「1000円札」



INNA - Love (Official Music Video)・・・・・・

物質は一般的に「化学統合」の形式でエネルギーを保存している。
つまりその瞬間ごとに他と反応しながら存在する事から、そのエネルギーの絶対値がどれだけで有るかは決定することができない。

物質の持つエネルギーは「自己」と「他」のその時の状態に有って、これが単体の状態を基準にしたなら、その状態と他の状態のエネルギーの増減は、反応熱の変化によって知ることができ、物質が化学変化を起こす時は必ず熱の出入りが存在する。

黒鉛1mol(モル)を酸素の中で完全燃焼させ二酸化炭素とする場合、394kJ(キロジュール)の熱量が発生するが、こうして反応によって熱が発生する場合の反応を「発熱反応」と言い、この逆で燃えて真っ赤になった黒鉛に水蒸気をかけると、黒鉛1mol中131kJの熱量を吸収して一酸化炭素と水素が発生し、このように熱を吸収して進行する反応を「吸熱反応」と言う。

ちなみに「J」(ジュール)と言う単位は国際単位系「SI」で用いられるエネルギー単位で、物体に1N(ニュートン)の力が作用していて、その力の方向に1m動かす時、その力がした仕事を指し、「1N・m」が1Jである。

また14・5度の純粋な水を15・5度にまで上昇させる為に必要な熱量を1calと言い、1kcalは1000calの事になるが、これをJ(ジュール)に換算すると1calは4・184J(ジュール)になる。

物質は勿論化学統合だけでエネルギーを保存している訳ではないが、例えば分子間相互作用や分子の熱運動でもエネルギーは保存されているものの、これらのエネルギーは化学統合エネルギーよりは遥かに小さく、物質は高いところから低い所へ落下して行き、自然界にこの逆変化は存在しない。

位置によるエネルギーは高い所(位置エネルギーが大きい)から低い所(位置エネルギーが小さい)所へ、熱エネルギーは高熱状態(熱エネルギーが大きい)から低温状態(熱エネルギーが小さい)と言う具合に、自然界で起こる変化は常にエネルギーの高い状態から、エネルギーの低い状態へと変化していく原則を持っている。

これは言い換えるなら高温や高い状態という「不安定な状態」から低温や低い状態という「安定した状態」へ向かっていると言う事であり、こうした事を考えるなら生成物のエネルギーが低い方向へ進行していく「発熱反応」は自発的な進行になり易いが、反対に生成物のエネルギーが高まっていく「吸熱反応」は進行しにくくなる。

「吸熱反応」は何らかの手が加わらねば進行しない。
だが反応熱の絶対値が小さい場合、自発的に「吸熱反応」が進行する場合が有る。
これはどうしてか、実は物質の変化はエネルギーの変化によってのみ発生するのでは無いことを、この現実は示している。

物質を構成している素粒子もまた微小ながら熱運動をしている事から、物質はその散らばり具合の小さい所から、散らばり具合の大きな所へと動いているのであり、この場合の「散らばり具合」は「密度」では無く「乱雑さ」を指している。

面白い事だが物質はそれがある程度統合された「物質」と言うマクロでは安定へ動き、反対に物質を構成する分子や素粒子の単位では「乱雑」と言う方向に動いている訳で、考えようによっては物質は熱を滞留させておく容器の側面と、混沌と秩序が同時進行で壊され作られながら動いている性質を持っている事になる。

ところで今日は私の住んでいるところは、朝から雷が鳴り響き冷たい雨が降っているが、何故か急に初めて自分の車を買った時の事を思い出した。

丁度こんな季節だったか、それまで乗っていた叔父さんから貰ったスバルの軽四が壊れ、仕方なく買ったシビックに乗り換えて間もないころ、晩飯代わりにパンを買おうと思って入った町の小さな雑貨屋で、私はまだ生まれて間もない子供を抱いた若い母親から、出て行き際に声をかけられた。

「済みませんが、お忙しいですか」
私と大して年が違わない母親は申し訳なさそうに訪ねたが、そんなに緊急なこともなかった私は「いえ、後は家に帰るだけですから」と答えた。

するとその母親はは更に申し訳なさそうな顔で、「すみませんが、お金は払いますから家まで送ってもらえませんか」と私に尋ねたのだった。
店の前で車を止めて降りてきている訳だから、私が車に乗ってきている事は分かっているだろうし、おまけに外は冷たい雨で、おそらく5時30分は過ぎていただろう、辺りは完全に暗くなっていた。

「ああ、いいですよ」と私は答えてパンの入った袋を持って、その母親を後部座席に乗せた。
母親の家は商店街から1km程も離れたところだったか、指示どおり運転して5分もかからないところに有ったが、彼女は家に着くとまず子供を中にいた、おそらく子供にしたら祖母になるのだろうか、その人に渡すと、既に帰ろうとギアを入れていた私のところまで戻って来て、何度も有難うと言い、財布から1000円札を取り出して私に差し出した。

「お金はいいですから、それにタクシーでは無いので・・・」
私はそう答えたが、母親はどうしても受け取って欲しいと言って聞かなかった。
1000円札の上にパラパラ雨が振ってきて、あっと言う間にそれはしおれて行った。
その様を見て、母親もまた傘も差していなかった事から、私は「じゃ、遠慮なく」と言って金を受け取り、家路についた。

そう言えばあの1000円は何に使ったのだろう・・・。

物質の話を書いていながらどうしてこんな事を急に強く思い出すのか自分でも分からないが、それほど大した事でもなく、既に母親の顔すら思い出せないのに、何故か雨に濡れていく1000円札だけしっかり記憶に残っている。

Me voy a mudar, y la destrucción y la creación..
「創り、壊し、そして動いている」




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「地面から人の手が・・・」

1989年当時、愛知県犬山市に在住していた「山崎茂吉」さん(仮名・当時79歳)は早くに両親を亡くし、その為20代後半の頃、生家の有った岐阜県鶴見から一人暮らしだった祖父を引き取り面倒を見ていたが、その祖父が10代半ば頃に実際に体験した話である。

当時「山崎茂吉」さんの祖父「山崎源次郎」さんの家は木商人(きあきんど)と言うから、小規模な木材商、或いはその人夫作業頭をしていたか、その辺ははっきりしないが、いずれにせよ少しばかりの畑と森林関係の仕事で生計を立てていたらしく、この時僅か20年ほど存在した「岐阜県鶴見村」(現在の揖斐川市)に住んでいた。

1891年、10月中頃のことだった。
実際源次郎さんの父親が何故源次郎さんを連れ出したかは不明だが、或いは冬にソリで木材を引き出す為の道を下見していたのかも知れない、その帰り道での事だった。
獣道を僅かに外れてしまった源次郎さんは細い水が流れている緩やかな谷に出てしまったが、そこは来た事も無い場所で、何となく薄暗く湿度が気温を押し上げているような感じの悪い場所だった。

