「有難うございました」

短い間でしたが、こうして記事を通して広く親交を頂きました事に付き、
深く、深くお礼申し上げます。

突然ではございますが、「奇跡の液体」の記事をもちまして私の記事は終了させて頂きます。

以前より自身の内に思うことは、「知る者は語らず、知らぬ者ほど多くを語る」と言うことでした。

どこかで自分は人から良く思われようとしていないか、凄いと思われようとしているのではないかと言う疑問を持ちながら、こうしてブログを続けてきましたが、昨年母の死去に伴って現実的に介護と仕事、そして農作業をこなしていかねばならぬ身に取って、これ以上記事を書く作業を継続することは「現実逃避」になりかねず、ここに一つの区切りを付けたいと思います。

本来1000のランダムな記事を書くと言う目標があったのですが、冒頭にもありますように「知る者は沈黙である」気がすること、そして自身の状況、最後に残っている記事予定分の文章の重要性を鑑み、残った記事はさほどの事もなく、どこかで調べる事も可能なものでしか無い事から、これをもって区切りとさせて頂きました。

記事はこのまま残しますし、登録などの事もそのままにしておきます。
また連絡代わりにコメントされた場合も、不定期にはなりますが、拝見してご返事致します。
そしてもし私を訪ねようと思う者が有るなら、ご連絡頂ければこちらの連絡先を通知しますので、遠慮なく申し出ていただければ幸いです。

また、私は別れ際が長いのが苦手です。
それゆえ、読んで頂いた方々から惜別の言葉を頂くのは辛いので、何とぞご了承ください。

ではいつか何処かでまたお会いする時を夢見て・・・。
有難うございました。
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「奇跡の液体」



Go West - Pet Shop Boys - World卒s Armys・・・・・・

水を容器に入れた場合、その液体内部の分子は全ての方向から引力作用を受けるが、液体の表面近くの引力作用は液体の内部に限られる。
このことから液体には表面積を小さくしようとする力、即ち「表面張力」が生じるが、水の表面張力は他の液体のそれと比較すると格段に大きい。

それゆえ細い管などでは地球の重力より表面張力の方が大きくなり、重力に逆らって上昇運動を発生させるが、これを「毛細管現象」と言い、実はこうした水の作用が存在して始めて、地表より遥かに高さのある植物の先端まで水分が送られたり、或いは血圧が低い状態の動物の毛細血管まで、しっかり血液が送られたりしているのである。

液体の中では地球上で最も大量に存在する水、実に人体の60%、新生児ではその80%が水であり、これをして人体を表現するなら「水ユニット」とも言うべきものかも知れない。

従ってこれほどに重要かつ特殊な液体にも関わらず、その量の多さ、または余りに深い生物との関連性によって「有って当たり前」のように思われているが、一方でこれほど特殊な液体は地球上に存在してないほど、特殊な液体であり、言うならば水は「奇跡の液体」なのである。

水を構成する原子は水素原子と酸素原子だが、水素原子は陽性の強い原子であり、酸素原子は陰性の強い原子で、これが共有結合した両原子の電気陰性度の差が大きな分子であり、このことから水は強い「極性分子」となっている。

電気的に陽性な水素原子は、一方の水分子である酸素原子の非共有電子対の方向に近づき静電的な結合を作るが、このような水素原子を媒介とした分子間結合を「水素結合」と言い、従って水が同属の水素化合物に比して非常に高い融点、沸点であるのは、水分子同士を分離するためには「ファンデルワールス力」より強い水素結合を断ち切らねばならないからだ。

ちなみに「ファンデルワールス力」とは原子や分子の間に働く「凝縮する力」の事だが、そのエネルギーは距離の6乗に反比例する弱いものとは言え、何も無いところからすると、この力は絶大な力を持っている。

また水以外の物質では固体が液体の密度を上回り、その密度は温度が上昇するに従って減少していくが、水は固体の状態である「氷」の時の方が、液体の状態の時より密度が小さく、水の密度が最も大きくなるのは4°Cの時であり、これは極めて特殊なことである。

このことが何を意味しているかと言うと、氷は水に浮くと言うことであり、冬季間に温度が下降すると、水はまず表面から氷になっていき、密度の高い4°C付近の水が底部へと沈んでいく。
この時上層部と下層部で水が攪拌され、下層部の栄養素が上層部に供給される事で、水中生物の生存が保持されている。

