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私の部屋の窓のすぐ傍には大きな山茶花の木が有って、朝日が昇る頃ともなれば沢山の雀がそこへやってきてチュンチュンと大騒ぎをしている。
時折何を話しているのかと思い障子を開けると、ほんの間近に雀はこちらを見たかと思うと、一斉にパーっと飛び立ってしまう。
幾度かこの冬の時期に餌が無いのではないかと考え、クズ米を少しだけ窓辺に置いた時も有ったが、それでも彼らは近くへ来ることは無かった。
だが生物の在り様として、こうした雀の態度は正しい。
人間の持つ善意とは人間界の特定の考え方であり、一般的に生物界全てを考えるなら善意も悪意も「他」が自分に及ぼす干渉、並びに影響と言う点では全て「悪」と同じ概念、効果をもたらす。
雀に取って何が害悪になるかと言えば、生命を失う事であり、この場合捕獲される事はダイレクトな害悪だが、もし私が雀の餌付けに成功したとして、そこに雀との親交を概念しているのは私だけであり、雀は基本的にはやがて安定して餌が手に入る事から餌を探さなくなり、やがて私が消滅すれば彼らは餌を取る方法を失い、生存能力の弱い個体から死滅する憂き目に遭う。
つまり私にしてみれば善意で有っても、結果的には人間が及ぼす善意と言うものは、悪意も同義なのであり、これは気が付かないかも知れないが人間社会にも同じことが言え、「他」が例え善意であろう悪意であろうとも「自己」に干渉した場合、それは必ず悪い結果としかならない。
ゆえに生物界人間界を問わず、人は何かを、また誰かを救う事は出来ず、それを救ったと思う者こそ最大の害悪を及ぼしている者と言える。
世界的な傾向としてもそうだが、特に今の日本人は優し過ぎるし、美し過ぎる。
そしてこの事が逆に社会に対して優しさを失わせ、美しさを失わせている事に気が付いていない。
元々生物にとっての善悪はそれぞれ一つずつしか存在しておらず、その善なるところは「生存」、悪なるところは「死滅」であり、これ以外はすべてその種固有社会にとっての善悪の概念、つまりはその種の「都合」でしかない。
人間が善とする概念は、人間と言う種が持っている社会的な都合、またはその社会を維持させる為の善悪に過ぎない。
殺人は生物にとって最大の罪となる悪の概念だが、貧しさから金を奪おうとして相手に抵抗され、そこで発作的に人を殺した者は罰せられても、全く根拠のない言いがかりを付けられ、それで処刑されたイラクのサダムフセインに対する殺人罪で、ブッシュ前アメリカ大統領が懲役刑を受けることが有り得ないように、最大の罪である殺人であっても、それは国際社会に措けるその国家や人物の都合や環境でしかない。
また例えば同じ景色を見ていても、それは全ての人が同じ景色に見えているとは限らない。
人間の感情はその日時や、正確には瞬間ごとに刻々変化し、ランダム並んだそれぞれの環境や事情は無限の組み合わせを持っていて、それゆえ眼前の事実はそれぞれの人間によって微妙に違ったものとなって映る。
こうした事から人間が持つ善悪の概念は、それを支え得る根拠、正統性や権威によって支えられる事になるが、その正統性や権威と言うものは実態を保持できない。
言わばその国家や民衆の上に漂う薄いベールのような状態、特定の形や言語で表現できないものによって構成されている姿が正しい在り様と言える。
人間社会の善悪の概念や、それを支え得る正統性、権威は形を持ってはならず、無限に近い幅を持っている事をして存在が許されるものでもある。
しかし成熟した社会はこうした人間の基本概念に対し、狭義の理論を求めるようになり、為に民衆の要求は細分化し、より個人の事情に則した法体系を求めるようになる。
その結果「法」は細分化され、それまで形を持ってはいなかったものまでが文書化される。
言語や文書はその効用として意思疎通や記録の面を持つが、逆方向では「縛り」や「特定」と言った作用も持っていて、この方向の言語や文書は社会の幅を狭めたり、或いは幅を消失させてしまう。
しかしその一方人間の現実は日々変化し、安定しないものである事から、それまで形を為していなかったものの形が明確化されると、そこで形に現実が追いつかなくなり、ここで形はその文字通り「形骸化」し、そして社会的には綺麗な理想や言葉、美しい情景や心情が謳われながら、影ではその実態に追いつかない人間の不安定さが「闇」を増やしていく。
全く「法」を犯さずに暮らせる人間はこの世界に一人も存在しない。
「法」はあらかじめ「濃度」を持っておらねばならず、この点で一番理想的な形態は「自分が自分を律する」事であり、この場合「法」は文書化することが出来ない姿が正しいが、これが細分化され文書化されてしまうと、10%ほどの正義や理想以外は全て「非合法」となってしまうのである。
そして最後はあらゆる「法体系」が表裏に分離され、それまで存在し得た中間のグレー部分の濃度が白か黒かに決着を迫られ、白以外は全て黒に落ちていくことから、人の言葉は理想的で美しい言葉とは裏腹に、現実が汚くなっていく社会を生んでしまい、ここに一つの秩序だった「法」はその権威を限りなく低下させる、若しくは権威を消失したものとなって行く。
更にこうした状態に貧しさが加わると、その経済的な重要性が、兼ねてより権威が消失させられていた「法」を追い越し、ここに節操の無い綺麗な言葉で言い逃れた「非合法」が正統性を持ったように語られるのであり、この状態が現在の日本の姿であり、現民主党政権の姿である。
人間は白と黒の濃度の中に生きている。
しかしそれを白か黒に分離しようとして形無きものを縛ると、やがては白も黒も全てが破壊されてしまうものなのである。