「我が形を為すもの」3



Go West - Pet Shop Boys - World卒s Armys・・・・・



親は偉大だ、どう有っても追いつくものでは無い。
また私のこうした状況から、葬儀は村の人たちが集まって相談してくれ、全て準備してくれた。

90歳になる爺ちゃんまでもが家で何某かの手伝いをしてくれ、私に力を落とさぬようと声をかけてくれた。
私は傲慢だった。
いつも自分が地域の老人の手伝いをしている、助けてやっていると言う思いがどこかに存在してたに違いない。

だが現実にはこうした自分が遠くから見守って貰っていたことに気が付いた。
言葉など意味は無い、行動こそが全てだと言う思いもまた一面の事実ではあるが、それが正しいわけでは無い事が今は理解できる。

「言葉は力だ」、今はそう思う。

私はこのブログで生物が生きることは大変厳しいものだと説いて来た。
それゆえ生き物はまた全力で生きる義務を負っていることも、繰り返し書いてきたように思う。
これは今でも間違っているとは思わないし、我が思いは「生きよ、生きよ、生きよ」だ。

だがどうやら私はどこかで利口になろうとして人間を見ていなかった、何か大切なものを忘れたまま生きていたに違いない。

このブログは実は1000の全くランダムな話を書いたら終わろうと思っていた。
だから基本的には最後に書く文章が決まっていてこれまでの記事があったが、その最後に書こうと思っていた文章はもはや意味を為さなくなってしまった。

母親の苦しみさえ救ってやれない者が、どこに人や社会に意見するに資することがあろうや、もはや私は自身の言葉を持たない。

我が本質、自身の正体はみすぼらしい格好で裸足で首を吊った、我が母親のあの惨めな姿にこそにあり、私はどこまで行ってもこの範囲を出ない。

ゆえ、これまでに多くの知己を得、励ましの言葉を頂きながら、まことに勝手な事で恐縮ですが、ブログ記事はこれを持って一つの区切りとさせて頂きたく思います。

以後は時々皆さんの記事を訪ねさせて頂くことのみとし、記事の更新は先の予定無きものとさせて頂きますが、ブログそのものはこのままの状態で継続と言う形になります。
ご連絡のございます場合はゲストブックに書き込みを頂ければ幸いですし、もし個人的に私の住所氏名、連絡先を知りたいと言う方には、その個人に限ってお知らせ致します。

では方々、お健やかにてご活躍のございますよう、また世界は狭くいずれお会いすこともあるやも知れません。その時はよろしく。

最後に私が大好きな「ペットショップボーイズ」の「ゴー・ウエスト」を聞いてお別れです。

有難うございました。



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「我が形を為すもの」2

昨年12月の前半、父親が突然脳梗塞を起こし、3ヶ月ほど入院生活となり、この頃から以前直腸がんを手術していた母親は、腸閉塞を起こしやすくなっていたことも有り、この上自分までもが入院したら家庭が大変になると思ったのだろう。

好きだった甘いものも食べないようになり、食事の時もほんの少ししかご飯を食べず、やがて言動が少しづつおかしくなっていった。

そして今年1月頃からは「おれを殺してくれ」と私に言うようになり、寒い時期は心臓病の妻の容態も良くないことから、私は三度の食事を作りながら娘を学校に送り、父親の病院へ通って、母親も精神科医と内科へ連れて行くと言う状況に陥ってしまっていた。

仕事はおろか、食事の支度すらできなくなってしまった母親は私に、「すまない、お前にばかり迷惑をかけて・・・」と、沈み込む日々を送っていた。

しかし悪いことは続くもので、今度は高校生活が終わり、他府県暮らしをしていた長男が2月に体調を壊して、これも家で療養することになった時から、母親は「ああ、この家は完全に壊れてしまったんやな・・・」と呟き、玄関を上がる短い階段に腰掛け、長い間うつむいているような事が多くなった。

腸閉塞の恐れは未だに続き、排便が上手く行かない、うつ病も全く良くならない、私の妻は寝込んでいる、孫の一人も体調をこわして家でゴロゴロしている。

やがて病院から退院してきた父親は右半身麻痺で杖をついてやっと歩けるが、着替えや風呂は一人でできず、食事は左手でスプーンを使っている状態にも関わらず、母親はここでも何もできず、そこでイラつく父親はいつも母親を怒ってばかりになり、家中が一挙に絶望的な感じになって行った。

また4月の前半に苗箱に撒いた稲苗の発育は例年になく悪く、これは恐らく寒い気候のせいだったのだが、このことが母親にとっては一番気にかかったのだろう、「田植えに間に合うだろうか」と心配するようになった。

昨年までは父親が健在だったが今年は私と母親しかいない、いつしか母親はどうにならないにも関わらず、毎日苗が入ったビニールハウスの前で一輪車を置き、そこで半日も座ったままと言う状態になり、ここにきてやはり5年ほど前に受けた膝関節手術の痕が傷み出した時は、「もう医者にはかかりたくない」とまで言い出すようになってしまった。

それゆえ私はうつ病の人が自殺を考えるときは朝が多いと聞いていたので、少なくとも母親よりは早く起きるようにしていたのだが、自身の仕事の焦りから疲れ、1時間寝過ごした、その1時間が母親を殺してしまったのだ。

