「主権在民」

「美香さん、僕は君の事を愛している」
「えっ、本当? 嬉しいわ秋男さん」

イケメン男の秋男はまず美香さんに愛を打ち明けるが、その次はいつもコンビニでバイトしている、理佳さんにもこんなことを言う。

「理佳さん、僕は君無しではいられない」
「わー、本当ですか、いつか私から告白しようと思ってたんです。感激です」

そして秋男の愛は更に暴走を始め、優子さん、夏美さん、明日香さん、涼子さん、トメさんにまで、次から次「愛している」を連発していくが、やがてそれぞれに秋男の言葉を信じた彼女達、今日こそは秋男を我が物にせんと下着から始め勝負パンツを身に付け、メイクもばっちり、最先端のファッションに身を包んで秋男のマンションへ押しかけた。

だが意外にも秋男のマンションの扉を開くと、その玄関にはカラフルなハイヒールがたくさん並んでいて、そして始まったのは修羅場だった。
「ちょっと、秋男さん、これは一体どう言う事なの? 私以外にもこんなに沢山女がいたなんて、騙したのね」

秋男の愛は自分だけのものと信じていた彼女達、しかし現実に訪ねてみれば「愛している」の言葉はあちこちで乱発され、これに激怒した彼女達は口々に「どうしてくれるのよ」と秋男に詰め寄る。

「みんな、ち、ちょっと待ってくれ、僕が愛していることは本当だ」
「美香さんも理佳さんも、優子さんも、夏美さんも、明日香さん、涼子さん、トメさんも本当に愛している」
「僕はみんなのことが好きなんだ」
「だから、誰か一人なんて決められないんだよ」

秋男は憂いを含んだ瞳で彼女達のことを一人一人見つめた。

この秋男の言葉に部屋の空気は一瞬にして固まり、重苦しい空気が流れる。
だがこの沈黙を破ったのは目を三角にした美香さんで、しかも彼女はこう言う。
「私、みんなを代表して言わせて貰うけど、あんたサイテー、アホじゃない?」

そして美香の言葉に頷いた彼女達はそれぞれに玄関を蹴飛ばすなり、または下駄箱を極真空手で叩き割る、はたまた呪いの札を貼り付けるなどして秋男のマンションを去って行った。

さて、これは何の話だと思うだろうか・・・。
そう、表題にも有るとおり、これは主権在民のことであり、実は主権在民とは最低でまことにアホらしいものなのである。

国家の権利とはその当事国を国家として認める他の国家が有って始めて成立し、この場合その国家間ではそれぞれの国家のことは、当事国家が決定する権利がある事を認め合う事が要件となる。

しかし厳密に言えばこうした主権は具体的な規定を持っておらず、その国家間の力の強弱や都合によって日々変化している不安定なものでしかなく、こうした現実から「国連」では主権国家の基準を設けたが、イスラエルとパレスチナ、アメリカとイランやイラクの関係のように、主権国家と言う言葉は存在したとしても、それは力や数を基本にした恣意的なものでしかなく、尚且つそれぞれが自国の主権を主張しても、他国の主権は常に蹂躙していくものとしかなっていない。

つまり主権国家と言いながら、実はこの世界で主権国家など一国もないのであって、これはせいぜいが願い程度のものだと言うことだ。
そしてこうしたその国家の意思決定の最高権利者が民衆である事をして「主権在民」と言うが、この主権はここでも具体的な形を持っていない。

主権とはその権利が誰か一人に集中すれば、確かに権利となり得る。

だが国民一人一人がその権利を薄く弱く持っていると言う状態は、冒頭の秋男の愛と同じことであり、結果として一人の女性としてはそこに愛がない事と同じように、主権在民と言う有り方は主権が無い状態と同じなのである。

日本のような前時代的な民主主義では、国民主権は4年に一度の選挙時のみ、しかも選挙と言う間接権利行使の主権であり、つまり日本人が主権を持っているのは1460日に1回だけとなっていて、その後は選挙によって選ばれた政党が構成する内閣によって殆どの主権が独占され、この期間の日本人は主権行使の方法を持っていない。

日本人は主権在民だと思っているかも知れないが、その実国民に主権があるのは1460日に1日しかなく、残りの1459日間は民衆に主権が無い状態なのである。
例えば80歳の人が主権在民である日数は一生涯で20日しかなく、残りの29180日は主権の無い状態でありながら、主権在民を信じているだけと言えるのである。

従って日本人はいつでも国民一人一人が権利を持っているように錯誤しているかも知れないが、それは言葉によるまやかしにしか過ぎず、現実には存在していないものである。

その上で国家間でもその主権は、それぞれの国家が自己主張しているだけであり、このようなものはいざとなったら武力で一瞬にして吹っ飛んでしまうものでしかなく、こうした事を担保するためにそれぞれの国家は軍隊を持ち、これをして主権を行使するが、この瞬間から主権は在民に在らず、主権は軍隊や警察、諜報機関によって国民をも束縛するものとなってしまうのである。

ただ日本の主権の特殊性として、この国家が崩壊し瓦礫の山となった時、日本の民衆は誰を頼るか、誰を基盤としてまたその国家を構築しようとするかを考えるなら、ここに「天皇」と言う存在は、第二次世界大戦後「象徴天皇」とされたが、未だに日本及び日本人を最後に担保する存在と言え、その意味に措いて日本の主権は常時そうだとは限らないが、一番最後は天皇が核となって構成されるとするなら、具体的な主権に一番近いところに在るのが「天皇」と言う存在なのかも知れない・・・。

主権に限らずあらゆる権利は相対する存在、つまりは相手が認めて始めて成立する。
従って自己の権利主張の向うには相手側の権利が存在し、この点を鑑みるなら権利は一つの取り引き、契約と同義であり、経済と同じように公平なものは存在し得ない。




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「本当の日本の危機」

時は永禄3年5月19日(1560年6月12日)、ところは桶狭間、京へ上洛せんと欲す源氏の流れを汲む由緒正しき今川義元の軍勢2万。
これを迎え撃つは尾張の大うつけこと、織田信長の軍勢2000。

さても結果は見えたりのこの戦、油断した今川義元は甲冑を脱ぎご休息、この時疾走する織田の精鋭2000旗、おしも降り出した激しい雨は織田の人馬の音をかき消して、なんと気が付けば憎っき義元はその眼前にて目を丸くしておるではないか・・・。

