「亡霊思想」・2

それゆえここで言える事は、もはや石油エネルギーの支配で国際社会を支配することはできないのであって、また支配できるシステムも存在していない事であり、ここを支配した国家が世界を牛耳ると言う理論は既に幻想でしかないが、未だに「石油を支配する者は世界を征す」の考え方が一般庶民はもとより政治の世界でも主的な考え方になっている点は、極めて時代遅れとしか言いようが無い。

石油の価格決定権はメジャーやOPECを経過し、1980年以降はニューヨークの先物取引市場に移行している。
つまりもう誰も独占してそれをコントロールする事ができなくなっているのであり、そのことが石油価格の不安定化を招いているが、一方で完全に自由化されていると言うことなのである。

現在発生しては沈静化している石油価格高騰は、決して産出石油量の絶対量不足ではなく、むしろ幽霊を恐れて逃げているようなものであり、その幽霊とは中国の石油消費に対する恐れ、また世界的な金融不安から来る国際資本の石油避難、また情報の高速化によってローカルな地域での政治的な理由による、部分的石油不足が全体の漠然とした恐れを生む傾向を指すが、この事を学識経験者や政治家が全く理解していない。

こうした幽霊は決して実態の石油不足を反映していないのだが、第一次世界大戦当時の歴史的背景が現在に至っても考えられ、中国などがアフリカや中東に見せる資源調達外交に、中東を囲い込む対抗措置を考えるアメリカの政治姿勢などは、双方共にまさに「何を考えているのか」と思わざるを得ない。

市場の独占は不可能だし、石油は金を出せば買える。
大切なのは石油を買えるだけの経済力の発展であり、ここで石油市場の独占を考える方も、またそれを阻止しようとする方も、現実を全く分かっていない。

中国はスーダンやベネズエラと言った、アメリカが快しとしていない国家で資源外交を積極化し、政治的に石油確保に動き、この事をして水面下ではアメリカ、中国両国の関係が緊張化しているが、こうして石油消費国による政治的な動きが発生すると、そこから石油産出国の資源ナショナリズムが発生する。

中国の時代遅れの発想によって国際石油市場機構が脅威にさらされるのではないか、そんな漠然とした恐れが国際的な反動の連鎖を引き起こし、資源ナショナリズムが発生すると、資源開発投資が圧力を受け進行しなくなる。

いわば幽霊を恐れてすくんでしまった状態が起こる訳で、このことが更なる石油不足に対する過剰な不安を市場に与えると、石油価格の高騰は中々おさまらない、若しくは上がるときは大きく、下がるときは小さくの状態で、結果的に価格が高騰していく現象を引き起こす。

中東を囲い込んだところで、また地理上の国家を幾ら集めようと、石油市場を独占することはできない。

今や石油資本は完全に「価格」でしか動かない事を理解しない各国の政治姿勢は、やがてその行動をしている国家自体の首を絞める事にしかならず、漠然とした根拠のない恐れが現実に庶民生活に影響を与えるとしたら、過剰な恐れや未来に予想される謂れなき恐れによって今を支配されている事はまことに不利益なことである。

ものが必要なだけ手に入っているのに、いつかなくなるのではないか、まだ欲しい、もっと欲しいと思う、まさしく餓鬼の領域と言うものだ・・・。
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「亡霊思想」・1

「石油の一滴は血の一滴」、これは第一次世界大戦当時のフランス宰相クレマンソーの言葉だが、石油が「戦略商品」と言う感覚はこの時代から始まり、確かにその後の太平洋戦争勃発の原因は、アメリカによる対日石油禁輸政策が引き金になっているが、当時の石油消費傾向を見てみると、それは殆どが「軍需物資」だった事が分かる。

第二次世界大戦当時、石油は発電や輸送用にも使われない訳ではなかったが、例えば当時の日本の石油需要の42%が軍事用であり、こうした傾向は他の国々でもそう大きく変化するものではなかった。
しかしアメリカではこの当時から既に自家用自動車が普及し石油が一般商品化し始めていた。
このことから結果的にアメリカ一国が、石油商品に関しては抜きん出たシステムを持っていた。

それが石油カルテルと言うものであり、第二次世界大戦までは世界の62%の石油をアメリカが生産し、石油産出国も二桁を超えない程度でしかない状態で、アメリカ、イギリス、オランダの国際石油資本、いわゆる7大メジャーがカルテルを組んで石油市場を完全に支配していた。

太平洋戦争当時、何故日本に対して石油禁輸を徹底できたかと言うと、こうした石油市場の独占性が存在したからだ。

だが1960年以降、軍需エネルギーはより効率的で莫大なエネルギー量を持つ「核」や「プルトニウム」に移行し始め、石油は産業、発電用に需要が変化し、しかもこの消費は爆発的な発展を遂げ、その後は自動車の普及などによって交通、運輸需要へと変わって行ったが、日本のように資源の少ない国は、相変わらず他の諸国より若干産業用エネルギーに占める需要が高いものの、現在に至っては石油の世界的な産業用の需要シェアは大幅に低下し、軍需シェアに至っては限りなく0に近い。

つまり石油はもう「軍需物資」でもなく、また小麦のように産業の基盤を支える独占的シェアを持つ商品とは別の商品になっているのであり、この意味では「戦略商品」ではなくなってしまっているのである。

また第二次世界大戦当時は存在した7大メジャーなどの市場独占カルテルに付いても、現在では石油産出国も70以上になり、1940年代は水も漏らさぬ完全カルテルだったメジャーの市場独占率は、現在では10%以下でしかなく、市場独占能力は完全に失われている他、OPEC(オペック・石油輸出国機構)でも市場独占率は30%台でしかない。

その上に現在では中東の石油産出シェアも30%以下であり、結束が難しいOPECのカルテルは「擬似カルテル」であり、市場独占能力は存在していないのであり、現在の国際石油市場の寡占率は、あらゆる商品の中で最低レベルにまで落ち込んでいる状態なのである。

