「悪事の発覚」



Bond - Canon (Pachelbel・・・・

権利はそこに主張が伴う事から、一見能動的に見えるかも知れないが、この事自体は「他」に対して容認を求める、或いは何かを付与、保証されることを望む意思が根底に存在している為、実態は「非積極性」、「受動的」な考え方と言える。

おそらく「平等」と言う考え方と近いか、若しくは同じものと言えるが、「他」に対する比較上の概念であり、一つの理想、希望と言ったものかも知れない。
それゆえ権利を求める行為は「他」に何かを求める行為となり、ここに求める者が存在することは必然的に自身が求めるものを保証する相手を生むのであり、ここに権力が発生する。

つまりこの世界で或る時は忌み嫌われ、また常に抵抗概念の対象となり易い権力は、権利を求める考え方、民衆の希望や要求から発生するものなのである。

第二次世界大戦中の大英帝国宰相「Sir Winston Leonard Spencsr Churcill」(ウインストン・スペンサー・チャーチル)は「民主主義は最低だ、だが人類はこれ以上の方法を持たない」と語っているが、これは民主主義を良く理解した言葉と言える。

民衆主義の行き着く先は民衆の要求が個人レベルにまで達した「分散」で有り、これに政治と言う権力が原則的に民主主義を実現しようと考えるなら、そこに実体のないもの、規制や法と言ったものまで包括した形の「保証」が発生し、為にその保証の暫定付与者である政府、言い換えれば「権力」もまた「分散」し、結果として分散は一つの「崩壊」でも有る事から、その国家は国家としての崩壊を迎えるのである。

そして一般的に「崩壊」と言うと悲惨で悪いイメージが有るが、「崩壊」はある種の「解放」、または「救い」でもある。
人間は基本的に物理的なものでは救いが得られない。
そこに存在するものはただ一時の気休めに過ぎず、酒を飲もうが美女に囲まれていようが、本質的闇は解消されることなく深化し、ただそれを先伸ばしにしているだけ、しかもそれに自身で線を引く事ができない。

ゆえ、この状態を解消せしめるものは「他」なのであり、自然災害を含むあらゆる「理不尽」、または物理的崩壊によって悲惨な事になったとしても、それが自身を開放する結果となる。

会社の金を横領していたとしようか、幸いにもこれまでは発覚しなかったが、必ずいつかは発覚する事が分かっていて、それでも何とか誤魔化そうと画策し、その間は確かに物理的崩壊は延長されるかも知れないが、「いつバレるのだろう」と言う不安もまた延長され、しかも不安はどんどん深くなっていく。

が、いつかその時はやってきて事は全て発覚し、始めてそれまで自分の全ての根底を為していた不安や怯えからも解放される。
当然それまで築き上げてきた信頼、社会的地位や職業、場合によっては家族も離散するかも知れないが、その本人に取っては横領が発覚しない事と、発覚した方ではどちらが幸福となるだろうか。

実は今の日本はこの横領が発覚する寸前の状態に似ている。
日本が抱えている一番基本的な問題は「社会福祉」だ。
少子高齢化社会の問題は日本と言う国家のあらゆる問題の基盤となってしまっている。

マクロ的には高齢者の年金を制限し、同じく飽満になっている高齢者医療制度を制限することが望まれるが、現実に目の前に在る者は自分の親であり、自分の生活である。
これを個人が線引きする事はできない、つまりその個人の集積である民主主義国家は先の横領犯と同じく、いつまで経っても自首する勇気は出てこないのである。

だがここで重要になってくるのが、今日日本のこの権力の分散、政治の混乱と近くに迫っている震災気象災害の危険性である。
どこかで横領が発覚する時が目の前に来ている、そんな感じがする。

悪事をはたらいた人はその悪事ゆえ、自分ではどうにも抜け出せないかも知れないが、これを救ってくれるのは、それまで命懸けで守った来た秘密を暴露してくれた人、自分を破滅に追い込んでくれた人となるのではないだろうか。

