「One for all all for one」

用語的には一応分類されているものの、基本的に全体主義と社会主義は同じものである。
その差は何を崇拝するか、信じるか、目的とするかと言う事に過ぎない。

社会システムを権利と義務で縛れば「社会主義」で有り、これを形のないもの、「道徳」や「良心」で縛れば「全体主義」で有る。

この事から「社会主義」が及ぼす影響と「全体主義」が及ぼす影響は同じであり、終末期に現れる「歪み」もまた然り、両者とも人間の「善性」を人質にしたような有様だから、大義となった善性によってあらゆる個人の自由と思想、言論が抑圧され、その中で一般的には大義的善性が謳歌されながら、個人の善性と気力が稀釈された状態を生む。

それゆえこのような事態に陥った場合、その崩壊の度合いは為政者が為す場合も民衆が為す場合も同じように大きな崩壊曲線を示し、この根底に有るものは、それが自然で有れ人為的で有れ、「著しい生産力の低下」と言う事になる。

前述の甘利明経済再生担当大臣の姿勢もそうだが、マスメディアの姿勢も既に常軌を逸していて、こうしたマスメディアに影響を与えているものは民衆の考え方で有る。
安倍政権によって打ち出された金融緩和政策によって高揚した景気回復の期待感には、現実を無視した「民衆の全体主義」が存在していて、この全体主義を支えているものは自由平等が暴走した社会偏重で有る。

自由や平等と言うものはこれが社会に存在しにくい時には大きな力になるが、逆に社会がこれで満たされたり偏重され過ぎると、他者の自由を守るために個人の自由がどんどん規制されていき、更に生産力の著しい低下、つまりは政治的な不安定や景気後退、戦争、災害などが発生すると、この状況に転移され、それまでの「正常」が「異常事態」に吹き飛ばされて「正常」に戻れなくなる。

ここに自由な民衆の有り様が「良心」や「道徳観念」によって自らに規制をかける社会、「そうあるべきだ」と言う社会を発生せしむるのであり、日本人の考え方は「阪神淡路大震災」「能登半島地震」「中越沖地震」「日本海溝地震」によって、或いは打ち続く水害などの自然災害や、1990年から続く政治、経済の不安によって、完全に常軌を逸した非常時麻痺社会となってしまったのである。

「One for all all for one」と言う言葉は、フランスの作家「Alexadre Dumas pere」(アレクサンドル・デュマ・ペレ)が書いた「ダルタニャン物語」に出てくる、後には「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」と言う、ラグビー界の名言ともなった言葉だが、この言葉の時代的背景にはフランス革命とその反動によるナポレオンの登場と言った、まさに社会主義と全体主義がフランスを洗い流した時代の言葉である事を忘れてはいけない。

即ち「One for all all for one」は戦闘や非常時での言葉なのであり、これを通常時に用いると 、その社会は社会主義や全体主義に陥りやすくなる、いや既にそうなっているからこそこの言葉が出てくるのである。
災害や政治、経済不安が続く日本社会は、この非常時の言葉から逃れられなくなってきている。

人間はミクロとマクロ、言い換えれば個人と社会では相反する現実が有り、この現実の中で妥協しながら生きている。
それゆえ個人の生物的正義と社会正義は相反する関係に有り、ここに大切なものはバランスと言うことになるが、このバランスが非常時麻痺社会に傾いた時は、社会的大義が個人の持つ本来の現実を無視させてしまう方向に動いていく。

個人の事情よりも社会的な部分が優先される社会になるのだが、その優先されるべき社会性は必ずしも個人の事情の価値を超えていない、若しくは個人の持つ本来の生物的意義や、その事が成立している根源に至ってまでも社会性が優先されると言う、矛盾を生みながら民衆がそれに気付かない状態になって行く。

企業は決して社会や日本の景気を良くする為に存在しているのではない。
利益を上げ人を雇用し、税金を払う事で社会に貢献しているので有って、日本の景気や社会貢献の為に企業が有る訳ではない。
同じように人間一人々々もまた、社会の為に生きているのではなく、自分が明日も明後日も生きていたいから生きているので有って、最初に社会正義や観念が有って人が生きているのではない。

