「9時37分のミステリー」

1962年5月3日、午後9時37分。

この夜は新月で月明かりも何もない暗い夜だったが、当日早朝発生した東北の地震、それに「東北本線古賀駅」で発生した脱線事故で一日中ダイヤが乱れっぱなしだった常磐線三河島駅構内では、夜になってもダイヤが正常に戻らず、通常であれば田端操車場から水戸へ向かう45両編成の下り貨物列車「287」は、三河島駅を通過して下り本線に入るのだが、この夜は同じ下りの「上野」発「取手」行きの6両編成電車「2117H」が、上野を出る時点で既に2分30秒ほど遅れており、貨物「287」はこの電車を待つ形となった。

しかし貨物「287」を運転していた機関士は、三河島駅場内信号が「黄色」になっていることを見逃し、貨物「287」は三河島駅構内へ進入、出発信号が「赤」になっている事には気がついたが時すでに遅し、非常ブレーキをかけたものの間に合わず、貨物「287」は安全側線へ進入後、先頭の機関車両とタンク車が脱線し下り車線を塞いだ。

そこへおよそ4分ほど遅れていた「上野」発「取手」行き6両編成の電車、「2117H」が乗客を乗せ終えて差し掛かり、やはり非常ブレーキをかけるが間に合わず、「2117H」は貨物「287」に衝突し、今度は常磐線上り車線を「2117H」の車両が塞ぐ形で脱線した。

だがこの時点では貨物「287」の乗務員も「2117H」の乗客、常務員の中にも重篤な怪我を負った者はおらず、「2117H」の乗客達は非常用ドアコックを操作し、ドアを開けると外へ避難、そして皆「南千住」方向へと線路を歩いていた。

そしてこの事態に三河島信号所の係員は常磐線下り車線の信号を赤に切り替え、係員から連絡を受けた三河島駅助役は下り線の後続列車の運転を全て停止したが、上り線に関しては状況が掴めていない事から「事故発生」とだけ連絡された。

ところでこの同じ時刻、やはり早朝の東北の地震の影響で一日中ダイヤが乱れていた南千住駅では、約2分ほど遅れて「取手」発「上野」行きの9両編成上り列車「2000H」が乗客を乗せて発車し、同時刻に上り線支障ありと三河島駅からの連絡を受けた南千住駅信号所では、慌てて信号を赤に切り替えるも時既に遅し、「2000H」は信号所の前を通過している最中だった。

結局「2000H」の機関士は常磐線上り車線が事故によって塞がっていることを知ることなく三河島駅構内に入り、先に脱線した「2117H」から降りて南千住方面に歩いていた乗客達の姿を発見し緊急ブレーキをかけたが間に合わず、「2000H」は「2117H」の乗客を次々はねとばしながら「2117H」の先頭車両に激突大破し、「2000H」の2両目以降の車体は高架橋から落下して倉庫に激突、こちらも全て大破した。

この事故で線路を歩いていて撥ねられた「2117H」の乗客、「2000H」の乗客の内160人が死亡、296人が負傷を負った。
これが現在のJRの前身、旧国鉄戦後5大事故の1つ「三河島事故」である。

そしてこの事故では事故発生後数多くのミステリーや偶然が発生しているが、その中でも不可思議な事に、この事故でたった一人だけどうしても身元が分からない犠牲者が存在し、身長163cm、丸顔のこの男性犠牲者の事は誰も知る者がいなかった。

そこで警察は当時導入された「モンタージュ写真」を作成し、全国から情報を集めたが、恐らく線路を歩いていて撥ねられたであろう27、28歳くらいの同男性の身内、知人すら現れず、言うならば日本で誰も知らない人が電車に乗り、そして撥ねられていたのだった。

この捜査には最終的に霊媒や占い師まで動員されたが、高名な霊媒や占い師、預言者をしても皆目見当が付かず、結局この男性の遺体は「行旅死亡人」、つまりは行き倒れの身元不明者として三河島駅付近の寺に埋葬され、現在に至っても一人の関係者も現れていない。

一部ではこの男性の遺体の手には数珠が握られていたとも言われているが、誰も見たことすらなく、知っている人間が全くいない状況と言うのも有り得るものなのだろうか。

またこの当時、名称記述は差し控えるが、組織力を動員し一大勢力となりつつ有った新興宗教団体が存在し、この教団では入信する時、それまで家に置いてあった仏壇や位牌などは焼却してしまわねばならかった。
そして奇妙な事に、後日この鉄道事故を詳しく検証しようと考えた新聞記者、A氏は被害者を調べていく中で、何故かこの新興宗教にぶつかってしまった。

死者160名、負傷者296名の内、120人前後がこの新興宗教に入信し、仏壇や位牌を全て焼き払っていた人たちだったのである。

つまり「2117H」と「2000H」の車両に乗っていた、この新興宗教信者の全てが死亡したか負傷した訳で有り、決して全員が死亡、若しくは負傷したわけでは無いのにこの確率は異様だった。