母親は恐らく父親が脳梗塞になるまでは幸せで、それなりの自負心もあったのだろう。

周囲には一人暮らしや家庭的に上手く行っていない家が多い中、私と言う後継者が有り孫もいて、それらが曲がりなりにも人並み以上と思えていたのだろうが、それが一挙に狂ってしまって、農業や仕事、父親の介護に妻の看病もしなければならない私の姿に、この上自分までもが3種類もの病状で病院へ連れて行って貰うことが、もう到底耐えられなかったのかも知れない。

昨年から徐々に痩せていった母の体重は15kgも減少し、顔は小さく浅黒くなり、目はいつも死んだように虚ろか、それでなければ人目を気にしたようにキョロキョロ落ち着きが無くなってしまっていた。

恰幅がよく、豪奢な以前の母親の姿はもうどこにも無かった。
「あんまり気にするな」と言っても、「すまない、すまない」と言うだけだった母親、首を吊った時の姿は泥だらけの農作業姿に裸足で、本当に小さくなってしまっていた。

おそらくその朝も先に稲苗の発育状況を見て、悲観したのだろう。
足元には農作業用の被りものがたたんであり、靴下と一緒に並んでいた。
「70年近くも生きてこれがその結果かい、何でもう少し我慢できなかったのか、こんなみすぼらしい格好で、裸足で、こんな惨めな姿で一人で死んでいって良いのか・・・」

警察から事情を聞かれながら、私は納屋のトイレに時々入り込み、そこで声を上げて誰に遠慮することもなく泣いた。
ほどなく母親は助からなかったことが、警察官によって知らされた。

そして葬儀の間中、あの煌びやかな装飾や僧侶の荘厳な衣装を見ながら、母の死んでいったときのあのみすぼらしく、惨めな姿が如何にしようとも拭い去れず、その度に私は絞るように嗚咽がこみ上げ、涙がこぼれた。

「おれを助けよう、これ以上自分が負担になってはいけないと考えたか、そんなところが大ばか者だと言うことが何故分からん・・・」
「あんなみすぼらしい姿で、裸足で・・・」

私は葬儀の間中、こんな事を繰り返し呟いていたに違いない。



            「我が形を為すもの」3に続く










「我が形を為すもの」1

私が幼い頃、家は貧しく、両親は昼も夜もなく働き、また父親は子供に関することに口を挟むことはなかった。
ゆえ、私は祖母や母親から「男」と言うものに付いて教えられたのであり、私が理想とする「男」の在り様とはつまり、古い時代の「女」が望む男の姿であったかも知れない。

「男と言うものはそんなに軽々しく人前で歯を見せてはならない」、つまり人前で軽率に語ったり笑ってはならない。
また同じように「男は人前で泣いてはならない」
「姿勢を正して、正々堂々としていること」

これは祖母と母が、私が幼い頃から一貫して言い続けてきたことであり、基本的に男と言うものは、そんなに軽率に感情を露にしてはならないと言うことだった。

人間嬉しいときはその嬉しさを人に語りたくなり、悲しいときもやはりどうにかしてその悲しみを人に伝えたくなるが、所詮人の喜びや悲しみなど、他人にとってみればどうでも良いことにしか過ぎない。

ましてや喜びを他人に語るなど、それは自慢にしかなっていないのであり、これが我子や身内の話で為されるものなら、そこから生まれるものは喜びの共有ではなく、愚かさと人心の分からぬ「傲慢」と言うものであり、こうした在り様は人の「信」を失う。

更に言葉の巧みな者には「真意」がなく、涙を見せる男は優しいように見えて弱い、
いつかその優しさゆえに、弱さゆえに愛する者を守れない日が訪れる。

祖母や母は愚かな人だった。
知識や教養もなく、美しい人でも優しい人でもなく、ただ人に迷惑をかけず、働くだけの頑なな人だった。
だが、眼前に広がる現実のみがその全てであり、それが我が形を為すものであるなら、彼女達の言葉はまさしくこの世の、人間の本質をその形から先に説く偉大なものであったと今は思う。

また彼女達が許す「男」が泣いても良い時と言うものは、一生の間に2度だけ存在していたが、それは親が死んだときだった。

そして、私はつい最近のことだが、人前で何の遠慮もなく号泣した。
その朝、前日の無理な「田起こし」がたたり、いつもなら5時に起床するものが随分と寝過ごしてしまい、どこか遠くで父親が呼んでいる声で目を醒ました。

あたりを見回すが妻はまだ寝込んでいて、恐らく6時30分前後だったかと思うが、

父親の「ばあちゃんが倒れとる!」と言う声の聞こえる方へと、納屋の方へと向かった私は、父親の言葉と現実の大きな落差に、一瞬にして涙が溢れ、「何をしとるんや!」と叫んで母親の足元に駆け寄ったが、その足は地面から30cmも離れた所の宙に浮いていた。

納屋の階段には稲の苗箱を縛るために使われていた、ビニール製の頑丈なロープが4本も束ねてきつく結ばれ、その片方は母親の首にしっかりと巻き付いて、これもとてもほどけるような生易しいものではなく、母親は目を閉じて、舌を斜めに出してぼろ切れのように階段の手摺にぶら下がっていたのだった。

