「平和」



Europe - The Final Countdown・・・・・

日本に住んでいると気が付かないかも知れないが、人類と言う単位で考えた時、平和と言う状態を戦争の無い状態と定義するなら、平和が異常事態であり戦争状態が通常と言える。

かろうじて記録が残る人類史の6000年の期間に発生した戦争だけでも15100回、歴史的記録に残っていないもの、更には紛争などを含めると、少なくともこの9倍の殺し合いが発生したと言われている。

人類は平均で1年間に2・5回以上の戦争を引き起こし、これまでに紛争を含めるなら、1ヶ月に2回づつ殺し合いをし続けてきたと言う事になる。

またハーバード大学社会学部創設者であるロシア出身の「ピティリム・ソローキン」(Pitirim Alexandrowitsch Sorokin)は、その説の中で12世紀から19世紀までは、戦争期間が平和期間を超えていたと指摘し、その平和期間も次の戦争準備に充当られていたと著している。

実際太平洋戦争、第二次世界大戦以降の国際社会を考えても、1945年から2000年までに発生した内戦も含めた戦争と名が付く戦闘事態だけでも156、7回であり、戦争の無かった日は25日を超えないのでは無いかとも言われ、有史以来の総合計でも戦争の無い状態は365日を超えていないと推定されている。

その地域に戦争が無い事をして「平和」を概念する事は薄い考え方では有るが、しかしその一方、この薄い考え方は物理的現実を指し示してもいて、この事から我々が当り前だと思っている「平和常存」の概念が誤りであり、その現実は戦争こそが常存であり、平和はその隙間でしかないと言う考え方は60%の正当性を有している。

人類は自身の存在を「他」に対して担保する、最も始源的かつ最終手段である「暴力」から逃れられない現実がここに有る。
「平和」と言う概念は実は1つの現実ともう一つの概念、希望から成り立っていることが分かるが、戦争の無い状態を指す現実的平和と、古典インドや仏教など宗教の中に存在する心的、形而上の平和、この2種が混成して一般的な平和の概念となっている。

民衆が戦争の無い状態にある時、そこに存在する平和は宗教上の平和と同一線上に有って整合性を持つが、現実的平和が崩壊した場合、民衆は現実的平和を求めて宗教上の平和を膨らませ、長く平和が常在した場合は、それが人間としての権利で有るかのように錯誤するが、平和は戦争状態では無い事を指している現実は、平和そのものを担保するものが、最終的には力でしかない事を知らしめてもいるのである。

振り返って日本の平和を鑑みるなら、まことに脳天気なものであり、事の道理であれば、それはまるで世界が守って当然と思っているような非現実的な平和思想が存在している。

平和を維持しているものは武力的均衡で有る事実は疑いようが無く、それは人類史が証明している。
日本国憲法第9条は現実では無く理想であり、これを担保しているものは日本の民族的崇高さなどでは無い。
アメリカの軍事力と日本が持つ自衛隊などの軍事力、それに相互に疑心暗鬼となっている侵略希望国との均衡で、日本の平和が維持されている。

永世中立国のスイス、またはスウェーデンなども近いものかも知れないが、この両国が国際的な武力的中立国として存在出来るのは、地理的条件と国内で施行している「国民皆徴兵令」、軍事兵器開発、その装備による独立的軍事力によるものであり、理想国家として名を馳せる「コスタリカ」などもその現実は「米州機構加盟国」であり、軍隊は廃止したがいつでも徴兵令が施行できる状態に有り、市民警備機構と言う準国軍組織が編成されている。

「平和」は平和を担保できない、平和を担保するものは軍事力なのであり、この軍事力を最終的な手段とするなら、外交は軍事力を背景にした第二義的力と言う事が出来、経済はその次の力と言うことができるだろう。
ここで平和を担保するものが軍事力だと書いたが、軍事力を持てば永遠に安泰なのかと言えばそうは行かない。

常に時代に即した装備、また外交努力、経済的な安定が有って、始めてそれが国家の力となるのであり、10年前の第一義の力、すなわち軍事力は、最新の第二義的力である外交に及ばない場合が有り得るが、軍事力の完全放棄は第二、第三義力を放棄した事と同じ意味を持つ。

つまり軍事力を全く持たない場合は、外交も経済も力とはならないのである。
そして平和の概念を戦争の無い状態とするなら、この軍事力の対極にあるのが「被支配」である。
封建制度は比較的どの地域でも長い非戦争期間をもたらしているが、日本でも江戸時代には大きな戦争が存在していない。

その代わり民衆は強大な権力と武力で統治され、生きるのがやっとの状態かも知れないが、現実的平和と言う観点すれば強大な力による支配は「平和」の状態と言う事ができる。

この事から軍事力はまた支配、支配はまた平和と言う流れが存在する事も事実であり、支配は「制御」で有ることから、平和とは一つの制御、その形と言えるのかも知れない。

人類に取って制御とは大変困難な命題であり、個々の人間の自分自身を鑑みても制御は難しく、生物の基本的な本能が「拡大」にある時、制御は「破壊」や「崩壊」の意味をも包括する。

人類に取って「制御」は困難な命題となるのであり、ここで言う支配は2つの側面を持っていて、強大な力は支配する側となり微弱な力は被支配となって、人間は個々の単位でもその両方を具有し、支配は被支配にどんな形、例え皆殺しで有れ納得させなければ成立しない。

軍事力に限らず「力」が最終的にもたらすものは「破壊」だが、その破壊は破壊する側、される側双方に制御ともなる。

そして人類に取って「制御」は例えそれが人為的なものであれ、自然がもたらすものであれ同じ事であり、避けて通れない道、また避けてはならない道で有るように見える・・・。



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「第二ファイゲンバウム」

「4・6692016091029・・・」
「2・5029078750958・・・」

この2つの数字は共に規則や法則が壊れて行く時の定数だが、前者を「第一ファイゲンバウム定数」、後者を「第二ファイゲンバウム定数」と言い、この宇宙の有り様が「逆べき指数」を示している事は、あらゆる存在が混沌と秩序の中に有って、ともにその極は存在しても完全な状態が有り得ない事を指している。

また「第二ファイゲンバウム定数」は秩序から発生する「枝」と、更に次に発生する「枝」の幅比を表していて、この事から秩序の崩壊は主たる存在に対する「亜」、「小異」の発生と言う事ができる。
従ってあらゆる秩序の崩壊は「亜」や「小異」の発生を指しているのであり、崩壊とは「亜」、「小異」の発生と同義である、つまり崩壊とは創造を以て為されるのである。

