「お笑い芸人メディア」

テレビメディアが大きく変化したのは1998年頃だろうか、パソコンが価格的にも質的にも汎用性を拡大し、大衆化してくると共に、それまでテレビと言うメディアが持っていた情報の速度、現実の演技によるエンターティーメント性が、視聴者との情報の双方向性速度で対視聴者的劣勢に陥り、更にはバーチャル映像エンターティーメントの完成度に、それまでの手法がやはり劣勢を強いられてきた事から、テレビメディアは視聴者と言う市場に対し事実上追い付いて行けない状態に陥った。

ニュース速度はリアルタイムで現場に近い視聴者が報道できるネットシステムが出来上がり、これに専属の記者が映像的にも取材速度的にも追いつかなくなり、片やゴジラが良い例になるが、膨大な費用を要して作られた都市模型が爆破されて撮影されるクラシカル手法より、コスト的にも映像的完成度の面からもバーチャル加工技術が優勢になり、この事が事実上日本からゴジラを追い出してしまう事に繋がった。

またテレビメディアの市場は視聴者だが、その視聴者で有る大衆の動向はスポンサー企業との連動性の中に有り、従ってテレビメディアが視聴者に対して劣勢になっていくと、スポンサー企業からも劣勢になって行かざるを得ない。
ここにテレビメディアは完全に行き場を失ってしまった。

一方、こうした状況の中、テレビメディアは初期の頃ネット社会との競合を避け、対ネット防衛方式の経営を敷き、こうした軋轢はライブドア事件に象徴される現象を生み、ここからテレビメディアは旧来の非ネットメディアと相互に経営的防衛措置を画策した。
つまり非ネットメディアは株式の相互持ち合い、或いは相互資本参入によって初期のネット企業防衛網を敷いたのである。

そしてこうした傾向に目を付けたのが、関西の吉本興業で有る。
吉本興業は太平洋戦争以前、日本のエンターティーメント興行を仕切っていた経験から、資本でメディアを支配する事を経験則的直感として持っていた。
それゆえインターネット社会拡大傾向の初期に見られた「対ネット企業防衛傾向」に乗じ、テレビメディアに対する資本参入、株式取得を強化して行った。

ここに吉本興業は本来なら親木が有って、そこに巻き付くことで自身も成長できる蔓草ながら、親木を支配する体制に入り、テレビメディアは完全に吉本興業の栄養源に陥ったのであり、やがて初期に見られた対ネット防衛経営では更に業績が悪化する事から、遅れてネット社会に参入するようになったテレビメディアは既に未来構想を失っていて、まるで型で押されるトコロテンのように吉本興業へ依存していくのである。

インターネット市場に視聴者もスポンサーも奪われてしまったテレビメディアは、頼めば人も出してくれる、番組そのものも作ってくれる吉本興業と言う麻薬から抜けられなくなって行ったのであり、スポンサー契約が減少していく中でネット社会に飲み込まれる直前、最後の場として「お笑い芸人メディア」に陥るしか選択の余地をなくしてしまったのである。

考えてみればおかしな話だが、政治や海外の民族紛争の解説コメンテーターに、自身の体すら管理できない太ったオカマがもっともらしい事を言い、漢字すら読めない女が社会問題に付いて語っているのであり、ドラマなどの役者も、いつも他人の目を気にしながら生きているような、賎しい目をしたお笑い芸人が下手なセリフを棒読みしているのだ。

何かがおかしいどころの騒ぎではない。
既に異常な世界なのであり、ここに「お笑い芸人メディア」と化したテレビメディアから視聴者が離反していくのは是非もない事だ。
時々テレビのバラエティー番組などが目に入って来るが、そこに見えるものはある種の滅亡感に対する自虐性と言うものかも知れない。

しっかり勉強し、その分野に付いて並々ならぬ造詣を持つ専門家が吉本興業の資本によって傍らに追いやられているのであり、実は同じようにその分野の専門家がアマチュアリズムに追いやられた歴史は、20年ほど以前から地方では始まっていて、ここでも吉本興業はその趨勢にいち早く乗じていく傾向を持っている。

本来政治や海外紛争、事件などの解説は新聞社論説委員、評論家、政治問題の研究者が為さねばならない事で有り、役者は厳しい鍛錬を修めた者、或いは天からその才を授けられた者が為すべき事で、お笑い芸人は人を笑わせる才に長けた者が為す事である。