当時発刊されていた週刊誌の三面記事専門コーナーでは、様々な心霊学の関係者たちが「そら見たことか」と言わんばかりに、この鉄道事故に付随して同新興宗教団体を問題視しているが、何故か半年後にはこうした話が全て消えている。

ただの噂話だったのか、それとも何かの圧力が加わってそうなったのかは、今となっては判らない。

一番のミステリーは生きている人間、その人間がつくる社会と言うことかも知れない。

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「権力の散逸と儀礼」・3



J.S. Bach - Air on the G String by sori1004jy・・・・・

恐怖の連鎖を食い止める方法はひとつしかない。
それは「礼節」と言うものであり、分かりやすく言うなら「大義」でも良い。

日本に措ける国法編纂の祖、明治の「江藤新平」は自身が編纂に関与した「法」によって裁かれ、そこで処刑されたが、彼が持つ「法」の概念には「政治犯に死刑があってはならない」と言う思想が漂っている。

政治はいつの世も「調整能力」であり、ここでは一切の制約、いわゆる道徳や常識、人間性を排した状況で無ければ正確な判断が出来ない状況が訪れる。
人を殺す事は悪いことだが、では10人の命と100万人の命が天秤にかけられたら、或いはその国家存亡の危機に際して一般的な道徳観念や平和、正義がいつも通用するとは限らない。

何百万人殺そうが、そのイデオロギーでしか国家や体制を保つ術のなかった旧ソビエト、中国の指導者たち、近いところで言うなら第二天安門事件の指導者「鄧 小平」はどうだ。
抵抗する学生を戦車でひき殺しても国家を維持するためと有ればそれを遂行し、現在の中国を見るなら天安門事件でとった鄧 小平の判断を誤りだったとする者は少ないだろう。

しかしその当時に措いて彼が失脚し、民主化運動指導者たちによって処刑されていたなら、今日の中国は存在し続けることすら難しかったに違いない。
また同じように思想や言論によって処刑されることが有れば、思想や言論は闇に潜ってしまい、もしかしたら人類の新たなる道標となるべく財産を失い、為に人類全てが困窮する可能性が出てくる。

それゆえその時の「政治犯」に極刑があってはならないのであり、国際社会はこのことを声を大にして叫ばなければならないのだが、こうした事を最も厳守しなければならないアメリカが、イラクに対して取った行動はまったく偉大なる大義を冒涜したものであり、為に現在に至っては一般大衆が「感覚」としてすらこうした意識をうしないかけている。

自身が死者に鞭打つような事をすれば、自分が死んだときも同じ事が起こる事を人は恐れる。

だからこそ力なき者が暴走して起こした恐怖の連鎖は、どこまで行っても恐怖でしかないのであり、これを断ち切る術は独裁者であっても、暴力支配の為政者であっても裁判によって判断されなければならず、しかも極刑があってはならないのであり、これはしいては力なき者の集合、民衆が権力を持つ場合、その自身の恐怖心から唯一開放される道なのである。

あらゆる屈辱の言葉で追い立てられ、そして「アッラーに栄光あれ」と言って処刑された、あの余りにも無残なサダム・フセインの最後をもたらしたアメリカの有り様に比して、少なくとも今回のカッザフィー殺害に関しては、前為政者に対する冒涜の度合いが僅かに薄く感じられ、また死者に対する冒涜が行われていない事に、私は少なくともアメリカよりはイスラム社会に、リビア国民により多くの敬意を払いたい気持ちがある。

またどこかの国の、福助人形面した総理の原子力政策に関する内股膏薬演説では国連での聴衆者はまばらだったが、数年前同じ国連でカッザフィーが語った演説に私は感動した。

もはや20年以上も前になるが、トリポリの街はゴミ一つ落ちてはいないような綺麗な街だった。

これから先リビア国民の苦悩は計り知れないが、そのリビア国民の未来のために、私はあの美しい街を築いた独裁者カッザフィーと言う為政者に対し敬意をはらい、尚、追悼の意を表する。


「権力の散逸と儀礼」・2



Can You Feel The Love Tonight by sori1004jy・・・・・

また1945年4月28日、妻クラレッタと共に裁判も受けずに射殺された第二次世界大戦中のイタリアの独裁者ムッソリーニの遺体は、同年4月29日にはミラノ・ロレート広場に運ばれ、そこで妻共々裸に剥かれ逆さに吊るされたが、この直後から発生したものは残虐なファッショ狩りであり、ことに遺体に対する侮辱が行われた場合の混乱は、「民衆の狂気」によってあらゆる秩序を根こそぎ消失させる。

同じことはロシア革命、ソビエト崩壊前後のルーマニアでも発生し、ルーマニアの市民開放運動では、指導者のニコラエ・チャウシェスクが妻と共に後ろ手に縛り上げられたまま公開射殺され、その後ルーマニアに訪れたものは自由と引き換えの大混乱だった。