おそらく次期政権を樹立するで有ろう安倍政権はまず経済で壁にぶち当たり、外交防衛で壁にぶち当たる。
そしてTPPを含む諸外国の圧力と民衆の軋轢から、2013年4月には調整機能を失い、7月には完全に処理方法すら失う。

政治形態はこれまでの民主党と同じように、首相が目まぐるしく変わり、その間国家の問題は停滞し、経済は落ち込んだ上に震災復興税、環境税、それに場合によっては景気浮揚策のない消費税増税、健康保険料の負担増額などが加わり、原材料物資はインフレーション、その他は全てデフレーションと言う状態を迎える。

つまり日本経済は破綻、政治的にも完全な崩壊がやってくる上に、この年々激化する気象、それにいつ発生してもおかしくない東海地震と関東地震、先の日本海溝地震による地盤の歪み変化による日本全土の地震の激化、霧島火山、富士火山帯の活動活発化などが必ず重なってくるだろう。
これらは決して偶然ではないように私には見える。

そして日本には貧困、政治的混乱、災害と言ったあらゆる「理不尽」が降ってくるが、この事をきっといつか日本人は感謝する日が来るだろう。
生きる権利も、人間が思っているあらゆる権利も初めから存在してない「虚」で有り、ここで大切なのは我々は誰かの許可を得て生きているのではなく、自分で生きていると言う事実だ。

また災害は有ってはならないものではなく、必ずやってくるものであり、この事実を否定したり先伸ばしてしても何の意味もない。

まずそれはやってくる現実を認め、そこから個人々々がどう生きるのか、生きようとするのかを考えねばならず、あらゆる崩壊、混乱、災害と言うものは「破滅」と同時に「救い」の中に有るのではないだろうか・・・・。




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「銀河が舞い降りて来た」

中世の頃までヨーロッパでは数学と幾何学が同じ意味で使われていたが、数は正数しかなく、ここに0の概念が無かった。
しかしアジアには古くから0の概念が有り、0の概念の彼方に「マイナス」が有り、こうした0の概念の歴史が浅いヨーロッパ社会は、今に至っても引き算やマイナスの概念が若干弱いと言われている。

数学は一般的に政治や社会、文化など我々の生活に密着した部分では、余りなじみが無いように考えられている。

だがもし事業を起こすとき銀行から融資を受け、そこで利益を出して返済するとしたら、ここに0とマイナスの関係が認められていなければ、そもそも融資と言う事も存在できないのであり、0とマイナスの概念が薄い者が事業を起こすと、そこには融資された金額と利益で出された金額の概念的曖昧さが出る。

即ち金利と一定の元金を払っていれば、そこで銀行から文句がでなければ、法的に問題が無ければ0に戻すと言う考え方が彼方に飛んでしまうのであり、欧米型資本主義が「拡大」しか無い事、或いはいつか0にしなければならない概念が弱い為、その理論を中心に経済が組み立てられた世界経済は常に矛盾の中に存在してきたのである。

また同じように文化の中で、その基本的文化様式である「賭博」でも、西欧の「コントラクトブリッジ」と東洋の「麻雀」では麻雀にはマイナス換算が有るが、コントラクトブリッジでは基本的に「持ち金」が限度である事から、0とマイナスの概念が無い。

即ちここでは「無限」に対する考え方の違いが出てくるのであり、この事が片方には「形なもの」を理解させ、その一方には「形なきもの」に対する理解を薄くさせるのである。
そして数学と言うとどこかで完全に割り切れたり、ある種きっぱりと結論が出るもののように考えるかも知れない。

しかし、実は数学でも基本的な事は何一つ解明されてはいない。
例えば「実数」と言うものを取って見ても「R・Dedekind」(R・デデキント)が切断の概念を入れて「有理数の隙間に無理数を埋めて連続したもの」としたが、これが実数の全てを解明しているわけでは無い。

