「夢占い・4」

うつむせで眠る場合、これは眠りがどうしても浅くなる事から、悪夢を見る確率が高く、現実の物音に反応しやすくなり、非常にびっくりした夢を見ながら目を醒ますことが多くなる。
夢は現実の反転性である事から、現実では余り良くない事を夢で見る場合は、現実が好転し、夢で良い夢や綺麗な夢を見るときは現実面では厳しい局面が訪れる暗示が有る。

ちなみに夢の中で最悪の暗示を持っているのが「歯が抜ける夢」であり、歯槽膿漏で歯を失う場合、夢で歯が抜けて現実にも歯が抜けていると言うような恐ろしいケースも有るが、悪夢や悪い夢の御祓いの仕方は次のようになっている。

古来より「吉内悪外」と言って、悪い夢は人に話してしまう事で悪を分散し、良い夢は内緒にしてこれが分散する事を防ぐようにすると良いとされていて、従って悪い夢は出来るだけ多くの人に話し、良い夢は盗まれないように、人には喋らないことが肝要であると言われている。

「宇治拾遺物語」には吉備真備(きびのまきび)が大臣にまで出世したその裏話が出てくるが、この中で吉備真備は夢解き女のところへ夢占いをして貰いにやってきていた守護若君の夢を盗み聞きし、夢解き女と交渉してその夢を自分のものにしてから出世していく話が出て来て、吉備真備は大臣に出世するまでその夢の事を誰にも話さなかったと記されている。

また中国の古い文献でも同じような事が出てきていて、そこには悪い夢を紙に書いて壁に張り出す悪夢退散法のことが書かれているが、これが日本に入って来ると吉備真備の逸話になったり、或いは悪い夢を紙をに書いて燃やす、川に流すなどの悪夢退散法になって行ったものと考えられる。

「ながきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」

(長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音の善きかな)

これが悪夢を祓う言葉だが、回文(かいぶん)と言って、つまりは逆から読んでも同じ文になる言葉だ。
秦河勝(はたのかわかつ)が悪夢を見たとき、悪夢祓いの言葉として聖徳太子が伝授したものとされているが、さて今夜も恐い夢を見そうな誰か、そうあなたの事だ。

たまには怪しげなまじない言葉に頼って見るのも良いやも知れない・・・。





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「夢占い・3」


そして夢の世界では現実との反転性が有る事から、自分が持っているものは相手に望むものであり、相手が持っているものは相手が自分に望んでいるだろうと言う期待感を示す場合が多く、例えば女性器の象徴である扇子などは、それを自分が持っている夢は近い内に異性と出会いたいと思っている事になり、向うに女性がいて扇子を持っている場合は、女性にモテたいと言う願望の現われと言うことになる。

同じように女性が山の夢を見る場合、山に登っている夢はダイレクトに「男が欲しい」であり、山を見ている夢は男性にモテたいと言う願望の現われと解釈され、こうした自然の景色を夢見る事は一般的に清浄なイメージを持つかも知れないが、湖の夢などが既に性的欲求の現れである事を考えるなら、こうした綺麗な自然景色の夢は最も自分が抑圧しているか、それを自己封鎖しているものを現していて、この点では汚物が知性を象徴している事と相対する関係と言える。

また景色と言う点では視覚情報は現実と夢を共有している部分が多く、従って夢で現れる景色が現実にも存在し、しかも自分が一度もそこを訪れたことが無い場合、これは視覚情報と夢の曖昧さから発生する既視感覚であり、夢と現実で見た、例えばテレビの映像からでも脳内合成が起こり、そこで始めて見るのに懐かしい景色と言うものが現れやすくなり、これは人の場合も有り得る。

即ち人間は3つの点が有ればそれを顔と認識する事から、普段多くの人と接する人は人の顔をパターン分類して記憶するようになり、人の顔の細部を記憶しない現象が起こってくる。
このことからやがてこうした状態が長く続くと初対面の人でもどこかで会った記憶を感じるようになり、夢で細部が更にディテールを失った記憶と重なって行く事から、最後は全ての人が何かしら懐かしく、親近感を憶えるようになって行く。

そして一番浅い眠り、「金縛り」とも呼ぶが、この状態は目が覚める寸前の状態であり、現実と夢が混同している状態と言える。
それゆえ自分の部屋にいながらそこに有り得ない者も存在できるのであり、これは記憶と夢が同時に現れてくるからである。

尚且つ、冒頭でも述べたように眠りは基本的には「危険な状態」である事から、この状態の中で起きている寸前の状態は常に「恐怖」しかないのであり、ここでは記憶の自分と夢の中に有る自分が2人出てくる事になる。

だから金縛りの最終段階が「幽体離脱」なのであり、この状態は霊魂でも何でも無い。
自分がどの位置にいるかが2人の自分によって混同され、自分が現実に有る位置を誤認識するからである。

自分の口元から数センチ離れた、自分の頬の辺りからもう一つ呼吸音が聞こえるなどの現象は、まさにこうした原理が生じせしめるものであり、寝ている自分を天井近くまで浮き上がった自分が見ているなどの現象も、どちらかと言えばこうしたことが原因になっている可能性が高い。

更にこうした幽体離脱と絡んで、起きている時に自分が自分を見てしまうドッペルゲンガー現象も、これが自分一人しか見る事が出来無い場合、恐らく自己の位置を誤認識する脳の作用によって、自分を現実の位置とは違った場で確認している可能性が高いが、ドッペルゲンガー現象の場合、第三者も2人の同一人物を確認する事があり、この場合の原因解明は今のところ為されていない。

また夢で見た事が数時間後、数日後には現実になってしまう「正夢」に付いて、この夢は一般的には朝方、もう起きる直前に見る事が多く、関東大震災でも実に多くの人が地震が起こる前に地震の夢を見て、それで難を逃れた事が知られているが、阪神淡路大震災でも数多くの「正夢」による地震予知記録が残されている。