これを中途半端な者が行えばどうなるか、そこには所詮はアマチュアリズムと言う前提が生じ、為に責任のない言葉が横行する事になる。
責任の無い言葉は聞いていると心地良い時も有るが、それゆえに軽く、本来責任を持った者が言う言葉に対する覚悟こそが言葉の力とするなら、それは「遊び言葉」でしかない。

テレビメディアは今、終焉を迎えている。
経費の面から、利便性から、或いは資本関係から吉本興業を多用すれば、昭和から続いていたようなテレビメディアの特性はいち早く終焉を迎え、ネットメディアの一部に衰退するだろう。

報道はスピードが全てでは無い、エンターティーメントとは何か、プロフェッショナルとは何か、最後にしっかり考える必要が有るのではないだろうか・・・。








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「2%の経済成長率」



Nolwenn Leroy - Moonlight Shadow・・・・・

人類がこの地上に立った時から、その時から常に同じ過ちを繰り返しながら進化を続けて来たに違いない。
しかも生物の基本命題が拡大と種族の繁栄にある限り、その過ちは年代が新しくなる程に規模を拡大させ、愚かさもまた深くなって来たに違いない。

一方生物、取り分け人類社会の進化は自然原理との隔絶の方向に有ることから、本質的には地球の原理や宇宙の法則に逆らう方向性に有り、これをして考えるなら人類文明の進化は大きな基本法則からの離脱、つまり劣化の方向性を持っていて、為に同じ過ち、愚かさの中に有りながら、その質が時間経過と共に混沌へと向かっている。

それゆえ人類文明や社会の過ちは同じような傾向、「自己相似性」を持ちながら、常に全く同じ過ちとはならないのであり、為に古来より記された人類文明に警鐘を与える記録はマクロ、精神性の方向性を示すことは出来ても、その時代に起こった直接の問題解決方法とはならず、人間の精神的進化速度と文明の持つ漠然的進化速度には大きな誤差がある事が顧みられずに、発生してくる問題が常に進化して来ることが考えられていない。

つまり人間は自分の精神的進化速度であらゆる問題を考えるが、現実に起こる問題は自己の精神的進化速度を超えたところで発生してくるのであり、この点ではその時代に発生してくるあらゆる問題の基本的な部分は変わらくても、細部のディテールが変化していて、結果として問題の本質は人間が考えるよりも未来を走っているのである。

1990年から続く日本のデフレーションを教科書通りのデフレーションだと思ってはいけない。
このデフレーションはこれまで人類文明が経験したことのないデフレーションなのである。

近いところで言えば、日本は1920年代にもデフレーションを経験しているが、この時の失敗が第二次世界大戦へと日本をひた走らせ、結果として日本は敗戦と言う破綻でしかこのデフレーションの影を処理することができなかったが、現代の日本の状況はこれより更に深刻な事態にある。
実は国家存亡の危機に瀕しているのである。

旧約聖書中には周囲に全く人がいない所に住む2人の娘の話が出てくるが、やがて結婚適齢期を迎えた娘たちは周囲に男がいない事から父親に酒を飲ませ、意識朦朧としている父親と交わり子供を産み、その子孫が増えていくと言う行がある。

この話の意図するところは、人間は何の為に存在するかと言う事であり、手段を選ばず子孫繁栄が人間の存在意義である事を示していて,仏教でも「生きる」を付き詰めれば同じ事が言えてくる。

日本の少子高齢化社会は、実は人間の持つ基本命題に抵触する重大な問題に差し掛かっているのであり、この点で言えば日本が他国に侵攻されその支配を受けているか、若しくはそれ以上に深刻な事態、国家衰退を迎えている自覚を持たなければデフレーションの解決など絶対に不可能だ。

デフレーションの解決策の一つは通貨供給量の増加で有り、これは通常で有れば有効な策だが、それ以上に人口が高齢化し減少して行った場合、通貨供給量の増加が消費活動減少傾向に追いつかなくなる。
つまり需要限界点が年々縮小し、通貨供給量だけではこれを支えられない事態が発生してくる。

加えて消費税増税の執行こそはまだ行われていないが、電気料金に加算される「環境税」は電気料の値上げを引き起こし、その他「震災復興税」の開始、「国民健康保険料」の値上げ、自動車などにかかる自賠責保険料の値上げなどは、一つの家計を考えるなら安倍政権が唱える2%の経済成長率など簡単に吹っ飛ばしてしまう社会負担であり、社会負担の増加分が経済成長率を超えている限り実質経済成長率は下落していく。

