「力を力とも思わず・・・」

「全くあの子ときたら、今に至っても齢(よわい)十三、四の小娘のようで、一体どうなっているのかしら」

「年恵」の母親は近所の人にこう嘆いていたが、時は1898年、「年恵」三十五歳の頃の話であり、母親が嘆くのは無理もない、年恵は三十五歳にして未だに「女の証」が無く、実はその生涯を通して死ぬまで生理が来なかったのである。

「長南年恵」(ちょうなん・としえ)は文久3年(1863年)12月6日、現在の山形県鶴岡市で生まれたが、年恵の周囲には彼女が生まれた直後から不可思議な事が起こってくる。
家がドドーンと言う音を立てて鳴ったり、また部屋に年恵以外誰もいないのに、どこからともなく雅楽の調べが鳴り響いたり、時には誰も出入りしていないにも関わらず、神仏と思しき風体の者が周囲に座っていたりと言う事が日常茶飯事だった。

また人が死ぬ日を当てたり、失せ物なども年恵に聞けばすぐに見つかり、圧巻はなんと言ってもその「聖水」もしくは「霊水」と言うべきか、彼女は人が見ている目の前で空き瓶にいろんな色の水を満たし、それを飲んだ人が次々病を癒していった。
勿論年恵がどこかで水を隠し持って、それを手品で瓶に入れているのではなく、目の前に置かれた空き瓶が、誰も手を触れないのに見る見る水位を上げ、やがて瓶一杯になるまで2分とかからないのである。

そして普通こうした特殊な能力を使う場合は、慇懃なお祈りや精神集中と言った具合の「それらしさ」が有る事が多いが、年恵は何ら誰かに祈ることもなく、ニコニコ笑いながらこうした奇跡を起こしていった。
年恵の周囲で聞こえる雅楽なども、「そう言えば聞こえるような・・・」と言う生易しいものでは無く、10人いれば10人とも、100人いれば100人に全て聞こえるものだった。

ある日こうした年恵の話を聞きつけ、怪しげな新興宗教かも知れないと言う事から、警官が2名年恵の元を訪れるが、警官たちが年恵の家の前を通っているとき既に結構な勢いで雅楽が演奏され、家の中に入って見ると縁側で年恵が足をブラブラさせているだけである。

雅な調べが周囲に鳴り響き、太鼓などは実に強弱の調子が絶妙なのだが、演奏している者はおらず、縁側の年恵の前には大勢の付近住民が聞き入っていて、これには流石に警官も唖然とする。

「年恵、今夜は帰るまでにお風呂を沸かしておいてね」と言って近所の寺に出かけた年恵の母親、寺から帰って見ると確かに風呂は沸いているのだが、かまどに薪が燃やされた形跡がない。
「年恵、あんたどうやって風呂を沸かしたの」と怪訝そうに尋ねる母親、年恵は右手を出すと、「手をかざしたら風呂が沸いたの」と答えるのだった。

更には年恵に少し意地悪をしてやろうと考えた町の若者が、「酒は出せんのか」と言い出すが、ここでも年恵は空き瓶に手をかざしたところ甘酒が出てきて、そもそも酒と言うものを飲んだことがなかった年恵は、「これで良いのか」と若者に尋ねるのであり、この若者は頼んで出して貰ったにも拘らず、甘酒を置いて逃げ帰る。

こうして町でも評判となって行った長南年恵、しかしやがて近代文明を標榜する明治政府の意向に従い、政府から権限を預かる地方の治安当局が動き始める。
年恵は明治28年7月「詐欺師」の嫌疑で鶴岡警察署によって逮捕、拘留されるが、こうした状況にも拘らず、年恵は全く動揺する様子もなく、食事には一切手を付けず、またその容姿のあまりの幼さから、官吏が暑い夏のことゆえと心配し、蚊に刺されぬようにと「蚊帳」を貸そうと言っても、それも要らないと言う。

結局年恵は証拠不十分で釈放されるまでの六十日間、一度も食事を取らずに元気に暮らし、また一箇所も蚊に刺されなかったのである。

だが、ある種天皇や政府さえも超える部分を予見せざるを得ないこうした特殊能力に対し、どうしても認める事ができない当局としては、やがて長南年恵をなんとかして法の下に無意味にしなければと言う意向が働きはじめ、明治33年(1900年)12月、年恵は「聖水」を出現させたことに付いて詐欺罪に問われ、第一審は有罪になる。

しかしこれに対して年恵の弟の「長南雄吉」が控訴し、年恵の奇跡は神戸高等裁判所で争われることになった。
この公判は実に異例な公判だったが、神戸高等裁判所の裁判官は年恵の奇跡の真偽を実験で確かめようとし、裁判官自らが蓋をし密閉した空き瓶を年恵に渡し、それに手を触れずに瓶の中を「聖水」で満たせよと申し渡した。

年恵の目の前に置かれた空き瓶、どうせ何も出来もできまいと思っていた裁判官は次の瞬間我が目を疑うことになる。
年恵は表情一つ変えず、何も動かないのに瓶の中には茶色の水がどんどん水位を増して行き、やはり2分足らずで空き瓶は茶色の水で満たされたのである。

しかもこの時、今なら大変なセクハラだが、年恵が不正を行えないようにと、年恵は丸裸にされてこの実験をさせられていて、この事から逆に実験によって裁判官たちが追い詰められ、結局神戸高等裁判所は年恵の奇跡を認めざるを得ないことになり、これによって年恵は無罪となったのである。

そしてこの公判で丸裸にされた年恵だが、彼女はそうした状態にあっても特に恥ずかしがることもなく、文句ひとつも言うこともなかったばかりか、そもそも逮捕拘留されていても、釈放されても何も変わることがなかった。
いつも誰も疑うこともなく、欲しいと言われれば喜んで誰にでも奇跡を与え、四十四歳になる少し前、死ぬ瞬間まで十三、四歳の少女のようにしか見えなかった年恵、その肉体も少女なら、心もまた純真無垢な少女そのものだった。

「聖水」と言うか「霊水」はごく稀に出ない時があったが、それはどうしても助からない病の場合だった。
年恵はこうした時、なぜ水が瓶に満たされないのか自分でも不思議がっていたと言う。

