「消極的排除」



青山テルマ feat.SoulJa / そばにいるね・・・・・

多数決の意義は数の多くをして少なき意見を抹殺するに非ず、少なき意見を多数の中にどう反映させるか、その事が多数決の本義となる。

しかし律令制度の仕組みが長く続く日本に措いては、どうしても事の善悪より先に仕組みを尊重してしまい、為にその仕組みにそぐわない者は法の以前に否定され、その仕組みの正統性はひとえにその組織の中の権力者、有力者の恣意性、感情判断の領域を出るものではなく、これを担保しているものは資本、暴力、伝統であり、この懲罰の形が「村八分」(むらはちぶ)と言う形である。

この村八分は何か日本独特の制度のように思うかも知れないが、凡そ人間社会の「業」と言うべきものであり、これが聖書では「石打ちの荊」になり、キリスト教文化圏、イスラム文化圏では文字通り処刑と言う事になるが、この点狭い地域に住宅が密集していた日本の事情は、公共にまで累が及ぶ火事と葬儀のみの付き合いを残した形を作ったものの、現実には「生殺し」だった。

そしてこの「村八分」と言う形はこれまでも人間社会から消えた事は無く、今も続いていて、これから先も絶対無くなりはしないだろう。

平成10年頃だったろうか、石川県の北国新聞が「工芸王国石川」と言う観点から、石川県関係の人間国宝や芸術院会員などの技術者を紹介する特集記事を連載したおり、日展や伝統工芸展関係の権力者に新進の作家が「付け届け」と言う形の贈り物をして、自身の作品を入選させてくれるよう依頼する姿が記載され、その際この特集記事を書いた北国新聞記者は「これは潤滑油、工芸王国ならではの文化」だと記載している。

だが、これは明確に贈収賄であり、日展、伝統工芸展共々その権威や正統性を汚す行為であり、中国が汚職社会を文化だと言っている事に同じなのだが、石川県内からこの記事に対する抗議は起こらなかったばかりか、疑問を呈すると「新聞が書いているんだ、間違いはない」で終わってしまっていた。

工芸が衰退する中、少しでもと思う気持ちは分かるが、法は法である。

これを地域の事情で蔑ろにし、しかもそれが称賛されたり、公の道徳に寄与すべきマスメディアが不法を肯定してはならないが、こうした経緯でその地域の事情は緩やかに法を冒し、それまでの秩序を蔑ろにして行っても誰も気付かず、まるで少しずつ温度が上がって行っても気付かない「茹でカエル」の状態が続いて行く。

この中で僅かでも客観的視野に立てば、その人間は地域と対立し、しかも双方が絶対理解し合う事のない状態を生み、地域の有力者の恣意的正義によって少数意見は排除されるが、この際意見と共にその人間も排除される事になり、それが消極的排除、つまりは村八分と言う事になる。

それゆえこうした傾向はどんな社会のどんな組織にも存在し、例えば学校組織や保護者会などで頻繁に発生し易いのは、それが地域と密着しているからであり、ここで少数意見者が取れる対策は「口をつぐむ」「その地域から離脱する」かの選択になるのであり、そうした事を真剣に捉え、尚且つ地域から精神的にすら離脱できない者は、我慢した挙句いつか暴発し、その段階に陥った地域は暴発によって壊滅的な打撃を被る事になる。

また多数意見者が少数意見と対立した場合の対処は抹殺か村八分になるが、その地域から追い出しても抹殺に同じで有り、こうした事は今に始まった事ではなく、遥か平安の世から同じような記録が残っており、今この瞬間もあらゆる人間がこの中に有って、差別と被差別を行き来している。

困窮した事情は少しずつ「法」をねじ曲げ、その事が事情によって肯定されて行けば、その地域自体が他には理解されにくい特別な地域になるが、このような傾向はいつの時代のどこの場面でも程度の差は有っても存在し、今日の日本の政治や経済を鑑みても「茹でカエル」そのものである。

TPP反対を訴えて衆議院、参議院議員選挙を闘った自民党議員は200名以上存在したはずだが、全く忘られたように日本が交渉テーブルに着き、それに対して疑問を提起するマスメディアは一切無く、自身の借金を自分で金を印刷して清算する詐欺的金融政策すらも「仕方が無い」でまかり通してしまった日本に、一体どうして人が裁けようか・・・。

