「危険な理解」

AI,人工頭脳で言うところのフレーム理論、これは「共有の場」を意味するが、例えば正直に生きるとした場合、この正直の範囲は相反した命題までも包括し、限界が無くなる。
正直と言う言葉に限らず、人間の言語や語彙には相反命題が存在していて、常にその場、その時、または相対するものによって同じ言語でも同じ意味を為していない。

正直に生きるとした場合でも、それは社会的に正直であることと、人間として正直で有ること、生物として正直で有る事とは同じにならず、社会的正直であれば金に執着する事は決して褒められたことにならないが、「金が欲しい」は人間的には正直な言葉と言え、ここに言語や情報が伝達され、それが理解されると言う経過の中には「共通の限定」が必要になってくる。

言語はそれ自体が「縛り」であり、ある種の限定だが、それでも漠然とした価値観は無限に近い範囲を持ち、この中では僅か2人だけの間で為される情報伝達でも、極めて不完全なものにしかならない。

そこで人間の言語には「今どこで話している」かと言う言語の限定が必要になってくるのであり、ここで正直と言う命題を社会的なものに縛った状態、限定した状態を「フレーム」を付ける、若しくはフレームと呼ぶ。

だがこのフレームはそれがAIで有ろうが人間で有ろうが決して一致する事は無く、そもそも人間の思考回路、感情などの情操構成は、人間の中に存在しているそれぞれの専門分野の自分が、400から人によっては700程存在していて、それら一つ一つが世界を持ちながら、全体の自分と言う世界を構成し、時間経過や場、その他環境によって常に変化し続ける事から、本質的に「今自分がどこに在るのか」を特定できる瞬間が無く、従ってフレームが出来たとしても、それは常に揺らいでいる。

だから人の話や感情はどんな場合でも完全に理解することはできず、仮にフレームと言う共通の場に有ったとしても、その事が次の瞬間には移動していない保証は無い事から、大まかな点ではフレーム付近に多くの自分が集まっていると言う程度のものでしかない。

旅行の話をしている時、その場では旅行と言うキーワードが特に意識される事無く「場」に存在し始め、ここでもし政治の話題が出てきたとしても、それは旅行と言うキーワードから飛んで行ったものと言う事ができるが、フレームの重要な部分は複数形に有って、単体、若しくは複数でも相手が存在する為に発生してくる事である。

このことから言語には「理解して貰いたい」と言う意思と、「理解したい」と言う動機が有って、意識せずとも社会が共通に持っている基本フレームに相互が自主的に参加するプロセスが存在する。
しかしこうしたプロセスの本質はそこに事実の正確さや客観的整合性が存在しているから始まるのではなく、この入口は「感情」である。

事実と言うものと、人間がそれをどう判断するかは同じでは無い。
アフォーダンス理論(affordance theory)によるところの「環境が生物に提供する価値や情報」は、情報が存在自体とそれを判断する側のどちらに有るかを定義するものだが、赤い花は主観ではない。
ゆえ人間がその花を見て赤いと判断した、その情報は赤い花が提供している情報である。

しかし、問題はこの「赤い」と言う色である。

前文にも有るように、それぞれの人間は自身の内に各専門的な分野の400から700程の自分を持ち、それらが複雑に絡み合って自分を形成している。
この400から700程の自分は子供の頃はランダムに絡み有っているが、これが大人になっていくに従って社会と接触することで少しは整理が付くものの、誰かと同じプロセスを辿る確率は皆無である。

それゆえ一人として自分以外の人間が同じ赤とは認識できないのであり、ここで赤い色はイメージ補正が為された状態で認識される事から、人間は安定した赤い色を認識しながら、誰一人として正確な赤を認識する者はいないのである。

赤い花は正確には太陽光の入射角度で違って見えるはずであり、この点では天気の良いに見る赤い花の赤と、曇った日に見る赤い花の赤は違うはずだが、一人の人間の中では同じ赤に見えるように意識修正が為され、この意味では情報は常に自分の脳によって歪曲されている事になる。

つまり事実は事実として存在しながら、それをどう判断するかは自分が行っていると言う事であり、人間の中では事実は存在できないのである。
その上自分が思っている赤と言う色は、時間や場所、環境によっていつも揺らいでいて、一瞬たりとも同じである事が無いにも拘らず、自身の内には絶対的なものとして存在している。