「乱数」も基本的には「非規則性」と言う事になるが、これを厳密に考えるなら「乱数」が存在できない程難しい条件であり、円周率の小数点以下の数字配列も「乱数」の一つとして考えられているものの、それが乱数で有るとされる根拠は「人類がそうだろうと判断している」だけの事だ。

それと実数(real number)に対する虚数(imaginary number)に付いても、マイナスとマイナスをかければ正数、つまりプラスの数になるが、三次方程式の解でイタリアの「Niccolo Fontana Tartaglia」(タルタリア)が開発した解法では実数の解が有るとき、「複素数」(cimplex number・実数、虚数を組み込んだもの)を経由しないと求める事ができなくなる。

つまりここではマイナス1とマイナス1と言った具合に、同じ数字をかければ必ずプラスにしかならない原則の他に、同じ数字をかけてマイナスになる概念が必要になるのであり、数学がこうした場面で例外を設けていくなら全ての数や解の公式は例外になってしまう。

そこで、その理論や原因はともかく発生するものを認めて概念するのが数学であり、ここで生まれた「i」の概念は同じ数をかけてマイナスになる現実を指している。

だが同じ数をかけてマイナスになる概念を解説する事は難しく、同様に円周率「π」や「自然対数の底」(base of natural iogaritm)・「e」、「2、7182818・・・」が何故存在しているのかもその理由は解明されていないが、こうした傾向は科学に措ける物理学、化学、幾何学に付いても同じであり、しいては人間やその人間の感情、社会や政治、文化、芸術など森羅万象、ことごとく同じである。

秩序と見えるものは実は非秩序の一つであり、その非秩序、混沌に完全な混沌を見ることはできない。
人間はその眼前に広がる現実を、常に概念を広げて認めていかねばならない。
人も宇宙も数字も、今この瞬間も「動いている」のである。

最後に2004年、第一回「本屋大賞」を受賞した「小川洋子」さんが「博士の愛した数式」で、オイラーの公式」(Euler s formula)を使い、実に美しく数学を描いているので紹介しておこう。

「どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する」
「彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1を足した途端、何の前触れも無く世界が転換する。
全てが0に抱き留められる」 (小川洋子)

そしてこれは私が描く数学の姿・・・。
「e」と「π」、「i」と言う、それ自体が宇宙のような組み合わせが最終的には「-1」と言う整数値になるとは・・・。
まるで広大な大銀河が雪の結晶となって手の平に舞い降りて来たかのようだ・・・。

「The holy night, I give this talk・・・」




「形の背景」



木山裕策-home・・・・・

物には例えば同じ物、同じ道具でも重さの違いが有り、この重さとは重量では無く見た目の重さを言い、その因するところは「非合理性」の含み具合いと言うことになろうか・・・。

狭義の基本的な酒器を指した場合、それが伝統的な形式を鑑みて作られた物で有っても、明治時代に作られた物と平成の時代に作られた物では、同じ形で有っても相違が出るが、この原因はひとえに「人の数」の差である。

つまり、その時代その環境に何人の人がいたか、どれだけの家族が平均の家族数だったかによって物は見た目の重さを違え、これはあらゆる伝統工芸、工業製品を問わず同じ傾向を持つ。

7人が住む家族で使う一般什器(雑貨器)と2人家族で使う一般什器は、基本的に市販品で有れば同じものを使う。
7人家族だったとしても茶碗の大きさが倍になっている事は無く、大変な富豪で有ったとしてもそれは変わらない。
しかし同じものを2年後に比較してみれば、7人家族の家で使用されていた茶碗は少し重く感じ、2人家族が使っていた茶碗は僅かに軽く感じる。

面白いものだが、物の持つ重厚さとはある種の傷み具合で有ったり、汚れ具合であると言う事になり、これを能面などの製作過程で言うなら、美しく白く磨きあげた面(おもて)にわざと煤けた感じの汚れを拭く、(時代がけ)の作業に見ることができる。