相手の者が卑しい心であろう、意地悪であろう、妬みや恐れであろうと、ただひたすらに誰に対しても誠心誠意心を傾け、大いなる力を力とも思わず人々に希望を与えた年恵、子供の頃彼女は人におんぶしてもらう事が好きだったが、坂道に来ると彼女は軽くなり、平坦な道では重くなった。

「あっ、軽くなった、重くなった」と言う大人の背中で年恵は無邪気に笑っていた。

そして明治40年(1907年)10月29日、年恵は43歳の生涯を閉じた。
その葬儀には多くの人が参列し、中でその棺桶を担いだと言う人がこんな証言をしている。
「いやー、まことに不思議な事が有るもんで、棺桶がやけに軽くなったり重くなったりするんです・・・」

どこかで年恵の無邪気な笑い顔が見えるようである・・・・。
スポンサーサイト



「理性の否定」

例えば「立派な大人になりなさい」と言った時、その言葉を発した本人の中では「立派な大人」と言うものに対する具体的な概念が存在している。

しかしこれを聞いている者にとっては「立派な大人」は限りない漠然性を持っていて、言い換えれば、それは無限に連続しているものとなる。
つまり片方で具体的な概念が存在していても、それはすべての人が理解し得るものではなく、無限に連続する概念は存在しないことと同義となる。

従って人間の言語は、全て大小のフレームに収まっていることで相手に伝わり、このフレームが小さければ小さいほど、その概念は明瞭化し意思が正確に伝達、もしくはその意思や概念が共有されやすくなる。
カメラのファインダーやモニターには、すべての景色から切り取ったフレーム内の部分が撮影されるが、これで全景が写るとそこに撮影者の意図が失われ、余分なものを排して始めて、そこに撮影者の意思が感じられるのと同じである。

それゆえ、人間が「正義」や「愛」を口にしたとき、そこには全ての場面、立場に措いて既に結果や取るべき行動が決定されていて、しかもこれは連続して細部に至るまでに及ぶ事から、人間がそれぞれに持つ自分のフレームが「他」と共有される事は有り得ず、この意味に措いて人間のフレームは、その大きなものは多くの異なるフレームによって共有されたように「誤認された状態の共有」を生じせしめ、逆に小さなフレームはそれが個人的な感情に近い分だけ「他」との共有を少なくするが、その共有の濃度に措いて大きなフレームより深さを持つ。

また一般的に「感情」で言語を使うことと、「理論的」に言語を使うことでは、感情を主体とした言葉には合理性が無く、理論、知性が有ることをして、そこに合理性や真実を見てしまいがちだが、人の世の正義や愛と言ったものは、大きなフレームでは漠然とした共有感を持つことが出来ても、その正体は千差万別の「感情」に繋がったものであることから、ここに「正義だから勝つ」「愛が人を救う」と言った理論は初めから成立していない。

しかし人間は理性や正義、愛と言ったものに対し、そこに真実を思い、合理的であることをしてその根拠を求めるが、理性、正義、愛は何をしてその存在が確かめられるかと言えば、その反対の状態が有って始めて成立する危ういものであり、ここで言えることは理性的であることをして、合理的であることをして、愛や正義をして、それが正しいと言うことにはならない。

むしろ理性や合理性、愛や正義は結局何かの他のものの「隠れ蓑」にしかなっていない場合が多い、もしくは常に「誤認」されている恐れを持たなければならないと言うことになる。

人間はその連綿と続く歴史の中で多くの「勘違い」を「常識」としている部分が有り、例えば時間や空間に歪みが有る事が分かったのはこの100年以内のことであり、地球が太陽の周りを周回していることが衆目に知らされたのも、この500年ほどのことで有ることを考えるなら、現在我々が常識としている知識もまた、いずれこの先違った事実が現れる事を予想しなければならず、この事を恐れない者は甚だ傲慢なことになり、真実を求めるとするなら、そこにこうした議論を欠くなら、それは何かを見ないようにして理論を組み立た、非合理的な「仮説」としかならない。

そしてこの社会が持っている「誤認」、これは現代の情報化社会を見ていれば良く理解できると思うが、この社会が理論的常識として包括しているものもまた、初めから勘違いされている部分を多く含んでいる。
いや先の人類の歴史上の「誤認」と同じように、殆ど全てが「誤認」で有る可能性すら有り得る。

また一般的に学術は間違っていないと考えがちだが、これも多くの「誤認を」内包しているものであり、難しい言語を使って難解な文章が書ける事をして、素晴らしい文章だと勘違いしている研究者たちの理論は、推論と、完全にこの宇宙が終わるまで一定普遍だった事実を捉えたものではなく、わずかな入り口の事象を拠とした稚拙なものであり、これが大学などの権威によって、事実以上に信頼を受けている、つまりは「権威に隠れた大きな誤認」へと繋がっているのである。

更にこうして考えて行くなら我々個人はどうだろうか、およそ世界の隅々まで熟知し、あらゆる知識を自身の内に持っている訳では無いのに、それでも国家や人道、愛や正義を語り、自分を疑うことすらない。
結局自分は自分の範囲を出ることができない「井の中の蛙」でしかないことを省みることもなく、自分こそが正しいと思ってはいないだろうか。

理論とか合理性、真理と言うものはこうしたものである。
初めから根拠のはっきりしないものの上に組み上げられた「幻想」「勘違い」であり、ここに真理を求めて合理的、理論的に物事を考えていけば、合理的で有ろうとすればするほど、理論的で有ろうとすればするほど、合理性は失われ、理論は意味を失っていく。

そもそもこの世界の人間の多くは、真理はどこかで探さなければならないと思っているかも知れないが、それが本当に真理なら初めから隠されてはいないはずであり、真理は重いものだとも考えがちだが、誰か真理を持ってみた人間が存在しただろうか。
もしかしたら大変軽いもので有る可能性も有り得る。

道を歩いていたらそこに大きな石が転がっていたとしよう。
この場合の真実は「石が転がっている」事が真実であり、ここに人間は自身や社会生活からいろんな意味を見ようと無理やりもがき、そしてそうした中から真理を探そうとするが、探さなければならないような真理は初めから外に対して開かれている。

なおかつ「石が転がっている」と言う真実を一番見えにくくしているものは、理論的に合理的に真理を探そうとしてきた人類の「誤認」、社会が持つ大きな勘違い、権威に隠れた不勉強、井の中の蛙を認識できない我々個人の無知なる傲慢と言うものである。