このことから、自分が思う赤い色は絶対に他人に伝えることはできず、カラーチャートを見ればそれで影響されて自分の赤は吹っ飛び、そこに有るのは「大体こんなもの」と言う赤の色なのであり、人間はこうした環境で相互が理解しよう、または理解したと思っている訳である。

そしてフレームはこのように不安定で、根拠の無いものだが、それでも赤と言う言葉のフレームにより、細部では異なるものの近似値では赤で有る事から、微妙な勘違いでも大まかな情報を伝達できるのであり、ここでのキーポイントは相手と言うことだ。

情報の伝達は言語のみでは伝達できず、人間は基本的に同じ瞬間を持たない事から、その瞬間の全てのアフォーダンス、(物質が発する情報)によってやっと少しはマシな情報になるのであり、ここでは視覚のみならずその質感や言語のニュアンス、微妙な表情やシルエットのアフォーダンスによって、より高い精度の情報伝達が可能となる。

つまり人間が本当に理解し合うと言う事は、その人間なり、アフォーダンスに直接会うと言う事に他ならず、現実に相対する存在が有っての話なのである。
緻密な描写で描かれたリンゴの絵が伝える情報は、そのリンゴの全ての情報の4%くらいだろうか、その程度のものだ。

パソコンやiphone 5で見る動画やメールは絵と同じ情報で有り、その本質は「理解して貰いたい」「理解したい」ではなく、自分の中に存在する400から700程の、専門的だが不完全な自分が暴走した状態の情報処理、つまりは大部分が妄想や都合良く補正された情報認識になる。

これは物質が持つアフォーダンスに比して非常に危険な理解と言える。





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「失敗ご飯の味」

飯を炊くのは意外に難しいものだ・・・。
特に毎日飯を炊き続けて、それで1年間全く失敗せずに家族が必要なだけ飯が食べれると言う事は、或る意味大変凄い事だと思う。

先日田んぼの畦の草刈りをしていた私は、もう日が傾きかけた頃になって白菜の苗を植えなければならなかった事を思い出し、慌てて草刈機を片付けると堆肥を撒いて畑を耕し、5本ほどの畝を作って肥料を入れながら50本の白菜を植えたが、終わって見ればもう6時を過ぎてしまっていて、これまた大急ぎで夕飯の支度にかかったが、そこでご飯を炊くのを忘れていた事に気がついた。

考えてみれば昼間の時点で父親と家内の分のご飯しか無くて、自分は蕎麦を食べて凌いだのが、そのおり後片付けをしながらご飯も炊いておこうかと考えながら、結局疲れて少し横になった為にこれを忘れてしまい、そのまま午後も草刈りに出てしまったのだった。

「しまった、やってしまった・・・」と思ったが、大急ぎで米を磨いで炊飯器のスイッチを入れたものの、こう言う時に限って中々ご飯は炊けないもので、7時を過ぎても一向に炊飯器のスイッチが上がらず、やがてやっとスイッチが上がった事から、かなり柔らかいままだったが、そのままご飯をすくい夕飯の食膳に盛り付けた。

父は右半身が動かなくなってから極端に気が短くなり、おまけについ最近肝臓癌と診断された事から、今週一週間は検査結果待ちで退院できたが、また来週には入院になる。

家内は心臓が悪くて手術しても中々回復せず、1ヶ月の内半分ほどは寝込んでいるが、こちらも最近階段を踏み外し足の指を骨折、歩けるようになるまでは1、2ヶ月かかる状態で、稲刈りが始まってきた。
一家4人の内2人が動けない状態で、高校生の娘がかろうじて少し手伝ってくれるが、他府県で生活している長男はこうした状況から、今年はお盆にすら帰って来なかった。

父は昔から頑固だったが、体が動かなくなってからその頑固さは特に激しくなり、朝食は午前5時30分、昼食は12時きっかり、夕食は6時30分、一汁三菜と言うサイクルに一切の妥協が無く、これに少しだけ私の忙しさを考え、待ってくれないかと言うと、「そんなに自分が邪魔なのか」とさめざめと泣いてしまう。

一昨年、いや昨年だったか、自分で命を絶った母を恨まないではないが、こうした時に思うことは母への恨みばかりではなく、その偉大さかも知れない。
母や祖母が生きていた頃、自分がご飯が食べたい時、一度だってご飯が無いと言う事が有っただろうかと考えると、その力の大きさに愕然とする。