更には欧米の利害によって干渉を受け、その後まるで悪の権化のような扱いを受けて
処刑されたイラクのフセイン政権はどうだろう。

サダム・フセインのことごとくが、さながらコマーシャルを見るかように辱められたイラクの事実は、アメリカが言う「独裁からの解放」では無く、イラクに血で血を洗うテロ連鎖をもたらし、未だにイラクは混沌の極みとなっているばかりか、アフガニスタンも同様の状況がもたらされている。

そして2011年10月20日、「狂犬」と呼ばれたアラブの暴れん坊「リビア」の「ムアンマル・アル・カッザフィー」がついに反政府勢力によって殺害され、リビア国民は解放された。

「アラブの春」と呼ばれる中東に措ける民主化運動がついに独裁国家リビアにまで及んだ形だが、リビアの開放の実情は部族間闘争であり、これに石油利権に絡んだ権益拡大を目論むヨーロッパ諸国とアメリカが干渉し、ついに独裁者カッザフィーは殺害されたが、反政府勢力が前為政者を殺害したその罪は大変重大であり、かつ裁判も受けさせずに殺してしまうことは国際法以前に、歴史がその後当時国家がどう言う道をたどるかを如実に証明している。

恐怖が恐怖を克服しようとして暴走したとき、その恐怖の元凶となっていた「暴力」「権力」は、自身がこれまで行なってきた事実を知るが故に、言わば自身がしてきたことが何であったかを知るが故に「恐怖」に落ち、それを超える恐怖によって、「暴力」によって抵抗しようとするが、この段階で既に権力者であった者は事実上弱きものでしかなく、この弱きものと被権力者だった民衆は、互いの行なってきた行動から恐怖の連鎖に落ち、この闘争であらゆる秩序は水泡と帰し、前権力者が殺害されると、秩序は構築されない。

つまりカッザフィーを殺害してしまったリビア国民には、「自由」と言うものと引き換えのさらなる混乱、闘争がこれから待ち受けているばかりか、これまで有った石油の利権すら欧米諸国に食い荒らされる状況が訪れてくるのである。

                                                  「権力の散逸と儀礼」・3に続く


「権力の散逸と儀礼」・1



Laputa Castle In The Sky・・・・・

権力と言うものの最小単位は「自己」に対する「他」を認識できる複数以上の存在から始まる。

つまり人間なら2人以上、人間と動物、人間と植物、人間と物質、そして人間が想像可能な人間以外の存在との間で成立し、その最も原始的かつ基本的な形が「暴力」であり、権力の始まりとその権力の終焉には同様の形を示すが、最も初期の暴力は秩序に向かい、終焉の暴力は果てしない混乱へと向かう。

また一般的に現在の世界秩序は「言論」や「多数決」、「議会制民主主義」をして「暴力」とは何か異種の知的手段のように考えているかも知れないが、その実紛争の解決に措ける最終手段として「軍隊」やそれに準ずる存在が在る以上、「正義」と言う言葉が装飾されても前者と「暴力」は等しく、国内法、国際法、国際慣習にてもそこに「制裁」や「罰則」が存在すれば、これも「暴力」に等しい。

我々は「暴力」と言う言葉に何か特別な「悪」の概念を持っているかも知れないが、基本的にそれは人を動かす力で在り、この点で言えばそれが相対する存在の任意によって為されるか否かでしかなく、「力」と考えるなら「言論」「多数決」「議会性民主主義」「暴力」は本来区別して概念することは出来ない。

「暴力」が及ぼす影響はそれを認めるか否かによって決定する。
「暴力」を恐る者によって「暴力」は力となり、より大きな暴力、より強い暴力が小さな暴力、暴力を否定する者を支配するが、最終的に相対する者が自身の生命をしてこれに抵抗する場合、暴力はその相対者に対して「権力」とはならない。

権力は力なき者、貧しい者、誇りを失った者に対して影響を及ぼし、「暴力」を担保しているものは常に相対する者の「恐怖心」であり、人間を動かす最も基本的かつ大きな力はこの「恐怖心」ともう一つ、「恐怖心」の対極にある「命を棄てる覚悟」となり、「恐怖心」で動く者は被権威者、「命を棄てる覚悟」で動く者は権威者となっていく傾向にあり、被恐怖が暴走を始めた場合、その「場」に恐怖の連鎖が巻き起こり、この世で最も残虐な混沌へと落ちていく。

常に暴力を行使している「権力」はそれに慣れているだけに、一定の状況になれば限界を持つが、「恐怖心」から始まる存在には際限がない。

この為いつの時代でも民衆が革命を起こした場合、その有り様はそれまでの「権力」より遥かに残虐な状況をもたらし、その後こうした際限のない暴力の開放がもたらした「自由」は、その国家や民衆を更に深い暴力による無秩序、混沌へと貶めていくことになる。

現代民主主義の起点ともなる「フランス革命」(1789年)では始めて「市民階級」による革命が成立したが、国王のルイ16世はコンコルド広場にてギロチンによって首を落とされ、王妃マリーアントワネットは牛馬糞の搬送車によって市内を引き回された上に処刑となった。