そしてこうした人間が宿命的に持つ誤認した状態を「感覚的錯覚」と呼び、ここで私が書いたような事を「理性批判」と言うが、1700年代後半のヨーロッパではこんな事が考えられていたのである。

理性と言う言葉からは何かに対する強い否定や、激昂した感情、愚かさや「悪」と言ったものが感じられないが、それゆえに人間は理性と言う言葉が感じられると、そこに真実や正義を重ね、批判の対象から外し続けてしまう。
しかし理性的であると言うことは一つの表現上の形式であって、それをして正しい、もしくは真実であるとは言えないのである。

今夜は18世紀ドイツの哲学者「カント」(Immanuel Kant)の「純粋理性批判」の扉の前に立ってみました・・・・。

Bt・生物の人為的揺らぎⅡ

ちなみに日本政府も遅ればせながら、こうした研究の重要性を考え、日本人の主食である「米」に関しての研究が、農林水産省農業生産資源研究所で行われた経緯があるが、ここで行われた研究はC4サイクル遺伝子を稲に獲得させる研究だった。

現在日本に出回っている稲はC3サイクル光合成と呼ばれるもので、これはトウモロコシなど限られた植物が持つC4サイクル方式から比べると、大変に効率の悪い光合成になっている。

そこで農業生産資源研究所では現在の稲にC4サイクルの遺伝子組み換えを行う実験を続け、成功したと言う情報が有ったはずだが、その後こうした研究の情報は全く聞かれなくなった。
或いは知的財産保護の為に公開されていないのか、それとも米の消費が減少していくことから、無駄だと判断されたのかは知る由もないが、どうなってしまったのかは少し気にかかるところだ。

こうした遺伝子組み換え技術がブームなったごく初期の段階のことだったが、1988年から1989年にかけて、日本企業が遺伝子組み換え細菌から作った、「トリプトファン」と言うタンパク質の一種を添加した健康食品を販売したが、この健康食品を食べて38人のアメリカ人が死亡した事件が発生している。

この事件では現在に至ってもその原因が分かっておらず、「トリプトファン」にも全く毒性はないが、遺伝子操作はある種「神の領域」でも有る。

人類は生物の謎や地球に関して全て分かっている訳では無く、むしろ根本的なことは何一つ分かっていない状態で、端末の事実のみを使って「発見」という偶然を組み合わせ、多くのものを創造したように考えているが、その実先のことなど何一つ考えられてはいない。

遺伝子組み換えの概念は極めてシンプルなものだが、例えばAの動物なり植物にBの植物や動物の特性を与える場合、Bの遺伝子を酵素を使って切り取り、それを「運び屋」の役割をするベクターに移植すれば良い。

この概念はウィルスによって風邪に感染する仕組みと似たようなものであり、事実遺伝子組み換えにはウィルスやプラスミド(輪状遺伝子の断片)などが使われ、こうしたベクターが宿主の細胞内に送り込まれると、そこで遺伝子が組み立てられ、やがては感染したように、すべての細胞がベクターが運んできた別の種の特性を獲得する。

多くのワクチンなどの製造、インシュリンの製造は大腸菌に人間の遺伝子が組み込まれて製造されている。

さて、人間はどこまでやって良いものだろうか・・・。
抗生物質の存在はその抗生物質に耐性を持つ細菌やウィルスを発生させ、既に抗生物質とウィルスのイタチごっこでは、ウィルスと人間の科学力は鼻の差程もなくなってしまった。

また人間のより便利な暮らしは、どこかで地球全体の気象にも変化を及ぼしたかもしれず、その為ばかりとは言い難いが、近年日本で発生する気象災害の規模は年々巨大化し、台風なども大きな勢力を保ったまま、日本に近づく事が増えて来たように感じる。

SARS、多剤耐性菌の発生、更には検査反応を示さない激症ノロウィルスや強毒性常在菌、激症性獲得菌、HIV,強毒性鳥インフルエンザなど、人類はこの40年ほどの間にこれまで考えられなかった微生物やウィルスと対峙することになり、地球や気象と向き合わねばならなくなった。

奇しくもこうした現象は、人間が遺伝子組み換え技術に目覚めた時期と時を同じくして発生してきたようにも思え、自動車やエアコンの普及と共に、気象環境が激しくなっているように見える。

これからの日本はその人口動態の高齢化傾向から、必ず少しずつ衰退していく、言わば下降経済型国家となっていく。
これは経済的に豊かな暮らしから見ると、少し悲しいことかも知れないが、その反面豊かさを少しずつ失うと言うことは良い面も持っている。
誰かの豊かさや利便性は、誰かの貧困や不都合でもあり、これは人間だけのレベルで語ることはできない。

それゆえ人間が豊かさや利便性を失っていくことは、広義では崩壊し始めてきた秩序が、少しずつ戻っていく可能性を秘めている。

その意味で、こうして世界に先駆けて経済を崩壊させ政治的にも崩壊し、それを認識しながらも享楽から逃れられない民衆の有り様は、世界のモデルケースとなるものであり、言わばこれからの先の日本及び日本人は、何をどう失って行くかを世界に示すことができれば、或いはいつか人類滅亡に繋がる「脅威」に対して、少しはその指針となるものを示す事が出来るかも知れない。

完全に安全な食品を口に出来るのは、全人類のうち、経済的上位者にある6%でしかない。
実は1本2000円のネギが買える人しか、現段階でも安全な食品を口にしていないのであり、その他は安全だと思っているだけに過ぎない・・・・。



Bt・生物の人為的揺らぎ・Ⅰ

1970年代の初頭、アメリカでは従来の化学農薬に変わって新しい概念の害虫駆除、除草方式が相次いで開発されて行った。

例えば「モンサント社」のジャガイモ「ニューリーフ」などは、ジャガイモの害虫である「コロラド・ポテトワーム」を駆除する遺伝子が組みこまれ、これによってそもそも初めからジャガイモが害虫を駆除する機能を獲得したのであり、1995年にはこのジャガイモの商業生産開始がアメリカ環境保護庁によって許可された。

さらに同社は「グリホサート」と言う除草剤も開発しているが、この除草剤は雑草などの植物がアミノ酸生成に必要な酵素の働きを阻害し、これによってその植物を枯らしてしまう作用を持っていたが、この「グリホサート」が大量使用された場合、当然のことながらジャガイモもまた枯れてしまう。