人類は秩序の崩壊を恐れながら、それをどこかで望んでいる部分を持っているが、これは人類社会の原理と地球と言う物理的原理が、予め相反したもので有ることを遺伝的に学習しているからであり、しかもそこに解決策が無いことも漠然と認知しているからかも知れない。

また宇宙が持つ「逆べき指数」と、秩序、混沌は、量子力学的なあらゆる物質の不確定性にその因を求めることができ、この事から人類社会が拡大と崩壊を繰り返す歴史を鑑みるなら、そこに人為的なものを求めるより、ある種宇宙の原理であると考えた方が適当とも言える。

ヨーロッパ経済を考えるとき、現在はギリシャ経済の破綻が問題になっているが、スペイン、ポルトガル、イタリア、フランスなどもいずれ時間の問題と言う側面があり、この中で従来のEUと言う秩序を保つためには「特例」を生じせしめなければ、秩序が維持できなくなる。

つまり「債務の圧縮」と言う、言わば借金の帳消し比率を高めて、それで現体制を維持しようとする方策が出てくるが、これは現秩序維持の為に小さく秩序を壊している事に他ならない。

「第二ファイゲンバウム定数」の「枝」そのものであり、この事実が指し示すものは、「小異」を発生せしめても守ろうとする現秩序、EU体制が既に崩壊に向かっている事を示していて、間違いなくEU経済は崩壊する。
ヨーロッパ経済は「分離」に向かっての創造が始まったのであり、この事は何を意味しているかと言えば、これからの国際社会は小さく独立した形に向かおうとしていると言う事だ。

第二次世界大戦前後から始まったアメリカとソビエト連邦(現ロシア)との対立、いわゆる「東西冷戦構造」の国際社会は、その以前に個々の国家が経済的に独立してものがブロック経済構造を経て更に集積し、アメリカ合衆国とソビエト連邦と言う頂点に「極」を迎えたが、その一方の頂点であるソビエト連邦が崩壊した事から、緩やかな「極」の崩壊状態に有って、この20年前後は例えば「EU」「ASEAN」、「アフリカ会議」「中東」などと言った具合に少しブロック経済傾向を示していた。

いや国際社会がそうした傾向を求めていて、小さなものより大きなものが力を持つと考えてきた傾向に有るが、その思想の行き着く先は「国際経済」「国際協調」と言うものだった。

どの国家も単独では成り立たず、そこで少しずつ集まって行き、経済的には地球規模の一つの集積となって行った訳だが、基本的に生物の生存は「競争」によって得られるものであり、個々の人間は一見社会の中で互いに共存しているように見えて、その本質は「競争」を免れていない事から、その集積で有る国家もまた、本質的競争原理からは逃れられていなかった。

それゆえ「国際協調」と言う言葉は自国利益の為に使われて行った経緯があり、ここでは一番だらしない国から「甘え」の構造が始まり、この事が資本の有る国家の資本を、だらしない国家が甘えて吸い上げてしまう現象を引き起こして行ったのであり、この事実は国家単位だけでは無く、一般庶民も同じだった。

近いところで言えば東京電力の「国有化」もそうだろう。

いい加減でだらしない電力会社の為に我々の収めた税金が使われ、しかも節電に協力させられ、おまけに電気料金までもが値上げされる現実を鑑みるなら、一生懸命働いて真面目に暮らしている一般庶民と言うしっかりした資本から、だらしない電力会社と言う劣化した資本に資本が流れている構図は、EUに措けるギリシャと他の加盟国の構図と全く同じなのであり、ここで物理学的にこれを説明するなら、どの世界でも大体似たような事になる、いわゆる「自己相似性」「フラクタル原理」そのものだ。

世界経済は現在創造の段階に入っている。

つまり崩壊の前夜なのであり、アメリカやヨーロッパはこの20前後育んできた「ブロック経済」を何とか死守しようとしながらもがき、その一方で中東やロシア、中国はもっと小さな国家と言う単位で勝負して行く道を探ってきたが、ここに来て「ブロック経済」の持つ社会主義的劣化が腐食を始め、その腐食直前のヨーロッパ経済に依存していた中国経済は日陰に入って来た。

これから始まるものはそれぞれの国家の経済的独立であり、皮肉にもこれはギリシャの「ポリス構造」に近いものかも知れない。
おそらくこれからの国際社会は「経済的独立国家」の方向に向かうであろうし、これは縮小経済である。
資源が世界人口の消費に追いついて行かなくなる事から、まず食料危機が始まり、ここで世界はこれまでの生活の質を落として暮らしを維持する、若しくは武力に限らず「力」を持って貧しい国家から収奪し、自国の生活を維持するかのどちらかになって行く。

そしてこうした秩序の崩壊、これを嘆き悲しんではいけない。
ネジは何度も使っていると、やがてはあまくなってきて最後は使い物にならなくなるのであり、そこで新しいネジが必要なるのはものの理と言うものだ。
既に新しいネジはあちこちで創られ始めて来ている。

それが人類に取って恩恵となるか、それとも新たな苦難になるかは分からない。
だが、新しい秩序の始まりを私は歓迎しよう・・・・。

「他にいなかった、でも誰でも良かった」



恋文 (Every Little Thing)・・・・・・

DNAを作る塩基は4種類、たんぱく質を作るアミノ酸は20種有って、塩基3個の配列によってアミノ酸が決定する。
従って人間の遺伝情報が如何に膨大なもので有ろうと、その本質は4種類の塩基配列でしかない。

我々人類はこうした状況の中、生物界に措ける自身の地位を特殊なもの、崇高なものと考えがちだが、例えば個体発生に関わる男女の区別の中で一番顕著な相違が有る生殖器の分化形成にしても、その発生段階では男女2つの原基が作られ、その後に男女どちらかに分化していくように、初めから決定的なものでは無い。

また友人の友人と言う具合に、6回人を辿って行けば、全地球の人間に行き当ると言われるほど我々の世界は狭い。
それゆえ個々の人間は自分そのものを唯一の存在と考え易いが、その現実は塩基配列と環境配列の組み合わせによる「その他」の集合なのであり、2種の基本パターンの組み合わせによって発生した「亜」の連続体である。