ただ、正夢に限らず夢を正確に覚えているパターンは実は大変少ない。
よって正夢や何某かの象徴的な夢と言うものは眠りから醒めて以降、現実の中でも創られたり付け加えられたりしているものであり、この点では自分が思っている夢の記憶は曖昧な部分が装飾されている事が多くなる。
即ち正夢は起きているとき、現実の中で創られる事も多いと言うことである。

では最後にどんな寝方をすればどんな夢を見るかの統計的確率の高い事例と、悪夢を葬る古来の儀式を紹介して終わりとしよう。
本来こうした話題は本が数冊書けるほど膨大な広がりを持っているのだが、それはまた機会を見て少しずつお話できればと思う。

心臓の有る左胸に手を当てて眠ると恐い夢を見るが、これは体の左側を下にして眠っても同じことが起こり、気管や呼吸に障害の有る場合、例えば無呼吸症候群などは確実に恐い夢にうなされている事になる。

また寝ている間に夢でセミの鳴く声が聞こえたりする場合、夢では大きな音が出てくる事が少なく、大きな音が出る場合は直後に目が醒める事になるが、これで目が醒めない時は脳の血管障害が発生する可能性がある。

布団から片足を出して眠っている場合、高いところから落ちる夢を見る可能性が高く、これに性的欲求が加わっていると、崖から落ちて地面すれすれで空を飛んでしまう夢になるが、この夢のパターンで最後は何か黒いものに追いかけられる場合、片方出した足を寝ながら布団に入れようとして、中々入らない状態になっている可能性が高い。

更に膝を立てて眠っている時、どうしても早く歩けない夢や、走ろうとしていながら何かに引き戻される夢を見ることが多い。

早く逃げなければと思いながら、脇で猫が鳴きそうになってその口を一生懸命塞いでいるなどの夢は、こうした状態で寝ている時に見易く、恋人や友人に刃物で刺される夢はどこかでその相手や関係者との関係の好転を暗示していて、これはその代償に自分が刺される夢を見ていると考えられる。

手を片方出して眠るとテニスか釣りなどをしている夢を見る場合が多く、これに付随して、例えば夢で卓球などの試合を見ている時は、目を閉じながらその中では眼球が動いていて、動物などの場合は寝ながら走っている夢を見ている時は、現実でも一生懸命足を動かしている場合があり、極端な暴飲暴食は悪夢や、上司に怒られている夢をなどを見やすくなる。

                                                        「夢占い・4」に続く



「夢占い・2」

さて同じ排泄と言う事で有れば、多くの生物は排泄器官と生殖器官が同じになっている事から、生殖適齢期の男女でも実際にそうした機会が無ければ、生殖活動の夢を見る事が出てくるが、これも排泄器官を共有している事を考えるなら、夢の中で何らかのストップがかかりそうなものだが、実際は夢の中ではストップがかからない。

こちらは排泄と違ってどこかでは社会的に必要な事であり、本能に対する社会的制約が排泄よりは薄いからだと考えられている。
性的なストレスから見る夢は「空を飛んでいる夢」が多い。
崖から飛び降りたら何故か空を飛べてしまった、或いは何となく飛べそうな気がしてジャンプしたしたら飛べてしまったと言うような夢を見る場合、婚活を急ぐべきかも知れない。

またこれは自身が見た夢を記録しておくと分かることだが、実は人間はそれほど多くの夢のパターンを持っていない。
その80%が大体6種類のバージョンの組み合わせになっている事に気付くはずである。
つまり喜怒哀楽、或いは人間の持つ五感とその他に付随してくるが、一人の人間の見る夢はそれほど複雑多岐に及んではおらず、何パターンかの少しづつ細部が異なる夢を繰り返し見ている場合が多い。

ごく稀に宇宙空間で銀河がゆっくり回転している夢や、何故か原始の地球にいる夢を見ることが有るが、これは前者は気温が下がってきた時、後者が風邪などで熱がある時に見やすい夢であり、どちらと言えば生体の側が見させている夢と言う事ができる。

一般的に恐い夢の原因は身体的な圧迫状態に発生し易く、こうした状態が何度か続くとそこに道ができ、僅かな下着の締め付けやほんの些細な刺激が外部から加わっただけで恐い夢を見ることになるが、ここに日常化した恐い夢は最終的には外部の原因が無くても発生してくる事になり、こうした時期が過ぎると、起きている時に恐い夢を見るのではないかと思っただけで恐い夢を見るようになって行く。

だが安心して欲しい、恐い夢は一つの通過点である可能性を持っていて、こうした反復しやすい夢はやがて自分で見る夢をコントロールできるところまで到達する可能性を秘めている。

この記事群の初期に書いた夢の話でも出てくる「舌切り雀」の話などはまさにその典型で、毎晩眠ると高い山に続く道と竹やぶが眼前に広がり、その中腹に大きな箱と小さな箱が台に乗って並び、被験者は毎晩そこでどちらかの箱を選択するが、いずれの箱を選んでも中から恐い者が出てきて追いかけられるのである。

そして被験者はこの箱を選択する際、今まで選択した順番を全て憶えていて、夢の中で昨夜は大きな箱を選択したから、今度は小さな箱を選べば良いようにも思うが、でもそれでは見え透いている、今夜はもう一度大きな箱にしようとやっているのである。

被験者は夏の時期、一ヶ月ほど毎晩この同じ夢を繰り返し見ていたが、そこで夢の中で実験をしていた。
もし箱を選択しなかったらどうなるだろう、やがて被験者はそうした事を夢の中で試すようになる。

初期の頃は絶対選択しなければならないと思っていた大小の箱は、新たに選択しないと言う新しい選択を生じせしめたのである。
夢の中の出来事は特に理由も無く絶対的な部分が有り、それは理由も無く「ねばならない」になっている。
しかしこうした「ねばならない」が消失していくと人間は恐い夢から解放されるようになるのである。