さらに氷の構造は隙間が多く、そのため氷には中に多くの空気が閉じ込められ、これによって氷の熱伝導率は低く抑えられることから、氷の下に有る水の温度を急激に低下させることがない。
一定の深さが有る池や湖であれば、かなり低温状態でもそこに生物の生息を許容する環境が存在するのである。

そして水の水素結合は、先に述べたように「ファンデルワールス力」を凌駕する強力なものであり、融解によって氷が溶けてしまっても85%前後の水素結合が残存し、氷から液体となってしまった水の中でも、部分的な氷の構造「クラスター」が残っていて、こうした構造は水分子の熱運動により、絶えず構成されたり破壊されたりしている。

液体の状態の水はその温度上昇にともない、クラスター構造を壊しながらやがて沸点を迎えるが、水の水素結合が完全破断するのは、水が気体である「水蒸気」になった時であり、従って沸騰していても液体の状態にあるものは水素結合の75%を保持している。

簡単に言えば、水は他の液体と違って水素結合を切断しながら温度上昇をしなければならないことから、他の液体よりは格段に大きな「比熱」を持っていると言うことであり、この意味するところは生物の基本構造に繋がっている。

人類は実にその成分の60%が水で構成されていて、しかも「比熱」が大きいと言う事は、如何なる意味か。

多量の水分で構成されている生物に取って、比熱が大きいと言う事は、外界の急激な温度変化による影響を受けにくいと言うことであり、温度が上昇した時、水は融解熱、蒸発熱を吸収して温度を下げ、反対に温度が低下したときには凝固熱、凝縮熱を放出して周囲の温度を上昇させる働きをしている。

つまり水はただ生物の基本構成因子であるだけでは無く、そのままで有れば荒ぶる惑星である「地球」の急激な温度変化を抑制し、平均値付近から状況を大きく変動させない「安定」をもたらしているのである。

人類が地球を構成している因子かどうかは分からない。
しかし水は間違いなくこの地球を構成している「因子」であり、従って生物に都合良く水が存在しているのではない。

生物は実は水の一つの「形」なのである。

「ビーナスの否定」・2



Ciara & Usher - Turn it up (Official Music Video !) [HD]・・・・・

ルノアールはその初期、「少女」や「女」を通して、2000年を中心点とした4000年規模の対比美的価値観を描いているが、やがて当代印象派画家達がこぞって「光」に溺れる中で、感動や精神性、何よりも絵を描く事の中で「光」の持つ重要性は最も大きな要因で有ることに間違いないが、それだけでは無いことを表現し始めるようになる。

イタリアに旅行したルノアールは、ポンペイの壁画やラファエロの絵画に感動し、一時期古典主義絵画を描くようになるが、これなどは当代の印象派に対する明確な対比価値観と言うべきもので、しかもその当初のスケールが現実的時間軸に接近してきている事を示している。

いわんや芸術の本質は「創造」で有り「破壊」であり、この作業は限りない狂気と隣接したところに有って、「狂気」がもたらすものが「破壊」で有るなら、芸術や美術は常に「狂気」と言うものかも知れない。

従って破壊を行えない者は創造的作業を成し得ず、その「破壊」の範囲は全ての方向へと、また自身にまで及ばなければただの「壁紙」を作っているにしか過ぎず、その創造と思える作業も大観するなら、人類の歴史上、幾度となく循環し勃発してきたものの再興の範囲を出ないものなのである。

その上で現代社会の美術、芸術、その他あらゆる表現的美的感覚を鑑みるなら、ここに「美」に対する対比価値観が初めから矮小で有ることに気づかされる。
これはどう言うことかと言えば、「ニセの狂気」で有ると言う事、若しくは「亜正常」を「才能」と誤認したか、誤認させられて芸術的表現をしている者が多いと言うことになる。

一般的に個人主義や自由主義が蔓延してくると本来は「劣化」や「欠落」ですら「才能」と考える者が増え、ただ親の教育が傲慢だった為に社会的適合性を失なっている子供までも、いやそうした子供ゆえに、そこに芸術的才能を希望的観測として持つ親が増加し、そうした事を言われ続ける事で自身も、実は社会に対する「欠落」をして才能と信じ込んでしまう人間となっていき、元々権威でしか芸術を理解できない一般大衆の美的感覚は、経済的価値観からこれらの蔓延を許容し、為にこうした劣化芸術の増加による社会的な美的感覚の「劣化」が始まっている。