これはまずい、ここに長くいては恐らくろくな事にならないだろう、そうとっさに判断した源次郎さんは慌てて父親の名を叫ぶが、意外にも大きく外れてしまったと思っていた父親の声は近くから聞こえて来た。
そこでさっき父親の声がした方向へと足を早めた源次郎さんだったが、その少し小高い土手を登った直後、生涯忘れることの出来ない光景に遭遇する。

何と眼前の杉木立の中には何十本、或いは100本を越えていたかも知れないが。白っぽいネズミ色の人間の手が生えていたのである。
大きさもまちまちなら向いている方向もバラバラ、まるで死人の手のような薄気味悪い手が、力なく半分開かれたようにあちこち地面から生えていた。

杉木立の下は薄暗く、それはまるで地面の下から助けを呼ぶように、また近くを通る者の着物の裾を恐らく必至で掴むであろうように、今は静止しているが、源次郎さんがそこを通れば絶対に動き出すかのように思われた。

源次郎さんは立ちすくみ、背筋に冷たいものが走った。
さては黄泉の国の入口に立ってしまったか・・・。
源次郎さんは一瞬もう家には帰れないかも知れないと思った。

が、そこで震える体を抑えながらもう一度父の名を呼ぶ源次郎さん、それに対して父親はただならぬ息子の異変に気が付いたのか、今度は大きな声で「源次郎、源次郎」と何度も叫び、その声を辿って地面から手が生えているところを避けて、更に何段も続く小さな土手を走って逃げた源次郎さんは、ほうほうの程で父親の足元に転げ込んだ。

「どうした・・・」
怯える息子に声をかける父親・・・。
源次郎さんはこの父親の声に、やっとの事で生き返った気がしたと言う。
「とーと(父ちゃん)、亡者の手や、手が生えとる」
源次郎さんは少し落ち着くと父親に事の顛末を話して聞かせたが、父親は「みみ」(きのこ)でも見間違えたのだろうと、信じてくれない。

確かに本州のいたるところで見られる、通称「ネズミの手」あるいは「このみたけ」と呼ばれる20cm前後の樹木状のキノコは、無理にそう見ようとすれば見えないことはないが、しかしその形状はあくまでも枝が張った樹木のミニチュア形であり、こうした事を幼い頃から認知している源次郎さんがそれを見間違えるとは考えにくい。

源次郎さんがあまりにしつこく「手だ、人間の手だ」と言うものだから、やがて息子の話に根負けした父親、源次郎さんの言うように土手を何回か降りて行ったが、暫くして、そこまで降りる勇気のなかった源次郎さんが待っているところまで戻ってくると、「源次郎、この話は家の者にも、村の者には話しちゃなんねぇ」と言うと、顔面蒼白のまま先に立って山を降り始めたのだった。

そして源次郎さんの父親はその帰り道、源次郎さんに先に家に帰るように言うと、自分は村長の家に入って行った。
この時源次郎さんはどこかで父親が、あの地面から生えている手を見たのは初めてではないような、それとも話だけでも知っていたような気がしたと話している。

それでおそらく翌日は村長の都合が悪かったのだろうか、翌々日に源次郎さんの父親と村長が2人で山に入って行くのを見た源次郎さんは異様な胸騒ぎを覚えたと言う。

国内陸地地震では最大級のM8・0、死者行方不明者7273人、負傷者17175人、全壊家屋142177、がけ崩れ10224箇所の被害を出した「濃尾地震」が発生したのは1891年(明治24年)10月28日、源次郎さんが、山の中であのおどろおどろしい人の手を見た日の9日後の事だった・・・。

これが山崎茂吉さんが祖父「源次郎」さんから聞いた話の全てである。

いかようにも推測は出来るだろうし、地震との因果関係も否定するのは容易だろう。
私もこの話だけならおそらく信じる事はできなかったかも知れない。

でもたった1件、こちらも口伝でしかないが、中国・四川省・松藩(ソンバン)付近には中国が共産主義国家になる以前に「地面から手が生える」伝承が有り、その伝承によればこうだ・・・。
「大地より人の手出ずるなら、これ天下動乱、天変地異の兆しなり・・・」

源次郎さんの父親と村長は何かを知っていたのだろうか・・・。
地面から手が生えると言う記録は、現在世界でこの2例しか残っていない。
しかも文書記録ではなく、辺境の古村の伝承でしかないが、それでもこうして残して置いてくれたおかげで、私はこれを漠然とでも知る事が出来た。

後世もし、地面から手が生えると言う現象が起こったなら、決して慌てるでは無い。
そうした事は過去にも存在した事が有り、漠然とでも良いから天地動乱に備えよ・・・・。



「時爺放談・その弐」

藤原・「一般には余り知られていないが、あの借金引き延ばし政策には銀行保証が付いていたんだよ」
細川・「銀行保証かね」
藤原・「そう、もし中小企業が借金を延長してくれと言って来たら、銀行もただでハイ、そうですかと言う訳には行かない」
藤原・「そこで借金を延長しても、それでも金が返せなかった場合は元金の40%までの政府保証が付いてたんだ」

細川・「ってことは何かね、万一の場合銀行は4割保証されていた訳か・・・」
藤原・「そうなんだよ」
細川・「普通企業再生法でも2度目になれば破産だが、その時は債権者分配は1割以下と相場は決まっている、それから見るとかなり回収額が高いな」
藤原・「そこだよ、だから中小企業に金を貸している銀行は、そのまま放っておいて倒産、破産されたら困るので4割取れるなら不良債権にしてしまおうとなってくる訳だ」

細川・「あの、何て言うんだか、そうだ、貸し剥がしってやつか」
藤原・「そう、それが起こってくるんだ」
細川・「それが来年に迫っている訳か」
藤原・「しかもここでモラトリアムを使った中小企業の内、おそらく7万件は2010年度より収益が落ちている」

細川・「つまり7万の中小企業が貸し剥がしに遭って無理やり倒産と言うことか、随分ひどい話じゃないかね」
藤原・「その上でだ、東北の震災復興予算も現実に動いている金は本当に少ない」
藤原・「何もかもが計画止まりで、実際に震災復興に直接動いている金は8000億円くらいだろうと言われているんだな」

細川・「なるほど、それで震災特需と言うのが無くなっている訳か」
藤原・「だからこれはもうここまで来ると政治ではどうにもならんのだよ」
細川・「民主党から自民党に変わろうが、維新の会や小沢になろうが変わらんと言うことだね」
藤原・「日本の円高は世界の合意でそうなっている、つまり日本はこれまでずっと世界からワリを食わされてきた訳だ」

藤原・「バブルの頃、日本とユダヤさへいなければ世界は平和に暮らせると言われたが、その時はめられた孫悟空の懲罰輪っかが、円高な訳だ。
細川・「それで日本は経済的には世界の優等生で無ければならんことになっていたんだったな」
藤原・「そうそう、でもヨーロッパは金融不安か破綻、それにアメリカも財務赤字で窮々、中国もヨーロッパ輸出偏重から影響を受けて成長が毎年下がっている」