だが「モンサント社」はここで「グリホサート」に対して抵抗を持つ酵素の遺伝子、これは土壌中に存在する細菌から発見された遺伝子だが、これをジャガイモに組み込み、即ち毒ガスで全て殺傷しながら、特定の遺伝子、例えばワクチンを注射したジャガイモは生き残れる形式の、「亜種ジャガイモ」の開発も行なっていた。

こうした形態の農薬を以前の科学農薬と区別して「生物農薬」と言い、また本来その植物などが獲得していない遺伝子を組み込んで、効率的に生産された農産物を「遺伝子組み換え植物」もしくは「遺伝子組み換え食品」と言う。

またトウモロコシの害虫に「アワノメイガ」と言う虫が存在するが、「アワノメイガ」は主にトウモロコシの葉を食べていくことから、アメリカの農家は毎年大量の農薬を散布し、この害虫の駆除を行なっていた。
そこでアメリカのバイオ企業である「ノースラップ・キング」社は細菌の一種である「パチルス・チューリンジェンシス」が作り出す殺虫作用の有るタンパク質、「Bt」遺伝子をトウモロコシに組み込んだ。

このことから一般的に「Bt」と言えば、全ての生物農薬や遺伝子組み換え食品を指しているような印象を社会に与えてしまったが、「Bt」は決してすべての「生物農薬」や「遺伝子組み換え」を概念するものではない。
だがこのBt遺伝子組み換えトウモロコシの効果は目を見張るもので、トウモロコシの葉を食べ消化管の機能を阻害された「アワノメイガ」は面白いように死んで行き、その効果が余りにも大きかったことから、未だに害虫が死んでいく場面のテレビ報道は差し控えられている。

そしてこうした事が進んでいくと、これもアメリカの種苗会社「デルタ&パインランド」社の例だが、自社開発された同社の稲や麦の種を勝手に栽培者が手に入れ、それを育成して生産しようとしても、これらの種からは発芽しないような、発芽遮断遺伝子組み換え種が開発されている。

つまりここではいくら素晴らしい種を手に入れても、特定の会社から鍵や解除コードになるようなものを買わないと、種から芽が出ないのであり、この概念はハードを買ってもOSがなければ動かないパソコンの概念に近く、種を知的所有権と考え、それを法では無く、自社防御システムで構築したところに、アメリカ企業が持つ「法」に対する考え方を垣間見る気がする。

その上で一般大衆はあまり気がついていないかも知れないが、花屋の店頭で売られている「花」が、どうしてあんなに綺麗なのかを考えたことがあるだろうか。
私たちがバラを植えてもあんなに綺麗な大輪の花が、しかも虫喰いなど全く無く育つことは有り得ない。

実はこうした観賞用植物の遺伝子組み換え技術に対する私たちの注意力は、それが食品ではないことをして大変散漫なものとなっていて、例えばトルコ桔梗は本来高さの有る植物なのだが、切花用に見かけるトルコ桔梗にそんな高さのある花は売っていない。

トルコ桔梗は遥か以前から高さが抑制される遺伝子組み換えが為されたものが、主流になっているのであり、これもジャガイモと同じで本当は「トルコ桔梗亜種」なのだが、一般的に私たちはこうしたことに気がついていない。

またカーネション、この花はもともとエチレンガスを生成する植物であり、このことからカーネーションは自分が生成するエチレンガスによって、早く枯れていく性質を持っているが、例えば1日で枯れていくカーネションは、現代社会では「不良品」と看做されるだろう。

本当は枯れていくのが正しいにも拘らず、それが枯れないことをして商品価値とし、またこれに基準を持ってしまうと、亜種が正当化され、原種は「不良品」や「不適格」となって行ってしまうのであり、カーネーションも勿論、今私たちが手にしているものは、ずいぶんと以前からエチレンガス生成が抑制される遺伝子組み換えが為されたカーネーションな訳である。

                                               Bt・生物の人為的揺らぎⅡに続く

「盆花」・3

「喜助よ、良く見よ、今の私がそしてかよの姿が仏の姿だ・・・」
「森羅万象あらゆるものの根本に在る者は、その理を動かす事は出来ない」
「なぜならそれは自分自身だからだ」

「そしてあってはならない不幸、苦しみ、悲しみもまた存在し、それはしかし八面在るものならその一面でしかない、しかし人間だけがここから逃れられない」
「ゆえ、娑婆に産まれて最も辛く厳しいのが人として産まれることであり、人として生きることだ」

「喜助よ、お前は奢っていた」
「自身に子が出来ることをして、これを喜ぶあまり自身の業に背いてしまった、すなわちマムシを助けてしまった」

「お前はそこで一瞬だがおのれの業を忘れ、そのことがお前の先の世界を変えてしまった」
「因果応報は悪しき事のみに起こるのではない」
「良きことに在っても、そこには明と闇の道が分かれておって、例え良きことに在っても、それは理によって応報を受ける」

「おれがマムシを助けたことが仏の道に背く事だと言うのか・・・」
「そうだ」
「殺生するは罪なりは仏の心では無いか」

「そうだ、しかし人間は生きると言う大前提を負っているなら、殺さなければ自分が殺されるとしたら、明日も生きるためには殺さなければならない」
「そしてそれが出来ないときは大切なものを失い、自身すらも殺される事を望む覚悟がなければ情けなどかけてはならず、そもそうした覚悟の無い情けをまた、奢りと言うのだ」

「おれが間違っていたと言うのか・・・・」
「そうではない、この三千世界に間違いも正しいも有ろうはずも無い」
「ただそれが在るだけのことだ」

「おれは、おれは自身の奢りでかよを殺し、自身もこうして地獄に在るのか・・・」
「それも違う、人であるなら誰もお前と変わるものでは無く、それゆえ人として産まれることが一番苦しく辛いことなのだ」
「仏はそうしたあまたの者が、自身の心によって苦しむ姿を泣いておられる」

「その者の苦しみを自身の苦しみとし、いつしかその者が全ての方角を見渡し、そこに自身の在る事を知るで在ろうことを願っている」
「喜助よ、マムシに謝られて気が済んだか、決して気が済むことがないのは、お前はマムシが悪い訳では無いことを、どこかで自身の内にその因果があったことを感じているからだ」