「破壊」と「劣化」は違うものであり、「劣化」と「劣勢」も違うものにも拘らず、これらが同義として扱われる社会は芸術的価値観を破壊するのではなく、美的感覚の存在自体を溶融し、それによって現代社会の価値観は完膚なきまで溶融、腐食し切ってしまっている。

その結果、現代社会の芸術、美術は全て「亜」なのであり、こうした中で価値観に混乱した民衆は、取りあえず混乱の外に在る過去の芸術や美術に価値観を見出す以外になく、これをして骨董ブームが発生してくるが、これは明確に過去より今の時代が力を失っている事を示していて、同じことは例えば街並みの設計に付いても「文化偏重」の傾向を生じせしめるが、現在文化と呼ばれているものも、それが作られた時は「当時の最先端」で有った事を誰も考えない。

南フランスのカーニュ、「ヴィラ・コレット」に晩年のルノアールを訪ねた「梅原龍三郎」画伯、彼はここで車椅子に乗りながら、不自由そうな手で絵を描き続けているルノアールからこんな話を聞かせてもらっている。

「絵を為すものは手では無く目だ、自然を良く見るといい・・・」

「ビーナスの否定」・1

「もし神が女性の乳房を創造していなかったら、私は絵を描くようになっていたかどうかは分からない」

これは「 Pierre Auguste Renoir 」(ピエール・オーギュスト・ルノアール・1841年ー1919年)の言葉だが、俗に言う印象派の画家の中でギリシャ神話に端を発する、「ビーナス」の「美」に相対する価値観の女性美を表現しようとした画家は3人、セザンヌとゴーギャン、そしてこのルノアールである。

だが芸術の世界で有ると無しによらず、基本的に男女の性差を決定的にしているのは、「女」と言う性の構造的特徴であるその性器と乳房だが、この2つの特徴の中でも、例えば衣服の上からも「男」がそれを視覚的差異と確認できる乳房の存在は、「女」そのもので有ると言っても過言ではなく、この意味に置いて印象派の3人の画家たちは、当代流行の貴婦人達の肖像画に見られる色白で腰の線の細い女性美を否定し、ある意味ミロのビーナス以前の女性美に価値観を戻したと言えるのかも知れない。

従って彼等が絵画で実践した女性美の創造は、古代ギリシャ、ローマの女性美の価値観にまで遡って女性美の価値観を否定している事になるが、こうした傾向が一連の流れで有ることもまた、ルノアールの冒頭の言葉がそれを端的に言い表している。

つまりは「女」の象徴である乳房を表現することで「女」を描く。

この事は古代から続く流れの中に有り、古くはアルテミス像に見られるように、多くの乳房を持つ神の姿から、或いは古代文明の造形でもポピュラーな、デフォルメされた乳房の表現の仕方からも垣間見る事ができるが、大きな区分で言えば全体の造形、若しくは表現の中で乳房がどのように描かれるかによって、その時代の美意識を感じることができるとも言える。

また芸術や表現は必ず「中心点」を持っていて、その対比によって表現が為されていくが、そのことは通常表現者の研究によって意識されているケースは少なく、むしろ表現者の「感覚」によって自然発生的に出現してくる。
それゆえ歴史研究や時代考証を為す者は、その時代を考える上で、時代の中で最もポピュラーなものは描かれにくいことを考証する必要がある。

芸術や表現は常に「劣勢価値観」のものである。
数が少ない、初めてである、それまでに無い表現など、いわゆるその出発点は、大きくなってしまっているものや、ポピュラーなものにその出自があるのではなく、むしろその反対側に有ると言って良い。

芸術、美術の出自は簡単に言えば「特殊性」であり、その意味に措いては必ず大きな存在や現在に対する対比が有り、その対比には必ず中心点が存在していて、その中心点の彼方に今の表現ある。

ルノアールを例に取れば、当時アカデミック化した「サロン」、その人間が作り出した議論的文化の洗練された有り様に疑問を抱き、「自然」や「アルカディア時代」の、その粗野とすら言えるかも知れない生命の力強さにこそ女性美、もっと言えば「人間美」を求めたのであり、この場合の対比中心点はギリシャ時代の美、並びにそれが復興された中世暗黒時代のルネサンス期の「美」を中心点として対比構造を描いていて、この傾向はパブロ・ピカソなども同様の傾向を持っている。