先般広島で起こった少女達によるリンチ殺人事件でも、加害者となった少女達の生活環境は極めて厳しいものだったと伝え聞くが、その意味では加害少女達もまたこの社会の犠牲者であり、孤独な中でLINEだけが、それだけが全ての閉ざされた中での、差別と被差別が入り組んだ状態、言わば村八分にする側とされる側が入り組んだ状態だったのではないか・・・。

高齢化社会が貧しい若年層によって支えられる日本に有って、現状を肯定する多数の高齢社会意識に対する暴発は若年層によって起こされる。
この事の意味を我々は深く、深く考えなければならないのではないだろうか。

また最近発生した山口県の集落での殺人放火事件でも、広義では先の少女達と同じように、容疑者男性が何かの犠牲になり続けた結果の暴発のように思えてならない。
朝日放送の昼の番組の評論家は地方で起こった特殊な事件と評したが、私はそうは思わない。

今この瞬間も殺人や放火などの暴発にならなくても、その寸前の人間、諦めて口をつぐんでいる人、地域から逃げ出そうとしている人は沢山存在しているように思う。

多数だから正義だとは限らず、少数だから正しいとも限らない。
そして人は法で罰せられなくとも、自身が自身で罰すべき罪を持つものだ。
ゆえ、この事に気付かないと「多数の専横」とその「専横を被る側」のどちらにもなり得る。

山口県の殺人放火事件の現場は私の住んでいるところの環境に良く似ている。

そして事件の一報を聞いて最初に浮かんだのは「松本清張」原作、TBSによって2004年1月から3月にかけて放送されたドラマ版「砂の器」だった・・・・。







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「視覚の彙性」

蒸し暑い夏の日、涼しい風が通る縁側で、素麺などを喉に流し込むのは至福の時と言うものだが、近年流行の観光地の流し素麺などはどうも頂けない。

沢山の人が流れてくる素麺を狙うあの殺気だった人間模様と言うか、食いがつれ感が疲れる。

それはともかく夏の定番流し素麺だが、この時に使っている素麺つゆ、それを単独で飲むと味が濃くなっているのは、水の中を流れてくる素麺に付着している水分でつゆが緩和され、口に入った時ちょうどの味になるからだが、厳密に言えば人間の脳は素麺の外側についている味の濃いつゆを先に認識していて、しかし次に味の緩和された情報を受け取る為、前の情報が感覚として脳の中で成立しないまま、曖昧な状態で新しい情報、長く続いている情報を優先させている。

また水の中を通ってくる素麺がだしつゆに入ると、そこで味が薄くなることを人間は経験値として認識している。

白いものが黒い液体の中に入れば白いものは黒の影響を受け、黒いものは白いものの影響を受ける事を生物的経験則として知っているからだが、或いは冷たいものと常温のものでも、冷たいものの方が感覚の伝播速度が遅い分、味は薄く感じる。

しかし現実には素麺つゆの分子と水の分子結合は、瞬時に人間の感覚差異を認識させるだけの大きな変化をしていないし、冷たい状態と常温の状態はそれが氷結しているので有れば別だが、液体として存在していれば、やはり人間に感覚認識をもたらすほど大きな質的変化では無い。

ではどうして素麺が入ったつゆは味が薄く感じるのか、冷たいものの味が薄く感じるのかと言うと、それは脳が決めているからだ。

素麺がだしつゆの中に入ると、その外側には味の濃い部分ができ、素麺の表面付近は味が薄い部分になり、更に素麺本体は味が付いていない事から、人間の脳は一番最後に感じる味の無い素麺の味覚の干渉を受け、瞬間的過去記憶がこれに融合される。

また冷えただしつゆに対する感覚察知は若干遅れ、ここでも経験値から「薄く」感じ、その上に他の多くの獲物を狙う競合者達が周囲にたむろしている訳だから、一種の状況的飢餓が発生し、こうした状況や経験値、生物的感覚構成特性から全く現実とは異なる総合評価が出てくる。

つまりどこで食べようがそう大きな違いの無い素麺が、「これは美味い」となるのである。

人間の感覚は言語と同じようにその一つの表現が一つの意味で構成されてはいない。
所謂言語の束、語彙(ごい)と同じ仕組みになっていて、従ってあらゆる感覚が視覚を通して記憶される事から、全ては視覚の束、「視彙」(しい)なのであり、これは感情も同じである。