企業の持つ資本主義は拡大を命題とし、この事は生物もまた同じであり、この結果として社会や社会正義と言うものが生まれるのであり、これを狭義的視覚で見るなら社会正義と相反しているように見えるが、社会的正義で最初に縛られた企業や人はただの労働力や、駒のような概念しか持たれていない事になる。

闇雲に企業に対して賃上げ圧力をかける事は、一般大衆に対して生活維持費用が増大している中で、「より高額な商品を買ってください」と要請しているにも等しく、各々の個人は自分はできるだけ安い商品を買おうとしながら、「他」に対しては「高額な物を買わないと景気が悪くなる」と言っている矛盾を考えていない。

観念的全体主義は確かに災害時や緊急事態に対しては有効な考え方で有り、助け合う事、人命を一人でも多く救う事に措いては、これ以上効率的な体制はない。

しかしこれはあくまでも非常時の体制であり、行き当たった現実の前に為される考え方だ。
同じ事を政治や経済、企業経営に求めたり、或いは道徳的正義をして個人の生活や考え方を統制する事が有ってはならない。

災害に対峙した時の対処や考え方は経済性や経営と言う概念をもつ余裕がなく、ひたすら美しい理想だけが走っていくもので有り、道義的美しさがあるゆえに「普通」や「通常」が無視された状態が続き、やがてこうした状態に麻痺した社会は、個人と社会が逆転してしまった考え方を「普通」にしてしまう。

日本海溝地震から2年、日本経済再生の鍵と、日本民族の危機を救う道は、ひとえに災害や混乱によって非常時体制麻痺に陥ってしまった日本国民が、その本来の原則を今一度顧みる事が出来るかどうか、この点にかかっているように思う。

K・Aさま、コメントでは長くなり過ぎるので、記事の形とさせて頂きました。
一番最後になってしまい、また遅くなってしまいました事、深くお詫び申し上げます。
どうぞ、いつまでもお元気で・・・。

有難うございました。

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「国家再生の覚悟」

権威とはそれを振りかす者の上には存在できず、権威を振りかざす者はその権威を貶める者となる。

従って権威とは一方向の流れしか持たず、その流れとは権威を持たぬ者から、或いは権威によって被る事の有る者から、権威を持つ者への流れで有り、これを逆流させる権威者はその権威を否定、若しくは著しく卑しめる者である。

僅か2、3社のコンビニチェーンが年間給与増額を決定した事を受けて、2013年3月5日、他のまだ賃上げを決定していないコンビニチェーンを名指しで「賃上げ要請」する行為は、経済再生担当大臣として極めて異例と言う生易しいものでは無く、「職権濫用」である。

元々「甘利明」経済再生担当大臣はソニーからの転身であり、代議士になってからも商工部門との関連が大きく、為に今般安倍晋三内閣が打ち出した経済拡大政策(バラマキ政策)の信奉者で、この甘利明大臣の意向を汲み、期待値から一見デフレ脱却の成果に見える賃上げを決定した大手コンビニ数社は親甘利派と言う事である。

早くても2年、遅ければ5年かかる経済政策の結果が僅か2ヶ月で見えてくるはずがなく、ここで既に結果が見え始めてきたような話は、その現実が相当厳しいか危うい事を示していて、マスコミにも国民の期待にも同じ事が言える。

電気料金の値上げ、保険料の値上げ、小麦粉の値上げ、ガソリンなどは1日で1円ずつ上がっていく中、上がらぬものは給与や所得で有り、大手コンビニ数社の給与増額の隣りには、大手外食チェーン店の価格競争激化と言う中吊り広告が並んでいながら、「これで少し日本も明るい兆しが見えて来るかも知れません」と微笑む経済評論家、キャスターの姿にはどこか不気味なものすら感じる。

