「虚を狭める」

この世は終わってみればまるで夢、幻の如く虚しい。
人の生きていた事など10年を待たずして忘却の彼方に追いやられ、その意味は全く存在しない。
が、その虚しいこの世、この命でも餓えれば辛く、傷を負えば痛い。

不思議なものだ・・・。
形なきところから生まれて形を持ち、そしてその形が失われる事は決まっている。
つまりは全く虚しい中に有りながら、生物はその虚しさの中に辛い、苦しい、痛い、などと言う現実の感情を持つ。
元々失われるものなら何故に生まれてくるのか、この苦しみや痛さは果たして虚か実か・・・。

おそらく虚も実も同じ事なのだろう。
いやこの世界はきっと虚が全てで、その中に例えば人間の寿命のように限定された時間が存在する場合、その時間の中を現実と呼ぶのが正しいのかも知れない。

その意味で虚とは時間の定めの無い事を言い、現実とはこの虚の中に時間の定めを置いた事を現しているのかも知れない。
それゆえ人の描く幸福や希望とは初めから存在しておらず、その代わり絶望も存在し得ないに違いない。

眼前に広がる現実は決して現実の全てを現してはおらず、それを突き詰めるなら虚で有り、これをどう見たかが人しての現実と言うものに相違なく、人は虚の中からを拾い上げた何かを現実として暮らしているのだろう。

今例え自身に辛いことが有ったとしても、それは「他」に取って全く関係がなく意味も無い。
よしんば自身が存亡の危機に瀕していたとしても、それすらも他人にはどうでも良い事であり、結果として自身の厳しい現実など、その本当の姿はゆっくり回転する地球を見ながら辛く厳しいと思っているに等しいやも知れぬ。

そして人間は先に希望がなければ、或いは幸福感がなければ辛いと思ってしまうが、それは眼前の存在を自身の都合で判断し、その事によって自身を縛り付けているだけであり、これを鑑みるなら絶望感も縛りなら、幸福感もまた自身に対する縛りであり、双方とも現実には非ず。

ゆえ眼前に広がるものが悲惨なもので有ろう、大変美しい姿であろうとも、それによって自身が変化する事など有り得ず、何も変わらない。
良いことが有ればこれを喜び、悪いことが有ればそれを悲しむ姿は、眼前に広がる広大な虚を時間が狭めたものを、更に自身が幸福と絶望と言う二極端に狭めているだけであり、これによって先が変わるものでもない。

先に良いことが有ろうとも、悪いことが有ろうとも、それらは同じことなのである。
地球が自転しているその地軸のブレを一喜一憂しているだけに過ぎない。
日本のある種の「崩壊」は虚の流れの必然で有り、ここで一時的に株価が上昇して円がドルやユーロに対して下がった所で、この必然は何も変わらない。

少子高齢化現象は加速し、その中でもはや子供を産み育てることの価値観を失った社会を待つものは縮小か崩壊しかなく、この流れの中で一時的に緩和策を講じたところで、今寿命が尽きようとしている者に水を与えたら、少しその苦しい表情が和らいだように見えたと言うに等しい。

実際に額に汗して働く者が少なく、その僅かに働いている者に金を賭けている者の多い経済は実態をかけ離れ、賭けに参加している者が潤う事は有っても、賭けられて働いている者たちは益々疲弊して行くばかりになる。

円安で、或いは株価上昇で確かに潤う者はいるだろう。
だが原材料調達価格が上昇し、公費負担や保険料が上昇する実務企業の実質利益業績は、蓋を開けてみれば確実にマイナスになっているはずである。

また国債の資金調達金利が上昇してきている点でも、これを保有している者は損失が発生している事は間違いなく、中小企業の設備投資も全くと言って良いほど進んでいない。
つまりこの国の今の経済は遊んで賭博をやっている者が利益を出し、一生懸命働いている者たちの損失がその利益になっているのに等しい。

日本が迎えるで有ろう未来には2つのパターンが有る。
その1つは高齢化社会に若年負担層が耐え切れず発生する経済崩壊、もう1つは高齢者福祉の崩壊で、こちらは社会混乱に陥る可能性が高く、この両方が発生する可能性も否定できない。
この日本の未来は完全な絶望なのである。