こうしたことから石油は市場流動性の最も高い商品であり、あらゆるエネルギー源の中で最も商品性が高い、言い変えれば市場流出量が不足しない商品だと言うことだ。
太平洋戦争勃発時、幾ら金を積んでも買えなかった石油だが、それ以降の時代で同じ事が存在しただろうか。

1970年代の世界的な石油危機の時ですら、価格は高騰し各国とも経済的打撃を被りながらも、後進国は金銭的な理由で石油を買えなかったものの、どの先進国も結果的に必要量を調達できた。

市場から国際経済が必要とする石油量が消えた訳ではなかったのである。

                            「亡霊思想」・2に続く

「廃用原理」

同じメーカーの同じ車種の自動車を買っても、それから2年も経過すると、それらの自動車の性能には顕著とまで行かなくても「個性」が発生し、これは他の例えば文房具、パソコンなどでも同様の事が起こってくる。

しかし人間の場合、こうした傾向は工業生産品や人工物より遥かに深い傾向となり、このことから「個性」とは突出とその突出の為の周囲の劣化である事が分かるが、個性とまで行かなくても通常の生活でも、「使う機能」と「使わない機能」では「使わない機能」の劣化が激しくなり、これは身体的機能に限定されず、社会的な関わりに措いても「使わない機能」は加速度的に後退して行く。

宇宙飛行士が1週間、宇宙空間と言う「無重力」状態に体を置いただけで、体の運動機能、筋肉は萎縮し始めるが、これは人間の身体機能に一定の枠が存在し、しかも状態としては常に「限界」に近いところに有る事を示していて、このように限界に近い人間の体は、その瞬間に必要な機能やエネルギーをやり繰りしながら我々に日常生活を営ませてくれている。

それゆえどこかでいつも同じ場所を使うようになると、そこに通じる道は大きくなり、情報もエネルギーも頻繁にやり取りされるが、その分どこかで余り頻繁に使わない機能はどんどん萎縮して行き、最後はその機能そのものが消失する事から、いわゆる医療の現場では「安静状態」の短縮化、しいては「安静入院の短縮」が図られるのであり、一般的には「もう病院を追い出されるのか」と言った感触を持つ早期退院化の推進も、元々の考え方としては高齢者の運動機能の萎縮を進行させない為のものだった。

そしてこうした機能消失は男女の性機能でも発生してくるが、どちらかと言えば男性よりも物質欲が若干勝る女性の性機能、つまりは男性に対する欲求は、他の第一次欲求に代表される「食」、若しくは他の快楽に転嫁していき易く、男性のように感覚的性感性の場合でも、例えば「仕事」や「事業」などに転嫁されやすくなり、この事と社会的な環境の不備により、相対的結婚観が失われつつある現象を生じせしむる。

更に昨今大きな問題となっている無差別殺人、異常性犯罪に措いても、これは一つの精神的機能消失現象と考える事もできる。

運動しなければ筋肉が萎縮して行くのと同じように、社会的関係の減少は加速度の付いた社会的疎外状態を引き起こし、やがて自我とその自我が想定し得る社会の中でしか物事を考えられなくなり、これが何かの機会で実態社会での非整合性と出逢った場合、その自我でしか想定できない個人の社会感覚は破綻、若しくは極端に肯定され、あらゆる常識や道徳観念を失う。

この事が今日、社会常識やモラルを全く無視した犯罪が発生する原因ともなっているようにも考えられ、この傾向の諸原の一つはインターネット依存症に見る事が出来る。

あらゆる社会的関係よりも、インターネット上のことが優先される生活を送っている人の言動は、常に会話の展開に連続性がなく、関心のない事は全く話を聞かずに次の行動に移ってしまうが、これは実態する人間的な感覚の消失現象であり、即ち相手や人の立場を全く考えない状態になり、こうした傾向が普通のように連続した状態となっている。

その為、現代社会は被害者意識が立場上の高さを意識させる社会となり、何かで事件や事故が発生すると、「誠意」の名のものとに徹底的な攻撃が許容される社会になりつつ有るが、例えば事故などはいつ何時、自身がそれを発生させるに至るか予想できないと言う想像力を消失させているのであり、これを言うならスポーツ観戦や、その応援にも同様のイマジネーションの消失が伺える。

勝利を目指したいのは人間であれば誰でも同じだと言う事を考えず、自国選手のみを応援し、はるばる異国の日本を訪れ、試合をしている外国人選手に対する人道上の敬意が全くない。
自分の国の選手が勝てばそれで良いような有り様は、想像力の欠如以外の何ものでもなく、もし自国の選手が海外で同じような目に遭ったとしても、それでも日本と言う国は勝負に礼節のある国である事を示す余裕と言うものがない。

個性は周囲の劣化であり、これが低レベルな場合は「個性」にまで至らない「並」が特化したもののようになり、そこで起こる事は弱さがひっくり返った傲慢さであり、劣化の中の「並」に対する過剰な希望は、卑屈な行動を肯定し、これに異議を唱えるものを非常識とするに至る。

「使わない機能は失われる」
言語や考え方、思想もそれが使われない状態だと失われていくものであり、国家や民族にとって最も大きな敵は「無関心」と「道徳の欠如」であり、常に「仕方がない」を繰り返していると、「仕方がない社会」になって行くのである・・・。

「ネズミの耳のような・・」

福井県北部の山間部に在住する坂本松男さん(仮名・当時41歳)は、法事のために帰省した西の宮に住んでいる弟と2人、弟の好物で有る「山女」(ヤマメ)を釣りに行こうと言う事になり、自宅から1kmほどの山を流れる川に向かった。

兄弟と言えどお互い家庭を持つとそうそうめったに会えるものでもなく、また子供のころはこうして2人で良く釣りに出かけたものだが、おそらく兄弟で釣りに出かけるなど何十年ぶりだろう、懐しい景色と共にしばし子供の時間に返った2人は梅雨の晴れ間の蒸し暑さの中、触るとかぶれる蛾の幼虫を餌に山女釣りに興じていた。