これと同じ光景は以前にも一度見たことがあった。

若い頃東京のボロアパートで、やはりこうして若い女が首を吊って死んでいたことがあり、その時は女の母親に早く娘を降ろしてくれと頼まれ、それで私が体を抱え、もう一人のアパートの住人が同じようにロープをほどこうとしたがほどけず、台所から包丁を持ってきてロープを切ったことがあった。

だが今度は自分一人しかいない。
私は近くに置いてあった鎌(カマ)を手に取ると、母親の体を片手で支え、そして4本も束になったロープを切った。

そして抱えたとき、まだ体が温かかったことから、首からロープをほどくと、立てかけてあった1m80cmの合板の板を土間に敷き、そこに寝かせ心臓マッサージを始めた。

「誰か救急車を呼んでくれ」、母親の心臓をマッサージしながら父親に子供達を呼ぶように頼み、やがてやって来た娘に救急車を呼ぶように伝えた私はバラバラと涙がこぼれながら、「何でこんなことを、アホが、アホが・・・」と叫びながら心臓マッサージを続けるが、母親の表情は何も変わらず、やがて救急車が到着し、流石にこの騒ぎで目を醒ました妻が救急車に一緒に乗り、私は救急車と一緒に来た警察の対応に当たる事になった。

全ては私の責任だった。
この前日、翌日から暫く雨になると言う天気予報が出ていたことから、その雨が来る前に田を耕して置きたかった私は、遅くまでトラクターに乗っていて、それで疲れて翌日いつもより寝坊をしてしまった。

このことが母親を死に追いやってしまった。
言わば母親を殺したのは私だった。

「我が形を為すもの」2に続く




「地震予知の歴史・2」

しかしFM波の変調観測は確かに地震は予測できるが、それがどの地域に発生するかは不確定であり、また規模も特定できない。

串田氏は結局千葉県沖の地震や、関東地方で起こった震度3クラスの地震を関東地震と誤認してしまったことから予測が外れたとされてしまい、更には高額な機材購入のため、企業とスポンサー契約を交わしていたとも言われていた為、社会から強い批判を浴びてしまう。

結局ホームページは嫌がらせの書き込みで炎上し、更新は為されないようになってしまった。
現在は元々そのスペシャリストである天体観測の分野に専念し、地震予知は公開されないものとなっている。

またこうした民間の研究に対し、気象庁はどうした遍歴を辿ってきたかと言うと、それまで地震に関する専門的な部所だった「地震火山予知連絡会」は、1993年からはじまった伊豆東海群発地震を契機に、急激に高まった一般大衆の地震予知への関心と、これを無視できなくなった政府から、伊豆東海地震の予測回答を迫られる。

しかし結局地震予測などそう簡単にできるものではなく、地震火山予知連絡会は「現代の科学では地震予知は不可能」との見解を出してしまう。

つまり地震予知は諦めて欲しいと回答したのであり、以後1995年からは伊豆東海群発地震域の観測を強化し、予知よりも起こった地震を早く察知する方向へと方針転換がはかられ、その成れの果てが「緊急地震速報システム」な訳である。

地震予知に尻尾を巻いて逃げてしまった地震火山予知連絡会は、その後社会から失望感を買ってしまい、やがて表舞台から姿が見えなくなり、現在は「地質調査委員会」や「火山噴火予知連絡会」、政府の「中央防災会議」などが表を仕切っているが、そのいずれも地震予知には否定的な見解を出し、地震の前兆現象などは絶対認めない姿勢を取っている。

大まかなものだが、これが日本に置ける地震予知の歴史のあらましである。
そして前兆現象による地震予知の難しさは30%の確率を忘れてしまうことにある。

地震は波の特性を持って発生してくることから、例えば断層が動くまでには数回の破断直前回避があって破断が起こる。
この破断直前回避は平均で3回程起こるが、こうして破断が回避されたときも、地震発生時と同じような前兆現象や不思議な現象が起こる。

このことから不思議な現象が観測されたとしても、実際に地震が発生するのは3回に1回と言うことになるのであり、尚且つ通常社会や人に地震が影響を及ぼすのは震度5以上の地震であり、これより規模の小さい地震はそもそも予測する必要すらない。

にも拘らず、あの現象はこの間の地震の前兆だったと言って、震度4クラスの地震を予知したと言う話の多さが、本当の危機を見えにくくしているのである。

ここに冒頭の安政期の商人の気概を思い起こして欲しい。
後世の人のためになるならと言う思いは、地震を当てることに本旨があるのではなく、その危機に対応したものだと言うことを我々は忘れてはならないだろう。

その上で宏観地震予知の確率は30%だとしたら、上手く使えば3回に1回は地震を回避できると言うことであり、慎重に観測を積み重ねるなら、もしかした3回の内2回までは地震を回避できるかも知れないと言うことである。

東京に震度6以上の地震をもたらす確率のある震源域は、実に50以上も関東に点在している。

加えて今回発生した日本海溝地震によるプレートの新たな歪みは、今後1ヶ月後くらいの期間にユーラシアプレート境界付近で地震を発生させる確率が高く、その意味では長野県北部、中越、秋田県沖、北海道南西部は要注意であり、同じように関東の震源域も重大な警戒が必要になる。