ここでは「自由」や「平等」の概念よりも民衆の個人的な恨みの蓄積が国王や王妃のこうした処刑と言う形で現れたが、この事がその後恐怖の連鎖を生じせしめ、フランス国内では恐怖支配、恐怖政治が発生し、結局1899年、ナポレオン・ボナパルトの出現となっていく。
                                                  「権力の散逸と儀礼」・2に続く


「自分の弾丸に撃たれる」

青年と言うには年齢を食いすぎているかも知れないが、壮年と言うには少しかわいそうな年齢のその男、名前は「ドナルド・オーパス」と言ったが、彼に仕事は無く、妻子もおらず、そこへ今度は「いい年をしていつまでも仕送りは出来ないからね」と、ついには唯一の収入源だった仕送りも母親によって止められ、その事に逆上したオーパスは何故か密かに彼の父親の部屋に忍び込み、ショットガンを取り出すと弾倉に弾丸を込め始めた。

さてそれから1ヶ月半後、アメリカの地方都市に存在する、とある10階建てのアパート、このアパートの9階の1室では老夫婦と呼ぶには少し若いだろうか、彼等がまた今日も派手な喧嘩をしていた。

「あんた神様のつもり!私を何だと思ってるの」
「何だとこのヤロー、お前のような奴は撃ち殺してくれる」

そう言うと男は隣の部屋へ入って行ったかと思うと何とショットガンを持ち出し、その銃口を妻に向けると安全弁を開放した。
「カチッ」と嫌な音がし、さらに男の指が引き金にかかる。
「おい、これでもまだ口ごたえするか、このアマ」

「ああ、撃ってごらんなさいよ、どうせ銃弾(たま)は入ってないんだし、そんな度胸もないくせに、あんたのでかいのはその図体だけで役たたずのくせに、さあ、殺してみなさいよ」
「んー、くそー、もう勘弁ならん、覚悟しろ」
男はそう言って狙いを妻に定めると引き金にかかった指に力を込める。

だがこれはいつのも事で、些細な事でしょっちゅう喧嘩しているこの夫婦、今日も朝食の準備が遅かったと言う事で夫が怒り出し、そこから夫婦喧嘩は始まったが、夫が妻に弾丸の入っていないショットガンの銃口を向けるのは、言わば夫婦喧嘩の儀式のようなものにしか過ぎず、その意味ではショットガンの引き金を引く夫も、銃口を向けられている妻にも、こうした事態であるにも関わらず一定の安心感が漂っていた。

おもむろに引かれるショットガンの引き金、この後いつもどおりカチッと言う音がして終わるはずだった。
が、その日は何と凄い音がしてショットガンの銃口からは弾丸が飛び出し、まるでスローモーションのようにゆっくりと薬きょうが床に落ちて行くのだった。

この事態に一番驚いたのは引き金を引いた夫の方だったが、彼の腕は予期せぬ衝撃に標的を支え切れず、幸いにも弾丸は妻の右肩辺りをかすめて後ろの窓を突き破り、ガラス窓は粉々に砕け散った。
ショットガンを撃った夫は勿論、弾丸が自身をかすめていった妻も呆然となり、しばらくの間2人は白痴のように口を開けたまま立ち尽くしていた。

やがてすっかり夫婦喧嘩も吹っ飛び、幾らこの事態の理由を考えても堂々めぐりの夫婦、暫くしてそこへ警察が訪ねてくる。
すわ、今の銃声でアパートの他の住人が警察に連絡したのかも知れないと思った夫は、逮捕されるかも知れない事を覚悟しながらドアを開けた。

「警察の者ですがこちらでさっき銃を発射しましたか」

どことなく拍子抜けしたような丁重な言葉で夫に事情を訪ねる若い警察官、それに対し一部始終を話して聞かせた夫婦は、てっきり夫は監獄へぶち込まれるだろうとガックリしていたが、以外にも警察官は「暫く待っていてください」と言うと彼らを残して部屋を出ていってしまった。

ところで同じ日、この10階建てのビルの屋上から一人の男が飛び降り自殺を図ったが、幸いにもこのビルでは窓ふき作業が行われていて、8階部分には落下防止用の防護ネットが張られていた為、そこへ自殺志願のこの男は引っかかり、誰もがこれで男は助かっただろうと思ったのだが、通報を受けて駆けつけた警察官がいくら男を呼んでも返事がなくぐったりしている。

やがて防護ネットから引き上げられた男を見た警察官は首を傾げる。
「んっ、確か屋上には遺書もあったし、この男は自殺しようとしたんだよな」
「そうですが、それがどうかしましたか」

年下の警察官は年長の警察官に怪訝そうな表情で問い返す。
「見てみろ、この男の頭には銃弾が貫通した跡がある」
「そんな馬鹿な、この男は銃で自殺をはかって、それから飛び降りたんですか」
「とにかく死因はこの頭の銃痕だ」