だがここで冒頭の話を思い出して欲しい。
絶望も希望も人が眼前に有る存在をどう思うかに過ぎない。
全ての事象に本当は絶望も希望も存在してはいない。

ゆえ、これから先、株価がどうなろうと、経済や国家がどうなろうと、そこに何を見るかは一人一人が決める事になる。

光は闇であり、闇はまた光、明るいから幸福なのではなく、暗いから不幸だとは限らない。
明るければ明るいなりに、暗ければ暗いなりに、その中でも幸福や不幸も存在する。
そんな我々自身が毎日迎えている一日の有り様に同じなのであり、これが虚と言うものに等しい有り様とも言えるのでは無いだろうか・・・。

最後にいつか「愛」について書いて欲しいと言うご要望を頂いているが、私は愛を信じていない事から、いつまで経っても「愛」に付いては肯定記事を書けない。

しかし乍、この世界に自身の命より大切なものが有る事は思う。
そして私はもしかしたら誰かの為に、或いは人間に限らないかも知れないが、自身が笑って死んで行ける、そんな場面、そのような瞬間を探す旅をしているのかも知れない・・・。





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「みずいろのゼリー菓子」

もう10年にもなるだろうか、能登島のガラス工芸工房で修行を終えたばかりの若い女性と数回作品展をさせて貰った事が有り、それ以降連絡がなかったが、数日前に久しく電話が有り、「金継ぎ」(きんつぎ)を教えてもらいたいと言う婦人がいるので、是非家を訪ねたいとの事だった。

「金継ぎ」は割れた陶器の伝統的補修技術だが、割れた陶器の補修技術は大別すると4種有る。

中国北西部で古代に発達した「楔打ち」(くさびうち)、漆と金で補修する「金継ぎ」、膠(にかわ)や現代では接着剤になるだろうか、そんな補修剤を使う方法、それに例えば「しの焼き」のような柔かい焼き物の場合では、内側に漆で布を貼って片面漆器にしたものや、外側から細い糸を巻いて修理する方法が有る。

更に欠落部分の大きい陶器の場合はその部分を石膏で型を取り、焼いて収縮する比率分を大きく作って、それを仕上げた上で「金継ぎ」する方法も有るが、こうした技術には全て上下の技術的段階差が有り、一番簡単な接着剤の補修でも瞬間接着剤とシアノン系接着剤では強度の差が有り、くっつけた後にはみ出た接着剤をそのままにするのか、それとも陶器を削らない強度の刃物ではみ出た接着剤を削るのかと言う事でも風合いに大きな違いが生じ、はみ出た接着剤を削る場合、接着剤が乾燥してからどのくらいの時間で削ったら良いのかと言う部分では、伝統的補修技術と同じような経験が必要になる。

接着剤での補修でもこうした段階差が有るが、これが「金継ぎ」ともなれば更に段階差が有り、一般的に市中でやっている「金継ぎ教室」と、文化財クラスに施される「金継ぎ」では全く別の技術になってしまう。

私はどのクラスの技術が必要か彼女に尋ねたが、それも含めて家を訪ねたいと言う事なので、早速天気図を検索して5月19日の午後ではどうかと言う事になり、そして田植えをしていると、5月19日の昼過ぎから雨が降り出し、田植え機にシートを被せて片付けをした私は、来客到着予定の30分前に湯を沸かし彼女等が来るのを待っていた。

10年ぶりに再会した女性は以前より輪郭がはっきりした女性になっていた。

おかしなもので人間の輪郭はその体格や行動が能動的で有るか、また受動的で有るかに関係なく、どれだけその人間が自己を集積させているかによって違ってくるように見える。
自己は「他」によって形成されるが、ここで自己を集積した者と言うのは「他」との間に境界線が鮮明になり、そこが人間の輪郭を際立たせるような気がする。

10年前の彼女は地域作りのリーダー的な事もやっていて、アクティブな女性だったが、現在よりは輪郭が弱かった。

だが結婚し、4歳の長男を連れた彼女はもう地域がどうのこうのとかと言う事は語らず、結婚相手が経営する喫茶店の経営が厳しいので、現在は営業職のパートをやって何とか暮らしていると話し、傍らでは男の子が出した菓子を次々食べている姿を見ていながら、私は彼女が随分と大きく強くなった、また魅力的な女性になった・・・、そう思った。