藤原・「中国経済は経済成長率が今は7・4%だが、これが7%を切ると国内全土で失業率が倍になって各地で暴動になる」
細川・「そして日本が終われば世界は終りと言う事かね」
藤原・「そう言う事、それをあの安倍のバカが国債買い取りと言った訳で、ここで円安になると世界経済をアメリカが支えらられなくなる」

細川・「基軸通貨のドルをアメリカが支えられなくなるんだな」
藤原・「あのバカのおかげでこれからアメリカからの要求は本当に厳しいものなるんじゃないか」
細川・「そう言えば消費税増税もその一番背後はアメリカだと言われていたが、日本経済の停滞ならいざ知れず、破綻してもらっては世界が困ると言う仕組みだったか・・・」

藤原・「日本は餌なんだよ、だからと言ってこの立場から逃げ出そうとしてもその先は死しかない、だから餌なりにしたたかに生きて行かにゃならんのだが、それが分かっておらん」
藤原・「通貨の増刷などアメリカでもやってることなんだよ、基軸通貨のドルですらそんなもんだ」
藤原・「だけどこれを正直に表で言うバカがどこにいる」

細川・「7万件の不良債権、それに金が流れ震災復興は全く進まず、世界経済は悪い方向しか動かない、その上に日本は増税の嵐で、これじゃまるで地獄だな」
藤原・「来年の日本は地獄だよ」
藤原・「今の日本人は政治家や政党が変われば何とかしてくれると思っているかも知れないが、日本の地獄行きは変わらない、世界の流れなんだよ」

細川・「それであんたは政治の話などしたくないと言ったんだな」
藤原・「そう言う事、円の増刷は良いんだよ、だがこれが世界に知れるとマズイんだよ」
藤原・「円は今ギリギリのところで高値止まりしていて、これで世界がやっと生きている訳だ、しかし板切れ一枚下は暗闇で、円が紙くずになるときは一挙にやってくる、だからこそ円は誠実でなきゃならん訳だ」

細川・「自分の発言で円が下がったと安倍は喜んでたが、これで日本はまたアメリカから追い込まれるか・・・」
藤原・「悲しいね・・・、あのバカさ加減が・・・」

細川・「総選挙後も自民党は少しプラス、公明党は横ばい、民主党は激減、維新の会も大したことにならず、小沢の所もそれほどは伸ばせない」
細川・「結局自民中心の連立内閣になるだろうが、もはや民主党が自民党に変わったところでどうにもならんと言う事になるかな」
藤原・「あんたやっぱり話をまとめるのが上手いね、もう時間か・・・」

細川・「羊羹がまだ少し残っておるから、収録が終わっても、お茶でも持ってきて貰ってゆっくりしていかんか」
藤原・「甘い者は食いすぎると体に毒なんだよ」
細川・「だからこれ以上は死なんと言うに・・・」
細川・「最後は下手なコントになってしまいましたが、では次週と言う事で・・・・」

   「はいっ、カ~ット!お疲れさまでした」



「時爺放談・その壱」

地獄か極楽かは分からんが、とにかくあの世の事だ・・・。

藤原口達が細川流言の所を訪ねてぼやく。
藤原・「あんた、最近面白い事は有るか」

細川・「いや、生きてる時も面白くなかったが、死んだらもっと面白くなくなったな、あんたはどうしてた」
和服姿の細川は座卓に肘を付くと、手を顔に当てて暇そうに答えた。

藤原・「暇ちゅうもんじゃないな、死にそうだよ」
細川・「これ以上死なんだろう」
藤原・「まっ、そりゃそうだが、いい話を持ってきたんだよ」
細川・「あんたのいい話と言うのはまた女か・・・」

藤原・「それも有るんだが、今度こちらの世界でも時事放談をやらんかと言う話が出てるんだが、どうかね」
細川・「あちらの世界でも続けていたんじゃなかったか」
藤原・「あんなものが時事放談なんぞ、笑わせちゃいけないよ」
細川・「そうだな、最近の朝日新聞も随分と上品になりすぎて手が付けられんからな」
藤原・「どうだろう、あんたさえ返事をしてくれればこちらの世界でもちょっとやって見たいんだが」
細川・「どうせ暇だし、やってみるかね」
藤原・「よっしゃ、決まりだな」

と言う事で、あの世版「時事放談」が開始されたが、現世の時事放談と混乱する、或いは間違えられると心外だと言う事で、タイトルは「時爺放談」と言う事に決まり、収録はむかしのように金曜日に行われた。

 「ハイっ、スタート!」
細川・「と、言う事でこちらの世界でも我々で、現世の政治について語ってみたいと思いますが、ゲストは昔と同じメンバーで申し訳        ない、藤原口達です」
藤原・「その申し訳ない藤原です、宜しく」
細川・「はっはっはっ・・・、相変わらずあんたは面白いな」
細川・「ところで今日は現世の政治の話をしろと言うんだが、どうかね」
藤原・「政治?、今の現世に政治なんてあるのかね、あんなものお笑いだよ」

細川・「随分手厳しいな、でも野田は結構したたかにやったんじゃないか」
藤原・「裸で自民、公明の所へ逃げ込んだブタ・・・、って言っちゃいけないのかな」
細川・「ディレクターの今井が顔をしかめてるが、気にせんでいい」
藤原・「とにかく最低のやつだよ」
細川・「あんた公明党の時もそうだったが、民主党も一緒かね」
藤原・「それ以下だね、話にならん」

藤原・「それより政治の話なんぞ面白くないから、今日は経済の話じゃダメかね」
細川・「経済か、まっ、似たようなもんだ、じゃ経済の話で、あんた何が言いたいのかね」
藤原・「来年はモラトリアムが爆発するぞ」
細川・「モラトリアム?」
藤原・「別名モラルハザードとも言うが、2010年に鳩山内閣で連立を組んでいた亀井静香が打ち出した徳政令だよ」

細川・「あー、思い出した」
    「あの銀行には公的予算が投入されるのに、一般企業はそれがないから不公平だと言って作った借金延ばしか・・・」
藤原・「もうみんな忘れてしまってるかも知れんが、あれは法制化されているので今も生きてるんだよ」
細川・「で、そのモラルハザードがどうしたんだね」
藤原・「あんたは借金もないからいいかも知れんが、あれで借金を待ってもらっていた中小企業の延長期限が来年から切れてくるんだよ」
細川・「ほう、そりゃ大変だ」

細川流言は少しテーブルに身を乗り出したが、この時スタジオ横から和服姿の女性が菓子とお茶を細川と藤原の前に運んでくる。

藤原・「おお、番組恒例だね、懐しいね」
細川・「あんたがきっと喜ぶと思って、これも再現しておいたんだ」
細川・「あんた名前は?」
女性・「遠藤加代子です」
細川・「そう言う人だそうだ」
藤原・「年は聞いちゃいかんのだろう」
細川・「今井が今度はバツを出しているから、いかんのだろうな・・・」