「ああ、大したものだったんだな」つくづくそう思う。
畦の草を刈り、畑に作物を植え、それに水や肥料をやって、そして一度もご飯の炊き忘れが無かったのか・・・・。
自分は何も知らずに当たり前のように思っていたが、普通に暮らしを送る事は大変な事だったんだなと思う。

この夜炊いたご飯は結局「蒸らし」が足りず、翌々日の朝には水が回ってお粥のようになってしまい、この時も最初に確かめておけば良いものを、オカズが出来上がってからやっと保温ジャーの蓋を開けて気が付く始末。
朝4時から起きていて、ご飯の支度が間に合わない状態になり、そこでまた慌ててご飯を炊き、、このご飯も翌日の昼には水が回ってしまうと言う最悪の循環になった事から、父と家内には一食だけコンビニ弁当で我慢してもらい、やっと負の循環から抜け出し、落ち着いてご飯を炊いた。

田んぼの草刈もそうだが、僅かな事で忘れたり日が遅れると、あっと言う間に草は大きくなって刈るのに時間がかかるようになり、その事が次の草刈にも影響し、最後は大変な苦労をして草を刈る事になる。
だがこの事は如何なる仕事に措いても同じ事が言えるだろう。
そしてこうした事態にならないように、日々自分に芽生える僅かな怠惰を征する事は並大抵の事では無い。

水が回ってしまったご飯は傷んでいる訳では無かったので、私は家族と食事時間をずらし、家族にはしっかりしたご飯を食べさせるようにして、自分は水が回ってしまったご飯をお粥、洋風に言えばリゾットか・・・、そうして何とか食べている。
もしかしたら危ないかも知れないが、水飲み百姓の分際で米を棄てるのは畏れ多い。
それに家族の前で自分だけ失敗したご飯を食べているのは、何となく我慢を見せつけるようで、これも辛い・・・。

それゆえ、家族がみんな台所からいなくなったのを見計らって、玉子やほうれん草を入れたお粥を食べているのだが、そこへヒョンと猫が顔を出すものだから、「お前も特性リゾットを食べろ」と少し皿に取り分けると、その表情は「ふん、こんなものが食えるか」と言う感じで横を向いたままだ。

「全く、贅沢なやつだな・・・」
そう言いながら鰹節をリゾットにかけてやる。
すると猫はどこかで気が進まない感じで鰹節だけを食べ、そのままだとリゾットも食えと言われる事は分かっているのだろう、逃げるようにして台所から出ていってしまった。

全く猫も食わない失敗ご飯、余りご飯か・・・・。

だがもしかしたら、これが時々母が食べていたご飯の味だったのかも知れない・・・。





「貧相な少女」



谷村新司・堀内孝雄 「遠くで汽笛を聞きながら」・・・・



例えば同じ話をしても、非常に恰幅の良い優雅そうな男性が話をする場合と、痩せて貧しそうな女の子が話をするのでは、一般的に後者の女の子の話には共感し易いが、恰幅の良い男性の話はどこかで傲慢に聞こえたり、その話に真意が無いように聞こえてしまう傾向が有る。

また同じように子供を気遣う母の言葉でも、田舎の農婦姿の女性と、東京で税理士をしている女性の言葉では、同じ意味の事を話していても田舎の農婦姿の女性の言葉に安らぎを覚え、片や東京の税理士女性の言葉はどこかで冷たく感じてしまうものである。

だが基本的にこうした思いは先入観による、言語の自己増幅と自己縮小によるもので、その現実には何等変化が無く、農婦姿の女性に心が有り、税理士女性に心がない訳ではない。

いやむしろ田舎と言う経済的な一種の劣化状態は、その姿とは裏腹に本人が意識するしないに拘らず、非常に大切な心を失った状態の上に作り上げられた笑顔である可能性も捨てきれない。

にも拘らずそれを映像だけで見ている者は、そこに自身が作り上げた仮想の善なるストーリーを加えて見る為、本質を見る事が無くなる。

つまり、そうした状況では安らぎを求める人が、自分の都合の良いように映像から背景を作り出し、それを見ているに過ぎず、この点で人の見るもの思うものとは、常に見たいものを見ているだけであり、そう有って欲しい事を思っているだけである。