「おのれ義元、その首我ものとせん!」
一挙に打って出た織田信長、さしも総勢2万を誇る義元軍も、今はそこここに兵力を分散し、義元を守るは僅か5000旗にも及ばず。

所詮寄せ集めの兵は織田の鬼神にも似た精鋭にあっと言う間に蹴散らされ、輿を捨てて逃げる今川義元、「待て義元」と言って待つ馬鹿はいないが、やがて逃げる義元に追い付いたのは織田の服部一忠、服部の剣は吉本の腰を切りつけ、なおも義元は逃げ続けるが、そこへ追いついた毛利新助によって組み伏せられる。

「新助、義元の首をあげろ!」
義元とせめぎ合う毛利新助、これに追いついた織田信長、しかし信長はここで新助に迫り来る今川の雑兵達から新助を守るべく、自らが剣を取って今川の雑兵たちをバッタバッタと斬り倒して行く・・・。

日本で最初に「情報」の価値を正確に評価したのは織田信長だったと言われている。

信長は桶狭間の合戦でその軍功第1位に、今川義元が桶狭間にいると言う情報をつかんだ者を挙げており、実際に今川義元の首をあげた毛利新助を、軍功2位としたことが「信長公記」には記されている。

また信長はこの合戦で今川義元と一騎打ちになった毛利新助の補佐を行なっているが、このことも従来の「手柄は将軍や君主が為す」と言う日本的な価値観からすると大変合理的であり、なおかつ君主の有り様としても理に適ったものと言うことができるが、惜しむらくはこうした君主なり政治指導者が後世の日本には出現しなかった事である。

基本的に日本と言う国家は情報と言うものの重要性を軽く見ている。
軍は所詮将棋の駒のようなものであり、それを動かすためには作戦能力が必要になるが、この作戦と言う基本部分は「情報」によって組み立てられる。

しかし現実に今の日本を見ていると、相変わらず雑兵を押しのけて手柄を焦る指導者、政治家ばかりで、またそのなかで情報と呼ばれているいるものも、精々が内部資料の範囲を出ない程度のものでしかない。
しかし現実はどうか、中国の経済的台頭によって相対的にその力や権威を失ってきたアメリカをはじめとする欧米勢力、これによってそれまでは権威によって抑え込まれていた世界中の歪みが、今まさに一挙にそれを正そうとしている。

拡大しか方法を持たない中国、帝国主義時代に戻ろうとするかのようなロシアのプーチン、緊張する中東情勢と言う具合に、イラク戦争、アフガン干渉、更にはリーマンショックによってアメリカと言う価値観が壊れてしまった昨今、世界は新しい秩序を求めてさまよい始めている、いや正確にはそれぞれの国家が次は自国が新しい秩序となるべく、激しい攻防を始めつつある。

こうした状況の中で日本は今、全てが空白の状態にあり、特に情報、外交の部分では全く国際社会から無視され呆れられている現状は、地震の災害復興と共に一刻も早く是正されるべき緊急課題となっている。

そして外交と言うものの本質はその90%以上が「情報」と言うものであり、およそ世界的な勢力を目指す国家は、情報に対して多額の予算を組み、その情報収集に関しても手段を選んでいない。

なおかつ外交は何も外務省だけがそれに当事しているのではなく、国防機関、経済機関、場合によっては海外ボランティアや民間企業もそれぞれに外交交渉を行なっているが、多くの国ではこうした外交を通して得られた情報を統括する機関、これは非公開のものもあるが、そんな機関を持っていて、いわば総力をあげて情報収集を行なっている。

だが日本の外交は現在もそうだが、アメリカ国務省の日本支部と言うのが現状で、情報に関しても全てがアメリカに依存した形になっていて、今世界中の研究機関が指摘する、日本の一番大きな問題は「外交」と言う見解で一致している。

外交を担保するものは誠意や情熱ではない。
交渉では背後に力の担保が無ければ、交渉時に発せられる言葉は意味を持たない。

これまでの日本は「経済」と言う力と、アメリカと言う力を担保に交渉を行ってきたが、落ち込む経済、東北地方を急襲した地震災害によって大きく傾いた日本経済は、今後世界経済のリスクにこそなれ、経済と言う関係を持つに至る魅力を、言葉を担保する力を既に喪失している。

加えて先ごろ発表されたアメリカ国民の意識調査でも、これから先、アメリカに取ってのアジアのパートナーはどの国かとの問いに、60%のアメリカ人が「中国」を挙げていて、日本と答えた人は30%台に留まっている実情は、既に日本のことにまで手が回らないアメリカ政府の在り様と一致したものとなっている。

日本の外務省の組織は本省と在外公館からなり、本省は大臣官房などの他10の局と3の部で構成され、その職員数は2200人、在外公館には大使館、政府代表部、総領事館などが有るが、こちらの方の職員数は3300人となっている。

つまり日本の外交は5500人で維持されていると言う事であり、確かに外務省も一つの行政機関で有るから、その業務を遂行すると言う点では適正と言えるかも知れないが、これでは行政実務をこなすのに精一杯で、情報収集など全く出来ようはずも無く、内閣情報室と言う名ばかりの情報機関はあっても、せいぜいが政治家のゴシップを探るか、数人の北朝鮮工作員を追うのに手間取っているようでは、とても情報収集と言うレベルに及んでいない。

また基本的には力が担保となる外交は、外務省、財務省、国防機関、通商機関との連動が必要になるが、この点でも日本の外務省はこうした他の関連各省とのコミュニケーションツールが弱い。

加えて現在の民主党政権の無策ぶりであり、国際社会、取り分けアメリカやヨーロッパ諸国からは、現在の状態のまま推移した場合、遠からず日本は領土問題、食料エネルギー問題で行き詰まり、国際社会の不安定要因になると懸念されている。

日本は確かに東北の震災によって危機的な状況にある。

しかしこうした危機的状態を既に通り過ぎ、間違いなく危機の状況に有るのが日本の外交と言え、この空白は日本のみならず、世界的にも許される状態ではないことを、日本政府、日本人は自覚しておく必要があるだろう。

外交の基本はたった一つ、それは頻繁に会うこと、その機会を持つことだが、これは一般社会の人間関係に措いても同じことが言えようか・・・。





「価値反転性の競合」

人間が秩序と呼ぶもの、また反対に混沌と呼ぶものも、その本質は大きな漠然たる流れのひとつの瞬間を切り取って、それをどう見たかと言うことに過ぎない。

ゆえに人の言う秩序も混沌も、またいかに大きな思いと言えども、全てが基本的には「幻想」「勘違い」でしかなく、人はあらゆるものを見ながら何も見てもはおらず、多くを聞きながら何も聞いてはいない。