数字や目標、傾向だけを追っていて、その先に有る人間の姿や生活のイメージが無い。
賃上げを決定したコンビニチェーンの経営を考えてみると良い。

政府の覚えもめでたくなるとして賃上げを決定したものの、円安から海外調達材料は高騰し国民生活は悪くなる一方の中で、これから先の経営は厳しく、こうした状況の中で当面経費の削減は社員の給与か仕入れ価格でしかなく、その内社員給与を値上げした場合、しわ寄せは「仕入れ」に行く事なる。

つまりコンビニチェーン店が取引する製造メーカにしわ寄せが走り、ここではコンビニチェーンの10倍、20倍の人口が製造に携わっていて、材料調達価格が上昇し、更に取引先であるコンビニチェーンから価格の値下げを要請される場合すら有り得るとしたら、大手コンビニチェーン店では給与価格が上昇し、一件デフレが改善傾向に見えても、その数十倍の人口が今より更に厳しい価格競争に巻き込まれる事になるのであり、事実そうした傾向は既に始まっている。

政府や甘利明大臣達がデフレ脱却に成功にしているように見せかける為に、表面に出ない多くの国民が更なるデフレーションと、生活経費の増大に喘いでいるのであり、ここで言える事は大手のデフレーションがそれより下部の民衆に分散され、それを民衆が負担することによって大手のデフレーションと言う看板が外れると言う、まさしく貧困国家の鏡のような事態になっていると言う事である。

また国債と言うものは政府が事業者でない限り将来の増税でしか賄えないが、これを日本銀行が買い取った場合、そこに発生する行為は基本的には「詐欺」で有る。
借金をしてそれを政府も国民も払わずに済まそうと言う手立ては初めから成立するはずもなく、こうした方式が成り立つのは国際的な経済状況に措ける一定の条件が揃っている事と、これから日本と言う国家の人口が増えていく状況に限られる。

しかし現実の国際的経済状況はもはや経済的混乱の勃発前夜で有り、日本の人口は減少していく上に国民負担が急激に増大する事は確実な状況で、事実上の詐欺を行えばどうなるか、答えは簡単な事である。
借金まみれになって、ついには犯罪を犯すしか手立てが無くなった者に同じで有る。

現日本政府の有り様は、これを一生懸命誤魔化しているようにしか見えず、衰退して経済力を失ったマスコミが藁にもすがるように政府権威を信じ、政府の覚えめでたい報道しかできない、そんな情けない国家、もはや努力する情熱を失い、匿名なら言いたいことは言うが自分が政府から支給される金が減らされる、或いは無くなる事を恐れ、現状を黙認する高齢化社会の末期的な姿にしか見えない。

高橋是清の経済政策はそのどれもが彼が望んだ通りには実現しなかった。
現在の状況を昭和初期の状況に重ね合わせる者も多いが、その昭和初期には何が有ったか良く思い出すがいい・・・。
日本は結局経済的困窮から逃れられず、国際的なブロック経済政策に巻き込まれ、太平洋戦争と言う「破綻」でしか、これを解決できなかった。

加えて昭和初期の日本では意味の分からない目的税で税収が賄われ、経済は財閥事情中心に動いていき、民衆の暮らしは極貧状態を迎えていきながら、政府は「アメリカ何する者ぞ」と日本の繁栄を宣伝していた。

高橋是清は財政出動のおり、こうした事を言っている。
「今日の危機を乗り切る為には、国民の更なる勤労努力が不可欠なのであり、これなくして国家の再生は成し得ないのであります・・・・」

名蔵相は借金をしてそれを誰も払わなくて良いとは言っていないのであり、彼が愛されたのはその覚悟に有る。
最後は2・2・6事件によって青年将校たちに殺されてしまう事からも分かるように、高橋の凄さはその命懸けの覚悟に有り、この覚悟が世の中や世界を動かしたのである。