それゆえ人間は感情を正確に認識する事は出来ず、自己と他の範囲と言うものも、こうした視覚が持つ視彙的分布不均衡の水溜りのどこを見ているか、感じているかと言う事に過ぎないかも知れない。

人間の感覚は「濃いもの」「使用頻度の高いもの」「最新のもの」の総合評価であり、この中で一番わかり易い自己と他の認識は「使用頻度」である。

葛飾北斎はニワトリの絵を描く時、自身が最も好んでいた絵を何枚、何十枚と模写し、そこから自分のニワトリを描いたと言われているが、同じことが何度も繰り返される状態はその状態以外を認識する事になる。

「これはさっきまでのものとは違う」と言う状態を認識させる事になるのであり、ここでは同じ繰り返しとの相異が「他」に成って行くのである。

毎日似たような環境、状況、それに家族や友人、又は視覚的嗜好、音的嗜好などの感覚嗜好は大きな変化をせずに繰り返されるが、感情もまた大きな変化をせず繰り返され、その事が自身にとって例え悪いことだと思ったとしても、繰り返される事から恒常性を帯び、これらの総合的評価として漠然とした「自己」が存在するのかも知れない。

我々が見る今の現実とは、その瞬間からこうして経験値と言う過去と、その経験値が「則」となった予測値の影響を受ける。

だからこの瞬間見ている現実は過去と未来が融合されたものなのであり、これは時間経過と共に脳の中にある視覚を通した記憶、視覚の束(視彙)の中に取り込まれ乍複雑なカテゴリーに分類され整理される事から、善悪の方向を問わず歪められるか、薄くなる。

本質的に事象には善悪が無く、ここではその人間が良いと思う事も悪いと思う事も全て歪みで有り、現実を反映していない。
ゆえ、その視彙性がどのカテゴリーに含まれるかは今の瞬間の影響を受ける。

つまり人間は過去と未来に生きて今を見乍、その今によって過去と未来が影響を受けている。
恨みや妬み、或いは苦しみや悲しみも、これらが持つ単独の言葉だけでは構成されていない。
その中に喜びも有れば優しい気持ちも有り、人を慈しむ気持ちも、過去も未来も全て濃度で含まれながら、全ての総合が今の自分の気持ちなのであり、自分なのだろう・・・。

では、難しい事はさて置き、素麺を食すとするか・・・。
「暮れそで暮れぬ 夕焼けの 折れ素麺に 母の笑み顔・・・」






「比較劣勢社会」

1990年、事実上バブル経済が破綻した日本は法や思想が厳しい現実に追い付かなくなり、ここにあらゆる価値観が不安定となり、より惨めなもの、小さな事、劣勢なものを競う「価値反転性の競合」へと向かって行った。

価値反転性とは、例えばより貧しい事をしてそこに正義や真実を見ようとしたり、或いは麻薬に冒され荒れた生活をしている事をしてそこに芸術性を見たり、劣勢にリアリティーを見る事であり、宗教でもその多くが同じ基本構造を通して発展していく傾向を持っているが、これの行き着く先はあらゆる価値観の破壊と混沌である。

そして日本は2010年前後、この価値反転性の競合の行き着く先に到着してしまったようだ。

つまりあらゆる価値観が崩壊して「どうして良いか分からない」所まで来てしまっているのであり、この事から本来無意味な情報にも一喜一憂し、何も考えずに僅かな希望に向かって突進するパニック社会、或いは情緒不安定社会と言っても良いか、そんなものになってきている。

元々何も無い状態と完全に満たされた状態は等価なものであり、人間もあらゆる価値観を失った状態と言うのは、そこにあらゆる情報が満たされている状態に同じであり、ここではその上にたった一つの情報や状況が加わっただけでも以前に存在していた情報や状況が一挙に吹っ飛んでしまい、目の前の事が全ての状況に陥ってしまう。