自己を「他」などの大きなものに使おうとすると、そこに自己と「他」が曖昧になるが、これが自分の為、子供の為、家族の為となると自己がくっきり浮かび上がり、そこが力や人間的な美しさになるのかも知れない。

同伴の婦人は私よりも年齢が上だったが、現在流行の「美魔女」と言うような事ではなく、年齢相応の品位と経験を感じさせ、50歳なのに30歳に見えると言うような無意味な力の入っていない潔い人だった。

30歳に見えようが50歳の事実は変わらない、そこにはしゃぐ愚かさが無いのは嬉しい。

どのクラスの「金継ぎ」を望むかを尋ねると、本格的なものを習いたいと言う事だったので、それには時間と道具を少し揃えなければならない事を告げると、それでもしっかりしたものをと言う事だったが、持参して来た欠けた抹茶碗で少しだけ漆を使ってみた婦人は、これから時間を見つけて50kmも離れたところから月に2回ほどずつ通ってくる事になった。

どんな技術でもそれが人間のやる事であるなら、誰かが出来て誰かは出来ないと言う事はなく、誰でも出来るのが素晴らしい技術と言うものだ。

だから難しい技術ほど技術者は簡単だと言わねばならないし、難しい顔や真剣な顔をしているようでは、その技術が身に付いていない事を現しているようなものだ。
「こんなものは誰でも出来る」と言い、笑いながら、理想を言うなら笑いもせず苦しい顔もせず、呼吸をするように当然の事のように難しい技術をこなす。

そしてその技術は惜しげもなく誰にでも開かれている事が技術者の誇りと言うものだと思う。

また生きていく事、子供を育てる事、物を作ることも全て同じ事で、どんな仕事でもそれを一生懸命やっている、或いは子供や家族の為に必至で生きている事は同じように尊い。

彼女の長男は砂糖がまぶされた色とりどりの矩形立体のゼリー菓子を、積み木のようにして並べて遊んでいたが、恐らくその組み合わせの中に彼独自の世界を見ているに違いない。

「ああ、そうだ、こんなゼリーみたいなガラスの積み木が有ったら綺麗だろうね」
何気なくそんな事を呟いた私に彼女は「本当だ、それは綺麗かも知れない」と笑った。

いつか分からないが、もし自分が生きていたら、もう一度彼女と作品展をして見たいものだ。
今彼女が何をしていようが同じ事だ。
彼女はきっと素晴らしいガラス作品を作る日が来るだろう。
それは唯時間の問題と言うものに違いない・・・・。

だが、彼女に後で連絡をしておかねばならない。
ゼリーと見間違うような積み木だと間違って子供が口に入れたら大変だから、子供の口には入らない程の大きさで作った方が良いかも知れない・・・。

雨の中、去って行く車を見送りながら、そんな事を考えていた・・・。













「堅き門」

日本国憲法と大日本帝国憲法、つまり太平洋戦争後の日本の憲法と、太平洋戦争以前の日本の憲法の決定的差異は、政府権限、或いは政府裁量を制限する幅の違いに有り、政府国会、民衆、天皇の関係に措ける序列手続きの順位転換に有る。

明治政府から始まる近代日本の立憲君主主義、議会制民主主義政治では、その発足直後から政府が権威を担保することができなかった。
これは現在に至っても同じだが、政府と言う行政組織はどの時代でも常に「信頼」が無かった。

それゆえ大日本帝国憲法では、この信頼を「天皇」に担保して貰う事で政府の信用が保証された訳で有り、天皇はまた民衆からの信頼、権威を維持する為に輔弼者である政府を尊重する事で、民衆から選出された国会や内閣を尊重する事で「民意」に従う形を取り、為に内閣の方針に意見をしない形式が出来上がったのである。

従って大日本帝国憲法を担保していたものは「形のない無言の圧力」と言うものだったが、これは政府、内閣に携わる者の質や品位に頼ってしか保たれず、結果として経済的に追い込まれてしまった太平洋戦争以前の日本の内閣は、常に非常事態の状態に陥り、気が付かない間にどんどんその品位や質を低下させて行き、やがては太平洋戦争に突入したのである。