この事から我々人類が描く「運命」と言う概念は生物学的に否定され、「自己」と」他」は細胞表面に存在している「組織適合抗原」(histocompatibility antigen)よって決定的に区分されているのであり、「特殊」と「亜」と言う基本に対する「小異」の概念は、近いか同じものと言う事ができる。

つまり人類のみならず生物の全てが基本形に対する劣化、変異なのであり、ここで言われる基本系は初めから存在してない基本と言え、人類が考えている基本系はいつかの時点から現在までの時間経過中の一形態に過ぎない。
ウィルスは生物の特性の半分を放棄した「半生物」だが、環境によって僅かな時間で変化していく様子と、人間それぞれが近い形をしていながら、全く同じ表面積や風貌が有り得ない事とは同じである。

生物はそのそれぞれが「選ばれし者」で有りながら、「劣化した者」でも有り、この点では「劣化」と「進化」は同義を持っているが、人類も他の生物も生殖や細胞分裂、細胞の安定過程では環境を加えてこれが決定され、その情報が後に伝えられて行く事から、人類のように「社会」が環境の全てである生物の場合、生物的基本条項を無視したものとなり易い。

海の中もジャングルも、人類が形成する都市もその思想も唯の環境でしかない。
人類は何かを作れる事をして、或いは考えたりすることをして、自身に他の生物との優位性を見るかも知れないが、海水に適合する魚も、社会や思想に適合する人類も同じ「環境適合」であり、本来海やジャングルに優位性が無く、人間社会に優位性が有る訳ではない。

考えることができると言うだけで、人類が生物的に他の生物より勝っていると言う確証など存在していない。

そしてこれは「自己」と「他」に措いても同じことが言え、我々は自身やその親族、友人知人、或いは恋人でも良いが、それらを特別なもの特殊なものと考え、自身は唯一無二なものと考えるが、本質は「その他」の中にある。
言わば「どうでも良い存在」でも有って、「誰でも良かった」のである。

自分が生まれて来たとき、そこで親が選択できたかと言えば絶対選択など不可能であり、そもそも自身が誕生したいと望んで誕生する生命など有り得ない。
従って生物の本質は初めから自分の意思などと言うものを持っていないのであり、環境容認、または追認なのであり、これに何とか根拠を持たせようとするところに「運命」や「特殊性」が有る。

基本的に地球に生息する生物は、その生体維持に関するエネルギー源が太陽エネルギーによるものだ。
プランクトンや植物が行う光合成などに始まり、それを捕食する食物連鎖の中で全ての生物の生体が維持されるが、社会を持った人類はこうした地球上の生物が持つハードの原理をクリアした後、その思想や感情と言ったソフト面に重点を置いて行ったが、その延長線上に「人権」や「平等」などと言ったものが存在する。

だが現実には地球や宇宙の原理は如何なる生物もその存在の確定を許してはいない。
つまり今日生きていたから明日も生きられる保証が得られている生物は唯一つとして存在していないのであり、この点に措いて人間社会の「基本的人権」は一つの理想であり、現実では無い。

また国家の理想、国際的な有り様も全てが現実では無いものを絶対的なものとして構築しているが、これらは地球的な規模の環境変化によって簡単に吹っ飛んんでしまうものである。

日本人がその生体維持に関して消費しているエネルギー、食物消費エネルギーは、一日当たり10000kジュールと言われているが、日本人が社会生活を維持する為のエネルギーは500000kジュールを超えている。
従ってこれは日本人だけに限った事ではないが、人類はその生体を維持するエネルギーの50倍のエネルギーを、快適性や利便性のために消費しているのであり、これは化石燃料と10%程の原子力エネルギーである。

ゆえ、人類は太陽エネルギーから得られる食物エネルギーの50倍以上を「気分」の為に消費している事になる。
「いやそうでは無い、太陽光発電や風力発電も有る」と言う人もいるかも知れないが、これが最も愚かな考え方で、それが生産される時のコストエネルギーは軽く削減されたように見えるエネルギー量を超え、しかもそれは消耗品である。

人類の持つ社会はお互いが何とか守ることのできる「約束」であり、この社会は絶対的なものでは無い。
にも関わらずその社会を維持するために、生体維持エネルギーの50倍ものエネルギーが消費されている現実を鑑みるなら、こうした社会が長く維持されることは有り得ず、やがて大きくエネルギー消費が地球と言う絶対的な理不尽によって解消される日が来るのは道理であり、その時になって始めて人類はその個々が「どうでも良い存在」、「誰でも良かった」事を知るに違いない。

そしてその日は決して遠い未来では無く、もう足音が聞こえ始めている。
日本人に必要なものは「優しさ」や「絆」ではない。
生きるためには形振り構わない「生物の非情」であり、この非情が有って始めて優しさを知ることができる。

自身の現実を無意味だと認識したところから、その人間の価値が始まっていく・・・。

「死んで行く視覚」



Jennifer Lopez - On The Floor ft. Pitbull・・・・・

会合が終わる時間が遅れ、父親と妻の昼ご飯を作る時間が無くなってしまった私は、仕方なくコンビニに入って弁当を2つ買う事にしたが、代金を支払う時、その店のおそらくアルバイトで有ろう若い女の子が、しきりに「串カツ」も如何ですかと勧め、まるで祈るような眼差しを向けるものだから、大して食べたいとは思っていなかったのに串カツも5本買ってしまった。

そして家へ帰る途中の信号待ちで何気なくビーニーる袋に目を向けると、良い感じで串カツが少しはみ出ていて、もうすぐ12時になろうとしていた事もあり、朝から何も食べていなかった事もありで、思わず串を握ってしまった私は、右手にハンドルで左手につまんだ串カツを口に入れながら、信号が青になったのでアクセルを踏んだが、少し進んだかと思ったら前の車がいきなり止まってしまい、それに合わせてブレーキを踏んだ途端、串カツの串で口の中をグサッとやってしまった。

何となく串カツを手にした時、こうなるのでは無いかと言う予感はしていたのだが、コンビニの女の子の祈り眼差しには気を付けよう、車を運転しながら串カツを食べるのはやめようと心に誓った一日だった。

さて今夜はどうも視聴率が低迷しているらしいNHK大河ドラマ、「平清盛」を少し擁護しておこうか。

私は「デス・ノート」以来「松山ケンイチ」と言う俳優を高く評価していて、これまで余り見ることのなかったNHK大河ドラマの「平清盛」も毎週観ているのだが、視聴率が低迷している由はとても残念だ。
だがおそらくこの原因は映像と脚本のミスマッチであり、俳優の演技にその原因が有る訳では無いと思う。