多くのことを為したようで、それは何も為してはいない。

1990年、事実上この年から日本のバブル経済は崩壊したが、ここで崩壊したものはただ経済だけではない。
人の心や愛が金で買えるか否かと言う話が、古代文明の記録にも残されることを鑑みるなら、人間の文明や秩序、道徳、思想、時には人の命に及んでも、そこに経済が深く浸透している現実は、人間社会に置ける経済の崩壊が、すべての崩壊と同義であると言う側面もまた否定し得ない。

多くの人間の優しさは「金」によって維持され、「金」のない者は優しさを維持することが難しく、これはモラルと言うものに付いても同じである。

そして経済崩壊によってあらゆる秩序やモラルが維持できなくなった日本は、1990年からずっと新しい秩序、価値観を築こうとして来たが、その実混乱は深化し、大きな価値観が全て空洞化、虚無化した結果、より劣悪なるもの、矮小なものをして価値を築こうとするようになっていったが、これは崩壊と同時に、小さな一つからまた価値観を築こうとする人間の有り様として、正しい。

しかしこうした傾向は、大きな価値観から先に信頼が失われ、虚無化していくことから、より小さなもの、惨めなもの、貧相なことをして、そこに価値があると人間を錯誤させ易い社会形態を生み、そこでは大きな正当な価値観が全て否定され、ローカルなもの、小さな情報こそが価値があると錯誤されるようになり、なおかつこうした矮小なこと、惨めなことを競い合う社会が顔を出すことになる。

このことを「価値反転性の競合」と言い、何も日本のバブル経済崩壊に限ったことではなく、人類のあらゆる歴史の中で常に起こってきた、人類の習性とも言うべきものであり、近いところで言うならフランス革命、中国、ソビエトの共産党革命も広義では「価値反転性の競合」がもたらしたものと言うことができる。

つまり人間の思考形態は大きな価値観が崩れると、そこではより劣悪なもの、矮小なものへと価値観が向かってしまうと言うことで、その影でそれまでの古い価値観である大きな価値観は、こうした劣悪なもの、矮小な価値観をしてしか担保されないようになり、この状況では経済が価値観を担保する社会より遥かに問題解決に時間や手間を要する社会となり、しかもそれはどんどん加速し、その結果、常に直面する問題解決とは遠く離れたところで小さな事に引っかかり、問題解決が為されない社会を生むことになる。

これが今の日本の現状であり、本来価値反転性の競合はそう長くは続かないものなのだが、どうも日本人はこうしたことでも極めて見たいのか、昨今の報道、大衆の有り様を鑑みるに、より混乱を煽り、さらに劣化したどうでも良い細事に深く入り込んで行く傾向が見え、大きな原則はすべて無視されているように思える。

人の命やその死に優劣など有ろうはずも無く、明日死んでいくものなら、それが事故だろうが原子力発電所だろうが如何なる差が有ろうか。
年間自殺者数は軽く3万人を超え、今も経済的に困窮している者は数知れず、風評被害と言う傲慢な管理社会の幻想を増長させているものは、僅かな放射線量を騒ぐ非当事者である。

放出されてしまった放射能が誰の責任か、誰それがこう言った、ああ言ったなど一体なんの意味があろうか。

大切なのはこうした放射能をどう除去するかであり、その方法が見つからないからこそ、細かなどうでも良いところで議論がなされ、その上で半ばヨーロッパ中世の暗黒時代並み、または中国の文化大革命のような、根拠のない盲目的な反原発運動となっているのではないか。

一体日本はどうしてしまったのだろうか。
今日も明日も、あさっても安心して暮らせる社会などもはや終わったのであり、これからの日本は増え続ける高齢者を全てケアすることもできなければ、生産は減少し、世界経済からも取り残される最貧国となって行くにも関わらず、この自覚のなさは何だろうか。

世界が日本を「平和ぼけ」と言うのは至極最もなことだ。
領土問題、経済、福祉、産業、貿易、すべての分野でこれから先日本は解決が困難どころか、どうしたら良いかすら分からないような時代へと向かいつつある。

安全が保証され、豊かな食事が出来て、汗することもなく暮らせる。
そんな時代がいつまでも続いた歴史など人類史上存在したこともなければ、如何なる生物もそうしたことを保証されていない。

また地震や気象災害に全て備えられると思うのは「傲慢」と言うものであり、これを保証する政府も愚かなら、そうしたことに責任を求める大衆やマスコミもまた愚かである。
こうした愚かさが片方で基本的な大きな価値観を言葉だけのものにし虚無化させ、その一方で価値反転性の競合を深化させ、国民はより劣化したものとなっていく。

今回の原発事故は地震という災害がもたらしたものであり、どこからどこまでが天災か、どこからが人災かと言うことは難しい。
天災と言うなら全てが天災であり、人災と言うなら全てが人災であり、これをどう思うかは主観でしかない。

そもそも専門的に研究しているものでさへ結果が出せず分かっていない事を、民衆が価値反転性の競合でより劣化した情報によって判断し、それが流布されている訳だから話にならない。

あらゆる存在は全て可能性と破壊を同時に包括している。
この世界に真実などと言うものはなく、そこは現実が連続して並んでいく世界であり、しかもその現実ですらその個人の事情や感情と言ったものに過ぎない。

それゆえこの世界で自分の思うことのみが正しい、多くの人が望むからそれが真実だと思うことは許されても、信じてはならなず、これを信じてしまうと、その信じた者によって大きな災いがもたらされることになる。

そして多くの人間は、飢えて弱っている猫を見かけると「可哀想に」と頭を撫でても、家に帰ってパンを持ってくることをしないが、ただ頭を撫でられるだけなら、猫はさらに体力を消耗するだけであり、猫にとって救いとなる人間は可哀想にと思ってくれる人間ではなく、黙ってパンを持ってきてくれる人間だけだ・・・。



「国債と増税・2」

そして現在、各国政府が発行する公債や国債は、実はこうしたその国家の国民の所得の普遍性、安定性を基盤として考えられている。

今ここに健全な経済感覚の国民が有ったとして、彼らが生涯所得や恒常所得と、将来世代のものとなる資産などを鑑みて貯蓄と消費を考えたとしようか・・・。
そこへ支出の増大から、その国家の政府が資金調達として増税か公債の発行を考えた場合、増税は施行までの道のりが長いことから資金調達に時間がかかる。