なんとも言えない表情で現場から引き上げ、それからアパートの住人に事情を聴きに回った警察官たち、聞き込みを続けていくと9階の夫婦の部屋で銃が発砲されたことまでは分かったが、それが自殺しようとした男とはつながらず、更にはなぜいつもは銃弾が込められていない銃に弾丸が装填されていたのかも分からなかったが、自殺した男の所持品から彼の親族の住所を調べた瞬間全てが繋がった。

この男の両親の住所を訪ねた警察官たちは、何と先ほど銃の発砲に関して事情を聞いていた夫婦の部屋にたどり着いたのである。

自殺した男はこの夫婦の息子であり、その名前をドナルド・オーパスと言った。

事の顛末はこうだ。
ろくに仕事もせずにブラブラしているドナルド・オーパスに業を煮やした母親はついに息子への仕送りを止め、これに逆上したオーパスは母親を殺してやろうと、いつも喧嘩になれば弾倉が空のショットガンを持ち出す父親の、そのショットガンに弾丸を装填して置いた。

そうとは知らないオーパスの父親は、オーパスがショットガンに弾丸を装填した1ヶ月半後にショットガンの引き金を引き、たまたまそこへ金もなく母親まで殺そうとしている自分が嫌になり、10階の屋上から飛び降り自殺をはかったオーパスの頭に、父親が発射したショットガンの弾丸が命中したのである。

なんとも紛らわしいことだが、もしオーパスが母親を殺そうと思わなければ、例え自殺しようと屋上から飛び降りても助かっていただろう。
僅か2階部分を落下している間の9階で、たまたま自分が装填した弾丸に撃たれたオーパス、彼は運が良かったのかそれとも悪かったのだろうか・・・。

どうやら司法は彼の死を自殺と判断したようだが、1994年3月24日、アメリカで実際に新聞紙面を騒がせた珍しい事件である。

人間は同時に2つ以上の偶然が重なると、そこに「神」や「運命」を感じるものだと言われている。

2・「暴走する性意識」

女が自身を女として意識する機会は、相対する男の性の対象年齢によって抑止効果が増減し、すなわち自分の好みの男性の前では一番高い抑止効果が有るが、男女ともこうした抑止効果は一人の相対する性だけで継続してはいない。

それゆえ既婚男女でも、夫や妻以外の実態する性に対して現実的年齢や環境を鑑み、または自身が理想とする漠然とした性的対象者の前では、例えそこに実際的な性交渉の余地が無くても、自身を男や女と強く意識することから抑止効果を発揮するが、実態する性が眼前に無い場合は常に暴走となり、そこでは性の意識が男でも女でもない、ただ拡大する生物本能のみの世界が広がっていくのである。

そしてこの傾向は男よりも女の方が激しいのは、男より女の方がより生物的であると言うことなのかも知れないが、同じ面では男の性意識の方がナイーブであり、男の性意識は実態する性より社会的な、或いは観念的な性意識であり、このことから男の性意識は女を想定できる物質にまで及ぶのであり、為に下着ドロボーなどが出現したり、電車内での盗撮事件が起こってくる。

が、こうした事を異常な性的欲求とする現代心理学は、非常に形骸的なものでしかなく、本質から遠く離れた部分での考え方と言える。

つまりは女が好き、男が好きはある種生物学的な基本であり、なおかつ女の性意識は実態する性に左右され、男の性意識は観念であると言う事を鑑みるなら、女に興味のある男は当たり前のことであり、問題はどうしてこうした意識をコントロールさせるかと言う点で、これはモラル形成が為されているか否かの、社会の在り様に深くかかわってくる。

それゆえ下着ドロボーも盗撮も、幼児性愛も、本質的には精神の異常では無く、男の性意識が観念であるなら、基本的には女の形をしている、若しくは女らしきものでも全て男にとっては女になってしまう事を認知し、こうした男を形成するものは母親と言う女である事を自覚して置かねばならず、この根底を流れるものは第一時的欲求の食欲に近い本能に負けつつある女の性意識、いわゆる暴走する女の性意識が招く、宗教的統制のない男女区分化社会に求めなければならない部分が少なく無い。

確かに異性と言うのは面倒で、眼前に居なければこれほど楽なことはないが、やがてその存在が空気のように存在して当然になり、それを失う本当の悲しみや、人が生きることの何たるか、死ぬことの何たるかを知るには、まずは男女が出会うこと意外に方法がない。

ゆえ、こうした事を通らずに過ごす者の多い社会は、どこかで本質を失った軽微な社会や弱い社会を生み、男女ともその性意識が暴走し、性犯罪の多い社会、モラルを失った社会が顔を覗かせることになる。

私はこれまでの記事のなかでも男女の性意識の乱れは、しいては国家の乱れとなり、やがては世界の秩序を壊すものだと書いてきた。

この眼前に世界秩序の崩壊が現実性を持って迫ってくる現在、それを正すものは為政者でも無ければヒーローでもない、私たち一人一人が姿勢を正し、男が男であり、女が女で有ろうと努力し、責任を全うすることこそ失って来たモラルの最構築となるのであり、遠いようで一番近い世界秩序の創造への道なのではないか、そのような事を思うのである。