例えば昼飯に何を食べようかと迷った時、いくつかの質問に答えればスマートフォンがどこで何を食べたら良いか教えてくれるような時代、余りにも多くの情報は選択肢の幅を広げ過ぎて、個人の価値観に対する責任を失わせる。
情報は本来それを使う事が目的であり、その意味に措いては情報がどこに存在しているかは大きな問題では無いが、ネット社会が始まる以前の情報は自己集積であり、従って知っている事が価値と言う面は確かに存在し、それが権威となる部分も有った。

しかし今日のように情報が氾濫する社会に有っては、情報管理が自己集積によって為されるのでは無く、その辺に転がっているものをいつでもどこでも使えるのであり、本来は個人が責任を負うべき自己管理情報までもが、インターネットによるアウトソーイング(外部委託)になってしまった。

この為一般的に世界中の人間が情報集積による総合的な判断能力を失いつつあり、自身が考えると言う行為を鈍らせてしまっている傾向に有る。
考えなくてもどこかで誰かかが考えたことに近ければ、それを自身の考えとしまう社会が発生し、安易で簡略な考え方が勢力を持つ薄い社会が登場したのである。

この事からネット社会は「考えなくて良い社会」を生み、その分情報を提示する側はより細部に渡る説明をしなければならない状況が出てくる。

法律や規制が細分化していった経緯はここに原因が有り、自己判断の欠如はどこかで大きな支配を許す事に繋がると共に、「視覚補填」や「想像」に関する能力を低下させる。
すなわち視覚情報と視覚情報を連結する事が難しくなるのであり、ここでは映像中心のクオリティは追求されても視聴する側の傾向を意識する余り、「考えずに済む映像」を作り出す事になる。

ハイビジョンなどの映像は確かに綺麗だが、NHKに関して言えば、前年の「坂本龍馬」にしても細部のクオリティにこだわり過ぎ、全体の構成や脚本が極めて貧相だった。
そしてその貧相な部分を人気の有る俳優や歌手で映像的に補う、若しくはそれに主体性を置く事で今の時代の先駆と考えてしまったところに、制作責任者の認識の甘さがある。

現在日本の人口動態は「考え無くても良い社会」に生まれた人口より、圧倒的に「考える時代」を生きて来た人口の方が多い。
それゆえここで求められる事は綺麗な映像だけでは無く、全体の構成力、脚本、演出の力と言うものであり、この点に措ける「平清盛」は話にならないほど薄く、平面的だ。

重要な場面はもっと細かく描き、そうでもない場面は簡略にするなどの構成が重要だ。

また画像や場面にこだわりすぎて細部まで画面に入れようとすると、画像は説明の多いものとなり、個人が持つ世界観や考え方の幅を狭め、その事が多くの不満となってしまう。
近年パニック映画などの制作に措ては、世界的にそのパニック本体を描かず、小さな個人的な場面を描きながら、大きなパニックを描く手法が多くなっているが、これは手法で有って、そこから見えてくるものは予算の少なさでしかない。

中途半端に綺麗な映像、考える必要のない視覚情報、場面独立型の視覚情報は人間の視覚情報網を殺してしまう。
人間は生まれて物心付いた時から現在までの全ての中に有り、従ってそこで男で有るか女であるかの区別は無く、男女とも常に男になったり女になったりしながら、そして自分がどこにいるかも分からない中で生きている。

ゆえ、人の記憶とも連動する視覚情報管理能力やその判断整理能力を失う事は人間の想像力を奪い、夢や希望を奪う事になるのである。
関東偏重、完全秘密主義の視聴率など妙な世論調査と同じで、決して日本国民の意識を代表してはいまい。

情報に振り回されて小細工をするのでは無く、もっと情念を持って脚本を書き、演出を考えないと、「松山ケンイチ」と言う名俳優がかわいそうだ・・・。


「制御不能」



森山良子(Moriyama Ryoko) - さとうきび畑(stou kibi btake)・・・・・

人間が描ける世界には必ず限界が有り、個人が意識できる世界観はそんなに広いものでは無い。

従って如何に世界的な事を、または全宇宙的な事を考えていようと、それはその個人の世界観を超えることはできず、言わば現在の時点でそれが考えられると言う状況、環境でしかなく、これは政治の世界でも同じ事が言える、否、政治の世界ほど狭義に陥り易い。

日本は現在の時点で国際的なリスクと看做されている事を、日本の政治家はどれだけ認識しているだろうか。
東日本大震災が発生した直後から始まった日本政府の原子力発電所に対する認識の甘さ、今こうした日本の政治的な瑕疵状態が国際的なリスクになりつつある。

西ドイツ政府は早い段階から日本の原子力制御能力に対する深い疑惑を表明していたが、アメリカ上院でも既に原子力発電所の制御能力を失っている日本政府に対し、独自の対策が必要だとする意見が出始めている。
元々アメリカの主導で進められた日本の原子力発電所政策だが、背景にアメリカが存在することから日本は核燃料が集積、増大するリスクを甘く見すぎていた。

ウランを核融合させた場合、元のウランより多いプルトニウムが発生し、このプルトニウムをウランで希釈して燃料とするプルサーマル方式の発電所は、加速的に日本のプルトニウム保有量を増大させていった。

その為2005年ノーベル平和賞を受賞したIAEA(国際原子力機関)元事務局長「モハメド・エルバラダイ」の言を借りるなら、「日本のプルトニウム保有量がもたらす脅威はイランや北朝鮮の比では無い」との言は極めて現実に即した意見だったのであり、日本のプルトニウム保有量は隠れた国際社会のリスクだったのである。

それゆえ日本は早急に保有するプルトニウムを使い切らなければならない、と言う国際的な圧力から原子力発電所を建設し続け、プルサーマル方式を推進するしか無かったのだが、東日本大震災発生後の日本政府の有り様、その後全く根本的な解決策を持たない福島第一発電所の処理を鑑みるに、日本政府や東京電力はこの事故の処理能力を有していないのでは無いか、そんな疑惑が国際社会に浮上してきていた。

現実に今もって福島第一発電所の使用済核燃料の処理は全く進んでいないが、同施設内には広島型原爆4500発分の放射能量を発生させる使用済み核燃料が不完全な状態で冷却、若しくは水に露出した状態のままになっていて、この処理が終わるまでには30年以上の歳月を要する。