そしてこの対比構造のもう少し先か、若しくは少し手前には「狂気」が有り、「狂気」の対比構造は中心点と自身の位置が限りなく近いか、同一の場合を指し、こうしたものの周辺に軽度の「狂気」、つまりは軽度の精神障害や社会適合性の欠落因子が存在するが、この中で創造的作業を為す事が出来るのは「狂気」と、大きなサイクルを持つ対比構造が小さい対比構造へと向かう事のできる者だけである。

つまり周辺に在る軽度の精神障害や社会適合性の欠落因子は、創造的作業を行えず、逆に元々存在する芸術や美術の「劣勢」に対して更なる「劣化」や「失望」を加えるものであり、現代社会の多くの芸術家や美術家はこうした範囲の存在でしかない。

                         「ビーナスの否定」・2に続く

「小さき者が大きな者を支配する」

植物の生育上必要な元素は17種有るが、その内「N」(窒素)、「P」(りん)、「K」(カリウム)の元素は植物によって地面から大量に摂取される成分であり、従って植物にとってこれらの元素はもっとも不足しがちな元素となり、一般的に「肥料の三要素」と呼ばれるものはこの「窒素」、「リン」、「カリウム」の三元素を呼称する。

また植物生育諸元素17の中で「酸素」「水素」「炭素」は水や二酸化炭素から摂取されるが、それ以外の元素は土壌から水によって溶解された「イオン」の形で植物に摂取され、自然界では植物が発展を終え枯れてしまうと、それまで植物が根の部分から摂取した育成諸元素は再度土壌に帰化するが、農業上育成された植物は、その収穫された部分が発育するに要した元素の分だけ、土壌中から諸元素を消失させる。

この為農業上の育成植物栽培に用された土壌は、基本的には植物育成諸元素が失われていく事から、そのままでは植物の育成は困難となり、他からその失われた諸元素を補給しなければならなくなる。

高等植物を構成する元素比率は「酸素」45%、「炭素」45%、「水素」6%、「窒素」1・5%、「カリウム」1・0%、「カルシウム」0・5%、「硫黄」0・4%、「マグネシウム」0・2%、「リン」0・2%、「ケイ素」0・1%、「塩素」100ppm、「鉄」100ppm,「マンガン」50ppm、「ホウ素」20ppm、「亜鉛」20ppm、「銅」6ppm、「モリブデン」0・1ppm となっている。

そして窒素は植物細胞を構成するたんぱく質や「核酸」を構成する為の、植物にとっては最も重要な元素であり、窒素が不足した場合、その葉は黄色になってしまい、枝分かれも少なく、茎も細いものになってしまう。

同じように「リン」はDNAやRNAなどの「核酸」、ATPやリン脂質などを構成する重大元素であり、これらは若芽や種子などの他、成長原点、つまり「根」などに多く含まれていて、植物の発芽や細胞分裂に取って無くてはならない元素であり、「カリウム」は植物細胞内の浸透圧調整に関係する元素となっているが、デンプンやたんぱく質の合成、蓄積にとっても重要な元素である。

従って植物は「窒素」が与えられると葉の色が綺麗な緑色になり、枝の分岐も多くなり、植物全体が勢いを増していき、「リン」を与えると花や芽の形成が促進され、「カリウム」を与えると果実が肥大化するのを促進する為、一般的に植物の葉や茎が成長する時期には「窒素」、開花時期には「リン」、果実や種子が大きくなる時期には「カリウム」が多く必要とされると言われている。

1800年代初頭まで、植物の成長には有機物の腐敗によって発生する「腐植」が必要だとされ、こうした説を「腐植説」と言ったが、これに対して1840年、ドイツの「ユスツス・リービッヒ」(1803年ー1873年)は、植物の生育にはリンやカリウムなどの鉱物が必要であることを発表し、こうした説を「腐植説」と区別して「鉱物説」と言った。

また彼はこれに付随して、「植物の生育に必要な元素はそれぞれに付いて必要とされる最小限度量が決まっていて、その植物の生育は必要元素がもっとも不足している元素の元素量によって支配される」とし、この理論を「リービッヒの最小律」と言う。