生物は基本的な本能に忠実でありながら、第一次欲求に代表されるような「欲望」には強固な意思を持たなければならないが、適度な抑止効果が自動的に働く自然界の外にある人類社会は、これを自分達で築かなければならない。

しかしどうも有史以来、人類はこのことに上手く行っていないような気がする・・・。

1・「風呂上りのビール」

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  2011  10  16      Old  passion

仕事が終わって取りあえず風呂に入り、火照った体に冷えたビールをひと口流し込む時の幸福感は、他の何にも代え難いものと言われているが、納屋洋子さん(仮名・当時16歳)の父親もご多分にもれず、毎晩仕事から帰って来ると風呂に入り、そして冷たいビールで一息付くのが何よりの楽しみだった。

そしてここまでの話ならどこの家庭でも在る極々日常のひとコマだが、洋子さんの父親はいつも風呂上がりにはパンツひとつでタオルを首から下げた出で立ち、それで時々大きく出た腹をポンポン叩きながらビールを飲んでいたことから、流石にこの有り様は夫婦と二人姉妹の家庭では受けが悪く、特に洋子さんの姉はこうした父親の姿に嫌悪感すら感じていたようだった。

洋子さんの姉はふとしたことがきっかけでアイドル歌手だったのだが、20歳になる彼女はいつも父親のこうした姿を目撃するたび、「お父さん、年頃の娘がいるんだから、そんな格好はやめてよ」と口を尖らせ、それに対して父親は「こうしてビールを飲むのが俺の唯一の楽しみなんだ」と譲らない。

父と娘の関係は日を追うごとに険悪なものとなっていった。

やがて仕事の関係で一人暮らしを始めた洋子さんの姉、忙しくてなかなか会えない姉のマンションを、大学受験のために数年ぶりに訪れた洋子さんは、夕食を準備して姉の帰りを待っていたが、ずいぶんと遅くに帰ってきた姉は、食事より先に風呂に入ると言って浴室に入って行ったが、やがて風呂から上がって来た姉は首からタオルをかけ、それで髪を拭きながらソファにどっかと腰をおろし、そして缶ビールの蓋を開ける。

こぼさないように口を付け、そしてグビグビ喉にビールを流し込むと、ポンと缶をテーブルに置き「あー、美味いわー」とソファの背もたれに体をあずける。
・・・とここまでは良かったのだが、問題はその格好だった。
何と洋子さんの姉はパンツひとつでこれをやっていたのである。

「おねーちゃん、それじゃお父さんと同じじゃない」
いぶかしがる洋子さん、それに対して姉が一言・・・。
「良いのよ、誰も見ていないんだから」

男女と言う性意識は実態が伴っているとそれは「抑止効力」を発揮する。
つまり男女の性意識は「道徳」の基本的な部分を形成していて、この実態が外れた状態だと、実態の相対する性がないと、性意識は暴走し、この傾向は女の方が激しく、男の方は性意識そのものが暴走しやすい。

例えば温泉や銭湯でも基本的に人間的なマナーを無視する傾向は、男湯よりも女湯に発生しやすく、同じ観光バスツアーでも女だけのツアーと男だけのツアーでは、女だけのバスツアー内で発生する要求の方が大きくなり、これは本質的には暴走だが、人間の欲求とはまた常に暴走そのものであることから、社会が景気の悪い状態にあるとき、こうした欲求を満たす事がサービスと考える風潮が現れると、暴走が正当化され、このことによって社会は少しずつモラルを失っていくことになり、男が持つ男の価値観はその大部分が母親と言う女が理想とする男と言うものの意識に影響を受ける事から、女の暴走が正当化され易い社会は結局男のモラルも暴走させることになる。

また自由と抑圧は同じものであり、片方で男女の区別が厳しく管理される社会と、文書化できるような形式的自由や平等が蔓延する社会は同じ傾向を表してくるが、この意味では男女が厳しく抑圧された社会の方が宗教によって、或いは罰則によって管理される分、軽薄な自由が暴走して現れる男女の区分社会よりは強いモラルを保持する。

イスラム社会では男女の厳しい区分が存在するが、それとは全く対照的な自由主義社会でも、自由や平等が暴走していくと、やはり男女の区分化が発生してくる。

「女性サービスデイ」、或いは「女性だけしか入れない店」、「電車の女性専車両」、「女子会」、「女性限定ツアー」など、日本社会のあらゆる「場」で発生してくる男女の区分化傾向は、基本的には女の暴走、つまりは女が女ではなくなる機会を増加させ、この場合は抑制の無いヒト科生物の本能に従ったものを増長させ、これが結果として社会のモラルハザードへとつながっていく。