だが山女は中々釣れず、かろうじて弟が20cm程のものを2匹釣り上げただけで、坂本さんの竿にはどれだけ深みに浮きを投げようと、一向に山女は食いついては来なかった
「昔を思いだすな・・・」坂本さんは弟に話しかける。
「兄貴は昔から釣りが下手だったからな・・・」
「そう言うな、ウグイはお前より大きなやつを釣ったじゃないか」

「兄貴、ウグイは誰でも・・・」
そう言おうとして坂本をさんを振り返った坂本さんの弟、だが彼の言葉は何故かそこで途切れてしまう。

「ウグイがどうしたって・・・」
「兄貴、上、上を見ろ」
「んっ、何だどうした」
「でっかい蛇だ、上から落ちてくるぞ」

坂本さんの弟は早く逃げろとばかりに坂本さんの上の方にかかっている栗の木を指さした。
慌てて上を見上げる坂本さん。
何とそこには体長2mは有ろうかと思われる大きな青大将が、今しも木の枝から落ちそうになっていたのである。

そして坂本さんが間一髪で身をかわした直後、その水道パイプ程も太さが有ろうかと思われる青大将は、ドスっと鈍い音を立ててさっきまで坂本さんがいた場所に落ちてきたのだった。

ウロコの一枚々々がはっきり目で見える程見事な青大将、普通青大将はめったに木に登らないものだが、何か獲物を追って登ってしまったのだろうか、地面に落ちてひっくり返り、体勢を立て直そうと必死の様子だったが、坂本さんたちにも気づいていたのか、体勢を立て直すとさほど慌てる事もなく、近くの岩肌を逃げていこうとしていた。

だが、この時また坂本さんの弟が何か大きな声を上げたかと思うと、次の瞬間彼は青大将を追って坂本さんの近くまで急ぎ足でやって来て、その青大将の尻尾をつかんで引きずり降ろしたのである。

「おい、何をやってるんだ、そんなもの捕まえてもどうにもならんぞ」
蛇の苦手な坂本さんは呆れたように弟に話しかける。

そしてこれに慌てたのは青大将だった。
まさか尻尾をつかまれるとは思ってもいなかったに違いない。
力を入れて逃げようとしたが坂本さんの弟が中々手を離さないものだから、今度は鎌首をもたげて威嚇して来た。

その姿を間近に見ることになった坂本さんと弟、だが彼らはその瞬間、完全に言葉を失った。

「何だこれは・・・」

笑って良いものか、いや笑いでは無い、何かしら得体の知れない恐怖かも知れない。
坂本さんと弟は顔を見合わせると、思わず身震いが走ったような気がしたが、無理もない、何とその青大将の頭には丸い耳が付いていたのである。

それもまるでネズミの耳のような小さな可愛らしい耳で、何かゴミが着いているのでは無く、ちょうどネズミの耳から毛が抜けたような綺麗な耳だったのである。
「捕まえて持っていこう」、そう言う弟、しかしこの山の中でこの青大将である、後で何か障りが有るといけないし、それに明日は祖父の33回忌法要だ、「放してやろう」と坂本さんは弟を諭す。

渋々とつかんでいる青大将の尻尾を放す坂本さんさんの弟、それから急いで家路に向かった2人は、家に帰ると早速件の青大将の話をするが、意外にも坂本さんの父親(当時76歳)も子供の頃、やはり耳の付いた蛇を見たことが有ると言う。
しかもやはり坂本さん兄弟が見た耳と同じように、その耳はネズミの耳にそっくりだったと言うのである。

何とも不思議な話だが、蛇の耳に関する話は山形県、新潟県、愛知県、静岡県、栃木県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、岡山県、山口県にも目撃例が有り、ここに挙げた地域には今だに証言者が存命である。

しかも蛇の耳はその地域によって青大将のの場合もあれば、カラスヘビと言う青大将よりは小型の蛇の場合も有り、シマヘビの場合もあるのだが、その耳の形は一様に「ネズミの耳」のようだったと証言されている。

世界中で蛇を神や悪魔の使いとする神話や伝説は数知れず存在する。
その意味では良くも悪くも蛇は人間と接点の大きな生物なのかも知れない。
だが、如何に多くの神話や伝説に登場しようと、耳の有る蛇に関する記述や伝説はこの日本の地方の目撃例と、グアテマラの古代神「グクマッツ」、つまりマヤ文明の至高神「ククルカン」しかない。

さて今夜の話の結文だが、それは記事を読まれた方々の各々の思いとさせて頂こうかな・・・。

「制限される権力」

「マニフェスト」と言う言葉の発祥はイギリスである。

1830年、中流階級にまで選挙権を拡大した改正選挙法案が議会を通過し、ここに改正後の状況に対応した次世代保守党の政権構想を示す必要が有った、保守党指導者「ロバート・ピール」は、1832年、「タムスワース・マニフェスト」と言う政権構想を打ち出し、これを元にして当時選挙権の資格が自己申告だったことから、有権者を組織的に増やそうとしたのが、おそらく世界初のマニフェストと、その目的だったのではないかと思う。

従ってマニフェストとは「政権公約」と同義だが、日本で最初にこの言葉を使ったのは2003年春の統一地方選挙で、「北川正恭」当時三重県知事が、知事選立候補者に対しマニフェストを作成し、それを発表して県民に信を問おうと提唱したのが始まりではなかったかと記憶している。

では何故日本でマニフェストと言う言葉が使われるようになったかと言うと、その理由は明快だ。
それまで使われていた「政権公約」と言う言葉が余りにも守られず、この言葉自体が国民に緩い拒絶反応、若しくは「政権公約」と言う言葉がイコール「信用できない」と同義的印象を与えるようになった為だ。

言葉と言うものはそれを担保する行動や現実が有って始めて成立し、その行動や現実の意味を代表する。

例えば「私はバカだ」と言いながら、しかし現実の行動では約束を忠実に守り、礼儀正しく、社会の規範となるもので有れば、「バカ」は良い意味を持ってくる。

だが言葉で上品であっても、如何に美しい言葉を口にしようと、それに対する行動が担保されなければ、やがてはその上品な言葉や美しい言葉は全く逆の意味を与えるようになっていくものであり、民主党が政権政党になった直後の日本の国民は「マニフェスト」と言う言葉に何か新しい風を見たように思ったかも知れないが、その後の在り様を鑑みるに、今に至っては「マニフェスト」など「政権公約」よりも信を失っているのではないだろうか。

