「明るい太陽の下で・・・」

午前4時13分・・・。

私はよほど疲れていない限りこの前後数分の間に目を醒ます。
そして何で目が醒めるかと言えば「自分は何をしているのだろう」と言う漠然とした、しかしどこかで確かな「虚無感」である。

今やっていることが全てダメになるかも知れないと言うより、その事が何もかも意味を為さず、自分は一体どうしたら良いのだろうか、そもそも何でこうして目を醒ましたのだろうと、そんな焦りとも絶望とも付かないもので目を醒ます。

幼い頃からそうだった・・・。

人の会話がどこか遠くでしか聞こえず、大人がやっている事も同期の者達がやっていることも、やはりどこか遠くの出来事に見え、それを人が一生懸命やっていればいるほど、その事に何の価値が有るのか理解できなかった。

だからおそらく私がこれまで生きて来れたのは、私を死なさない環境だったのだと思う時が有るが、それは言い訳だろう。
本当は死にたくないし、生きていたのだろう、自分が生きていたいからこそ生きる意味を探し続けてきたのだろう。

父が脳梗塞で体が動かなくなり、それから母が自殺、妻も心臓病からずっと体調が悪いままの状態で米を作り、事業も展開する生活がこれで2年半続くが、私はこの事を有り難く思っている。

過酷かも知れないが、こうした厳しい現実こそが私を虚無の淵から引き上げてくれた。
自分がいなければみんなの今の世界が壊れてしまう、みんなの希望が潰えてしまう。
この私の思いあがりが朝起きた時の漠然とした不安を私から遠ざけてくれる。

そしてもう一つ、まるで追い立てるように生えてくる田畑の雑草と、農作業をしていると集まってくる今年生まれた子ツバメ達である。
彼等を見ていると、そこに言葉や説明のない「生きる」が満ち溢れている、光輝いている。

かなり遅れてしまったが、もう少し残った草刈を終えると忙しかった農作業も一段落し、かねてから準備していた事業のスタッフ女性への譲渡も少しずつ進み、旧来から抱いていた展開もどんどん現実になって来る。

編み笠を被り長靴を履き泥だらけで、暑さでフラフラになり乍、私はこの太陽の下で生きている事が、どこかで小さく幸せである。
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「濃度の逆べき分布」



?Don't Look Back In Anger?oasis LIVE 和訳付き with Lyrics・・・・・

「ローレンツ・アトラクタ理論」でも示されているように、コンピューター解析による気象予測は事実上不可能である。

これはその初期に入力される僅かな誤差や端末微細データの入力省略によっても結果に大きな違いが出るからであり、地球が誕生して今日まで全く同じ数値条件が存在し得ない事を鑑みるなら、コンピュター解析による予測は常に異常気象判断か、確率50%の自然対数に近似していく。

それゆえ現在考えられている地球温暖化による効果もまた、一定の決まった法則に従った変化に帰結する事はなく、その先は常に「混沌」、通常の概念を持つなら「異常」と言う事になるが、こうした「異常」の落ち着く先が確率50%の自然対数と言うのもまた趣が深い。

「混沌」と「普通」、「異常」と「正常」が等価に有る、或いは同じだと言う事で有る。

一般的に地球温暖化による効果は地上気温の上昇を起想させるが、その実体は効果の激化であり、ここでは気象が従来より激しさを増す傾向が現れてくるが、この激化にも2種類有って長期変化と短期変化が存在し、本来で有れば短い期間で終わるものが長く継続してくる、しかもその変化の激しい状態が長く続く傾向と、本来比較的長期に安定していたものが目まぐるしく変化してしまう2つの傾向が競合してやってくる状態が発生する。

地球が持つ全体のエネルギーや運動による力、太陽から得られるエネルギーに大きな変化はなくその総量は決定している。

従って全体の確率50%は変わらないが、問題はそれが「逆べき分布」してくる事に有り、そもそも安定と混沌の始まりはこの小さな「逆べき分布」から始まって繰り返される事を考えるなら、ある種の偏りはどこにでも存在し、それが小さい内は安定や特定の傾向を見ることになるが、この偏りは必ず発展し「今」を変化させる事を忘れてはならない。

つまり現在世界的に発生している気象の大きな変化、激化は既に小さく分布した逆べき指数ではなく、もはや「混沌」に差し掛かっていると言う意味で有る。

今日雨が降るか晴れるかは何もデータがなければ確率はそれぞれ50%で有り、雨の総量も決定されているが、永遠に安定した回転が存在しないように、その確率はやがて運動によって時間と場によって拡散を起こし、ここに安定は失われる。