    この2人の会話に無表情なまま一礼した女性はお盆を持って、またスタジオ横に消えていく。

細川・「とら屋の羊羹だそうだ」
藤原・「そこそこうまいな」
藤原・「そう言えば戦後間もない時期、甘いもんが少なかったから、あの小佐野賢治がこのとら屋の羊羹を土産に使っていたな・・・」
細川・「あれは入婿だったからそんなところは気が利いてたのかも知れん」
細川・「もっともわしんとこは金持ちだったから、羊羹ぐらい嬉しくも何とも無かったが・・・」
藤原・「まっ、懐しい話だわな」

細川・「ところで一体何の話をしてんだっけ」
藤原・「おー、危ないところだった、忘れてたモラトリアムだよ」
細川・「モラトリアム?」
藤原・「これじゃまるで志村けんのコントじゃないか、あんた幾ら何でもそこまでボケちゃいないだろう」
細川・「すまん、一度やってみたかったんだ」
細川・「で、モラトリアムが破綻してどうなるのかね」


                                                  「時爺放談・その弐」に続く







「腐った林檎」



鬼束ちひろ - Infection・・・・・

例えば中南米諸国内のキリスト教、主にカソリックだが、この教義遵守は大変厳しいものとなっている。

まず「愛」を神の前に誓うと言う儀式、結婚に付いて言えば、神の前に永遠の愛を誓う訳だから「離婚」が許されなくなる。
更に生まれてくる子供の定義も基本的にそれは「神のご意思」によって生まれてくる事になる為、妊娠したらそれが例えレイプされたもので有ったとしても「中絶」が許されないと言う考え方が出てくる。

それゆえここうした教義が現実の適用ではどうなって行くかと言えば、結婚式を挙げない同棲、お試し結婚期間の発生に繋がり、ここで若い男女は神の前で永遠の愛さへ誓わねば全てが許される、何人もと同棲生活を始め、そこで性の概念は乱れきったものとなるので有り、レイプされた子供の中絶が許されない状況は、ある種のレイプ容認、婦女子の男性所有概念の薄い容認になっていく訳である。

このように大きな概念の遵守を厳しくすると、その大きな概念を超えねば全てが許される、或いはそこで派生したものが蔓延する事になり、こうした状態は大きな概念を実質上無意味にしている為、大きな概念は既に失われている。

また権威や権力と言ったものも、それが集中した状態は大きな力を持つが、少しずつ民主化が進むと、本質的に民主化の進行は権力の分散で有り、ここでも民主主義が広く民衆に適用されるようになると、その民主主義を担保するに足る「力」が失われ、結局そこでは無責任な民主主義、意味を持たない民主主義が発生してくる。

つまりあらゆる物理的概念も同じ傾向に有るが、「分散」とは「崩壊」の事なのであり、この観点から現在日本の政治を鑑みるなら、2012年11月20日現在の段階で、既に大小15の政党が名乗りを挙げている現実は政党の分散状態と言え、ここでは本質的に政党と言うものの概念が失われている。

「政党助成金制度」は或る意味「補助金」の一種であり、「補助金」と言う形の援助がどう言った結果をもたらすかは1980年代の国際支援を見ても、あらゆる企業や第一次産業従事者経営助成制度を見ても、その国家民衆、企業や庶民生活を最終的に破壊する効果しかなかった事は明白である。

にも拘らず政党を育成すると言う妙な考え方の元、国民の血税がこうした制度に使われ続けた結果、冒頭の中南米の結婚概念と同じように、結婚さへしなければどれだけの女と寝ようが、何人の男と関係しようが関係ない状態と同じものになってしまっている。

つまり政党が助成金を得るだけの容器になってしまったのであり、本来なら政策や主張が有って、国民生活向上の為に如何なる努力をするのか、そしてその政党が民衆から信頼を得ることが政党としての有り様だが、先の政権だった民主党を見るまでもなく、簡単に主義主張がひっくり返り、政権公約は簡単に蹂躙される。

あまつさへ、選挙に勝てないと思いきや何の躊躇もなくに所属政党を変え、または新党を立ち上げると言う具合である。
一体政党を何だと考えているのか。

第三極と言われる民主党、自民党以外の政党でも石原東京都知事と橋下徹大阪市長の連携で急遽作られた一夜城、某維新と言う政党では代表格の橋下市長が公然と「組織を作りたい」と発言している。
つまり国民生活の向上や経済、外交などでは無く、団体を創りたいだけだと発言しているのであり、これなどは確実に政党助成金を得るだけ、選挙に勝つだけが目的と言う事だ。

先の民主党政権、民主党と全く考え方は同じな訳で、国民はこれから喧しい選挙運動演説を聞かなければならないが、その中で「必ず勝利して、皆さんの付託に答えたいと思います」と言われたとしても、その人間が信じられらなかったら、勝って貰う必要は初めから無いのであり、こうした個人や新人の信用にある程度の担保を与えるのが政党と言うものだ。

然るにそうした政党、或いは政党を志す者が政策をコロコロ変え、主張は大同団結でひっくり返り、聞いたこともない政党が乱立し、その中で候補者が離合参集していたら、どうして国民が政党を信じる事が出来ようか。
今や政党が本来担保すべき候補者個人の信用の上積みは失われ、その個人が持つ小さな信頼さへも政党と言うものによって失墜する事態になっている。
簡単に言えば政党が候補者個人の信用すらも妨害をしているのである。

そしてそうした政党に対して「政党助成金」が支給されている訳で有り、国民は政党の本来の意味が壊され、衆議院選挙と言う大切な権利行使時に誰に一票を投じて良いか分からない、または投票そのものに失望する為に、血税を使われている事になっているのである。

少なくとも民主党政権は鳩山、菅、野田政権によって間違いなく政党の要件を蔑ろにし、国家の威信を大きく傷つけた。

そして自民党、公明党は民主党の影に隠れて消費税増税を成立させた。
橋下維新の会代表は組織を作るだけが目的で政策が無く、その他の政党も掲げる政策を実行すると信じるに足る「担保」が無い。

加えて腐ったリンゴ箱の中から、僅かでもマシなリンゴを探そうとするマスコミは、リンゴにたかっているハエを見間違え、少しマシなリンゴだと報道するに至っている。
15の政党は政党の分散、つまり政党の崩壊であり、あらゆる情報が分散され個人化した現在、マスコミも崩壊している。
そして民主主義の極みにある民衆には、その民主主義が無意味化している。

腐ったリンゴはリンゴにしてリンゴに有らず。
政治が国民の邪魔にしかなっていない今日、選挙権と言う権利はもはや権利ではなく、義務でしかなくなった。
そして日本と言う国が本当に求めているものは政治に対しての何かだろうか・・・。
本当は国民、民衆に対して何か大きなものが求められているように見えるのだが・・・・。