また山は男性の象徴で、これが起きている時は女性の象徴になり易い。
従って男性で山の夢を見る人は、女性に対する意識が変わってきたことを示し、女性で山の夢を見る人は男性に対する関心の芽生えと言う事になり、通常現実と夢は反転状態にある事から、例えば汚物の夢などは実際は自分の知識に関する日頃の思いと言える。

更に好意を寄せている異性の夢などは、見ようと思っても中々見れない場合が有るが、これは自己禁忌作用の表れで、現実にも既に崇高なまでに高められた異性への意識は、夢で有っても簡単に見れないと意識するからであり、特にこの傾向は男性に多く、女性の場合は過去に思いを遂げられなかった異性の夢が多くなる。

金を拾い集める夢と言うのも有るが、この場合最初は小額で、だんだん高額になっていくのは自己の欲望が少しずつ解放されるからであり、この状態を言うなら現実には金が無いか、有ってもすぐに出て行ってしまう状態である事が多く、むかしからヘビの夢は金が儲かる徴(しるし)とされているが、この夢の有効性は無意識に有る。

つまり金が欲しい、だからヘビの夢が見たいと言うパターンは中々ヘビの夢を見ることが出来ない。
つまりヘビの夢を見ると言う事は既に有る程度の金持ちになっているか、可能性が広がってきている状態を指しているとも言え、同じ吉祥の夢で言うなら葬儀に参加している夢、自分が親しい者によって刺されたり、或いは殴られる夢はその後事態が好転する兆しと見られているが、変わったところではムカデの夢なども金銭面での好転を指すと言われている。

                                                       「夢占い・3」に続く



「夢占い・1」

夢の続きは見れるか・・・。

夢の続きは見ることができる。
それも実際のところ夢の続きを見る確率の方が見ない確率より高く、これが目が醒めている時に意識する事によって繰り返されると、最終的にはいくつかのパターンの夢を交互に繰り返し、何本かの連続ドラマを見て行くのと同じような形になる事すら有る。

人間の視覚、記憶は例えば人間社会の道路とフラクタル性(自己相似性)が有り、どちらがどちらのフラクタル性かの判断は難しいが、同じような傾向を持っている。
即ち多く使われる所の道は大きくなり、余り使われない道が寂れていくのと同じように、脳の引き出しから多く引き出される事柄は常に出て来易くなり、そうでないものは出てきにくくなるのである。

また人間の脳は基本的に空間と時間の制約を持っていない。
為に寝ている時は脳内で記憶や視覚などが整理されていると言われているが、この事が夢に関係しているとするなら、夢には現在や過去、未来の概念が無いことをして、脳機能に空間と時間の制約がない事のある程度の証明と考えられ、では何故起きているときの意識で夢の続きまで見られるのかと言うと、基本的に夢を見ている状態は「半分起きている」状態だからである。

パーソナルコンピューターの概念は人間の脳、その脳がどう言う形で動いているかを元に考えられた。
それゆえハードとソフトやアプリケーションと言う、人間で言えば生体の概念と「感情や心」の概念が分離して考えられ、それが両方機能して始めて完成された動きをする形式となっているが、この形式は起きている人間と寝ている状態の人間の概念に近い。

即ち人間が夢を見ている状態は、実際は余り長い時間では無く、この状態はパーソナルコンピューターの起動スイッチが押された状態、そこから実際のソフトが動き始める間の時間に似ている。

つまり人間が夢を見ている時、それは人間の脳がソフトを動かし始めようとする、或いはソフトを閉じようとしている時間であり、脳のこうした機能とハードと言う体の機能の内、どちらが失われても生物としての機能が失われる事を考えるなら、我々は毎日眠りに付いて目が醒める事を当たり前のように思っているが、そこには「生」と「死」が横たわっている事を思わなければならないだろう。

眠りは細い線が次に太い線に束ねられ、更にその束ねられた線がもっと太く束ねられたような状態になっている。
8分、24分、40分、72分、2時間、の単位でそれぞれが深さの違う眠りをしていて、基本的にはこの間隔に当たる部分では目を醒ます機能が少しだけ働くが、すぐに次の波が来て目を醒ます機能が却下される事を繰り返している。

眠りは生体に取って必要な事であるのは間違いないが、しかしそれは生死をさまよう危険と、実際に他から捕食される危険を持っていたに違いない。
ゆえ、眠りに付く事と目を醒ます事には緊急性が生じ、そこで眠りは間隔を持って常に起きる準備をしながら眠る形式となったように考えられる。

従って俗に言う恐い夢は、勿論日頃のストレスの影響も有るが、そのストレスも含めてある種の緊急性を持ったものと言う事が出来、こうした夢の必要性が無視されてはならない。

まだ添い寝が必要な幼いお子さんをお持ちのお母さん、子供の危険性を共有しなければならない状態では、例えば隣に寝ているお子さんが熱を出した場合、その熱が自分に伝わり、そこから火事や実際に子供をおぶって病院を回っている夢を見るときが有る。

そして何故か目が醒めてしまう経験が有ると思うが、これなどはまさしく日頃一体何を自身の中で重要と考えているかの裏返しであり、こうして緊急に起きなければならない事を察知した母親の生体はそれを脳に伝え、そこから緊急に目を醒まさなければならない時、一番効果の有る方法が「恐い夢」なのであり、しかも本当に緊急性が有る場合、それは大きな声となって聞こえ、そこで目が醒める事になる。

ちなみに危険回避、緊急性で言うなら地震発生に関しても、人間は起きている時は初期微動P波を捉える確率が低いが、これが寝ていると約40%の人が震度1くらいの地震でもP波を捉えると言われていて、この為に何故か夜中に目が醒め、そこへ地震が来ると言う事が出てくるのである。