また冒頭に出てきた「非合理」だが、これもまた汚れ具合と同じものであり、明治時代の生活環境では今の時代なら電気や機械、あらゆる家電製品が行なっている作業を人が行なっている訳であり、ここでただ廊下を歩くに付いても、その廊下がその美しさに保たれている事に要する人的労力は平成時代より明治時代の方が遥かに大きい。

従ってそこで使われる器物は多くの人間の労力が携わる事が前提、或いは多くの人間が携わる事が一般的な社会で作られることになり、ここで同じ様式の同じ伝統的な形であったとしても、僅かに曲面が変わったり、絵柄が変化してきたりと言う事が出てくる事から、その事が物の見た目の重さに影響してくるのである。

そして多くの人間が携わると言う事は、その人間が生きている事に付いて必要とされるあらゆる物や人が背後に控えていると言う事で有り、それは姿なくとも物の形に重さを加えている諸因と言え、ここ平成に至り明治時代には人的労力だったものが機械や電気に変換された現実は、かつての人的労力を「非合理」、或いは「無駄」と言う形にしてしまい、これが失われた分だけ平成時代の物は軽く見える。

一般的に「合理性」とは何かに対する比較状態で有り、ここに絶対性は無い。
それゆえ「合理性」の本質は時間やその時間を金銭に換算した場合の事を指すので有って、一方では何かを失った状態とも言え、実は人間の感情はこうして失ったものを求めてさまよっている部分が有る。

誠意、心、気持ちとは何だろうかと考えるとき、人々は皆で「合理性」を唱えながら、その根拠を合理性の対極にある「誠意」や「心」、「気持ち」と言った「非合理性」に求めているのであり、これらは冒頭の明治時代の人的労力など、形無きものによってしか、尚且つそれをそれと実感できないものの中にしか存在し得ないものである。

にも拘らず人間はそれを形として求める為、現代社会は本来形無きものを言葉で表そうとして、より巧みな言葉をして物の重さを、或いは権威をして物の重さにしようとしているが、基本的に物の本質的重みは言葉や説明では担保されない。
また太平洋戦争後の世界は物の重みを映像によって表現しようとしたが、映像の表現はその映像が存在するだけに言葉より更に多くのものを合理化してしまった。

映像は言葉よりも物の重みを軽くしてしまったのである。
「物」はその時代を映す鏡のようなものであり、ある種その時代の象徴とも言え、これはあらゆる芸術作品、工業生産品、食品や著作物も同じである。
社会が混乱し意味ある言葉が全て失われた今日、物の形もまた不安定な状態になって行きつつある。

世の中にそれほど多くの優れた形は存在していない。
造形や芸術は常に人間の意識と同じように比較と相対、従属の循環に有って、このサイクルの中で長く留まる物の形こそ良い形と言えるが、社会が不安定になり、目まぐるしく変化していると、芸術や物の形も変化が激しく、そこに存在するものは比較上の映像的な変化にしか過ぎなくなり、殆どの物が実情の生活の中では必要のない物となっていく。

デフレーションの原因、その最大の原因は金融政策に有るが、その一方でものが売れない事を「必要が無い物を作っている」ところに求める者は少なく、これを伝統や文化、或いは付加価値と考える事は怠惰である。

またこれまでの時代は「時間」を価値と考えられてきたが、その時間の為に人間は更に時間に追われ、今や家族が語り合ったり、夫婦がときには2人だけの場を持つことすらままなら無くなってしまった。

飯を炊くのにかまどで火を起こし、水を汲みに行っていた時間を
無駄だったと思うか・・・。
客の対応、苦情処理、または打ち合わせに会議、それらは生産だろうか・・・。

まだ少し先の未来かも知れないが、世界は時間の概念を少し考え直さなければならない時期、或いは釜戸で飯を炊く事が現在やっている仕事より大きな価値観になっていくような、資本主義の次に来る概念の扉の前に立っているのではないだろうか。
今日、人から貰った記念品の小鉢を見ていて、ふとそんな事を思ってしまった・・・。




プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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