「お前はマムシが許せないのではなく、自身の愚かさ、人に在りながらまるで仏の如くに思ってしまった傲慢さを知っているからだ」
「そして、それゆえお前は地獄に在る」

「喜助、これで分かったなら、もし望めば私はお前を極楽に連れて行こうと思うが、何とする・・・」
「おれは、おれは・・・・、極楽には行けない」
「そうか・・・・」

「だが、喜助、お前にはまたすぐに会えることが私には分かっている、もはやこの地獄はお前に取って地獄ではなくなるだろう」
「喜助どん、私はどれだけ待っても、またあなたが生きる時代に生まれ、そしてまたきっとあなたを探し出し、一緒になる」
「かよ、おれも、おれもきっと・・・」

喜助の目からは止め処もなく涙が流れた。
それを見届けた地蔵菩薩とかよは、また光を放ちながら暗黒の闇を上へと登っていき、やがて周囲は元の血の池地獄に戻った。

「菩薩さま、喜助はこれで助かるのでしょうか」
地獄から上へ登りながらかよは地蔵菩薩に訪ねる。

「喜助とお前は1000年の後にまた巡り会う、そして1000年など瞬きする間も無い」
「それに地獄も極楽も同じものだ」
「その者にとってどう見えているかに過ぎず、もはや喜助には血の池地獄など存在せず、あの場を極楽として行くだろう」

「菩薩さま、ありがとうございます」
「礼には及ばない、落ちて行くのも自身なら、それを救おうと思うのも自身なれば、我が姿形、その思いはまた喜助なり・・・・」


農作業で田んぼの畔の草刈をしていたらマムシを見つけ、このようなことを考えながら作業をしていました。
そして私も腹の大きなマムシは、殺せなかった・・・。



「盆花」・2

「盆花」を採ってさあ帰ろうとしたその時だった、かよはかかとに激しい痛みを感じ思わず身を屈めた、そこへマムシが今度は腕に噛み付き、さらには着物の上から乳房まで噛まれ、かよはその日の夕方には命が尽きてしまっていたのだった。

腐りかかったかよに取りすがる喜助、しかし有ろうことか喜助の足元、かよの着物の袖の下から、今度は喜助に噛み付こうとくだんの丸々としたマムシが鎌首をもたげ、すんでのところでそれをかわした喜助は力任せにマムシの頭を踏みつけるやいなや、腰の鎌を抜くとマムシの背中に幾度となく、鎌の先を突きたてた。

「くそ、おのれ、何の恨みがあってかよを・・・」
喜助はマムシが細かい肉切れになるまで、鎌を付き立て切り刻んだ。

喜助がおかしくなったのはこの時からだった。
それまで草一本生やさないかのように手入れされていた田畑はあっと言う間に荒れ果て、やがて酒や博打に手を出すようになった喜助はいつしか田畑も家も失い、挙句の果てにはつまらぬチンピラと喧嘩し、短刀で刺され死んでしまった。

そしてここは地獄・・・。

血の池では多くの男や女が邪鬼達によって溺れる寸前まで棒で血の中に沈められ、息も絶え絶えのところで離され、また白目が浮くまで血の中に沈められると言う責め苦が延々と続けられ、そうした者たちの中にに喜助の姿もあったが、ある日のこと、この地獄へ天上の世界から一人の女が喜助を訪ねてくる。

「喜助どん、喜助どん」
あでやかな着物を着た見知らぬ女は喜助を呼ぶが、血の池の中で目だけを出している喜助は黙ったまま、女を睨み付ける。

「わたしは喜助どんの女房に噛み付いたマムシです」
「喜助どんと女房さまには何の恨みもございませんでしたが、それでもマムシで有る以上、人が来れば噛まねばなりません」
「ただ私のこうした業によって、女房さまは死に、喜助どんをこうして地獄に落としてしまいました」

「一言、このことを詫びたくて仏様に頼んで喜助どんに会わせて頂きました」
「ほんに、ほんに申し訳もなく、何卒お許しくださいますよう、そして一刻も早くこの地獄からお救いくださいます様、仏さまにお願い致します」

マムシはひれ伏すように喜助に頭を下げた。
これを見ていた喜助、やがて何かを思い出したのか地の底から搾り出すような声でこう言う。
「おのれはあのときのマムシか、うぬは俺が助けたにも関わらず、俺の一番大切なかよを俺から奪った。許すものか、絶対許すものか、三千世界のどこにあっても俺はお前を祟ってやる」

「どこに有っても如何様な形を為していようと、何度でも鎌で切り刻んでくれる」
「喜助どん、そんなことでは喜助どんはいつまでもたってもこの地獄から出られません」
「私はそのことが辛いのです」

「かよさまも喜助どんのことを安じておられます」
「かよ、かよはどうした、かよは今どこにいるんだ」
喜助はかっと目を見開くとマムシの着物の裾を掴んだ。

「かよさまは極楽においでです」
「もし宜しければかよさまにお会いできるよう、もう一度仏さまにお願い致しましょう・・・・」

「おお・・・、かよ、それに俺の子は・・・」
「かよ、俺はお前に合わせる顔が無い、だが会いたい、せめてもう一度会いたい」
「分かりました、今しばらくお待ちを・・・」

マムシはそう言うと、暗黒の空間を静かに上へ上へと登って行き、やがて姿が見えなくなったが、程なく今度はなにやら光の粒が上からゆっくり降りてきて、それは近付くと何と「かよ」だった。

「喜助どん、お久しゅうございます」
「あなたの話を聞いて盆の用意を焦り、そしてこんな仕儀となってしまいました」
「喜助どん、どうか許してください」
「おお、かよ、かよ、どうして死んでしまったのだ、俺はお前が死んでから生きていくのが嫌になっていた」
「そして散々悪事を働き、今はこのざまだ」

「喜助どん、どうか私もそうですが、マムシのことも許してやってください」
「マムシは近くに人が来れば噛み付くのが業と言うもの、その業に従っただけの事です。それゆえマムシを許してやって欲しいのです」

「かよ、お前の腹の中には俺の子がいた、そしてマムシの腹の中にも子がいた、俺は本当はマムシを恨んでなどいないかも知れない、本当に恨んでいるのは仏だ」
「俺もマムシも、いやお前とマムシさへ出会わなければ、そもそも俺もマムシも殺し合わずにすんだはずだ」