公債や国債の発行はそんな必要も無く政府が決定できるとしたら、政府はどちらを選択するかと言えば公債や国債発行の方が都合が良い。

しかし政府が発行する債権の償還財源は、政府に所得や利益がない事から、その負担は国民が払うことになる為、これは増税と呼ばなくても、将来に措ける確実な増税なのであり、基本的に国債の発行と増税は同じものであることを国民は理解しなければならず、ここでもし政府が公債や国債を発行した場合、健全な経済感覚の国民ならば、国債イコール増税であることを理解し、そこで自身と将来に措ける子孫の租税負担のために供えることを考え、消費を増加させないようになる。

その上でもし国債を保有した場合、それは資産価値ではなく、将来の増税に備えた貯蓄としかならない訳で、簡単に言うなら公債や国債の発行は増税を意味するので、これが現在の増税でも、将来に措ける増税でも同じことであり、国民大衆の生涯所得に影響を与えない。

ゆえに公債や国債を発行しても国民の消費性向には影響を与えないとするのが、公債や国債発行の原理であり、これを「リカード・バローの中立命題」と言い、この根底に有るのがケインズやフリードマン、モジリアーニ達が統一して唱えた消費と所得が比例して増大すると言う仮設である。

従って公債や国債の発行は条件があり、その1つは国民が国債発行と増税が同じものであることを理解していること、そして公債や国債の発行は償還期限が明確に決まっている範囲でしか為してはならないと言うことであり、公債や国債の発行と増税は同じものであることから、同時に2つを施策してしまってはリカード・バローの中立命題は成立しない点にある。

すなわち公債や国債の発行と増税が同時期に為された場合、これは確実に国民の生涯所得に影響を与え、所得に占める消費性向を増大させる、言い換えるなら国民生活は苦しくなるのであり、消費は手控えられ、その結果その国家の経済は加速を付けて落ちていくことになる。

またモジリアーニの仮説もその国家の平均寿命が上がっていき、社会福祉が充実し過ぎると、60歳から70歳代までの年齢人口が増大し、ここに資産や、労働人口が産出した所得が租税を通じて集中し、その結果80歳代以上の高齢者と現役世代の労働者が貧困化するアンバランスな社会形態を生み、この一番所得や資産を持っている世代は既に現役時代に大型の消費を終えていることから、所得と所得に占める消費の比率は、消費が少なく所得が多いケインズの「短期消費性向型となり、所得の割には極めて消費の少ない社会が顔を出し、しかもそれがマクロ化すると言う非常事態経済となるのである。

この状態で国債を発行したらどうなるか、また増税に次ぐ増税の中で、同じ内容ながら表現が違うだけの、国債と言う名の増税を何か資産価値のように考え、更に増税と国債は別のものと考えていたならどうなるか、もうその結果は言うには及ぶまい。

増税と国債は基本的には2者択一のものである。

国債とはその国の経済が何とか健全な状態の時、返済が可能なことでその発行要件が満たされるが、人間が借金をするときは苦しいときであり、それはどうしても綱渡りの状態にならざるを得ないが、借金と融資して貰う事を別だと考えてはいけない。

まず為すことは無駄遣いを止め、それからどうやって返すかの期限を決めないと、国家と言っても人口が決まっている以上、有限であって無限ではない。

今の日本政府や国民を見ていると、将来こちらは一般会計の消費税増税20%、そしてこれは国債償還費用分の消費税手数料20%と言う具合に、税金と国債分の返還名目を分離して合計の消費増税増税が40%と言う事態も、笑い話では済まないような気がする。

さてリカード・バローの中立命題を守るため、子供達の将来に備えて貯金でもして置こうかとも思うが、消費税40%ではちょっと追いつかないかな・・・。





「国債と増税・1」

経済はマクロもミクロもその原理は同じことであり、ミクロのまずさはマクロのまずさとなり、この両者はずるずるとマズイ関係を続け破局していく男女の在り様と似たようなものだ。
そして人間は一度こうした状況に陥ると、その必死な状況からそれらしい上手い言い訳を考えるようになる。

今夜はいつしか忘れられた国の借金、国債や公債の元々の原理を考えてみようか・・・。

所得と消費を考える流れとして、まず最初に考えるべきは「短期ケインズ型消費関数」と言うものだが、これは基本的には所得が上がってくるに連れて、その所得に占める消費の割合は低下すると言うもので、これは幾ら多額の所得を得ようとも、いきなり一度に100杯のご飯が食べられない事を考えれば分かるが、こうした状況でもその質が向上したり、高級品を使うなどして、また高額所得者数は少ないことを考えるなら、長期的、マクロ的には所得とその所得に占める消費の割合は一定の比率を持つと言う理論だ。

20世紀を代表する経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)がはじき出したこの消費関数は、このように長期的には約45度の比例状態を表すが、短期的にはこれが極端に所得側に倒れた状態になる事から、ケインズ型で所得と消費を考えるなら「今の所得が今の消費を決定する事になり、これを「絶対所得」と言う。

これに対して所得はその人間が未来の全期間を通して得れると予想される所得と、短期的な一時所得によって構成されるとしたのが「M.Friedman」(フリードマン)であり、この内生涯にわたって平均的に得られる所得を「恒常所得」、短期一時的な所得を「変動所得」と言う。

そしてここで言う「恒常所得」とは一般庶民の給与を指すが、「変動所得」は、例えば株式売買所得などの短期所得を指し、こうした所得の増大は、所得に占める平均消費性向を短期的には押し下げるが、結果として短期所得が減少した場合は、この反対で所得が減った分だけ、所得に占める消費の割合は増大することになる。

このことから変動所得が大きい人ほど、平均消費性向は小さくなり、また長期的には変動所得の影響は小さく、恒常所得と消費は比例的に増大していくと考えられた。

つまりその心情や性格はともかく、金持ちは統計上も「ケチ」になってしまうと言うことであり、現実には金持ちは少ないことから、社会全体としては所得と消費の関係はほぼ比例して伸びていくと言う話だ。

また「F.Modigliani」(モジリアーニ)は、その個人が生涯に渡って稼ぐ事ができると予想される労働所得と資産所得が消費を決定すると考えたが、この労働所得と資産所得の合計を「生涯所得」と呼び、人の一生を、労働人口の中にある現役世代と退職後の老年期に大別するなら、現役世代は貯蓄し老年期に備えようとするが、退職後にはその貯蓄を取り崩して消費を行おうとするのが、基本的には年金も含めた貯蓄とその消費の考え方となる。