また緊急性と夢の話で言うなら、人間が行う排泄行為は本来動物と同じで、それほど場所や時間の制約を持っていないものなのだが、人間が長い歴史の中で形成した社会はそれを第一級の制約とし、最も最高レベルの重要事項としている事から、基本的には生体が抹消される、殺される事の次に重要な概念を形成している。

だから寝ている時に排泄感が出た場合、夢の中ではどうなるかと言うと、どこかで用を足そうとするのだが、何故か人が来たり、或いはファスナーが壊れていてどうしてもできない夢を見ながら目が醒める事になる。

若しくは夢の中では用を足したつもりでも、実際には排泄がされていない場合も出てくるのである。
男女ともお互いが一発で嫌いになる行為として「寝小便」が有る。
命を賭けても惜しくないと思った相手でも、この行為で全てが終りになる、それほど人間は無意識に排泄を重要に考えている訳である。


                             「夢占い・2」に続く



「感情支配による全体主義」



スピッツ / 空も飛べるはず・・・・・

本来、多数決の原理が多数をして専横を目的としない、いわば少数意見をどう多数意見の中に反映するかを主たる精神としているように、メディアと言う公共媒体が多数意見を報道する事を目的とし、マイノリティを批判すれば、報道が持つ本来の自由独立の精神を放棄するに至る。

2012年10月13日、フランス公共放送「France2」の情報番組での事だったが、同番組はその週内での出来事をランキング方式で紹介する番組で、この週の1位にランキングされた話題は日本対フランスのサッカーの試合で、フランスのチームが敗退した事だった。

そしてその際フランスの攻撃を鉄壁の守備ではじき返した日本のゴールキーパー「川島永嗣」選手を称賛するとも、揶揄するとも取れる同選手の腕が4本になった合成写真が紹介され、司会をつとめていたフランスのコメディアン「ローラン・リキュエ」氏はこの写真に付いて「彼が福島の影響としても僕は驚かないね」と発言、これに会場からは笑いが起こり、ついでに拍手なども起こった。

まあ趣味の悪いジョークと言うものだったが、この番組を見ていたヨーロッパ圏内の各地では少しだけ批判が起こった。

「ジョークとしても行き過ぎている」と言うもので、この段階では特に大きな問題にならかったが、やがてこの番組に過剰反応した日本から「許せない」「謝罪しろ」と言った声がネインターネット上であがり始め、これに対して2012年10月16日には日本政府が外務省を通じて正式にフランスに抗議し、日本の新文部大臣「田中真紀子」氏も「不適切だ」との見解を示した。

また日本の各メディアもこの事を大きく取り上げ、そこでは評論家が語気を荒げて不適切だと発言、フランス文学者の「鈴木創士」氏もネットを通じて、ローラン・リキュエ氏のようなフランス人を見ると虫唾が走ると嫌悪の感情を露にした。

更に日本のインターネット上ではこの問題がヒートアップし、「謝罪しろ」「日本国民を愚弄している」など、過激な書き込みが相次いだが、私は一般大衆の言葉はともかく、日本政府や文部大臣、それに日本の報道機関やフランスとの関わりが深い「鈴木創士」氏がフランスをどうこう言うのは不適切だと思う。

いやこうして僅かスポーツの事で、フランスと言う国家を最も理解しているはずだろう鈴木氏のこうした発言には逆に虫唾が走る。

10月17日、こうした日本の反応に対し、当のローラン・リキュエ氏はラジオ番組で「報道の自由を阻害するもので、絶対謝罪しない」、そう発言したが、私は日本人としてローラン・リキュエ氏を支持する。
人間が皆同じ考えで有る必要は無く、基本的に日本で発生した地震について海外の外国人が悲しむ必要は無く、むしろ関係ないのが普通である。

厳密に言えば震災で被害に遭遇した遺族、関係者以外はその苦しみや悲しみを理解することはできず、その苦しみや悲しみを他人に求める事は傲慢な事であると思う。

基本的に生物は自分が生きる事を最大の目的とする事から、その同種の他が消滅する事は自身には関係の無いことであり、こうした生物的原則が有るからこそ、人は他を慈しんだり悲しみを共有できるのであって、他に強要すべきものでは無い。
いわば自発性を強要し、それにそぐわねば人間性が無い、若しくは国民を愚弄していると考える事は最も忌避せねばならぬ全体主義と言うものである。

悲しい事が有ったからと言って日本人皆が悲しまなければならない訳ではなく、ましてやそうした配慮を他国文化に求める行為は、韓国や中国が日本の教科書に干渉する行為と図式が全く同じである。
これは不幸や悲しみを盾に取って他の言動や独立した精神を侵すものと言える。

人が持つ意見の中には多数である事をして正しいとは限らないものも存在する。
それゆえ多くの対立した意見を「心」をして統制してしまうと、雑多な意見の持つ部分的な正義までも封鎖してしまい、やがては本当に正しい事すら言えない社会が顔を出し始め、いや日本は既にそうなってしまっている。

「心」を人に求めてはならない。
それは個人が自身で判断する事であり、震災と言う災害に関してそれをどう思うかは個人の自由である。
これを悲しんでくれる、気持ちを配慮してくれる事は有り難い事だが、その事を強要して人の心、言動を封鎖することをしては、万一その多数意見が間違った方向に走っていてもそれを修正できずに突っ込んでしまう事になる。

事実震災復興費の使い道を巡っても既に問題が出始めている昨今、「絆」や「復興」のスローガンの元にあらゆる事がたった一つの意見、考え方に国民を向けさせ始めていて、その影で言論が自由を失い、あらゆる問題を闇に突き落とし始めている。

フランス第五共和政第4代大統領「フランソワ・ミッテラン」に隠し子騒動が発覚した時の事だったが、この事を取材してたのはイギリスやアメリカ、それに日本の報道機関だった。
各国の報道機関がミッテランを囲んで「隠し子はいるんですか」と尋ねたが、ミッテランはこの時「ああ、いるよ、大きくなってるよ」と言って立ち去り、そしてフランスではこの事が問題にすらならなかった。
それほど個人の自由を重んじるのがフランスと言う国家だ。