しかし日本政府はこうした事態に対処する具体的な方法を提示していないばかりか、同地を再度大きな地震が襲う可能性が充分有り得るにも関わらず、全くその防御策を講じていない。
更には活断層の存在が指摘されている福井県大飯発電所、石川県志賀原子力発電所を稼動させるなど、全くの迷走状態になっている。

この事から東日本大震災発生当時は疑惑だった日本政府の政策に対し、現在は明確に「危険である」と言う国際社会の判断が為されて来ているので有って、国際社会に措けるドジョウ総理とその政権の信頼は0どころかマイナス、大きなリスクになっている。

万一福島原子力発電所付近で再度大きな地震が発生し、使用済み核燃料が露出した場合、風向きによっては東京都とその付近の大都市は全く人の住めない無人の廃墟となる可能性が高く、そもそも原子力発電所建設に関する法律では、活断層の上に発電所を建設する事自体が禁止されている。

にも関わらず活断層の存在が指摘されている大飯発電所を稼動した上で、原子力保安院が今後関西電力に再調査を指示したと発表するのでは、もはや法律が云々の段階では無く、支離滅裂と言うものだ。

法律に従うなら、まず大飯原発の稼動を停止し、再調査、再評価を行うべきで、しかもそれをいい加減な調査しかせずに誤魔化してきた電力会社に再調査させるなど、この事を誰が評価できるだろう、信頼できるだろう。

人類が現段階で原子力を制御できる能力は20%以下で有る。
それゆえ細心の注意を払っても事故は発生するのであり、ここで細心の注意が為されなければ大事故、大惨事は必至であり、国際社会はこれをリスクと捉えている。

すなわち世界は事故に関して危惧を抱いているのでは無く、この無能な、と言うより愚かさが周囲に危険をもたらす日本政府、民主党政権をリスクとしているのであり、この緊急時に消費税増税に政治生命を賭けている野田政権は、どう考えてもクレイジーにしか見えないのである。

消費税を上げて国民から税金を取ろうにも、東京が放射能に侵されて住めなくなったら、また巨大地震で原発施設が破壊され、国民が死んでしまってからでは誰が消費税を収めてくれるのか、その危険性がこの数年の間に起こる可能性が有るとしたら、今政治生命を賭けて為すべき事は決まっている。

民主党、野田政権と日本の電力会社には原子力発電所を稼動させるに資する能力が無く、その能力が無い者が更に既存していた最低限の法律までも無視して原子力発電所を稼働させた場合どうなるか、このリスクはヨーロッパの経済危機など比べようもない程大きな世界的リスクなので有る。

民主党が真に日本の事を思うなら、国民の幸福と安寧を願う政治を行いたいのなら、その方法は一つしかない。
即刻野田政権を総辞職させ、国会を解散して次の政権に道を譲る事だ・・・。

「腐敗と酸化」・2

一方、人類はその経験から水分が多く含まれる食品は腐敗しやすい事を経験から知っていた。
そのため合成添加物を加える事なく食品を保存する方法を持っていたが、その基本的なものが塩を用いる方法である。

タンパク質の周囲には3つの水分子が存在していて、水素結合によって食品に強く束縛され、熱運動を制限された状態の「束縛水」が10%、ゆるく水和し、熱運動がやや遅い「結合水」が80%、一番外側に有って自由に熱運動をしている「自由水」10%であり、この内微生物が繁殖出来るのは外側の「自由水」だけである。

そして食品の「自由水」は、「その食品の示す水蒸気圧」を「その食品の飽和水蒸気圧」で割ったもので求められ、これを「水分活性値」と言い、この水分活性値が大きい程微生物の活動は大きくなり、腐敗速度が早くなる。

通常水分活性値が0・93以下になると細菌が繁殖しにくくなり、0・86以下ではカビが繁殖しにくくなってくる。
水分活性値が0・94になる塩分濃度は10%の食塩水濃度であり、これがシュ糖濃度では48%の濃度である。
つまり塩分や砂糖の浸透圧を使って食品中の水分を減少させ、その事から微生物の繁殖を抑える事は、科学的にも最も合理的な食品の安定保存方法なのであり、この逆の発想が「乾燥」で有り、「薫製」の原理だ。

魚や肉を煙で燻す場合、燻煙の中にはポリフェノール類を始めとする殺菌力と抗酸化作用を有する物質が含まれ、これが浸透して腐敗や酸化を防いでいるが、この方法の基本原則は「乾燥」による保存性の向上である。

また一般的に細菌はPH4以下では繁殖しにくく、低級有機酸ほど微生物繁殖作用を抑制する効果が高い。
従って酢酸やプロビオン酸などが絶大な効果を表すが、酢を使えない一般食品にこの効果を期待するなら、酸性保存料の「安息香酸」「ソルビン酸」などを用いると良い。

この他人体に有益な微生物の繁殖を助け、その事によって有害な微生物の発生を抑える方法が「発酵」であるが、通常発酵食品の定義は酢やアルコール、醤油や味噌を除いたチーズ、納豆、ヨーグルトなどを指していて、余談では有るが私はこうした自然な流れの合理性に大変感動を覚える。

さてこうして食品添加物を見て来ると、特に合成添加物を鑑みるなら、どことなくそれが油脂類や肉類を基盤に発生しているような気がしないだろうか。

つまる所、我々が食品の中で占めている肉類や油脂類の消費の多さ、これが食品添加物の使用量を高めている事になり、これはいわゆる太平洋戦前後を挟んで急激に変化した、日本の欧米型食品指向性と共に発展してきたものだと言う事で、その意味では食を通しても日本は「日本」と言う民族性を失い続けてきた現実が有るように思える。

肉類は食品として保存する場合、結構厄介なものであり、第1章で述べた食品の変質の原因、腐敗と酸化以外にも、例えば肉の中に含まれる酵素はタンパク質を徐々に分解していく事から、微生物がいなくても自分で自分を消化する機能「自己消化機能」を持っている。

その為に肉類は食品の保存の一つの方法である「低温冷凍保存」をしても、微生物や自己消化を遅延させるだけで、それを防止出来ない。
この事から肉類はそれが生産される時から保存されるまで、全てにコストのかかる食品であり、大変効率の悪い食品なのである。

また冷凍と逆のエネルギーを使う「高温」、「加熱」の処理だが、これによって確かに微生物のタンパク質は死滅するが、一時的な状態であり、新たに空気や水分などから食品に入り込んだ微生物の繁殖を抑える事は容易では無い。