そして冒頭の恰幅の良い男性と貧相な少女では、これがどうなるかと言えば、恰幅の良い男性の話にはどこかで真実が感じられず、少女の話に真実性を感じるのは何故か、どうも人間の少なくとも真実と言う価値観は、劣化や弱小と言ったものを捉える傾向が有るように思えるが、これが人間が冒しやすい最も大きな誤りである。

即ち弱い事をしてその人間が正しいのでは無く、貧しい事をしてその人間が正しいのでもない。
貧しい者、弱い者は一般的に悪いことができないように思っているかも知れないが、それは違う。
その貧しさゆえ、弱さゆえに本人が意図しようとしまいと、どこかでは生きるためにずるくもなっているものでもある。
どうしたら一番人から金が取れるかを身に付けている場合もあるかも知れない。

勿論貧しい者、弱い者の全てがそうだと言う訳ではないが、その多くは純粋でもなければ美しくもないものであり、ここにそうしたものを一括りにして真実や正義を見ることは、現実を自身の希望によって歪曲して見ている状態と言え、貧困や政治的混乱から逃げ出している者に正義や真実があるとは限らない。

むしろその現実はそうしたものから一番遠い所に有る場合が多いのである。

戦火を逃れる子供の写真などは、そこに大きな感動、或いは生きる事の意味のようなものを見るかも知れないが、その写真は決して混乱する国家の民衆全てを代表している訳では無い。
むしろほんの一部であり、その場面を撮影した撮影者がこうしたもので有って欲しいと願う、そうした自身の願望を形としたものでしか無い。

それゆえこうした観点から民衆と言うもの、与論と言うものを考えるなら。

為政者や一部の経済人、芸能人や公務員などと、民衆の関係はまさに権力と非権力と言う事ができ、そうした権力側を恰幅の良い男性、民衆を貧相な女の子になぞらえるなら、常に民衆が正しく権力は間違っている、「悪」だと考えてしまうが、非権力、つまり弱い事をしてそれが正義とは決してならない事を考える者は少ない。

民意だからそれが正しい訳では無く、新しく出来たものだからそれが正しいものでも無い。
少数だから、声無き声だからそれが真実で正義だと考えることは大変危険な事である。
恰幅の良い男性だから悪いことをして稼いでいるとは限らず、貧相な少女だから嘘は付かない訳では無い。
そう思ってしまうのは自身の希望によって現実を歪めるからであり、その意味で非権力たる民衆もまた権力と同じ過ちの中に有る。

人間は数の少ないもの、秩序に対する創造に価値観を持つが、ではその価値観を担保するものは何かと言えば、そこに理由は全く存在しておらず、ただ少ない事をして価値観としているのである。

金は確かに美しいが、あれが大量に有る物ならおそらく今日程の価値とはなっていないだろうし、ピカソの絵が何故あれほど高額なのかと言えば、それが当代の絵画界にとっての破壊だった事と、ピカソは一人しかおらず、しかも今はその存在が失われているからである。
その絵画の価値など本当は全く存在しない。

貧相な少女に描く幻想と同じような原理が絵画や金の価値を支えているに過ぎないが、これが人間社会と言うものでもあり、人間はこうした事から逃れられない。

ゆえ、時には貧困に喘ぐ少女を疑う者の言葉にも、耳を塞がず生きる事もまた大切やも知れない・・・。



「認知地理」

人間の行動は全てが合理的解釈に基づいてなされているのでは無く、どちらかと言えば非合理的動機、或いは感情と言っても良いかも知れない、そんなものによっても決定されている場合が多い。

例えばあなたが夕食の食材を買い求めようとする時、選択されているスーパーなり店舗が自宅からの距離や価格の安さだけで選択されているだろうか。
実は意外にこうした地理的判断、合理的価値基準は無視されてはいないだろうか。

ある者はその店舗のサービス、店員の接客マナー、店舗の作りや駐車場の有り様、はたまた何故かその店舗に行けば気分が落ち着くと言った具合に、距離が持つ合理的な根拠以外の事由によって店舗が選択されているのではないだろうか。

交通事情の発達と情報化社会は従来から存在していた地理的情勢が持つ合理性を廃し、今日に至っては地理そのものが人間社会によって形成されるようになってきた。

元々国際社会を見ても明白なように、各国の首都などは意外に客観的合理性のみで決定されてはおらず、そこが伝説の地で有ったなどの宗教上の事由、商業などの経済的発展時期が過去に存在した事、更には時の為政者の主観的事由によって決定されている場合が多かった。