「自由民主党」・3

三木等はこうした中で新党結成を目指すが、ここで鳩山が脳溢血で倒れた事から、三木は自由党内部に留まって吉田内閣打倒を画策、これに対して吉田は「抜き打ち解散」を行い三木等に揺さぶりをかけるが、この際反吉田色の濃かった石橋湛山、河野一郎を自由党から除名する。
しかし超本人の三木武吉を除名しなかったのは、吉田の中にも少しは「義」と言う思いが有ったと言う事だろう。

やがて紆余曲折の中、1953年2月28日、ついにその日はやってきた。
西村栄一の質問に対して「バカヤロー」と発言した吉田茂は、社会党右派の「浅沼稲次郎」と三木の画策により、首相の懲罰動議を提出され、これが背後から更に根回しした三木によって本会議を通過してしまう。

その上で三木は余り積極的では無かった野党の尻を叩き、内閣不信任案を提出させ、この回避を条件に吉田の辞職を迫るが、吉田はこれを拒否、内閣は解散された。
世に言う「バカヤロー解散」だが、この時吉田茂が言ったバカヤローの言葉は、本当は小さな声だった。

しかし偶然にも国会のマイクがこの声を拾ってしまい、それで西村栄一が騒ぎ出した事から話が大事になっていったが、こうして解散総選挙となるも選挙後も自由党の第一党の立場は変わらず、吉田内閣解散時に結成された自由党反主流派(鳩山派)は、総選挙後にもたれた鳩山・吉田の話し合いによって、その大半が自由党に復帰し、「中村梅吉」「山村新治郎」「池田正之輔」等、俗に言う「8人の侍」と呼ばれた8名の代議士が復党を拒み、「日本自由党」を結成する。

だがこうした状況も長くは続かず、1954年には社会主義勢力の台頭から保守統一の機運が盛り上がり、この機に乗じて三木は反吉田勢力を結集し「民主党」を創設、吉田内閣はついに総辞職に追い込まれ、ここに第一次「鳩山内閣」が誕生する。

一方原水爆反対、貧しさからの脱却、反戦争の国民的機運はどうしても共産主義、社会主義思想を増長する事から、当時の日本では社会主義が勢力を付け、しかもそれが結集されつつ有った。

またこの時期になると三木は自身が癌におかされ、余命3年以内と医師から告げられていた為、社会主義の台頭に対抗するには自由党と民主党と言う、保守勢力の分裂状態を何とか改善しなければと言う思いに駆られたに違いない。

1955年4月13日、三木は自由党と民主党、両保守勢力の連合を唱え、自由党に対して工作を始めるが難航し、これを見ていた鳩山一郎は涙を浮かべて「保守合同にこの鳩山が障害になるなら、私はいつでも総辞職する」と口走り、これに慌てた自由党と、民主党内の保守合同反対派は一挙に合同に向けて傾いて行ったのである。

この保守合同は不安定なものだった。
総論賛成各論反対で、保守合同は実現したものの統一された後の総裁すら決められず、従って三木等5人の総裁代理執行者が統一後選挙を実施し、そこで総裁を決める事になった。
そしてここに自由党と民主党の合同が実現し、「自由民主党」が結成され、その初代党首には「鳩山一郎」が就任した。

三木はこの翌年1956年7月4日、東京目黒の自宅で永眠した。享年71歳。

稀代の政党人はこうしてその一生を終えたが、かつて「いつか戦争が終わったら君は総理だ」「じゃその時は三木君が衆議院議長だな」、そう言って誓い合った鳩山と三木の2人、確かに鳩山の総理は実現したものの、結果として三木の衆議院議長は実現しなかった。

政治家は良いものだ、その理想を追えばそれに人が付いてくる。
言わば「神輿」のようなものだが、政党人はそうは行かない。
代議士と言うある種利益の突起達が持つ蠢く泥のような中を、或いは理不尽と言っても良いか、そんな中を歩いて行かねばならない。

三木が最後に思った事は何だったのだろうか・・・。

書生時代の「星亨」の有り様、それを見ていた自分だったのだろうか、それとも「例え政敵で有っても国益が害されるを使ってこれを非難、攻撃してはならない」、そう語る加藤高明の横顔だっただろうか・・・。

政党政治が弊害ばかりとなってしまった日本の今日、政治とは何か、政党の役割と、何が政治なのかを今一度考えて頂く機会になればと思い、駆け足で「三木武吉」を追って見た。

本文作成には「小野信二」氏、「門脇禎二」氏両氏執筆の「新日本史」、「戸川猪佐武」氏の執筆資料を参考にさせて頂いた。
末尾では有るが、著者に心より敬意を表する。



「自由民主党」・2

星はまるで金権政治の権化のような手法、それに強引だったが、そうして稼いだはずの金はどうやら公的なものに使われていたようで、彼が刺殺されて残っていたものは1万円の借金だった。
また書生や他の女中達にも気を配る、内に優しい人であったようだ。

女性関係は潔癖で、この点は三木としては星を手本とできなかったが、後に「憲政会」総裁「加藤高明」、「濱口雄幸」等をして「一目御置かねばならない人物」と言わしめた三木の軍閥排除、議会政党政治主導主義は、実はこうした星亨の書生時代に基本が有ると見るべきである。

最も三木が加藤や濱口を感嘆せしめたシベリア出兵視察報告書には、当時の日本のシベリア出兵を内政干渉と糾弾していた事から、外務経験が有った加藤からは「国益と議会運営を天秤にかけてはならない」と言われるが、この事も三木のその後に大きな影響を与えたのもまた事実だ。

ちなみにこれは有名な話なのでついでに紹介しておくが、三木には5人の妾がいて、第25回衆議院選挙のおり、立会演説会で対立候補の「福家俊一」候補から「この男女同権が謳われる今日、妾の4人もこしらえている者が衆議院議員に立候補するのは時代や品位を考えても如何なものか・・・」とやられる。

だがこれに対して三木は「妾は4人では無く5人だ、数も読めん者がでかいことを言うものでは無い」と切り返し、その返す刀でこう言う・・・。
「妾と言ってももう女を終わった者ばかりで、それでもこの三木は女を捨てるが如く不人情はできないゆえ、今もみんな養っております」
「また、かくなる国家の非常時に当たり、女房と妾の5人程も仲良く暮らさせる程の者で無ければ、国政を預かるに足りるとは言えないのであります」、とやるのである。

立会演説会を聞いていた聴衆からは大きな笑いと共に、「いいぞ三木」「男だぞ三木」のかけ声がこだましていた。

そして三木武吉を政界に引き上げたのは「加藤高明」と「濱口雄幸」で有り、その後憲政会幹事長に就任した三木は1923年5月の選挙で憲政会を第一党にまで躍進させる功績を上げ、加藤高明は内閣総理大臣、濱口雄幸が大蔵大臣となり、自身も大蔵参与官となる。
ここに政治家としての一つの絶頂期を迎えるが、如何せんやはり星亨の影響か1928年、京成電車疑獄で連座に関して有罪となり一時政界を引退する。