また茨城県沖の海域はこれでも恐らくエネルギーの放出が終わっておらず、これからも千葉県、茨城県、福島県南部は注意が必要であり、震源となった日本海溝の向かって右側は大きなひずみを抱えている事から、この海域では3月11日の地震に匹敵する地震の発生に対して、今後2年間は注意する必要があるだろう。

また南海地震や東南海地震と連動性のある東海地震に関しても、プレートのひずみから、場合によっては南海地震や東南海地震の周期を早めて連動して起こってくる可能性も無いとは言えなくなってきた。

科学では予知できない地震、でももしかしたら現実に起こる不思議な現象でそれを予知できたとしたら、我々はそこに科学的であるか否かを問うのではなく、現実に起こる現象を見逃してはならないのでは無いだろうか。

大きな地震は決して突然起こってはいない。
必ず「来るぞ」と言って起こっているように私は思う。




「地震予知の歴史・1」

古来日本では地震と雷の区別が曖昧だった。
従って例えば鎌倉時代までの記録に「大雷」と書き記されたものの中には、地震のことを現しているものも少なくない。

また常に戦乱がつきものの世界の歴史には、初めは恐らく気象現象を予測するために発展しただろう記録などが、次第に地震の予測も含んだものとなって行った形跡が見られ、中でも中国の記録は2000年以上の膨大な歴史の厚みを持っていたが、残念なことに第二次世界大戦中に起こった共産主義革命によって、その記録は全て失われてしまった。

だが1970年代に入って頻発してきた中国の地震に対し、当時の指導者である「毛沢東」(もうたくとう)は国家プロジェクトとして「地震予知」の目標を立て、1975年には2度の大きな地震を予知し、その内の1回は地震発生前30分に全ての人民の避難を完了させるほどの精度だった。

この時中国が地震予知に用いた方法が「宏観地震予知」(こうかんじしんよち)と言う方法であり、これは地震が起こる前に観測される不思議な現象を総合的に判断し、それによって地震を予知する方法だった。

一躍地震予知に関しては世界のトップに立った中国、しかし以後は地震の予測が外れ、また毛沢東の片腕だった「周恩来」(しゅうおんらい)が死去し、更には毛沢東自身もこの世を去るに至って、「そんな非科学的なことで・・・」と言う声が高まり、こうしたプロジェクトも新指導者達によって否定され、やがて省みられる事もなくなっていった。

このような経緯から振り返って2008年5月に発生した「四川大地震」を鑑みるなら、毛沢東たちの試みが僅かでも継続されていたらならと悔やまれてならない。

そして日本に置ける地震予知も、やはりそこには戦乱と共に発展してきた気象予測と同時並行で研究がなされてきた経緯があり、「楠木正成」(くすのき・まさしげ・鎌倉末期の有力武将)の「通機図解」(つうきずかい)などは雲の形から気象や地震を予知する方法であり、同じように天体観測による星の見え方によって地震を予測していた「真田幸村」(さなだ・ゆきむら)、「今川義元」(いまがわ・よしもと・戦国時代の武将)の軍師「太原雪斎」(たいげん・せっさい)なども地震予知に関心を示していたとする記録が残っている。

またこうした戦乱時の戦略上の必要性とは別に、一般大衆や公家なども多くの地震の前触れ現象を記録しているが、例えば安政期(1854年ー1859年)の商人の記録などは、「後世の人に地震の前にはこうした不思議なことが起こることを知らせるために記しておこう」とあり、商人でありながら後世の「公」の利益を意識した考え方は、その気概の大きさに感嘆すべきものがある。

更に大正期、この頃になると「小玉呑象」(こだま・どんしょう)と言う「卦」、つまりは占いだが、彼のような占い師が古来からの記録を研究し、地震予測を始めるが、彼は「火天大有」(かてんたいゆう)と言う「卦」が立ったことから、1月の時点で夏に関東が火の海(関東大震災)になることを予測していた。
だがこうした「小玉呑象」らの存在も、やがてひたひたと忍び寄る戦争の足音の前に、世間を騒乱してはならないと言う理由から統制が加わり、ここに日本の地震予知も「口をつぐんだ」状態になっていく。

やがてそうした第二次世界大戦が終わり、今度はいよいよ自由にものが言える時代を迎えた日本、しかしそこで日本に入ってきたものは「科学」と言う「合理性」であり、ここで地震予知などと言うものは「非科学的」と言うレッテルが貼られ、地震予知は「怪しい占い師」や「大言壮語の預言者」の領域となっていく。

しかし江戸末期から明治、大正の頃には東京大学の教授ですら研究していた地震予知の脈々とした流れは、終戦と共に「末広恭雄」や「吉村昭」「弘原海清」などに受け継がれ、また膨大な資料が残された「関東大震災」発生前の前兆現象の記録は、1970年代の中国で用いられた「宏観地震予知法」を、日本で少なからず普及させる事となった。