日本ではジョークにならない事でもフランスではジョークになる。
この事を理解せずに政府関係まで真剣に怒っていては、現在の韓国と何等変わらない他国理解の在り様と言える。

従って国民が意見を発言する事は肯定されても、政府機関や報道機関、それにフランスに一定の関係が有る日本人が、スポーツ評論くらいの言葉で怒りを露にする事は適切では無い。

「自分を理解して欲しかったら、まず相手を理解する事だ・・・」                                                  Gaius Iulis Caesar

「陽は昇り、月は沈む」

デフレーションが深化する主たる原因は、その発生直後の中央銀行の金融政策の失敗、並びに景気が悪化した事に対し安全策を講じようとする政府の緊縮財政に原因がある。

従ってデフレーションの解決策は明確になっていて、市場に物資が多く出回り、相対的に通貨供給量が少ない現象である事から、市場に通貨供給量を増やせば良い事になるが、この対策は時期が遅れると名目上の金利が0を下回る事はできない為、遅れれば遅れる程効果が無くなる。
これが現在の日本中央銀行の通貨の量的緩和政策にも拘らず、デフレーションが加速する要因の一つだ。

またデフレーションによって需要が落ち込めば、本来ならそれによって労働賃金も下がって行く事で労働賃金と需要のバランスを保つのが市場原理だが、労働賃金の下限には硬直性が存在し、為に一定水準まで下がった賃金がそれ以上下がっていくには時間軸が必要になっていく。
この為実際の市場価格に見合った水準まで労働賃金が下落するにはデフレーションが深化するほど時間がかかり、これによって失業率が上昇する現象が発生する。

価格が下落し市場が活力を失い、そして実質的な政府の財政出動が必要になっていくが、デフレーションが深化してからこうした財政出動を行う場合、その財源を増税に求めた場合、これは事実上その国家の国民の通貨所有率を減少させ、未来に措いて更なる不安を煽る事から実質消費の減少に繋がり、その増税分を超えたマイナス収支が発生する。

一般的にインフレーションがデフレーションよりも歓迎されるのは、金持ちをいじめるよりも一般消費者をいじめる方が国家経済的ダメージが大きくなる為だが、この点で言えばデフレーション政策は金持ち優遇政策であると言え、現在政府が行っている消費税増税、また環境税や震災復興税の創設などは確実にデフレーション深化政策である。

我々国民は消費税増税の影に隠されて国会を通過した環境税、震災復興税、それに健康保険税増税と言う消費税増税以上の増税に苦しみ、更に消費を絞って自衛策を講じる事になるが、この事は更なるデフレーションの深化以外の何ものでも無い。

一方市場動向で物資価格が下落し、それによって良い影響を受ける者も存在するが、この事をしてデフレーションには良いデフレーションと悪いデフレーションが存在するとする考え方も有るが、この考え方は劣化比較論だ。

市場動向に左右される一般大衆は価格下落による給与、所得の下落影響を受けるが、市場価格が下落すれば利益を被る者、これは一定の給与や支給金額が決定され保障されている者である。
つまりここで言うデフレーションによって利益を被る者とは公務員、年金受給者と言う事になる。

一般大衆は物価が下がるに従って自身の給与や所得も下落する事から、それに加えて増税が発生すると加速度的に通貨所有率に対する不安が生じる。
しかしあらかじめ受け取る金額が決定されている公務員や年金受給者は、物価が下がった分だけ通貨供給が増えた、若しくは通貨価値が上昇した恩恵を受けるのである。

その上で現在日本の年金受給者と公務員、介護施設や病院、それに連動して金融機関や大手企業などで働く労働人口を加えた比率が、全労働人口の35%近くにもなる現実を考えるなら、ここに緩やかなデフレーションパラダイスが発生していて、この為に日本国民自身が積極的にデフレーション脱却を考えていない現実が隠れているような気がする。

そしてここで公務員や年金受給者に加えて大手企業や金融機関労働者をデフレーションパラダイスにしたのは、即ち公的資金が投入された実績のある企業、税制優遇を受ける企業は潜在的に政府保証が存在すると見られるからであり、公的資金の投入は基本的には国民から集められた税金が投入される原理である事を考えるなら、公務員給与支出、年金支出と同じ事だからである。

つまりこの日本には潜在的にデフレーションを歓迎する者とそうで無い者が存在し、例えば税金で歳費が賄われる国会議員や官僚が、デフレーション対策に対して財政出動を躊躇する原因は、この潜在的な現状歓迎感が緩やかに作用していると考えるべきかも知れない。

更にデフレーションによって恩恵を受ける者としては国債の所有者も同じである。
国債も実質名目金額が変化しない事から、デフレーションに対して有利な状況に有り、この国債の多くは日本の金融機関が保有している。

それゆえ日本経済は完全に金持ちの所へ金が集まる仕組みとなっていて、政府が行う増税はこの仕組みを助けているだけ、デフレーションを加速させているだけなのである。

デフレーションはいつまでも続かない。

やがて日本国外から入ってくる食料、原油、鉄鋼資材などが海外でインフレーションを起こした場合、それが元で確実に日本はインフレーションを起こし、その時デフレーションを潜在的に歓迎する者が市場連動している国民から搾り取るだけ搾り取ってしまっていたとするなら、力を失った市場はこれを支えきれずハレーション、つまりは1ヶ月に30%以上の物価上昇率を示すハイパーインフレーション、若しくは食料や原材料、原油のみがハイパーインフレーションになり、その他は全て価格が下落する経済崩壊を迎える事になる。