安倍政権の言う2%の経済成長率達成は初めから通貨量の操作だけでは不可能なのである。
人口が高齢化し減少していく時は経済もまた縮小していかざるを得ないのであり、日本は1990年から実質マイナス成長が自然な状態と言える。

にも拘らず2%の経済成長率と言う中途半端な事で、しかもザルに水を注ぎ込むような事をすれば先はもう見えている。

社会保障の大幅な削減、公務員や議員の歳費大幅削減、年金の上限枠設定と、支給額の大幅削減と言うザルの底入れが有って、始めて国民市場の通貨供給量増加が生きてくるので有り、従って経済成長率の上昇は歳費削減とセットで行われ、あらゆる税や社会負担は軽減される政策が無いと、その国家の貧しさや衰退は防ぐことができない。
この事は2000年も前から分かっている基本中の基本政策である。

にも拘らず、ただ漠然と中央銀行に2%の経済成長率達成を指示したと言う安倍政権の有り様は、甚だ無責任としか言い様がない。
まるで霞を金に変えてくれるよう政府が日銀に要請しているようなものであり、経済に措ける政策を政府が放棄し、日本銀行に丸投げしている状態に等しい。

経済の進化速度と人間の精神的進化速度には政治以上の大きな開きが有り、例えばデフレーション対策もその基本は変わらないが、その影で本質は刻々と変化している。

それゆえ経済対策には古来から続くセオリーに、人間が基本から乖離してくる部分を考慮して事に当たる必要が有る。

基本的セオリーですら満足に考えられない者が、少子高齢化社会の現実、先を走っている未来など総合的に考えられるはずもなく、これらは本当はTPPなどの問題解決の緒でも有るのだが、それを安倍政権に期待することは難しい。

これから先の現実は税金や社会負担の増加、石油や食料品の値上がり、日本国籍の民間保険会社の保険料値上げに、法的制度を変化させずに社会的困窮者救済の制限、つまりは手続きによって生活保護などの給付を制限するような事態が発生し、一般国民の給与所得は2年後も更に少しづつ下落していく事になる。

何度も同じ事を言うが、安倍政権の経済成長率2%政策は、負けが込んで小金を借りて最後の一博打を打とうするが如く、しかも「半」しか出ないサイコロに「丁」を代理人に賭けさせているようなものだと思う。



「国家の言葉」

1977年、日本赤軍によってハイジャックされた日本航空第472便は、犯人等によってバングラディッシュの「ダッカ」に強制着陸させられ、そこで日本赤軍の「丸岡修」、「坂東國男」等は472便の乗務員14名、乗客137名を人質に取り、身代金600万ドルと、日本に拘留されている「奥平純三」、「大道寺あや子」等9人の釈放を求めた。

これに対し、当時の日本国内閣総理大臣「福田赳夫」は「人命は地球よりも重い」とし、日本赤軍の要求を全て丸呑みし、身代金を払って日本に拘留されていた日本赤軍メンバー達を釈放したが、当時の国際社会はこの決定に対し身代金も然ることながら、犯人等の行動を許し、更に拘留されている危険人物たちまでも国際社会に放出する行為は、国際社会に対する重大な背信行為だと非難した。

「福田赳夫」の「人命は地球よりも重い」の言葉は「日本は地球よりも重い」と国際社会に聞こえたのであり、この背景には日本赤軍の要求が受け入れられない場合、人質の中のアメリカ人から先に殺害するとしていた犯人側の条件提示が存在した為である。

今も同じだが、アメリカの気分を害しては日本はやっていけない事から、アメリカの顔色を伺っていた福田政権の事情が言わせた「人命は地球より重い」の言葉は、容易に国際社会から見透かされていた。

また当時の国際社会に措ける「正義」に対する概念は現代よりも比べ物にならない程大きく、為に同じようなハイジャック事件が発生した時、例えばドイツやフランスではハイジャックされた人質を救出する場合、その作戦と同時に、人質の中で氏名が判明している者たちの親族に、当人が殺害される危険性を説明し、特殊部隊強行突入の許可と、金銭的補償交渉提示が為され、実に人質の親族達の53%が「正義の為で有れば名誉な事だ」と交渉に応じていたのである。