「形のない効果・2」

「癌の特効薬」に対して神経質になった医学会や薬学会は丸山ワクチンに対して過剰な反応を示し、1991年には同じ成分の「アンサー20」がゼリヤ新薬工業からも発売されるが、これもその承認内容は白血球減少の緩和作用、つまり放射線治療などで人体内の白血球が減少する「副作用」に対する治療薬とされたのであり、これによって同薬品の処方は「癌治療」ではなく、癌治療時の副作用反応に対する緩和薬とされたのであり、「アンサー20」が癌治療薬と認められれば、「丸山ワクチン」も同じように癌治療薬として認められるものと、道を求めていた多くの癌患者やその家族の請願は門前払いとなった。

それゆえ「丸山ワクチン」は1981年、当時の厚生省通達である、「有償治療薬」とされたままなのであり、これは癌治療薬としては認められないが、一定の規模で社会的要望を取り入れた形の大変中途半端な制度となっていて、その費用こそは40日分9000円程だが、片方で試験薬が無償である事を考えるなら、更には初期癌患者にも医療機関でも使用が可能なら、と言う思いが残る。

また丸山ワクチンによる癌の治療効果だが、一部にはこれまで35万人から40万人の癌患者に効果が有ったとする反面、多くの権威ある大学の医療機関や研究機関ではその効果は無いとされていて、では全ての大学研究機関が丸山ワクチンの効果を否定しているかと言えば、例えば日本医科大学の資料では、丸山ワクチンを使用した治療群と、他の抗癌剤のみの治療群の比較で、15%ほど丸山ワクチンを使用した治療群の方が延命率が高かったとされているように、丸山ワクチンを肯定的に捉えている研究機関もある。

同資料では、丸山ワクチンを1000人が使用したとして、その内152人に延命効果が有った事になる。
ただ、癌患者の「延命効果」だが、実はこれが大変難しい。
癌の症状はほぼどの患者も同じだが、同じ健康条件の人間、同じ生体条件の人間と言うものが存在し得ない。

またこうした延命効果は、そもそもが患者の「死」の時期を推定することから始まるが、幾ら医学に精通した医師と言え、多くの臨床結果が有るとは言え、人の「死」を推定できるなどとは考えない方が良いだろう。

例えば5ヶ月の延命効果はそれが延命効果で有ったのか、その本人の生命力に有ったのかの判断は確証を得ない。

従って客観的に厳しい意見を言うなら、丸山ワクチンの効果はどこまで行っても不明なままかも知れない。
しかし私は、「丸山千里」博士がハンセン病患者には癌患者が少ないのではないかと感じた、その感覚にどこかでは惹かれるものがある。

確かに原因は違うところに有っても、その結果に措いて効果が有ると感じるなら、それもまた一つの医学的な考え方、生物に対する考え方と言うものではないだろうか。

冒頭でも説明したとおり、人間は何で生きているのかが分かっていないし、例え脳が死んでも体は生き続けることもある。
何をして死んだと言うのか、何をして生きていると言うのか、その本質は方法論や手続きではない。

頬を近づければそこから温かみを感じ、生きたいと涙を流す患者を前に、例え1秒でも彼女や彼等を生かしてやりたいと思う気持ちを前に、医学の謙虚な姿勢がまた、「感覚」で有ったとしても良いのではないか、そのようなことを思うのである。

稲刈りも終わり、重い袋を持ち続けた手は既に指が曲がったまま動き辛くなってしまったが、それでもこうして穏やかな秋の日差しの中に有れば、死んで行った母のことや、これからやりたい事が沢山有っただろうに若くして病に倒れ、世を去って行かざるを得なかった友のことを思いだす。そして、青い空に我が存在の無力なことを思う・・・。

「形のない効果・1」

あなたがもし瀕死の傷を負い、そして意識が無かったとしよう。

もはや自分が生きていることも、死んでいる事すらも認識できない状況にある時、それでも心臓は心拍数を高め、フル稼働で血液を送ろうとするし、それに連動して肺は多くの酸素を取り入れるべく呼吸数を増やし、あなたにその意思が有ろうと無かろうと、生きる為に最大限のバックアップをしてくれる。

人間が生きていると言う事は実は2つのシステムによって組み上げられていて、その一つは生体として、そしてもう一つは生きていることを自覚する脳機能上の「生」があり、これらは連動し、共に人間の「生」を支えている。

従って人間の「死」には生体上の「死」と脳機能上の「死」が存在し、現代医学ではこれらは必ずしも一致した概念で捉えられていないが、人間の「生」の基本は生体上の「生」の上に脳機能上の「生」が乗っている状態と言え、これらは本質的に同じ道のりのその長さの差でしかなく、ゆえに人間が生きていると言うことは、自身が意識しようがしまいが「生きたいと願う意志」によるものであり、この観点から考えるなら、人間の「死」は如何なる事故や災害であろうと、その最後の瞬間は「自分の意思による死」と言える。

人が何故生きているのか、その理由は現代の我々には理解出来ておらず、近代医学でもこのことは解明されていない。

人類は数千キロメートル離れた「場」にある者同志が気軽に話せる時代になっても、なぜ朝目が醒めるのかすらその理由がわからないのであり、近代西洋医学は何かしらの真実のように思われるかも知れないが、その実は現象解析とその傾向による規則性を頼りにした対処方法でしかない。