一民間企業に賃上げを強要するかの如く、浅ましく覚悟の無い者が経済再生など為し得ようが有ろうか、どんな素晴らしい政策もそれを動かすのは人である。

その人に「信」が無ければ、如何なる政策も人を動かす事はできず、この事を「権威」と言うのであり、額に汗することなく日々刹那的な享楽に溺れ、子孫たちの苦しみを酒や料理、女で誤魔化して見て見ぬ振りをする「今さえ良ければと言う高齢化社会」では、これから先の日本の混乱は必定、いやむしろ混乱や崩壊こそこの国を救う唯一の道と言うべきかも知れない・・・・。



「地震予知」



愛はかげろうのように/シャーリーン 歌詞入り・・・・・

最大余震の発生は本震発生の一ヶ月以内が最も多いが、その地震エネルギーの質、例えば震源が深い場合など、最大余震は2年後に発生する確率も高くなっていて、余震と見られた地震の方が規模が大きくなる場合すら有り得る。

東日本地震(ここでは以後日本海溝地震と表記する)の発生に付いては、それ以前の阪神淡路大震災までに関連を付ける事はできないが、100年から150年の周期を持つスマトラ島近海プレート地震からの流れを見ることができるかも知れない。

直接の関係を科学的根拠に問う事はできないが、かなり以前からスマトラ島近海での地震激化と、日本の地震活動には何らかの因果関係があるのではないかと言う推測も為されてきた部分が有る。

しかし日本もスマトラ島近海も基本的には地震エネルギーの集積地で有り、ここで因果関係を見ることは容易いが、プレート相互が隣接して微弱に共鳴する力学的関係以上の因果関係は認められない。

つまり2004年12月26日に発生したM9・1の「バンダ・アチェ」南南東沖地震と、2011年3月11日、日本で発生した日本海溝地震との間に因果関係を見るなら、これは全地球的規模でのプレート共鳴現象、或いはプレート力学上の運動源であるマントル対流の微弱な変化が発生している可能性が出てくるからで有り、この点を考えるなら、2004年以降世界的に火山活動や地震活動が激化した来た事をして、その事態を想定する必要は有るが、今のところ現在の地球上の地震活動が通常の範囲か異常なのかの明確な判断を人類が下すことはできない。

ただそうした可能性が有り得ると言うことだけは事実だろう。

また地震発生予測に措ける「宏観予知法」、つまり身の回りで起こる現象変化から地震を予知する方法としての「流れ星」や「流星」と地震の因果関係に付いて、こちらも明確に因果関係を問う事はできないが、日本の文献でも中国の文献でも、またヨーロッパやイラン、イラクでも「流星の多い年は大きな地震がくる」と言う記述は数多く残されている。

近いところで言うなら1995年1月17日に発生した「阪神淡路大震災」の前年、1994年は日本各地で昼間でも白い尾を引く流星が観測されたり、夜には緑や赤い光を発する「火球」が連日観測されるなどの現象が多く確認され、この時は空気振動音なども多数聞かれた事が記録されていて、この空気振動音をして地震発生を予測した者も多かったが、これは厳密には大気圏に隕石が突入した時に発生する振動音だった。

つまり宏観地震予知法では、別に原因が有る現象を誤認した事になるが、結果として地震予知に繋がったと言うことで、ここで結果が全てで有るなら、流星の多い年は大きな地震が来ると言う言い伝えは成立したことになるのかも知れない。

そして2013年2月のロシアでの隕石落下現象だが、実はこの隕石落下現象の前日、日本でも正体不明の空気振動が発生していた事が報告されていて、一般的に飛行機の加速振動や雷以外での空気振動は火山活動活発化に伴う現象のケースが多い事から、この空気振動を日本の火山活動活発化現象に因果付けるか、それとも単純に隕石が大気圏に突入した際発生する空気振動かの判断は、前述の1994年の流星と阪神淡路大震災の関係と同じくらいあざといものと言う感じがする。

銀河はゆっくりと宇宙空間を回転している。

その銀河の端に太陽系が有り、太陽のまわりを公転する地球は宇宙塵をも含めて、全ての物質と周期の関係に有る。

つまり流星や彗星も大まかに言えば周期なのであり、ここに物質のフラクタル性「自己相似性」を鑑みるなら、地球の活動である地震の周期と物質の周期、彗星などの回転周期の関係には一定の相似性を見ることも可能だが、フラクタル性は「相似性」で有り、これは一方で完全一致の否定でも有る。