デフレーションの解決策はそんな難しいものでは無い。

例えば消費税の期限付き撤廃、現在行っている財政出動の財源を増税から国債の発行に切り替え、それを日本銀行が買い取ってしまう方式でも日本国内に通貨供給が増加し、それによって通貨価値が下落することでデフレーションを緩和することができる。








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「ロマンスの危機」・2

ここに高齢化社会が進行し、非正規雇用の増加、長引く政治的失策が続く日本経済は相対的貧困者数を増加せしめ、平均収入そのものが下落し始めているのであり、その結果が明日の食料調達すら困難な絶対的貧困者数を増やし、それが形になって現れると生活保護家庭の増加、若しくは高齢者の年金に関わる犯罪数の増加なのである。

1990年の意識調査では、もし生活に困ったら親を頼るかと言う問いに、20代の若者の42%が頼ると答え、これが50代では8%しかなかった。
しかしこれが2007年には20代の若者で親を頼ると答えた者は24%に減少し、その逆に50代では26%まで増加した。

この事は何を意味しているかと言えば、資本形成が本来なら現役労働者人口中最も有利となっていなければならない50代で減少し、高齢者資本形成社会になっていると言う事である。

そしてこうした現象の意味するところは、従来で有れば相対的貧困に相当する年金生活者すら豊かに見える程の限界相対的貧困層の増大と、絶対的貧困者数の増大であり、貧困がその国家の国民が持たなければならない最低限のプライドすら奪ってきている現実と言うべきかも知れない。

1988年、日本人男性が生涯に得られる給与所得は凡そ2億円から2億4000万円、その平均年収は500万円で60歳までの計算だった。
しかし現在のそれは高くても1億5000万円前後にまで減少し、尚且つ70歳くらいまで何がしかの収入を得なければならないと言うのが現実ではないだろうか。

統計的には日本人の平均収入はこの20年で40%減少した事になり、そこに広がる現実は年収240万円以下と言う貧困世帯が既に地方では標準化している傾向を見ても明らかだ。

もはや日本のみならず世界的に経済、行政、政治の改革が必要になってきているが、人間が本質的に未来を概念し始めた時から、そこに求められるものは「安定」で有り、この仕組みは政治の世界も行政も変わらない。

従って政治や行政の変革は人間自身の手では為し得ないものであり、これらを刷新できるものは人間の力を超えたもの、人間が制御できないものによってしか為し得ない。
つまりはコントロール出来ない「経済」、若しくは「災害」によってしか人間は変わることができず、ではこうした経済と災害のどちらかを選択できるのかと言えば、その選択の余地は無く同時に発生するのである。

この20年で我々の収入を40%も失わせたもの、世界から多くの収入を奪ったものの正体、それは豊かさで有り人間の努力だったが、その結果が人間から夢や希望を奪い、ひたすら安定する事を望む、本来なら求めてはならないものへとひた走らせた。
生物の本質は安定では無く、安定は停滞で有り、そこに待っているものは確実な滅亡なのである。

我々の収入を40%も奪ったものは、我々が失った40%の新しいものを求める気持ち、夢や希望、そう言い換えるなら我々一人一人が失った40%のロマンスだったのである。





「ロマンスの危機」・Ⅰ

いにしえの頃ローマの南、その少し東側に「Latium」(ラティウム)と言う国有りて、新興国だったローマが新しいもの、大衆を意味するとき、この「ラティウム」は古いもの、伝統的なものを指していた。
そして「ラティウム」はやがて古いもの、伝統的なものを指す「ラテン」と呼ばれ、新しいもの、大衆を指す言葉がローマ、つまり「ロマンス」(ローマ的)である。

それゆえロマンスには本来文化的に古いものに対する新しさと、権威や重さに対する軽さ、大衆的な意味合いが有り、同じロマンスと言う言葉を考えるとしても、日本人のそれとヨーロッパの感覚は微妙な違いが有る。

勿論現在に至れば「ラテン」と言う言葉にしても、日本の「古様式」と言う意味を持つことは通常では失われているかも知れないが、それでも薄く僅かでも他の概念の中に生きている感覚であり、同じようにロマンスにも日本人の感覚より僅かに広い意味が包括されている。
即ちそこには男女の色恋沙汰のみならず、「期待」や「望み」と言うものが薄く広がっているのである。

アメリカと言う国家は世界トップレベルの経済大国だが、いわゆる先諸国と言われる諸国の中では「貧困大国」でも有り、貧困には2つの定義が有る。
一つはその日の食料調達も困難な状態、これを「絶対的貧困」と言い、もう一つはその国民の平均所得の半分以下しか収入が無い状態を言い、これを「相対的貧困」と呼ぶが、アメリカの相対的貧困者率はOECDの2004年度調査でも17%と、OECD加盟国中最高位である。

そしてこのアメリカに続く世界第2位の貧困大国が「相対的貧困率」15・3%の日本であり、これが2011年にはどうなったかと言うと、国民の皮膚感覚とも言える世論動向ではアメリカが24%、日本でも19%が既に貧困に陥っている可能性が有ると感じていて、この中で貧困を訴えているのは若年層が多い。

更にギリシャ経済が破綻し、スペイン、ポルトガル、イタリア、フランスなどに経済危機が広がってきている2012年、世界の相対的貧困率は平均でも20%以上に感じられているのでは無いだろうか。

資本主義は拡大を命題とし、その基本は「格差」、つまりは負ける者がいて勝つ者がいる事を理とする。
競争は博打に同じで資本力のある者が必ず勝つ事から、少ない勝者に大多数の敗者を生じせしめ、その勝者の少ない施しによって敗者の生存が賄われる社会が発生するのは避けられない事である。

これがアメリカの経済の大系であり、このアメリカ経済の大系を理論として構築されてきた戦後国際社会の経済が、今日の破綻を迎えるのはしごく当然の事だ。
尚且つこうしたアメリカの経済理論を至上として構築された日本経済がアメリカに次いで先進諸国中第2位の貧困大国となるのも目に見えた事だったが、この傾向は現在に至って加速度的に進行している。