そしてこうした時期、やはり日本で最初の民間地震予知研究組織「日本地震予知クラブ」が結成される。

代表は「亀井義次」氏、彼は地震が起こる前に発生する前兆現象で地震を予測できないかと考え、資料を集め、また当時地震予知では第一人者と言われる人物がこのクラブに参加していたが、このメンバーの中には聖書から地震を予知するとした者や、古文書から地震を予知するなど、現代社会では若干疑問に思わざるを得ない者の参加があり、やがて亀井氏が奥さんの看病のため代表を引退してからは分裂状態となり、今日でもその名称は残っているが、クラブの活動自体は本来よりは変化したものとなっているようだ。

亀井氏は地震予知こそが最大の防災だと考えていた。
死の直前まで地震の前兆現象を書いた小冊子を作り、それを全国の消防署へ配布しようとしていたと言われている。

一方こうした亀井氏達の方向とは別に1980年代末から地震予知の分野で彗星の如く現れてきたのが「串田嘉男」(くしだ・よしお」氏だが、彼は元々天文学の分野で著名な人だったが、FM波の変調からほぼ70%の確率で地震予知を始めるようになり、こうした動きに日本全国の大学研究機関も共同研究を始める。

「地震予知の歴史・2」に続く




「言葉に不安を加える」

「避嫌者 皆内不足也」     (近思録)

「嫌を避ける者は、皆内足らざるなり」

すなわち人から嫌われること、或いは良く思われないからと言って、これを避けようと考える者は、未だかつてその心底が未熟であると言う意味である。

朱子の「近思録」は「論語」の中にその書名を持っているが、この言葉の本質は「切に問いて近く思う。仁その中に在り」と言うことで、「眼前の現実に対して重大な問題意識をもち、まず身近なことから考えて行けば、おのずと優れた人格が生ずる」と言う意味を持っている。

人間の行動と言うものは大方の場合「現実」を無視したものとなり易いが、その道を誤らせる最大の要因となるものが自分が思う他人の自分に対する評価、いわゆる人の目と言うものであり、これは結局自身の心の卑しさから来る自分への「疑」である。

つまり人は己の心の卑しさを他人と言う「鏡」に映して見ているのであり、人から良く思われたいと思うその心が、既に自身の内にやましいものや卑しさを抱えているからに他ならない。

例えば人を率いていかなければならない立場の者、彼に必要なのは「人気」ではなく「尊敬」と言うものであり、この尊敬と言う言葉の半分は「神」に対する人の在り様に近く、現実の形を持たないが「威」、すなわち「他人をしてそれを思わせる」と言う事が必要となる。

「威」は元々薄く弱くでも多くの者がそれを認める、若しくは容認できる事をして始まるが、やがてそこから「威」を支える者たちの無関心が始まると、今度は「暴力」が「威」を支えるものとなってしまう。

しかしこうして暴力に支えられた「威」は、「威」が末期を迎えた状態と言え、同じように「威」が崩壊する原因として、暴力の対極にあるのが冒頭の「避嫌者 皆内不足也」である。
人の営みは個人の暮らしから始まって、その国家統治に至るまで、基本的には「Yes」か「No」の組み合わせでしかない。

然るに人間と言うものは眼前の現実を眺めながら、そこに人間関係も加えてしまう、或いは情を加えてしまうが、このことが判断を誤らせ、本来「はい」か「いいえ」でしかないものに逃げ道を作ってしまい、それが迷いとなって言葉に表れたときから、自分が人からどう思われるかと言うことに捉われてしまう。

つまりは人から良く思われたいと言う事は、自身の迷いそのものと言え、ここに多くの人はその言葉に「威」を感じなくなり、その「威」を回復しようとして更に言葉を加えるなら、「威」は限界まで奈落の底へと落ちて行く。
ただ一人の女すら愛することのない者が、万人の愛を説くなど甚だ笑止であるのと同じように、多くの者に良く思われたいと願う者には、本質や現実が無くなってしまっているものである。

自分の良いところだけを見せようとする、或いは自分に取って都合の良い状況だけを人に見せようすることは、実は意外に大きな力を要するものであり、ここに力を注いでいる者は常に現実がおざなりになってしまうことから最後は失敗が多い。

そしてこの失敗をカバーするために「良い人間性」を見せようとして行くと、自身が気づかない内に他人の奴隷となって行く。
日本人が好きな言葉である「誠意」などと言うものは、常に矮小な意思の者にとって、知らぬ間に陥っている他人に対する奴隷状態を指している事が多い。

この情報と言葉が氾濫する現代社会にあって、より多くの言葉は「現実」を軽くし、現実を離れた言葉は「言語」ではなくなって行く。
およそ言語は自身を表現し、「他」との間で相互に意思の疎通をはかるものであるとするなら、そこには言葉を担保する「責任」が生じ、この責任とは「言葉」に対する「行動」を指している。

従って「責任」を持った言葉とは「より多くの言葉」とは逆比例のものであり、ここで自身の保身をはかろうと考えたなら、その言葉は自身が下した決定の末尾に「しかし」や「ですが」を加える事になり、こうした言葉は本来の決定に「不安」を加えるものであり、結果として失敗を恐れ、万一の言い逃れを考えた言葉は、どうしても不確かなものとしかならず、こうした言葉を積み重ねていくなら、最後は自分自身が「矛盾」そのものになってしまう。