フラクタルは拡大するに従って滑らかになって行く事から、周辺に行くに従って核となる形と離れていく。

簡単に言うなら時間軸の経過や研究資料が揃うに従って、はじめの統計やモデルケースは漠然化し、ランダムに近くなっていくと言う事になるが、この事は宏観地震予知法でも科学的解析でも同じ事が出てくる。

地震発生前に海から魚が上がってくる異常現象でも、その深海魚はいつも同じ深海魚とは限らず、打ち上がる魚も関東大震災の時はイワシだったが、これが日本海中部地震の時はタコやカワハギになり、北海道南西沖地震の時はヒラメで、阪神淡路大震災の時はボラになり、日本海溝地震の時は2年も前から反対側の日本海側であらゆる異常が続いた。

また文明の発展や人間の生活の向上は自然界に少しずつ変化をもたらし、その為に発生する異常の原因も地震との関連確率を下げる、他の原因を多発させることから、益々異常現象が漠然化してきている。

従って結果を言うなら地震予知は1週間以上前の予知は無理か、或いは相当に不確定になり、可能性としては1日前くらいしでしか予知はできない可能性が高く、しかも宏観地震予知では複数の異常現象が重なるか、相当な異常で無ければ予知はできないと言う事かも知れない。

私見だが、私は地震が発生してからの科学的解析は余り意味がないように思うし、震度4以下の地震を当てた外したと言う議論にも意味が見い出せない。
如何に素晴らしい科学的解析でも地震が予知できなければ、それは怪しげな占い師の予言、近所のおばちゃんの勘にも劣る。

結果として地震が予知できればそれが例えまぐれだとしても、誤認解釈だったとしてもそちらを参考にするし、或いは信じる事になる。

地震予知は基本的に目の前で女子供が津波に呑まれ、助けを求めながら流されていく場面、年老いた親が瓦礫の下になりながら自分だけでも逃げろと叫ぶ、そうした姿を忘れた者には意味がない。

当てた外したなどどうでも良い、どれだけの人が助かったか、それに尽きる。

地震はゲームや勉強ではないと言う事を進言させて頂こうと思う・・・。

(本文を「回答書簡・9」に充当する)






「マルチシート」






Up Where We Belong - Top Gun Meets An Officer & A Gentleman・・・・・・

里芋は種芋、若しくは苗を植えてから収穫出来るまでの期間が比較的長い芋で有る。

この事から里芋は水管理や施肥、畝の上げ直しはもとより、芋畝の除草にも大変手間のかかる芋で有り、山村の伝統的な除草方法は、そもそも雑草を生えにくくすると言う方向性を持っていた。

一般的には藁や茅を切ったものや落ち葉を畝に蒔き、これによって雑草の成長や光合成を妨害する方式が広く採用されていたのだが、勿論、こまめに雑草をむしる作業で対応する方式も汎用された方法であり、近年こうした考え方の延長線上に発展してきたのが「マルチシート」による除草で有る。

これは畑の畝などにプラスチックやポリエチレンの薄いシートを貼り、その部分の地温上昇と土中に窒素飢餓状態を作る事によって雑草の繁茂を阻害する方法だが、これだと確かに雑草は生えない。

しかし、例えば里芋の畝にこれを使用すると、里芋の株は2、3本が大きく成長するものの、確実に芋の収穫個数は減少する。

里芋は1本の株から収穫出来る数には限界が有り、従って1本の株をどれだけに見事にしても、中くらいの株2本から収穫出来る芋の個数よりは少なくなる事から、4本ないしは6本が成長した形が理想形と言えるが、マルチシートを使用した場合、これがどうしても3本程の株にしかならず、芋の収穫量も減少してしまうのである。

それゆえ地方の田舎でも、一時期マルチシートを使って里芋を栽培しようとした零細農家も存在したが、今では殆どの農家が伝統的な除草様式に帰順してきていて、この傾向を考えるならマルチシートの需要は閉ざされるはずだが、一方でマルチシートの需要は伸びてきているのである。

