああ、もう来る」と怯えながら一睡もできなかった。

やがて朝になって学校へ行く時間になったので、恐る恐る外へ出た私に声をかけたのは近所の爺さんだった。
この爺さん、時々子供をからかったり逆にからかわれたりの、なかなかひょうきんな爺さんで、子供にはある種の人気があった人だったが、この人が私に「きのう、お前に餅をやろうと呼んだのに、なぜ逃げたんだ」と言うのである。

この瞬間、私を追いかけていた火葬場から来る地獄の鬼は木っ端微塵に砕け散った。 

話はこうだ、この爺さんは火葬場の近くで炭焼きをしていたのだが、昼飯や夕飯を火葬場の窯で火を起して作っているような豪快な人で、その日も夕方腹が減ったから火葬場で法事に貰った餅を焼いて食べようとしていたところへ、私が通りかかるのが見えた。
「なかなか感心な奴だ、餅でも一つやろう」と声をかけたが、火葬場からお呼び出しがかかったと思った私は全力疾走で逃げるので、何度も何度も呼んだが私は更に早やく走って逃げた、子供の割りには変わった奴だと思ったと言うのだ。

今では笑い話だが、当時私は真剣に自分はこれで終わるんだと思った。
それにしても人を焼く火葬場の窯で餅を焼いて食べるこの爺さんの神経は大したものであり、こうして今の年齢になってやっとあの爺さん一体どう言う生き方をしてきたんだろうと考えられるようになった。

爺さんが死んだのはこのことがあった5年後くらいだっただろうか、中学生になっていた私は葬式で菓子を拾うことが恥ずかしくなっていた。

「火葬場からのお呼び出し」・Ⅱ

残酷なように思うかも知れないが、生と死のコントラストとはこうしたものであり、
このコントラストが曖昧な社会は生と死の区別も曖昧なり、自身の生も他人の生もないがしろにするか、反対に死を大きく捉え過ぎて亡者を背負いながら一生を送るかのどちらかになる。

葬儀の内容は今と余り変わらないが、供えられた盛篭などの菓子や果物は葬儀が終わり次第参列者にばら撒かれる。
節分の豆まきみたいなもので、こうした菓子などを参列者はわれ先に拾うのである。
全く関係ない近所の子供も拾っているのだが誰も咎める者はいない、そればかりか「おまえもこれを持っていけ」とくれたりするのだ。

現代の人がこれを見たら「なんとあさましい」と思うかも知れないが、死体の扱い同様、これも生と死と言う一連のコントラストであり、葬儀のもっとも重要な部分が、この辺にある。

そしてこうした儀式と同時に村の若い衆は薪を切って火葬の準備をするが、村の各地区はそれぞれに民家から離れた山のふもとに火葬場を持っていて、火葬用の薪を切る雑木山まであって、そこから切り出された薪は火葬場の窯に敷き詰められ、そこで死者が燃やされる。

葬儀では参列者、村人、親戚縁者、まかない、火葬の準備をした人達全員が何らか形で「ご膳でよばれる」(お膳の料理を食べる)が、精進料理とは言え、塗りの椀にご飯、吸い物、すいぜん、煮物、香物、胡麻あえ、酢の物に菓子椀まであり、饅頭などの詰め合わせから、「おかざり」と言う名目の別の菓子箱まで付いてくるのだが、これらを総称して「香典返し」と言った。

参列者はこうした「香典返し」を手に各家に帰り、近所に「おしょうばん」と言って香典返しの菓子を配ることになっていた。

近年葬式の香典返しはまことに質素になったし、夜伽(お通夜)の膳もセレモニーホール任せになったが、貧しい時代でも死者を弔う式にはここまでのことをしていた訳で、生命の値段が計り知れないほど高くなったと言われる現代日本だが、その言葉とは裏腹に何か薄く、寒いものを感じてしまう。

こうした傾向は結婚式でも同じことで、一昔前なら結婚式と言えば両手に抱えきれないほどの引き出物や菓子を手に帰ってきて、近所にまで配ったものだが、今では商品券とカタログ1冊のスマートさだ。
しかもこのカタログ、欲しい物が殆ど載ってなかったりする。

私は田舎生まれの水飲み百姓の出だから、やはり食べ切れなくてもたくさん菓子や料理が返ってくる式が好きかも知れない。  

さて葬儀が終わってからだが、いよいよ棺桶の蓋に死者の長男か孫が釘を打って、棺桶は白木の輿(こし)にのせられるが、この輿は台座に棺桶をのせてその上から屋根付きの輿を被せる仕組みになっていて、全体的には白木だが部分的には赤や緑、白などの装飾があり、簡単な神輿(みこし)のようなものだ。

この輿を死者の縁者が神輿と同じように担ぎ、その後を参列者がぞろぞろと付いて行くのだが、棺桶は火葬場に付くと輿から外され窯に積まれた薪の上に乗せられる。

僧侶によって読経が唱えられ、皆最後の別れをするが、この窯は長方形の土塁を内側から四角く削り取ったようなもので、人が寝た状態で入れる土の箱のような形になっていて、1面には風通し穴があり、高さは90センチほど、この中に薪が縁の高さまで敷き詰められてその上に死者が入った棺桶が乗っているのだ。