その一つの例は「環境税」と言うものだが、これは国民生活に絶対必要なエネルギー消費に課税する仕組みであり、こうして得られた税収は新しいエネルギー開発に関係する補助としても使われるが、国民の多くが相対的貧困に陥っている今日、そうした新エネルギー開発に着手できる者は資本や資産を持っている者であり、ここに見えるものは相対的貧困者から搾り取った金が資本家や資産家に更に集まっていく現実である。



                                                  「ロマンスの危機」・2に続く





「我が父と母たち」

例え他にどんなに素晴らしい知恵が有ろうと、更に合理的な方法を思い付くとしても、それが現在の時点で思い付かなければ、今それができないなら、その方法は初めから無いに等しい。
それゆえ如何に非合理的で苦しいもので有っても今思いつく最高の事を、自分が今できる限界のところを今やらなければ、そこで躊躇していては未来が苦痛になっていく。
そう私は思っている、いや信じているのかな・・・。

朝、目を醒ますと気温変化に付いて行けない妻が苦しそうに呼吸をしながら眠り、そんな彼女に何か一口でも食べさせようと、また娘にもそれなりの弁当を用意しようと台所に立ち、それが終わったら100kmも離れた大学病院に入院している父の所へ向かう生活、その影で秋の稲刈り作業が微妙に遅れてしまった私は、9月中頃を過ぎる辺りから稲穂の中に僅かずつ見えてくる緑色を気に留めながら、何の手立ても加える事ができなかった。

今年は大変な日照りで、当地は殆ど雨が降らなかった事から、春に除草剤で抑えられる以外の、9月になってから伸びてくる「稗」(ヒエ)や「タテ」と言う乾燥地に生える雑草が田圃に生えやすくなっていた。
従ってこうした場合は早めに稲を刈り取れば雑草被害は無くなるが、稲刈りが遅くなればなるほど雑草が繁殖し、稲刈が困難になって行く。

この事を知りながら一生懸命稲刈りを進めていた私は最後残った6枚の田圃まで来たとき、さすがに「もうだめかな・・・」と田圃の前で呆然となった。
もはや体力も尽き気力も失せ、畦に座り込んでしまった。

2反、1983・48平方メートルの田圃3枚がそれぞれ半分くらいまで「タテ」と言う膨大な葉っぱが付く雑草に占拠され、稲穂の姿が見えない状態になっていたのである。

少し離れたところでも私と同じように稲刈りが10月にずれ込んだところでは、場所によって稲刈りができなくなり、草刈機で刈り倒してしまったと言う話を聞いていた私は一瞬雑草の無い部分だけ稲刈りをし、雑草の有るところは草と一緒に処分してしまおうかと考えていた。

コンバイン「稲刈り機械」で刈り取ろうとすれば必ず刈り取り部分が壊れるだろうし、それで上手く行ったとしても次に乾燥が終わって籾から玄米にする段階で、米に草の屑が混じりやすくなってしまう。

「家に病人がいて大変でした」「一生懸命頑張ったのですが間に合いませんでした」などと言う言い訳は、優しい上司ならいざ知れず自然相手には全く通用せず、弱い者、怠惰な者は徹底的に叩かれるのがルールであり、これに妥協の余地は無い。

これが私と天との契約と言うものだ。

缶コーラを飲んで煙草に火を付け、うつむいた私は田圃を眺め、それから天を仰ぐ。
「くそー、俺は絶対負けないからな・・・」
「何かを言い訳にして、できませんでしたとは絶対言わないからな・・・」



タバコの火を消した私は田圃に入って稲をかき分け、雑草を一本抜いて見た。
9月になってから生える雑草など所詮は根は浅い、「タテ」は比較的簡単にごっそり抜けてきた。
それで私は田圃の端から一本一本雑草を抜き始めたのだが、これはどう見ても人から見ると狂気の沙汰だったようで、1983平方メートルの半分、900平方メートル一杯に生えた雑草を抜き取る姿を見た村の者たちは「あんたそんな事をしておったら、町中の者にしんきょ(狂人)やと言われるぞ」と呆れていた。

だがそうして雑草を抜き始めて2日目、隣の家の一人暮らしの高齢者女性が「あんたもやっぱり○○の家の者やな、強情なものや・・・」と言って一緒に雑草を抜くのを手伝ってくれた。
そして翌日にはまた村の別の高齢者が、その翌々日には更に人が増えて5人もの村人が私と一緒に雑草を抜いてくれ、おそらく明日には3枚目の田圃の雑草も一本残らず抜いてしまうことになるだろう。

私は緑に占領された田圃を元の黄金の稲穂がたなびく田圃に戻したかった。
それが私の天に対する礼儀だと思った。

今回のことで私はもしかしたらこの町で鬼だ、狂気の沙汰だと言われたかも知れない。
だがこうした私の有り様を生んだのは誰か、それは我が父で有り母であり、祖父母であり、この村と千年に渡って連綿と続いてきた農の歴史ではないか・・・。

合理的に考えれば雑草が繁茂した部分など草刈機で刈り倒してしまえば良いだろう。
しかしそれをさせないものは何か、私に雑草を抜けと言う者は誰あろう、この村の住人と、ここで苦しい時も米を作って来た多くの人々なのではないか・・・。

私は田んぼで雑草を抜きながら、我が父や母は我が父や母だけに有らず、私はこの村人たちの子供でも有った事を知った気がする。
幼い頃、若い頃はこんな田舎臭い教養も何もない下賎な者などと、どこかで両親や村人を見下したように思っていた。

だが、我が形を為すものはこの多くの父や母たちであり、この土地で生きた幾多の人々そのもので有ったような気がする。

農の契約、天との約束はおそらく個人の約束ではないのかも知れない。
土地と天との約束で有り、その狭間に人がいるのかも知れない・・・。

今年は稲刈りが終わったら村人を招いて祝宴を開こうかと思う。
この土地の末裔は皆で力を合わせ、今年も天との約束を守ることが出来た。
私は稲刈が終わったら神前に新米を供えひれ伏しながら、きっと村人にもひれ伏しているに違いない・・・。