しかし1942年の衆議院選挙、この選挙は「翼賛選挙」の時期で有ったが、これはつまり太平洋戦争と言う非常時に措いて、戦争遂行、軍部に協賛する者は大政翼賛会、或いは大政翼賛会奉仕会を通じてあらゆる金銭的、人的援助が受けられた制度期の選挙で有り、この為戦争反対とまで行かなくても軍部と議会を切り離そうと考える者は翼賛会の推薦を受けられず、非常に不利な立場で選挙を闘う事を余儀なくされた時期の選挙だったが、ここで三木は翼賛会の推薦を受けずに衆議院議員に当選する。

また同じように翼賛推薦を受けずに鳩山一郎も衆議院議員に当選、ここに「政友会」幹部の鳩山と「民政党」幹部の三木は、互いに政党的には敵対する立場に有りながら、自由主義政党の同志として軍部の政治支配に抵抗し、いつか平和な時代が訪れたら鳩山が内閣総理大臣、三木が衆議院議長となる事を誓うのである。

太平洋戦争は日本の敗戦によって終わった。
1946年(昭和21年)4月に行われた衆議院選挙、三木は鳩山一郎と創設した「日本自由党」の幹部として活躍し、選挙後日本自由党は第一党となった。

もはや鳩山首相、三木衆議院議長は目前だったが、ここで鳩山が公職追放処分を受け、総理の椅子には遠かった吉田茂が総裁に就任し、第一次吉田内閣が組閣され、その組閣の2日後には三木も公職追放処分を受ける。

だがこの吉田内閣組閣時、吉田茂は日本自由党執行部に何の相談も無く人事を執行し、この事から自由党内部には強い吉田批判が起こってくる。

吉田茂は基本的には政党を信じることができなかった。
日本が戦争に傾いて行く中で、個人の政治家はともかく政党と名が付けば、軍部に恭順、または協賛して行った戦前日本の政党に対する強い不信感が戦後の政党に対しても続いていたのである。
それゆえ吉田は思うことができなくなる事を恐れ、党の調整と言うものを嫌った。

戦争に反対すると言う立場であれば、三木と吉田に隔たりは無かったかも知れない。
東條英樹内閣が提出した「企業整備法」を翼賛政治会で決議するおり、軍部支配に抵抗していた「中野正剛」(なかの・せいごう)が翼賛会傘下の議員たちを茶坊主と罵ったとき、これに大きな野次が飛んだが、「黙れ茶坊主達!」と野次を制したのは三木だった。

吉田と三木の決定的な違いは吉田が政治家であり、三木が政党人だったと言う事である。

だからこの第一次吉田内閣組閣時、吉田に対する自由党内の激しい不満は、吉田を総裁の座から引きずり下ろすか、そうで無ければ自由党は分裂するかの危機に達するが、ここで戦後力を付けてきた社会党系勢力を恐れた三木は、政党人として、或いは国益と政争を天秤にかけてはならないと言う信念から党内調整に奔走し、本来は宿敵とも言える吉田茂内閣を成立させるのである。

そして公職追放令が解除された1951年6月24日、三木は鳩山や河野等と共に自由党に復帰し、早速吉田内閣倒閣に向けて動き出すが、第一次吉田内閣成立時に条件とされた、「公職追放令が解除され鳩山が復帰したら総理を譲る」と言う約束は破られ、自由党は吉田学校に代表される吉田党へと変わっていた。

                           「自由民主党」・3に続く



「自由民主党」・1

「緊急動議を提出しまーす」
「三木君、三木武吉君!」

衆議院本会議で今まさに「憲政会」が提出した「普通選挙法案」が「立憲政友会」所属議員によって否決されようとしていたその時、本会議に遅れて分厚い資料を片手に議場に駆け込んだ三木武吉は、息も整わない間に大声で緊急動議を叫んだ。

これに対し議長の「大岡育造」は少し慌てたように三木を指名する。
が、しかし議長から指名を受けた三木はキョトンとした顔をしてこう言う。
「この神聖な議場の、しかも議長席にあたかも議長面して着席する貴君は何者か」
「このような訳の分からない者がその席に在る間は審議などできん、即時散会を求める」
「まずその議長席におる、訳の分からん者から出て行け」

何を血迷ったか三木武吉は大岡から指名されると、開口一番議長の大岡に「貴様、何者だ」と詰め寄るのである。
一挙にムッとなった大岡・・・。
「この議場で吾輩を大岡と知らん者など一人としておらん、三木君は吾輩が何に見えると言うか」

「気でも狂ったか・・・」
「人を気狂い扱いするとは何事か」
「衆議院議長はまず衆議院議員で無ければならない、然るに貴君は衆議院議員徽章を付けていない」
「議員徽章無き者は衆議院議員とは認められず、従って衆議院議員で無い者は議長では有り得ない」

できるだけ冷静にに対処しようと言う思いから極力怒りを抑えた大岡の口調、その様子は三木を嘲笑するかのような雰囲気だったが、議員徽章はどうしたと言う三木の発言に一挙に本会議場は野次の応酬となっていく。

「そうだ、そうだ、議長でもない者が偉そうにするな」

「憲政会」側から野次が飛べば、「立憲政友会」側からは「姑息な手を使って散会など卑怯だぞ」と言う声が飛ぶ。
議長の大岡はここに至って三木が何を目論んでいるかが解ったのか、少し苦笑いして三木に反論した。

「議員徽章が有ろうが無かろうが、この大岡を議長と認めない者は本会議場にはいない」
「議員徽章は議員で有るという印であり、常に付けておかねばならない訳では無い」
大岡は三木の思うところが分かって少し余裕が出来たのか、かすかな笑を浮かべながら三木を睨み付けた。

「憲政会」が提出した「普通選挙法案」は「立憲政友会」が反対していて、この法案を二度と憲政会側から提出できないようにするため、「一事不再議」、つまり一度国会の本会議で否決した議案は同じ議案を再議決しない原則に鑑み、本会議で否決する事になっていたのだが、この採決直前に姿を現して難癖を付ける三木、その意図は採決の妨害に有ることは容易に予測できる事だった。

「たかが徽章一つで採決を流そうとは・・・、ふん!、そんな姑息な事はさせんぞ」
大岡は議長席から見下ろすように三木を嘲笑った。

だが大岡を下から睨み上げるように目を据えた三木武吉・・・。
「君はこの大岡を知らん者が有ろうかの勢いだが、議場で徽章を付けん者は議員に有らず、従って議員でもない者は議長でも有り得ん」

「これは先例集だ、ここには本議場で徽章を付けん者は議員に有らずと言う先例がある!」
三木はその手に持っていた分厚い資料を高々とかざした。
そしてこれにたじろぎ、先例と聞いて顔面蒼白となった大岡、結局「先例が有るなら止むを得ない」として本会議を流会にするしかなくなったのである。

今日に至ってまで、国会本会議では議員徽章を付ける事が絶対的な雰囲気を持っているが、その始まりは実はこのエピソードに由来し、また三木武吉が持っていた資料が本当に先例集だったかと言うと、さにあらず。
実はそんな先例など無かった、全て三木の口から出任せだったのである。