所謂気象に措ける激化とは「期間」と「場」によって失われる平均性なのであり、今後世界の気象変化は全く予測が出来ない状態になったかも知れない。

日本は年間の降水量が少し減少してくる傾向に有り、しかも雨が降った場合は一時的に大変な豪雨になる傾向が発生してきているが、このことのもたらす効果が災害であり、自然災害とは人間がそれに対処できない自然の変化を言うので有り、この点ではその時のその世界情勢や国家の国力、突き詰めれば個人の状況によっても「災害」と「通常」の分岐点は違ってくる。

現在の国際情勢を見るなら、やはり気象と同じように変化、激化しデリケートなっていて、日本の惨状は言うに及ばす個人の力も限界に近いところまで低下してきている。
少なくとも現在の世界的な自然災害の20%程が、こうした総合的な人類の力の衰退によってもたらされているものと考えられる。

だがこうして気象が激化し混沌に向かっている中で、同じように人類の力が衰退し国際情勢の悪化や経済、国家関係が不透明化する事には整合性が有るのかも知れない。

自然界、宇宙の逆べき分布は一度大きくなり始めると、あらゆるものを吸い込んで既存していたものは消滅し、そこから逆べき分布で大きくなったものが次の秩序を形成する。

この事から気象の混沌はまた人間を始めとする生物の混沌であり、人類が構成する社会システムの混沌に同じである。
おそらく「これまで」が全ての意味に措いて消滅いてして行くに違いない。

ヨーロッパは1983年頃から水害が頻発するようになり、アメリカ大陸でもハリケーンの規模が格段に大きくなり、一方水の豊富だった日本は渇水が慢性化してきている。

同じ降水量でも、それが長期間で少しずつ降る場合と、乾燥期間が続き一挙に雨が降る場合とでは全く違ってくる。
雨が天の恵みとはならず、渇水と洪水と言う2つの災害になるばかりか、大地や森林が急激に大量に降った雨を有効に保有できず、海に流出させてしまうのであり、この事が結果として日本に渇水期間の長期化を発生せしめるのである。

また気象の激化がもたらすものを鑑みるなら、人間社会の激化も同じような効果が有り、例えばバブル経済が有って停滞期間が有り、インフレーションが有ってデフレーションが有り、これらは逆べき分布で常に存在し続けるが、どこかで偏って激化すると社会システムは壊れる。

つまり自然界や人間社会でもそれが安定した状態は何か一つが全体を支配する状態では無く、あらゆる物が存在し乍ら濃度が偏らない状態を安定や秩序と呼ぶのであり、これがどこかに偏って濃度が濃い状態に分離して行く状態を混沌や異常と考えるのが正しいのかも知れない。
日本はこれからこうした国際社会の中でも最も大きな変化に晒されるだろう。
気象的にも、政治や経済、災害でもかつて人類が経験した事の無い激化に遭遇するに違いない。

だが決してこれに絶望してはならない。
逆べき分布は時間の中にも存在し、それは全体では変化しない。
今の時代が良かろうと悪かろうと、全体では結果が同じはずで有る。
たまたま現在が厳しい状況だったとしても、その事が悪いとは限らないのである。




「腐って落ちる」

Michel Sardou - Vladimir Ilitch - Olympia 1995・・・・・
遅れてしまった道路沿いに有る田の畦(あぜ)の草刈を急いでいた私の近くで、どうした事か「乗り合いバス」が停車し、中から少し山手に入った所に住んでいる知り合いの婆ちゃんが降りてきた。
そしてこの近所に住む94歳の男性の具合が悪そうだから何とかして欲しいと言うと、バスの運転手と2人でくだんの男性、いや近所の爺ちゃんをバスから降ろすと、さっさと走り去ってしまった。

この村に正規のバス会社が運行するバスが来なくなってもう20年近くにはなろうか、以後は行政が運行する大型ワゴン車がフリーバスとして運行されているが、一日の運行回数は3往復、その乗客は殆どと言うか全て高齢者である。

私の近所に住んでいるその爺ちゃんは94歳でもとても元気な人で、今だに草刈機を持って自転車で出かけるような人だったが、どうした事かその日はバスから降ろされると、アスファルトの上で横になり始め、そして起き上がろうとしても起き上がれない様子だった。

「爺ちゃん、大丈夫か、俺の声が聞こえるか、目は見えるか」
「ああ、聞こえる、見える」
上体を起こして尋ねる私に爺ちゃんはそう答えたが、やがてその体は痙攣が始まり、何かを必至に掴もうとするように手は虚ろな空間をかき集めていた。