更に例えば植物の必要諸元素の内、酸素や水素の量が少なくても、それは元の必要最小限量が多い事から大きな影響とはならないが、元々必要最小限量の少ない鉱物元素が少ない場合、その植物の成長は致命的なダメージを受ける。
この事から植物の成長は、その植物が必要とする元素の中で最小限度量が少ないものほど、植物の成長を支配し易いと言う事もまた言えるのである。

そしてこうした原理はまた人間社会の株式相場、市場原理、それに「多数決」の原理に類似している。
民主主義の原則である多数決は、実は少数意見をどう扱うかによって、その成否が決まってくる。

より多数の意見をして少数意見を封殺、そして事を決した場合、そのことは数による専横であり、ここから発生してくるものは対立となって表面化し、万一その決議に欠陥が生じた場合、少数意見者の協力が得られないばかりか、その手法を巡って二度と再び多数意見者は少数意見者の同意を得られなくなる。

ここに多数決の数の専横は、民主主義とは相対するものとなってしまうのであり、そもそも多数決はより良い方法や問題の解決策のためであるにも関わらず、そこで「勝った負けた」のような感情を生じせしめるような多数決は、感情論による多数独裁とも言うべきものなのであり、これを繰り返している政治は、初めから民主主義を放棄していると言っても過言ではない。

少数意見の全てが正しいわけではないが、植物と同じように、民主主義は少数意見、小さな意見を大きな全体にどう反映するかが重要なポイントになってくる。
多くの意見が調和し融合して一つの目的が為されるなら、それはまるで青い葉を見事に繁らせた巨大な植物のようなものともなれるだろう。

しかし互いがいがみ合って、「数の少ないものなど如何程のことや有ろう」では、いつかその数の少ないものをして大きなものが致命的なことになるか、それをして気付かない内に秩序を崩壊させていく事になる。

自然に生きる動植物の在り様は大変厳しい。
だがこの厳しさが生きる力とも言えるものだ。

政府や官僚制度を批判する事も大切だが、民衆も今一度自分が何者なのかを考え、自分が生きること、この地球上の一つの生物としての在り様を鑑みるなら、自然の驚異や自身が生きることまでも、いつしか政府や行政に責任を求めてはいないか、安全に幸福に暮らせることが当たり前だと思っていないかを、考えてみる必要が有るのではないか・・・・。

生物にとって生きることは、実は至難の業であり、かつ生きる事こそが自身存在の意義ではないのか・・・。


「ランダム33%」・2



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地震発生前に動植物が示す異常行動を解析すると、それが地震を何らかの理由で察知している可能性が一つ、そして地震以外の理由で異常行動を示している可能性が一つ、最後にその個体の特殊事情が比較的広い範囲で発生する可能性、これは例えばウィルスの感染などがそれに相当するが、こうした3つの可能性に大別する事が出来る。

その上でこの3つのケースの中で、通常行動ではない異常行動が地震発生を予見していたする可能性を最大33%とするなら、動植物の異常行動が3回有った内、その中の1回が地震を予見している事になるが、その3回の異常行動の何回目に地震が発生するかと言う確率の確定性は、同じ事象の複合性と、他の異常現象の増加によってしか担保されない。

つまり、動植物の異常行動が地震を予見している確率はその事例が多くならないと確定性が低いのであり、これに実際の地震発生時に措けるエネルギー解放のタイミングの平均数値は、やはりほぼ32%であることから、地震発生エネルギーが「極」を迎えても、実際に地殻や岩盤が破断し、断層が動く確率の平均も大体3回に1回であり、それが何回目に来るかは分からないものなのである。

だから地震発生前、間違いなく地殻エネルギー変化を捉えて動植物が異常行動を起こしたとしても、それで地震が発生する確率も3回に1回と言うことになり、ここに例えば動植物の異常行動が、ある特定の種のみにて発生した場合の確率は常に動いている数値となるが、その平均数値はほぼ3%と言う事になり、これに他の物理的異常現象が加わって行くと、最大で15%前後の確率になり、この確率が低いかと言えばそうではない。

実に7回に1回が的中する確率であり、地殻や断層が動く場合、その7回が1日で発生してくる可能性も、2年後に発生する可能性も持っている。

従ってここで人間が取れる判断と言うものは、動植物の異常現象が頻発した場合、呪いの人形の部分である地殻や断層エネルギーを換算しないで、異常行動のみの33%を想定するのが実態に則した確率と言うものになり、その3回の内最初の1回目に大地震となる確率も33%かと言えばそうではなく、ここで冒頭のサイコロを10回振ったとして、最初の3回で連続して1の目が出る可能性が、「ランダム」の中の「非ランダム」に存在する事から、平均数値は33%でも、それは安定した数値統計とはならないのである。