三木武吉(みき・ぶきち・1884年ー1956年)は政界の寝業師、大狸、野次将軍と言われた明治以降、近代を代表する政治家で、鳩山一郎(鳩山由紀夫元総理の祖父)と共に自由民主党と言う連合を実現し、社会党との2大政党体制、所謂55年体制を築いた立役者であり、今日に至ってもその有り様は多くのファンを持ち、中曽根康弘元総理などは本心かどうかはともかく、「金丸信」の幹事長時代を評して「三木武吉」を超えたと言っているが、甚だ笑止である。

愛媛県香川郡高松、現在の香川県高松市で骨董商を営む「三木古門」の長男としてこの世に生を受けた武吉、しかし少年期から既に破天荒な行動が目立ち、高松中学在学中には食い逃げ事件の首謀者として退学処分に、その後転学した同志社中学でも乱闘事件を起こして追放処分を受けるが、やがて東京の「星亨」(ほし・とおる)を頼り、星の法律事務所で書生として働く事になる。

星亨は野党自由党の有力者だったが、第1回の帝国議会では政府と真っ向から対立し、為に第1回の帝国議会は予算削減を巡って紛糾、これでは先の展望が望めない陸奥宗光は星と直接話し合い、ここで星に議長の椅子を用意する事で政府原案に同意するよう求め、星はこれに同意する。

星亨は陸奥に負けず劣らずの強引な手法、利益誘導型代議士の元祖とも言えるものだった。
それゆえ汚職の噂も絶えず、1901年、東京市議会議長在職中に刺殺されたが、三木武吉はこの星を通してその後の有りよう、人として男としてどう有るべきかを学んだように思う。
                         
「自由民主党」・2に続く



「もし神がいるとしたら・・・」



プラハ スメタナ「我が祖国」より"モルダウ"(The Moldau) DTM曲.wmv・・・・

「ロナルド・レーガン」合衆国大統領の下で第15代国防長官を務めた「Caspar Willard Weinbeger」(キャスパー・ウイラード、ワインヴァーガー)、通称「cap」はこう言った。

「もしこの世界に神がいるとしたら、それは我々の事だ・・・」

傲慢である。
神を信じていないからこその言葉だが、彼以降の国防長官、国務長官は皆この言葉を愛した。

人は神として生まれてくるのでは無い、神として生きるのでもない。
人として生まれ、人として生きるのだ。
だからどんな時でも人の持つ愚かさ、浅ましさの中に有って、その修羅の道の彼方に人としての究極が有る。
それゆえ傲慢さを極めるもまた神の道であり、この覚悟が有るなら、その事の恐ろしさを知るなら「私は神である」と言う者は最も謙虚な者となる。

政治家に必要なものは「人間性」や「正義」では無い、「覚悟」だ。
眼前に屍の山を築こうが、弱い者を見殺しにしようが、自身が信じる道を、いつかそれが幻想で有ろうとも、幸福な社会を実現する為で有れば、最も愚かな者に成らなければならない、その覚悟こそが政治家の資質と言うものだ。

中国の指導者が「胡錦涛体制」から「習近平体制」に変わった。
世界中が注目する中華人民共和国最高指導部だが、この新体制は5年以内に大きな危機を迎え、その時に対処するだけの能力を持っていない。

簡単に言えば中国新体制はそのスタート時から国家統治能力が不安定な状態に有る。

ヨーロッパの経済危機、EUの通貨はこの2年以内に事実上の効力変換、つまりはそれまで有ったそれぞれの国家通貨に戻されるか、それで無ければユーロが紙屑になる可能性が高い。
こうした中で現EU体制を維持しようとすれば5年以内に経済は崩壊し、その復帰には10年の歳月を要し、耐えている5年間が最も深い絶望期になる。

それゆえEU経済の一番早い復興プランは、今の間に破綻する事であり、こうしてEUが解体する場合は2年間地獄を見ても、復興に要する期間は5年ないしは6年と言う事になるが、いずれにせよヨーロッパ輸出偏重だった中国経済は早くても5年、遅ければ今後10年、大きな成長を望めず、片方で同じように輸出収益国家であるアメリカ合衆国の景気はある種ヨーロッパ連動となる事から、こちらも発展は望めない。

習近平新体制は、まず自国経済界から要望が高くなるであろう経済発展政策プランを持っていない事から、一番最初に経済界の中で特定の企業や地域の選別優遇政治になっていく可能性が有り、この事は現中国で最も国家運営支障の原因となっている共産党幹部の汚職を深化させ、国内では貧富の差が増大し、景気が悪くなるに従って貧しい層が拡大、中国共産党に対する不満は限界にまで達する事になる。

そしてこうした状況で特にプランのない習近平新体制は、国内の不満分子を取り締り、軍部制圧によって統治しようとするだろうが、この時期になると豊かな者が少なく、圧倒的な数の貧困層を抑える事は容易ではなくなる。
例えば一つの自治区全員を皆殺しにでもしなければ国家統治が難しくなるが、習近平はおろか、現中国にその度胸の有る者は存在していない。

この事から中国政府はこうした国民の不満を特定の国家に向けさせなければ体制が維持できなくなる事態を迎え、これは昭和時代初期の日本の状況と同じであり、国内の不満をアメリカに向けさせることで、軍部や政治体制が維持された結果、太平洋戦争に突入した状態と近く、今般中国が最もターゲットとして考えるところは「日本」である。

ゆえ、日本はこのままの政策だと5年、10年以内に中国と局地戦状態になる可能性が出てくるが、これはもろ刃の剣である。
すなわち中国指導部が国民の不満を日本に向けさせる事が出来無ければ、中国が国家分裂の危機にさらされるのである。

従ってここ数年の間に、日本は太平洋戦争開戦前のアメリカと日本の立場の逆の立場が出てくるので有り、相違点は局地戦や紛争が起きなければ相手国、つまり中国が分裂崩壊の危機にあると言う状況で、この点で日本は「何もしなければ勝てる」状態に有り、これは比較的有利な状態と言える。

韓国と竹島を巡り関係が悪化した今日、北朝鮮と食料、燃料援助を条件に日朝友好条約を結び、韓国と中国にプレッシャーを与え、どこかでそれとなく中国民族運動関係者に資金供与を行い、これが少しだけ中国政府バレる状態が最高だが、こうしてプレッシャーを与えながらのらりくらりと黙っていれば、その内耐え切れなくなった習近平体制は、或いは尖閣諸島の攻撃に踏み切るかも知れず、これをして日本は国際社会に被害者として提訴し、国際社会世論を使っても中国の民主化運動を煽ることができる。

だが、ヨーロッパ経済崩壊、それに連動したアメリカ経済の低迷、中国市場の日本企業の活動の困難さは、当然日本にも大きな影響を与えるが、一般的に貧しくなると小さな体裁やプライドが気になりだすものである。
貧しさの裏返しで増長された屈辱に耐え切れず、国民が妙なナショナリズムにうつつを抜かし、衆愚化した政治が日本国民のご機嫌取りに走った時は、中国の政策が功を奏する事になる。