一般的に集中した権力は強く効率的であり、分散された権力は弱く効力がないが、日本の中で最も大きな権力を持つ者は「内閣総理大臣」であり、本来こうした権力の集中が存在すれば、少なくとも「選挙公約」も「マニフェスト」もここまで国民の「信」を失うはずはないのだが、日本の内閣総理大臣の権力には阻害要因が存在している。

議会制民主主義の老舗であるイギリスの選挙制度は、日本のそれと大した差がないように思われるかも知れないが、有権者は各々の小選挙区で1人の候補者に1票を投じ、この際有権者の関心は小選挙区の候補者にあるのではなく、その候補者を党として指名している政党、その政党の党首に関心がある。

つまり政党は党首を立てて選挙を戦うのであり、政党の党首は選挙で選ばれれば間違いなく首相になる事から、制度上イギリスの国家元首は間接選挙で選ばれているように見えて、その実、国民から直接選ばれていて、選挙も全て政党が運営して公約(マニフェスト)を掲げて戦う訳であり、このようにして選ばれたイギリスの首相は、国民に対して直接の責任を負っていると自覚せざるを得ない。

しかし日本の議会制民主主義は中途半端さが漂う。
政党政治の政党の概念がぬるい。
日本の政党の候補者は自分で集めた資金と、やはり自分が集めた後援会などの組織を使って選挙を戦う為、選挙公約はどちらかと言えば候補者個人の解釈による公約であり、党の公約など自分の都合が悪ければ平気で無視されたり、捻じ曲げられたりする。

それゆえ日本の政党の候補者は「個人」として選ばれ、党への帰属意識よりも派閥やグループへの帰属意識が強く、この意味では政党助成金なども、結局は現職議員の自立性を高める事にはなっても、基本的には政党が捻出する資金ではない事から、政党としての結束を弱める効果しか上げておらず、党首も派閥の合従連衡によって選出され、全く安定していない。

イギリスの首相は国民に対して直接責任を負っているが、この意味では日本の内閣総理大臣と国民の関係は3重、4重にも間接的であり、直接国民に対して責任を負っていない分、内閣総理大臣の権限は分散された状態と言える。
イギリスの議会制民主主義と日本の議会制民主主義は同じように見えていながら、その入口が全く逆なのである。

またこうして「個人」が選挙で選ばれる選挙制度は、一人一人の議員の意識の中に「地元と中央のパイプ役」と言う言葉を唱えさせる下地を作ってしまい、ここでも利益誘導主体の環境が出現し、大義で一致団結する事は難しくなるばかりか、同じ傾向は政府予算に付いても言えることで、予算が地元や特定の財界に流れる道が作られ、これをして選挙資金や組織が作られ、これがいわゆる政財官の三角関係を形成し、どこかでは内閣総理大臣よりも大きな政策決定能力を持つ、若しくは内閣の政策に制限を加える能力を獲得していくのである。

日本の政党は首相決定の要綱を、イギリスのように首相が国民に対して直接責任を持つ方策にすれば、政策決定が現在よりは迅速になり、更には首相の権限も制限を受けずに済むことを理解していない。

或いは首相が権限を持つを事を恐れているのかも知れないが、そのような事では初めから自分達には能力が有りませんと言っているようなものであり、せめて政権政党の党首が首相を辞めた時は必ず総選挙する法案でも通してくれれば、現在よりは首相の国民に対する直接責任が重くなり、しいては首相も権限の制限を受けずに済むのではないだろうか・・・。

「月明かりにてプラトンを・・・」・2



Rihanna - Unfaithful・・・・・・

第二次世界大戦中、特に東南アジア戦線ではイギリス軍はさしたる戦果をあげていない。

その中で第七十七旅団の活躍は唯一の戦果と呼べるものであった。
ゆえにイギリス国内ではこの第七十七旅団の活躍を大きく賞賛する動きが起こってくるが、新聞各紙はこの第七十七旅団を指揮したウィンゲート少将を「英雄」と書き連ねていく。

しかしこうした英国本土のウィンゲート少将に対する人気は、その一方でイギリス軍インド司令部の反感をかい、その理由はおそらく自身等の怠惰からくる僻みだったのだろうが、第七十七旅団将兵の作戦損耗率が30%を超えた事を理由に、ウィンゲート少将にインパール基地での待機を命じたまま、作戦活動には参加させない方針が取られてしまう。

周囲の雰囲気を微妙に感じ取ったウィンゲート少将、彼はここで軍からの退役を考え、七十七旅団の作戦報告書を書く。

だがこの頃、どうにもビルマに展開する日本軍に比して積極性にかけるインド英国軍司令部に対し、不満を持っていたイギリス・チャーチル首相は、英国軍の非積極的展開に対しての関係書類を集めているうちに、偶然にもこのウィンゲート少将の報告書を目にすることになる。

そして少将の報告書を読んだチャーチル首相は一言・・・。
「この男は天才だ・・・」

そう言うと秘書に命令してウィンゲートを英国本国に召還し、昭和18年8月4日、食事を取りながら話をするが、その時のチャーチル首相のウィンゲートに対する印象は次のようなものだった。

「私は最高の能力を持つ男に出会った・・・」
「彼には国家の運命を担う自負心などない、しかし宗教に対する激しい信仰心と、それに支えられた過酷なまでの使命感、冷静な責任感に裏打ちされた自信がある」

「危機に人生の意義を認め、自身の判断力と決断だけを信じている、戦時に措いて、戦場の指揮官として彼ほどの適任者は存在しようが無い・・・」

チャーチルはこの直後に予定されていた、カナダでのアメリカ大統領ルーズベルト大統領との会談にウィンゲートにも同行するするよう求め、これに同意したウィンゲートは客船「クィーン・メリー号」に乗り込み、チャーチルとともに一路カナダへ向かうことになる。