それゆえ地震発生の前に起こる動植物の異常現象では、まずそれが広範囲に発生した場合、最初の1回目から警戒すべきなのだが、これを妨げているものは人間社会の「経済」と言う部分であり、ここに本来自然災害に対する基本的責任が「自己責任」にしかならない事を知りながら、「安全基準」などと言う全く根拠のない数値目的、希望的観測を政府や行政が定めた場合、本来誰か特定の人間や、その人間が集合した組織などが責任を負いきれない、「自然」と言うものを人間が担保すると言う「矛盾」を発生せしめ、やはりここでも人間は「法」と同じ過ちを冒す。

本来自然災害に対する供えや防御策は「生きる」と言う生物の本質に鑑みるなら、それはその責任は個人に付託されなければならないが、この事を権威である研究機関や行政が数値を示して基準を設けると、その数値以外は全て個人の責任が免責されたかのような現象を起こし、結果として実際に災害が発生した場合、政府や行政は責任を負い切れなくなり、勇ましく、また優しく綺麗な言葉とは裏腹に何も出来ない状態を発生させてしまうのである。

さて、最近どうやら横浜や東海では鯨の子供が砂浜に打ち上げられているようだ・・・。
その事例はまだ少ないが、本来鯨の子供はそんなに頻繁に個体集合から外れる事の無い生物だ。
そして横浜や東海付近にはプレート境界が存在している。
呪いの人形の袖は風で揺れているのか、それとも呪いがそろそろ始まろうとしているのだろうか・・・。

「ランダム」33%がどこかで首をもたげていなければ良いのだが・・・。

「ランダム33%」・1



Jennifer Lopez Nayer & Mohombi ft. Pitbull - On The Floor Suavemente(dj Moshe Barkan Remix)・・・・

あらゆる確率の世界はその原因が2つ以上になると確率の概念をを失い、ここにその原因の一方が未知なるものを包括している時、そもそも確率は存在していない。

またこの宇宙に措ける確率の平均は「ランダム」で有り、尚「ランダム」は「均一性」と言う法則の中にある事から、物理学的にはこの宇宙全体では「ランダム」と言う確率的平均値を持っていても、それはあらゆる「非ランダム」の概念的平均のことであり、この宇宙には「ランダム」と言う法則性すらも存在する事が出来ない。

従って我々人類社会が持っている確率や統計上の傾向と言うものは、「非ランダム」の部分を捉えて一時的な傾向を見ているだけであり、あらゆる統計上の傾向は、時間経過や空間的な相異で特殊ケースが発生し、最後はそうした特殊ケースが統計上の基本数値を上回り、やがて平均的ランダム数値に近付いていく。

サイコロを振って1の目が出る確率はランダム数値の中では決定している。
しかし10回サイコロを振って、最初の3回に連続して1の目が出ることは有り得る。
この場合サイコロを振る回数が増えるに従って、決定している1の目が出る確率に近付いていくが、1の目は常に平均に現れて来ないことから、その一時的な時間軸を切り取るなら、そこに本来存在しているはずの無い、1の目が出る傾向のようなものが概念されるようになる。

おかしなものだが、確率的平均値は確かに存在していながら、そこには空間と時間によって常に「非ランダム」が存在する事から、全体的には「ランダム」が存在しても「ランダム」は有り得ず、常に実態は「非ランダム」の中にある事になり、これは生物界や人間の経済の仕組み、気象や災害でも全く同じ原理性を持っている。

それゆえ人間の持つ確率と言う概念や統計の概念は、時間経過や空間的な相異によって必ず不安定な状態にあり、ここに一つの確率や統計を秩序と考えるなら、その秩序は時間経過に伴って崩壊し、そこに現れるものは新たな「非ランダム」、つまりは秩序の種と言うものであり、この秩序の種がやがて大きくなって一つの秩序を形成するも、またそれは「ランダム」と言う波に洗われ、ランダムの中にある次の「非ランダム」によって崩壊させられ、その崩壊を導いたものが次の秩序となって行くと言う連続性を持っている。