それゆえ、それぞれの人が生涯所得を平均した、平均所得の中から毎年消費を起こすならば、どこか一つの時点を切り取って見ても資産は一定なので、現役世代の人は所得が増大するに従って、その増えた分は貯蓄に回って行き、結果として貯蓄は増大し、所得に占める消費性向は減少した事になる。

その逆に現役が終わった老年期世代では、所得が減少していく事から貯蓄率は低下し、結果として所得に占める消費性向は増大していくが、長期的、マクロ的に経済全体を考えるならば、生涯所得と消費はやはり比例関係にあって増大することから、平均消費性向は一定となる。

このような考え方を「ライフ・スタイル仮説」と言う。

経済を消費と所得、また所得の種類と短期所得、資産などの面から見るとこうしたことが分かってくるのだが、ケインズ、フリードマン、モジリアーニ、この3人が統一して指摘している点は、長期的マクロ経済に措ける消費と所得の比例関係であり、つまりは国民の暮らしはそれほど景気が良くなくても、逆に大変な好況でも、それは短期的な傾向であり、人一人の生涯を通して見れば、消費は所得に左右され、しかも人間の一生をトータルすれば、普遍性が有ると言うことである。

「国債と増税・2」に続く。







「赤い花・2」

この2つ前の記事でスケールフリーの事を書いたが、人間の脳や視覚はまさにこのスケールフリーの中にあって、これは空からチョコレートの粒が沢山降って来たとして、これをより多く集められるのは、より大きな器をかざす事で為され、チョコレートを溶かして容器を作り、それを大きくして行けば、より多くチョコレートが集まったところへ、更に多くチョコレートが集まっていく事になる。

人間の記憶は視覚を通じてその多くが処理されていることを考えるなら、その視覚や記憶の大きなところに更に視覚や記憶が引っかかって行く。
その結果より多く記憶や視覚の引っかかった部分をして、それが正しい、若しくは絶対的なものとして考えるようになる。

つまり人間の信念や感覚と言うものは、ただ見たいものを見て、聞きたいことを聞いているだけとも言えるのである。

その上で先の花やサイコロの話に戻るなら、人間は同じ「赤」と言う色で実に多様な情報処理をしているが、その処理に欠かせないものが「形状」で有ったり「質感」、またその物質なり生物が占有してる状況と言うことになり、ではこうした情報処理能力が単に一人の人間が生まれてから以降身に付けた、「経験」や「知識」だけで為されるかと言えばそれは不可能に違いない。

人類を生物の流れの中で考えるなら、DNA的には人類では無い時の記憶が36億9900万年であり、そして人類の記憶が100万年しかない。
しかし人類はこの100万年で、地球と言う閉じた空間を無限として考える生物的進化をし、それがスケールフリーで加速を付けて増大した結果が今日の姿と言えるだろう。

人間の脳は実は基本的に時間、空間の制約が無い。
それゆえ無限も有限も完全に理解することは難しい。

だから言葉で地球は有限だと言う事を知っていたとしても、視覚的に見渡せる範囲では地球が有限である事を理解することはできず、そこで発生するものは経済であれ思想であれ、宗教に近い感覚であれ、全て理解できていない不完全な無限をしての漠然とした意識であり、空間的、時間的に限界のあることを、言葉ではそう言いながらその実、理解していない。

あらゆる生物、物質に形が有るのは何故か、そんなことを考えるとき、漠然とこの宇宙は空間であり、そこに限界が有るからこその体積であり、容積であるように思え、そして全ての生物や物質が隙間無く空間に存在し、何か一つが欠けていくと、そこへ欠けたものと同等のものが瞬時にして現れる。

すなわち誕生と消滅が同時に膨大な数で発生し、そのそれぞれが例え小さくとも空間を占有し、そして占有したことを情報として外に開いていく。

またいかに微小なもので有っても、それがバクテリアや細菌であっても、それが欠損して行くことは、他の全ての存在に対しても影響して行くが、全体の総量に占める特定の生物や物質の形状、質は問われていない。

この世界は確実に限界を持ちながら、その中では何が発生しようと関係の無い「自由」、つまりは限定された自由や、「不確定性無限領域」を持つ。
簡単に言うなら空き缶と言う外から見れば限界がある空間の、その中が暗闇であるなら、そこには無限が存在しているようなものと言う事ができるか・・・。

しかし基本的にはその空間には限りが有り、いわば全ての物質や生物は総量が限定された中での自由競合の中にあり、これを考えるなら全ての存在は、その存在できないものの犠牲の上にあることになるが、ここに特定の意思を感じる必要が無く、それは逆べき分布と言う等しくも理不尽なものと無意味の中にある。

それゆえ物質や生物はその領域を不確定性の中で主張しなければならず、それが物質や生物の体積や容積であるとも言えるのである。

また人間は生物と物質を違うものとして区別するが、そこに潜んでいる原子の構成は同じものであり、原子核の周囲を回るものはその数が分かっていても、どこに存在しているかが分からないために、確率によって粒で有りながら波の特性を持ち、霧のような形で存在する。

そしてこれが止まった状態だと存在ではなくなる。

実は生物も物質もこうして確率の中の不透明な部分、いわば隙間によって存在しているようなものであり、これは全宇宙がそうしたものなのかも知れない。

先が分からないからこそ存在し、その中で空間を占める我々人類も他の動物も、植物も、物質もそれが単体では存在できず、しかも互いにこの宇宙のあやふやな部分によって存在が許されているようなものであり、ここに特定の人類の範囲でそうした仕組みを都合よく考えれば「神」が現れ、或いはまた人間が考える地球環境が現れるが、そこに初めから意味は無い。

そして例えば赤い花も間違いなく人類が外に対して開いている情報や、昆虫が開いている情報を共有し、それがために赤い花となっているのであり、これは偶然ではなく、その個体が行った選択なのである。

従って人類が今の形状なのは、地球に有る全ての生物や物質が外に対して開いている情報の中で有ればこそ、この形状と容積を有していると考える事もできるのである。

こうしたことを考えねば確かに人類には無限の可能性を想起できるが、このことはもしかしたら無知によってそう見えているだけかも知れない、そう思いたいと言うことでしかないと言う可能性も、考えておく必要が有るのかも知れない。