食品はそれが生産されるコストはそんなに高いものではない。
しかしそれが保存され、安定して供給されるシステムに金がかかっているのであり、東京で水槽に活かされたままのヒラメを食べるのと、塩漬けの鯖を食べるコストの差は説明する必要がないだろう。

美味しいものを安定していつでも食べられる、この事は決して褒められた事とは言えないと私は思う。

古くから日本で発展してきた「塩漬け」、「酢漬け」「薫製」などの方法は極めて合理的実績のある腐敗防止法、酸化防止法である。
これらの消費が減少し油脂類、肉類に移行して来た日本の食生活、或いは世界の食生活のコスト削減は、地球温暖化を声高に唱える先に自身一人一人ができる、いや、やらなければならない改革と言えるのではないか・・・。



「腐敗と酸化」・1



山本潤子竹田の子守唄.flv・・・・・

食品が時間経過と共に起こす変化は2つ有る。

その内の一つは「腐敗」であり、これは微生物の繁殖に伴い、人間により先に微生物によってその食品が食べられてしまったと考えても良いが、その一方こうした微生物の繁殖が存在しても、人体に有益に働く微生物が繁殖する場合を「発酵」、人体に有害な作用をもたらす微生物の繁殖を「腐敗」と区別する。

だが微生物による有機物の分解作用と言う事では両者は同じものである。

そして食品が変化する要因のもう一つは「酸化」である。
自然界に存在する物質及び生物は全て酸素によって変質させられるが、こちらは食品の香りや色、風味などを奪ってしまう事から、人体に取って有害な作用を起こす場合の「腐敗」と「酸化」、つまりは微生物の繁殖と酸化作用を防止すれば食中毒は回避できる。

これらの観点から、その食品の製造加工過程で腐敗や酸化を防止する方法として、添加物を加えて安定させる方法が考えられたが、この添加物も天然物を利用した「天然添加物」と科学合成によって作られた「合成添加物」があり、日本の食品衛生法は「合成添加物」の利用品目と、その食品に対する添加濃度の最高濃度上限を規定しているが、「天然添加物」には濃度上限規定を設けてはおらず、両添加物には使用項目表示義務がある。

「合成添加物」は6種あり、「保存料」「殺菌剤」「酸化防止剤」「発色剤」「増粘剤」「着色料」に大別されるが、保存料は腐敗を発生させる微生物の繁殖を抑制する物質であり、ここに殺菌作用は含有されていないことから、別名「防腐剤」とも言われ、次のような物質が使われている。

一般的に「不飽和脂肪酸」には静菌作用が有ることから、細菌、カビなどの繁殖を防止する物質として、毒性が非常に低い「ソルビン酸」などが有効だが、食品に添加するものとしては「カリウム塩」などが多く使用されていて、酸性保存料で有る事から、リンゴ酸、クエン酸などと併用してPHを低くすれば更に効果は大きくなり、この他塩基性のもので効果を期待するなら、「パラオキシ安息香酸エステル」、柑橘類の防カビ剤としては、「オルトフェニルフェノール」などが使われている。

また殺菌剤として汎用性があるのは「過酸化水素」だが、これは強力な酸化作用が有ることから、「漂白剤」としての効果も有り、例えば「茹で麺」や「蒲鉾」などに使われていて、逆に食品の酸化を防ぐ「酸化防止剤」では水溶性のビタミンC、ビタミンEなどが使われているが、酸化防止剤の基本対象は油脂類である。

油脂類は酸素、高温、金属触媒などによって分解され易く、この事を「油脂の酸敗」と言い、ここで生成される物質は毒性の高いものや悪臭を放つものが多くなる。
それゆえ食品の酸化防止剤はこの油脂類に効果のあるものを基本として、他の食品にも酸化防止剤として汎用されているが、ビタミンC、E以外でもビタミンCの立体異性体である「エリソルビン酸」なども比較的安価なことから、「ナトリウム塩」として広く使われている。

ちなみにビタミンEの抗酸化力は比較的低いが、その毒性の低さから加工食品添加物としては一番汎用性を持っている。

発色剤と着色料の差は、その剤に色が有るか否かの定義で分類され、着色料には天然着色料と合成着色料の大別が有るが、この合成着色料の内、塩基性の色素は発がん性と肝機能障害の恐れが有ることから全て使用が禁止されていて、現在使われている着色料は全て酸性色素、しかも11種類しか使用が認められていない。

発色剤は食品自体が持つ色素を安定させる剤で、これ自体は無色透明であり、主なものとしては肉類の赤みを新鮮な赤色に保持する「亜硝酸ナトリウム」などが有るが、亜硝酸と肉の自己分解から生じた第二級アミンが反応すると、発がん性物質N-ニトロソアミンが生成される場合がある。

同じく肉類の粘着力を高める物質として「増粘剤」が有るが、ここで使用される「ポリリン酸塩」は沢山の水素結合を形成する事から、タンパク質の弾力性を向上させ保水性を高めるが、基本的にリン酸塩は多く摂取すると、体内のカルシウムイオンを失わせてしまう事から、その摂取については「亜硝酸ナトリウム」同様、注意を要する。

「懲罰の権威」



GARNET CROW - 梦みたあとで (Yume Mita Ato de)・・・・・・

一国の軍隊に措いて、そこに所属する兵士達の士気を乱すもの、或いは組織内に不満が積み重なる原因となるものは、例えば軍律を犯して懲罰を受ける時の処罰の重さにそれが起因するのでは無い。

処罰に不公平が存在する事が最も大きな原因となるのである。

三国志演義にも同様の命題が出てくるが、後世諺ともなった「泣いて馬謖 を斬る」と言う言葉は、その軍律、「法」が持つ公正さの重要性、それを運用する者の公正さによって法が守られ、その法の持つ公正さが現状を担保する事を説いている。

蜀漢の軍師「諸葛亮孔明」は、部下であり愛弟子とも言える馬謖 (ばしょく)の判断ミスによって自軍が大敗を喫したとき、泣きながらでも軍律に従って馬謖 を斬った。
そして「法」の権威とはこうしたものである。