それゆえこのような覚悟を持った欧米諸国からすれば、アメリアの顔色を伺い、更に危険人物たちを事実上まとめて国外追放に出来たような日本の決定は許しがたい行為だった訳で有り、今般発生したアルジェリアの武装組織による人質事件を鑑みるに、日本のように初めから正義意識のない国はともかく、国際社会までもがどこかで「正義に対する責任」に関して優しくなりすぎている、或いは責任が分散されて弱くなっている感を拭いさることができない。

元々権力であれ暴力であれ、その力は集積される事で更に大きな力となるが、力の弱い者が集まる結束は責任と言うものが失われ、「結束して対抗する」と声高に唱えられながら、その実何もできないものである。

日本は言うに及ばすフランスがそう、アメリカがそう、祖国に家族を残し、北アフリカでその国家の繁栄と自国の繁栄、しいては女房子供のため、父や母のために働いていた人たちに何をしてくれた、何もしてやれず、正義と言う大義すら与えてやれなかったのではないか、無念である。
つくづく無念である。

また、1990年に発生したイラクによるクェート侵攻、所謂「湾岸戦争」に際して発生したイラクによる外国人拘置事件のおり、ここでは世界各国の外交官やその関係者が「サダム・フセイン」大統領によって拘束されたのだが、日本の駐イラク大使がフセイン大統領にこんな要求をしていた。

「日本はこれまでアメリカや欧米諸国よりは遥かにイラクに対して好意を持ち、経済的にも政治的にも支援してきた、同じ拘留される身分にしても、日本人には格別の処置が取られなければならない」

そうだ、日本は欧米諸国の顔色を伺いながらも、イスラム諸国との関係を保ち続けてきたし、その宗教による差別意識も持っていなかった。

一方、第二次世界大戦を通じて世界で唯一アメリカと戦争を起こした日本と言う国を、これまでイスラム諸国の国民はどこかで畏敬し、誇り高い民族と言う憧れを持っていた。
日本とイスラム諸国は遠くても心では近い国だったのである。

ゆえ、今回のアルジェリアの人質事件でも、それがイスラム武装組織であり、尚且つ「ジハード」「聖戦」を掲げるなら、日本はこれを主張しなければならなかった。
少なくとも日本人の人質には格段の処遇を求めるに足る根拠がある事を主張しなければならなかった。

勿論、こうした事を言えば国際社会からは自国だけが大切なのかと非難されるだろう。
だが自国国民の生命を守れない国家など、国家ではない。
どんな手を使っても自国国民の生命を守る姿勢は、長い目で見れば必ず「国威」となって行くのである。

この事は1977年の福田赳夫総理の「人命は地球より重い」の言葉に似ているかも知れないが、その本質はこれと対極を為す、国家として最も重要な事なのである。

その国家が国家維持のために為す反社会的勢力に対する対応は、その国家の方策が尊重されなければならない。
従って今回のアルジェリアの人質事件に関して、アルジェリアが取った行動を非難する事はできない。
だが、武装勢力がイスラムを掲げ、聖戦を唱えるなら、日本国はこれまでのイスラム諸国との関係、その思いの程を主張し、聖戦であるなら尚のこと、日本人人質には格段の処遇を要求する。

「この事はこれまでも、今も、これから先も同じだ、良く覚えておくが良い・・・」
「アルジェリアの為に、その国家と日本、そして息子や娘、妻や両親の幸福と安寧の為に技術者として働いていた者を、聖戦と言うなら何故殺した」
「返せ、一人残さず元のままにして家族の所に返せ!」

アルジェリア武装勢力による人質事件に際し、犠牲となった者に対して心から敬意を表すと共に、その親族には謹んで哀悼の意を捧げる・・・。


「バーチャル・バブル」・2



Jean Baptiste Maunier et Cl辿mence - Concerto pour deux voix・・・・・

そして現在の日本を鑑みるに、彼等江戸時代の民衆を愚かだと言えるだろうか、笑えるだろうか。

例えばスマートフォンはどうだろうだろう、これを使って為されている事はゲームで有ったり、意味もない占い、それに写真を移して家族に送るなど、それを今やらなけれならない必要があるものなど全くないものを、追われるようにやっているのであり、またブログやツイッターと言う世界も同じだ。

いかにも記事を書いているように思えるかも知れないが、その多くはニュースの貼り付けで有り、またどうでも良い個人の日常、はたまた話題になりたいが為の自己主張など、本来現実世界ではマイナーであるべきものが主張されている。

言い換えれば単なる時間の消費であり、基本的には暇つぶしの範囲を出ない事になる。
そうしたものが世界中で大きな市場を得ている訳であり、ここで為されている事は生産とは対極を為すものだ。