人間の脳は確かに制限がない。
だがそこに完全な無限を概念することもできなければ、有限であるものもその視覚を超えて概念できない。

つまり人間は自分の周囲のことは必要以上に危機感を持つが、それが視覚に入らないものに対する考え方は極めて独善的なものにしかならないと言うことであり、このことを知って自分の考えを持つことと、知らずに考えを持つのでは、同じ行動であっても赤い花に好かれるか、嫌われるかの差が生じているかも知れない・・・・。

私は特に人類に好かれたいとは思わないが、できれば赤い花には嫌われたくないものだと思う容積と体積でありたい。








「赤い花・1」

激しい轟音と共に地上にあるあらゆる物を巻き上げながら進む竜巻、この竜巻が次にどこに進んでくるかは予測が難しい。

だが竜巻は必ず何某かの根拠が有って、その進路に進んでいるが、それは人間には理解することができず、またそこに一定に法則を見つけたとしても、それは未来に措けるあらゆる不確定性要因によって、いつかは法則ではなくなってしまう。

だがしかしこの竜巻の情報は閉じられているのかと言えば、竜巻の情報は全て開かれているのであり、形状、破壊力、音、停止状態の物質に対する風の移動速度など、殆ど全ての情報が外に開かれている。

ただ「進路」と言う未来に措ける状態が不確定性を持つが、これは全ての物質、生物が持つ基本的な在り様とも言える。

この世界を考えるとき、そこに存在する物質や生物がその自由意志、若しくは本能の自由性によって全てが成り立っているのか、それとも古い時代の宇宙論と同じように、例え真空でも何某かの物質が存在し、全ての空間が満たされている状態なのかと言う事を考えるなら、実は宇宙空間については密度と言う均衡性が有り、この点で宇宙は漠然と満たされた状態と言え、これが地球のように閉じた世界であれば、おそらく物質や生物の存在の自由性は無く、あらゆる物が隙間を埋めてパズルが完成し、そのパズルは瞬間ごとに埋まった状態、つまりは完成した瞬間下に落ちて、また次の瞬間のパズルが現れると言うようなものなのかも知れない。

すなわちあらゆる存在は、その存在の自発的な部分によって成立するのではなく、常に存在する可能性を持ちながら、空間的隙間の出現によってしか存在できない可能性を持っているが、このことは全ての物質や生物を含めて、閉じた世界では「限界」が決まっていて、如何なるものに形が変わろうとも総量的存在は増減できない事を示している。

こうしたことから物質や生物の形状を考えるなら、そこに全ての情報が外に対して開かれている現実は、実はこの世界、つまり地球が閉じた空間である事に端を発しているように考えられる。

例えば花はその形状によって、空間的にどの位置をどれだけ占有しているかを示しているが、これは空間的存在の確定を示していて、すなわちこの空間には重複できないことを外に対して示している。

同じように人間も全ての情報を外に対して開いているが、この情報とは形状のことであり、また外に対する客観的表情、すなわちその人間が外に対して及ぼす影響の情報はいつでも外に示されている。

その上で先の花の情報との関係を見てみると、本来危険信号の「赤色」の花だったとするなら、では人間は同じように赤に黒の斑点が入った「笑い茸」には危険性を感じても、「赤い花」には同じ危険性を感じる事が無いのは何故か・・・。

この点に注目するなら、この世界の物質や生物の外に開かれた相互の情報は、歴史的な相互認識とその発展性を持っていると言うことではないだろうか。

つまり相互に相手のことを知ろうとして、「知りたい」と言う情報が開かれ、これに対して相手がその情報を読み解くツールを発していく事で、相互に情報がやり取りされ、これは何も花に限らず、物質でも同じようなことが行われてきたのではないかと考えられる。

同じ厚さの木の板と鉄板では加重に対する耐性に大きな差が有るが、では何故この事を人間は知っているのだろうか。

勿論経験と言う事も有るが、木の板も鉄板も、その情報が外に対して開かれているからこそ、その情報を人間が知ることができ、そして自分の体重と鑑みて、木の板は渡ると危険だが、鉄板は大丈夫だと判断できるのである。

人間の持つ情報処理能力、また知っていることと言うのは大変範囲の狭いものであり、例えば2つのサイコロを振って、1の目が2つ出る確率と6の目が2つ出る確率は等しい。
しかしサイコロの1の目が赤くなっていると、同じ確率で出てきても1の目が2つ出てくる方が珍しく感じてしまう。

尚且つサイコロを100回振って得られる統計と、10万回振って得られる結果とではそこにばらつきが有り、例えば最初の100回で1の目が2つ揃う場合が多ければ、人間はそこで特定の「傾向」を感じてしまうが、これはしかしより多くサイコロを振って行けば全ての確率は等しくなっていく。

人類の歴史はどれだけ長くてもせいぜいが100万年ほどであり、地球の歴史である46億年、生物の歴史である37億年と言う単位に比して余りにも脆弱と言える。

人類が持つ現象解析科学では、その大部分がこうしたサイコロの確率分布の不均衡を真実として考え易いが、実は全ての存在の在り様は「逆べき分布」であることを考えるなら、そこに意味は無く、何らの傾向も無いとすべきものなのかも知れない。

また同じように人間が科学に対する反動として持つ「感覚的崇拝」、つまり感覚偏重は更に現実から離れたものであることにも気が付きにくい。

                             「赤い花・2」に続く




「神仏の如く・Ⅱ」

だが次の瞬間「現世鏡」は何故か母娘の部屋のテレビを映し出し、そこでは日本政府の厚生労働大臣がコメントを発表していた。

「今度発生した肉の食中毒事件に関しまして、日本政府は新しい食用生肉の基準を設けましたので、これで安全です」
「政府の基準を守れば今後食中毒は起きないものと思いますので、消費者の皆さんには安心して頂きたいと考えております」

テレビの中の大臣は自信満々で記者団を前に語っていた。

「バカが、人が死んでからそんな基準なんて作ってもらっても、どうにもならんわ」
男は虚ろに呟いたが、それに対して閻魔大王は少し厳しい表情になると、こう呟きはじめる。

「人間も随分偉くなったものだな・・・」
「元々食と言うものは命がけのものだが、どんな食べ物もそこに菌が発生するか否か、たまたまその時その人間の体調はどうかは、天の定めるところによるものだ」