「君主は賢明たり得ずとも賢人にさしずし、無知で有ろうとも知者のかしらたり得る」
「臣は苦労を重ね仕事をし、君主はその仕事の成果を誇り、尚その君主は賢いと言われるのが世の常である」

これは秦の始皇帝の時代に活躍した思想家「韓非子」(かんびし)の言葉だが、彼は人間性悪説の観点から徹底的にこれを追求した思想を持ち、策略によって国を治めることを説いた。

彼は結局最後、秦の始皇帝の家臣の策略によって毒杯をあおり死んでいくが、その悪のもっとも深いところが限りなく「善」に近いところにあるとするなら、そしてその完全なる善と、もっとも深い悪がもたらす結果が同じものであるとするなら、徹底的に人間を疑った韓非子の在り様はまた人間ができる限界の領域とも言え、こうした観点から「君主は賢明たり得ずとも賢人にさしずし・・・」の言葉を考えるなら、その対比するところに、もっとも合理的な君主の姿を見ることができる。

リーダーは何をすべきか、すなわち韓非子の言葉の裏を見るなら、リーダーとは「決断」が全てだと言うことである。

リーダーのすることは「Yes」か「No」のどちらかしかなく、そしてこうした決断が成就するか否は、ひとえにその後「しかし」「ですが」などの不安な言葉が、続くか否かにかかっている。

それゆえ万一の事を考え、自身の保身を考えた言葉は「初めから成功を放棄した」言葉にしかならない・・・。

「多くを語る者はその多くをなし得ない」
日々の暮らしを堅実に送る者の言葉は、実現しない大きな理想を語る者の言葉より、小さかろうとも常に重い・・・。

民主党現政権の方々にはこのことを努々お忘れなきよう、お願いしたいものだ・・・。




「コップの水」・2

信頼とは実は失敗しないことではなく、失敗したときの処理に関係したものである。

誰でも失敗はあって、通常できればこれを隠して置きたいが、いつも失敗を隠してばかりいると、周囲は常に失敗を想定した状態でその人物なり国家を見てしまう。
この状態では言葉での説明が無意味になってしまうが、一方いつでも失敗したときは正直に周囲に知らせて置くなら、周囲は常にその人物や国家を疑う必要が無くなる。

つまり失敗は隠蔽すれば隠蔽するほど、平常時の信頼も失わせるものなのである。

日本はこれまでずっと原子力発電所に関して安全神話を誇ってきたかも知れないが、それなら尚のこと、事故が起こったときには客観性を持った対応をすべきだった。

既にここまで日本の信頼が失われた今日、取れる手段はそう多くはないが、汚染水の海洋投棄などはそもそも東京電力が決済能力を持っていない国際的な問題であり、このことが国際社会に与える影響はある種リビアのカダフィ大佐ぐらいのことでは済まされない重要な問題と言える。

ゆえにこうした状況下で日本が取らなければならないもっとも重要な課題は、失われた信頼性の回復と言う事になるが、その際は「客観性」が重要なポイントとなる。
つまり既に信頼を失っている日本政府や東京電力は、外部の信頼性のある権威に頼らなければ信頼の確保ができない。

IAEA(国際原子力委員会)から推薦を受けた研究員で作られた専門委員会、若しくはIAEAも含めた世界的な研究者10名前後の委員会を発足させ、彼等の勧告に従って福島原子力発電所の処理をしていく方向を作り、彼等に暫定放射能基準値を設定してもらい、そこで安全性の問題も検討して行けば、ここでは国際社会の理解も得やすく、放射能汚染が終了した場合の安全宣言も国際的な効力を持つことになる。

残念なことだが、この震災に置ける福島原子力発電所の放射能汚染問題は既に東京電力はおろか、日本政府にあっても完全に解決能力を失っている。

人間は原子力や放射能に対して余りにも分かっていないことが多すぎる。
科学とは言っても、例えば火が燃える原理は分かっていても、肝心の「何故そうなのか」と言う部分は現象の積み上げでしかなくその理由は分かっていない。

だがしかし、分かっていないからそれは危険だと言って避けていれば、人は恐らく今に至っても火を使うことはできなかっただろう。

放射能は恐い、がしかし今回の福島原子力発電所の事故で、今までに一般大衆の中で放射線被曝事故に遭遇した者がいるだろうか。

福島原子力発電所の放射能漏れを制御しようとして被爆した作業員は存在しても、一般大衆は今までに一人も被爆傷害を受けた者がいないにも関わらず、報道や情報によってそれを恐れ、その恐れが今日福島県や茨城県、千葉県の農民や漁民、一般大衆に影響を与えているのではないか。

放射能が人類の将来にどれだけの影響を与えるのかは未来にならなければ分からない。
その分からない事を現在の時点で語っていることが既に大きな矛盾と言うものだが、こうしたものには「真実」は有り得ず、結局のところはコップに入った半分の水をどう思うかと同じことである。

人類はより多くの同じ意見を、より多くの者がその説明を支持するに足る方法をして「真実」とするしか道を持たない。

そしてこうした観点から現在の日本を考えるなら、毎年3万人を超える人が自殺する現実を語ることなく、被曝した者がいない原子力発電に反対することが今の日本人のやらなければならないことだろうか。