つまり現在パソコンやスマートフォンで為されている事は、暇つぶしなのであり、そこに情報による有益性の為の消費は限りなく少なく、実態経済からの逃避行動と言う事ができる。
おそらくこれから先パーソナルコンピューターの市場はどんどん縮小していくことだろう。

スマートフォンなどの端末タブレットがパソコンと同等の機能を持ち始めた今日、これまで通りパソコンを使い続ける者は、そのハードを使うことができる時間を持つ者のみになっていくのではないか。

官公庁や企業の事務処理用、そしてパソコン機能をハードの前まで行って操作できる時間を持つ、高齢者などの非勤労者がパソコンを使い続け、それ以外の勤労者や学生などパソコンの有る場所にまで移動する時間が無い者は、端末タブレットに移行していくのではないだろうか。

従ってここで発生してくる事は、ブログはパソコンユーザー、ツイッターなどは端末タブレットと言う具合に、それぞれのサービスが勤労者と非勤労者、或いは年代別によって分離を起こし始めることなのかも知れない。

事実こうしたブログの世界から離れていく者は若年層が多く、これから先ブログの世界は若年層の参加が少なく、高齢化していく事で、実態世界とは更なる隔絶を起こしながら衰退して行くに違いない。

だがブログにせよツイッターやフェイスブックにせよ、勤労世代で有れ、非勤労世代で有れ、こうした今は情報と呼ばれているインターネットの世界はその大部分が現実逃避である。
やがて来るロジックス(物流)の限界、実際に額に汗して働く者の減少はいずれ必ず現実逃避、バーチャルとの衝突を起こす。

経済に限らずあらゆるものは「濃度」の中に有って、その濃度が極端になっていくと民衆の暮らしは悪くなる。

インフレーションもデフレーションもそこには良い部分と悪い部分が混在し、人間の年代でも若ければ良い訳でもなく、高齢者だから役に立たない訳では無い。
問題はこうした事が分離していく、所謂ところの濃度がそれぞれに濃くなっていく事が問題なのである。

元禄時代のバブルは15年続き、その後100年は下降線を辿った。
比較はできないが昭和のバブル経済は7年ほど続いた事から、この比率で言うなら1991年から換算して凡そ50年は日本は下降線を辿る。

既に失われた20年の歳月を差し引くと残りは25年前後だろうか、日本経済は更に苦しくなり、政治は目まぐるしく変化し、幾多の災害に見舞われる事になる。

そしてその最後にかろうじて継続された現体制の日本が崩壊し、新生日本が誕生することになろうか・・・・。

その間民衆の現実逃避はどんどん惨めな方向へと押しやられ、その中で民衆は自由を謳歌していると錯誤しながら大きな経済に飼われ続け、バーチャル世界に残り少ない金をむしり取られながら生きていく事になるかも知れない。

通貨に等価交換、金本位制、紙幣などの信用通貨と言う流れが有って、時代を負うごとに形を無くしていったように、経済に苦しむ民衆の現実逃避にも同じような流れが有り、その原始的な部分は暴動、それから酒や買春、博打や芝居などが続き、最後には今の社会のように形を持たないネット社会と言うものになるが、こうした流れは一見進化しているように見えて、そこから失ってはならないものを多く失わせている。

人の進化はまた劣化なのである。







「バーチャル・バブル」・1

現在の日本を見ていると、どこかで元禄時代のバブル経済が崩壊し、そこから底無し沼に向かって行く過渡期に似ている気がするが、勿論当時はインフレーション、現在はデフレーションと言う差は有っても、その過程に措ける変化が無いのは、基本的に人間のやることはいつも同じと言う事なのかも知れない。

ただ決定的な差が有るとしたら、現在の時代は民衆の「逃げ道」が江戸期より遥かに「本位制を欠いたもの」と言う事ができる。

江戸初期の段階では膨大な財政蓄積を誇っていた徳川幕府、これが元禄時代初期になると将軍家の浪費と無計画財政によって、或いは積極的に進めてきた農地拡大政策によって生じた、総需要を超えた供給量の「米」価格の相対的下落によって、破綻寸前の財政危機を迎える事になる。

江戸幕府の収入源は「米」による税収であることから、元禄初期までの日本経済は「米本位制」で有り、これに実質80%金含有の小判などの通貨が加わった、非常に実質本位な経済、ある種物々交換並みの原則性を持っていたが、最初にほころびが出たのは「米」だった。