カナダ・ケベックのでの会談にはイギリス、アメリカの両作戦参謀本部首脳も出席する。
今一つ冴えないイギリス軍の作戦に何か打開策はないか、そう考えたチャーチルだったが、クィーン・メリー号の船上でそうしたチャーチルの意図を感じたウィンゲート少将、彼はもしかしたらチャーチルが自分を本国に召還した時から、チャーチルの意図が分かっていたのかも知れない。

クィーン・メリー号が出航して間もなく、ウィンゲート少将は船内でチャーチル首相とイギリス参謀本部長「サー・アラン・ブルック」大将に、ビルマ制圧作戦プランを解説するのだった。
「兵力は2万6千500人、6個旅団を戦闘、補給、それぞれ半分づつ分け3つの軍に編成し、第1軍は蒋介石と共に中国雲南から、第2軍は北西部から、そして第3軍はその南部からビルマに進行し、ビルマ北部を制圧する・・・」

この計画は確かに画期的では有る。
やはりゲリラ戦であり、敵中に有って敵を分断し補給を絶つ作戦だが、その分リスクも大きく冒険的なプランだ。
穏当なブルック大将の顔色を思わず伺うウィンゲート、しかしブルック大将は「良い作戦だ」と簡単にこれを了承する。
「決まった、これでイギリス軍の展開は決まった」

プランもないまま参加しなければならなかったケベックでの会談に光を見つけたチャーチル、おそらくこの夜は少しは眠れたのではないだろうか。

ケベックではチャーチルの紹介でルーズベルト大統領に直接作戦を説明したウィンゲートだったが、彼は大きな声を出さず、またその話し方は決してカリスマ性のあるものではない。
しかし、ウィンゲートの話し方には独特の魅力が有り、彼は質問されても暫くは黙っていて、やがてそのしばらくの時間がとても待ち遠しい感じになっていくのである。

ルーズベルトもはじめはウィンゲートに質問を浴びせていたが、やがて少しずつ言葉が少なくなり、最後にはウィンゲートの説明に黙って頷いていた。
「将軍、貴下の難局を打開せんとする努力に敬意を表する」

ルーズベルトは大きな拍手を送ると共に、ウィンゲートに握手を求めた。

こうして自身の作戦に英国首相と合衆国大統領のお墨付きを貰ったウィンゲート、しかし華々しい外交の舞台での成功はイギリス軍、とりわけインド司令部には面白くなかった。

司令官である、または参謀本部である、いわゆるウィンゲートの上官を超えてウィンゲートが認められ、自分たちに命令しようと言う訳である、
これで面白い訳が無く、カナダから帰って早速作戦を実行に移そうとした時点から、ウィンゲートに対して組織の嫌がらせが始まって行く。

インド司令部に着任した早々、宿舎やオフィス、自動車などが準備されておらず、副官に聞いても「何も聞いていはおりません」と言われるのである。
参謀本部長通達が有ったにも拘らず、この有様だった。

また作戦そのものしても、「6個旅団も用意できるくらいならゲリラ戦ではなく、正規戦にすべきだろう」とか、「師団なみの兵力でゲリラ戦など聞いたことがない」と言う意見が出て、作戦はようとして進捗しなかった。

このようなインド司令部に対し、ウィンゲートは「分かった、私の命令は参謀本部長の命令でもある、それを実行できないのなら直接チャーチル首相に連絡する」、或いは「私の上官はあなただけでは無い、大英帝国首相、合衆国大統領から問題が有ればいつでも連絡するように言われています」と返し、この事が更にインド司令部の反感を高めて行った。

ウィンゲート少将には大きな目的が有ったし、その作戦には自信が有った。
いずれは兵力10万、20個旅団を率いてバンコク、やがてはハノイ、インドシナを解放してアメリカ太平洋艦隊と手を結ぶ、そんな壮大な計画をも頭に描いていた。

しかし現実の組織は厳しく、結局ウィンゲートの作戦は投入部隊が当初の6個旅団から3個旅団に縮小され、その代わりに2個旅団をグライダー部隊として、1個旅団を陸路からビルマに潜行させる事で実現した。

そしてこのウィンゲートの作戦を最も恐れたのが、日本軍だった。

日本軍のインパール作戦は、このウィンゲートの動きに対応したものだったのでは無いかと言われていて、事実ウィンゲートの2回目の兵団派遣出発時の3日後、日本軍第15軍の作戦が始まってくるのであり、インパール作戦が始まってくると、ウィンゲートの後方攪乱作戦は日本軍を大いに苦しめ、結果としてこれで補給を絶たれた日本軍第15軍は敗退していく。

ウィンゲート少将はインパールのララガット飛行場から先陣を切って出撃していく、初めて自分が指揮した第七十七旅団のグライダー部隊を見送っていた。
準備、訓練が未熟なため61機のグライダーは操縦ミスから、または過積載によってあっと言う間に28機が山に激突したり、墜落してしまった。

昭和19年3月24日、「オード・C・ウィンゲート」は作戦指揮展開中に搭乗していた飛行機の墜落事故で死亡した。

私は天才では無いが、月明かりでプラトンを読み、命ギリギリのところで、闘うことでしか自身が生きている事を確かめられないこの男の気持ちが少しだけ、ほんの少しだけだがわかるような気がする。

「月明かりにてプラトンを・・・」・1

「戦争には天才が必要だ。だがその天才が軍の中で如何に生きるかはこの事と同じではない」

イギリス軍第14軍司令官「ウィリアム・スリム」中将はその回想言の最後をこうした言葉で締めくくっているが、イギリス軍の中で間違いなく天才と言われる男がいたとしたら、このウィリアム・スリム中将が回想言で評した男、「オード・C・ウィンゲート」少将ただ一人だろう。

「我々の目標は全ての人間が平和に暮らし、奉仕の共通の機会が与えられる、世界政府機構を実現する事にある」

昭和18年2月、その小柄で痩せた男は薄い唇をしっかり結び、どこまでも青い瞳でイギリス軍特別遊撃隊第七十七旅団将兵達の前に立ったが、少し前かがみな姿勢と静かな声、それに広いひたいと言った具合で、それまでの指揮官のようないかにも軍人らしい感じではなく、どちらかと言えば学者然とした雰囲気に、将兵の多くは拍子抜けしたものだった。