「これはまずい」、そう思った私は小柄な爺ちゃんを背負い、20m程離れた爺ちゃんの家まで運ぶとそこに寝かせ、騒ぎを聞きつけてやって来た隣家の当主に救急車を呼んで欲しいと頼んだ。
程なく救急車は到着、そして病院へ搬送される事になったが、「この爺ちゃんの家族は?」と救急隊員から聞かれた私は一瞬言葉に詰まった。

爺ちゃんは一人暮らしで子供は無く、養子縁組の夫婦はいるが、その養子夫婦は事業に失敗した後この爺ちゃんとは喧嘩して出奔し、今は遠く離れた所に住んでいる。

かろうじて親族と言えるとすれば、この養子夫婦の孫の当たる40歳くらいの女性が存在したはずだが、彼女もまた離婚してシングルマザーとなって以降、この爺ちゃんの年金を当てにする事から、爺ちゃんは余り快く思っていないと聞いていた私は、何と言って良いか分からない状態になったが、それでも電話の近くにこの孫の連絡先が置いてあった事から、そこへ連絡した方が良いだろうと答えた。

更に身元引受人が必要と言う事だったので自分が仮の引受人になり、為に農作業姿のまま、今は静かに眠っている爺ちゃんをぼんやり眺めながら救急車に揺られ、病院で書類にサインした私は、父親は車を運転できないし家内も入院いている状態だったので、帰りは3里(12km)程の道を歩いて帰る事にしたが、県道をこの浮浪者並の姿で歩いていて職務質問まで受けるのは流石に辛い、そこで山道を通る事にしたが、帰途に2時間以上も要してしまった。

後日、爺ちゃんは胆石で療養する事になったと見舞いに行った村人から聞かされ、それにバスでの経緯も、初めは町で一軒だけ残っている商店で食料品を買っていて具合が悪くなり、その商店の女性経営者がバスに乗せ、今度はバスの乗客が村人Aの私を見つけ、そこに置いていったと言う事らしかった。

結局みんな面倒な事をたらい回しにした感じだった。

また不思議な事に爺ちゃんが入院して3日と経たない間に長い事疎遠になっていたはずの養子夫婦が私の所に挨拶に来て、菓子箱まで置いて行ったが、翌日気遣いに礼を言いに行った私は、その道すがらやはり同じ町内に住む「木商人」(きあきんど・木材商)の男性とすれ違い、あれっと言う感じがしたのだが、程なくこの木商人と養子夫婦、それに派手な感じの孫娘等4人の村の谷に響き渡るような声が聞こえて来て、どうやら爺ちゃんが長年子供のように可愛がっていた木を売る交渉をしているようだった。

そして爺ちゃんが入院して4日目には既に木の伐採が始まったのか、谷にチェーンソーの音が鳴り響き始めた・・・。

「爺ちゃんはこの事を知っているのだろうか」、礼を言いに行った私には知らん顔で、山林の境界確認の為訪れた隣家の庭で、当主に満面の笑顔を見せていた孫娘の茶髪に、私は若干の不安、それも爺ちゃんの境遇もさることながら、むしろこの村が、この国が腐って落ちていくような、そんな漠然とした、しかし確実な不安を覚えたものだった・・・。

少し話はずれるが、今の日本人は病院で死ぬのが普通だと思っているかも知れない。
でも老衰、寿命による死は病気では無い。
それゆえ基本的には家族がある者は、家で死ぬのが正しい姿だと私は思う。

病院で死ぬのは病気の者、或いは事情によって家族のいない者であるはずで、この点で日本の福祉や法は根本的に家族を引き離し、それを社会が引き受けてしまったのかも知れない。

が、しかし調子の良い時はそれも何とかできたが、どの国家も民族もいつの時代も良い時ばかりとは限らず、こうして日本のように疲弊してしまった国家は、過去に施行した約束を果たせなくなっているにも拘らず、それを未だに民衆が意識できず、相変わらず「してくれる事」が当たり前の意識のままのような気がするが、現実は既にこの国家の衰退、私がイメージするなら腐って落ちていく景色の真っ只中に在る感がする。

私の住んでいる農村の姿は明日の日本の姿そのもの、集約された現在の日本そのもののような気がする。
親が死んで行く時、それを介護するのは看護士さんや介護士さんで本当に正しいのだろうか・・・。

親である事、長く生きた者で有る事の責任を放棄し、自身の生活を重視した高齢者と、やはり生活や金、或いは欲望の解放を錯誤した社会スタイルに追われた子供が子供としての責任を看過し、しかし人の死には情緒的な日本の姿が、私には大きな矛盾、どこかで決定的な人間性の喪失に見える。














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Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

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「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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