税収が米であるなら、米の生産を増やす方向、より多くの年貢を徴収すれば幕府の財政は潤う、こうした安易な考え方しかなかった当時の徳川財務部門は米の調整計画を持っていなかった。

この事から行き過ぎた米生産拡大は、結果として他の商品から比べると、米の価値を押し下げる傾向が出てきた。
つまり米が他の商品に対してデフレーションを起こしてきたのであり、この状況では米の税収を上げても、その税収上昇以上に他の物品が値上がりしていく事になり、破綻していく。

そこで考えられたのが「萩原重秀」による「金本位制」の見直し、小判の中の金の含有量を減らす政策である。

これは小判の中に含まれる金の含有量をそれまでの80%から60%にまで引き下げ、小判2枚の金から小判を3枚作り出す方式で、これによって一挙に幕府財政は1・5倍に膨れ上がることになり、ここで味をしめた幕府はその後金の含有量を下げた小判をどんどん造り始め、通貨が出回り始めた江戸市場ではバブル経済が起こってくることになる。

これは現在の国際的通貨概念の基礎的な考え方だが、例えば元禄時代の他の諸外国を見ても、通貨は一般的にその金属的価値との等価交換、つまり「金本位制」なのだが、「萩原重秀」はこれを「通貨」と割り切った訳であり、ここにその通貨自体に価値が無くても、それを国家などが保証すれば事は足りると言う考え方が出てきたのである。

勿論「萩原重秀」以前にも幕府の中には小判の質を落として通貨量を増やす考え方がなかった訳では無い。
しかし堅実な老中などの反対に遭い、「萩原重秀」の到来までは、金の含有量を操作することは「詐欺」ではないかと言う意見が大勢だったのである。

寺参りに行く旅費すら事欠くようになった将軍家財政は、いとも簡単にこうした道徳を打ち壊し、連鎖的な過剰通貨供給が止められない、スーパーインフレーション経済へと向かっていったのであり、やがてこうした経済に破綻を見た「新井白石」などによって敷かれた緊縮財政は一挙に国民生活を窮乏に追い込んで行くしかなく、そこから100年苦しんだ後、浦賀にペリー艦隊が現われ、それまでの日本の全てが終わりになる訳である。

振り返って現在安倍総理の債務買取方式による「円」の供給量増加案は、極めて「萩原重衡」的である。
計画が無いのであり、「萩原重秀」が必ずしも通貨の概念、経済の概念から小判を改革したのでは無い、単なる思いつき、その場の成り行きから通貨変造に至った経緯によく似ている。

国際社会経済全体を見渡せる者は今の世界に存在していない。

それほど複雑化した中で通貨信用を下げ、これをコントロールすることは至難の技だが、国際社会は第一次世界大戦付近で一度こうした通貨信用操作による経済破綻を経験してきていて、為に当初「白川方明」日本銀行総裁が円の通貨供給量の大幅増刷には否定的な意見を述べていたが、これも安倍内閣が確定すると、反対しなくなってしまった。

だが、これは基本的に「詐欺」である。

世界経済はこれまで3段階の概念的通貨変化を起こしてきたが、まずは物々交換、そして金本位制、更には信用保証とその実質から離れていくに連れ拡大し、その後大きな混乱をもたらしてきた。

またニューディール政策で有名なケインズの経済論は自由競争経済を社会主義経済へと貶め、そして世界は今や所得税ではなく消費税によって国が維持されると言う、極めてマイナーな国家運営方式が大勢を占めている。

元禄時代のバブルは20年程だろうか、その前には財政危機が有り、その後にも財政危機が発生し、後に起こる財政危機から立ち上がれずにそれまでの国家体制は崩壊、その間日本は火山噴火や地震、それに伴う気象変動による飢饉に見舞われ、こうした中で行われたものは、例えば農地を買う、家を建てるなどのハードを諦めて「食」にこだわったり賭博、買春などに逃げていったのであり、これを後世元禄文化と称したとは言い過ぎだったか・・・。

苦しい現実から離れ、こうしたささやかな欲望を満たすしかない民衆の姿は哀れとしか言い様がなく、人々はこうした中で人知を超えた神や仏にすがり、ここから一部精神的に破綻した状態の「お伊勢参り」、しいては意味もなく人々が踊り狂う「ええじゃないか」が発生してくる事になる。

                                                 「バーチャル・バブル」・2に続く



プロフィール

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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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