「人間が見ている安全など、まことに意味の無いものなのだが、それを断言するとは結構なもの言いだな・・・・」

「えっ、それじゃ政府の保証は安全ではないんですか」
「お前、人の命を保障できるか」
「いくら基準があったからと言って、それが守られなければどうする」

「それに食べ物で繁殖するのは食中毒の菌だけとは限らない。ブドウ状球菌の中には原因不明で人体組織を食べていくようになるものもあれば、これはバクテリアでも同じことがある。その安全を保障するとは、人間の範囲を超えたもの言いだ」

「政府や霞ヶ関の役人、大臣になったら、人間以上の力や権利を持ったと思っているのかも知れんが、この分なら日本も長く有るまいな」
「その内、地獄が大繁盛することになるな・・・」

やっとそれらしい表情になった閻魔大王を横から見つめる男、そこへどこからともなく「オクラホマミキサー」仕様の携帯の呼び出し音が鳴り響く。
思わず携帯を探そうとシャツのポケットを探る男だったが、意外にもその呼び出し音を止めたのは閻魔大王だった。

「はい、閻魔です、お世話になっております」
「あっ、閻魔君、仏だけども、最近さ、人間界に問題が多いとは思わない?」
「このことはしっかり記録しておいてね」

どうやら電話の向うは仏さまだったようだが、それに対して本人が見てもいないのに、ぺこぺこ頭を下げながら「はい」「はい」と返事をする閻魔大王、電話が切れるとホッとした表情になり、男に何かを語りかけようとするが、そこへまたしても電話がかかってくる。

「はい、閻魔です、いつもお世話になっております」
「あっ、閻魔、私よ、わ・た・し・・・」
「えっ、どちら様でしょうか」
「私よ、アマテラスよ!」
「声で分からなくてどうするの、本当にグズね」
「はー、で、アマテラスさまが私に如何なる御用でしょうか」

「あんた、私を誰だと思ってるの、神よ!」
「あんた達が観ていた現世鏡、私も離れたところから観てたのよ」
「許せないわね、人間共のもの言い」
「はー、全くでございます」

「原子力発電所も、まるで人間の力でどうにでもなるような言い方してたけど、それと今回のことも含めて、全てしっかり覚えておきなさいよ」
「いいこと、そして地獄のデラックスコースへ送り込んで頂戴!」

「デラックスコースですか、あれはきつくないですか・・・」
「いいのよ、私をないがしろにしたらどうなるか思い知らせておやり」
「それと閻魔、今度の私の誕生パーティーには来ないでね、あなた顔が恐いから」

「はー、承知しました」

プチっ言う音ともにかかってくるときも突然なら、切れる時も相手の意思など全く関係なく切れた電話を持ちながら、「ふうー」と深いため息をつく閻魔大王・・・。

「閻魔さまも大変なんですね」と言うと、男は閻魔大王の肩にそっと手を当てる。
「元人間のお前に慰められてもどうしようもないがな・・・、閻魔大王は男に少し寂しげな笑いを向けた。

「一つ頼みがあるんですが」
「何だ、俺とお前の仲だ、聞いてやるぞ」
「さっき今度生まれ変わったらと言う話でしたが、それもう止めにして貰えないでしょうか」

男は閻魔大王にどこかで吹っ切れたように申し出た。

「残念だが、それはおれでは如何しようもない、極楽へ行ったら仏に頼むんだな」
「それとコーヒーの紙コップはゴミ箱に棄てておけよ」

閻魔大王はそう言うと、現世鏡をしまいこみ、男に早く極楽へ行くように道を教え去っていく。
暫くして男はさっき閻魔大王がついたような深いため息をつくと、仕方なくとぼとぼと極楽へ通じる光の道へと歩き始めるのだった・・・。

これを書いた私はまず間違いなく、地獄行きかな・・・・。




「神仏の如く・Ⅰ」

「まあ、お前の場合は極めて消極的な人生だが、それゆえに率先して悪いことをしていないのが救いかな・・・」
「閻魔大王さま、それで私はどうなるのでしょうか、やはり地獄行きでしょうか・・・」
「うーむ、難しいところだが、まあ良いだろう、最近めっきり極楽行きも少ない事だし、特別サービスだ」
「極楽を満喫するが良い」
「へへー、有難うございます」

男は閻魔大王の前でうやうやしく土下座すると、かすかに安堵の表情を浮かべた。

「しかしお前も運が悪かったな」
「もう少し体力があれば、こんなに早く娑婆終いせずに済んだものをな・・・」
「まあ、世の中こんなものですよ、今頃女房も子供もきっと保証金を貰って喜んでいるんじゃないですか・・・」
「お前、随分醒めたことを言う奴だな、前の世ではあんまり良い目に遭ったことがなかったんだな」

「どうだ、今のお前の家族の姿を見たくないか、もしかしたら悲しんでいるかも知れんぞ」
そう言うと閻魔大王は現世が見渡せる鏡を持ってくると、男と一緒に現世を眺め始めた。
「この画像は綺麗ですね、ハイビジョン、しかも3Dですか」
「まあ、そんなところだが、それはどうでも良い、見てみろ」

確かに男はついていなかった。
たまたま会社の同僚と焼肉を食べに行って、そこで大して好きでもないのに、断り切れなくて同僚の勧めで食べた生肉で食中毒を起こし、そのまま気がつけば三途の川から鬼達に連行され、閻魔大王の前で裁きを受ける事になったのだが、よく現世では良いことも有れば悪い事もあると言うが、あれは嘘だと言う事が分かった。

同じように生肉を食べた同僚は全く食中毒にもならず、同期にも関わらず向うは部長で自分は係長だ。

そしてそれだけならまだしも同僚はもとスポーツマンで爽やか、それに比して自分はどこかくたびれた感じがする普通のオヤジで、家に帰っても粗大ゴミ扱い、妻も最近ではフィットネスクラブで知り合ったらしい、自分より少し若い男とできているような気がするし、二人の娘は話しかけてもくれない。

考えて見れば何で生きていたのか良く分からん人生だった・・・。

「おい、何をボーっとしてるんだ始まるぞ」
閻魔大王はコーヒーを2つ入れると、その1つを男に渡し、食い入るように現世の鏡を覗き込んだ。

「お父さん可哀想な気もするけど、きっと家族のことを思って、これで喜んでくれるわよね」
「そうね、あのままではあんた達が大学へ行く学費も出せなかったけど、これでどうやらそれも何とかなりそうだし・・・」