つまり我々が持っているあらゆる気象学的統計、または地震発生時に措ける物理的統計数値も非科学的統計数値も、同じようにいつかはランダム数値に近付き、それは統計的傾向を失っていくものだが、ここに宇宙の時間軸の概念を数億年単位とするなら、人間界が持っている時間軸の概念はせいぜいが数千年単位であることから、こうした短期の時間であれば「非ランダム数値」を確率や統計上の傾向とすることもできるが、冒頭でも述べたように、確率は回数が増えていくに従ってランダム数値、「平均確率性」へと変化していく事から、統計の持つ基本性は1回事象が増えていくごとにその精度を少しずつ失って行く。

気象を例に取るなら、せいぜいが数十年は同じ傾向の気象条件が続いても、やがては「かつて無い猛暑」や「かつて無い気象条件」、それに「かつて無い強大な低気圧」が発生してきて、その結果過去のデータ的数値の重要性は、おそらく数千年単位では皆無になって行く。

同じように地震発生時に措ける予測に関しても、1回大きな地震が発生する度に、その地震は特殊な地震だったと言うことになるのだが、これは地震の持つランダム数値近似速度が気象よりは速い、言い換えればそれだけ未知の部分が多いと言うことになるのである。

ゆえに地震発生予測は毎回ごとに過去のデータとは僅かに違った傾向を示して行き、これは科学的解析も非科学的解析でも同じ事で、科学的解析では数値変化が起こってくるのに対して、非科学的解析では事前現象に誤差が生じてくる。

大正時代の関東大震災の時は魚の異常も多く確認されたが、例えば地震発生前、川を遡ってきたのはイワシだった。
しかしこれが北海道南西沖地震の時はヒラメの大漁になり、阪神淡路大地震の時はボラが川に集まっていると言う具合で、その事前現象では同じ魚でも、種類がそれぞれに違っているのである。

また過去、私は地震に関して「呪いの人形」の例を2回引用しているが、人間は全ての事象を化学的解析に頼ろうと考える傾向にあるが、本来動くはずの無い人形の着物の袖が動いたとして、この場合科学的解析では「風」をその原因とするのが一般的だが、同じ事象が何万回と繰り返された場合、それが全て風のせいだと言い切ることもまた困難になって行く。

自然に起こる現象の全てが科学的解析可能ではない事から、例えば数万回に一回は呪いで人形の袖が動いていても、それが呪いだとは判断できないものなのであり、こうした事態ではその理由を探る事よりも事実に重要性があり、地震発生前の動植物の異常行動を鑑みるなら、そのことの原因を探ることは困難だが、その事実が有って何が起こったかは分かっている訳だから、ここから統計的確率を導き出す事は可能ではあるが、こうした確率も回を増すごとに非統計性、ランダム方向に動いていく事を忘れてはならない。
                                                     「ランダム33%」・2に続く

「形無きものに形を・・・」



Rino Santaniello:Till the world get back tonight (Alexandra Stan,Ne-Yo,Pitbull & Britney mash up)・・・・

私の部屋の窓のすぐ傍には大きな山茶花の木が有って、朝日が昇る頃ともなれば沢山の雀がそこへやってきてチュンチュンと大騒ぎをしている。

時折何を話しているのかと思い障子を開けると、ほんの間近に雀はこちらを見たかと思うと、一斉にパーっと飛び立ってしまう。

幾度かこの冬の時期に餌が無いのではないかと考え、クズ米を少しだけ窓辺に置いた時も有ったが、それでも彼らは近くへ来ることは無かった。
だが生物の在り様として、こうした雀の態度は正しい。

人間の持つ善意とは人間界の特定の考え方であり、一般的に生物界全てを考えるなら善意も悪意も「他」が自分に及ぼす干渉、並びに影響と言う点では全て「悪」と同じ概念、効果をもたらす。

雀に取って何が害悪になるかと言えば、生命を失う事であり、この場合捕獲される事はダイレクトな害悪だが、もし私が雀の餌付けに成功したとして、そこに雀との親交を概念しているのは私だけであり、雀は基本的にはやがて安定して餌が手に入る事から餌を探さなくなり、やがて私が消滅すれば彼らは餌を取る方法を失い、生存能力の弱い個体から死滅する憂き目に遭う。