また大英帝国の指揮官であれば必す出てこよう「大英帝国」「国王陛下」「伝統」などの言葉も一切出てこない。
将兵達はこうした言葉を聞き飽きてもいたが、同時に期待もしていたにも拘らず、「オード・C・ウィンゲート准将の口からは最後までこうした言葉の訓示は一回も出てこなかった。

四十歳にしてイギリス陸軍最年少の将官、エチオピア戦争で過酷な戦争を卓越した戦闘能力で切り抜けてきた「恐るべきゲリラ戦の指揮官」、そう言った異名を持つウィンゲート准将はこの七十七旅団を経て少将となるが、第二次世界大戦と言う過酷な戦争の中に有りながら、また自身がその戦争の中で軍を指揮しながら、「何かもっと大きなもの」を見ていたかも知れない。

おそらくそれは彼が持つ「宗教観」であろうし、その宗教観に裏打ちされた絶対的な自信ではなかっただろうか。

それゆえただもの静かと言うだけではなく非社交的で、このような大戦中でありながら、所詮は植民地に出向いて来ている気楽さから、イギリス軍将校達の間では毎晩のように調達した女連とパーティーが行われていたが、ウィンゲート少将はこのようなパーティーには1回も出席したことがなく、上官が命令したした場合のみパーティーに参加すると言った具合だった。

また一方作戦会議でも殆ど発言はしないが、その代わり口を開けば妥協の余地の無い断定的な意見であり、この事が「独善的」と言う影の評価を生み、人付き合いの悪さから「ごますり男」だの「出世至上主義」だの言った評価も出てくるのである。
事実彼の評価は絶対的な信頼か「はなもちならない男」のどちらかであり、「ペテン師」「偏執狂」、アラビアのロレンスの再来」「天才」と言った具合に両極端な評価に別れている。

昭和18年2月に第七十七旅団の指揮官に着任したウィンゲート少将、第七十七旅団の任務は日本軍のインフラを破壊する事にあった。
ビルマ北部に潜んで日本軍基地の糧秣や弾薬を焼き、道路、橋梁、鉄道網を破壊する任務だったのだが、将兵たちに対する訓練は過酷だった。

完全装備でぶっ倒れるまでの行軍を命令し、休息は木陰での小休止のみ、雨が降るのを待っての泥沼訓練に、ジャングルでの訓練ともなれば「蚊」、すなわちマラリア対策も必要だが、マラリア防薬キニーネの服用を厳命しつつも、「蚊帳」の使用は禁止していた。
つまり「蚊」に刺される事に慣れろと言う訳だが、食料も最小限しか持たせず、チューインガムを噛む事も禁止していた。

知っている人は知っているかも知れないが、実はハッカ入のチューインガムを噛んでいると、飢えや喉の乾きが緩和される。
しかしそれすら禁止し、「蚊」に刺されろと言うのだから、旅団にはたちまち病人が増え、将兵の70%が病気にかかったと申告する事態になる。

だがこうした事態にウィンゲート少将は「病気になる事を禁止する」と命令し、ついでに病人の看護は小隊の先任軍曹が担当すると告げる。
小隊の先任軍曹などどれも鬼のような厳しい人である。

一挙に病気の申告は旅団の3%にまで減少したが、その理由はあまりに過酷な訓練を逃れようとする将兵達が、仮病を使ってこれを逃れる事を諦めたからに他ならず、やがて実戦に突入した将兵達はジャングルの中で、ウィンゲート少将に感謝することになる。

すなわち敵に囲まれた状態で病気になると言う事は「死」若しくは「捕虜」になるかのどちらかであり、病気と言えども究極は諦めるか否かの選択である事を思い知るのであり、同じく敵中に有って優雅に「蚊帳」などつって眠れるはずも無く、ただ蚊に刺されることに慣れるしかない現実が眼前に広がっていた。

孤立無援の攪乱部隊であれば、食料の補給も十分では無く、当然食料は不足し飢餓との戦いになり、そこでチューインガムの味など論外だった。

少将の厳しい訓練、その意味は作戦の遂行にあり、しいては将兵を如何にして殺さずに任務を全うできるかである。
実践に即した厳しい訓練こそが将兵の生命を守る唯一の方法だった。
ジャングルで実戦戦闘に入った将兵達は初めてその事に気がつき、それまでは影で少将に対して不満を唱えていた者たちまでもが、少将に対して絶対的な信頼を持つようになっていった。

第七十七旅団の作戦はゲリラ戦である。
従ってこの作戦は2ヶ月で完了し、昭和18年5月前になると、七十七旅団は分散し、日本軍から逃れるようにインドへと撤退した。
敵に追われ、息も絶え絶えになりながら撤退するさなか、ウィンゲート少将は月明かりの下でプラトンの対話集を読みふけっていた。

疲れきっている将兵たちには見向きもしないその態度は、ある種の高慢さ、高下駄な印象があったが、将兵達はこうした少将を囲み、誰も不平をこぼさず次の命令を待っていた。

もはや自分たちの命はこの人にかかっている。
そしてその人は月明かりの下で平静としている。
この高慢さこそが将兵の希望だったのである。

                 「月明かりにてプラトンを・・・」・2に続く。

「見えるものと見えないもの」

「missing mass」若しくは「dark matter」とは基本的に「見えない何か」を指しているが、宇宙に存在する銀河の質量は、それを構成している光の明るさから推定される数値より、銀河の運動から求められる質量の方が10倍から100倍大きい。

例えば渦状の銀河でも、そこに存在する星の数から推定される質量より、銀河の回転速度から求められる質量の方が遥かに大きい。
このことから我々が見る宇宙は、少なくとも質量的には目に見えるものと、見えないものとによって構成されている事が分かっている。