放射能の正体など誰も説明が付けられないものを、他人の意見をしてあたかも知識であるように錯誤し語っている間に日本は、人類のより多くの者が支持するに足る方法、つまりは「真実」から遠ざかってはいないのだろうか。

現在日本がやらなければならないことは、起こってしまった原子力発電所の事故を嘆いたり非難することではなく、どうやって汚染水や汚染を処理するかであり、如何なる方法で失った国家の信頼の回復を考えるかである。

こうした作業がない限り、原子力発電所の賛成や反対意見など、全く意味を持たない。

その以前に日本は火力発電所の燃料すら買えなくなっていたなら、日本の今の騒ぎはサルの絵を見て威嚇しているサルにも劣るものとなるのではないか・・・。

現実が持つ速度は情報の持つ速度より遥かに重く、その分情報は現実を離れて先を急ぐが、現実と情報の乖離こそが多くの場合、過ちとなり易い・・・。




「コップの水」・1

例えばコップに水が半分入っている状態で、この水の量が「多い」とするか「少ない」とするかの判断は個人がどう思うか、つまりはその個人が置かれている環境に由来し、一般に豊かな地域の者は「まだ半分もある」と判断する傾向にあり、貧しい地域の者ほど「半分しかない」と思ってしまう傾向にある。

仏教で言うところの「餓鬼」の概念は、こうした貧しさ、いわゆる環境によって切迫させられた人間の必要以上の「恐れ」、環境に対する「猜疑心」を現したものと言える。
しかしその一方で、ではコップに水が半分入った状態が、「足りた」状態なのかと言うと、これももしかしたら脳天気な誤った判断であるかも知れない。

この世界のあらゆる現実や事象は全て意思を持たない。
あらゆる現実や事象に対して、それを良いとするか悪いとするかは全て人間の、いや我々一人一人の好悪の感情、事情でしかない。

それゆえこの世界で起こる現実に対して、我々は常に確かな、絶対的な結果や結論を求めたとしても、そこに絶対的なものは存在しておらず、強いて言うならより多くの考え方、若しくはより多くの者が支持するに足る説明がなされたものをして、「真実に近い」と判断しているに過ぎず、その判断が正しいか否かと言う問題はそもそも初めから存在していないものであり、我々の理解と言うものは如何なる場合も「勘違い」でしかない。

このことを踏まえた上で、此度東北地方を襲った大震災によって放射能漏れを起こした、東京電力福島原子力発電所の事故を鑑みるなら、そこに明確な答えを持った者が全く存在していない。
政府、原子力保安院、大学研究者達の意見はそれぞれに相反したものとなり、あらゆる情報が全て信頼を失った状態となっている。

このことは何を意味しているかと言えば、結局日本では誰も原子力や放射能に対して具体的な説明をできるものがいないと言うことであり、さらには研究者や専門家も恐らく政府や原子力保安院、または東京電力と関係する者と、そうした所と対立関係にある研究者があると言う事で、彼等によって語られる放射能の人的影響に対する見解は、ちょうどコップに入った半分の水が、多いと思うか少ないと思うかの対立でしかなく、ここでは正確な情報までもが本来の価値を失ってきている。

またこうした情報を元に発表される東京電力や政府の発表は二転三転し、その度に基準が変更される有り様は、人間に対してもっとも信頼を失わせる行為であり、まして人体が一年間に浴びても影響のない放射能の数値基準の引き上げなどは、今の時点で行うとするなら、そこに数値基準そのものに対する虚無感を発生させ、こうした行為を言葉で補おうとすればするほど、そこから信頼は失われていく。

更にこうした状況にも関わらず、東京電力の低レベル放射能汚染水の海洋投棄は、明確に国際連合の海洋法条約に違反した行為であり、これに対して周辺諸国が抱く不安は、汚染水の海洋投棄そのものもさることながら、日本政府に対する完全な信頼喪失へと繋がっていく。

つまりこれから以降日本政府や東京電力が如何に安全性を主張しようと、言葉そのものの信頼がなくなるのである。

その結果どう言った事態が起こるかと言えば、海外にある日本料理や日本人が経営する飲食店は全て安全性の観点から排除され、日本の農産物は全て放射能に汚染されていると看做され輸入禁止措置が取られる。

また場合によっては工業製品までも汚染されているのではないかと言う疑惑が発生し、ここに日本政府や東京電力の不適切な対応は、日本そのものの信頼を失墜させ、資源が少なく輸出によってしか経済的発展の道がない日本は、唯一の手段である輸出までも諸外国の規制を受けてしまう事になる。

震災復興の観点から経済的発展が欠かせない日本は、この原子力発電所事故の対応の誤りから、これまでは震災に、そしてこれからは経済的に追い込まれてしまう可能性が高い。



                                                   「コップの水」・2に続く




「無意識の革命」

権威や威信と言ったものは、被権力者、被権威者の許容、もしくは理解によって成立し、権威の存在するところには「秩序」が保たれる。

だが一般的に権威を背景としなければならないのは権力者であり、権力者の所有する権力を担保するものが権威であるとするなら、権威は常に権力者が執行する権力に対して発生するものと言える。