つまり私にしてみれば善意で有っても、結果的には人間が及ぼす善意と言うものは、悪意も同義なのであり、これは気が付かないかも知れないが人間社会にも同じことが言え、「他」が例え善意であろう悪意であろうとも「自己」に干渉した場合、それは必ず悪い結果としかならない。

ゆえに生物界人間界を問わず、人は何かを、また誰かを救う事は出来ず、それを救ったと思う者こそ最大の害悪を及ぼしている者と言える。

世界的な傾向としてもそうだが、特に今の日本人は優し過ぎるし、美し過ぎる。
そしてこの事が逆に社会に対して優しさを失わせ、美しさを失わせている事に気が付いていない。
元々生物にとっての善悪はそれぞれ一つずつしか存在しておらず、その善なるところは「生存」、悪なるところは「死滅」であり、これ以外はすべてその種固有社会にとっての善悪の概念、つまりはその種の「都合」でしかない。

人間が善とする概念は、人間と言う種が持っている社会的な都合、またはその社会を維持させる為の善悪に過ぎない。

殺人は生物にとって最大の罪となる悪の概念だが、貧しさから金を奪おうとして相手に抵抗され、そこで発作的に人を殺した者は罰せられても、全く根拠のない言いがかりを付けられ、それで処刑されたイラクのサダムフセインに対する殺人罪で、ブッシュ前アメリカ大統領が懲役刑を受けることが有り得ないように、最大の罪である殺人であっても、それは国際社会に措けるその国家や人物の都合や環境でしかない。

また例えば同じ景色を見ていても、それは全ての人が同じ景色に見えているとは限らない。
人間の感情はその日時や、正確には瞬間ごとに刻々変化し、ランダム並んだそれぞれの環境や事情は無限の組み合わせを持っていて、それゆえ眼前の事実はそれぞれの人間によって微妙に違ったものとなって映る。

こうした事から人間が持つ善悪の概念は、それを支え得る根拠、正統性や権威によって支えられる事になるが、その正統性や権威と言うものは実態を保持できない。

言わばその国家や民衆の上に漂う薄いベールのような状態、特定の形や言語で表現できないものによって構成されている姿が正しい在り様と言える。
人間社会の善悪の概念や、それを支え得る正統性、権威は形を持ってはならず、無限に近い幅を持っている事をして存在が許されるものでもある。

しかし成熟した社会はこうした人間の基本概念に対し、狭義の理論を求めるようになり、為に民衆の要求は細分化し、より個人の事情に則した法体系を求めるようになる。
その結果「法」は細分化され、それまで形を持ってはいなかったものまでが文書化される。

言語や文書はその効用として意思疎通や記録の面を持つが、逆方向では「縛り」や「特定」と言った作用も持っていて、この方向の言語や文書は社会の幅を狭めたり、或いは幅を消失させてしまう。

しかしその一方人間の現実は日々変化し、安定しないものである事から、それまで形を為していなかったものの形が明確化されると、そこで形に現実が追いつかなくなり、ここで形はその文字通り「形骸化」し、そして社会的には綺麗な理想や言葉、美しい情景や心情が謳われながら、影ではその実態に追いつかない人間の不安定さが「闇」を増やしていく。

全く「法」を犯さずに暮らせる人間はこの世界に一人も存在しない。

「法」はあらかじめ「濃度」を持っておらねばならず、この点で一番理想的な形態は「自分が自分を律する」事であり、この場合「法」は文書化することが出来ない姿が正しいが、これが細分化され文書化されてしまうと、10%ほどの正義や理想以外は全て「非合法」となってしまうのである。

そして最後はあらゆる「法体系」が表裏に分離され、それまで存在し得た中間のグレー部分の濃度が白か黒かに決着を迫られ、白以外は全て黒に落ちていくことから、人の言葉は理想的で美しい言葉とは裏腹に、現実が汚くなっていく社会を生んでしまい、ここに一つの秩序だった「法」はその権威を限りなく低下させる、若しくは権威を消失したものとなって行く。

更にこうした状態に貧しさが加わると、その経済的な重要性が、兼ねてより権威が消失させられていた「法」を追い越し、ここに節操の無い綺麗な言葉で言い逃れた「非合法」が正統性を持ったように語られるのであり、この状態が現在の日本の姿であり、現民主党政権の姿である。

人間は白と黒の濃度の中に生きている。
しかしそれを白か黒に分離しようとして形無きものを縛ると、やがては白も黒も全てが破壊されてしまうものなのである。



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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
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