「法」は唯これが存在するだけでは効力が薄いものであり、懲罰が課せられる「法」で有るなら、その懲罰の正統性を担保するものは「公平性」だけである。

従って「法」の運用に当たって、その法を行使する者が如何に公平性を保てるかによって「法」の権威や重要性は変質し、これに公平性が無く恣意的な事情、感情などが加味された場合、その法は法としての権威を失い、法であることを失効するか法の権威が著しく貶められた状態となり、結局はその法を行使しようとする者自身の前に阻害要因となって立ち塞がる事になるのである。

そしてこうした事は何も軍隊ではなくても、「法」と言う大袈裟なものでは無くても、我々の一般生活でも同じことが出てくる。
社内規定が有りながら、その実親族ばかりが昇進していく会社で働く親族以外の会社員は、その会社に忠誠を誓えるだろうか、また会社の利益が己が利益と考え、仕事に奮闘できるだろうか・・・。

更に町内会などの自治組織はどうだろうか、親しい者同士の中で行政からの情報が共有されていても、そう親しくない者の所には情報が来ないとしたら、その自治組織は信用できるだろうか、或いは同じちょっとした連絡ミスをしたときに片方が簡単に許され、自身が自治会の役員会で厳しく追及されたとしたら、次回からその自治会の意見を尊重できるだろうか。

「法」や「規則」が持つ権威は、法が適用される側の品位は問わないが、それを適用する側に品位が無いと成立せず、ましてやそれが直接の結果に関係の無い行為をして、処罰が軽くなったり重くなったりではますます法の権威を落としてしまう。
つまり「法」の権威とは「運用に当たる人間」と言う事ができ、この事から「法」はまた「人」なのである。

その上で昨今急速に崩壊しつつある野田佳彦民主党政権の在り様を考えて見るなら、まさに民主党と言う組織が持つ規律や党則を、自身が破壊していることに気が付くはずだが、先の消費税増税の衆議院通過時、反対票投じた民主党議員の処分がバラバラであり、同じ結果をもたらした者に対して処分の統一性を欠いている。

厳重注意の者も存在すれば党員資格停止6ヶ月の者も存在し、除籍処分の者もいる。
挙句の果ては除籍処分の者が除籍された後に、鳩山元総理の処分は半分の3ヶ月の党員資格停止に短縮され、他の消費税増税反対者は2ヶ月の党員資格停止処分に変更された。

これはもはや規律や党則など無くなっているに等しい。
同じ結果、同じ規律違反者には同一の基準で裁判や審理が行わなければ、そこに存在するものは裁く者の都合で処分が下されている事になり、既に処分が執行された後、他の違反者の処分が軽減されるなどあってはならない事だ。

また本来民主党の処分は「党議決定に違反した」行為に有って、その処分は後に離党しようが民主党に残ろうが、同じ処分が下されるのが公正な在り様と言うものだ。
除籍処分を受けた小沢一郎代議士とそのグループは議決時に民主党から離脱するとは公言していなかった。

それゆえ実行した行為は現在民主党に残っている代議士と同じであり、これに対して異なった処分をする事は公平性が担保されていない。

つまり民主党執行部と野田総理は処分の根拠としている党則の権威を蔑ろにし、自分達で破壊しているのであり、そもそも国民に示したマニフェストに違反しているのは野田政権である。
その党名の由来でもある「民主主義」の原則は、数の多い事をして少数意見を蔑ろにする事に非ず、少数意見をどう多数意見に反映するか、それが民主主義の基本である。

にも拘らず、反対者の意見を聞かず、国民の声を蔑ろにし、そして恣意的な処分を課するなら、それは数をしての専横と言うものであり、民主主義の対極にあるものだ。
ここに公平性は失われ、従って権威はどこからも担保されない状態、つまりは民主党が無法化したことを公言しているに等しい。

「法」はまた「人」で有るなら、この「法」を貶める者は自分をも貶める事になる。
歴代内閣の中で最低の内閣を挙げるとしたら、その上位三位が全て民主党政権になる事はもはや避けられないかも知れないし、その最高位は野田佳彦総理大臣と言う事になるのかも知れない。

少し早いが、イグノーベル賞政治部門の候補にでも推薦して置きたいところだが、それだと大好きなイグノーベル賞の権威を貶めるかな・・・。

「自由の概念」



スピッツ / ロビンソン・・・・

自由と言う言葉が最初に出てくるのは、中国では「後漢書」、日本でも「新日本紀」には既に自由と言う言葉が現れるが、ここで現される自由の概念は現在の自由の概念とは異なる。

「徒然草」では自由のことを勝手気ままな事、若しくは我がままで放蕩三昧な在り様としている事から、現在我々が概念する西洋史観的自由の概念と一致する概念は、元々日本や中国などには存在せず、英語の「freedom」や「liberty」の概念をそれまで有った「自由」と言う言葉に当てはめたに過ぎない。

それゆえ明治に入って文明開化の花開く頃、当代切っての学者である福沢諭吉をして、「freedom」や「liberty」をどう翻訳するかで悩ませ、その当初は「自由任意」や「天下御免」などをこの翻訳に当てようとしていたが、1872年、「中村正直」(なかむら・まさなお)がイギリスの哲学者「ジョン・スチュアート・ミル」の書いた「On Liberty」を翻訳した際、「自由之理」(じゆうのことわり)と翻訳した事から、それまで日本で概念されていた自由は、現代用語解説的な自由に変遷して行ったのである。

ただ、当時の日本を外国人の視点から詳しく記しているドイツ人医師、ベルツの記録によれば、1889年に発布された大日本帝国憲法、所謂「憲法の発布」の日には、「絹布の法被」(けんぷのはっぴ)が天皇より下されると思っていた民衆も多く、雪が舞う東京市中には山車が曳かれ、仮装行列が町を練り歩き、さながら祭りの如く在り様ながら、誰も憲法の内容はおろか、憲法そのものすらも理解していなかったとしている事から、当時の民衆が「自由」をしっかり認識できていたかと言えばさに有らず、相変わらず昔ながらの自由の概念でしかなかった。

当時何でもかんでも「自由」を付けた商品が流行し、「自由糖」と言う砂糖や飴、「自由水」と言う化粧水、果ては「自由下駄」や「自由饅頭」なるものまで売られていた事を考えるなら、中村正直が翻訳した自由の概念など民衆が理解し得ない概念だった事は容易に伺い知る事ができるが、現代社会はこれを笑えない。

日本人は今に至っても古典日本が概念した自由の意味でしか「自由」を概念していないのであり、この意味に措いて「freedom」や「liberty」の概念は現在に至っても理解されていないのであり、従って日本人は今に至っても「自由」を理解してはいないのである。