これはどう言う事かと言えば、零細であれ農家と名が付くプロフェッショナルが減少し、家庭菜園農家が増加している、或いは農家のアマチュアリズム化が起こっている事を示していて、この場合は収穫量よりもかかる労力削減に重点が置かれる為、藁や茅、落ち葉の調達が困難で保管も難しい事から、マルチシート除草が効率的になる訳である。

またこうしたマルチシート以外にも「除草剤」などを散布して雑草を枯らしてしまう方法が有るが、これだと栽培野菜も枯らしてしまうリスクが有り、しかも基本的にはマルチシートも同じ事だが、雑草を全く生やす事のない土手や畦は形を保てず、土がボロボロになって崩壊する。

田圃なら全く水が保てない状態、若しくは土手が簡単に崩れ去る事になる。
田畑に「形」を保たせているものは「雑草の根」なのである。

どうだろうか、同じ里芋を巡ってもこうして見てみるとその地域や人の事情によって、微妙に違った方式によって栽培されている事、邪魔な雑草が最も大きい部分である地形を維持している事を考えるとき、これだけ取って見ても地球には「平等」や「公平」と言う事が存在できない事を理解できないだろうか・・・。

或る者はマルチシートで、また或る者は茅や藁で、そして別の誰かは除草剤で、田舎のおばあちゃんは手で一本一本草をむしって除草しているのであり、この方式の違いは環境と個人の事情に有る。

それゆえ、これを一番利用人数が多いからと言って、全てマルチシートを使ってくださいとしたらどうなるか・・・、これが政府や行政による基準と言うものなのである。

そしてこのようにして始まった基準と言う個人の責任に対する怠惰な加減は、マルチシートの例のように当然矛盾を発生せしむるが、これを調整するのが政治であり、政治はここで全ての人の納得を得ようと努力すればするほど、より多くの基準や規制を設けなければならなくなり、結果としてその国はがんじがらめになって行き、大きな閉塞感に覆われ、ここで民衆が求めるものは「規制緩和」と言う事になる。

規制緩和は「自由」ではなく、「責任の回帰」で有る。

つまりこれまで基準や規制と言う物干し竿にぶら下がっていれば、何も考える必要もなかった状態から、物干し竿が折れてなくなり、自分で生きる努力をしなければならない、本来の自由と責任の有り様に回帰していく方向に有ると言う事で、こうした傾向は政治的には「独裁制」に向かっていくと言う事である。

つまりあらゆる意味で規制緩和の機運が高まれば、当然手続きの簡素化や組織運用の簡素化が図られる事になり、この分だけその国家の代表は自分の意思が通しやすくなる。

古代ローマ帝国が権利関係が複雑になり国家意思決定が困難に陥った時、全ての権限を委任する「独裁官」を設置したのも、原理的には今の日本と同じような荒廃をきたしたからである。

地球に同じ地形や条件の「場」は存在せず、人間の事情も環境もそれぞれ絶対一致しない。

だから人間には「平等」は有り得ず、ここで都会ではエアコンは必需品だが、それが絶対必要と言う訳ではない地域も存在しながら、隙間だらけの田舎民家で、エアコンを使うことが平等と考えた時から社会はおかしくなってしまった。

また基本的に食中毒は、その個体の体調によって大きな幅を持っている事や、古い時代には特定の地域である種の菌に対する耐性を持つケースが有った事などを考えるなら、生物学的進化の観点からも日本全国同一基準は大きな矛盾を抱える部分を持っている。

生物の自然界に対する耐性力は「多様性」に有る。

大きな経済が動く首都圏では石油燃料を多用し、一方人口の少ない地方では間伐材を使った薪による暖房等の区分を考えるような、「環境効率性」を「不平等」と考えてしまう地方の考え方こそが本当の意味での「平等」を規制にしてしまっているのではないだろうか・・・。

私は全ての地域が同じような形で発展する必要は無いと考えている。






プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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