交通の要衝であることや、港が近い事、または気象学的に安定した地域で有ることから首都や都が選択されているだけはなかった。

この事から従来地理的条件が人間の都市や、その環境整備を決定付けると考えられてきた一般地理学に対して、人間の行動や時間的空間を想定する「行動地理学」や「時間地理学」などの考え方が出てきたが、私はこれらを総称して「認知地理学」と呼んでいる。

従って「認知地理学」などと言う言葉は学術的には存在しないが、そもそも地理と言う客観的事実と、人間がそうした環境をどう見て如何に評価するかは同じものでは無く、人間の描いている空間的な広がりは「仮想地理」でもある。

ある一定の距離を時間に換算する、例えば千葉県松戸市から都庁までの距離を車で移動する時間と、長野から新幹線に乗って都庁に到着する時間、それに富山空港から都庁に到着する時間では、実はそんなに変わらないどころか、場合によっては富山空港から都庁まで移動する時間が一番短い場合が発生してくる。

この事から首都圏の歯科医院までの移動時間、待ち時間、医療費などの価格を考えたら、東京から富山県の歯科医院に通う場合も有り得た訳で、私は実際そうした方を取材した事が有り、反対に高額な物品であれば近所でそれを売っている店舗が有っても、東京秋葉原で買えば移動に要する費用を考えても安く購入できる場合も出てくるのである。

それゆえ、こうした考え方の中からは現実の地理を反映しない時間地理と言うものが出てくるのであり、この時間地理は人間個人の事情によって集中と分散が有り、ここに時間上の空間が存在してくる事になる。
簡単に言えば連休期間中に空港を使う場合と、平日に同じ距離を飛行機で移動した場合、平日は予約なしで搭乗できるかも知れないが、連休期間中では予約すら取れない事が出てくることである。

この場合時間地理の需要増によって飛行機のチケットが買えない現実は、時間地理そのものが確率になってしまい、その確率に入らなければ移動ができない、時間地理では個人々々の事情によってそれまでの時間内での移動時間では到着できない、つまり時間的には距離が広がったと同じ現実を生じせしめるのである。

そしてこうした時間地理の考え方は平面的な「場」に措いても存在していて、個人が何かを計画しそれを実践していく過程では同じパターンが発生し、その上にこのパターンは中間の時間経過に伴って加速度を持っている。
この事から一人の人間の考えることは、同時に他人の計画と競合していき、ここに本来現実には存在しない時間と空間上に有限の時間と空間を生んで行き、これもまた資源と看做されるようになっていく。

首都圏一極集中、高額な地価価格はこの原理で発生していると言え、ではこの観点から東京を考えてみるなら、近い間に大きな地震が発生する事は確実と言われながら、個人々々が東京から脱出する事が無いのは何故か。
これが「行動地理学」の考え方である。

結局のところ、自然災害などに対して人間が取る行動は、いつ発生するか分からない環境の危機ですら、それを人間がどう見ているかに過ぎないと言う事である。
地震が発生すると言う地理的な事実は、その発生時間が明確では無い事から、当面、今日明日は大丈夫だろうと言う希望的観測が自動更新された状態で先延ばしされる。

災害が個々の事情によって発生時期が先延ばしされた状態なのであり、してその評価基準はと言うと、そう大きな変化が自身の周囲で起こっておらず、生活するためには東京から出て行く訳には行かないし、みんなもそうしていると言う理由からなのである。
地震が発生すると言う地理的事実と、人間がそれをどう評価して行動するかは別なものなのであり、こうした人間独自の判断の集積によっても東京と言う地理が成立している。

そして人間の社会はあらゆる場面で「仮想空間」と「時間」、「時間上の空間」を生み出したが、これらは「現実」と言う決算によって必ずいつか破壊される運命に有るように私は思う。

また高齢化社会によって多くの人間の現実的な行動が自主制限される社会は、移動に関してこうした時間地理やそこから発生する時間上の空間と言う地理から、現実の地理への逆流現象を起こし、その一方で物品などの輸送が発展する事から、やがては自分が動かずに世界がこちらに動いてくるような社会が訪れるかも知れない。

そうした事を予見して、今から「相対性地理学」などと言う考え方も提唱しておこうかな・・・・。



プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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