つまり、今後の世界経済、政治情勢は全ての国家がチャンスと危機が表裏一体になっていると言う事だ。

そして日本の今の政治状況、国民の有り様を鑑みるなら、この段階でも少しは諸外国より有利な状態にある日本は、その国民の愚かさと「自公+第三極連合政権」の政策の失敗によって、大きな危機に陥る可能性が高い。

日本は本当は大きなチャンスの中に有る。
しかし目の前だけを見ているとそれが絶望に見える。
おそらく今後の政局は日本のチャンスを絶望にしてしまうだろう。

歴史の転換となる歯車は既に回り始めたかも知れない・・・。



「グローバリズム」

午前3時45分、いつもより少し早く起きた私はまず玄関の電気を付け、それから台所の電気ストーブを付けたが、そこへ程なく新聞配達の車がブレーキをかける音が聞こえた。

本来なら10月最終日にやってくる新聞代の集金、稲刈りが遅れた為、夕方籾すり作業をしていて、いつも集金に来る新聞店の店主に会えなかった事から、毎朝大体3時45分に新聞配達の車のブレーキを音を寝ながら聞いていた私は、遅れた新聞代金を払おうと銀行の袋に代金を入れ、早めに起きて待っていたのだった。

丁度玄関の戸を開けると同時に車から降りて来る人のシルエットが見えたが、新聞店の店主にしては少し線が細い。
おかしいなと思って声をかけたところ、その女性はまさかこんな時間に人が家から出てくるとは思わなかったのだろう、少しびっくりした様子で立ち止まった。

「道理で最近新聞が早いと思っていたら、あなたが配っていたのか・・・」
私は意外に若い女性がこんな時間に目の前に立っている事に、少し戸惑いながら声をかけた。
「○○が腰を悪くして動けないので、私が配ってます」
その女性は少し変わったイントネーションで答えたが、新聞店の店主の妻はフィリピンの女性とは聞いていたが、私よりも遥かに年上の店主の妻は、どうも20代後半くらいにしか見えなかった。

「あんた、子供も小さいと聞いていたが、こんな時間から新聞を配っているのか・・・」
「そうです、私、配ってました」
店主の妻はそう言って笑った。

私は新聞代の集金日に家に居られなかった事を詫び、それから彼女に新聞代を渡すと、少し待っているように伝え、家の台所から買い置きしてあった缶コーヒーを持ってきて彼女に差し出したが、彼女はそれを「ありがとうございます」と言って受け取ると、車に乗り込み、窓から手を振って隣家へと車を走らせて行った。

「大したものだな・・・・」
私は走り去る車を見送りながら呟いた。
新聞店店主の家も私と同じで父親が介護を必要とし、母親は認知症だ。
そこへ嫁いで来て2人の子供はまだ小さく、その上に店主まで腰を悪くしたと言うに、かの妻はかくも明るい。
「まだまだ遠いな・・・」、私はきっと苦笑いをしていたに違いない。

また同じ外国人妻と言う事では、最近の行商もすっかり様変わりし、昔なら体格の良いおばちゃんがリヤカーを押して、或いはライトバンを運転してやってきたものだが、最近ではこんな田舎に、やはり東南アジア系の30代前半くらいの女性が車を運転して行商にやってくるようになった。

元々家内が付き合いをしていたこの外国人の行商女性、家内が体調を壊して時々家から出て来れない時は、田んぼで私の姿を見かけると、そこまでやってきて「旦那さん、コロッケありますよ~」と声をかけるので、思わず高い事は知りながらもコロッケの5つも買ってしまい、ついでに豆腐や見たこともない文字ラベルのパイナップルジュースまで買ってしまう。

育ちの貧しさゆえ、幼い頃はコロッケすら年に数回しか買ってもらえなかった私は、今でもコロッケは特別な感じがして、どうしても逆らう事ができない。
それを知ってか知らずか、田圃のあぜまで来て囁かれると、農作業を中断しても家へ財布を取りに行ってしまうのである。

勿論この村でも彼女が来ても知らない顔をして、家からも出てこない者もいるだろう。
だが私は幼い頃、祖母からいつも人が訪れて呼ばれたら誰であろうと返事をして玄関まで出る事、そして帰りは必ず玄関の外で見送る事を至上として教えられていた事から、更にはそうした時に居留守を使うと、いつか自分の耳が聞こえなくなり、家族に唖(おし、口が聞けない障害)が生まれると言われていた為も有って、どうしても知らない顔ができない。

この行商の女性も30歳も年齢が離れた豆腐店店主のところに嫁ぎ、時々車に載せてくる男の子はまだ3歳くらいだろうか、そんな姿を見ていると、「ああ、凄いものだな・・・」と思う。
何と逞しく、明るく、そして現実に素直なのだろうと、つくづくそう思う。

遠く故郷を離れ、例えそれが金のためだろう、家族を養う為だろうとも30も年齢が離れた男と結婚し、子供をもうけてこうして明るく暮らしている。
思うに「幸福」とは「愛」とは一体何なのだろうと言う思いがする。

過日の事だが、スーパーで娘の買い物が終わるのを駐車場の車の中で待っていた私は、その斜め向かいに車を入れ、多分奥さんなのだろう女性が降りて行ってから、私と同じように車で待っている男性と目が合った。

全く知らない者では無く、大嫌いな奴だったがこの町の経済界の顔を自称している男だった。
私が嫌いな奴だから、おそらく向こうも私のことは大嫌いな事だろう。
私は軽く会釈をしたが男は知らん顔だった。

と、そこへこの町には似つかない派手な格好の女性が4人、妙な英語で喋りながら私の前を横切ったが、それはひと目でフィリピンパブの女性たちと解るもので、ついでに彼女たちはこの男と知り合いだったのか、○○さ~ん」と男に声をかけていた。

しかし、男はチラッと私の方を見ると、いつもフィリピンパブへ通っていると思われたくないのか、親しげに手を振る女性達を無視し、後ろを向いたのだった。
女性たちはそうした男に何かを感じたのだろうか、手を振るのを止めて雑談で笑いながら男の前を素通りしてスーパーの中に入って行った。

私はどこかで情けない思いがした・・・。
男の口癖はたしか「グローバルスタンダード」、これからは世界を視野に入れたものの考え方が必要になるだったか・・・。

祖国を離れこの日本で女の身で、その女を使って生活を成り立たせ、また或る者は日本の男に嫁ぎ、そして子供をもうけ、日本の経済に貢献しながら、祖国の親兄弟に仕送りもし、決して日本の文化と衝突するのでは無くそこに馴染んで暮らしている。

まるで水が流れるかのような有り様と明るさではないか・・・。

「グローバルスタンダード」「グローバリゼーション」を口にするのは簡単だが、日本人はまだまだ諸外国の、色んな人から学ばなければならない事が沢山有るのではないか・・・。



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old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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