こうした経緯から太平洋戦争の勝利者で有るアメリカを始めとする民主主義国家群は、日本国憲法によって日本の内閣の力を制限する方式を採用したのであり、政府行政権の上に絶対性憲法を置いたのである。
これが日本国憲法第98条であり、憲法の規定に違反した法令、国の行為は全て無効になる、つまるところ憲法によって権威を設定したのだが、如何せんこの憲法を担保するもの、守る手続きである「軍隊」をも否定してしまった。

為に日本国憲法は大日本帝国憲法では憲法を守る軍隊が存在しながら、その権威が宙に浮いた状態だったものが、その権威は決定的に出来たものの、自国憲法の最後の守護者をアメリカに求める他力本願憲法になり、この曖昧さと矛盾から大日本帝国憲法の時に存在した方向と同じような、政府による憲法の拡大解釈を容認し、国民が政府に異議を唱える道が閉ざされている状態を生じせしめている。

日本国憲法98条の規定は、大日本帝国憲法では政府の方針に対して天皇がこれを了承する事で民意が担保された手続きが、議会制民主主義制度に措ける選挙によって直接民意を諮ったものとし、これを追認する形で天皇が存在する形を持っているが、基本的に個人の人権が最上位に位置している事を規定している。

それが「憲法に違反した法令、国の行為は全て無効とする」と言うことなのだが、一票の格差が憲法違反であると言う判決が出ても平気で議員を続け、東北の震災で未曾有の原子力発電所事故を起こしながら未だにその解決策も見つからず、放射能汚染水の処理方式もその糸口すら見出さない状態に有って、原発企業を引き連れて海外に原子力発電受注行脚に出かける現政府を鑑みるに、日本国憲法98条と言う政府に対する蓋の存在は極めて大きい。

また日本国憲法96条には憲法改正の手続きが規定されているが、これによると憲法の改正には衆参両院議員総数の3分の2の賛成が必要であり、この国会の発議によって国民投票が行われ、過半数の承認が無いと憲法改正はできないが、このようにして他の法律よりも厳格な手続きを持つ憲法を「硬性憲法」と言い、他の一般法令と同じ手続きで憲法が改正できる方式を「軟性憲法」と言うが、世界の現行成文憲法はその殆どが「硬性憲法」である。

現行日本国憲法は決して完全なものではなく、その運用も既に政府によって有って無いようなものとなってしまっている。
しかし乍、日本国憲法96条の改正は基本的に大日本帝国憲法が改正されたものを更に改正する、つまりは元に戻る道を開くもので有る。

如何に崇め奉ろうが所詮紙に書いた文章である。
為政者やそれを運用する者によってどうにでもなると言えばそれまでの話で、同じように自衛隊の日本軍昇格も、その軍の性質は憲法と同じように誰の軍なのかの議論を欠くと、それが最後には民衆に銃口が向けられる事になる。

憲法の改正など本当に今の日本に必要なことだろうか、また現政府、これまでの政府の有り様を見ても、彼らが自身で品位や質を保てるとはどうしても思えない現状で、「硬性憲法」を「軟性憲法」に近づけるなど、強盗にキャッシュカードを渡し、暗証番号まで教えてやっているようなものだ。

どの道この国家の為政者に取って憲法など豚に真珠であり、ここで決定的な門となっている日本国憲法96条の改正は、増税や円安による大企業偏重、一般民衆の極貧化と言う貧富格差と相まって、まるで太平洋戦争開戦前の日本の姿そのものと言え、基本的に力の有る者はどんな状況でも静かなものだが、一つ弱くなるとキャンキャン吠え出す者に同じである。

今この国家に求められているのは決して憲法改正ではなく、歳出経費の削減と小さな政府、行政の実現であり、高齢者福祉制度の見直しと、減税で有る。
国家、その国家の国民としての意識や方向性を問うには、今の日本は疲弊しすぎている。
この状態で日本国憲法96条と言う堅き門を押し開く行為は、日本を更なる混乱と危機に陥れる事になるだろう。

憲法記念日に際し、以上の文を草する。


プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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