「それを仏は仕組んだ、子が産まれて幸せになるはずだった俺とお前を不幸のどん底に追い込み、そしてその報いと称して俺は地獄に有る」
「俺達はまるで仏のオモチャか・・・」

「喜助どん・・・・」
かよの頬から大粒の涙が流れ落ちた。
だが次の瞬間、とても大きな光が天上から差し込んだかと思うと、何と今度はかよの隣に地蔵菩薩が立ち、やはりかよと同じように頬から涙を流しているのだった。

                               「盆花」・3に続く










「盆花」・1

昔、越中(富山県)は砺波の郷(となみのごう)の北端に喜助と言う若者が住んでいた。

早くから両親を亡くし、それでも1人で田畑を耕し、気立ても良い喜助は村の者からも好かれておったが、昨年の梅雨の頃に叔父の仲立ちで嫁をもらい、その嫁の名前は「かよ」と言った。

かよはまた喜助同様気立ても良く働き者で、その上に大そう「えちゃけな」(可愛らしい)嫁だったので、喜助はこのかよを事の外大事に思うておったが、そんな或る夏の事、喜助が野良仕事から帰り、夜さりの飯(夕飯)を食べておった時のことだった。

「喜助どん、どうやらおりゃ(私)子供が出来たようや、産んでもええか」
かよは少し恥ずかしそうにうつむくと、そう喜助に尋ねたのだった。

突然の事に一瞬我を失った喜助、粥の入った椀を置くのも忘れ、「本当か」とかよに聞き直すが、かよはまた恥ずかしそうに黙って頷く。
「かよ、かよ、本当か、おらに子が出来るのか」
「かよ、おらは父親になるのか」
喜助は今度は椀を囲炉裏に置くと、嬉しそうにかよに近寄った。

「おりゃ、喜助どんの子を産んでもええか」
「そんなものええに決まっとる」
「これからは体を大事にせなならんぞ」
「明日からは野良はおらだけでやるから、かよは動かんでええぞ」

「喜助どん、子が産まれるのはまだ先のことや、かーか(母親)はそれまでは動かなあかんと言うとった」
「そーかー、そっでも無理したらだめやぞ」
「そーかー、おれの子か・・・」

すっかり安心して寝息を立てるかよ、その隣で子が出来たことを知った喜助は、どこからともなく力が湧き出てくるような思いがして、その晩は朝方まで眠ることが出来なかった。

次の日の朝、昨夜からの昂揚した気持ちを抑えられない喜助は、いつもより早く野良仕事に出かけたが、この時期は2度目の田んぼの畔や土手の草刈時期で、すかすかに研いだ鎌は切れ味も良く、謡の一つも出てきそうな勢いで、仕事はどんどん捗っていく。

喜助は「おらに子ができるんだぞ」と、空に向かって叫びたくなるのを抑えながら草を刈って行く。
やがて土手の外れに有る桑の木の下まで来たときのことだった。
刈った草の下に何と丸々としたマムシが一匹、姿勢を低くして尻尾を地面に叩きながら、喜助を威嚇しているでは無いか・・・。

「おのれマムシが・・・」
喜助は思わず鎌を振りかざす。
百姓にとってマムシは天敵とも言えるもので、その存在を許せばいつか自分が噛まれて死ぬことになる。
それゆえマムシは見つけ次第殺さなければならなかった。

しかし余りにも丸々としたそのマムシは良く見てみると、どうやら腹に子を宿しているようにも見えた。
マムシは2、3年に1度子供を産むが、普通の蛇のように卵で産まれてそれが孵化するのではなく、卵は親の腹の中で孵化してマムシの形で産まれて来る。

そのためマムシが子を産む8月から9月ごろ、夏に胴体が少し太いマムシは子を宿している場合があるのだが、どうも眼前のマムシが子を宿しているように見えた喜助の鎌はその勢いを失う。

「お前も子が産まれるのか・・・」
喜助の脳裏には、ふと、家の近くで里芋畑の草むしりをしているかよのことが一瞬よぎった。
喜助は暫く考えたが、振り上げた鎌を下げると黙ってその場を避け、少し離れたところからまた草刈を続けた。

次に見つければ殺さなければならないが、今日は生き物を殺したくない・・・。
喜助はどこかで清々しい思いを感じながら、土手の草を刈って行くのだった。

そして次の日、前の晩、嬉しさの余り眠れなかった事もあって、いつもより半時も遅くなってやっと目を醒ました喜助は、隣にかよの姿が無いことに気付き辺りを見回したが、囲炉裏の前にはやはり粥が火にかかっていて、その粥がもう焦げ付きそうになっているにも関わらず、どれだけ呼んでもかよは姿を現さず、少し心配になった喜助は外に出て探してみたが、かよの姿はようとして見つからなかった。

「かよー、かよやーい」
喜助は必死になってに身重の女房の名を呼び続けるが、かよはこの日を境にまるで消えてしまったように行方知れずとなってしまった。

それから4日後のことだった。
もう盆も15日と言うことに気付いた喜助は、何を思ったか自分の家から一番遠いところに有る、あのマムシを助けた桑の木の近く、自分が刈り取らなかった草薮の中へ分け入った。
草を踏んでいくと、そこにやはり草が立っていない場が見え、また有ってはなら無いことだったが、どこかで見覚えの有る着物の柄が見えてくるのだった。

かよは盆に飾る「盆花」を握ったまま、その体中にマムシの斑紋そっくりのみみず腫れを起こし、しかも既に肉の一部が腐って口からは蛆虫が顔を出している姿で見つかった。

あの晩、桑の木の近くに「盆花」が有ることをかよに語ったのは喜助だったが、どうやら盆も近付いてきたことから、かよは眠っている喜助を起こさずに、すぐ帰るつもりで桑の木の近くまで来たようだった。

                                    「盆花」・2に続く











「偉大なる偶然」

聖書の記述に「狭き門から入れ」と言う言葉が有る。

これはより安易な道より、困難だと思われる道から入った方が、結果は良い場合が多いと言う意味のようだが、中々言い得て妙な言葉だ。
例えば男女の仲を取って見ても、それほど安定した関係から恋人の関係になると言うことばかりではなく、むしろ一番弱く薄かった関係が発展して、夫婦となるケースの意外な多さである。