「freedom」と「liberty」は微妙なニュアンスの違いが有る。

「freedom」の語源となる古代インド・ヨーロッパで使われていた「prijos」、古い時代の英語に出てくる「freo」、北欧神話の「フレア」や、ギリシャの「praos」などは共に同じ概念であり、これは「愛」、「好意を持つ」と言う意味、或いは温和で有る事を指しているが、その一方で日本や中国の様にわがままなこと、放蕩三昧な状態を指している事から、自己の能動性を意識させる。

しかしこれが「liberty」になってくると、周囲の環境や社会の中で自己の状態がどうで有るかを指してくるのであり、西洋史観的自由の概念はこの「liberty」の概念と、「freedom」が元々持っている抑圧の逆転性概念をして、「自由」が概念されている。

英語の「leader」の語源である「leod」、この語源的意味はラテン語の「liber」に由来し、「liber」の意味は「社会的、政治的制約を受けていない状態」を指している、若しくは「負債を負っていない」事を意味していて、これが形容詞の「自由な状態」、名詞の「自由」になっているが、例えば「liberalism」(自由主義)などの語源もここから来ていて、「liberation」(解放)も同じである。

この事から「自由」と言う語源が持つ意味は、先に「自由」とは対極にある状態をして成立する事が解り、この点では「平等」なども全く同じ原理で発生してきた言葉と言える。

17世紀、18世紀の「freedom」や「liberty」の概念は特権階級を指していた。

つまり一般大衆では得られない権利を有している者、或いは特別な権利が付与された者、時間的契約から解除、いわゆる「時効」を迎えた事を意味していて、これは具体的に何かと言えば、「王」或いは「貴族」の状態を意味する言葉だった。

振り返って今日我々の社会が概念する「自由」とは何か、この問いに正確に答えられる者はいないはずである。
自由と言う概念は社会的対比概念であり、常にその社会の状態と連動して変化していくものでも有る。

それゆえ時間経過と共に常に変異し、個人の状態によっても異なるこうした概念を止めて考える、つまり絶対的な価値観と考えることは、いつの時代であっても危険な事なのである。

また社会秩序が壊れた場合、或いは個人が17、8世紀の貴族や王の状態になった、いわゆる民主主義が進んだ現代社会の様な状態に有っては、逆に広がりすぎた自由が不自由をもたらし、その事が政治や国家を滅ぼす衆愚状態を生む事になる。

近代西洋史観が持つ自由は自己の積極的解放を根底に持っている。

これは抑圧された封建制度に対する人間的な権利と言う思想を生み、為に時の為政者が適切な治世を行わないときには、市民によって革命が起こされる、その権利が市民に有るとした考え方に発展していくのであり、これがフランス革命の根本的な思想だった。

だがその一方冒頭にも出てきた「ジョン・スチュアート・ミル」は、その著書の中で自己の自由は必ず他者の自由との衝突を生じせしめると記していて、他者の自由を阻害する行為が有ってはならないとしているが、このミルの自由観に重きを置いた現代社会の自由概念は、予め矛盾を抱えたものとなっている。

自由には抑圧を受けていない状態である「消極的自由」と、自己の欲望や考えを実践しようとする「積極的自由」が存在するが、この積極的自由の実現はどこかで他者の「消極的自由」を奪う事になり、従って民衆が自由を謳歌している時ほど民衆は不自由を感じ、孤独感に苛まれ、無力感に陥り、ここで民衆が進んでいく道は「全体主義」である。

そして全体主義の頂点に立つ者が独裁主義者と言うものであり、この状態をしてその独裁者個人が得られる自由は最高形となり、これ以上、究極を求めるなら、それは「死」である。

「liberty」が「政治的、社会的制約から解放された形」を現している事が微妙に生きているような気がしないだろうか。

自由と全体主義、独裁と言うものはとても近い、若しくは同じものの表裏なのかも知れない。







「いつか冷たい雨が」・最終話



「ああ、ここはあの土手じゃないか・・・」
「それにしても良い天気だな・・・」

木村はあの夏の日に歩いていた土手の道の下に立っていた。
そして土手の上には、よく見れば一人の女の子が立っていて、その女の子が着ている水玉模様のワンピースには見覚えが有った。

「あれは由香里のいっちょらいのワンピースじゃないか・・・」
「由香里か・・・・」

木村は土手の上に立つ女の子にそっと声をかけ、その声に女の子は振り向いた。

「あっ、お兄ちゃん、お帰り」
「由香里、すまなかった・・・」
「何言ってるんだよ、お兄ちゃんは凄かったよ・・・」
「やっぱり由香里の自慢のお兄ちゃんだよ・・・・」
「さっ行こう、父ちゃんも母ちゃんも待ってるよ」

由香里はそう言って手を差し出した。

「ああ、行こう・・・」
木村が由香里の手を取ろうとしたその時だった。

「ちょっと待って」
何故か薄いグリーンのスカートに白いブラウス姿の知らない女が後ろから声をかけてきた。

「あっ、お姉ちゃんだ」
その女に親しそうに手を振る由香里・・・。

「君は誰だ・・・」
「失礼ね、1年間も同棲していて私の事憶えていないの?」
「君は・・・、あっそうか、あの家の・・・」
「思い出した?」
「あなたもいなくなったし、あの世界も面白くないから付いて来ちゃった」

「ねっ、ねっ、お姉ちゃんも一緒に行こう」
「大曽根のおじいちゃんが肉を持ってきてくれたから、今夜はカレーなんだよ」
「そうか、かあちゃんのカレーは最高だもんな」
「よし、行こう・・・・」

由香里は右手に木村の手を握り、左手には女の手を握って、そうして3人は土手の道をゆっくりと家に向かって歩いて行った。

夏の日差しがため池の水面に反射し、それはあたかも煌めくように、輝くように眩しい景色の中、3人の姿は少しづつ小さくなり、やがてかなたの道に消えて行った・・・。


文字ドラマ「いつか冷たい雨が」はこれで終了致しました。
あちこちで没になったものを文字ドラマと称して長々と読ませてしまいました事、
深くお詫び申し上げる次第です。

尚、これより以降は通常の記事形態に戻ります。
これまでのように週1、2回の記事更新になるかと思いますが、
引き続きご縁がございましたら、記事を訪ねて頂ければ幸いです。
有難うございました。

プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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