だから結局右往左往して何も進まない状況が生まれ、この中で大衆は更に混乱し失望して行く事になるが、情緒不安定な社会は思想的凶暴性を持つ事になり、ここで満たされず厳しい現実に対する感情は、僅かな瑕疵に対しても強硬な考え方となって行き、この傾向は今に始まったことでは無く、その代表的なものがフランス革命後のフランス恐怖政治社会で有り、同じ傾向をリーマンショックやEU経済危機で経済崩壊したアメリカやヨーロッパが日本を追いかけている状況に有る。

価値反転性の極とはあらゆる価値観が細分化して個人の手に還り、皆が劣性の状態でどんぐりの背比べの状況に陥る事で、この意味に措いては民主主義や平等、自由などと言ったものの極に同じかも知れない。

が、ここで生まれて来るものは劣性の中での競合で有り、過去の状況や情報が吹っ飛んだ者の在り様の中で、良いものが選択されるのでは無く「マシなものが選択」されると言う現実である。

それゆえこうした社会に措ける政治や経済の指標は始めから解決能力や調整能力を有しておらず、結果として全ての事が失敗に終わる事が始めから決定しているようなものなのだが、情緒不安定になった社会は過去の現実を既に覚えておらず、眼前の対処しか目に入らない為、一匹のネズミが走り出すと他のネズミも一斉にその後を追って海へ飛び込んでいく事が見えない。

また激しい情報の海は人間の深く考える部分に余裕を与えず追いかける、為に人々はその見出しやラベルだけで事を判断していく傾向に陥り、これにマスメディアが続いて行く事から、あらゆる事が総合的に判断されず流されていき、こうした状態が続くと道徳やモラルなどが簡単に麻痺し、何が有っても容認される状態と、一方で瞬間的には大変強硬な感情論が噴出してくる訳である。

東京のオリンピック招致に関しても、東海地震や関東地震が今すぐ起こっても不思議が無い状態であることが忘れられてはいないか、中国や韓国との関係はどうか、或いは竹島問題を巡っては、昨年のオリンピックサッカーで、韓国の選手が領土問題をスポーツの場で主張したことに対する懲罰が厳重注意程度で終わっているが、これを日本選手がやった場合はどうなっていただろうか・・・。

或いは柔道のジャッジにしても大きな不備が存在したし、そもそもIOC委員を接待してオリンピックを招致する状態は「贈収賄」の何者でもなく、これではお金が無ければオリンピックが出来ないと言っているのも同じでは無いか。

こんな団体が主催するオリンピックなど、向うから頼まれても断るのが筋と言うものであり、そも地震の事のみならず外交、経済、取り分け東北の経済が5年後には確実に崩壊する事などを鑑みるなら、状況的にもオリンピック東京招致は不可能な状態に有るのでは無いか。

東北に限らず日本の地方は今から5年前の段階で何も無くても破綻寸前だった。

だがそこに地震や災害が起こり、地方行政は震災復興のおかげで破綻を免れた状態になったが、この事から被災地では正規商業経済活動を失い、そこに援助経済が蔓延したとき、政府や民衆の支援が終了したと同時に経済が破綻し、被災地域は綺麗な街並みの廃墟になる。

さらに原子力発電所の放射能漏れ問題はどうか、何の対策も無いまま再稼動が政府によって進められているが、それこそ関東地震や東海地震が発生したとき、又は日本海溝で更に大きな地震が発生する可能性が現在でも有り得るとするなら、場合によっては日本で大惨事が起こる危険性を政府も国民も理解しているだろうか・・・。

それと私は「世界遺産」と言う発想が今ひとつ理解できない。

人類よりも圧倒的なスパンの歴史を持つ自然を「人類が後世に残すべき貴重な遺産」とはどうした意味だろう。
富士山を金に替えて計算でもしない限り、こうした発想にはならないような気がするが、基本的に日本海溝地震以降、日本の火山活動は活発化していて、富士山や箱根も例外ではない。

人類が後世に残すべき貴重な遺産は、明日にも8合目付近が爆発で吹き飛び、関東に真昼の闇をもたらすかも知れない事を、人類がそれを管理しているのではなく、貴重な遺産とされるものの許しの中に我々が生きている事を、忘れてはならないのでは無いか、そう思う。




プロフィール

old passion

Author:old passion
この世に余り例のない出来事、事件、または失われつつ有る文化伝承を記録して行けたらと思います。

[このサイトは以下の分科通信欄の機能を包括しています]
「保勘平宏観地震予測資料編纂室」
「The Times of Reditus」

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