またビジネスでも同じ事が言え、初対面の時は「こんな奴」と思った相手が、気が付けば一緒に事業の中のパートナーとなっている場合も有る。
人の世で人が為すことと言うのは歴史を鑑みるまでもなく、こうした意味ではどこかで結果が先に有り、その結果に基づいてあらゆる関係が微妙に組み合わされて行くような、そんな不思議な部分がある。

今夜はノーベル医学生理学賞を受賞したペニシリンの発見者、「アレクサンダー・フレミング」、彼の「狭き門」に付いて少し見てみようか・・・・。

アレクサンダー・フレミングは1881年、スコットランドで農家を営む両親の第4子としてこの世に生を受けるが、第4子と言う立場から両親が営んでいた農場を継ぐこともなく、16歳になったフレミングは船会社に勤務し始める。

そして通常で有ればフレミングはこのまま一生船会社に勤めて終わるだろうはずだった。
彼にはこの時点で医学にも研究者にも興味は無く、そうした道へ進むべき資金もなかった。

だがフレミングが20歳の時の事、彼の伯父が亡くなり、ここで彼はその遺産を相続することになる。
伯父の遺産は膨大なもので、フレミングがこのとき手にした遺産は、何と彼の12年分の年収に匹敵するものだった。

この出来事が有って資金を手にしたフレミング、彼はここで当時ロンドンに12校有った医学校の1つ、「セント・メアリー病院校」へ入学し、医学の道を目指すことになるが、その動機は非常に分かり易いもので、「医者になれば食うには困らないだろう」と言うものだった。

ついでにどうしてフレミングが「セント・メアリー校」を選んだかと言えば、彼が18歳の時、軍隊の訓練兵としてロンドンに駐留していたおり、たまたま「セント・メアリー校」の水球チームと対戦し負けたことから、この学校を知っていただけのことだった。

1906年、フレミングはこうして医師の資格を取得する。

そしてこの時フレミングには多くの選択肢が有り、例えば自分で開業医となることも可能だったし、他の給料の良い病院へ移籍することも可能だった。
しかしセント・メアリー校へ残ったフレミングの、その残留したと言うか、残留させられた理由がまた、こうした言い方をして良いものかどうかはともかく、本当に適当な理由だった。

実は軍隊に所属していた頃、フレミングはその抜群な射撃の腕を認められていて、こうした経緯からセント・メアリー校でも射撃クラブに所属していたのだが、フレミングに辞められてはセント・メアリー病院射撃クラブの地区優勝はおぼつかなくなる。

そこで強く病院から慰留を勧められたフレミングは、大した考えもなくセント・メアリー病院に残留したのだった。

こうしたいきさつから第一次世界大戦によってセント・メアリー病院が破壊されるまで、同病院で研究を続けることになったフレミングだが、彼の研究室と言うか、与えられた部屋はあまり掃除されることもなく雑然としていて、これは第一次世界大戦後セント・メアリー病院が再建され、それに伴ってフレミングが復帰した後も同じで、大変いい加減なものだった。

だがある日、彼はここで実験のために細菌を塗って有ったシャーレにくしゃみをしてしまい、3日ほど経過してこの実験用シャーレを見てみると、自分の唾液がかかった部分の細菌が増殖してないことに気がついた。

これが動物の唾液や卵白に含有される抗菌物質「リゾチーム」の発見につながるが、1922年のことだった。

また1928年、さすがに散らかりすぎて、研究室のどこに何が有るのかが分からなくなってしまったフレミングは、ようやく重い腰を起こして研究室の片付けを始めるが、ここでこうした事態になることの方が疑問だが、またしても黄色ブドウ球菌を塗ったまま放置されていたシャーレを発見し、そのシャーレには有ろうことかカビが生えてしまっていた。

実に研究者としては許し難い怠慢さだが、この辺がフレミングが「運命の人」と言われる所以かも知れない。
そのシャーレのカビの部分の端が透明になっていることを発見したフレミングは、このカビが黄色ブドウ球菌を死滅させていることを発見するのである。

これがペニシリンの発見だった。
1929年、この抗生物質に関する論文を発表したフレミング、しかし当時の医学界はこの絶妙ないい加減男の研究を全く無視し、何の関心を持たれずして10年の歳月が流れる。

だが1940年、偶然このフレミングの論文を読んだ「ハワード・フローリー」と「エルンスト・ボリス・チェーン」の2人はペニシリンの精製に成功し、ここに世界初の抗生物質薬剤が誕生するのであり、このことをして「ペニシリンの再発見」と言うのである。

また面白いことだが、このペニシリンの臨床試験に最初に成功しているのはフレミングだが、その時のいきさつもまた本当に「こんなことで良いのか」と思える適当さ加減になっている。

ペニシリンが医薬品として製造されるようになる少し前、友人の医師にペニシリンを精製してもらったフレミングは、危篤状態で既に死を待つしかない患者に、試験的にペニシリンを注射してしまうのだが、何とこの危篤状態の患者はその後回復し、病院を退院できるまでになった。

偶然とは言え危険な人体実験に成功し、ホッと胸をなで下ろしていたフレミング、しかしそこへペニシリンを精製してもらったくだんの医師から電報が届く。
「ペニシリンを実験として猫に注射したが、猫は死んだ。人間に使うな・・・」
電報にはそう書かれて有った・・・。

第二次世界大戦にはその製品化に成功し、戦場で傷ついた多くの兵士を救うことになったペニシリンの発見。
この発見によってフレミングはハワード・フローリーやエルンスト・ボリス・チェーン等と共にノーベル医学生理学賞を受賞し、イギリス王室から「ナイト」の称号を受けた。

1955年、フレミングは心臓疾患によって逝去したが、ペニシリンの発見と言う偉大な作業は、フレミングの生涯に措けるただ一つの偶然が欠けても成し得なかったかも知れない。

フレミングの適当さ加減が許される環境であったセント・メアリー病院、そして偶然に出るくしゃみや、カビたシャーレ、まるで往時のドリフターズのコントのような偶然がなければ、今に至っても多くの人の命が失われているに違いない。