つまり暗黒の宇宙の、暗黒の部分は「無」では無いのだが、こうした目には見えない質量のことを「missing mass」または「dark matter」と言い、WMAPなどの観測結果から、こうした「見えない質量」が占めるエネルギーは、全宇宙のエネルギーの23%に及ぶとされ、それは一体何なのかと言うと、まず質量だけが存在し光が無い「ブッラクホール」、それに微小天体、水素ガスに正体不明の粒子などの存在があげられている。

ちなみにこうした中から「銀河」だけを見てみると、「銀河系」の質量は凡そ太陽の2兆倍の質量を有するとされるが、これだと銀河を構成している星の数から推定される質量の10倍近い質量になってしまう。
実に銀河系では全質量の90%が見えない質量で構成されている事になる。

私たちの感覚では、銀河系の星々のその間には空間が広がっているように考えてしまうが、少なくとも質量的な感覚で言うなら、アメーバーのように寒天質のものの中に、光輝く星が埋まっている、そんな感じになるのかも知れない。

そして私たちが宇宙の光、恒星との距離を推し量る単位は「光年」だが、これは光が1年かかって届く距離で、約9兆4600億km。
私たちが夜空を見上げて見ている星の光は、一番近い星でも数年前にその星が発した光であり、これは最も近い恒星である「太陽」でも地球からの距離は1億5000万kmであり、厳密に言えば今見ている太陽の光は今の太陽ではない。

1億5000万kmを光の速度30万kmで割った数値、約8分19秒前の太陽の姿なのであり、更に厳密な事を言えば、こうした恒星の光の元を正せば、太陽などの中心部で起こっている水素核融合反応によって発生した「ガンマ線」である。

この「ガンマ線」は太陽中心部で発生して、太陽表面にまで届くには少なくとも300万年から1000万年かかる。
それゆえ私たちが今見ている太陽の光は、少なくとも数百万年前の「動機」が有って始めて成立している光なのである。

金環食も大変珍しいが、私たちは毎日数百万年前の「動機」が有って今の太陽を見ている。
つまりは、私たちはこの瞬間も奇跡を見ているので有って、今もこの奇跡の中に存在し続けている・・・。

「救済策と言う税制」

西暦700年前後の日本、ちょうど律令国家が最も繁栄した時代だが、この時代の所得税である「租」(そ)は田んぼ一反(いったん・991・7平方メートル)に付き稲が2束2把であり、当時の米の収量を一反当たり2俵未満(120kg)とすると、凡そ3%と言う事になる。

現代と比べると随分良心的な税制大系だが、裏を返せばこの税制は見かけ上のもので、為政者にとってはそんなに重要な税では無いと言う事なのかも知れない。
結局律令制度は農業を法的に整備支配する仕組みでもあったのだが、この時代の農民があらゆる時代を通して最も苦しく、為に日本の農業は離農者を沢山輩出する事になり、その結果律令制度そのもが衰退していくのである。

「租」の税率は確かに低い、比較的税が低率で農民からも人気が有った戦国時代初期の武将「北条早雲」でも4部6部で、4部を税としている事から考えても異様な低さが有るが、これにはからくりがある。
農民の救済策が制度化して準税制となり、公の税制である「租」を凌いで行くのだ。

それゆえ「租」の財源は地方行政を賄うために使われ、国庫はこの準税制を主体にして行くのだが、その仕組みは高利貸しである。
「出挙」(すいこ)と言う制度は元々貧しい農民を救済するために種籾(たねもみ)を貸し付ける制度だったが、それがいつしか制度化してしまい、農民は必ず国司から種籾を借りなければならなくなり、その返済は秋に5割の利息となっていた。

現代の勘定と当時の勘定は異なるかも知れないが、例えば一反の田に苗を植える為に必要な種籾が凡そ2升、それが返すときには3升となる訳で、これは最も効率の良い現代農業の勘定で有ることを鑑みるなら、春に1反当たり4升から5升の種籾を借り、秋にはそれを6升、7升5合で返さなければならず、して全体の収量が1俵から2俵だった場合、この返済は総収量の20%を超える時が有ったのではないだろうか。

しかも春に貸し付けて秋には50%の利息が付く、こんな素晴らしい金融商品など他には無いほど旨味のある制度だったが、その本旨は「農民救済」である。

そしてこうして5割の利息を付けて国司が種籾を貸し付ける制度を「公出挙」(くすいこ)と言ったが、「公」の区別が有ると言う事は民間の「出挙」も存在したと言うことで、こちらは更に凄い。

何と利息は相手次第で10倍にも100倍にもなり、貸し付ける時は小さな枡(ます)を用い、取り立てる時は大きな枡で取り立て、その取立ては大変厳しく自殺者、夜逃げが続出したが、これをやっていたのが讃岐国美貴郡の郡司の妻であり、その夜叉ぶりが淡々と「日本霊異記」には記されている。

またこの時代の税の取立人は中央から通達の有った税額を払えば職務を遂行したことになり、中央が定めた税額しか徴収してはいけないと言う決まりが無かったことから、国司や郡司は民衆から取りたいだけ取って、決まった額を中央に支払う制度だった。

ゆえ、初期一反当たりの「租」が2束2把だったものが、余りにも農民が苦しいと言うので西暦706年には稲1束5把に税が引き下げられるのだが、それ以降も農民からは稲2束2把が取り立てられ、この減税は見かけだけで全く減税にも何もなっておらず、そもそも農民は「租」に苦しんでいたのではなく、法外な利息が付く「出挙」と言う農民救済策に苦しんでいたのだ。

更には郡司や国司の妻や親族が「民間の出挙」を運営し、郡司が種籾は貸せないと言えば、農民はその郡司の妻が運営している「高利貸し出挙」を利用するしか手が無い訳である。

振り返って今日の日本は如何だろうか。
律令の時代を笑えるだろうか。
本来税制の根本となるべき「所得税」が蔑ろにされ、その枝葉の「消費税」と言うわけの分からない税制に国家が依存し、その増税を政治生命だと声高に唱える総理がいる。