しかし権力者が既に国民の信頼を失っている場合、その国家の国民は自身が持つ正義感や道徳観を暫定的な権威として行動し、尚且つこうした個人の権威の質に個人的な相違が少ない場合、権力者が権力を執行しない状態でも、そこに国民の自主的権威が形成され、結果として国民総意に基づく自主的権力による統治状態が生まれる。

ゆえにこうした状態は、ある種本質的な国民自主権による「government」(政府)と言う理想的な「形無き形」を生じせしめるが、この事は何を意味しているかと言えば、その国家の国民が時の政府に対して全く何も期待していない状態を指していて、その時の政府は完全に国家統治能力、政治の本質である調整能力を喪失していると言う意味を持つ。

更に言えば、こうした状態で暴力や組織的な武力が行使されるなら、それは「暴動」や「革命」と呼ばれるが、政府が統治能力を失っている状態でも暴力や武力が行使されず、特段の形式も持たずして秩序が維持される場合、これも厳密には「革命」と同じことである。

既にその国家の国民は自主判断で自身を統治していると言え、こうした状態の「革命」は形を持たない、無意識の「革命」とも言うべきものである。

そしてこれはどこの国の話かと言えば、「日本」のことである。

2011年に入って民主党、菅直人政権は完全に国民の信頼を失った状態になっていたが、そこへ3月11日、日本海溝に沿って全ての地殻が崩れ落ちる「日本海溝地震」(注・気象庁は東日本大震災としたが、これでは後世の者がこの地震の震源を理解しにくくなるので、ここでは日本海溝地震と表記する)が発生し、これによって福島県の福島原子力発電所が放射能漏れ事故を起こし、尚且つ東北では実に死者、行方不明者が3万人を超える巨大災害となったが、ここでも菅政権は官房長官を通して言葉による不明瞭な説明に終始し、菅総理は全く何の対策も取らず被害を拡大させ、国民の不安を増長させた。

こうした事態にもはや完全な混乱状態に陥った日本及び日本国民は、それぞれ国民一人一人が持つ価値観や道徳観、正義感で行動せざるを得なくなり、しかもその個人の価値観や道徳観はほぼ多数の国民によって共有されたものとして形成されて行った。
それゆえこれだけの大災害にも関わらず、被災地域での混乱は最小限度に抑えられ、また計画停電による電車運行の支障に対しても誰も文句を言わず、列を乱さない在り様となったのである。

日本は3月11日の「日本海溝地震」によって一時的に完全な無政府状態となったが、そうした場面でしっかり秩序を保つことができた。
この背景には勿論それが災害と言う非常事態だったこともあるが、日本と言う国は、もし政府が瓦解しても自主統治が可能な国家であることを世界に知らしめた。

実の世界の多くの国が、これだけの災害に遭遇しながら落ち着き、秩序を保ち続けた日本国民、日本に対して驚愕のまなざしを向けたのである。

だが一方でこうして秩序が保たれた日本の国民性に対し、海外の大衆からすれば到底理解し難い部分が存在するのも事実で、国家が騒乱の危機にあって、国民生活が非常事態に晒されながら黙っている日本国民の姿に、まるで飼われていることを何も考えない羊のような姿、若しくは黙って秩序を維持している光景に対して、底知れぬ全体主義的な国民性を感じた者も少なくない。

この意識の差はどこから来るか、その問いの答えは比較的容易である。
日本の民主制は前時代的な民主主義であり、ここには国民による法案提出権が存在していない。

つまりどれだけ騒いでも国民は国会に法案を提出することができないからで、一定の国民の要望があれば、代議士は国会に相当する機関に必ず法案提出しなければならない諸外国の憲法との相異があり、尚且つ戦争放棄の観点から日本国憲法に対し、暴力で訴えることに対する国民的抵抗感があるからだ。

その上、日本国民の5人に1人が公務員かそれに順ずる仕事に携わっていること、4人に1人が年金生活者であることから、国家には逆らえない状況が存在している。
だから日本国民は暴動や武力革命を起こさないが、その結果として現れてきたものが、今回の震災に措ける混乱時の秩序であり、これは政府に命令されて維持された秩序ではない。

国民一人一人の良心や道徳観、価値観や正義感などが共有された結果もたらされたものであり、少なくとも日本人は日本独特の優しい価値観を失ってはいなかったと言う事に他ならず、これはある種無能化した日本政府に対する国民の無抵抗、非暴力、無意識の「革命」であったと私は思いたい。

革命と聞けば自動小銃が火を噴き、戦車が繰り出されることを想像するかも知れないが、今回の震災で日本人が示している秩序は、最も理想的な「革命」と言う側面を持っているのではないか、そう思うのである。
また基本的にこうして国民によって秩序が保たれたと言うことは、そこに個人個人の力が失われていない、すなわち日本にはこの震災には負けない国力が有ると言うことだ。

今回の震災では諸外国の日本人に対する評価が大きく向上した反面、日本政府は以前にも増して大きく信用を失った。

そして日本がこれから後に迎える災害は、地震を始めとして容易なものではなく、日本のこの愚かな政治をして、次に災害が訪れたとき、国民がそれに対して再度秩序を維持できるだけの国力を失わせることの無いよう、それだけをこれからの日本の政治家にはお願いしておきたいものだ・・・。

もしかしたら自然災害も一つの「革命」の形なのかも知れない・・・。






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この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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