2012/04/28
「是以、石の神」
「翠萌ゆ蓬日よ、母の背に揺る幼子の、紅き頬にも花の散るらん」おそらく江戸の末、明治の初めまではこの道が村人の本当の生活道路だったのだろう。
むかしの田舎には谷を通る道と、山の頂上付近を通る道の二つの道があったものだ。
谷の道は装束で言うなら「普段着」、そして山の頂上を通る道は「よそ行き」と言うべきか・・・。
谷をつたって行く道は山を大回りして行かなければならないから、どうしても時間もかかり、距離も長くなる。
それに比して山の頂上の道は頂点を辿って行く分距離は短くなる。
それゆえ人々は村の中を行き来する時は谷の道を歩き、隣村など少し遠くへ行くときは山の頂上の道を歩いた。
そしてこうした山の道には必ずと言っていいほど、通る人が一番不安になってくる「場」と言うものが出てくる。
おかしなもので、道には特に何も無くても大方の通行人が不安になる箇所が出来てくる。
だからそうした皆が不安になる「場」にはいつしか何らかの「神」なり「仏」が置かれていたものだった。
もしかしたら「道祖神」の始まりとはこうしたことなのかも知れないが、私の住んでいる村の山道にも「石神」と言うものが有って、今でこそ通る人もいなくなってしまったが、それでも山菜やキノコが採れる時期には、道端に咲いている花などがこれに供えられていたりする。
幼い頃、私の家は農家と炭焼きを生業としていたことから、私はこの山の道を良く通ったものだったし、その頃は隣村の僧侶などもこの山道を通って村へやってきていた。
結構通行人の多い道だった。
その「石神」はちょうどもう少しで山の頂上に差し掛かる手前に有って、形としては三角なのだが、見ようによっては古装束の武士が座っている形のようでもあった。
畳4枚分ほどの場に、それは西を向いているのだろうか、苔むした長さ1m、高さ70cmほどの石が地面の中から頭を出していたが、いつ頃からそこに有ったのかを知る者もいなかった。
村の長老ですら、いつから有ったのかは知らなかったが、私の両親などはそこを通ると背中の荷物を降ろし、近くを流れている、小川と言うのもおこがましいほどの細い水の流れから、手で水をすくって飲み、手を合わせてから一休みしていたものだった。
当時まだ「神」が何なのかを知る由もない私だったが、そんな両親の真似をして水を飲み、そして手を合わせた。
こんな春の日、そこを通ると誰が供えたのか山桜が飾られていた事があったが、幼い私はこの「石神」に桜の花が飾られていると、どこかでホッとした気持ちになったものだったし、何故か理由は分からないが「石神」に桜はとても似合っているように思えた。
あれからもう40年の歳月が流れた。
村の祭りの前日、ちょうど今年の当家が自分の順番だった事から、祭りに使う「榊」を取りに山に入った私は、そう言えばくだんの「石神」はどうなっているのか気にかかり、必要なだけ「榊」を手に入れたにも拘らず山の頂上付近まで足を伸ばした。
「石神」は荒れ果てていた。
杉やヒノキの葉が落ち、「場」こそあるものの、ゴミだらけと言う感じだった。
哀れな気がした。
神に対して哀れとは何事かと思う気持ちも有ったが、それ以上に淋しかった。
多くのここを通る人々を淋しさから救い、ある者は村を出る最後に「願」をかけて旅立ったであろう、そんな「石神」が今は誰もこの道を通る事も無くなって荒れ果てている事が悲しかった。
早速落ちている木の枝や落ち葉を手でどけて、やはり今も流れている水を手で何度もすくい「石神」を洗い、古くはなっているが近くに転がっていた花瓶代わりの竹筒2本を地面に固定し、そして辺りを見回したが、少し離れた道の向かい側の山に「山桜」が咲いているのが見えた。
「おお、あれをお供えしよう」
そう思った私は今度は山桜を取りに向かいの山へ入ったが、手ごろな枝振りの山桜には花が数個しか咲いておらず、昔見た華やかさからは遠いものの、それを飾って手を合わせると、何故か「石神」が笑っているように見えた・・・。
道と言うものは「人」だと思う。
だから多くの人が通る道は大きな道になり繁栄するが、人が通らなくなればその道は細くなって、やがて消えて行くのが良いことなのだろう。
そして時が巡り、いつかその道が必要とされる時が来れば、道はまた広く大きくなる事だろう。
その時が来たら、未来にここを通る人をよろしくお願いしますよ・・・。