むかし、この村でもお金持ちは輿も一緒に燃やしたと言われているが、私の知る範囲ではこの葬儀用輿は燃やされず複数回、壊れるまで共同使用されていた。

こうして最後の別れが終わると、殆どの参列者は帰ってしまうが、10人前後の縁者や希望者は火葬場に残り火の管理をする。
薪に火が付いて棺桶が燃え始める頃になると死者の体は手足が伸びた状態になろうとして棺桶を破り、その勢いで窯から落ちることがあるからで、また通常火葬は夕方から始まって朝方までかかるが、時々部分的に焼け残ることもあり、こうしたことがないよう夜通し見張るのである。

この火葬番は誰が残っても構わず、女、子供も特に制限されていないが、夕食と夜食の料理や酒が葬儀をした家から運ばれ、それを飲み食いしながら死者が燃えていくのを見ているのである。
こうした料理や酒を運ぶ時は、暗い山道を上がって行かなければならないので、3人から4人で運ぶことになるが、一人は明りを灯す役で、むかしは明りが提灯だった。

しかし火葬場とは言え間仕切りも何もない天井の高い10坪ほどの倉庫のような建物、対面する2方には広い出入り口はあるが、戸は付いておらず仮眠をとることもままならない状態、床は土間どころか土であり、外は深い山の中で、1晩中番をするのはかなり過酷だったことから、料理の運び役が火葬番の交代要員を兼ねているときもあった。                                  

         「火葬場からのお呼び出し」・Ⅲに続く

「火葬場からのお呼び出し」・Ⅰ

こんなことを書くと不謹慎だが、私は幼い頃葬式が好きだった。いや私だけではない当時この付近に住んでいた子供達はおそらく葬式と言うと皆心躍ったに違いない。

そもそも小さい子供にとって、葬式、結婚式、祭りは同じものだった。
親戚や人が大勢集まり、ご馳走が食べられ、お菓子が貰える、こうした条件が満たされるものは内容が何だろうと区別がつかなかったのである。

だから家で大人達が、どこそこの爺さんが危ないらしいとか言う話を聞けば、悪ガキ共の間にはすぐに情報が広がって、不道徳だが皆心待ちにしていたものだ。

この背景には人の死に接する機会の多さ、人はどう言う過程で死んで行くかをつぶさに見ているか、いないかと言うことが関係している。
1970年代頃まで、私の村ではどのような人も病院で死ぬことなどまずなかった。
事故以外はみんな家で死んでいったのである。

ご飯を食べに来ることができず、食事を運ぶようになり、その食事も食べることが少なくなって話ができなくなる。
やがて寝たままになり、どんどん痩せて骨と皮だけになっていく、そして呼んでも返事をしなくなり全く動かず、ただ呼吸するだけになる。

この頃になると家族は家の掃除を始め、そしてついに呼吸が止まる。
こうしたプロセスを当時の子供はしっかり把握していたのである。

死は瞬間のように思うかも知れないが、それは呼吸が止まったと言う一つの段階に過ぎず、実際は緩やかな流れのようなものであり、それを漠然とでも理解している者にとっては、呼吸が止まるかなり前から死とそれに対する悲しみが始まっているのである。

施設や病院に入れてこうした死のプロセスに接することのない現代では死は突然やってくることになり、それに対して悲しみの感情を現さない者は何かひどく人間性を失ったかのように見えるが、葬式の時に始めて悲しくなる方がどこかで身内の死に対するあり様の幼さを感じさせる。

また死に対するあり様は同時に生に対するあり様でもある。
貧しい時代、貧しい地域にあるものは死に対面する機会が多く、死が現実以上の重みを持たないが、その現実は生の持つ意味が自身にとって絶対無比なものであることを体感させる。

しかし豊かな時代、豊かな地域にあるものは死に接する機会が少なく、為に死を大きく捉え、このことが生に対する過剰な期待となり、しいては怯えになっていく。
そこでは形なきものに形を見て、力なきものに力を感じ、その幻影に自身が支配され生は影が薄くなる。

更に時間を多く持つ者が死を単に知識やシュミレーションで知ることは、現実の生と死からの逃避にしかならず、こうした生と死に付いて深く考える者は必ず生きる気力を失う。
生と死は現実のみを把握し、そこを素通りできる者だけが、知識ではなく感覚として理解できるもので、何も考えない者ほど良く知ることができる。

1970年代頃まで葬式は基本的には祭りだった。
村のどこかで死人が出ると、各家々から人が集まり長老を中心にして葬儀の段取りが始まるが、料理担当、火葬担当など事細かに打ち合わせされ、現代社会でセレモニーホールがやってくれることを全て村の共同事業でやっていくのである。

死者と言うのはたまに生き返ることがあり、こうした場合のことを考えて1日か2日置いて火葬することになっているが、その間に来るお客、僧侶には料理や酒が振舞われ、久しぶりに集まった縁者の子供達にとっては盆、正月以上の大イベントだった。
死者は彼の子供、兄弟などによって体をアルコールで拭かれ白い死に装束を着せられ棺桶に入れられるが、この当時の棺桶は文字通りの桶で、死者は膝を抱えた形でこの桶に入れられ、桶の蓋に釘が打たれるのは出棺直前のことになる。

この時、死後硬直で死体が桶に入らない場合は足の骨を折って桶に入れたが、こうした事態になることを避ける為、死後間もない内に膝を抱えた状態にして帯などで結わえたり、膝を抱えた形で寝かせたりして桶に入れやすいようにしておくこともあった。

        「火葬場からのお呼び出し」・Ⅱに続く

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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