癌の特効薬と言われながら、未だに日本政府が医薬品としては未承認措置を取り続けている「丸山ワクチン」、その発生の元となったのは「ツベルクリン」だったが、「ロベルト・コッホ」が発見したこの「ヒト型結核菌製剤」は、結核菌に対する免疫療法として開発されたものの、逆に病状を悪化させる結果をもたらし、このことからツベルクリンによって発生する副作用の除去を研究していた「丸山千里」(1901-1992)は、その過程で結核菌に措いては「たんぱく質」が病状を悪化させ、「多糖体」がその病状を治癒していく事を発見する。

やがて皮膚結核や肺結核の治療に、自身が開発した「多糖体」ワクチンを臨床試験し始めた丸山は、その多糖体ワクチンが結核菌と同じマイコバクテリウム属の中にある「らい菌」や、この「らい菌」が原因となって発生する「ハンセン病」にも効果があることを知るが、こうした症状に関しても臨床を続ける中で、「結核症状」、「ハンセン病」患者には癌患者が少ない事を感覚的に感じるようになっていく。

1945年ごろからこうした研究を続けていた丸山、1950年代後半くらいになると、現在でこそ結核菌保有が肺癌のリスクを高めることが確認されているが、彼の中ではこうした因果関係が確定的に思われるようになって行った。

しかし丸山が追っていた、こうした病状と癌発生リスクの因果関係は感覚的なものであり、例えばドイツ人には肥満が多く、東南アジア諸国には肥満が少ないと言う因果関係に似たもの、いわゆるこの場合その国家の経済力や食生活に直接の原因を求めなければならないものを、漠然と国家比較したようなところが有り、結果としてそうかも知れないが、「原因」は他に存在している事象に因果関係を見ていたとも言える。

だが「ハンセン病」や「結核」患者に癌発症が少ない事を、ある種確信し始めていた丸山は1965年、ついに自身が開発した「多糖体免疫製剤」、いわゆる「丸山ワクチン」を癌治療に使用するようになり、これが当時、そして今もそうだが不治の病だった癌の治療薬として、薬事審査以前に社会的関心を集めてしまった。

そしてこの事が結果として「丸山ワクチン」の存在を政府承認から遠ざけてしまった経緯が発生してくる。

                         「形のない効果・2」に続く

「ラプラスの悪魔・2」

2011年10月5日、18時58分から19時07分前後、長野県北部から富山県東部にかけて震度3前後の地震が数回発生し、細かな微動が同地域には続いていたが、こうしたことが起こってから直後、突然NHKのニュースの中で「緊急地震速報」が発表され、長野県には大きな地震が発生するから注意するようアナウンスが入る。

しかしいつまで経っても一向に大きな地震は発生せず、暫くして長野県北部で震度1の地震が発生して終わってしまった。

これは実は大失態なのだが、同じ事は日本海溝地震の後、福島県でも発生していて、この時も大きな地震が来ると発表されていながら、震度3程度の地震が発生して終わっていて、これらの誤発表の原因は気象庁コンピューターの判定アルゴリズムの不完全性に由来している。

つまり近い地域で3つ以上の小さな地震が発生した場合、気象庁の判定アルゴリズムはそれを巨大地震と捉えるようになっていて、このことは地震が起きる確率50%、起きない確率50%とするなら、起きない方を判定する事が出来ず、その反対にいつか大きな地震が発生するときは、それを反対側で判定してしまう可能性を持っている。

また常に大きな地震が来ると公共放送でニュースを止めてまで発表していながら、地震が来ないことが多くなれば基本的にはその信頼性は失われ、いわゆる「おおかみ少年」状態になって行く。
民衆は「ああ、また始まった。どうせあたりはしない」と思うようになり、緊急地震速報のそもそもの意義は失われて行き、そこへ大きな地震が発生した場合、緊急地震速報の精度の悪さが、その緊急性や非常性を失わせ、被害を拡大させる恐れすらある。

この意味で緊急地震速報は余りにも不完全であり、この制度の見直しは是非とも必要な事だと思うが、「出来ないものは出来ない」と言う責任感が必要であり、こうしたことを鑑みるなら、1995年に「地震の予知は難しい」とした地震火山予知連絡会の姿勢は、科学者の集団として真摯で責任のあるものだったと思う。

組織や自分の立場を考えるなら、専門家としてその専門分野のことが出来ないと言う事は大変勇気が必要な事だが、プロフェッショナルであるがゆえに、出来ないことは出来ない言う責任感がなければ、あらゆることに良い顔をしていると、その内国民に大きな損害を与えることが起きてくる。

1700年代のラプラスの悪魔に、気付かぬ間に心や責任を乗っ取られているのでは科学者や研究者としては失格であり、同じように現状から全てを推し量れると考え、それを信じて疑わない在り様の者は、その内いつか公の利益を大きく損なう存在となるやも知れない・・・。

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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