机の上に山と積まれた焼肉店からの保証金を前に、少し微笑みたくなるのをお互いに悟られまいとする母娘。
諦めていた大学進学が何とかなりそうになった娘達と、これで晴れて自由に若い男と付き合える事になった妻、その心情までもが伝わる「現世鏡」を観ていた閻魔大王は男に気の毒そうに呟く。

「なあ、今度もし生まれ変わったらもう少しマシな女をみつけて一緒になれ」
「それにな、極楽には綺麗な女も沢山いるし、酒も美味いぞ」
「有難うございます。でも慰めは余計辛くなります」
閻魔大王の言葉に更に落ち込む男・・・。


                                              「神仏の如く・Ⅱ」に続く






「スケールフリー・ネットワーク」

例えば極めて基本的な饅頭が有ったとしよう。
この饅頭はそれが発生した初期の段階は大変人気が高く、また他に競争相手がいない事からとても多く売れる。

しかしやがてこうしたとても多く売れる状態をして、同じ饅頭を作る菓子店も増えてくることになるが、そのうちこうした同じ饅頭を作る菓子店は組合などを作り、自己防衛をはかる様になると、それは一つの大きな饅頭製造の核となり、やがて常に安定と破壊を同時に内包する人間の欲求は、核となるもの、スタンダードを壊して行こうと言う方向へと向かう。

ここから次第に「饅頭もどき」が多数発生し、その中では安定した数量しか売れなくなった饅頭の売り上げを越えてくるものが現れ、そこにまた他の菓子店が同じように群がって、そんな事が延々繰り返されると、全ての菓子店は饅頭を通して大変複雑な経路を辿りながら全く干渉しあわずに繋がり、また饅頭と言うアイテムで有りながら全く饅頭ではないものも「饅頭」となり、この媒体の端末に行くに従って、饅頭と言う形態は壊れていくが、ここに大きなネットワークが形成される。

この仕組みを「スケールフリーネットワーク」と言う。

そしてこの仕組みは数値モデルにすると、現代社会を支えるコンピューターネットワークそのものであり、また人体などの生物の生体内代謝反応回路、生態系の食物連鎖の仕組みなども全く同じものであり、経済や社会構成なども同様である。

いわばスケールフリーネットワークは自然の仕組みそのものとも言える。

あらゆるネットワークは抽象化すると、そのシステム構成単位を「node」(ノード・結節点)と、それを繋ぐ「link」(リンク)の2つの構造に求めることができるが、こうした仕組みを数理的に解説した2つの理論モデルが存在している。

その1つはD・ワッツとS・ストロガッツによる「スモールワールド・ネットワークモデル」だが、例えば全く面識も関係もない2人の人間が、一体何人の友人や知人を介すれば出会う事になるかと言えば、これが意外と少ない人数の関係で出会ってしまう。

大体5人、ないしは6人の関係を辿れば全く縁もゆかりもない人間同士が辿りついてしまうほど実際の世界は小さく、これはノード(結節点)がランダムにリンクされた場合のモデルだが、実際の人間が持つそれぞれの人間関係は決して皆がランダムに同じではない。

人間がそれぞれ持つあらゆる関係は、ある2人の友人が互いにも面識があったり、姻戚関係が有ると言う具合に「cluster・structure」(クラスター構造)、つまりは不均一な集合体を持っている。
そしてこうしたスモールワールド性が持つランダム特性とクラスター構造は一見すると相反することのように見えるが、互いがそれぞれの特性を持ちながら両立しているのがこの世界である。

更にここで出てきたクラスター構造だが、ではクラスター構造にはどんな優位性があって、集合体が出来上がるのかと言えば、ここでの優位性は「優先的選択」となっていて、これがもう一つのネットワーク理論である「スケールフリーネットワーク理論」の根幹を成している。

例を挙げれば人間でも社交的な人とそうでない人がいて、また職業上多くの人に接しなければならない人もいれば、それほど人に会わなくて済む職業の人もいるが、この構造の中でより多くの人に接しなければならない人には、より多くの人が集まってくる、若しくは集められていくが、少ない人としか接点がなければ、その人の集まりは小さくなって行く事になる。

芸能界やこうしたブログの世界でもそうだが、より多くのリンク数があるところには更に人が集まっていき、いずれはそこから別のノードへとリンクが伸びて行き、今度はやがて当初は多くのリンク数を集めたノードが、ただの通過点になって行ってしまう。

またこうした一方で、多くのリンクが繋がり発展していくノードとは別に、逆にリンク数が減っていくノード(結節点)は何を意味するかと言えば、それは人間の孤独化である。
実は芸能界と同じで、ネットワークの中で多くのリンクを集める者は数が少なく、反対にリンクが少ない者の方が数が多く、ここでは疎外感が膨らんでいく事になる。

それゆえ、現代社会に措ける犯罪の在り様が、自己の爆発型となるのは、自分に対するリンク数の少なさと言う、どうにもならない理由に端を発している限り、減少する事はないのかも知れない。

現実のネットワークは、ノードやリンクの増加によって自発的成長をしていくが、リンクの増え方はこうした理由からランダムにはならず、「優先的選択」、すなわちより多くのリンクを持っているノードに繋がり易く、リンクしやすいと言う事を考えるとき、一つのノードに対するリンク数の分布はどうなるか・・・。

これに対して答えを示したのがA・L・バラバシ等の研究者であり、その結果は「逆べき分布」、つまりはもっともポピュラーな統計分布である、ガウス分布などの釣鐘型等の形態にはならない、一切の特徴的なスケールのない分布となるのであり、このことをスケールフリーと言い、A・L・バラバシ等はこの世に存在するあらゆる現実のネットワークでも、その多くがスケールフリーの性質の中に有ることを示した。

これは何を意味するかと言えば、例えば市場動向や国際情勢、人口動態など、あらゆる統計が示しているグラフなどの統計図形は、その延長線上には無意味が待っていると言う事であり、常に先は決まっておらず、どこかは発展するが、それがどこかは現在の時間軸では分からないと言う事を示しているのである。

また優先的選択によって多くのリンクを持つ少数のノード、これを「hub」(ハブ)と呼ぶが、如何なるネットワークでもこのハブが重要な役割を果たしていて、ダメージに対する耐性や情報伝達には決定的な役割を果たしている。

そのネットワークの中心付近には多くのリンクを持つ少数のノードが見られ、そして端末に行くに従ってリンクの少ない多くのノードが存在するが、ちなみにこうした形態をイメージするなら、まるで無限連鎖講が円状になって形を崩したもののように見えない事もない。

何とも不思議な、ものである・・・。





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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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