いやもっと踏み込んで言うなら、ペニシリンは何としてもこの世に出たかった、もしかしたら世に出ることは決まっていた、そしてフレミングがノーベル賞を受賞するのは、まるで日が昇り日が沈むように決定的な事だったのかも知れない。

ちなみにフレミングの「くしゃみ」の方はどうなっているかと言うと、リゾチームは現在抗菌剤として医薬品になっていたり、食品添加物として私たちの身近なところで活躍してくれている。





「神の手」

第一次世界大戦が始まって間もない頃の1914年8月23日、圧倒的軍事力を誇るプロシア(ドイツ)軍と戦っていたイギリスとフランスの連合軍は、ついにベルギーのモンスで完全にプロシア軍に包囲され、ここに引くも進むも、そこには「死」有るのみの状態となってしまった。

「おお、神よ、我々に力をお貸しください」
進退極まった兵士たちはもはやこれまでと、天に祈りを捧げる。
刻々と迫ってくる最後の瞬間、もはやプロシア軍はその眼前にまで迫っていた。

その時だった、迫り来るプロシア軍と包囲された連合軍の間に、どこからともなく黄金のマントを翻し、白馬にまたがった十字軍風の騎士たちの一軍が現れたかと思うと、彼らは一斉に何千と言う矢を放ち、その矢はまたたく間にプロシア軍兵士たちを倒していき、ここに連合軍の退路が開けたのである。

モンスでの苦戦は後方に有る病院でも話題になっていたが、もはや絶望視される中、1914年8月26日になると次から次へと傷を負った兵士たちが帰ってきた。
そして彼らは一様に天の軍が、天使達に助けられたと証言したのである。

このことは敵で有るプロシア軍でも記録が残っている。
それによると、8月23日、連合軍を包囲したプロシア軍の前に突然白い大きな光が現れ、それと同時に体が動かなくなったと言うのである。

また別のプロシア軍兵士はこうも証言している。
「違うんだ囲まれたのは俺たちだった。俺たちは何千と言う古い装束の兵士たちに囲まれ、彼らから何千と言う矢を受けた」
「でもおかしいんだ、俺は10本ほどの矢に射貫かれたが、血も出なければ死にもしない、ただ体が動かなくなるだけなんだ」

またこれはヘルシンキ大学のウィレニウス教授の調査資料だが、そこには1939年ソビエト軍がフィンランドに侵攻したおり、圧倒的軍事力を有するソビエト軍に対して、これと互角に戦い撃破したフィンランド軍の奇跡、いわゆる「雪中の奇跡」に付いての記述があり、ここでは当時冬の寒さを甘く見たスターリンと、白い服を来てゲリラ線で戦って行った、フィンランド軍の意識的な差に付いて述べられている。

実に11月から戦争を仕掛けたスターリンは、この年の冬が氷点下40度以下の厳しい気象条件下の戦いになることを予想しておらず、為にソビエト軍の死者はその82%までが凍死者だったのである。

更にウィレニウス教授の資料には先程の意識的な差に付いて、中々興味深い記録が残されている。

そこではやはりプロシア軍に囲まれたイギリス、フランス軍と同じように、ソビエト軍に囲まれたフィンランド軍兵士の話としてこのような証言が残っている。
「私たちがソビエト軍に囲まれた時、こちらはゲリラ戦ですから精々が数十名単位しかいませんでした」
「それをソビエト軍は何百人もの兵隊で囲み、銃で撃ちまくりでした」
「でも12月24日のことでした、私たちは囲まれて万事窮す、これで終わりかと思って天を仰いだんです」

「そしたら突然空が眩しい光に覆われ、その眩い光の中に翼をはやし、光の十字架を掲げた天使が浮かび上がってきたんです」
「これを見たソビエト軍は大慌てでした。その隙に私たちは逃げることが出来たんです」

なるほど、神が後ろにいてくれるなら、「死」すら容易いことかも知れない。
この意識の差がソビエト軍を撃破したフィンランド軍の力の源だったのかも知れない。

そしてこれは新聞にも配信されたことから、知っている方もおられるかもしれないが、1973年5月、第4次中東戦争中の出来事だった。
ヨルダン川ではエジプト・シリアの連合軍がイスラエル軍と対峙していたが、この当時のイスラエル軍は既に戦争で資金も食料も底をつき、もはや限界の状態だった。

それに対しエジプト・シリア軍は実にイスラエルの24倍と言う重火器類を装備し、ここで一挙にイスラエルを殲滅すべく、戦車部隊を集結させていた。

エジプト・シリア軍の戦車は大挙して確実にイスラエル軍に迫ってくる。
イスラエル軍兵士たちは誰もがこれで終わりを覚悟し、残された選択はもはやどう死ぬかしかなかった。
「神よ・・・・」
大方の兵士たちは覚悟を決めた後、目をつむって死を待っていた。

が、しかしやがて何かがおかしいことに気づく。
たしかにエジプト・シリア軍の戦車軍団の音は聞こえるが、その音がなぜかいつまで経ってもこちらへ近づいて来ないのだ。
エンジンは出力を最大にして唸り声を上げている、恐ろしい程に早い回転となったキャタビラは砂をもうもうと巻き上げ、凄い勢いとなっている。

しかしどうしたことかエジプト・シリア連合軍の戦車は一向に前に進んでいなかった。
そればかりか暫くすると唸りをあげて前進の出力を最大にしている戦車軍団は、前進しようとしながら少しずつ後退していくのだった。

「なんだ、これは一体どう言うことなんだ」
これにはさすがにイスラエル兵士たちも我が目を疑った。
しかしやがて後ろのイスラエル軍兵士たちからポツポツとこんな声が聞こえて来る。
「神だ、神の手だ・・・」

何とこんな事があって良いものだろうか、エジプト・シリアの戦車軍団とイスラエル兵士たちの間に突然光輝く巨大な手が現れ、その手は侵攻して来る戦車軍団を押しとどめたかと思うと、今度は少しずつ押し返していたのである。

気象現象でもごく稀にだが、空に大きな人の顔のような雲が出現する事が有り、凄いものになると、目の部分がウィンクしたように見える場合まである。
全く人間の手としか言いようのない大きな手が出てきたように見える雲も有れば、空間が直線で切られたように見える現象もある。

私も今度何か困ったときが有ったら、少しだけだが「神よ・・・」と言ってみようかと思う・・・。






プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

月別アーカイブ