「後始末工学」



Nolwenn Leroy, Rentrer_en_Bretagne (Car竪ne)・・・・・


熱力学第二法則に措ける質の高いエネルギーに対する質の低いエネルギー、つまり相対的に劣化したエネルギーは、例えば電気を使って湯を沸かした場合、この沸かされた湯が劣化エネルギーである。
電気はそれで湯も沸かせれば他にも動力としても使える、或いは電気そのもののエネルギーとしても使えるが、これで沸かされた湯を電気エネルギーに還元する事はできない。

従って電気で湯を沸かした場合、我々はより質の高いエネルギーを使って質の低いエネルギーを生産した事になり、人間の営みは全てが質の高いエネルギーを質の低いエネルギーに変換し続ける、この作業の連続と言え、本来質の高いエネルギーはその存在が地球に古来から存在する成分と調和しているが、劣化したエネルギーは非調和成分が多く、こうした観点から考えるなら劣化エネルギーは存在そのものが邪魔になってくる、つまり人間の生産したものは全て最終的にはゴミなのである。

これが地球と人類の関係であり、人類は地球を食いつぶすならまだしも、その本質は地球をどうにも還元しようのない劣化エネルギー、つまりゴミの星にしようとしていると言うのが正しい表現かも知れない。

近代科学技術社会が生産する物質の特徴は、その一つが量の莫大さ、二つ目には難分解組成物で自然分解が困難なものが多いこと、三つ目には人類史より遥かに長い歴史を持つ生態系に対する非調和性物質が多い事である。

プラスティックを例に取ろうか、この素材の生産物質は世界中に溢れ、しかも土に埋めようが野ざらしにしようが分解されず、植物や微生物がこの物質上に繁殖する事はできず、害こそあってもそこから養分などの摂取は不可能である。

プラスティックは他の熱など質の高いエネルギーを使わなければ分解が困難なのであり、こうして質の低いエネルギーが質の高いエネルギーを使って分解され、その上分解時に発生する煤煙などには有害物質など、更に劣化したエネルギーが生産されるサイクルが有り、こうしたサイクルは地球が持つサイクルとは全く相反するサイクルで有り、人類が如何に「エコ」を唱えようがそれが行う生産はエネルギーの観点から全てゴミと定義されるべきものとなる。

マクロエンジニアリングが進行し、人々がより高度な生活様式を展開する社会を迎えた今日、大衆の夢や希望とも言える豊かで快適な社会は、大量生産、より細部に至る物質のクオリティへと向かい、その事は質の高いエネルギーが質の低いエネルギーに変換されていく速度を更に早め、人間が使用する物質が全て永遠では無い事を考えるなら、その大量に生産された劣化エネルギー物質はいつか必ずゴミになる運命に有って、尚且つそれは長期に地球に滞在する事になる。

また野菜や穀物などに措いても、既に自然が持つ還元型生産から離脱し、科学肥料や殺虫剤、除草剤などの非還元型、非調和物質、ここで言うなら劣化したエネルギーによってその多くが生産され、流通や保管、安全性の確保には生産以上のエネルギーが使われ、ここに分散されたエネルギーは元に集積させることはできず、日本人を例に取るなら食と言う第一次欲求に関して、その本質に使われるエネルギーの実に6倍から10倍の、質の高いエネルギー劣化変換が起きている。

更にこうした意味で原子力をエネルギーを鑑みるなら、そこに有るのは莫大な量のエネルギー劣化で有り、しかもこのエネルギ劣化こそ地球に長期に渡って滞在する難分解劣化エネルギーであり、人類がもし原子力をエネルギーとして使い続けるなら、この処理工学は原子力開発以上に重要になるが、現在の段階ではそれが為されていない。

この現状で原子力エネルギー政策を推進すなら、人類は自身等が生産する劣化エネルギーによる影響以上の悲惨な結果を迎える事になる。

だが一方、では石油火力発電や水力発電ではエネルギー劣化が無いのかと言えばそうではない。
化石燃料を燃やし、そこから電力を得てこれが人々によって消費された時点、冒頭の話でも出てきたように湯を沸かした時点でそれは劣化エネルギーに変換されるのであり、この事は水力発電でもダムに侵入する土砂などによって相対的貯水量の減少、また下流域の水コントロールによる平野の老化現象などに繋がる訳で、結果として原子力発電で消費するエネルギーと同等のものが劣化していき、この事は風力発電でも同じ原理を持つ。

それゆえ人類が生きていく事、その中で豊かな暮らしや利便性を求めるなら、その滅亡は必然とも言えるのであり、国際社会や国家の破綻などたかが知れている。
今日我々人類に求められるものは、エネルギー劣化の阻止であり、言い換えれば貧しく不便な生活へのシフトダウンと言うことになろうか・・・。

この地球の第一次生産者は「植物」である。
地球46億年の流れの中で、はるか26億年前には葉緑素の働きが既に始まり、藻類の発展こそが地球の大気を酸化性のものとし、その後発生してくる動物生態系の大発展の礎となり、海のプランクトン、高等藻類、地表を覆う緑色植物の存在は現段階でも全ての生物生存の絶対条件である。

この事は常に忘れてはならない事であり、最も特殊で良質なエネルギー、「水」の循環濾過システムも「植物」であり、これを劣化エネルギーにし続ける事をして人間が生きていると言う事なのである。

人間の社会はおそらくどんな事でも最後は金で決算できるかも知れない。
だが、金や経済で地球は決算してくれるような相手では無い、その代償は「命」だ・・・。

さて、不用意に湯を使う事から減らして行こうか、生きていく為に・・・。

プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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