また政府や行政が国民の為としている「補助金制度」は本当に国民の為になっているだろうか。

例えば行政から補助金を受け取るとき、その補助金は全体の20%、全体の40%などと言うものが殆どであり、それゆえ補助金を受ける民間事業者や個人は残りの80%、60%を賄うことで企画や事業を推進するが、結局は60%分を支出するだけに終わってしまったうえ、その成果は予算を消化したことも成績になる、行政の役人の手柄になって終わってしまっていないだろうか。

税制の基本はあくまでも「所得税」である。
だからこの税収を増やす議論がなされず、消費税が議論されるなど論外であり、所得税を減税し消費税を増税するなど、律令の時代の「租」の減税と、その裏で蔓延る「出挙」の関係に全く同じである。

そして国民救済のための補助金制度、これもどこかでは「現実出挙」になっていないだろうか。
お金と引き換えに私たち国民は一番大切なものを失っていないだろうか。
律令国家の衰退は「出挙」、それも公人が裏で運営する民間の「出挙」によって衰退した。

ちなみに正倉院の中に保存されている、当時の年間収支決済には「出挙」と言う名前の税が出て来ない。
全て「租」、「正税」と記されている・・・。

「経済の摂理」



鬼束ちひろ - 月光・・・・・

缶ビールの中に入っているビールの味は、厳密に言えば均一では無い。

重力の影響を受け、或いは器物である缶に存在する質量の影響と、分子が集積しようとする傾向力「電荷を持たない場合のファンデルワールス力」によって、その分子密度が均一ではないからだが、総量が決まっている「場」で発生するこうした不均衡は経済でもその原理は同じである。

地球と言う総量が決定的な「場」に措いて為される行為は全てに措いて「限界」が決まっている。

また「ファンデルワールス力」の本質は分子そのものが球体ではなく、為に発生する電気的不均衡によるものだが、僅かに分子レベルでもこうした状態である事を考えるなら、その分子によって構成されている生物が不均衡から逃れようも無く、更には「電荷」は水と同じように、生物をもこの一つの形とするものだ。

従って地球上に措けるあらゆる存在に均一性は皆無であり、政治や経済に措いても均一性は有り得ない。
しかも総量が決定されている世界では、どこかで集中が発生する事を避けることは適わず、為に「少ない部分」や「消失に近い部分」が発生する事も避けられない。

言わば不平等や貧富の差は自然摂理と言うべきものなのだが、これに綺麗な理想と言うラッピングをかけて、それで人間の持つ権利を謳い、平等感を演出して経済的発展を遂げようとしてきた近代、現代の経済は、あらゆる点で「矛盾」の塊だった。

その構造は集中の状態だった者同士が、その集中を継続発展する為にルールを作り、更には排他的な手法で自身等の権益を保護する為に「協調」が行われて来ただけだったのだが、「有限」の中で「無限」を想定して拡大することはできず、21世紀を迎えた今日の国際社会はこの経済の「矛盾」に対し、未だ有効な対策を見つけられないのは、ただ自然摂理、人間の本質を無視しているからだ。

最初から決定している「総量」では、その中の富もまた決定している。
それを自由競争を謳いながら国際協調するなど、右手で握手しながら足では蹴飛ばし合いをやっているようなもので、ギリシャ経済やEU、日本、それにアメリカ経済が壁にぶち当たるのは至極当然の事である。

「皆が豊かに暮らすことなど出来ない」
豊かさは貧しさによって支えられるものであり、富の集中、分散を均一化することはできず、それを目指すなら人間は力を失う。

経済の選択は大まかには2つ有って、そのどちらも結果は変わらない。
ひとつは「完全自由競争」と言うものであり、一切の規制が無く、力と頭脳で富める者とそうでない者が発生する方式だが、この方式一つが「封建社会」であり、もう一つは決定している富を公平に分散しようと言う考え方で、これが原始共産主義、若しくは社会主義の考え方である。

一般的に「完全自由主義」では民主主義が完全化してくると、個人の意見によって国家が影響を受けやすくなり、また高度に成熟した社会は劣化した状態を嫌うことから、経済が行き詰ると「公平感」や「平等感」を求め、それによって安心する社会になって行くが、この先に待っているものは「共倒れ」である。

また一方「原始共産主義」では、スタートが最低ラインの均一化から始まって、そこから発展していこうとするが、ここで発展する場合は個人に対して「自由競争」の部分が無ければ意欲が削がれることから、「限定自由主義」を付加しながら発展を目指すうちに、いつしか「完全自由主義」になってしまう。

だが、「完全自由主義」でも「原始共産主義」でも、均一化された社会は「暗い社会」であり、ここではほとんどの人が限界に近い状態でかろうじて生きている事になり、方や「競争社会」では少数の強大な力を持つ者と、そうではない大部分の者が存在する社会が発生し、多くの人が不満を持つが、いずれにしても全ての人が「まあ、仕方ない」と思って暮らす社会か、それとも少数が豊かで、大部分が苦しい社会となるかの差でしかない。

そしてこれは国家どうしを比較する事はできないが、実は死亡率と言う点で、自殺や事故死を含めると、皆が均一な社会と不平等な社会では、全体の死亡率に余り大きな変化が出ていない可能性が有る。

それゆえ今日国際社会を鑑みるに、経済破綻に対して取られる政策が、バブル崩壊時の日本の政策と全く同じで、力を必要する「正義」の選択が蔑ろにされ皆が助かろうと言う優しさに、「原則」を少しずつ削って行く方向が垣間見え、その先に待っているものが、あらゆるモラルや価値観を失った今日の日本の姿に重なって見えてくる。

強き者が生き残り、弱き者は虫けらの如くに滅びる。
これは森羅万象の理であり、こうした事実が有るからこそ人は平等を求め、優しさを求め、人を慈しむ心を持つのではないか。

何かを求める人間の心と「現実」は同じものでは無い。
皆が生き残ろうと思う事は大切だが、弱き者、悪しき者が滅ばない社会は、やがてそこから人間が生きようとする力を奪い、節操のない惨めな社会を生み、人々は更に希望を失ってしまう・・・。


プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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